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再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月21日(金)11時11分7秒
  明日からまた投稿する、みたいなことを言っておきながら早くも一日空けてしまいましたが、再開します。
ここ暫く、三浦龍昭氏の論文「新室町院珣子内親王の立后と出産」を投稿のタイトルに借用していましたが、実際にやっていたのは遊義門院に関する伴瀬明美氏と三好千春氏の論文の復習でした。
大正大学文学部准教授の三浦龍昭氏は主著が『征西将軍府の研究』(青史出版、2009)であるように武家社会が専門で、また、学部・大学院とも大正大学ですから仏教関係にも強い方ですね。

https://www.acoffice.jp/tsuhp/KgApp?kyoinId=ymdkgysyggy

そして三浦論文は第二章「出産をめぐる祈祷─「御産御祈目録」と「中宮御産御祈日記」」に独自性が発揮されていて、東二条院・京極院・新陽明門院・昭訓門院・広義門院・礼成門院(後京極院)・新室町院・宣政門院の各出産時における祈祷の回数、修法名とランク(大法・准大法・秘法・常御修法等・護摩法・供)、新室町院出産時の修法名・勤修僧・沙汰人の詳細な分析は圧巻です。
これにより新室町院珣子内親王が後醍醐にとってどのような意味を持った存在だったのかが解明されており、また、三浦氏は直接には言及されていませんが、網野善彦氏の「異形の王権」論を基礎づけた百瀬今朝雄氏の論文「元徳元年の「中宮御懐妊」の問題点、即ち同種事例との比較考察の欠如をも明らかにしているように思われます。

内田啓一氏の功績
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9498

このように三浦論文の第二章は重要なのですが、第一章「珣子内親王立后とその背景」はあまりに安易に伴瀬・三好論文に依拠しているように思われます。
三浦氏は珣子内親王立后の「問題を考える上で参考となりそうなのが遊義門院姈子の事例である」とされますが、伴瀬・三浦論文を改めて検討してみた結果として、遊義門院の問題は珣子内親王の問題より遥かに複雑で、解釈が難しいことが明らかになったと思います。
私自身は去年の5月9日の投稿「新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった」で、

-------
後宇多は弘安八年(1285)三月以来ロミオであったけれども姈子はジュリエットではなかった、同年八月に姈子が「尊称皇后」となったのは周囲の大人の事情によるもので姈子はそれを受け入れただけだった、しかし永仁二年(1294)に姈子が後宇多の許に移ったのは姈子自身の自発的意思によるもので、しかしそれは姈子の後宇多に対する愛情に基づいた行為ではなかった、

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9893

という一応の結論を出しておいたのですが、今回、再度検討してみた結果、遊義門院と後宇多院の問題を両者間の愛情に関係づけること自体が誤りではないか、と考えるようになりました。
二人の愛情の問題とすることは、『増鏡』の、

-------
 皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へる事かぎりなし。

http://web.archive.org/web/20150918073142/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-fushimitenno-joui.htm

という表現と、

-------
 姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という表現によって誘導された、いわば『増鏡』作者の掌の上に踊らされて生じた妄想だったのかもしれない、という反省に基づき、『増鏡』から離れて、二人の関係を再検討したいと思います。
 
 

ミュージカル劇団アラムニー『レ・ミゼラブル』のことなど。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月19日(水)21時41分18秒
編集済
  少し投稿を休んでしまいましたが、明日からまた、一日一投稿くらいのペースで投稿するつもりです。

先週の土日はミュージカル劇団アラムニーの前橋公演があって、『レ・ミゼラブル』を観てきました。
アラムニーは群馬県内の女子高校を卒業した大学生を中心とする劇団で、今年の団員は21人です。
多彩な登場人物が複雑に絡み合う壮大なミュージカル『レ・ミゼラブル』を僅か21名で演ずるのは殆ど無謀としか思えないような試みですが、個々の団員はジャン・バルジャン、ジャベール、ファンティーヌ、コゼット、アンジョルラス、マリウス、エポニーヌといった役を演じつつ、無名の役やバック・ダンサーなどを頻繁にこなして行き、それが二幕で合計三時間半近く続きます。
その精神力と体力は大変なものですが、若さと日々の鍛錬の賜物ですね。
アラムニーには練習風景などを綴るブログもあり、こちらも表現力が豊かで面白いです。
私も昔、蜷川幸雄の舞台を観に行ったりして、演劇の世界に多少興味はあるので、ときどきブログのコメント欄に素人っぽい質問を書き込んだりしているのですが、いつも丁寧に答えてもらえて有り難いです。
3月7日(土)・8日(日)に安中公演、3月21日(土)・22日(日)に藤岡公演があるので、ミュージカルに興味のある方は是非。
入場無料・事前チケット不要ですが、良い席を取るためには当日午前11時から始まる座席選択の受付に早めに行く必要があります。
前橋公演は二日とも満席でした。

ミュージカル劇団アラムニー
http://alumnae.ciao.jp/
Alumnae Diary
https://ameblo.jp/alumnae-musical
ツイッター
https://twitter.com/alumnae_musical
 

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その7)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月14日(金)11時41分25秒
編集済
  三好千春氏の博士論文は「中世前期における不婚内親王と女院・皇后・准母の研究」(2013)だそうで、師匠は京都橘大学の細川涼一氏みたいですね。

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I025483360-00

私には三好氏の議論は基礎的な部分が弱いように思われますし、また、姈子立后を持明院統が大覚寺統に打ち込んだ「楔」であり、伏見践祚の「前哨戦」だ、などと殺伐とした闘争のイメージで捉える三好氏の基本的発想が理解できません。
「尊称皇后」とはいえ立后は結婚ですから、私は対立よりも宥和を目指したものと捉えるのが自然だと考えます。
そして、姈子立后は後深草院と亀山院の宥和を図っている点で「北山准后九十賀」と共通しており、「北山准后九十賀」を主宰したのが後深草・亀山兄弟の母である大宮院なので、姈子立后も大宮院が主導したのではなかろうか、と考えています。
当時の治天の君である亀山院は剛毅な性格で、亀山院に命令したり指導したりできるのは鎌倉幕府くらいですが、しかし、そんな亀山院にとっても唯一頭の上がらない存在と想像されるのが母親の大宮院ですね。

「北山准后九十賀」と姈子内親王立后の連続性
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9887

さて、三好論文の続きをもう少し見ておくと、

-------
第二章 後宇多後宮における姈子内親王の位置
 第一節 姈子内親王の婚姻

 前述したように姈子の願文は、彼女の半生における重大事が列挙されているが、その中でも立后に並んで重要なのが、遊義門院号宣下後に後宇多後宮となる点である。女院となった後に婚姻する事例は、姈子が史上ほぼ唯一と考えられる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9888

ということで、三好氏の用語には若干の混乱があるように思われますが、要は弘安九年(1285)八月の姈子立后、正応四年(1291)の女院号宣下を経て、永仁二年(1294)六月末頃から遊義門院が後宇多院と同居するようになったのは何故か、という問題ですね。

-------
 この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である。『増鏡』には、弘安八年(一二八五)二月の北山准后・四条貞子(西園寺実氏室、後宇多と姈子にとって外曾祖母)九十賀の席上において、「姫宮、(中略)おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ」と姫宮・姈子に注がれる内の上・後宇多の眼差しについて語られ、その後、後宇多が「いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします」と、略奪婚説を伝えている。はたして実際のところ、このようにいかにも物語的な事件が本当に起こったのだろうか。『勘仲記』や『実躬卿記』にはそれらしい記述は見当たらない。婚姻した日付も『女院小伝』は永仁二年(一二九四)六月三十日としているが、『続史愚抄』の同年六月二十八日条に、

 今夜、遊義門院<法皇本院皇女、御同座、御年廿五>不知幸所、 是新院竊被奉渡于御所<冷泉万里小路>云、
 <或作五条院、謬矣、又作三十日、今月小也、無三十日>後為妃、

とある。伴瀬明美氏は「日付がはっきりしない点は、この事件全体の真相が明らかではないことと無関係ではあるまい」とし、森茂暁氏は後醍醐の西園寺禧子略奪が実際に史料上確認できることから、姈子略奪についても事実ではないかとの見解を示している。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9891

「森茂暁氏は後醍醐の西園寺禧子略奪が実際に史料上確認できることから、姈子略奪についても事実ではないかとの見解を示している」とのことですが、当事者の年齢ひとつとっても同視はできません。
永仁二年(1294)に後宇多は二十八歳、遊義門院は二十五歳で、二人とも充分に判断力を備えた大人です。
しかし、後醍醐は数えで十一歳、満年齢なら十歳の子供を「忍びて盗み給」うた訳で、現代であれば未成年者略取誘拐(刑法224条)という立派な犯罪ですし、当時としても相当問題のある行為ですね。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10149

森茂暁氏は史料の読解力はすごいと思いますが、人間関係の洞察については万事に頓珍漢な人ですね。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8095
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8097
 

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月12日(水)11時31分52秒
編集済
  「尊称皇后」とか「准母」とか「不婚内親王立后」とか、本当に分かりにくい話なので、去年、三好論文を検討した際には岩佐美代子氏の『内親王ものがたり』(岩波書店、2003)の「序章」を少し引用させてもらいました。
基礎知識はこちらで確認していただければ、と思います。

尊称皇后・女院・准三宮について(岩佐美代子氏『内親王ものがたり』)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9881

ということで、三好論文の続きです。
「後深草院一周忌に際して作られた姈子の願文」は省略して、問題の所在の部分です。

-------
 姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である。それまでの不婚内親王立后は、治天の君の娘もしくは姉妹というごく近親から選ばれていた。しかし、姈子は治天の君・亀山の姪であり、天皇・後宇多とは従兄妹である。これは不婚内親王立后全十一事例を通して姈子のみのことであり、立后をめぐる原則が全くあてはまらない、異例の立后である。その事情を明確に物語る史料は無い。のちに彼女が後宇多の妃となったことから、後宇多後宮としての立后と誤解されることがあるが、天皇時代の後宇多と皇后・姈子は断絶状態であり、『続史愚抄』が「于時非今上妃」と注釈するとおり、不婚内親王立后であったことは明白である。また、『女院小伝』に「後二条准母」とあることから後二条准母立后とされることもあるが、姈子立后当時の後二条は生まれたばかりで親王宣下もされておらず、これも立后そのものとは無縁である。彼女が後二条准母と称されたのは、のちに後二条の父・後宇多の正妻となったからで、継母の立場から後宇多嫡子の母に準えられたものと思われる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9878

この後、三好氏は橋本芳和氏の「遊義門院姈子内親王の一考察」(『政治経済史学』283号、1989)という「姈子内親王の専論としては唯一の先行研究」(p49)に言及し、批判されるのですが、橋本説には史料的根拠が皆無で、学説の体をなしていません。
そして三好氏は、「本命である皇位継承の攻防戦」の「前哨戦」が姈子の立后であり、

-------
「天皇「家」のうち、天皇位は大覚寺統、后位は持明院統で折半する構図がここで現出している。本来は一対で王権を構成するはずの地位を、「二つの天皇家」が分割・保持することで、本命である皇位継承の攻防戦にとりあえずの折合いをつけた結果の姈子立后だったのではないだろうか。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9879

