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ゾンバルトが蔵書を売却した理由

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月25日(火)10時02分47秒
編集済
  一昨日、ツイッターで大阪市立大学にゾンバルト文庫があることに触れた複数のツイートを見かけて、少し検索してみたら、佐々木建という経済学者が『名城大学経済・経営学会会報』11号(2002年11月30日)に載せた記事として、

-------
 ヴェルナー・ゾンバルトは、19世紀末から20世紀前半を代表するドイツの経済学者であるが、彼は私の今の年齢と同じ66歳の時に、その蔵書の約3分の2を実に見事に売却したのである。
 1929年、11,574冊を大阪商科大学(現在の大阪市立大学)に売却している。その蔵書は「ゾンバルト文庫」として日本におけるドイツ社会経済思想史研究の最重要の源となっている。ご子息のニコラウス・ゾンバルトの回想によると(注1)、1928年に3万冊売却したことになっているが、この年代と冊数は明らかに間違いである。彼によると、売却後も6千冊から7千冊の蔵書が残されていたというから、ゾンバルトの個人文庫は全体でおよそ2万冊にものぼる巨大なものであった。ゾンバルトの邸宅は、二階建ての円形の書庫を中心に家族の部屋はその周辺に配置されるというものだったようだ。いかに蔵書が巨大なもので、彼と家族の生活の中心にあったかが想像される。その3分の2を、彼は現役の教授時代に売却したのである(注2)。
 ゾンバルトはなぜ現役の時に大量に蔵書を処分したのだろうか。二つの理由が考えられる。一つは、増えすぎて維持できなくなったのだろう。もう一つは、想像するに、60歳代半ばにして彼は学者としての先が見えてきたのではないだろうか。彼は売却の前年に、刊行に5年を費やした大著『近代資本主義』全6冊を完成させている。彼が学者としてめざしたライフワークに一応の一区切りがついたのである。

http://www.focusglobal.org/kitanihito/think/03.html

と書いていました。
私はゾンバルトが蔵書を売却したのは経済的理由に決まっているではないか、と思っていたので、ちょっとびっくりしました。
以前、ゾンバルトのことを少し調べていた際に見つけた池田浩太郎氏(成城大学名誉教授、財政学)の「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト─ゾンバルトとその周辺の人々」(『成城大學經濟研究』151号、2001年3月)には、蔵書を売却したときのゾンバルトの経済状態について、次のような指摘があります。(p30、注1)

-------
【前略】しかもかかる境地への到達には、第1次大戦末期から1920年代前半におよぶ(ないしは1930年代にもおよぶ)、破局的インフレーションを含むドイツの政治的・社会的・経済的大混乱や大変革の時期に際会し、老年期の人間ゾンバルトも、大いなる不安と苦しみを経験したであろうことにも、かなりの程度由来するのかも知れない。 1)
【中略】
1)この時期にこの時期に味わったゾンバルトの苦悩の大きさは、当時の日本人とかかわりをもった若干の事柄を、ゾンバルトの側に立って想像するだけでも、そのおおよその見当はつくであろう。たとえばゾンバルトには、
1. 1923年はじめ、誇り高いベルリン大学の経済学正教授でありながら、破局的インフレーションのもとでドル稼ぎの必要から、日頃見下してしたであろう日本人留学者に、ドル建ての授業料を受取って、個人教授をせざるをえなくなったこと、
2. ゾンバルトが現役の研究者、大学教授であるにもかかわらず、経済学および社会主義に関する彼の貴重な蔵書11,574冊を、売却するに至ったこと、そしてこの数年に亘る懸案であった、蔵書の売却先が1928年には決まり、それが日本の大学(大阪商科大学)であったこと(大阪市立附属図書館所蔵『ヴェルナー・ゾンバルト文庫目録』ゾンバルト文庫目録刊行会編、日本評論社、1967年)、などがあった。

http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/151-152/151-152-ikeda.pdf

ということで、私は妙な義憤にかられて直ちに、

-------
佐々木建氏は著名な経済学者らしいが、1920年代のドイツにおける学者の経済的状況について何も想像できないのだろうか。
http://www.focusglobal.org/profile/

というツイートをしてしまったのですが、よくよく佐々木建氏の記事を見てみると、

-------
注2 ゾンバルトの蔵書の壮大さと1929年の売却の意義については、次の書物でも取り上げられているが、その議論はニコラウス・ゾンバルトのエッセーに依拠している。
Bernhart vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Eine Einfuehrung in Leben, Werk und Wirkung, in : Bernhart vom Brocke (Hrsg.), Sombarts "Moderner Kapitalismus". Materialien zur Kritik und Rezeption, Muenchen 1987.この英訳は次に納められている。
Bernhard vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Capitlism-Socialism - His Life, Works and Influence, in : WERNER SOMBART 1863-1941 - Social Scientist, Volume 1 ( His Life and Work ), Marburg.  さらに、Friedrich Lengler, WERNER SOMBART 1963-1941. Eine Biographie, Muenchen 1994, pp.184-5.
-------

とあります。
他方、池田浩太郎氏の論文には、引用済みの部分の次に、

-------
 なお、上記の二つの調査にあたっては、大阪市立大学出身の安田保氏(三菱商事)に協力いただいた。また、上記の1、2の記述とも、主としてFriedrich Lengler,1957-,WERNER SOMBART 1963-1941. Eine Biographie,München 1994, S.259-278.によった。
-------

とあるので、佐々木氏も池田氏と同じく Friedrich Lengler のゾンバルトの伝記を読んでいるのですね。
となると佐々木氏が上記のようなのんびりした、少し莫迦っぽい感想を抱いた経緯が奇妙に思われてくるのですが、引用ページが違うので、佐々木氏がきちんと読んでいないだけなのでしょうか。
それとも佐々木氏は Friedrich Lengler著を全て精読した上で、池田氏とは異なる推論過程から上記感想に至ったのでしょうか。
謎は深まります。
なお、私はウェーバーとの比較のために、一時期、ゾンバルトの本を纏めて読んでいたのですが、掲示板には全然反映することができなくて、投稿は次のひとつだけでした。

「ゾンバルトの Der moderne Kapitalismus」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7266

>筆綾丸さん
五百羅漢を建立した梅谿東天という禅僧は、宗永寺の住職を経て、曹洞宗の関東の寺院の中ではかなり寺格の高い雙林寺(群馬県渋川市)に移ったのだそうで、有能な人ではあったようですね。
 
 

一億総玉砕と生きやもめ

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 9月24日(月)12時23分58秒
編集済
  小太郎さん
「住職は号泣し必ず仏罰を加えると絶叫したといいます「」ですが、仏罰などという概念は高邁な仏教思想ではなく低級な世迷言で、高僧はこんな戯言は言わない気がしますね。

キラーカーンさん
http://shojiki496.blogspot.com/2013/07/blog-post_19.html
「いざ生きめやも」は完全な誤訳なんですね。堀辰雄は、なぜ、こんなバカな訳をあえてしたのか、ヴァレリーの原詩を読んでもわからない(ヴァレリーは狷介で食えないジジイではありますが)。この誤訳が太平洋戦争末期になされたのだとすれば、理由がわからないでもない。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる、ではないけれど、大倭豊秋津島の神風は死に絶えて、ほら、古今和歌集的な秋風の音が聞こえる、さあ、大和民族よ、みんな仲良く討ち死にしようね、と言いたかったのかな、と。そう解釈すれば、「いざ生きめやも」と反語に訳した理由がわかるのです。
なお、紛らわしい表現で性差別的になりますが、「生きやもめ」とは、夫の死後もしぶとく生き延びる後家さんのことですね(?)。
 

駄レス

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2018年 9月24日(月)02時28分26秒
編集済
  「風立ちぬ」の「ぬ」が否定の助動詞と勘違いされている可能性が微粒子レベルで存在します。
(「今こそ分かれめ」が「今こそ分かれ『目』と誤解している人も結構いそうな気がします。)
 

堀越二郎と七輿山古墳

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月23日(日)12時48分56秒
編集済
  >筆綾丸さん
お帰りなさい。

堀越二郎の生家は藤岡市の上落合という地区にあり、七輿山古墳からほんの数百メートルの距離ですね。
検索したところ、リンク先のブログに詳しい説明がありました。

ジブリ映画「風立ちぬ」 堀越二郎の郷里
http://blog.livedoor.jp/shangri__la_tb/archives/20280625.html

春山基二氏の『三ツ木物語 小さな村の歴史と人』(私家版、平成20年)には「名刹七輿山宗永寺(上落合、白石、北原、三ツ木の菩提寺)」とあり、地図を見ると七輿山古墳はこの四地区にぐるっと囲まれていますね。
とすると、七輿山を入会地(「共有の草かり場・秣場」)とする「住職の高遠な構想を理解できない地元の農民」と宗永寺の檀家は重なり合うはずで、「元三ツ木住人茂木英次氏の報告文」を要約したという春山氏の説明にも若干の疑問が生じてきます。
もしかしたら上層農民とそれ以外の農民の間の対立なのか。
そもそも住職の行動は本当に高邁な仏教思想の現われなのか。
あるいは住職には観光名所を作って一儲けしようという下心があって、それに加担し、利益を得ようとする連中と、甘い汁を吸えない連中の対立なのか。
更には石仏の首を切るという行為の乱暴さから見て、純朴な農民ではなく博徒のような存在を仮定すべきなのか。
という具合にだんだん想像(妄想?)が広がって行きますが、二百年前の出来事なので地元の古老の言い伝えも鵜呑みにはできず、歴史学者にきちんと当時の史料に当たってもらわない限り、何とも言えないですね。
 

ゼロ戦と風立ちぬ

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 9月23日(日)01時15分16秒
  帰国すると、日本はもう秋で、風立ちぬ、という感じですね。

http://www.ghibli.jp/kazetachinu/
『風立ちぬ』を見て、ゼロ戦の設計者堀越二郎関係の本を読み、堀越の生家は七輿山古墳の近くだということを知りましたが、以来、前方後円墳の形状はゼロ戦の主脚にちょっと似ているな、と思うようになりました。
 

七輿山古墳の五百羅漢像(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月19日(水)22時07分25秒
編集済
  ま、かく言う私も最初に七輿山古墳の五百羅漢像を見た時には廃仏毀釈が原因なのだろうと思ったのですが、ちょっと変な感じもしたので、地元の図書館の郷土資料コーナーを眺めていたところ、『栃木・群馬のタリバン 両毛の廃仏毀釈』という本に関係する記述を見つけました。
ただ、「出流天狗山幸福寺 松原日治」という僧侶らしい著者が書かれたこの本は奥付を見ても出版年次が不明で、内容的にもびみょーなところがあるので、ちょっと引用しづらいですね。
そこで、地元の旧家の当主で、中学校の校長先生をされていたという春山基二氏(故人)が書かれた『三ツ木物語 小さな村の歴史と人』(私家版、平成20年)から少し引用してみます。(p59以下)

-------
名刹七輿山宗永寺(上落合、白石、北原、三ツ木の菩提寺)

一、宗派 曹洞宗(禅宗)
二、本山 永平寺 総持寺
三、本尊 釈迦牟尼仏
四、開山 名僧石室関簗和尚 元和元年(一六一五)
【中略】
六、中興梅谿東天大和尚
 第十六代住職となり文化五年(一八〇八)に、聖地にするため五百羅漢石像などを七輿山古墳に建立しました。
【中略】

