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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その15)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月21日(火)10時29分5秒
  通報 編集済
  1904年7月17日の「公会」ではニコライが正教会の統計資料を読み上げているので、参考までにその記述を引用しておきます。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p98以下)

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一九〇四年七月五日(一八日)、月曜。

 八時から十字架教会において公会。全部で二〇名の司祭とわたしが参加した。他の司祭たちはさまざまな理由で公会に来ることはできなかった。
「景況表(統計資料)」はすでに司祭たちによって「内会」で検討されていたので、わたしはすぐに全体の統計だけを読み上げた。一年間の受洗者数の総計七二〇名、死者二八九名、よって現在の信徒に加わる増加分は四三一名。ということは現在の日本の信徒総数は二万八三九七名。これまでの教役者数は一八〇名であった。いまこれに、神学校卒業者四名、伝教学校卒業者一〇名が加わった。したがって現在の総数は一九四名。これだけでも神に感謝だ!【後略】
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1895年の三国干渉でロシアに対する国民の悪感情が顕在化して以降、日露戦争に至るまで、正教会にはなかなか厳しい状況が続いていたはずですが、開戦後も信徒が微増しているのはちょっと驚きです。
正教会の信徒数はこのあたりがピークだったようですね。
さて、『宣教師ニコライと明治日本』に戻って、(その10)で引用した部分の続きです。(p229以下)

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その10)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10126

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 内村鑑三はニコライ師は「新教の宣教師の如く文明を利用することなく、赤裸々に最も露骨に基督を伝えた」と言ったが、たしかに、ニコライがもたらしたキリスト教は、西洋文明に寄りかかっていない宗教だった。ニコライの場合は、内村の流れの、明治以降の日本の「中産知識層」の個人的倫理主義としてのキリスト教とも異質な、生々しい宗教だった。奇蹟を約束し、歴史の終わりを告げ、あの世での死者との再会を約束し、イコンに接吻して聖歌に歓喜しかつ涙する宗教であった。
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これは一応もっともな説明ですが、ロシア正教を受容した側からすれば、やはり多くの人が正教も「西洋文明に寄りかかって」いるものと考えたのではないかと思います。
キリスト教を受容した人は、カトリック・プロテスタント、そして正教を全部合計したとしても、日本の全人口比から見れば圧倒的に少数派で、基本的には「西洋文明」への好奇心に満ち溢れた人々ですね。
そして、複数の選択肢の中から自分の必要とする宗派を選択した人よりは、たまたま最初に出会った宗派のキリスト教に入信した人が多く、また、正教からプロテスタントへ、といったキリスト教内部での移動もかなりあります。
もちろん、中村氏も正教に近づいた人と他の宗派のキリスト教に近づいた人との類似性には気づかれていて、次のように続けます。

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明治の日本人とキリスト教

 ドストエフスキーも言うように、プロテスタンチズムは宗教でありながら宗教的感性を非合理として批判する諸刃の剣であって、宗教として本質的な矛盾をはらんでいるのかもしれない。しかし、この「本当のキリスト教」であるロシア正教は、ニコライによって日本にもたらされて仙台藩士たちに伝えられた当初から、日本という地盤のゆえの布教上の困難と矛盾をかかえることになった。文明開化へ向かおう、必死に近代化の波に乗ろうとしている日本へ、豊かな前近代性をたたえた「本当の」宗教がやってきたのである。受け入れた日本人たちもいわばこの矛盾の創造に加担した。初期の正教徒となった仙台の人たちの入信の動機は、沢辺において見られたものと重なっている。
 「国家の事に当らんと欲せば、文明の知識なからざるべからずを以て、外国人と交り、其学問を修め、これによりて一事業を挙げ、名をなさざるべからず。……仙台藩の志士は一度函館に於ける宣教師の事を聞き、又人心の統一は真性の宗教に依らざるべからずとの沢辺の論を聴くや、彼らの理想は忽ちに此一事に向かつて進みたり」(『日本正教伝道誌』)
 函館での暗中模索の学習に見られるように、仙台藩士たちの正教受容の仕方は沢辺を先達とする半ば自力の教義学習であって、プロテスタントの、多数の外国人宣教師による宣教とは大分違っていた。西洋文明を宣教に利用する点でもニコライは最初から不利な立場にあった。
 しかし、そうではあったが、ニコライに近づいて「福音伝道の前駆」となったかれら仙台の士族の根にあった動機は、プロテスタントに向かった日本人のそれと基本的に同じであったと考えられる。それは儀礼や神秘に惹かれる宗教的感性ではなく、あるいは苦しむ者が救われようとして綱にすがる依頼の願望でもなく、「国家の事」「人心の統一」を思う武士の志であり、「一事業を挙げ、名をなさざるべからず」という実践的な向上の精神であった。
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いったん、ここで切ります。
 
 
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