などと言われるのですが、「天皇位」と「后位」が「本来は一対で王権を構成するはずの地位」だ、などという理論が何の説明もなく唐突に登場してきて、ちょっと理解に苦しみます。
更に三好氏は姈子内親王が「東宮・煕仁とともに次期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔」だ、などと言われるのですが、治天の君である亀山院としては、そんな楔を打ち込まれるのは迷惑ですから断ればよいだけの話で、三好説が合理的な説明になっているとは思えません。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9880

さて、「第二節 皇后留任」に入って、三好氏は「姈子の立后例で、もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたことである」と言われますが、まあ、これは「尊称皇后」ですから、特に問題とも思えません。
しかし、三好氏が述べられているように、

-------
伏見が践祚すると、後深草と東二条院は居住していた富小路殿を新帝・伏見に譲り渡して常盤位殿へ転居するが、姈子だけは留まり続け、自分の居間を伏見に譲り、同じ邸内の「角御所」に居を移して同宿するのである。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9882

という事実は興味深いですね。
ただ、正応三年(1290)、あぶれ者の武士が内裏に乱入して伏見天皇殺害を狙った大事件(浅原事件)が発生した翌正応四年、「姈子は遊義門院号宣下を受けて皇后位を引退し、内裏を出て再び父母と同居するように」なります。
この経緯に関連して、三好氏は、

-------
 不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し、その本来の性格を踏まえて姈子の場合、「二つの天皇家」のバランスとなることを期待されて立后した。そして、持明院統に天皇位と治天の君の二つの王権が揃った時、「異例の皇后」から従来の性格に変化を遂げているのである。これが彼女の立后例における最大の特徴であり、これこそが両統迭立というこの時期の天皇家の複雑性を反映したものといえる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9886

などと言われるのですが、院政を「院と天皇の二元王権」と捉えるのはかなり特殊な理解で、賛成する研究者は殆どいないのではないかと思います。
 

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月11日(火)11時06分38秒
編集済
  伴瀬論文の続きです。(p147以下)

-------
 しかし、もし盗み出したのが事実であったとしたら─そんな乱暴な手段に訴えでもしない限り、後深草院秘蔵の皇女を、対立統の後宇多院が正式に后に迎えることは至難の業であっただろうということは容易に想像される。いずれにせよ、この一件の背景にも、両統間の対立関係の構図を感じとらざるをえない。
 さて、盗み出された姈子内親王が後宇多院に対してどのような気持ちを抱いていたか、それについてははっきりとは分らない。だが、後宇多院の方は姈子に深い愛情を注いだようだ。
 『増鏡』は、「(後宇多院は)譲位なさったのちは、心のおもむくままにたいそう忍び歩きをなさったので、このころは院のご寵愛を争う方々が多くなられたが、やはり遊義門院への御思いの程に比べられるような方はけっしてなかった」と、後宇多院の数多い寵妃のなかで、姈子が特別な存在であったことを描いている。
 一三〇四年(嘉元二)一月二一日、姈子内親王は母の東二条院を失い、その喪も明けぬ七月一六日、今度は父、後深草院までが世を去った。生れたときから後宇多院の妃となるまでずっと父母の膝もとですごしただけに、彼女の哀傷は他の皇子女にまさるものがあったであろう。ねんごろに追善仏事を営む日々のなかでは、わが身の数奇な運命にあらためて思いをいたすこともあったかもしれない。
 『とはずがたり』には、一三〇六年(徳治元)ごろ、石清水八幡宮に御幸してお忍びで摂社・狩尾社に参っていた姈子内親王が、参り会わせた尼姿の二条にそれとは知らず親しく話しかける印象的な場面が描かれている。女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう。
 その翌年の一三〇七年(徳治二)七月二四日、姈子内親王は三八歳で没した。急な病いであったらしい。その二日後の葬送の日、後宇多院は彼女の死をいたんで出家した。
 なにかと謎が多い彼女の履歴には、「二つの天皇家」の確執の歴史が秘められているのかもしれない。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9872
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9873
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9874

伴瀬氏の描く遊義門院像は常に受け身の存在ですが、果たしてそれでよいのか、というのが私の根本的な疑問です。
さて、伴瀬論文で遊義門院の概略が把握できたと思いますので、次に三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)に移ります。
「鎌倉期女院に関する研究自体、女院領の伝領と経営実態に関心が集中し、院政期あるいは摂関期女院のような多様な視点で論じられているとは言い難い」というのが三好氏の基本的な問題意識です。

「その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つもの」(by 三好千春氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9875

本文に入って三好氏は姈子内親王が西園寺家にとっていかに重要な存在であったかを強調されます。
ただ、今出川院の位置付けなど、若干の誤解があるようです。
また、『増鏡』の引用の仕方にも問題がありますね。
本当は、前提として、そもそも『増鏡』がいかなる性格の歴史物語かをきちんと検討する必要がありますが、そこまで三好論文に求めるのは負担が大きすぎるかもしれません。

「亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて」(by 三好千春氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9876
「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」(by 三好千春氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9877
 

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月10日(月)10時01分0秒
編集済
  深津睦夫氏の『光厳天皇』(ミネルヴァ書房、2014)には、前回投稿で引用した部分に続いて次のような記述があります。(p94)

-------
また、道長は末娘の寛子を小一条院の御匣殿とした。それに倣ったのであろう、後醍醐天皇は、この月、後京極院を母とする懽子内親王を光厳院の宮に入れた。後に宣政門院と称される人である。建武二年(一三三五)十一月と同四年十一月に工女を産んでいる。
 光厳院は、翌年(建武元年)正月二十九日には御幸始めを行うなどしており、一応太上天皇としての待遇は受けていたと推測される。
-------

三浦龍昭氏は「光厳への「太上天皇」尊号の授与、懽子内親王の入宮、そして珣子内親王の立后、これらは一連のものであり、すべて持明院統側への懐柔策であったと考えられないだろうか」と言われますが、前二者は確かに後醍醐の「持明院統への懐柔策」だと私も思います。
より正確には、小一条院の先例に倣った、自分がいかに寛大な帝王であるかを公家・武家にアピールするための、持明院統への恩着せがましい演出ですね。
しかし、珣子内親王の立后は性格が異なると私は考えます。
この点を検討する前に、三浦氏は「この問題を考える上で参考となりそうなのが遊義門院姈子の事例である」とされるので、遊義門院について少し考えてみたいと思います。
結論として、私は遊義門院の問題は珣子内親王の問題とは性格が異なり、従って全然参考にはならず、両者は独立独立に考察しなければならないと思っています。
さて、遊義門院とは何者かですが、鎌倉時代の歴史にそれなりに詳しい人でも、『とはずがたり』に関心がある人以外は、そもそも遊義門院の名前すら知らないのではないかと思います。
遊義門院については、去年、『増鏡』巻十「老いのなみ」の「北山准后九十賀」の場面を検討する際に少し纏めてみたのですが、その際に伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』所収、小学館、2002)を引用させてもらいました。
伴瀬論文は問題の所在が明確なので、改めて関連部分を引用します。(p144以下)

-------
四 二つの王家に愛された皇女─姈子内親王

 二つの皇統が相並ぶことになった両統迭立は、皇女たちの生涯にもさまざまな影を落とした。持明院統の後深草院の皇女として生れながら、大覚寺統である後宇多院の妃になるという数奇な運命をたどった姈子内親王は、まさに両統迭立のはざまにその生涯を送った皇女である。
 姈子内親王は、一二七〇年(文永七)九月一八日、後深草院御所の冷泉富小路殿で誕生した。母は東二条院藤原公子。後深草院の最初の妃であり、院がもっとも尊重していた妃である。その東二条院を母にもつ彼女は誕生の翌年にはやくも親王宣下を受け、養君として廷臣の家へ預けられる皇子女が少なくないなかで、院の御所に母とともに住まい、父母の手もとで成長した。
 後見が弱いゆえに日影の身として育てられたり、院や廷臣たちの漁色の対象となったりした皇女たちに比べれば、姈子はしあわせな少女時代をおくった皇女といえるかもしれない。
 そして姈子内親王が一六歳だった一二八五年(弘安八)八月、彼女は皇后となった。未婚の皇女のままの立后である。天皇と婚姻関係にない皇女が立后されるときの根拠は、ほとんどの場合は現天皇の「准母」であるが、彼女の場合、今上・後宇多天皇の准母として立后されたとは考えにくい。
 なぜなら、准母立后は、原則的に天皇即位にともなって、あるいは即位後二、三年のうちにおこなわれるのに対して、後宇多天皇は即位してすでに一二年めであった。また、准母とされるのはオバ・姉など天皇にもっとも近い尊属女性であるのに対して、姈子内親王は後宇多のイトコで、それも三歳年少なのである。もっとも、単に天皇の近親にあたる皇女を優遇する意味でも皇女が后に立てられることもあった。しかし、後深草院の娘である姈子は後宇多天皇にとっては近親どころか対立統の皇女であり、これにもあたるまい。

遊義門院再考
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9870

ということで、当時、結婚の実体を伴わない立后の例としては「准母」という制度があったのですが、遊義門院にこれはあてはまりません。
続きです。(p145以下)

-------
 謎を解くためのかっこうの材料となるべき貴族の日記もこの日の前後は残っておらず、結局のところ、立后の理由といい、なぜこの時期におこなわれたのかという問題といい、諸説はあるが明確な答えを出すのは難しい。
 だが、一つ仮説を立てるとすれば─即位後一〇年以上もたっているという時期、そしてあえて対立統の皇女を皇后にしているということから考えて、大覚寺統の治世が長引くなかで不満をつのらせていたであろう持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)としての意味があったのではなかろうか。
 一二九一年(正応四)八月、姈子内親王は遊義門院という院号を宣下され、女院となった。このころ二〇代の前半であった姈子は、あいかわらず父母のもとで暮らし、ともに寺社参詣などに出かける日々をおくっていたが、そのおだやかな生活に大きな転機が訪れたのは、九四年(永仁二)である。
 『増鏡』は次のように記す。
「皇后宮(姈子)もこの頃は遊義門院と申す。(後深草)法皇の御傍らにおはしましつるを、中院(後宇多院)、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせたまひて、いと忍びがたく思されければ、とかく謀〔たばか〕りて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿(後宇多院御所)におはします。またなく思ひきこえさせ給へること限りなし」
 つまり、何かの機会にほの見た姈子内親王に恋心をつのらせた後宇多院が、彼女を盗み出して自分の御所に連れてきてしまったというのである。
 一二九四年(永仁二)の夏から翌年一月までのあいだに姈子内親王は父母の御所である冷泉富小路殿から後宇多院の御所へ居所を移し、さらに後宇多院と一つ車で外出するようになっており、この時期に姈子が後宇多院の妃になったことはまちがいない。かりにも女院を盗み出すとはおだやかでないが、この一件についても同時代の史料がなく、「盗み出した」ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9871
 