(注)五百羅漢像の由来
 最近(平成七年)檀家の古老から古墳東側にある五百羅漢の由来を伝聞した記録が藤岡市史編さん室へ寄せられて事情が解明されました。要約すると次の通りです。
 江戸時代の文化五年(一八〇八)以前から、七輿山宗永寺の有名な住職が七輿山を仏教信仰の霊地にする大願を立て造成を企てました。巨大な古墳の後円部の頂上に趣旨を刻んだ宝篋印塔及び釈迦三尊像を安置して、囲繞する(取り囲む)ように蛇行しながら登る小道の所々に五百羅漢像を立て並べました。(この際に西側の前方部から登る参道を造り、後円部の東側も切り崩して平坦面を造成しました)
 ところが、住職の高遠な構想を理解できない地元の農民にとって、七輿山は共有する草かり場・秣〔まぐさ〕場だったため寺に占有されるのは死活問題であるとの危機感から反対運動を起こしました。ある朝早く七輿山に参集した農民が阿修羅のごとくに五百羅漢の首を悉くはねて山の下へ投げ捨てました。この大騒ぎに駆けつけた檀家の者も見ているばかりで、住職は号泣し必ず仏罰を加えると絶叫したといいます。
 たまたま数か月後に流行病(赤痢)が発生して集落から死亡者が続出し、祈祷者等から仏のたたりだと告げられました。村人は恐れおののいて寺に詫びることとなり、交渉を重ねて和解が成立、五百羅漢は首を鉛で接合して東側の平坦部へ移し安置して、一段落しました。
 以来百数十年を過ぎて、五百羅漢は頭も鉛も次々に持ち去られた無惨な姿を残しているばかりとなりました。(以上、元三ツ木住人茂木英次氏の報告文より要約)
 現在、五百羅漢は頭を欠く石像三七六体・文字塔七〇体、計四四六体が古墳の東側の平坦部に南北一一列に並んでいます。
 後円部の頂上には頭を欠いた釈迦・文殊・普賢三尊像が東面しており、西よりの所に宝篋印塔の基礎石があって文化五年(一八〇八)に建立した趣旨や住職名が刻んであります。(『藤岡市史』資料編民俗・近世参照)
-------

ということで、一部「日本昔話」風に流れた部分もありますが、文化五年の建立直後に五百羅漢像の首がはねられた事情は概ね把握できると思います。
もちろんこれは主として寺側の主張であって、農民側にはもっと別の言い分があったかもしれませんが、「元三ツ木住人茂木英次氏の報告文」自体は『藤岡市史』に出ていなくて、今のところ、これ以上の事情は分かりません。
 

七輿山古墳の五百羅漢像(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月19日(水)12時44分37秒
編集済
  神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する人びとが取り上げる事例をいくつか検討して、その種の悲憤慷慨の連鎖に関わる人々を醒めた目で眺めるようになった私ですが、その私から見ても少し珍しい例をひとつ紹介しておきます。

「松岡正剛氏の悲憤慷慨」(その1)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8158
松岡正剛氏の悲憤慷慨(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8159
神仏分離をめぐる悲憤慷慨の連鎖
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8161

それは群馬県藤岡市の七輿山古墳に存在する破壊された五百羅漢像のケースです。
私が少し調べた限り、専門的な歴史研究者がこの件を廃仏毀釈の事例として検討している例はないようなのですが、ネットの世界では、これぞ廃仏毀釈の典型例、みたいな形で論じている人が多いですね。
例えば、「赤城山の熊さん」というブログでは、

-------
首無し石仏群に人間の怖さを見た(^_^;)七輿山古墳

群馬県藤岡市にある七輿山古墳は、スケールの大きな前方後円墳ですが、そこを訪ねると異様な光景が!(^_^;)
【中略】
理由は後で調べてわかりました。明治維新の際に「廃仏棄釈」という運動が各地に起こり「我が国は神の国なのだから、仏像なんか叩き壊してしまえ!」と、極端な行動に走った人々がいたのだそうです。

https://blog.goo.ne.jp/koba340419/e/2eec642e77e585fd2817756735a4302d

とあります。
また、古墳の全容が分かりやすく紹介されている「日本すきま漫遊記」の記事には、

-------
明治時代の廃仏毀釈が原因だったのかとも思うが、子供ごころにはタタリとか呪いがありそうなオカルトスポットに思えたものだ。
とにかく徹底して首が落とされているのは、いま見てもその破壊の執念に恐ろしいものを感じる。

http://www.sukima.com/33_takasaki08/45nanakosi.html

とあり、古墳好きらしい人のブログ「古墳探訪記」には、

-------
ビックリした五百羅漢ガーン ことごとく首から上がありませんショボーン この五百羅漢の現状を知らずに訪れたので、かなりの衝撃・・。廃仏毀釈の時に壊されたものでしょうか・・。墳頂にも首がない仏像がありました。

https://ameblo.jp/fookky/entry-12343914665.html

とあります。
そして一番悲憤慷慨されているのは「神使像めぐり」というブログで、

-------
群馬県藤岡市にある 七輿山古墳には、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の爪跡を生々しく伝える、首なしの釈迦三尊像と五百羅漢像があります。
【中略】
全ての石像の首が破壊され、もぎ取られています。実に恐ろしい光景です。これは、単なる悪戯(いたずら)ではありません。明治の廃仏毀釈の嵐の結果と思われるものです。
【中略】
人影の全くない、古墳丘の中腹に、首をもがれた五百羅漢の石像が目前に広がっています。廃仏毀釈のあおりで破壊された羅漢像です。原爆の図や、テロや戦争による大量虐殺の映像とも重なります。一度見たら決して忘れられない、背筋が寒くなる光景です。

http://shinshizo.com/2012/07/%E9%A6%96%E3%81%AA%E3%81%97%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%82%92%E8%BC%89%E3%81%9B%E3%82%8B%E8%B1%A1%E3%81%A8%E7%8D%85%E5%AD%90%E3%83%BB%E3%83%BB%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88/

などと論じられています。
確かに首を切られた五百羅漢像は不気味であり、これを見て多くの人が廃仏毀釈の恐ろしさに悲憤慷慨するのももっともなのですが、この五百羅漢破壊は明治初年の神仏分離・廃仏毀釈時の混乱の中で生じたのではなく、文化五年(1808)の出来事なんですね。
 

御岳行者皇居侵入事件のまとめ(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月18日(火)14時14分28秒
編集済
  前投稿を(その1)にしたのは、続いて安丸良夫氏の解説「近代転換期における宗教と国家」を少し検討してみようかなと思ったからでした。

御岳行者皇居侵入事件(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9599

まあ、安丸氏が御岳行者皇居侵入事件を「強権的近代化政策の全体を"敵"として措定し、天皇制国家に真正面から挑戦した興味深い事例」などと纏めるのは、正直、ちょっと莫迦っぽい感じがしますが、私がそう感じるのは安丸氏と基本的な思想が違うからであって、安丸氏にはこう見えることを批判しても仕方のない話ですね。

ゾンビ浄土真宗とマルクス主義の「習合」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8231
「真宗貴族」との階級闘争
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8243

また、宮地正人氏の解説「国家神道形成過程の問題点」(p565以下)にも多少の意見がない訳でもないのですが、また後の課題としたいと思います。
ただ一点だけ、「解題」で宮地氏が「民衆的宗教意識の点からは、陸地が汚されてしまい、船のみが神仏の下る所だといった船の位置づけの問題も看過されるべきではない」(p168)とされている点は明らかにおかしいと思います。
御嶽講の信者だって大半は陸地に生きている訳ですから、「陸地が汚されてしまい、船のみが神仏の下る所だといった船の位置づけ」は他の御嶽講関係者ですら共有できない「民衆的宗教意識」であって、これは熊沢利兵衛が久宝丸の乗組員を天皇暗殺に誘導するために適当に思いついた即興的表現じゃないですかね。
熊沢利兵衛は「神託」を疑う庄吉に執拗に暴行を加え、その様子を見せつけるなどして他の乗組員を威迫する一方で、今や神仏の降る場所は船しかないのだ、海に生きる我々こそが神仏に選ばれた特別な存在なのだと称揚し、選ばれた民としての崇高な義務を遂行するように檄を飛ばしたのだと思います。
近世の身分制社会の中では非常に低い地位に置かれていた船員たちの自己認識を、卑下から一挙にプライドに転化させるウルトラC的な話術であり、僅か十人程度とはいえ、天皇暗殺団を組織することのできた利兵衛は、この程度の表現を即座に工夫できるアジテーターとしての天性の資質を持っていたのではなかろうかと思います。
 

御岳行者皇居侵入事件のまとめ(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月15日(土)10時24分58秒
編集済
  昨日は「このあたりで一応終りにしたいと思います」などと書いてしまいましたが、『日本近代思想大系5 宗教と国家』以外の資料を特に見ていない段階でのとりあえずのまとめをしておきます。
今回の一連の投稿は、ブログ『学問空間』に頂いた、

-------
私たち、扶桑教として教派神道になる前の、富士講時代の行者や神主や坊さんや山伏たちがデモ隊を率いて廃仏毀釈反対の請願陳情に皇居にいったらライフル銃で撃たれて死んだんだよ
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9599

というコメントがきっかけでしたが、基本的事実の点で、この方にも相当な誤解があったようですね。
まず、明治五年二月十八日に皇居に侵入したのは木曽御嶽山を信仰の中心とする御嶽講のグループであって、富士講とは全く関係ありません。
また、「デモ隊」は観衆を意識した示威行動ですが、早朝、密かに皇居侵入を試みた十人を「デモ隊」とは言い難いですね。
十人の目的は「廃仏毀釈反対の請願陳情」との点は全くの的外れではありません。
しかし、熊沢利兵衛の思想と行動に賛同するも「病弱」のために皇居侵入には加わらなかった「久宝丸船頭 角佐十郎」の供述によれば、利兵衛等の天皇への直訴の目的は、「天下神仏混淆に致し、経文・珠数を以て諸人拝礼致し候様、かつ夷人追討、神社仏閣・諸侯の領地旧に復したき旨、直に奏聞」することではあったもののの、「勅許これなき節は 玉体に迫り奉るべき心組み」です。

御岳行者皇居侵入事件(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9603

この「玉体に迫り奉るべき心組み」は何かというと、明治天皇をハグしたいという意味ではなく、殺害を狙った訳ですね。
実際の供述ではもっと露骨な表現が用いられたのでしょうが、供述を聞きとって文書にした役人が、多少は穏やかな表現に変更したのだと思われます。
イギリス駐日代理公使のF・O・アダムスが外務卿の副島種臣からこの事件の供述書を受け取ってアーネスト・サトウが翻訳し、アダムスの書簡とともに供述書の翻訳を本国外務省に送付したのは、この事件が天皇暗殺未遂事件として受け取られたことを反映していますね。
そうした不穏な目的を持った集団が突然来襲した時に皇居を警備する側がどのような対応をしたかというと、そもそもこの集団の目的が分からなかったので、どこから来たのかと質問したら、我々は高天原から来た行者で天皇に直訴したいから通せ、という回答であり、暴言を吐いたり門扉を棒で叩くなど、「廃仏毀釈反対の請願陳情」とは受け取りにくい状況が生じます。
しかし、警備側も直ちに発砲したのではなく、最初は威嚇射撃に止め、それでも刀を振り回すなどの行動をやめなかった利兵衛等を射殺し、抵抗しなかった者は捕縛した、ということで、警備側には宗教弾圧の意図など全くなく、皇居に侵入しようとする武装した不審者への相応の対応をしただけですね。

御岳行者皇居侵入事件(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9602
 

『木曽のおんたけさん その歴史と信仰』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月14日(金)11時17分7秒
編集済
  御岳行者皇居侵入事件は細かく調べて行くと面白いことが色々出てきそうな予感はするのですが、後日の課題とし、このあたりで一応終りにしたいと思います。
私も山岳信仰には全然詳しくないので、熊沢利兵衛の師が「讃州坂出茶臼山」の篠田虎之助夫婦と聞き、何故に香川県に御岳信仰があるのか、と思いましたが、菅原寿清・時枝務・中山郁編『木曽のおんたけさん その歴史と信仰』(岩田書院、2009)によれば、四国、特に徳島県は御岳信仰が盛んな土地柄だそうですね。

