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三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月12日(水)11時31分52秒
  通報 編集済
  「尊称皇后」とか「准母」とか「不婚内親王立后」とか、本当に分かりにくい話なので、去年、三好論文を検討した際には岩佐美代子氏の『内親王ものがたり』(岩波書店、2003)の「序章」を少し引用させてもらいました。
基礎知識はこちらで確認していただければ、と思います。

尊称皇后・女院・准三宮について(岩佐美代子氏『内親王ものがたり』)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9881

ということで、三好論文の続きです。
「後深草院一周忌に際して作られた姈子の願文」は省略して、問題の所在の部分です。

-------
 姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である。それまでの不婚内親王立后は、治天の君の娘もしくは姉妹というごく近親から選ばれていた。しかし、姈子は治天の君・亀山の姪であり、天皇・後宇多とは従兄妹である。これは不婚内親王立后全十一事例を通して姈子のみのことであり、立后をめぐる原則が全くあてはまらない、異例の立后である。その事情を明確に物語る史料は無い。のちに彼女が後宇多の妃となったことから、後宇多後宮としての立后と誤解されることがあるが、天皇時代の後宇多と皇后・姈子は断絶状態であり、『続史愚抄』が「于時非今上妃」と注釈するとおり、不婚内親王立后であったことは明白である。また、『女院小伝』に「後二条准母」とあることから後二条准母立后とされることもあるが、姈子立后当時の後二条は生まれたばかりで親王宣下もされておらず、これも立后そのものとは無縁である。彼女が後二条准母と称されたのは、のちに後二条の父・後宇多の正妻となったからで、継母の立場から後宇多嫡子の母に準えられたものと思われる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9878

この後、三好氏は橋本芳和氏の「遊義門院姈子内親王の一考察」(『政治経済史学』283号、1989)という「姈子内親王の専論としては唯一の先行研究」(p49)に言及し、批判されるのですが、橋本説には史料的根拠が皆無で、学説の体をなしていません。
そして三好氏は、「本命である皇位継承の攻防戦」の「前哨戦」が姈子の立后であり、

-------
「天皇「家」のうち、天皇位は大覚寺統、后位は持明院統で折半する構図がここで現出している。本来は一対で王権を構成するはずの地位を、「二つの天皇家」が分割・保持することで、本命である皇位継承の攻防戦にとりあえずの折合いをつけた結果の姈子立后だったのではないだろうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9879

などと言われるのですが、「天皇位」と「后位」が「本来は一対で王権を構成するはずの地位」だ、などという理論が何の説明もなく唐突に登場してきて、ちょっと理解に苦しみます。
更に三好氏は姈子内親王が「東宮・煕仁とともに次期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔」だ、などと言われるのですが、治天の君である亀山院としては、そんな楔を打ち込まれるのは迷惑ですから断ればよいだけの話で、三好説が合理的な説明になっているとは思えません。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9880

さて、「第二節 皇后留任」に入って、三好氏は「姈子の立后例で、もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたことである」と言われますが、まあ、これは「尊称皇后」ですから、特に問題とも思えません。
しかし、三好氏が述べられているように、

-------
伏見が践祚すると、後深草と東二条院は居住していた富小路殿を新帝・伏見に譲り渡して常盤位殿へ転居するが、姈子だけは留まり続け、自分の居間を伏見に譲り、同じ邸内の「角御所」に居を移して同宿するのである。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9882

という事実は興味深いですね。
ただ、正応三年(1290)、あぶれ者の武士が内裏に乱入して伏見天皇殺害を狙った大事件(浅原事件)が発生した翌正応四年、「姈子は遊義門院号宣下を受けて皇后位を引退し、内裏を出て再び父母と同居するように」なります。
この経緯に関連して、三好氏は、

-------
 不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し、その本来の性格を踏まえて姈子の場合、「二つの天皇家」のバランスとなることを期待されて立后した。そして、持明院統に天皇位と治天の君の二つの王権が揃った時、「異例の皇后」から従来の性格に変化を遂げているのである。これが彼女の立后例における最大の特徴であり、これこそが両統迭立というこの時期の天皇家の複雑性を反映したものといえる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9886

などと言われるのですが、院政を「院と天皇の二元王権」と捉えるのはかなり特殊な理解で、賛成する研究者は殆どいないのではないかと思います。
 
 
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