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 8日(土)12時04分35秒
編集済
  飯倉晴武氏の『地獄を二度見た天皇 光厳院』(吉川弘文館、2002)を確認してみましたが、「いくら否定しても玉座についていた事実は、いかんともしがたいとの思いがつのったのであろうか」(p104)という記述は、飯倉氏が後醍醐の政策の基本的性格について誤解していることを示しているように思われます。
自分は退位したことはなくて、光厳天皇が践祚した元弘元年九月以降の任官叙位は全て停廃、改元も否定ということは、別に践祚・任官叙位・改元等の外形的行為があった事実を否定している訳ではなくて、その法的な効力を否定しているだけです。
従って、光厳天皇が外形的に「玉座についていた事実」は認めても、法的には践祚は無効であり、光厳は未だに皇太子である、という思考は極めて論理的ですね。
「いくら否定しても玉座についていた事実は、いかんともしがたいとの思いがつのった」などという事態はおよそありえません。
しかし、後醍醐としては光厳を皇太子のまま存続させるという意図は全くなく、皇太子を廃した後、自分の希望する皇太子(恒良親王)を新たに立てることに決めていた訳で、後は皇太子を廃する手順について政治的配慮を加えるかどうかだけが問題ですね。
そして、おそらく敦明親王(小一条院)の先例を勘案して、太上天皇の尊号を贈って光厳の面子を立ててやった、ということだと思います。
飯倉氏は小一条院の先例に言及されていませんが、深津睦夫氏の『光厳天皇』(ミネルヴァ書房、2014)には、

-------
元弘元年九月以前、光厳院(当時は量仁親王)は後醍醐天皇の皇太子であった。したがって、すべてを元弘元年九月以前に戻すというのであれば、光厳院はまぎれもなく皇太子である。しかし、もちろんそれは後醍醐天皇の本意ではない。そこで、体よく光厳院を皇太子の地位から下ろすために「太上天皇」の尊号を贈ったのである。これには、小一条院という先例があった。小一条院は、三条天皇の第一皇子で、後一条天皇の皇太子であったが、藤原道長が娘の彰子所生の敦良親王(後の後朱雀天皇)を皇太子に立てようと様々に圧迫を加えたために、皇太子を辞したという人物である。皇太子を辞した後、小一条院の院号を送られ、太上天皇に准えられた。これが、皇太子を退かせ、その代わりに太上天皇の尊号を贈る先例であった。
-------

とあります。(p94)
そして、この小一条院の先例は、当時の貴族社会の人であれば誰でも思いつくことであって、この点も別に後醍醐が「ハタと気が」ついたような話ではないでしょうね。

敦明親王(小一条院、994-1051)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E6%98%8E%E8%A6%AA%E7%8E%8B

ま、それはともかく、三浦論文の続きです。(p522以下)

-------
 以上の、光厳院への「太上天皇」尊号授与、そして皇女懽子の入宮、これらはすべて珣子の立后と関連しているのではないだろうか。この問題を考える上で参考となりそうなのが遊義門院姈子の事例である。後深草の皇女であった姈子は、弘安八年(一二八五)八月、後宇多朝において后位についているが、これは立后の原則が全くあてはまらない異例のものであった。このような立后が行われた理由について、伴瀬明美氏は「持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)」と解している。また三好千春氏は、皇位の継承と関連して、「天皇「家」のうち、天皇位は大覚寺統、后位は持明院統で折半する構図がここで現出している。本来は一対で王権を構成するはずの地位を、「二つの天皇家」が分割・保持することで、本命である皇位継承の攻防戦にとりあえずの折合いをつけた結果の姈子立后だったのではないだろうか」と論じられている。以上の指摘を踏まえると、今回の珣子内親王の立后も、父後宇多法皇のやり方に倣った後醍醐天皇の配慮(懐柔策)と考えられないだろうか。その背景には、先に触れられていた皇太子の問題があったと考えられる。『続史愚抄』を見ると、

  十六日乙巳、節会、自今日被行五壇法於宮中、立坊無為御祈云、中壇阿闍梨天台座主務品尊澄法親王、

とあり、珣子立后の約一ヵ月後、正月十六日より五壇法が宮中で催されているが、その目的は「立坊」が無事に行われることであった。そしてその一週間後、正月二十三日、恒良親王を皇太子に立てている。この恒良親王は、後醍醐天皇の寵愛していた阿野廉子の所生であった。この皇位継承を定めるにあたり、持明院統側への配慮(懐柔策)を行なったのではないだろうか。つまり光厳への「太上天皇」尊号の授与、懽子内親王の入宮、そして珣子内親王の立后、これらは一連のものであり、すべて持明院統側への懐柔策であったと考えられないだろうか。とくに珣子の立冊には、先に指摘されていたような天皇位と后位の折半、王権の分割・保持という意図が含まれていたと思われる。もし後醍醐と珣子内親王との間に皇子が誕生すれば、いつか持明院統側にも皇位の継承に関与する機会が巡ってくる可能性も生じることになる。よく知られているように、建武政権内には、護良親王の存在など皇位をめぐり不安定な要素を抱え込んでいたが、少しでも安定した形で自らの皇位継承を進めていくために、まず持明院統側の不満を減らすことを考えたのではなかろうか。
-------

三浦氏が参照されているのは伴瀬明美氏の「中世前期─天皇家の光と陰」(服藤早苗他著『歴史のなかの皇女たち』、小学館、2002)と三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)という論文ですが、私はこの二つの論文を以前検討したことがあります。
三浦氏は「珣子の立冊には、先に指摘されていたような天皇位と后位の折半、王権の分割・保持という意図が含まれていたと思われる」と書かれているので、三好千春氏の論文を高く評価されていることが伺われますが、私は三好論文にはかなり問題があると思っています。
その点、次の投稿で検討します。
 

プチ歌会始批評(2020)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 7日(金)19時57分46秒
編集済
  >筆綾丸さん
お久しぶりです。
「国家神道」みたいな話をチマチマとやっていたので、こういうのは筆綾丸さんの趣味じゃないだろうな、などと思っていました。

>歌会始
秋篠宮皇嗣殿下の歌、

祖父宮(おほぢみや)と望みし那須の高処(たかど)より煌めく銀河に心躍らす

は雄大で、「心躍らす」に若々しい覇気があり、なかなか良いですね。
私の歌会始ウォッチング歴は2013年からなのですが、同年に「お題 立(たつ)」で詠んだ秋篠宮殿下の歌は、

立山にて姿を見たる雷鳥の穏やかな様に心和めり

というもので、誠におそれ多い物言いにはなりますが、小学生の作文レベルでした。
以来、全くやる気のなさそうな歌が続いていましたが、祖父宮・昭和天皇のお名前をあげるなど、皇嗣殿下となられて何か心境に変化があったのかもしれないですね。
篠弘氏は相変らず選者の筆頭のようですが、皇室の方々は篠弘氏を始めとする変な現代歌人ではなく昭和天皇の歌に学べば良いのだ、そうすれば自ずと気品のある帝王調になるのだ、というのが私のかねてからの持論です。

歌会始に関するアンタ何様批評
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6681
日本文藝家協会理事長・篠弘氏の変てこな歌
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/6683
 

閑話

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 2月 7日(金)11時59分59秒
  ご無沙汰しております。
あいつはもう死んだかな、とお思いになられたかもしれませんが。

https://r.nikkei.com/article/DGXMZO54447070W0A110C2CR0000?s=5
上皇后の歌がなく、歌会始も格調低くなりましたが、「望月に月の兔が・・・」は、不謹慎ながら、笑えました。

『二条良基』(小川剛生)は、拾い読みしただけですが、
    いづれさき花と老とのあだくらべ
という付け句(253頁)には、碩学とは思えぬ色気があり、僭越ながら、さすがだなあ、と感心しました。
 

三浦龍昭氏「新室町院子内親王の立后と出産」(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 7日(金)10時59分24秒
編集済
  西園寺実兼と亀山院はともに建長元年(1249)の生まれですが、嘉元元年(1303)、二人が五十五歳の時に生まれた西園寺禧子と亀山皇子・恒明親王は、その周囲にけっこうな波瀾を捲き起こした点では良く似た存在ですね。
恒明親王は後宇多院(1267-1324)の三十六歳下の弟ですが、亀山院は恒明親王を鍾愛して皇位を継がせることにし、後宇多院に同意を強要します。
しかし、嘉元三年(1305)に亀山院が亡くなると後宇多院はその同意を撤回し、亀山院が恒明親王を託した西園寺公衡を勅勘、朝廷への出仕を禁止します。
あわてた公衡は幕府に取りなしを頼み、暫くして勅勘は解かれますが、後宇多院との間にわだかまりは残ったでしょうね。
他方、公衡(1264-1315)の三十九歳下の妹、西園寺禧子の場合、東宮時代の後醍醐が西園寺実兼の邸から「忍びて盗み給」うた訳ですが、これは正和二年(1313)の出来事なので、後醍醐が数えで二十六歳、禧子は僅かに十一歳。
その行為自体は後宇多院が後深草院・東二条院と同居していた遊義門院を「とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給」うた事件と似ていますが、こちらは永仁二年(1294)の出来事なので後宇多は二十八歳、遊義門院は二十五歳で、二人とも大人ですから問題はありません。

「新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9893

しかし、後醍醐は数えで十一歳、満年齢なら十歳の子供を「忍びて盗み給」うた訳で、現代であれば未成年者略取誘拐(刑法224条)という立派な犯罪ですし、当時としても相当問題のある行為ですね。
ま、それはともかく、三浦論文に戻って、「珣子とこの西園寺公宗は叔母・甥の関係となる」の続きです。(p521)

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この珣子の中宮立后は皇太后宮禧子の死の直後であり、やや唐突な感が否めないが『続史愚抄』によれば、

  七日丁卯、一品珣子内親王<御年廿三、法皇第一皇女、母広義門院>、冊為中宮、有節会宮司除目等、此日、京師依有訛言、大騒動云、

とあるように、この日、都では「訛言」があり大騒動となった。これについて『大日本史料』では、「是日、京師騒動ノ事、何故ナルカヲ詳ニセズト雖ドモ、是時護良親王ト尊氏トノ釁隙漸ク深ク、明年ニ至リ、屡、変ヲ生ゼントセシコトアレバ、物情ノ驚擾セシハ、或ハ之ニ原因セシヤモ知ルベカラズ」と、この騒動の原因について、判然としないものの護良親王と足利尊氏の確執を見ているようである。一方、熱田公氏は「立后の日、京都の物情騒然たるものがあったというが、あるいは立后の背景と関係するかもしれない」と述べられている。こうした騒動が、珣子の中宮冊立と関わるものかは即断できないが、いずれにしても、この立后には何らかの意図・背景があったように思われるのである。その点についてさらに考えていきたい。
-------

いったん、ここで切ります。
『大日本史料』の「護良親王と足利尊氏の確執」云々との推測は、江戸時代に編纂された『続史愚抄』の記事だけが根拠ならいささか無理が多いように感じます。
また、熱田公氏の見解は、注(11)によると安田元久編『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社、1985)に記されているのだそうで、特にここに書かれた以上の検討はなさそうです。
さて、続きです。

-------
 まず私が注目したいのは次の二点である。まず一つ目は、この立后の三日後に光厳へ「太上天皇」の尊号が与えられていることである。先述したように、元弘三年の帰京直後に光厳天皇の帝位は廃されていたが、この尊号授与の詔書を見ると、光厳を「皇太子」と記し、崇敬のために「太上天皇」の尊号を上〔たてまつ〕るとされている。これについて飯倉晴武氏は、