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-569-0.htm

同書の「第三章 御嶽信仰の広がり」は、

一 東海地域の講社と霊神さん
二 関東の講社と霊神さん
三 広がる御嶽信仰

と構成されていて、「三 広がる御嶽信仰」の「2 藍商人─西開行者と四国伝播」には、

-------
 御嶽信仰が四国に伝播した理由は幾つかあります。その中でも、とりわけ重要な役割をなしたのは、阿波徳島の藍商人たちでした。【中略】
 そして、御嶽信仰と四国をつなぐ際に最も重要な人物、それが阿波藍の商人であった西開行者でした。西開行者は四国の御嶽信仰の嚆矢とされ、徳島県名西郡石井町高原桑島の白川神社(御嶽太祖福寿講)には、この西開行者に関わる「白川神社御由緒並に起源」の縁起が伝えられています。それによれば、西開行者は、名西郡藍畑村高畑の藍商人で、俗名を小川増助といい、尾張、美濃、駿河、遠江を販路として藍玉を商っていました。その小川増助(西開行者)が、天保八年(一八三七)、尾張本町六丁目の玉屋町※屋小七方に滞在中、突然病に罹り重篤となり、医師や薬も効果がなく、死を待つのみの状態になってしまいました。その折に、奇しくも尾張の御嶽行者木村庄右衛門(寿覚行者)に出会い、加持祈祷を受けたところ、病気が全快したのでした。そして、全快した際に神勅を授かり、西国での御嶽講の開基と拡張を託されました。増助は、「万死に一生を得たる無限の御霊験」に感激し、それ以後身命を賭して西国における御嶽信仰の拡大に奔走したのでした。そして、天保十二年(一八四一)には、百七十余人の同行を率いて御嶽山へ登拝するまでに興隆していたと、縁起書には記されています。
-------

とあります。(p155以下)
篠田虎之助夫婦は、おそらく西開行者の直弟子か孫弟子くらいの世代なのでしょうね。
熊沢利兵衛が入信する理由もやはり病気の治癒で、これはこの時期の新興宗教発展の典型的なパターンのひとつですね。
 

御岳行者皇居侵入事件(その8)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月12日(水)10時45分53秒
編集済
  五つの供述書の最後は「元韮山県下 豆州加茂郡片瀬村農 久次郎倅 山西小伝次」のものです。(p176以下)
なお、供述書という表現は私が便宜的に用いただけで、それぞれの史料は各人の名前の後に「申口」とあり、その後本文となっています。

-------
     元韮山県下
     豆州加茂郡片瀬村農
         久次郎倅
          山西小伝次
            申口

去る十八日暁、異容の出立ちにて久宝丸水夫頭利兵衛等御城門へ相迫り乱暴仕り候者へ同意候や、御吟味御座候。

この段、私儀父久次郎、元鹿児島県卒に召し抱えられ、私儀も同様召し抱えられ水夫に相成り、鹿児島表へ遣され蒸気安行丸・桜島丸等へ乗込み仰せ付けられ、その後土州帆前船にて函館表へ罷り越し、砲剣等請け帰京、御賞金等給り候後、御暇を乞ひ、瘡所等療治仕り全快仕り、追々産業相営み候へども、利を失ひ蒸気水夫稼ぎ致しおり、それより東京辺に遊び居り、八町堀山口幸七等懇意に致し、折々食客同様同家に罷りあり候。
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山西小伝次は父九次郎が「農」でありながら父子ともに官軍の軍船の水夫となり、小伝次は函館戦争も経験しているとのことなので、この経歴は、信仰に守られている我々には弾丸も当たらない、といった狂信者の戯言を信用しない一要因になったでしょうね。

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然るところ、当二月十四日、久宝丸に乗組みの水主の由にて常吉・斧吉と申す者、幸七方へ罷り越し、何か密々申し談じ候後酒宴に相成り、私も同座し酒呑み、同夜は右両人一泊、明十五日に相成り申し談義これあり候間久宝丸へ同道致すべき由申し聞け候につき、その意に従ひ兼て右両人より頼みにつき、私世話を以て買い入れ遣り候にたり船に乗り、品川沖に碇泊候久宝丸に乗組み候ところ、舟中一同に恭しく神棚を飾り置き信心致しおり候て、利兵衛・常吉・嘉七等申し聞けるには、この度神々の告げにより、御一新以来神仏領ならびに諸侯の領地等も御引揚げに相成り、かつ肉食等にて神の居所もこれなきにつき、なお船中へ天降り御託宣には、右郡県を改めて旧政の如く致したく、因て 朝廷へ直訴致し候につき同意致すべき旨、一と間に伴ひ幸七・常吉等申し聞けこれあり候へども、全く狂気にも候やと存じ、同意仕らず候へども、一同剣術稽古致し候ところへ立入り、同様稽古仕り候。
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山口幸七の供述書には、「兄利兵衛挨拶終りて後、船中の者ども撃剣試合、次に一同経文等を唱へ御嶽山その外諸神仏を祈念致しおり、実に発狂の形勢にこれあり候」などとありましたが、幸七自身が積極的に小伝次を説得しているようなので、「発狂の形勢」は事後的な弁解なのでしょうね。
他方、小伝次の「全く狂気にも候やと存じ」は、その時点での率直な印象だと思われます。

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十六日は船中滞留、十七日帰宅仕るべきと存じ候ところ、幸七申し聞けるには、同意これなく候はば同人宅にて二十五日の間は他出指留め置くべき旨申し聞けられ、同日久宝丸立ち出で候節、金三分人力車にても乗り帰るべき由にて貰ひ請け、幸七同道品川へ送られ帰り、途中宮本某に行き逢ひ、三人とも人力車にて幸七方に帰宅、右車賃は私相払ひ申し候。
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小伝次は「朝廷へ直訴致し候につき同意」しなかったけれども、以前から幸七に世話になっており、また人力車代として金ももらったので、多少の協力はやむをえないという心境になったようですね。

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同夜幸七方に泊りおり候ところ、十八日暁第二字頃幸七呼び起こし候につき承り候ところ、利兵衛外九名 皇居へ出訴、鍛冶橋より上陸候につき、幸七同道鍛冶橋へ罷り越し、右船私漕ぎ、幸七隣家堅木屋川岸へ繋ぎ置き、そのまま陸へ相揚り、同夕に至り八町堀辺り立廻りおり候ところ、御召捕りに相成り、右の段御糺問を蒙り、右乱暴の徒に同意は仕らず候へども、情実をも相心得、船中へも乗込み、かつにたり引取り方等周旋仕り候段、一言の申し上ぐべき様これなく重々恐れ入り候。
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皇居侵入の十人が鍛冶橋近辺に乗り捨てた船を小伝次が一人で漕いで「幸七隣家堅木屋川岸へ繋ぎ置き」とあるので、幸七の家も川岸にある訳ですね。
 

御岳行者皇居侵入事件(その7)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月11日(火)23時15分49秒
編集済
  『日本近代思想大系5 宗教と国家』の「御岳行者皇居侵入事件」に関連する五つの供述書を全部紹介するつもりはなかったのですが、細かい違いがけっこう面白いので、熊沢利兵衛の弟、「八町堀長嶌町六番地 山口幸七」の供述書も引用しておきます。

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去る十八日暁、旧本丸大手御門に於て久宝丸乗組水夫利兵衛はじめ十人の者凶暴相働き候事件に同意致し候段、御吟味御座候。

この段、私儀豆州加茂郡白田村農幸左衛門二男にて、当申四十七歳に御座候。私若年の頃東京へ罷り出、八町堀に住居仕り候ところ、当月十四日久宝丸乗組兄利兵衛儀、八、九年前より木曽御嶽山信仰し、行者と相唱へ、船中に於ても益々信心罷りあり、今度神勅の儀につき、同乗組常吉・斧吉と申す者使いのため差し越し、にたり船一艘買いくれ候様頼みにつき、小伝次世話にて小楠金兵衛より金二十五両にて買取り遣し申し候。その節外に金十五両・羽織一つ・鳶合羽一つ兄利兵衛より貰ひ受け候。
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小伝次は少し後に「兼々懇意仕り候伊豆国産山西小伝次と申す者」との説明が出てきます。
また、小伝次の供述書には「食客同様」として幸七宅にいたとあります。
小伝次のような者を養っていた幸七の商売が気になりますが、『国家と宗教』所収の史料には特に言及がありません。

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然るところ容易ならざる事ども神託の趣申し出し、私久宝丸まで相越し候様申し聞けこれあり、委細承知仕り候。かつ行者着用候白単衣至急入用候につき相求めたく、何方へ注文候て宜しきや相談候間、急ぎの儀に候へば、白木屋然るべしと相答へ候につき、両人同家へ相越し誂え候趣にて、夜八時頃帰宅、暫時酒食致し取臥し申し候。
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白木屋(しろきや)は日本橋にあった有名呉服店ですね。

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翌十五日右両人の者白木屋より白単衣私分ども持参仕り候につき、兼て買い求め遣し候端船〔はしふね〕にて常吉・斧吉・私外に兼々懇意仕り候伊豆国産山西小伝次と申す者船方心得おり候間召し連れ、四人にて乗り出し、三字頃品川沖碇泊致しおり候久宝丸へ乗り付け候て、兄利兵衛挨拶終りて後、船中の者ども撃剣試合、次に一同経文等を唱へ御嶽山その外諸神仏を祈念致しおり、実に発狂の形勢にこれあり候。その後酒宴席に於て神託の趣申し聞けるには、近頃外国人渡来、終に御変政かつ肉食等盛に相成り、皇国内自然相穢れ、その上諸侯知行・神仏領とも召し上げられ、実に歎くべくの至り、依りて宮城へ直訴興復の儀歎願の趣、右は元より神勅の儀故成就は勿論、来る十八日朝五字宮城へ相迫り候様、私・小伝次とも同意信心致すべき旨頻りに申し聞かせ候。
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ここでは「主上」でも「玉体」でも「朝廷」でもなく、「宮城」という漠然とした表現を用いていますね。
もちろん、これも幸七自身がこの表現を使ったのか、それとも供述書の作成者の判断によるのかは分かりませんが。

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船中水主庄吉と申す者とかく不信心と利兵衛・嘉七両人にて罵り、棒を以て打擲に及び、なお不同意に候へば切り殺すべきと申し聞け候間、その始末を見受け大いに驚き、容易ならざる儀とは相心得候へども、同意願意書取下案私仕候。然るところ、小伝次不承知の様子につき、船中別のところへ連れ出しかれこれ申し宥め候へども、何分小伝次篤〔とく〕と同意仕らず候につき、よんどころなき儀に候間、今日より二十五日の間他出差し留め申し聞かせ、
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先に「発狂の形勢」という表現がありましたが、庄吉への対応などを踏まえた感想なのでしょうね。
「同意願意書取下案私仕候」は意味が取りにくいのでそのままにしました。
幸七は「宮城」への直訴に同意するも、小伝次は同意せず、妥協案として二十五日までは幸七宅から外出禁止としたのでしょうね。

