teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


スレッド一覧

  1. ぽろりっ(1)
  2. ぽろりっ(0)
  3. 返信ありがとう(0)
  4. 返信ありがとう(0)
  5. ぽろりっ(0)
  6. 返信ありがとう(0)
  7. ぽろりっ(0)
  8. 全力全開(0)
スレッド一覧(全8)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成

新着順:61/6422 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 1日(土)13時40分25秒
  通報 編集済
  ちょっと脱線します。
「元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実」については、小川剛生氏自身が「九 鎌倉後期体制の終焉」でそれなりに詳しく解説され、私も前回投稿でごく簡単に説明しましたが、この三人の中で一番分かりにくいのは後醍醐皇子、恒良親王同母弟の成良親王ですね。
鎌倉幕府は両統迭立の原則に固執したので、後醍醐天皇が元弘の変に敗れた後、元弘元年(1331)に即位した光厳天皇の皇太子に大覚寺統の本流、木寺宮・康仁親王(後二条天皇孫、邦良親王男、1320-55)が立てられたことは理解できます。
また、隠岐から戻った後醍醐天皇が阿野廉子所生の恒良親王(1324-38)を皇太子としたことも当然といえば当然です。
しかし、光明天皇(北朝第二代、1322~80)を擁立した足利尊氏が、持明院統の皇子ではなく後醍醐皇子、しかも恒良親王と同じく阿野廉子を母とする成良親王(1326~44)を皇太子としたのは何故なのか。
この点、亀田俊和氏の『南朝の真実─忠臣という幻想』(吉川弘文館、2014)に分かりやすい説明があったので、少し引用させてもらいます。

-------
皇統が二つにわかれた南北朝時代。皇位・政策・主導権などをめぐって、観応の擾乱をはじめとする内乱が頻発した。後醍醐天皇・護良親王・足利尊氏・楠木正成・北畠親房ら、思惑をもって複雑に絡み合う人物相関から争乱を詳述。北朝にくらべ南朝は忠臣ぞろいだったというイメージがいまなおのこるが、それは真実なのか。南北朝史を新視点で描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b176614.html

『南朝の真実』は、

-------
忠烈・義烈の南朝忠臣という幻想─プロローグ
建武政権の内紛 政治路線をめぐる抗争
南北朝初期における内紛 第三王朝樹立運動
観応の擾乱以降における内紛 講話か、徹底抗戦か?
教訓 南朝の内紛が教えてくれるもの
歴史から学ぶとは?─プロローグ
-------

と構成されていて、成良親王は「南北朝初期における内紛」の最初の節「幻の北陸王朝の夢─後醍醐天皇 対 「天皇」恒良・新田義貞」に出てきます。(p79以下)

-------
親足利の後醍醐皇子成良親王

 光明の皇太子は後醍醐天皇皇子成良親王とされた。成良親王とは、建武政権期に足利直義に奉じられて関東へ下向し、鎌倉将軍府の名目上の首長を務めた皇子である。この経歴からわかるとおり足利氏と関係が深く、「本ヨリ尊氏養ヒ進セタリケ」る、すなわち尊氏が養育した親王と言われるほどであった(『保暦間記』)
 かの中先代の乱に際しても、直義は護良親王を殺害したが、成良については安全確保のために京都に送還している。もっとも、後で足利氏謀反をやりやすくするために直義が張った伏線とこれは解釈できなくもない。現に佐藤進一氏は、これを足利政権樹立の意思表示と考えている。が、少なくとも直義が成良の生命を保障した事実に変わりはない。
 ともかく、鎌倉幕府と同様、室町幕府もこの時点では両統迭立の履行を約束したのである。ただし、後述するように翌月の後醍醐による南朝政権の樹立によって、皇太子成良もすぐに廃されたのであるが。
 従来、この成良立太子はごく短期間で終わったこともあり、さほど重視されなかったようである。しかし、インターネットで以下に述べることと同様のことが論じられていたのを読んだことがあり、そのとき筆者はまさに目から鱗が落ちる思いだったのであるが、考えてみればこれは後醍醐にとって相当有利な条件である。
 この条件を守る限り、今後皇位の半分は後醍醐の子孫が占めることとなったのである。もともと鎌倉後期には大覚寺統の中でも傍流であった後醍醐系統は皇位から排除される運命にあったわけだから、それと比べればこれは大前進である。また成良は、寵愛する阿野廉子が産んだ皇子で、その点でも後醍醐の意志に合致している。
 しかも成良が即位すれば、後醍醐が上皇として院政を開始し治天の君として復権できる可能性も十分に残されていた。幕府はもとより摂政・関白さえも置かなかった建武政権時代の天皇独裁状況に比べれば確かに後退ではある。しかし、一度干戈を交えて降した敵に対する措置としては、大温情の厚遇で決して悪い話ではない。少なくとも、同じ後醍醐を隠岐に流した鎌倉幕府の扱いに比べれば、はるかにめぐまれていたことは確かである。加えて成良は新足利の皇子なので、尊氏がこの約束を守る可能性は少なくともこの時点ではかなり高かったと見るべきであろう。
 この成良立太子もまた、尊氏が建武政権を完全否定せず、それどころか理念的にも政策的にもその後継者を自認していたとする筆者の説を補強する材料に加えてもよいと考える。
-------

ということで、「尊氏が建武政権を完全否定せず、それどころか理念的にも政策的にもその後継者を自認していたとする筆者の説」はかつて通説だった佐藤進一説に真っ向から対立しますが、私は『南朝の真実』や『観応の擾乱』(中公新書、2017)等の亀田氏の諸著作を読んで、亀田氏の見解が正しいと思っています。
 
 
》記事一覧表示

新着順:61/6422 《前のページ | 次のページ》
/6422