  後醍醐は体制を元弘元年九月以前にもどしたのであるから、現在も光厳院は皇太子である。この事実に後醍醐は
  ハタと気がついたのであろうか。そしていくら否定しても玉座についていた事実は、いかんともしがたいとの思
  いがつのったのであろうか。後醍醐が光厳院をここで皇太子と表明したのは、自己の在位継続をさらに裏づける
  ためであり、皇太子の地位からはずしたのは、皇子恒良親王を子太子に立てるためでもあった。

と説かれている。二つ目として、『続史愚抄』に、

  十二月日、前斎宮一品准三宮懽子内親王、<御年十九、今上第一皇女、母後京極院、重服中>、入新院<光厳院>宮、

とあるように、後醍醐天皇の第一皇女である懽子内親王が光厳院の後宮に入っていることが注目される。これについて『女院小伝』を見ると、「密入上皇宮」とあるように密かに行われたことであった。
-------

うーむ。
飯倉晴武氏の見解(『地獄を二度見た天皇 光厳院』、吉川弘文館、2002)は妙に情緒的で、ちょっと賛成できないですね。
ごく普通に論理的に考えれば、「体制を元弘元年九月以前にもどしたのであるから、現在も光厳院は皇太子」であって、別に「ハタと気が」つく必要もありません。
光厳は皇太子ではあるが、「崇敬のために「太上天皇」の尊号を上る」という理屈で何の問題もないはずです。
また、三浦氏は「密かに行われたこと」に何か特別な意味を感じておられるような書き方をされていますが、懽子内親王は母が死んで「重服中」なのだから、あまり派手なことはできなかった、で済むのではないかと思います。

懽子内親王(宣政門院、1315-62)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BD%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 

三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 6日(木)10時53分43秒
編集済
  それでは三浦龍昭氏「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)を見て行きます。(p519以下)

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    はじめに

 後醍醐天皇に多くの皇子・皇女があったことはよく知られており、『本朝皇胤紹運録』には、皇子十七名、皇女十五名の計三十二名が載せられている。そのなかには鎌倉幕府討幕に大きな役割を果たした護良親王、南朝の第二代となった義良親王(後村上天皇)、そして南朝勢力の回復を目指して各地へ派遣された宗良親王や懐良親王など、実に多くの個性的な人物が見られる。しかし今回はほとんど関心が向けられてこなかった一人の皇女(幸子内親王)の誕生に焦点をあててみたいと思う。
 その皇女の母は新室町院珣子内親王である。延慶四年(一三一一)二月二十二日、後伏見院の皇女として誕生している。母は関東申次であった西園寺公衡の女寧子(広義門院)であり、光厳・光明天皇の同母姉に当たる。持明院統内における珣子の立場は彼女の誕生をめぐる史料から窺うことができる。林葉子氏によれば、この出産にともない父西園寺公衡が執筆した『広義門院御産愚記』は「西園寺家にとっては久しぶりの国母となる可能性をこめた御産の前例記」であり、「来るべき皇子降誕の際の手引き書」としての意味をもっていたとされている。つまりこの広義門院の御産は、後伏見院・西園寺公衡の大きな期待を背負ってのものであった。結果的には皇子でなく皇女(珣子)の誕生となったが、『園太暦』延慶四年(一三一一)二月二十二日条に「雖皇女被進御剣也」とあるような特別の扱いを受け、さらに同年六月には内親王宣下を受けている。そして文保二年(一三一八)には一品に叙されるなど、その立場は、長男の量仁(光厳天皇)に次ぐ存在であった。
 これまで後醍醐天皇については、彼の強烈な個性が注目を集め数多くの研究が蓄積されており、また建武政権をめぐっても森茂暁氏の一連の論考を始めとして多くのことがすでに明らかになっている。本論では、後醍醐天皇皇女(幸子内親王)の母珣子内親王の立后とその背景、そして彼女の出産をめぐる祈祷史料の分析などを通じて、建武政権期における政治状況について新たな一断面を描き出すことを目的としたい。
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主要登場人物を生年順に簡単に整理しておくと、

西園寺公衡(1264-1315)
後醍醐天皇(1288-1339)
後伏見天皇(1288-1336)
西園寺寧子(広義門院、1292-1357)
珣子内親王(新室町院、1311-37)
量仁親王(光厳天皇、1313-64)
豊仁親王(光明天皇、1322-80)

となります。
大覚寺統の後醍醐と持明院統の後伏見は同年の生まれですが、後伏見は永仁六年(1298)に僅か十一歳で即位するも三年後の正安三年(1301)に退位。
他方、後醍醐は徳治三年(1308)に九歳下の花園の皇太子となり、文保二年(1318)に三十一歳で即位します。
後伏見と西園寺寧子(広義門院)との間に生まれた珣子内親王は光厳天皇より二歳、光明天皇より十一歳上の同母姉ですね。
続いて、本論に入ります。(p520以下)

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    一 珣子内親王立后とその背景

 鎌倉幕府の滅亡後、正慶二年(一三三三)六月五日、後醍醐天皇は二条富小路殿へ還御すると、元号を「元弘」に復し、さらに光厳天皇が践祚した元弘元年九月以後の任官叙位をすべて停廃した。また皇太子康仁を廃し、崇明門院(禖子)を内親王とするとともに「礼成門院如故為中宮」として、後醍醐天皇の中宮を止め院号(礼成門院)を称していた禧子を再び中宮に戻している。さらに七月一日には皇太后宮とした。ところがこの約三ヵ月後、『后宮略伝』によると、

  後京極院禧子、<太政大臣実兼公女、後醍醐院后>、元弘三年十月十二日院号、元中宮、今日崩、<此御事者、正慶ニ礼成門院ト申キ>

とあるように、同年十月十二日、急に禧子は崩じ、同日「後京極院」と院号が定められている。この突然の死をめぐって『太平記』では、「是只事ニアラス、亡卒怨霊共ノ所為ナルヘシ」として、その「怨害」を止めるために、諸寺において大蔵経の書写などが行われたことが記されている。
 珣子内親王が立后されたのはこのわずか二ヶ月後であった。『女院小伝』によれば、

  新室町院<珣子>後伏見院一女、母広義門院、元弘三十二七冊中宮、

とあり、十二月七日、中宮に冊立され、同日に立后の節会が行われている。またこれに併せて中宮大夫には西園寺公宗が補されている。珣子とこの西園寺公宗は叔母・甥の関係となる。
-------

段落の途中ですが、ここでいったん切ります。
西園寺家は、

実兼(太政大臣、1249-1322)
→公衡(左大臣、1264-1315)
 →実衡(内大臣、1288-1326)
  →公宗(権大納言、1310-35)

と続いて、西園寺禧子(1303-33)は実兼の娘ですが、『増鏡』巻十三「秋のみ山」によれば、

-------
今の上は、早うより西園寺の入道大臣の末の御女、兼季の大納言の一つ御腹にものし給ふを、忍びて盗み給ひて、わくかたなき御思ひ、年をそへてやんごとなうおはしつれば、いつしか女御の宣旨など聞ゆ。程もなく、やがて八月に后だちあれば、入道殿もよはひの末にいとかしこくめでたしと思す。
-------

とのことで(井上宗雄『増鏡(下)全注釈』、p58)、まだ皇太子だった頃の後醍醐が西園寺実兼の邸から「忍びて盗み給ひて」、即位後に女御、そして中宮とした女性です。
『増鏡』では時期が明示されていませんが、『花園院宸記』によれば「忍びて盗み給ひて」は正和二年(1313)秋の出来事ですね。
女御宣旨は文保二年(1318)七月二十八日、中宮となったのは翌元応元年(1319)八月七日です。
また、西園寺寧子(広義門院)は公衡の娘なので、西園寺禧子より十一歳も年上でありながら、禧子の姪となります。
後伏見と広義門院の子、珣子内親王(1311-37)は西園寺禧子より八歳下です。
西園寺禧子が実兼の晩年、五十五歳の時に生まれた子なので、関係者の年齢と親族関係が錯綜して分かりにくいですね。


西園寺寧子(広義門院、1292-1357)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AF%A7%E5%AD%90
西園寺禧子(礼成門院、後京極院、1303-33)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E7%A6%A7%E5%AD%90
西園寺公宗(1310-35)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%AE%97
珣子内親王(新室町院、1311-37)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%98%E3%82%85%E3%82%93%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 

二条良基を離れて

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 5日(水)10時25分53秒
編集済
  小川剛生氏は2006年に『二条良基研究』で角川源義賞を受賞されましたが、これを受けて『三田評論』(2007年5月号)に小川氏と磯田道史氏の対談が載っています。
その中で、小川氏は、

-------------
小川 まず二条良基が作者として最もふさわしいと言われている『増鏡』が好きで読んでいたということがあります。『増鏡』は鎌倉時代の宮廷を描いた歴史書ですが、動乱の世にこんな優雅なことを書いていていいのかと、時代錯誤だとしてあまり評価されていなかった。だけど、乱世のなか平安時代の残っている優雅な面を書いているわけですから、これはちょっと尋常な精神の持ち主じゃないなと逆に思ったんですね。実際文学として読んでみるとなかなか一貫性のあるおもしろい読み物だし、時代に背を向けているのは、それはそれで一つの主張を持った人物の生き方ではないか。それで良基について書かれたものを読んでみたら、これが『増鏡』の作者だということと切り離して考えても、おもしろい人物だったんです。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5370

と言われており、二条良基より『増鏡』の方に最初に関心を持ったそうなので、『増鏡』に対する小川氏の思い入れは相当なものですね。
そして、

-------
『増鏡』については、逆に二条良基の伝記、業績の研究から入って、結果的にどう見えてくるかという手法でやったほうがいいと思った。非常に迂遠だけど、初心忘れるべからずという感じでやったんです。
-------

とのことで、小川氏は『二条良基研究』(笠間書院、2005)の「終章」で、『増鏡』の作者は丹波忠守、二条良基は監修者という新説を提示されました。
正直、私はこの新説にあまり感心しませんでした。

「なしくずし」(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5371
「牛」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5372

そして、『二条良基研究』に対する国文学者・歴史学者からの絶賛に近い評価にもかかわらず、この新説に限っては特に追随者はないまま十五年が経過し、とうとう『人物叢書 二条良基』で小川氏本人が撤回、という経過を辿った訳ですね。
ということは、「『増鏡』については、逆に二条良基の伝記、業績の研究から入って、結果的にどう見えてくるかという手法」は、結果的にそれほど有効でもなかったようです。
さて、私自身も『増鏡』作者を四半世紀にわたって追いかけている訳ですが、私は最初に『とはずがたり』に興味を持って、『とはずがたり』を理解するために『とはずがたり』が大量に引用されていると聞いた『増鏡』に近づきました。
その結果、『とはずがたり』と『増鏡』の作者は同一人物ではなかろうかと思っていろいろ調べて、今でもその結論は間違っていないと考えています。
このような経緯だったので、私の立場では『増鏡』は当初から二条良基とは切り離されています。
そもそも『増鏡』には西園寺家の記事が溢れているのに対し、摂関家の記事は僅少であり、まして二条師忠という人物が西園寺実兼を引き立てるための滑稽な役回りで登場しているので、師忠の子孫である二条良基が作者であるはずはないことは、私にとっては自明です。
従って、小川氏が紆余曲折を経て復帰された従来の通説、即ち二条良基作者説を批判しようとする意欲は全く涌かず、また、従来の通説を批判したところで自説の根拠づけにはなりません。
そこで、私も自らの原点に戻って、『とはずがたり』と『増鏡』の関係を、改めて徹底的に分析してみたいと思います。
そして、仕切り直しの準備として三浦龍昭氏の「新室町院珣子内親王の立后と出産」を選んだのは、同論文には遊義門院が登場し、『増鏡』と『とはずがたり』の関係について考えるヒントを提供してくれているからです。
ということで、早速、「新室町院珣子内親王の立后と出産」の検討に入りたいと思います。
同論文は、