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この度の事件は全く兄利兵衛巨魁にて、嘉七・常吉その余の者ども御嶽の神を信仰の極み、神心迷乱発狂の体に相成り、容易ならざる事件企てるに及び候儀にて、その願意は前談の通り、神仏・諸侯等の知行を元に復し候等の儀、直に奏聞の心得にて、右の節通路於て阻攩候者これあり候節は、兵器を以て打ち果たし申すべく、かつ利兵衛はじめ咒文を唱へ候へば銃丸も決して当たらずと申し聞かせ候。私儀も終に惑乱同意参謀仕り候。翌十七日に至り私金一両貰い受け、小伝次ともども二字頃久宝丸より帰り候節、私金一両、小伝次三分貰い受け、水主に送られ元の端船に乗組み、品川へ上陸致し候ところ、人力車に乗り帰宅、端船は元船へ乗り戻り申し候。
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利兵衛らは「神心迷乱発狂」、幸七自身も「惑乱」していたという弁解ですね。

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然るところ翌十八日暁二字、十人の者端船にて私方へ立寄り、鍛冶橋辺より上陸、旧本丸大手御門へ相向ひ、出願の約束につき、同時私ひそかに暁五字明け六時頃小伝次へ申し付け、十名の者乗り捨て置き候端舟召し連れ候一人に乗り廻し方取り計らわせ、私儀は馬場先まで同道仕り、その後帰宅、船ならびに残し置き候衣類ども持ち帰り候につき、私預り置き申し候。同十九日十字頃兄利兵衛以下の者ども、旧本丸大手御門にて乱暴に及び候につき御討取り相成り候旨承知、恐愕仕りおり候ところ、今度御召捕り相成り、一味仕り候次第厳重御糺問蒙り、前顕容易ならざる大謀に与し候上は、如何様の厳科に処せられ候とも一言申し披くべき様御座なく重々恐れ入り奉り候。
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この文章では十八日当日の幸七と小伝次の行動が今一つはっきりしませんが、小伝次の供述書を読むと、幸七は十人が載った「端船」には同乗せず、「端船」が乗り捨てられた鍛冶橋近辺まで小伝次と一緒に歩いて行き、「端船」は小伝次一人が漕いで「幸七隣家堅木屋川岸」に繋留し、幸七は歩いて自宅に戻ったようですね。
 

御岳行者皇居侵入事件(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月11日(火)10時55分20秒
編集済
  供述書の三番目は不信心だとして皇居侵入の一行に参加させてもらえなかった「久宝丸水主 庄吉」のものです。(173以下)

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去る十八日暁、御城門に於て利兵衛以下九人の者容易ならざる所業に及び候儀につき、船中に於て御召捕相成り、右廉々御糺問に御座候。

この段、私儀紀州奥熊野甫母浦漁師にて、当申の二十九歳に御座候。去る午十一月二十三日、出稼ぎとして久宝丸水主に抱えられ乗組み相働き罷りあり候。然るに同人水主頭利兵衛儀、七、八年前より御嶽山信仰、去未十一月より行者に相成り居り候由にて、嘉七・常吉・斧吉等その外一同行者利兵衛に従ひ、私ども日々神仏を祈り罷りあり候ところ、当二月八日頃豆州網代滞船中、利兵衛に神託これある由にて、当今神国の政事宜しからざるにつき、神仏居処もこれなく、因て久宝丸へ天降りおり候につき、社寺料・諸侯知行御下げ相成り候様 朝廷に直訴致すべく、もし御門通行差し許さず候へば御城門破却致し候ても 朝廷へ相迫り、恐れ多くも容易ならざる所業に及ぶべき旨、一同申し談じおり候を承り、実に驚き入り罷りあり候。かつ先年来右利兵衛讃州坂出茶臼山に一祠を建立し守りおり候行者篠田虎之助妻みや方へ度々参り候砌、常吉・嘉七・秀吉その外の者等も撃剣試合等相学び候由にて、船中に於て毎度試合仕り候。
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源之助ら三人の供述書では「主上」「玉体」、船頭の佐十郎の供述書では「玉体」という表現を使っていましたが、ここでは「朝廷」と言っていますね。
ま、庄吉自身がこの表現を使ったのか、それとも供述書の作成者の判断によるのかは分かりませんが。
また、細かいことですが、「讃州坂出茶臼山に一祠を建立し守りおり候行者篠田虎之助妻みや方へ度々参り候」とあって、篠田虎之助の妻の名が「みや」であることが分かります。
この書き方だと、熊沢利兵衛は篠田虎之助ではなく妻の「みや」を師としたようにも読めますね。

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それより二月十三日伊豆網代表出帆、同夜浦賀御番所乗り抜け、同十四日品川沖へ着船碇泊仕り候ところ、同日常吉・斧吉上陸、行者着用の白単衣その外品々相調へ、翌十五日幸七・小伝次と申す者引き連れ帰船致し、酒宴相催し、その席に於て利兵衛始め嘉七・常吉・斧吉等へ神仏乗り移り、既に十八日暁五つ頃迄には願望成就疑いなき神託これあり候につき、一同信心怠らざる様致すべき旨申し聞け、船中の者一同大いに感心候へども、
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「利兵衛始め嘉七・常吉・斧吉等へ神仏乗り移り」とのことで、利兵衛だけに「神託」があった訳ではなさそうですね。

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私儀元来愚昧の性質にて、神託とは申しながら如何成り行き候や信じ難く、かつ右様の儀に係り、もし不慮の儀にてもこれあり候ては、国許に差置き候老母養い候者もこれなきにつき、この船に乗組みおり候ては恐ろしき事と存じ込み、過日以来度々脱走致すべきと日夜心配罷りあり候故、自然色に顕れ候か、度々厳責を請け、もし逃げ去り候へばたちどころに神力を以て手足叶わざる様致すべしなど申し威され候へども、透〔すき〕もこれあり候はば逃げ去りたく候へども、海上の儀如何ともなすべき様これなく、一日送りに致しおり候ところ、
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狂信者が支配する狭い船の中、「元来愚昧の性質」と謙遜しながらも健全な常識を働かせ、老母の心配をする庄吉は健気です。

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同十六日朝五つ時頃、利兵衛・嘉七等申し聞け候は、そこもとは平常不信心かつ小胆なる者にてこの時にのぞみ甲斐なき者と罵り、嘉七樫棒を以て二度に及び打擲致され、もし死し候へば菰に包み流すべき由申し威され、つらつら愚行仕り候ところ、人手に掛かり死候ては不本意につき、切腹仕りたくと決心、刀へ手を掛け候ところ、右両人の者差し留め候につき、そのまま相止まりおり候。然るに同十八日暁十人の者一同異体にいでたち出船の節、私は船番に残し置かれ候ところ、御軍艦へ御召捕りに相成り、一旦凶暴の徒に与しおり候段、御糺問を蒙り、一言の申し披きこれなく重々恐れ入り奉り候。
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紀州熊野の漁村に生まれた庄吉が「人手に掛かり死候ては不本意につき、切腹仕りたくと決心、刀へ手を掛け」るのは興味深いですね。
剣術の稽古を重ねる中で、発想も武士に近づいて行ったのでしょうか。
 

御岳行者皇居侵入事件(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月10日(月)11時11分28秒
編集済
  『日本近代思想大系5 宗教と国家』には「御岳行者皇居侵入事件」に関連して五つの供述書が掲載されており、最初が既に紹介ずみの源之助ら三名のものです。
ついで「病身」のため皇居侵入には参加しなかった「久宝丸船頭 角佐十郎」、臆病者だとして船内に残された「久宝丸水主 庄吉」、熊沢利兵衛の弟で侵入の準備段階で協力はしたものの侵入には参加しなかった「八丁堀長嶌町六番地 山口幸七」、幸七の知人で、やはり準備段階で協力はしたものの侵入には参加しなかった「元韮山県下 豆州加茂郡片瀬村農 久次郎倅 山西小伝次」の供述書が掲載されています。
重複が目立ちますが、参考までに「久宝丸船頭 角佐十郎」の供述書も紹介しておきます。(p173以下)

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去る十八日暁、大手御門に於て水夫頭利兵衛以下九名の者乱暴相働き候事件御吟味御座候。

この段、私儀尾州智多郡内海東端村農角佐兵衛倅にて、当申二十四歳に御座候。亡父佐兵衛代より久宝丸へ引続き船頭仕りおり候。然るに水主頭利兵衛儀は、亡父の時より抱え置き候者にて、私若年につき船の儀は万事同人へ任せ置き候。この者は八ヶ年前眼病にて困苦の節、讃岐国坂出茶臼山に一祠建立守りおり候篠田虎之助ならびに妻何某、両人行者の由にて祈念致しくれ、眼病平癒候につき、それより利兵衛同人の弟子と相成り、平日船中にても神仏信仰致し、終に神秘免許を受け、咒ひ・祈祷等の事ども相覚え、奇異の所業致し候につき、私始め水主一同偏に信仰仕りおり候。
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途中ですが、いったんここで切ります。
角佐十郎は船頭ではあるものの、二十四歳という若年なので久宝丸は実際上全て熊沢利兵衛に支配されていた訳ですね。
利兵衛の年齢は分かりませんが、弟の山口幸七が四十七歳とのことなので(p175)、更に年上となります。

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去る正月中伊豆国網代と申す処に滞船中、神下し致し、種々容易ならざる事件申し出し、同所に於て売婦四人相惑し、信仰の余り髪を切り衣類等海中に投じ一味に相成り、十三日婦人乗組み候まま出帆仕るべき折から、売女屋主人どもかれこれ差支へ、右売女を連れ行き、かつ遊蕩勘定の代り、通ひ小船引き留められ候。右滞船中申し聞かせ候には、讃州光照寺の弘法大師へ和光同塵の法を五ヶ年の内に天下へ流布せしむと立願致し候旨承り候。
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「神下(おろ)し」という表現、そして「讃州光照寺の弘法大師へ和光同塵の法を五ヶ年の内に天下へ流布せしむと立願致し候」というのは源之助らの供述書には出てこない新情報ですね。

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当月十三日網代出帆、下田御番所を夜中に乗り抜け、既に十四日、品川に着船、又々神下し致し、無信心者は船頭たりとも乗組み相成らざる由申し聞かせ、その余、容易ならざる事件等相語り申し候。水主一同へ撃剣組打稽古致すべき様申し付け、折々試合仕り候。
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「無信心者は船頭たりとも乗組み相成らざる由」というのは、船頭の佐十郎にとってはなかなか厳しい表現です。

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同十五日、兼ねて白衣誂えに遣し候斧吉・常吉両人、幸七・小伝次と申す者同道にて帰舟仕り候ところ、同様神託を以て撃剣駆引試合を致させ、右事件に同意致すべき旨申し聞かせ、全くこの度の大望は利兵衛に惑はされ、神の教へと存じ、その願意は天下神仏混淆に致し、経文・珠数を以て諸人拝礼致し候様、かつ夷人追討、神社仏閣・諸侯の領地旧に復したき旨、直に奏聞致すべき願書一枚づつ、皇城まで往来図面等幸七認めくれ候につき、一同御所へ出願の砌、もし道路差し留め候者これあり候へば打ち果たし、通行の上直に奏聞仕り、勅許これなき節は 玉体に迫り奉るべき心組みにこれあり、
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「神託」という表現はここを含め二箇所に出てきます。

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十八日朝八字までには大願成就疑いなき由神託につき、十人の者異体の行装にて出発の節、私儀病身、庄吉は臆病者ゆえ船に残し置き、小船にて鍛冶橋辺より上陸、大手御門に於て暴動仕り候趣、全く右利兵衛煽動に因り神仏の託宣と申すに惑はされ候より、容易ならざる事件に一味同心仕り候ところ、船中に於て御召捕りに相成り、右の廉々御糺問蒙り重々恐れ入り奉り候。この上如何様の厳科に処せられ候へども、一言の申し上ぐべき様御座なく候。
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「病身」の佐十郎は皇居侵入に参加せず、事件後、久宝丸内で逮捕された訳ですね。
佐十郎の供述書と安丸良夫氏の解説「近代転換期における宗教と国家」を読み比べると、安丸氏は事件の要約に際し、佐十郎の供述書を相当に利用していることが分かります。

