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新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 9日(木)11時10分25秒
  通報 編集済
  続きです。(p56以下)

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第二節 姈子内親王の役割

 では、後宇多後宮に迎えられた姈子内親王は実際にどのような社会的役割を果たしていたのか。
 後宇多と婚姻したとされる永仁二年(一二九四)の翌年から、姈子の行動には、後宇多院との同車での御幸や、亀山院主催の仏事への布施を沙汰する等(19)、大覚寺統内での中心的人物としてのものが確認される。そして『続史愚抄』永仁六年(一二九八)七月三日条に、

  法皇<本院>幸万里小路殿<新院御所、抑新院此御所後初度云、是依遊義門院御事、有御隔意故歟>

とあり、後深草院が姈子のいる後宇多院御所を訪問(この時、東二条院も同行)することで、ようやく略奪婚についての和解成立とみなされている記事がある(20)。確かに、この永仁二~永仁六年の期間内において、姈子と実家・持明院統側の交流は管見の限り確認できない。そしてこの対面以降は活発な交流が見られるのである。例えば同年八月の伏見院の御幸始を母・東二条院と同車で見物している(21)。この時、別の車には後深草・亀山・後宇多の三後院が同車していた。後伏見天皇が践祚し、持明院統の治世が続くとはいえ、五日後には邦治(後二条)立太子を控えている。七月三日の対面はこうした一連の両統融和の出発点であり、邦治の立太子が実現したのもおそらくはその即時時に姈子が国母の扱いを受ける前提だからこそ持明院統も了承できたと思われる。持明院統と大覚寺統の間は、後宇多・姈子の婚姻を媒介に比較的良好だったと言えよう。更に三ヵ月後の後伏見天皇大嘗会後の祝宴には、姈子が後深草院・東二条院・伏見院・永福門院らと同席している等(22)、実家である持明院統と円滑な関係を保っていたと思われる。

(19) 注(16)、『実躬卿記』永仁三年閏二月七日条。
(20)『続史愚抄』の典拠『継塵記』には、「今夜御幸万里小路殿<遷御之後初度御幸也>」とだけある。
(21)『公衡公記』「伏見院御幸始記」永仁六年八月五日条。
(22)『公衡公記』「即位大嘗会等記」永仁六年十一月六日条。
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「略奪」された遊義門院が直ぐに後宇多院と仲良く暮らし始め、「実家である持明院統」との間では関係修復に四年もの歳月を要したということは、「略奪」には遊義門院の同意があったこと、また、「この婚姻について、両統あるいは西園寺氏の暗黙の了解があった可能性」(p56)は皆無であったことを示していますね。
そもそも「略奪」の実態は、遊義門院の自発的な家出を後宇多院が支援した、ということであろうと思います。
後宇多院と遊義門院は知己を介して事前に綿密な連絡を取り、例えば何かの行事などの機会に常盤井殿に寄った公卿・某の牛車に遊義門院が密かに乗り込み、後宇多院の待つ冷泉万里小路殿に移った、暫くして常盤井殿では遊義門院が行方不明とのことで大騒ぎとなっていたところ、後宇多院はしかるべき使者を派遣して事情を説明し、遊義門院は常盤井殿には戻りたくないと仰っておられるので、暫く冷泉万里小路殿に御滞在になります、みたいな口上を言わせたのではなかろうか、というのが私の想像です。
『増鏡』の、

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 皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へる事かぎりなし。

http://web.archive.org/web/20150918073142/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-fushimitenno-joui.htm

という表現も、「とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて」ですから、別に「略奪」を示唆している訳ではなく、「ぬすみ」云々との表現をあまりに生真面目に受け止めて「略奪婚」だなどと騒ぎ立てる読者が出て来るというのは『増鏡』作者にとっても想定外であったと思われます。
私はこの場面より、むしろ「北山准后九十賀」の、

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 姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という記述に刺激されて、旧サイトでは、弘安八年(1285)の時点で後宇多と姈子は関係を持っており、邦治(後二条)は実は姈子の子なのではないか、などと妄想を膨らませていました。

http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm

しかし、『増鏡』の「北山准后九十賀」の記述は一連の出来事が後宇多の片思いに始まったことを示唆するだけですね。
姈子が後宇多にどのような感情を抱いていたかを示す史料は残されていませんが、後深草院一周忌の願文に「准陰麗之跡」云々とあるのを見ると、後宇多が自分を熱烈に慕ってくれたのは悪い気はしなかった、程度のような感じもします。
後宇多は弘安八年(1285)三月以来ロミオであったけれども姈子はジュリエットではなかった、同年八月に姈子が「尊称皇后」となったのは周囲の大人の事情によるもので姈子はそれを受け入れただけだった、しかし永仁二年(1294)に姈子が後宇多の許に移ったのは姈子自身の自発的意思によるもので、しかしそれは姈子の後宇多に対する愛情に基づいた行為ではなかった、というのが現時点での私の仮説なのですが、最後の点については別途説明が必要なので、次の投稿で書きます。
 
 
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