-------
 はじめに
一 珣子内親王立后とその背景
二 出産をめぐる祈祷─「御産御祈目録」と「中宮御産御祈日記」
 おわりに
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という具合に、ずいぶんあっさりと構成されています。
三浦氏の執筆意図を確認するため、次の投稿で「はじめに」を紹介します。
 

「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」の検討は中止します。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 4日(火)11時11分22秒
編集済
  「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)の検討を始めたばかりですが、小川剛生氏本人が全否定した過去の論文をあれこれ論ずるのは、見捨てられて久しい廃鉱に潜って新たな鉱脈を見出そうとするような作業で、あまり生産的でないばかりか、良い趣味でもなさそうですね。
(その3)で引用した「ついのまうけの君」に続いて、小川氏は「いまの尊氏」を詳細に検討されますが、いずれも「不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述」です。
しかし、こうした成立年代に関わる「内部徴証」は僅少で、それらをチマチマと細かく追って行ってもたいした成果は見込めません。
小川氏の『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)は本当に素晴らしい業績ですが、従来の兼好伝の小さな矛盾、小さな疑問を粘り強く、徹底的に追及して行って真実の兼好法師像を明らかにする、という小川氏の手法が大成功を収めたのは、結局のところ吉田兼倶が詐欺師だったからではないかと思います。

『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9363

しかし、『増鏡』の場合、作者は別に詐欺師ではありませんから、成立年代に関する僅かな「内部徴証」をチマチマと追及して行っても、真実の作者像に辿り着くのは困難です。
ここはやはり登場人物の描かれ方、家系ごとの記述の分量等の記事内容そのものに関わる豊富な「内部徴証」から『増鏡』の作者像を探り、それが成立年代に関わる「内部徴証」と矛盾しないか、という順番で考えて行くのが王道だと思います。
ということで、仕切り直しのために若干の準備の時間が必要なのですが、その準備を兼ねて、亀田俊和氏の『南朝の真実─忠臣という幻想』で紹介されていた三浦龍昭氏の「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)という論文を検討したいと思います。
この論文で、三浦氏は珣子内親王立后の問題を考える上で遊義門院の事例が参考になるとされ、伴瀬明美氏の「中世前期─天皇家の光と陰」(服藤早苗他著『歴史のなかの皇女たち』、小学館、2002)と三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)を参照されています。
遊義門院は『とはずがたり』における後深草院二条の宿敵、東二条院所生の皇女であって、二条にとって特に尊重すべき人物とは思われないにもかかわらず、『とはずがたり』の後半に何度か登場し、しかも万事に傲岸不遜な二条が妙にへりくだった対応をしている謎の人物です。
また、この女性は弘安八年(1285)、大覚寺統・後宇多天皇の皇后に冊立されたものの、その時点で二人は同居せず、九年後の永仁二年(1294)、譲位後の後宇多院が後深草院・東二条院の御所から遊義門院を「略奪」し、その後、二人は仲良く暮らしたという奇妙な婚姻生活を送った人です。
この「略奪」については、『増鏡』にも「皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へる事かぎりなし」とあります。
私は以前、遊義門院に関する伴瀬明美氏と三好千春氏の論文を検討し、三浦氏の評価とは異なる考え方をしているので、三浦論文の検討を通じて遊義門院について改めて少し考えてみたいと思います。

「新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9893

>ザゲィムプレィアさん
お久しぶりです。
近代、それも宗教関係の話題が続いたので、以前から当掲示板を見ていた人たちには些か退屈だったかもしれないですね。
 

どういたしまして

 投稿者:ザゲィムプレィア  投稿日:2020年 2月 3日(月)23時49分14秒
  >ありがとうございます。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9503
律儀に挨拶を繰り返されて恐縮します。

最近中世の話題になり興味深く読んでいます
 

再び『後深草院二条』サイトのことなど

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 2日(日)11時49分31秒
編集済
  国会図書館サイトで少し検索してみたら、亀田俊和氏の「室町幕府執事施行状の形成と展開─下文施行システムを中心として」(『史林』439号)が2003年5月、「室町幕府安堵施行状の形成と展開」(『日本史研究』520号)が2005年12月ですね。
専門研究者の間ではその頃から佐藤進一説の根本的な再検討が行われていたのでしょうが、そうした動きが一般の歴史愛好家層に伝わったのはかなり遅れて2010年代の半ば、それこそ亀田氏の『南朝の真実』刊行以降ですから、本当にごく最近の出来事です。
亀田氏が「戦後の南北朝史研究における巨人佐藤進一氏の偉大さを改めて痛感する」(p213)と評されている佐藤氏の『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社)が出たのは1965年ですが、「日本の歴史」シリーズは本当に爆発的に売れたようで、書籍装幀用クロス(ブック・バインディング・クロス)のメーカー、ダイニック株式会社の「ダイニック80年史」には当時の出版界の雰囲気が些か珍しい視角から描かれています。

「ダイニック80年史」
https://www.dynic.co.jp/company/80/d_index.html
https://www.dynic.co.jp/company/80/chno5/ch05-7.html

また、色川大吉の『昭和へのレクイエム:自分史最終篇』(岩波書店、2010)には、『日本の歴史21 近代国家の出発』を書いて夢のような巨額の印税を得た色川が八王子に山荘風の豪邸を建てた経緯が詳細に描かれています。
かつて「日本近代史研究会」の『画報近代百年史』シリーズでボロ儲けして高級住宅地の鎌倉山、それも女優・田中絹代宅の隣に豪邸を建てた服部之総を批判していた色川も、実際に巨額の印税を手にするとやることは同じですね。

「細い顔に金縁眼鏡が似合うこの学習院出の紳士」(by 色川大吉)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10045

ま、それはともかく、佐藤進一氏も『南北朝の動乱』で相当の印税を得たはずで、佐藤氏が1970年、東大教授をあっさり辞めることができたのは、あるいは印税のおかげで経済的には不安を感じていなかったためかもしれません。

佐藤進一と東大紛争
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9021

ところで私は1990年代の半ばから国文学と歴史学の中間地帯で地味に勉強を続けていて、1997年6月に『後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-』というサイトを開設し、2001年頃まで頻繁に更新していました。
その後、2004年以降は掲示板に活動の中心を移したため、このサイトは実質的に放置したまま十年以上経過していたのですが、2015年の年末、妙に頻繁に閲覧されているなと不審に思っていたら、年が明けるとあっさり全削除されていました。
まあ、おそらく誰かが著作権法上の問題などを指摘して削除を求めたのでしょうが、私もそれから二年以上、旧サイトは電脳世界から完全に消滅したものと思っていたところ、2018年4月、「インターネットアーカイブ」で保存されていることを教えてもらいました。

『後深草院二条』サイトのことなど
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8219
ありがとうございます。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9503

もはや自分でも更新できなくなってしまった旧サイトを眺めてみると、約二十年前の『とはずがたり』と『増鏡』を巡る国文学界と歴史学界の学説の状況が、まるでシベリアの永久凍土に閉じ込められたマンモスのように完璧に冷凍保存されていて、なかなか感慨深いものがあります。

http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/

さて、約二十年経って現在の学説と比較すると、歴史学の世界では佐藤進一説の権威が大きく揺らぎ、全く新しい局面に移ったことを感じさせます。
他方、国文学の世界では、残念ながらあまり進展はないようです。
2000年当時、才気に満ち溢れた若手研究者の小川剛生氏は「『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられる」とされていたのに、今や小川氏は『増鏡』の成立年代について旧通説、即ち木藤才蔵氏の『二条良基の研究』(桜楓社、1987)の段階に戻ったのかと思いきや、「永和二年卯月十五日」が「擱筆の年記である可能性も捨てきれない」ということで、実に石田吉貞の「増鏡作者論」(『国語と国文学』、1953)まで遡ってしまいました。
これは国文学界で『とはずがたり』と『増鏡』の研究がいかに停滞しているかを象徴している事象のように感じます。
私は小川氏が現在の歴史学の水準を反映した『増鏡』の注釈書を書いてくれることを期待していたのですが、ちょっと無理そうですね。
 

「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 2月 1日(土)13時40分25秒
編集済
  ちょっと脱線します。
「元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実」については、小川剛生氏自身が「九 鎌倉後期体制の終焉」でそれなりに詳しく解説され、私も前回投稿でごく簡単に説明しましたが、この三人の中で一番分かりにくいのは後醍醐皇子、恒良親王同母弟の成良親王ですね。
鎌倉幕府は両統迭立の原則に固執したので、後醍醐天皇が元弘の変に敗れた後、元弘元年(1331)に即位した光厳天皇の皇太子に大覚寺統の本流、木寺宮・康仁親王(後二条天皇孫、邦良親王男、1320-55)が立てられたことは理解できます。
また、隠岐から戻った後醍醐天皇が阿野廉子所生の恒良親王(1324-38)を皇太子としたことも当然といえば当然です。
しかし、光明天皇(北朝第二代、1322~80)を擁立した足利尊氏が、持明院統の皇子ではなく後醍醐皇子、しかも恒良親王と同じく阿野廉子を母とする成良親王(1326~44)を皇太子としたのは何故なのか。
この点、亀田俊和氏の『南朝の真実─忠臣という幻想』(吉川弘文館、2014)に分かりやすい説明があったので、少し引用させてもらいます。

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皇統が二つにわかれた南北朝時代。皇位・政策・主導権などをめぐって、観応の擾乱をはじめとする内乱が頻発した。後醍醐天皇・護良親王・足利尊氏・楠木正成・北畠親房ら、思惑をもって複雑に絡み合う人物相関から争乱を詳述。北朝にくらべ南朝は忠臣ぞろいだったというイメージがいまなおのこるが、それは真実なのか。南北朝史を新視点で描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b176614.html

『南朝の真実』は、

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忠烈・義烈の南朝忠臣という幻想─プロローグ
建武政権の内紛 政治路線をめぐる抗争
南北朝初期における内紛 第三王朝樹立運動
観応の擾乱以降における内紛 講話か、徹底抗戦か?
教訓 南朝の内紛が教えてくれるもの
歴史から学ぶとは?─プロローグ
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と構成されていて、成良親王は「南北朝初期における内紛」の最初の節「幻の北陸王朝の夢─後醍醐天皇 対 「天皇」恒良・新田義貞」に出てきます。(p79以下)