御岳行者皇居侵入事件(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9599
 

御岳行者皇居侵入事件(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月 9日(日)22時53分42秒
編集済
  続きです。(p171以下)

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既に十八日暁、私ども十人異体の装にてにたり船へ乗り組み、同正八つ時元船を離れ、八町堀幸七方へ立ち寄り、鍛冶橋へ着船、それより上陸の折、幸七一人を召し連れ来候につき、にたり船は幸七に任せ置き、旧本丸大手御門を御座所と相心得、利兵衛始め一同相進み寄せ、高声に御門相開き通り候様申し入れ候ところ、御守衛兵隊衆より、何れより来り何れへ通行の者にこれあり候や御尋ねにつき、我々は高天が原より天降る行者にて、 主上へ直訴候間通し候様大声に申し答へ候ところ、開門これなきにつき、常吉は短刀、嘉七は棒をもって御門扉を突きなど仕り候へども、曾て開門これなきにつき、常吉御門の下を潜り入り、潜り戸を開き候につき、一同込み入り、元の戸締め、なお内の門に至り高声に前申し候通り申し入れ候へども、開門これなく、
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途中ですが、ここで切ります。
熊沢利兵衛の弟、山口幸七は伊豆加茂郡白田村出身ですが、若年の頃に東京に出て八丁堀に居住しており(p175)、異装の十人を乗せた荷足船は、まず八丁堀の幸七方に寄って幸七を乗せた後、鍛冶橋に船を着けます。
そして幸七を荷足船に残して皇居に向い、最初の門で開門するように大声で申し入れるも、警備の兵隊は全く事情が分からないので、どこから来てどこへ行こうとするのか、という当然の質問をしたところ、我々は高天原から来た行者で天皇に直訴したいから通せ、という無茶苦茶な返答だったので、当然ながら門を開けてくれません。
そこで、常吉は短刀、嘉七は棒で門扉を突くなどして騒いだ後、常吉が何とか門の下を潜って潜り戸を開けたので、一向は中に入りますが、次の門で同様な申し入れをしたところ、これまた当然ながら入れません。

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その内御番の人々橋の方へ相廻り候につき、再三再四大音にて右の段申し入れ相迫り候へども、利兵衛申し聞けるには、このまま差置き候はば法力により自ら八字過ぎには開門相成り申すべき趣申し聞きおり候内、御門内より、刀棒等差出し候はば一人ずつ通行致さすべき由申し聞くこれあり候へども、利兵衛ほか先達二人より、その方ども兵卒にて何も心得まじく、一同相通すべく暴言致し候内、
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利兵衛は法力により八時過ぎには自然と門が開くのだ、などと言っていた訳ですが、当然ながらそんなことはありません。
ただ、警備側もそれほど居丈高ではなく、刀や棒を差し出せば一人ずつ通行させてもよいという対応だったにも拘らず、利兵衛・嘉七・常吉は、お前たちは下っ端の兵卒だから何も分っていないのだ、いいから通せ、と暴言を吐きます。

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囲内より五、六人顕れ出で、厳重の御取締りに相成り、升形内に囲い込められ候につき、利兵衛・嘉七等所持罷りあり候樫棒をもって御門扉を打ち破り候存じよりか、頻りに打ち叩き乱暴仕り候上、発砲相成り候につき、私ども相驚き逃げ去り候心得のところ、利兵衛・常吉等帯びおり候剣抜き離し、敵を見相退き候者は切り捨て申すべきと大音に呼ばはり、兼ねて申し聞きおる通り、銃丸などは決して当たり申さずなどと広言相発し、狂乱の体にて縦横に馳せ廻り、門扉へ暴突き打破申すべき体候へども、兵隊衆より烈しく発砲なされ候につき、ますます憤怒の気色にて乱暴仕り候、
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すると門内から五、六人の警備兵が出てきて厳しい態度を見せるも、いきなり発砲するようなことはしません。
しかし利兵衛等は門扉を棒で叩くなど反抗するので、ここでやっと警備兵は発砲するも、最初はあくまで威嚇射撃のようです。
発砲に驚いた源之助等が逃げ去ろうとしたところ、利兵衛らは剣を抜き、敵を見て逃げる裏切り者は切り捨てるぞと大声を出し、自分たちには銃弾など当たらないのだと言って、狂乱の体で走り回り、門扉を打ち破ろうとするので、さすがに警備兵は烈しく発砲しますが、利兵衛らの動作が早すぎてなかなか当たらないようです。

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私どもは容易ならざる者に随従、かく大変に立ち至り、遁るべき道もこれなく、三人とも塀の影に隠れおり候ところ、利兵衛・嘉七等臆病なる者と申し聞き、その方等を打て我等自殺致すと申し、私どもへ切り掛かり、少々ずつ怪我仕り候。右狼狽の折から、四人の者銃丸にて即死、三人怪我仕るうち一人ほどなく絶命仕り候。
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源之助等が塀に隠れていたところ、利兵衛・嘉七等は臆病者のお前たちを殺して我々は自殺するぞと言って源之助らに切り掛かり、三人とも少しずつ怪我をします。
そしてこの騒動の結果、利兵衛・嘉七等四人が射殺され、常吉が負傷後間もなく絶命。

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私ども三人実以て愚昧にして、右利兵衛・常吉・嘉七等に神勅などと申し聞き、相誑かされ、恐れ多くも 主上御側へ相迫り、容易ならざる所業に及ぶべくなど評議仕り候段、凶力を以て相迫られ、やむを得ず同組し候事故、今日に至り先非悔い悟り仕り候。前条の通り非常の形装にて御門へ相迫り、終に凶暴の挙動仕り御召し捕りに相成り、厳重の御吟味を蒙り、一言の申し上ぐべき様御座なく、重々恐れ入り奉り候、この上如何様の厳科に処せられ候へども、聊かも御恨みがましき儀御座なく候。
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ということで、源之助ら三人は、自分たちはあくまで利兵衛らに誑かされ、脅されたので仕方なく参加したのだ、と死人に口なしの言い訳をして証言を終えます。
 

御岳行者皇居侵入事件(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月 9日(日)14時31分7秒
編集済
  続きです。(p171以下)

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兼て右企てこれあり候故か、奥州へは下向仕らず、二月十三日網代出帆、同夜伊豆下浦賀御改所ひそかに乗り抜け、同十四日品川沖着船碇泊仕り候ところ、常吉・斧吉往来の船相調へ乗組み上陸、東京へ相越し、行者その外着用の白単衣用意相調へ、にたり一艘幸七世話にて買い入れ候趣、翌日帰船の節、山口幸七ならびに小伝次と申す者召し連れ相越し、利兵衛始め嘉七等申し聞けるには、当今夷人渡来以後、日本人もっぱら肉食を致す故、地位相穢れ、神の居所これなきにつき、従来この船は清浄の船につき、諸神天降り鎮座これあり候につき、我等へ御託宣の次第もこれあり、夷人追討、かつ神仏領・諸侯の領地等、故の如く封建に致したく幸七申談、銘々願書一枚ずつ、かつ 皇城道筋図面等相認めくれ候につき請け取り、一同にて 主上へ奏聞に及び、もし御聞済これなく候はば、ついに 玉体へ迫り奉るべき容易ならざる企て説示これあり、
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途中ですが、いったんここで切ります。
網代港で遊女屋に伝馬船を差し押さえられてしまったので、二月十四日、品川沖で停泊中に常吉と斧吉が別の船で上陸し、山口幸七という者の協力で白い衣服を調達、また荷足船を購入した訳ですね。
山口幸七は熊沢利兵衛の弟で、「豆州加茂郡白田村農幸左衛門二男」、年齢は四十七歳です。(p174以下)
十五日に常吉・斧吉が山口幸七とその知り合いの小伝次を連れて久宝丸に戻ると、「当今夷人渡来以後、日本人もっぱら肉食を致す故、……故の如く封建に致したく幸七申談」云々の話となり、山口幸七が話しているのかと迷ってしまいましたが、幸七の供述書を合わせ読むと、この種の宗教的な話は幸七には無理ですね。
利兵衛等の話の内容を若干補充しつつ述べると、

異人渡来以来、日本人が肉食するようになったので大地は穢れ、神々の居場所がなくなってしまったが、この船は清浄の船であるので、諸神が天下り鎮座され、我らへの御託宣があった。その御託宣は異人を追討し、神仏領・諸侯の領地等は昔のように封建の制度に戻すべしとの趣旨で、これを実現するために山口幸七に相談したところ、天皇に差し出す請願書を人数分、また皇居へ向う道筋の地図等を用意してくれたのでこれを請け取った、そして一同で天皇に奏聞に及び、もし聞き入れていただけなかったならば、最後には玉体へ迫り奉ろうという大変な企ての説明があった、

といった具合でしょうか。
「玉体ヘ可奉迫不容易企」は、天皇を殺害するつもりだった、との供述を作成担当の役人が若干穏やかな表現に変えたのでしょうね。

-------
利兵衛・常吉・嘉七等申し聞けるには、私ども一同も相越すべく、若し相組せず候へども、御関所を破り候者、必ず死に至り候は当然、なお上の御処置を待つまでもこれなく、拙者どもにて殴死すべしと、棒あるいは抜刀数度相懲らしめられ、やむをえず随身仕り候。いよいよ十八日朝八字までには右大願成就疑いなし、但し戦に及び候へども、行者利兵衛手を懐にし、咒文を唱へ候はば、敵よりいかほど打ち掛け候矢砲も決してあたり申さず、かつこの白衣着用致し候はば、凡夫の目には決して見へ申さず候につき、少しも疑念なく信心怠らざる様と嘉七申し聞け候につき、実事とは存じ込み候へども、我々の力にては所詮及び難く候事につき、すきもこれあり候はば遁げ出すべくと存じ、水中へ飛び入り候事もこれあり候へども、右の定約に返心候はば、即時に神罰を請け、手足も動かざる様相成るべく申し聞けられ、やむを得ず相随ひ居り申し候ところ、
-------

「御関所を破り候」云々は「伊豆下浦賀御改所ひそかに乗り抜け」のことですね。

利兵衛・常吉・嘉七等は、お前たちも一緒に来い、もし一緒に来ないならば、関所破りをした以上死罪は当然であるが、お上の処置を待つまでもなく、ここで我々が殴り殺してやる、と棒や抜身の刀で何度も脅すので、やむをえず従いました。また、利兵衛らは、十八日朝八時までには大願成就は疑いないが、しかし仮に戦闘になっても、行者の利兵衛が手を懐に入れて呪文を唱えれば、敵がどれほど矢や鉄砲を打ち掛けても決して当たらず、そしてこの白衣を着ていたならば凡夫の目には見えないのだ、と言い、それが本当とは思わなかったけれども、我々の力では何ともできない状況だったので、隙があったら逃げ出そうと思い、船から水中に飛び込もうとも考えたけれども、約束を破ったら即時に神罰を受け、手足も動かなくなると言われたので、やむを得ず従っておりましたところ、

ということで、捕縛後の三人は、自分たちはあくまで利兵衛らに脅され、また宗教的に縛られていたので、やむを得ず従ったのだと言い訳します。
 

御岳行者皇居侵入事件(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月 8日(土)11時45分21秒
編集済
  明治五年二月十八日の「御岳行者皇居侵入事件」を「強権的近代化政策の全体を"敵"として措定し、天皇制国家に真正面から挑戦した興味深い事例」とする安丸良夫氏の評価には賛同しがたいので、少し丁寧に事件を見て行きます。
宮地正人氏の「解題」で引用されている「太政官日誌」第十二号(二月十八日)によれば、同日の暁、十名の者が皇居に乱入しますが、その内訳は、

