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遊義門院再考

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 4月26日(金)10時43分23秒
  通報 編集済
  姈子内親王(遊義門院)は「北山准后九十賀」が開催されたのと同年の弘安八年(1285)八月に十六歳で後宇多天皇の皇后となりますが、これは「尊称皇后」の一例で、この時点での婚姻関係はありません。
皇后であれば「御給」の主体となるのに何の不思議もありませんが、『宗冬卿記』によれば、「北山准后九十賀」の時点では単なる「姫宮」に過ぎない姈子内親王の「御給」で藤原光能が従五位下となっています。
非常に不思議なのですが、姈子内親王は「北山准后九十賀」の時点で既に特別な存在であり、そしてそれが宮廷社会において周知であったと考えざるを得ません。
この姈子内親王について、暫く検討してみたいと思います。

「勧賞」に関する記述の正確さとその偏り
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9867

そこで、最初に姈子内親王に関する基礎知識を確認しておきたいので、伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』所収、小学館、2002)から少し引用します。(144以下)

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四 二つの王家に愛された皇女─姈子内親王

 二つの皇統が相並ぶことになった両統迭立は、皇女たちの生涯にもさまざまな影を落とした。持明院統の後深草院の皇女として生れながら、大覚寺統である後宇多院の妃になるという数奇な運命をたどった姈子内親王は、まさに両統迭立のはざまにその生涯を送った皇女である。
 姈子内親王は、一二七〇年(文永七)九月一八日、後深草院御所の冷泉富小路殿で誕生した。母は東二条院藤原公子。後深草院の最初の妃であり、院がもっとも尊重していた妃である。その東二条院を母にもつ彼女は誕生の翌年にはやくも親王宣下を受け、養君として廷臣の家へ預けられる皇子女が少なくないなかで、院の御所に母とともに住まい、父母の手もとで成長した。
 後見が弱いゆえに日影の身として育てられたり、院や廷臣たちの漁色の対象となったりした皇女たちに比べれば、姈子はしあわせな少女時代をおくった皇女といえるかもしれない。
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いったんここで切ります。
遊義門院の誕生の場面は『とはずがたり』に詳しく描かれるとともに、『増鏡』にも詳細な記事があります。
『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは大宮院が生んだ後深草院と、大宮院の妹である東二条院が生んだ遊義門院の父娘二人だけです。

「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9324
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9325

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 そして姈子内親王が一六歳だった一二八五年(弘安八)八月、彼女は皇后となった。未婚の皇女のままの立后である。天皇と婚姻関係にない皇女が立后されるときの根拠は、ほとんどの場合は現天皇の「准母」であるが、彼女の場合、今上・後宇多天皇の准母として立后されたとは考えにくい。
 なぜなら、准母立后は、原則的に天皇即位にともなって、あるいは即位後二、三年のうちにおこなわれるのに対して、後宇多天皇は即位してすでに一二年めであった。また、准母とされるのはオバ・姉など天皇にもっとも近い尊属女性であるのに対して、姈子内親王は後宇多のイトコで、それも三歳年少なのである。もっとも、単に天皇の近親にあたる皇女を優遇する意味でも皇女が后に立てられることもあった。しかし、後深草院の娘である姈子は後宇多天皇にとっては近親どころか対立統の皇女であり、これにもあたるまい。
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