-------
親足利の後醍醐皇子成良親王

 光明の皇太子は後醍醐天皇皇子成良親王とされた。成良親王とは、建武政権期に足利直義に奉じられて関東へ下向し、鎌倉将軍府の名目上の首長を務めた皇子である。この経歴からわかるとおり足利氏と関係が深く、「本ヨリ尊氏養ヒ進セタリケ」る、すなわち尊氏が養育した親王と言われるほどであった(『保暦間記』)
 かの中先代の乱に際しても、直義は護良親王を殺害したが、成良については安全確保のために京都に送還している。もっとも、後で足利氏謀反をやりやすくするために直義が張った伏線とこれは解釈できなくもない。現に佐藤進一氏は、これを足利政権樹立の意思表示と考えている。が、少なくとも直義が成良の生命を保障した事実に変わりはない。
 ともかく、鎌倉幕府と同様、室町幕府もこの時点では両統迭立の履行を約束したのである。ただし、後述するように翌月の後醍醐による南朝政権の樹立によって、皇太子成良もすぐに廃されたのであるが。
 従来、この成良立太子はごく短期間で終わったこともあり、さほど重視されなかったようである。しかし、インターネットで以下に述べることと同様のことが論じられていたのを読んだことがあり、そのとき筆者はまさに目から鱗が落ちる思いだったのであるが、考えてみればこれは後醍醐にとって相当有利な条件である。
 この条件を守る限り、今後皇位の半分は後醍醐の子孫が占めることとなったのである。もともと鎌倉後期には大覚寺統の中でも傍流であった後醍醐系統は皇位から排除される運命にあったわけだから、それと比べればこれは大前進である。また成良は、寵愛する阿野廉子が産んだ皇子で、その点でも後醍醐の意志に合致している。
 しかも成良が即位すれば、後醍醐が上皇として院政を開始し治天の君として復権できる可能性も十分に残されていた。幕府はもとより摂政・関白さえも置かなかった建武政権時代の天皇独裁状況に比べれば確かに後退ではある。しかし、一度干戈を交えて降した敵に対する措置としては、大温情の厚遇で決して悪い話ではない。少なくとも、同じ後醍醐を隠岐に流した鎌倉幕府の扱いに比べれば、はるかにめぐまれていたことは確かである。加えて成良は新足利の皇子なので、尊氏がこの約束を守る可能性は少なくともこの時点ではかなり高かったと見るべきであろう。
 この成良立太子もまた、尊氏が建武政権を完全否定せず、それどころか理念的にも政策的にもその後継者を自認していたとする筆者の説を補強する材料に加えてもよいと考える。
-------

ということで、「尊氏が建武政権を完全否定せず、それどころか理念的にも政策的にもその後継者を自認していたとする筆者の説」はかつて通説だった佐藤進一説に真っ向から対立しますが、私は『南朝の真実』や『観応の擾乱』(中公新書、2017)等の亀田氏の諸著作を読んで、亀田氏の見解が正しいと思っています。
 

小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月30日(木)12時49分44秒
編集済
  (その1)で「永和二年卯月十五日」が「擱筆の年記である可能性」を「論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか」と書いてしまいましたが、宮内三二郎氏の『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』によれば、石田吉貞氏が「増鏡作者論」(『国語と国文学』昭和28年9月)において「応永本の奥書にあつた『永和二年卯月十五日』といふ日附」は「良基と考へられる作者が増鏡を擱筆した時の日附ではなからうか」とされているようですね。(p715)
石田説は古すぎるような感じがして、私はあまり重視しておらず、記憶にもなかったのですが、念のため後で内容を確認しておきます。
さて、「ついのまうけの君」ですが、いきなり極めて細かい話になってしまって、非常に分かりにくいと思います。
問題の箇所を井上宗雄氏の『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)で確認すると、

-------
 内には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍らに今御方とかや聞えてかしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がね、と世人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ。

http://web.archive.org/web/20150907005517/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu16-hinosukena.htm

とあり、井上宗雄氏の現代語訳は、

-------
 光厳天皇には女御もまだいらっしゃらないので、西園寺の故大納言実衡公の姫君で、広義門院のおそばに、今御方とか申して、だいじに育てられている方を、(後宮として)さし上げられたので、この方が(ゆくゆく)お后になられる方かと、世人も早いうちから結構なことだと思っていたが、どういうわけか、御寵愛のあまりぱっとしないのが残念である。三条大納言公秀の娘三条といって仕えていられる方の御腹に、宮々がたくさんお生まれになったのだがその方が結局は皇太子になられるようである。
-------

となっています。
「三条前大納言公秀の女、三条」は後に女院号を得て陽禄門院(1311~52)と尊称された女性ですが、この人は北朝第三代の崇光天皇(興仁親王、1334~98)と北朝第四代の後光厳天皇(弥仁親王、1338~74)の母です。
「宮々あまたいでものし給ひぬる」とありますが、この女性が生んだ皇子は興仁親王と弥仁親王の二人だけで、他に皇女が一人いるようです。

崇光天皇(1334-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%85%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
後光厳天皇(1338-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

ところで、後醍醐天皇が元弘の変に敗れた後、元弘元年(1331)に即位した光厳天皇の皇太子には、両統迭立を維持しようとする幕府の意向で木寺宮・康仁親王(後二条天皇孫、邦良親王男、1320-55)が立てられますが、元弘三年(1333)、後醍醐が隠岐から戻って来て光厳天皇の即位自体を否定すると、康仁親王の立太子も当然否定されます。
そして後醍醐は阿野廉子が生んだ恒良親王(1324-38)を皇太子としますが、建武の新政が短期間で崩壊した後、延元元年(建武三年、1336)、足利尊氏に擁立された光明天皇(北朝第二代、後伏見院皇子、光厳院弟、1322~80)が即位すると、両統迭立に固執する尊氏の意向で後醍醐皇子、恒良親王同母弟の成良親王(1326~44)が皇太子となります。
しかし、同年末に後醍醐が京都を脱出して吉野に籠もり、南北朝の分立が始まると、翌延元二年(1337)四月、北朝は成良親王の皇太子を廃します。
このように、天皇と共に皇太子も転変しますが、ちょっと意外なことに、康仁親王・恒良親王・成良親王はいずれも大覚寺統ですね。
以上が小川氏の言う「元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実」の概要です。
そして、暫くの空位期間を経て、暦応元年(1338)八月十三日、光厳院皇子の興仁親王が皇太子に立てられます。
この時、光厳院は自分の子の興仁親王ではなく、叔父である花園院の皇子、直仁親王(1335~98)の立太子を望んだのですが、その理由が小川氏の引用する「康永二年(一三四三)四月十三日、光厳上皇が長講堂に奉納した置文」に出ていて、実は直仁親王は光厳院が花園院の妃・宣光門院と密通して出来た子なのだそうです。
光厳院は興仁親王より直仁親王を鍾愛した、というか、おそらく愛人の宣光門院に良い顔をしたかったのでしょうが、周囲に止められて断念した訳ですね。
小川氏は「「ついのまうけの君」という字句は、作者が、光厳院の意が直仁にあることを知らなかった時期、あるいはそれが世間に公表されなかった時期に記されたことを意味するとも思われる。これだけではまだ微小な可能性にとどまるものの、『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられることを附言しておきたい」としていて、この宮中秘話にずいぶんこだわります。
しかし、1343年の光厳院が「子細朕並母儀女院之外、他人所不識矣」と記しているような事実を妙に重視するのはいかがなものかと思います。

直仁親王(1335-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 

小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月29日(水)09時57分34秒
編集済
  従来の通説が作者論と成立年代論を混同し、「<作者は良基>という先入観に支配され、それに依存しすぎたために、おもに良基の年齢から考えて、彼が本書を著わす可能性のあった時期は何時であったか、ということで本書の成立時期を見定めようとし」ていたという宮内三二郎氏の指摘を私は正しいと考えますし、また、かかる混同を排するため、「まず、作者の問題を棚上げして、もっぱら作品の内部に徴証を探って、成立(執筆)年時の推定をこころみることにする」という宮内氏の方法論も正しいと考えますが、小川氏の宮内説に対する言及の仕方はかなり屈折していますね。
『増鏡』が小西甚一・伊藤敬氏の言うように「現在時制で記された物語であるとすれば」、「作品の内部」の「徴証」を探るという宮内氏の「方法そのものが無効」であり、宮内氏が列挙する「徴証」の「殆どは証拠能力を失う」としながら、しかし、「それでも不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述も、やはり認められる」ので、「証拠能力に欠ける記述を除外していった結果」、なお残る「最も有力な徴証」二ヵ所、即ち「ついのまうけの君」と「いまの尊氏」については「再検討してみたい」のだそうです。
だったら、結局のところ、「作品の内部」の「徴証」を探るという宮内氏の「方法そのもの」は、限界はあるにしても決して「無効」ではなく、むしろそれなりに「有効」として肯定的に扱うべきではないかと思いますが、小川氏は自分が宮内説の影響を受けたことを否定、ないし目立たなくしたいようですね。
ま、それはともかく、第三節に進んで、「ついのまうけの君」に関する小川氏の説明を見たいと思います。(p2以下)

-------
     三 「ついのまうけの君」

 「くめのさら山」の末尾に、次のようにある。
  三条前大納言公秀女、三条とてさふらはるゝ御腹にそ、宮
  々あまたいてものし給ぬる、ついのまうけの君にてこそ
  おはしますめれ。
 即ち、作者は光厳院と、正親町三条秀子(のちの陽禄門院)との間に多くの子女が生まれ、そのうち一人が儲君となったことを知っている。従って、第一皇子の興仁親王(一三三四-九八、のちの崇光院)が暦応元年(一三三八)八月、春宮に立てられた時点が、作品成立の上限となる。この考えは和田英松によって提唱されて以来、承認されている。
 「まうけの君」(儲君)皇位継承者の意、ただし『源氏物語』桐壷巻の「まうけのきみ」にもよるのであろう。のちの朱雀院のことで、桐壷帝の皇太子であり、皇位もその子孫に継承されていく。『増鏡』で、それに「ついの」が冠せられたのは、元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実を踏まえていて(後述)、最終的な、という意味が込められているのであろう。従って若干精度は落ちるが、興仁親王が受禅した貞和四年(一三四八)十月より以前の筆致である可能性も認められるであろう。
 但し、興仁も厳密にいうと「ついのまうけの君」ではなかった。治天の君である光厳上皇は、興仁の立坊の時点で、花園法皇の皇子直仁親王(一三三五-九八、興仁より一歳若い)を持明院統の正嫡とすることを定めていたからである。
 康永二年(一三四三)四月十三日、光厳上皇が長講堂に奉納した置文には、以下のように記されている。
    定置 継体事
  興仁親王備儲弐之位先畢、必可受次第践祚之運、但不可有
  継嗣之儀<若生男子者、須必入釈家、善学修仏教、護持王法、以之謝朕之遺恩矣>、以直仁親王、所備将来継
  体也、子々孫々稟承、敢不可違失、件親王人皆謂為法皇々
  子、不然、元是朕之胤子矣、去建武二年五月未決胎内<宣光
  門院>之時、有春日大明神之告已降、偏依彼霊倦(ママ)所出生也、
  子細朕並母儀女院之外、他人所不識矣、
直仁は、光厳上皇が花園院の妃宣光門院との間に儲けた子であるという。表向きは花園の子となっているが、光厳はこれを鍾愛した。興仁立坊の時には「天の時を得ざるに依り」直仁のことは秘したが、既にこの時点で皇位に就けることを決め、興仁の子孫は行為を践んではならぬと定めているのである。同じ日、上皇は興仁親王に持明院統累代の所領因幡国衙領と法金剛院領などを譲ったが、それも一期分としてであり、興仁の後は直仁に譲ることを厳命した。しかも、光厳は暦応元年の時点で直仁を立坊させるつもりであったが、勧修寺経顕の諫言に従って興仁の立坊を沙汰したとも記しているのである。