(1)即死者
 「伊豆産行者ノ由利兵衛」
 「三河産行者ノ由嘉七」
 「東京深川熊井半町八幡屋清吉」
 「尾張宇津見秀吉」
(2)重傷
 「伊豆加茂郡大河村大工虎吉倅恒吉」
(3)捕縛者
 「尾張産ノ由源之助」
 「同斧吉」
 「同平吉」
 「伊豆大島産ノ由清吉」
 「安芸産ノ由清吉」

となっています。(p168)
そして、『国家と宗教』には、捕縛者のうち、「尾張産ノ由源之助」「伊豆大島産ノ由清吉」「安芸産ノ由清吉」の三名連名の供述書が最初に掲載されているので、先ずこれを見ることにします。(p170以下)
出典は国立公文書館蔵「明治五年公文録」兵部省伺一・二月とのことです。
読みやすさを重視して適宜改行し、カタカナをひらがなに換えるなど、若干の改変をしますので、正確な原文を知りたい方は『宗教と国家』を参照してください。

-------
 尾州智田郡中津村百姓 長助倅 源之助 申十九歳
 豆州加茂郡大嶋百姓 虎吉倅 清吉 申二十七歳
 芸州豊田郡幾千嶌 瀬戸田北町漁師 米五郎倅 清吉 申二十九歳

去る十八日暁、異容のいでたちにて水夫頭利兵衛に従ひ、御城門へ相迫り乱暴仕り候始末、御吟味御座候。

この段、私ども儀尾州内海東端村角佐兵衛舟久宝丸へ水主に抱えられ乗組まかりあり候。然るにこの船乗組一同、木曽御嶽山信仰仕り、水主頭熊沢利兵衛を行者と唱へ、嘉七を先達、常吉を次の先達と申しおり候。利兵衛儀は、元讃州坂出茶臼山に小祠を建て相守りおり候行者虎之助ならびに同人妻両人より、御嶽山信仰厚きにより秘伝免許を請け候由、かつ剣術等を伝習仕り、右港へ入船の折は、数度利兵衛・嘉七・常吉等罷りこし候。
-------

ここでいったん切ります。
皇居侵入グループの指導者は「久宝丸」の「水主頭」でもある伊豆出身の熊沢利兵衛で、これに続くのが三河出身の嘉七と伊豆出身の常吉(恒吉)ですね。
熊沢利兵衛と嘉七は即死し、常吉は重傷を負って後に死亡することになります。

-------
去未九月中、讃岐より塩積入れ、同所出帆相済み、小田原辺にて売却相談仕り候ところ、破談に相成り、それより神奈川表にて売りさばき候後、東京へ罷り登り、深川佐賀町久住五左衛門奥州にて買い入れ置き候大豆積廻しとして同国へ罷り下り候つもりにて、十二月上旬品川出帆、豆州網代湊に風待ち碇泊、当正月中旬より右利兵衛はじめ嘉七・常吉容易ならざるの企て等談示候につき、私どもに於ては恐れ入り候儀とは相心得候へども、何分にも同意致さず候はば、速やかに神罰を蒙り候旨につき、よんどころなく同意仕り、船中に於て諸神を祈り、その間には、兼て申し聞くの戦場駆け引き、撃剣組打ちの試合稽古仕り候うち、売婦へ馴染み、売女四人私ども乗組みの久宝丸へ乗り入らせ、追々利兵衛等より相勧め、断髪致させ、男の姿となし、四天王と号し連れ登り申すべき趣にて、帆柱巻き掛け候ところ、右売女屋等聞き及び、懸け合いに来り、右売女四人連れ帰り、遊蕩勘定等相滞り候につき、通ひてんま船引き留められ候。
-------

明治四年九月に讃岐で塩を積み、小田原で売却する予定だったところうまく行かず、神奈川で(より悪い条件で?)売却した後、東京に行き、深川佐賀町の久住五左衛門が奥州で買い入れていた大豆を運搬するために奥州へ下る約束をし、(久住五左衛門からそれなりの金員を受け取って?)奥州へ下るつもりで十二月上旬に品川を出帆し、伊豆網代港で風待ちのために停泊。(しかし、奥州へは行かずに)正月中旬から利兵衛・嘉七・常吉は恐るべき計画を企てていることを明らかにしたので、私どもは大変なことになったとは思ったものの、同意しなければ直ちに神罰を蒙ると言われたので仕方なく同意し、船の中で諸神を祈り、また戦闘訓練として撃剣組打ちの稽古をしていた。その傍ら、遊女と仲良くなり、遊女四人を久宝丸に連れてきて利兵衛らが入信させ、断髪・男装させて「四天王」と名付け、(東京へ)一緒に連れて行こうとし、まさに出帆しようとしたところに遊女屋の主人らが駆けつけてきて遊女四人を連れ帰り、遊蕩費の支払いが滞っていたので伝馬船を引き留められてしまった。

ということで、遊女屋の支払いを踏み倒すだけでなく、遊女四人をさらって逃げようとするなど、純粋な宗教的信念に基づく行為とは言い難い奇妙な気配が漂ってきます。
 

御岳行者皇居侵入事件(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月 7日(金)10時30分9秒
編集済
  この掲示板の投稿を保管しているブログ「学問空間」で、2016年1月14日の「廃仏毀釈に殉教者はいるのか?」という記事に、次のコメントをもらいました。

-------
私たち、扶桑教として教派神道になる前の、富士講時代の行者や神主や坊さんや山伏たちがデモ隊を率いて廃仏毀釈反対の請願陳情に皇居にいったらライフル銃で撃たれて死んだんだよ

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/07a09e60902e246fbb8816c149dcc3c2

私はこの出来事を知らなかったので、事実関係を確認できる資料をお聞きしたところ、ネットではリンク先の記事、そして当該記事の根拠となっているのは『日本近代思想大系5 宗教と国家』(安丸良夫・宮地正人校注、岩波書店、1988)とのことでした。

「御嶽行者の皇居襲撃」(inudaisho氏のブログ「メモ@inudaisho」内)
http://d.hatena.ne.jp/inudaisho/20130712

そこで『宗教と国家』を見てみました。
まず、同書の構成は、

-------
Ⅰ 国家神道への道
 祭政一致運動とその転換
 教部省政策以後の模索
 国家神道確立にむけて
Ⅱ 宗教政策と地域の動向
 廃仏毀釈
 教化運動
 諸事件
Ⅲ 仏教側の対応と「信教の自由」論
 護法論
 「信教の自由」論の展開
 ジャーナリズムの論調
Ⅳ キリスト教をめぐる葛藤
 キリシタン問題
 異宗と伝統社会
神教組織物語(常世長胤) 阪本是丸校注
宗教関係法令一覧 宮地正人作成
解説
 近代転換期における宗教と国家 安丸良夫
 国家神道形成過程の問題点 宮地正人
-------

となっていて、「Ⅱ 宗教政策と地域の動向」「諸事件」の9番目に「御岳行者皇居侵入事件」が載っています。
史料をそのまま引用すると煩雑なので、安丸良夫氏の解説「近代転換期における宗教と国家」から関係部分を抜き出すと、

-------
 五年二月の御岳行者の皇居侵入事件(史料Ⅱ-9)については、宮地正人氏が兵部省関係の文書とイギリス外務省の文書を収集されたので、両史料によってその間の経緯を簡単に要約してみよう。この事件の中心人物は御岳講の行者熊沢利兵衛で、利兵衛は八年前に眼病を患ったが、御岳講の行者篠田虎之助とその妻の祈禱によってなおり、その後は熱心に御岳講を信仰するようになった。利兵衛は、尾張国知多郡内海東端村の角佐兵衛の持船久宝丸の水主頭〔かこがしら〕で、久宝丸の船長は佐兵衛の息子佐十郎であったが、乗船者は全員利兵衛の感化を受けて、御岳講の熱心な信者となっていた。利兵衛の思想は、新政府の開化政策ときびしく対立するもので、「当今夷人渡来以後、日本人専〔もつぱら〕肉食ヲ致ス故、地位相穢〔あいけがれ〕、神ノ居所無之」と教え、「天下神仏混淆ニ致シ、経文・珠数ヲ以テ諸人拝礼致シ候様、且〔かつ〕夷人追討、神社仏閣・諸侯ノ領地旧ニ復」することを天皇に請願するのだとした。そして、二月十八日朝、白衣の行者姿の一〇人が天皇への直接請願のために皇居に向かい、門を破ろうとして射たれ、五人が死亡、他は逮捕されたのであった。彼らは、行者姿で呪文を唱えれば、鉄砲も刀も恐れるに足りないとする狂信の徒であり、利兵衛は五年のうちに国中に「和光同塵ノ法」をもたらすとのべたという。その要求内容は復古主義的であるが、強権的近代化政策の全体を"敵"として措定し、天皇制国家に真正面から挑戦した興味深い事例である。
-------

といった具合です。(p536以下)
 

『宵山万華鏡』と『恋文の技術』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月 3日(月)23時38分35秒
編集済
  森見登美彦ワールドから脱出できず、『宵山万華鏡』(集英社、2009)と『恋文の技術』(ポプラ社、2009)を読んでみました。
プチホラー風味の『宵山万華鏡』には「奥州斎川孫太郎虫」というものが登場し(p45)、最初は作者の創作なのかなと思ったら実在する昆虫とそれを原料とする漢方薬みたいなものだそうですね。
検索すると、例えばJATAFF(公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会)サイトに、

-------
 そうしたなかにあってわが「孫太郎虫」こそは、これぞ日本が独自に生んだ「漢方薬」ならぬ、昆虫としてはほとんど唯一の「和方薬」であった。孫太郎虫の正体はアミメカゲロウ目のヘビトンボの幼虫で、 成虫がトンボのような翅を持ち、幼虫の頭が扁平でヘビの頭に似ていることがその名の由来である(図1、2)。この幼虫は九州以北の日本各地の河川の清流に棲み、ほかの水生昆虫や小動物を捕食し、 成長すると体長が6センチ内外になる。大型で大あごが発達していて咬まれるとかなり痛いという。この幼虫とその薬用乾物を「孫太郎虫」と称し、黒焼きにして粉末にしたものが子供の疳(かん)の薬として昔から知られていた。 そのほか、戦時中の昭和18年(1943)に日本の薬用昆虫の記録をまとめた梅村甚太郎の『昆虫本草』によれば、「炒って食べれば駆虫剤としても効果があり」、さらに「尚世間にては之を肺病、胃腸薬、 十二指腸虫の疾患にも炙って食はしむ」とある。

https://www.jataff.jp/konchu/mushi/mushi109.htm

といった説明があります。
奥州斎川は宮城県斎川村(合併して現在は白石市)のことですが、上記サイトによれば斎川の田村神社には孫太郎虫ゆかりの石碑だとか資料館があるそうです。
実は私、この田村神社には一度参詣したことがあるのですが、孫太郎虫のことは全く覚えていませんでした。
自分の記憶力は大丈夫だろうかとちょっと不安になりましたが、田村神社の社名はもちろん坂上田村麻呂に由来し、悪路王伝説があり、佐藤継信・忠信ゆかりの甲冑堂が有名で、おまけに芭蕉の歌碑もある盛り沢山の神社なので、まあ、孫太郎虫のことは覚えていなくても仕方ないかな、という感じもします。

https://4travel.jp/travelogue/10524632

『恋文の技術』は特に賞をもらったりはしていないようなので、何となく読む順番が遅くなってしまったのですが、これは本当にツボに嵌ってしまいました。
森見登美彦の他の作品の場合、私は極めて謹厳な顔つきで、まるで法律書でも眺めているかのような雰囲気を周囲に漂わせつつ読むことが可能なのですが、とある公共図書館で『恋文の技術』を読み始めたら暫くして顔面崩壊の危機に陥り、中断して自宅に持ち帰りました。
そして畳に寝っころがって読書を再開したところ、「第二話 私史上最高厄介なお姉様へ」で少しむせてしまい、それがいつまでたっても治まらず、最後には呼吸困難っぽくなってしまって、このまま死ぬかも、などとチラッと思ったりしました。


>キラーカーンさん
>「公定力」よりも一足先に「特別権力関係」は鬼籍に入りました。

近時の「立憲主義」騒動も、数十年したらどのような評価を受けるのですかね。
 

駄レス

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2018年 9月 2日(日)01時47分10秒
編集済
  >>「債権の法」と「債務の法」
昔、「クイズ タイムショック」で
『坂の街で有名な長崎、「上り坂」と「下り坂」とどちらが多い』
という問題が出たことを思い出しました。
(答えは、当然「同じ」です)

>>「公定力」概念ももはや風前の灯
「公定力」よりも一足先に「特別権力関係」は鬼籍に入りました。
しかし、田母神航空幕僚長(当時)の「論文」事件で、自衛官の人権制限を正当化する理由として
「特別権力関係」或いはそれによく似た何かを黄泉の国から召喚しようとしていた憲法学者や行政法学者はいました
 

『ぐるぐる問答: 森見登美彦氏対談集』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 8月31日(金)10時21分12秒
  >筆綾丸さん
>「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」

良い句ですね。
芭蕉のこうしたユーモラスな側面は、一般人が持っている芭蕉像からはずれている、というか殆ど知られていないのでしょうね。

少し気持ちの余裕が出来たら、とか言いながら森見登美彦の作品を引き続き読んでいます。
デビュー作の『太陽の塔』(2003)に続く「腐れ大学生」シリーズの『四畳半神話体系』(2005)、ホラー系の『きつねのはなし』(2006)と『夜行』(2016)、たぬきシリーズの『有頂天家族』(2007)と『有頂天家族 二代目の帰朝』(2016)、エッセイ集の『美女と竹林』(2008)・『森見登美彦の京都ぐるぐる案内』(2011)・『太陽と乙女』(2017)、そして『ぐるぐる問答: 森見登美彦氏対談集』(2016)を読み終えたところです。
森見登美彦はファンタジーっぽい作風や京大出身という経歴の点で、筆綾丸さんがお好きな万城目学に似ていますが、『ぐるぐる問答』には二人の対談があり、『太陽と乙女』にも万城目学に触れている箇所が多数ありますね。
年齢は1976年生まれの万城目学が三歳上ですが、万城目学のデビュー作『鴨川ホルモー』が出版されたのは2006年で、森見登美彦のデビュー作『太陽の塔』に三年遅れています。
しかも、万城目学は『鴨川ホルモー』が書けたのは『太陽の塔』のおかげだと言っていますね。
『ぐるぐる問答』から少し引用すると(p17以下)、

-------
万城目 最初に小説を書いたのは、大学三回生のときで、丁度その頃「自分探し」という言葉が世に出始めていて、いち早く敏感にそれを取り入れて、大学生がみんなでうじうじ悩むという……ひどいものを……(声が小さくなる)。
森見 いや、それがあったからこそですよ。
万城目 腐臭を放ってますよ。まあそれを一年くらいかけて書きまして。
森見 長いんですか?
万城目 はい。で、それを友達二人に読ませて。
森見 お!
万城目 その感想が「気持ち悪い」「恥ずかしい」「客観的に読めない」「これ、お前のことやんか」などなど……。
森見 うわ~(我がことのように悶える)。
万城目 それで僕は、自分に近くなってしまって恥ずかしいから二度と大学生は書かないと決めて、時代小説を書くように。奈良時代の仏像彫りの話とか書いていましたね。
森見 なるほど。
万城目 それが『鴨川ホルモー』の一作前からがらっと変わったんです。チャールズ・ブコウスキーっていう、もう飲んでヤッて競馬して、そればっかの人が書いた小説を読んで、自分もこういう乱暴なものを書きたい、今までのは繊細すぎた、と思って。それから次に『鴨川ホルモー』を書いたんですが、あれを書けたのは『太陽の塔』を読んだからなのは間違いないんです。
森見 オッ!
万城目 大学生の話を書けば一番うまくいくことは自分でも分かってるんだけど、またあんな風になってしまうのが怖くて作品に大学生はもう出さずにおいたんですよ。それが『太陽の塔』を読んで、ああ、こういう風に書くと自分のことは全く書かずに、かつ何かを伝えることができるのか! と。
森見 もう、それだけ聞けたら僕は今日はもうこれでいいです。ありがとうございました(笑)。
-------

といった具合です。
「腐れ大学生」シリーズはもちろん事実の記録ではありませんが、森見登美彦が実際に送った学生生活の経験がベースにあることも確かで、しかもそれは1979年生まれの人にしてはずいぶん古風な感じがしますね。
『ぐるぐる問答』での綾辻行人との対談でも、

-------
綾辻 同じ大学の、十八年違いの先輩後輩の関係になるんですね。森見さんが生まれた年に僕が入学した、という勘定。そんなに違うのに、森見さんが描く大学や大学生像は、僕なんかの目にもなんだかとても懐かしく感じられます。この何年間かで特に、京大のキャンパスもずいぶん変わったでしょ。ところが森見作品には一九八〇年代から九〇年代あたりの、僕たちもよく知っている空気感があるんですね。良い感じで止まっている、とでもいうか。これはきっと京都という土地柄も関係してのことなんでしょうけれど。でも、だから今、若い人から僕たちの世代まで、幅広い読者層に受け入れられているんでしょうね。
森見 うちは父親も京大なんです。父親から学生時代のことをいろいろ聞かされていて、昔の学生生活に憧れていたからかもしれません。京大を目指したのも、父親から聞いた話からイメージを膨らませて、行きたいなあ、と。だから、僕自身もあまり若々しくない学生生活を送っていたし、入ったクラブもライフル射撃部という、あまり華やかじゃないクラブなんです。
-------

とあり(p99以下)、たまたま自分と同年の生まれの綾辻行人の感想にうんうんと肯きたくなります。
 

シーソー・ゲーム

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 8月30日(木)11時59分48秒
編集済
  小太郎さん
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 当初は、債権者、債務者の二者だけのあいだで繰り広げられていた素朴なシーソー・ゲームに幕府法という第三者が登場し、ゲームの裁定者としての役割を果たしはじめた。ゲームの参加者たちは気づかないうちにあらゆる法の上に立った幕府法に飲み込まれ、その顔色をうかがわなければならなくなってしまっていたのである。
 そして裁定者となった幕府は、幕府内部の独自の論理で債権の法と債務の法とのあいだ(に?)くりひろげられていたシーソー・ゲームを複雑にする新たなルールを導入するようになった。この点を確認するために、次に十五世紀中葉に幕府が導入した、ある奇妙な法について章をあらためて述べていこう。(180頁~)
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前半には、ちゃんと、「債権者、債務者の二者」とあるのに、後半でまた、「債権の法と債務の法のあいだ」となってしまうのですが、これは、法律の理解にたいする正道と邪道のシーソー・ゲームとみるべきなのか、教祖に対する半信半疑のゆらぎとみるべきなのか、よくわからないですね。

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率直に言えば、史料と課題にまっすぐ向き合える、研究という、いわゆる「蛸壺」は、狭さは感じつつあったものの居心地のよい空間であり、そこから出るのは、まだ早いと思っていたのである。(309頁、あとがき)
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芭蕉の「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」ではありませんが、教祖と弟子が同じ蛸壺の中で仲良く同じ夢を見ているような感じで、漁師に引き上げられて干し蛸にされなければいいが、と思いました。
 

「日本史はなめられている」(by 桜井英治氏、但し伝聞)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 8月30日(木)09時46分23秒
編集済
  >筆綾丸さん
昨日は早島大祐氏の『徳政令─なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書)について、読みもしないのに少し否定的なことを書いてしまいましたが、これは以前、早島氏が脇田晴子氏について論じた「商業の発展を物語った人」という文章を読んで、早島氏を私の脳内ファイルの「雑な人」という分類に入れていたためでもあります。

『歴史学研究』969号の「小特集 脇田晴子の歴史学」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9489

しかし、検索してみたら早島氏が執筆の経緯を書いている記事があり、同書はそれなりに興味深い内容のようですね。

-------
「歴史の大転換」を論じた『徳政令』執筆にいたるまで
なぜ「大風呂敷」を広げたのか

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57144

今は頭が中世モードになっていないのですが、少し気持ちの余裕が出来たら読んでみたいと思います。
ところで、早島氏は上記記事で、

-------
桜井英治氏が担当編者だった『岩波講座 日本歴史 8』(中世3)で与えられた課題は、本書のテーマそのものずばりの「一揆と徳政」であり、またそのあとに依頼を受けた中林真幸氏が担当編者の『岩波講座 日本経済の歴史 1』では、中世の土地売買の制度的保証や金融業の変遷などをテーマに執筆を求められた。
【中略】
影響は学術的内容だけに止まらない。講座立ち上げの際の全体会合で、桜井氏は、「日本史はなめられている」と強い口調で、歴史学をめぐる状況の厳しさを指摘していた。中林氏も穏やかな口ぶりで「人文学の危機」にいかに向き合うかを会議後の懇親会などでいつも語っており、学問の未来について考えさせられる場でもあった。
--------

と書かれていますが、桜井英治氏の「日本史はなめられている」という発言は、これだけだとちょっと意味が分かりにくいですね。
ま、おそらく、「中世史への招待」(『岩波講座日本歴史第6巻 中世1』)の、

--------
 社会史的傾向の後退ということを別にすれば、歴史学が網野とともに失った最大のものは一般の読者層であろう。それは通史物などの発行部数をみれば一目瞭然だが、とりわけ中世のような、現代には必ずしも直結してこない遠い過去のできごとに、一般読者層の(できれば娯楽的興味以上の)関心を向けさせるのはいまや至難の業となった。一方、これもまたいまにはじまったことでないとはいえ、歴史家の書くものは一般読者層のみならず、いわゆる知識人とよばれる人たちの関心もあまり引かなくなったようにみえる。それは戦後マルクス主義歴史学が傲慢に振る舞いすぎた報いなのか、それとも言語論的転回とよばれる好機に便乗した村八分なのか、いずれにしても歴史学が知の世界への貢献を期待されなくなって久しいのではあるまいか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7253

といった指摘と共通する危機意識なのだと思いますが。
桜井氏も歴史学界のリーダー格の一人としていろいろ苦労が多いのでしょうが、井原今朝男氏批判の文章などは些か大人気なくて、感心しませんでした。

「すでに鬱然たる大家でありながら」(by 桜井英治氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8708
「小物界の大物」について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8720
 

教祖

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 8月30日(木)09時01分32秒
  小太郎さん
早島氏が、教祖の不毛で無意味な呪縛から解放されて正気に戻ることを、切に祈りたいと思います。

旅先は、南イタリアとマルタ島です。
 

予告された企画倒れの企画

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 8月29日(水)21時07分55秒
編集済
  >筆綾丸さん
>「債権の法」と「債務の法」

『日本中世債務史の研究』の「序章 日本中世債務史の研究の提起」に、「本書の刊行をすすめてくれたのは、東京大学出版会の高木宏氏であった。二〇〇二年秋、早島大祐氏の日本史研究会大会報告に際して桜井氏と私がコメントをしたときであった」とあるので、早島氏は井原今朝男氏と特別な縁がある人のようですね。