     持明院統系図【略】

上皇の悲願は、崇光即位とともに直仁を立太子させたことで達成されるかに見えた。ところが正平一統のために廃位された直仁は、そのまま上皇とともに南朝に拉致され、賀名生に幽閉を余儀なくされた。その間、足利義詮は、皇位を践むことを予測していなかった光厳院第三皇子を急遽践祚(後光厳天皇)させた。直仁は延文二年(一三五七)二月、漸く光厳とともに帰京したが、もはやその出番はなく、遂に皇位に就くことなく終わった。しかし、光厳は直仁を継承者と思い定めていて、後光厳とは終生不和であった。なお、直仁出生の事情は、実際には何人かの廷臣が承知していたようである。
 「ついのまうけの君」という字句は、作者が、光厳院の意が直仁にあることを知らなかった時期、あるいはそれが世間に公表されなかった時期に記されたことを意味するとも思われる。これだけではまだ微小な可能性にとどまるものの、『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられることを附言しておきたい。
-------

「光厳上皇が長講堂に奉納した置文」は正確に再現できておらず、持明院統系図も省略したので、「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」の方を参照してください。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00296083-20000900-0001

第三節はこれで全てです。
検討は次の投稿で行います。
 

小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月28日(火)11時57分30秒
編集済
  2020年の小川氏は「この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない」と言われていますが、「擱筆の年記である可能性」を論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか。
「転写を示すとする意見」は「大勢」ではなく「いまの小川」氏以外の全員のような感じもしますが、ま、それはともかく、続きです。(p2)

-------
 通常(歴史)物語は過去時制を採るが、小西甚一氏の「物語である『増鏡』が現在時制〔テンス〕の語りかたになっている」という指摘を受け、伊藤敬氏が「増鏡中の「今」は、副詞の用法などを除くと、話題の人物・事件の現在時点を指示する」と述べられている。「このころ」「ちかころ」などの語も同様である。
 従って、宮内三二郎氏が『続後拾遺集』奏覧の記事の、
  兵衛督為定、故中納言のあとをうけてゑらひつる選集の事、
  正中二年十二月のころ、まつ四季を奏するよしきこえしの
  こり、この程世にひろまれる、いとおもしろし。(春の別れ)
より、この集が「世によろま」りはじめたのは、「嘉暦二~三年から元徳年間(一三二九~三一)へかけてのころ」であるから、そのことを「この程」と記した増鏡第十四の記事も、この嘉暦・元徳のころか、またはそれにごく近い時期に書かれたことになろう」との推測が誤りであったことは、氏自身後に気づかれて撤回された如くである。こうした徴証を、氏は他にも多く挙げられているのだが、殆どは証拠能力を失う。
 『増鏡』が、現在時制で記された物語であるとすれば、このような方法そのものが無効となるが、それでも不思議なことに、あるいは不注意にというべきか、作者が執筆時点に於ける自らの経験や知識を反映させた記述も、やはり認められるのである。証拠能力に欠ける記述を除外していった結果、最も有力な徴証が、「くめのさら山」における「ついのまうけの君」と、「月草の花」における「いまの尊氏」という、二つの表現である。そこで、これを再検討してみたいと思う。
-------

鹿児島大学教授だった宮内三二郎氏(1918~75)は、なかなか強烈な個性の人だったようですね。
宮内氏は東京帝大文学部国文学科に入学したものの、美学美術史学科へ転科し卒業したのだそうで、論文も美学と国文学の両方にわたっています。
宮内氏の没後まもなく関係者によって編まれたのが約八百ページの大著『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』(明治書院、1977)で、数多くの非常に鋭い着想と、『増鏡』の作者が兼好法師だ、といった奇妙な結論が混在する不思議な書物です。

『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』
http://web.archive.org/web/20150918011455/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miyauchi-shinken-jo-sonota.htm

小川氏は『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』を否定的に引用されていますが、『増鏡』の成立年代に関する宮内三二郎氏の次のような基本認識は現在でも重要と思われるので、少し引用しておきます。(p713以下)

-------
【前略】しかし、この通説には、一つの根本的な疑問がある。それは、承久の変に幕府討滅・王政復古を企てた後鳥羽上皇の治世の記事にはじまり、元弘の変に後鳥羽院の素志を承け継ぎ、これを実現した後醍醐天皇の、隠岐からの還幸と新政開始の記事で完結する増鏡が、なぜ、元弘から三〇年も経た時期、しかも建武の新政が約三年で破綻し、つづいて起った南北両統の分裂と抗争の動乱期を経て、ようやく北朝・足利幕府の支配権が確立した時期に、着想され、起筆されたのか、という点である。
 その点をしばらく措くとしても、私の見るところでは、通説の諸論拠(それは意外にもわずか三箇しか挙げられておらず、しかもそれらはいずれもきわめて不確実な、薄弱なものにすぎない)は、実はさらに一つの不確実な推測を前提としているようである。つまり、増鏡の作者は二条良基であろう、という古くから行われている推測を、暗黙の、または公然の前提とし、それにもとづいて良基の年齢(元応二年~嘉慶二年<一三二〇~八八>。元弘三年には一四歳、応安元年四六歳)を顧慮して、彼が増鏡を著わし得るほどの年齢になったころ、また彼が増鏡と種々の点で類縁性を持つ宮廷儀礼・行事関係の諸小著作を著わしはじめたころ、に目星をつけ、これを裏づける徴証を増鏡の記事の内外に物色して論拠としたのが、応安・永和期成立説であると思われる。【中略】
 以上みてきたように、応永末・永和初年成立説は、その論拠はいずれもきわめて薄弱であり、またいずれも二条良基作者説を確定的とみなし、これを前提として主張されているものである。そして、<作者は良基>という先入観に支配され、それに依存しすぎたために、おもに良基の年齢から考えて、彼が本書を著わす可能性のあった時期は何時であったか、ということで本書の成立時期を見定めようとし、また、そのために、別の時期に成立したことを示唆する徴証を黙殺して、わずか一、二の、しかも説得力に乏しい推測材料を見出したことで満足する、という結果となったようである。
 そこで私はまず、作者の問題を棚上げして、もっぱら作品の内部に徴証を探って、成立(執筆)年時の推定をこころみることにする。
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小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月28日(火)10時06分5秒
編集済
  それでは「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)を少しずつ読んで行きます。
この論文は「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」で全文を読むことができますが、参照の便宜のため、こちらでも引用します。
全体の構成は、

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一 はじめに
二 成立年代考証のために
三 「ついのまうけの君」
四 「いまの尊氏」
五 元弘三年以後の事実の投影
六 昭慶門院御所をめぐる記述から
七 『増鏡』の作者像
八 両統迭立下における廷臣の立場
九 鎌倉後期体制の終焉
一〇 おわりに
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となっており、注を含め、全部で十七ページです。
二十年前の論文なので、後に学界への影響を全く残さずに消えて行った「新」学説への批判など、今となっては改めて検討する必要のない部分も若干ありますが、最初の方は丁寧に見て行きたいと思います。

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     一 はじめに」

 『増鏡』という作品の性格は、誠に捉え難いものがある。
 もちろん本書は長い研究史を有し、作者・成立年代・依拠史料・歴史観などについても、一通り説明され尽くしたかのように思われる。しかし、作者や成立年代といった基礎的な事柄も、それぞれに見解が示されているとはいえ、それが確乎たるものとはなお言い難い。
 『増鏡』が何を描きたかったのか、という議論もそうで、粗くまとめれば、次のような経過を辿ったと思う。後鳥羽・後醍醐らの朝権回復を讃美するとか、あるいは公家のアナクロニズムの所産といった皮相な評価にかわって、治天の君を中心に栄えた、王朝盛代を再現したかのような、宮廷文化の諸様相こそ力を込めて描かれているという見解が出された。一方で時流に翻弄されて浮沈を繰り返す人間の営みが構造的に把握されており、因果流転の相を示した、中世的な無常観に裏打ちされた作品との見方もされる。この「二家系対照」「明暗循環」という言葉によって、『増鏡』の取り上げた世界が相当に深く広いことが、漸く明らかになりつつある。
 それにしても、鎌倉時代の宮廷史の流れのうちから、こうした主題や構図を見出し、見事に首尾相応した物語として(しかもよく練られた文章で)まとめ上げた作者の力量には、正直驚きを禁じ得ない。しかも、元弘三年(一三三三)の最終記事より、遅くとも数十年の間に記述されたとされているので、かなりの部分が近現代史の性格を持つことにもなる。物語としてみれば、その完成度の高さには奇異の感さえ抱かされよう。
 しかし、いかなる作品も、その成立した時代精神と無関係ということはなかろう。『増鏡』が、鎌倉後期から南北朝期にかけて生存した、ある北朝の廷臣の手になるのは確かである(後述)。本稿は、『増鏡』の構造に対する研究の深化を受けた上で、作品の成立年代という、もっとも基礎的な問題を再度検討してみたい。もとよりそれもある幅の期間を推定するにとどまるが、成立年代をさらに特定することで、こうした記述をなし得た作者像の一斑を明らかにし、膠着状態にある作者問題を考える一助となると思うからである。なお、『増鏡』の本文の引用は、尊経閣文庫蔵後崇光院筆本を用いる(句読点、傍点は私意)。
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「二家系対照」「明暗循環」は、注1に出てくる島根大学教育学部教授・福田景道氏の用語ですね。
注1では「『増鏡』の世界─「皇位継承」の意義をめぐって」(日本文芸論叢2 昭和58・3)と「『増鏡』の基調─二家系対照と明暗循環の構図」(文芸研究128 平3・9)の二論文が参照されていますが、リンク先でも福田説の概要を知ることができます。

福田景道「『増鏡』と両統問題」 (『島根大学教育学部紀要 人文・社会科学編』第25巻、平成3年)
http://web.archive.org/web/20150918011104/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/fukuda-kagemichi-ryotomondai.htm
福田景道
https://www.edu.shimane-u.ac.jp/staff/staff81.html

続いて第二節に入ります。

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     二 成立年代考証のために

 『増鏡』の成立を直接示した文献はいまのところ求め難いので、作品の記事内容より、成立年代を割り出す試みがなされている。最終記事は、元弘三年六月であり、現存諸本のうち応永本系統の奥書に、永和二年(一三七六)四月の書写奥書が見える。従って、本書の成立は、最大その四十三年間にあることになる。これを出発点とし、その幅を少しでも縮めるべく、様々な推論が重ねられて来た。それは、作者が最終記事より後に起きた出来事についての知識を反映させたと思われる記述を本文より析出し、もってその部分の執筆時点を探ることであった。しかし、外部徴証が見当たらない以上、他に有用なやり方もないという消極的な理由もあるが、危うさと限界をはらむことを念頭におかなければならない。
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いったんここで切ります。
「応永本系統の奥書に、永和二年(一三七六)四月の書写奥書が見える」とあるので、2000年の小川氏はこの記述が転写を示すことを疑っていませんが、二十年後には「この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない」と変化した訳ですね。
 