「おかげで債務史という研究分野が産声をあげることができた」(by 井原今朝男氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8732

ご指摘のように早島氏の「債権の法」と「債務の法」という表現は奇妙ですね。
おそらく早島氏は井原今朝男氏の表現を承継しているのでしょうが、井原氏は「債務」のような法律学の基礎概念に、非常に特殊な、余人にはなかなか理解しがたい独自の定義付けをしている方なので、井原ワールドの中ではそれなりの一貫性があるのかもしれません。
井原氏は『歴史評論』773号(2014年9月号)の「総論─債務史研究の課題と展望─」において、慶応大学教授・大屋雄裕氏の批判について、

-------
『中世の借金事情』『ニッポン借金事情』については、大屋雄裕氏の個人WEBサイトで「買ったり読んだりする価値のまったくない本と批判された」(「ウィキペディア」フリー百科事典)とみえる。法学者の神経を刺激したことに驚かされたが、感情的な批判も研究者の依拠する価値観のズレを示すものであろう。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8734

と言われていますが、大屋氏の見解が「法学者」を代表するものなのか否かを確認するために、法律に詳しくて井原氏と「価値観のズレ」が少なそうな人たちと学際的研究をやってみたらどうですかね。
例えば『歴史評論』の発行主体である歴史科学協議会とルーツを同じくする民科法律部会と一緒に「債務史」をテーマとする合同シンポジウムを開催するなどしてはどうか。
まあ、準備段階である程度の見通しがはっきりして、実現に至らずに立ち消えになる可能性が高いような感じもしますが。

「松尾尊兌氏に聞く」(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7813
民主主義科学者協会(略称、「民科」)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7814
水島朝穂氏と「民主主義科学者協会法律部会」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8516

>明後日から、しばらく旅に出ます。

お気をつけて。
北朝鮮はやめてくださいね。
 

「債権の法」と「債務の法」?

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 8月28日(火)12時15分28秒
編集済
  http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000313011
早島大祐氏の『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』を半分ほど読みました。とても面白い本ですが、ちょっと気になる箇所があります。

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・・・近年、井原今朝男氏が明らかにしたように、中世社会では、じつは借りたお金は返さなければならないという法が存在すると同時に、利子を元本相当分支払っていれば、借りたお金は返さくともよいという法も条件付きながら併存していた。(71頁)
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とあって、出典は『日本中世債務史の研究』(2011)なので、大丈夫かな、と思いながら読んでゆくと、次のような記述が出てきます。

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 借りた金は返さなければならないという債権の法と、借りた金は返さなくともよいという債務の法との拮抗の上に、中世の金融と社会が構築されていたことは先に述べた通りである。この点を踏まえると、徳政一揆の蜂起という突発的に起きたように見える事態の前提には、それ以前に、債権の法のほうが優勢になるという特殊な状況が生まれていた、そう考えられるのではないだろうか。シーソー・ゲームのように、その反動が債務の破棄を求める一揆というかたちで噴出した、という見立てである。
 だとすれば、その行きすぎた債権の法の優越とは、一体、どのようにして生じたのだろうか。この点を、債権の法を体現する存在である金融業者の実態から見ておこう。(94頁)
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http://www.moj.go.jp/MINJI/minji06_001070000.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%85%B8_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84)
「債権の法」と「債務の法」が、まるで別個に存在するような表現ですが、貸借契約をすれば債権と債務が同時に発生するのは自明のことで、ここで問題は、債権者と債務者との社会的な力関係なのであって、「債権の法」と「債務の法」の優劣ではないはずです。そもそも、「債権の法」とか、「債務の法」とか、聞き慣れない表現で、井原今朝男氏の変な影響を受けていなければいいが、と思いました。


追記
http://kensatsugawa-movie.jp/
面白い映画でした。検察制度に通じた法律の専門家からすれば、いろいろな欠陥はあるのでしょうが。
副題の英語「 Killing for the prosecution 」は、映画を見終わって、意味がわかりました。

明後日から、しばらく旅に出ます。
 

『ペンギン・ハイウェイ』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 8月26日(日)11時10分54秒
編集済
  ずいぶん間が空いてしまいましたが、そろそろ再開します。
先日、原作・森見登美彦、監督・石田祐康の『ペンギン・ハイウェイ』を観ましたが、これは良いアニメ映画でした。
宇多田ヒカルの主題歌「Good Night」も良いですね。

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ああ 愉しげに うっふっふっ 埃が舞う
ああ 久しぶりに うっふっふっ 開いたアルバム
Hello 君が 見ていた 世界
謎解きは 終わらない

ぐううぅうぅふーうー ばーい ぐっばーい
ぐううぅうぅふーうー ばーい ぐっばーい
ぐううぅうぅふーうー ばーい ぐっばーい
ぐううぅふーうーう ばーい ぐっばーい
ぐううぅふーふーふーう ばーい ぐっばーい
ぐううぅふぅうーう ばーい ぐっばーい

https://www.youtube.com/watch?v=tVhy2LnbL1A

私は殆ど小説を読まない人間ですが、映画のストーリーに少し疑問があったので原作小説も読んでみました。
映画のストーリーは原作にかなり忠実に進み、セリフには原作の表現が随所に鏤められていましたが、最後の方は映画独自の展開になっていて、それは決して悪くないというか、映像でなければ作れない優れた世界でしたね。
私も少し浮世離れしたところがあるので、『ペンギン・ハイウェイ』の封切りまでは森見登美彦の作品を読んだことがないどころか、この有名小説家の存在自体を知らなかったのですが、『【新釈】走れメロス 他四篇』・『夜は短し歩けよ乙女』と読んでみて、たいした才能だなと思いました。
ついでに出世作だという『太陽の塔』も読んでみたのですが、これはちょっと読後感が苦かったですね。

森見登美彦(1979生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E8%A6%8B%E7%99%BB%E7%BE%8E%E5%BD%A6
 

「公定力」盛衰記

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 8月14日(火)11時15分26秒
編集済
  前回投稿で「「公定力」は行政法の基礎中の基礎」と書きましたが、最近の教科書での扱いは、私などが勉強していたころとはずいぶん違っているようですね。
『「法の番人」内閣法制局の矜持─解釈改憲が許されない理由』(大月書店、2014)への疑問から、二年前に某大学図書館で行政法の教科書を読み比べてみたとき、東京大学教授・宇賀克也氏の『行政法概説Ⅰ【第3版】』(有斐閣、2009)の目次には「公定力」がなく、索引にも「公定力」が存在しないことに驚きました。
ただ、同書の本文を読むと、一箇所だけ「公定力」という表現が出てきます。(p314)

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第5部 第19章 行政行為
5 行政行為と取消訴訟の排他的管轄
(1)意義

 行政行為に瑕疵があり違法であるとして争う場合、行政事件訴訟法は、原則として、もっぱら取消訴訟のルートで争うべきとしている。これを取消訴訟の排他的管轄(「取消制度の排他性」)という。その結果、行政行為は、権限ある行政庁が職権で取り消すか、行政行為によって自己の権利利益を害された者が取消訴訟を提起して取り消すか、行政上の不服申し立てによって取り消さない限り、有効なものとして取り扱われることになる(このことを、行政行為に公定力があるということもある)。このことの意味をいくつかの具体例で考えることとしよう。
(例1)民間会社に勤務する私人Aが解雇された場合、解雇(雇用契約解除)の取消訴訟を提起するわけではなく、解雇が無効であることを前提として、従業員たる地位の確認を求める訴訟を提起するのが通常である。これに対して、公務員Bが免職処分を受けた場合、当該免職処分に対する取消訴訟を提起してこれを取り消すことなく、直ちに公務員としての地位確認請求をすることは原則としてできない。免職処分は、取消訴訟の排他的管轄に服する行政行為であるからである。したがって、Bはまず、免職処分の取消訴訟を提起して、当該処分の効力を否定しなければならない。【後略】
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ということで、「このことを、行政行為に公定力があるということもある」ですから、「公定力」概念ももはや風前の灯のようですね。
個人的な記憶をたどると、1981年だったか、私が聴講した塩野宏氏の講義では、田中二郎先生は実体法上の効力としての公定力について重厚に論じられておられるけれど、これは行政事件訴訟法における取消訴訟の排他的管轄の反映ですし、そもそも行政事件訴訟法を作ったのは田中二郎先生ですからねー、みたいな言い方をしていました。
だから宇賀克也氏の説明も特に斬新という訳ではないのですが、ただ、その時点では塩野氏もきちんとした教科書は書かれていなかったですし、公務員試験向けの通俗参考書などには、行政行為には「公定力」という私人の法律行為とは全く異なる特別な効力があるのじゃ、みたいな権威主義的な叙述が目立っていて、独学で行政法を勉強しようとする人にとっては分りにくいポイントだったようですね。
とまあ、こんな風に書くと、まるで私が勉強熱心な学生だったような感じになりますが、別に謙遜でも何でもなく、そんなことは全然ありませんでした。
塩野宏氏は極めて辛辣な冗談を次々に飛ばす名物教授で、そのマシンガントークを漫談でも聞くようなつもりで楽しんでいただけです。

「芦部さんは、荷造りの名手であった」(by 松尾浩也)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7858
塩野宏(1931生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%87%8E%E5%AE%8F

ま、学問的には宇賀氏のような説明が正しいのでしょうが、素人を説得する際には「公定力」のような難しそうな言葉を使って押しまくる方が楽だな、と思ったことがあります。
私もきっと、権威主義的でイヤな奴だな、と思われていたことでせう。

「除名決議について」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6453
 

内閣法制局元長官・阪田雅裕氏と「公定力」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 8月11日(土)22時29分41秒
編集済
  >筆綾丸さん
>救いようのない宗教ですね。
「イスラム国」こそイスラム教の論理を最も正しく理解し、実践している訳ですからねー。

>>いったん施行された法律は、公定力といいますが、裁判所で無効と判断されない限りは合憲、適法なものとして作用し続けます。(山尾志桜里氏『立憲的改憲』55頁)

阪田氏は自由法曹団の川口創弁護士との共著『「法の番人」内閣法制局の矜持─解釈改憲が許されない理由』(大月書店、2014)と同じ誤りを繰り返していますね。

「公定力があるわけですから」(by 阪田雅裕氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8550

私も内閣法制局長官だった人の法律用語の用い方がおかしいというのには勇気が必要だったので、この投稿をするときには十数種類の行政法の教科書を確認してみましたが、「公定力」は行政法の基礎中の基礎であり、自分の理解に間違いはありませんでした。
まあ、どんな人にも思い込みはありますが、阪田氏くらい偉くなってしまうと、周囲は誰も誤りを指摘してくれなくなるのでしょうね。
 

公定力

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 8月11日(土)11時12分50秒
  小太郎さん
イスラム教がほんとに飯山氏の言うようなものだとすると、救いようのない宗教ですね。

『スターリンの葬送狂騒曲』に関するウィキの記事(ロシア側の反応)を読むと、映画製作の関係者が不審な死に遭わなければいいが、と思ってしまいます。
また、日本の共産党系の人たちは、この映画にどんな感想を抱くのでしょうね(たぶん、観ないと思いますが)。


http://www.webchikuma.jp/articles/-/1446
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AE%9A%E5%8A%9B
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坂田 いったん施行された法律は、公定力といいますが、裁判所で無効と判断されない限りは合憲、適法なものとして作用し続けます。(山尾志桜里氏『立憲的改憲』55頁)
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阪田は元内閣法制局長官の阪田雅裕氏ですが、公定力とは、法律一般の効力のことではなく、行政行為の効力のひとつにすぎない概念ですよね。記憶が曖昧で恐縮ですが、小太郎さんが、以前、阪田氏の誤りを指摘されていたような気がするのですが。
 

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