小川剛生「『増鏡』の問題」(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月27日(月)11時23分4秒
編集済
  1971年生まれの慶応大学教授・小川剛生氏は、『増鏡』に関する最初の本格的な論文「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号)を2000年に発表されていますが、この論文は本当に円熟した筆致で描かれていて、とても二十九歳の若手研究者が書いたとは思えない内容です。
そして小川氏は五年後に『二条良基研究』(笠間書院、2005)を出され、国文学のみならず歴史学研究者からも絶賛されましたが、同書の「終章」は『増鏡』の成立年代について前論文を踏襲した上で二条良基監修説を提示しています。
即ち、前論文を受けて『増鏡』の成立年代を従来の通説より相当前に置いた結果、直接の作者として1320年生まれの二条良基を想定することが困難となったため、小川氏は丹波忠守という人物を作者と推定した上で、「増鏡は良基の監修を受けたというような結論にもあるいは到達できるかもしれない」とされました。
私は丹波忠守程度の身分の者では『増鏡』作者に全く相応しくないと思うので、『二条良基研究』の「終章」は個人的にはあまり感心できませんでした。
そこで、当掲示板で若干批判しました。

「そこで考察しておきたいのは、やはり増鏡のことである。」(by 小川剛生氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9167
「二条良基が遅くとも二十五歳より以前に、このような大作を書いたことへの疑問」(by 小川剛生氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9168
「そもそも<作者>とは何であろうか」(by 小川剛生氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9169
「後醍醐という天子の暗黒面も知り尽くしてきた重臣たち」(by 小川剛生氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9172
「増鏡を良基の<著作>とみなすことも、当然成立し得る考え方」(by 小川剛生氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9177

今回、人物叢書『二条良基』において、小川氏は『増鏡』の成立年代についての自説を全面的に撤回し、大幅に後ろにずらして従来の通説に従うことにされたので、丹波忠守の必要性もなくなり、その名前は消えています。
しかし、従来の通説に復帰したことにより、小川氏は「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」で自身が批判された従来の通説の欠点を全て引き受けることになったばかりか、新たな問題点も抱え込むことになったように思われます。
というのは、『増鏡』の問題とは全く別個独立に、小川氏は「即位灌頂」という儀礼を創出して二条家の権威を高めた二条師忠という人物について詳しく研究され、その二条家にとっての重要性を解明されたのですが、実は二条師忠は『増鏡』の中で極めて滑稽な役回りを演じさせられています。
『増鏡』全体において摂関家の存在感は極めて稀薄なのですが、他家はともかく、二条家にとって特別な功績を持つ二条師忠すら、直接の子孫である二条良基が軽く扱うようなことがあり得るのか、私は疑問に思いますが、小川氏にはそのような問題意識はないようです。
さて、三段階を経て変遷した小川氏の『増鏡』の成立年代・作者論のうち、私には一番最初の「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」が最も優れているように思えるのですが、この論文については今まできちんと検討したことがありませんでした。
そこで、この論文に即して、『増鏡』の成立年代・作者論を改めて考えてみたいと思います。
なお、「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」は「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」で全文を読むことができます。

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00296083-20000900-0001

また、「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」で参照されている文献の多くは私の旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女についてー」で読めるようにしていたのですが、同サイトは2016年に閉鎖されてしまいました。
しかし、私自身も知らない間に「INTERNET ARCHIVE」で保存されていたので、現在はこちらで読めます。

「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女についてー」
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/
『増鏡』-従来の学説とその批判-
http://web.archive.org/web/20150831083929/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/jurai2.htm
 

小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月26日(日)11時31分46秒
編集済
  なかなかニコライから抜け出せませんが、プロテスタントの視座から眺めた日本キリスト教史に些か食傷気味であった私にとって、正教会の歴史は本当に新鮮で、『宣教師ニコライの全日記』全九巻は汲めども尽きぬ泉のような存在です。
ただ、つい最近、小川剛生氏の吉川弘文館人物叢書『二条良基』が出て、『増鏡』についてかつての自説を改め、成立年代を後ろにずらして従来の通説に復帰した旨を書かれていたので、ちょっと脱線して、小川新説を少しだけ検討してみようと思います。

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南北朝時代の関白。当初後醍醐天皇に仕えながら北朝で長く執政し、位人臣を極める。南朝の侵攻、寺社の嗷訴、財政の窮乏等あまたの危機に立ち向かい、室町将軍と提携し公武関係の新局面を拓く。かたわら連歌や猿楽を熱愛し、『菟玖波集』を編み世阿弥を見出す。毀誉褒貶激しい複雑な内面に迫り、室町文化の祖型を作り上げた、活力溢れる生涯を描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b491656.html

対象を黒く塗ってから、その黒さを批判するのは私の好むところではありませんので、まず、小川新説の内容をそのまま紹介したいと思います。(p202以下)

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  四 『増鏡』の問題

 さて、永和二年は『増鏡』が成立したとされる年である。
 『増鏡』は後鳥羽院の生誕より始め、後醍醐天皇の討幕に終わる、鎌倉時代百五十年を公家の視点で描いた歴史物語で、「四鏡」の掉尾の作品である。作者は良基、成立時期は応安・永和年間(一三六八-七九)であるとの説があり(石田吉貞「増鏡作者論」、木藤才蔵「増鏡の作者」)、多くの賛同を得て、現在定説となっている。
 良基説の根拠には、良基が仮名文の執筆に当代最も長けたこと、その作品でしばしば高齢の老人が語り手になること、発想・語彙とも『源氏物語』への傾倒がはなはだしいことなどが挙げられている。とはいえ、これらは作者にふさわしいという徴証であり、断定はできない。良基の仮名文はいずれも短いもので、『増鏡』のごとき長編の書き手たり得るかの疑問もある。同じ仮名文といっても、文体の印象もかなり違う。ただ、これも否定説の決め手にはならず、作者問題の議論は膠着状態である。
 成立時期は、元弘三年(一三三三)を最終記事とし、後醍醐の治世の出来事が最も詳細で、かつ作者・読者が実際に経験したことを前提に語るので、観応年間(一三五〇-五二)以前とする見解がある。著者はかつて、暦応・康永年間(一三三八-四五)まで遡ると考え、良基では若年に過ぎるとしたが(小川「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」)、現在は考えが変わっている。『増鏡』は現在時制を取る物語で、たとえ記事に「今の」「近き」とあっても、あるいは迫真の描写であっても執筆の時点に近接するとはいえない。年代記としては正確ではあるが、描写は理想化の度が甚だしく、悪くいえば画一的で、創作の要素も色濃い。したがって、成立時期は最終記事よりかなり降ると考えるべきであろう。これは『大鏡』でも同じである。さらに『増鏡』諸本のうち、応永九年(一四〇二)に書写された奥書を持つ写本群には、第七巻北野の雪、後宇多院誕生の場面で、母后が「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」と願ったとして、その子孫つまり大覚寺統(南朝)の衰頽を暗示する一節があり、これは少なくとも応安以後の状況の反映であろう。
 そして、この本の末尾には「永和二年卯月十五日」とある。転写を示すとする意見が大勢であるが、擱筆の年記である可能性も捨てきれない。現に流布し始めるのはこの後である。すると成立をおよそ応安・永和年間と見るのはやはり蓋然性が高い。
 結論の出ないことであるが、これまで述べてきた良基の伝記の知見から、作者問題に改めて言及したい。
 良基が生涯、後鳥羽院と後醍醐天皇を敬慕していたことはもちろん、そこでは両者の「宮廷の主」としての優美な振る舞いを美化する傾向があった。「二条良基内奏状」では後鳥羽院の多芸多才に深く共感したり、後醍醐の追善を強く訴えたりしており、それが応安四年であったことが重視される。また、『増鏡』のみ見える、後醍醐が隠岐配流の途上で歌に詠んだ「三ヶ月の松」という珍しい地名が、応安七年の大原(野)千句でも詠まれ、良基が注文で「名所なり、秋に非ず」と指摘した事実も注目される(『連歌』島津忠夫著作集第二巻)。こうなると良基が『増鏡』の内容を熟知し、共鳴していたことは否定しがたい。ならば誰かに書かせてみずからの名で世に出したか、またはみずからが筆を執ったとするのが最も自然であろう。
 『増鏡』は中世のみならず、古典の散文作品のうち屈指の傑作である。老境の良基が連歌その他の厖大な業績に加え、もし『増鏡』を生み出していたとすれば、文学史上でも稀有の作家となる。ただ、それは生涯では比較的閑暇を得ながら順境とはいえない時期であったことになる。
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『増鏡』に関する記述はこれが全てです。
「三ヶ月の松」云々は今回初めて出てきた論点ですが、後は従来の論文・著書に出ている内容で、材料自体に新しいものは殆どなく、単に見方が変ったということのようですね。
 

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その19)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月25日(土)20時04分14秒
編集済
  副島種臣とニコライの宗教観はかけ離れているので、そもそも二人が何故に親しくしていたのかが不思議に感じられるほどですが、その事情は1905年1月、副島が亡くなったときのニコライの日記に出ています。
遥か昔、後に東京復活大聖堂が建てられる土地を正教会が利用できるよう便宜を図ってくれたのが、当時外務大臣だった副島だったそうです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p157以下)

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一九〇五年一月二〇日(二月二日)、木曜。

 会計報告につける領収書の翻訳。【中略】
 一月一八日(三一日)、副島種臣伯爵逝去。わが良き知人で、一八七二~七三年には外務大臣だった。当時、宣教団が現在の地をたいした苦労もなく取得できるよう助けてくれた。わたしは副島にキリストの教えについていろいろ話した。かれも進んで聞き、喜んでわたしからの贈り物としてキリスト教の書物を受け取っていた。あるときなど救世主キリストのイコンをほしいと言うほどであった。その後わたしはそのイコンがかれの家の目立つところにかけてあるのを見たことがある。しかしながら、儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった。キリストの教えは、人間にたいし、まず第一に、謙遜と神の前に自己の罪を認める心を求めるものだ。だから、副島は霊的には眼が開かれないまま亡くなってしまった。一八七三年、副島は紫色の上質の絹の布地をわたしに贈ってくれた。清国に対する功績(清国人を乗せたチリの船の難破の件で)に対し、清朝政府から贈り物として受け取った布地の一部であった。いただく際、わたしはかれにこう言った。「この布地で、あなたに洗礼を施すとき、祭服をつくるつもりです」と。一昨年、副島が訪ねてきたとき、そのことを思い起こさせて、聞いてみた。「布地はそのときに備えてずっとしまってありますが、どうしたものですか」と。すると、伯爵は静かな微笑を浮かべて、「捨ててください」と答えた。しかし、私は捨てはしない、柩覆い布〔ポクロフ〕、そして宝座および奉献台に置いておく祭服を作るつもりだ。もしかして、無意識にしたこの贈り物によってかれの魂が安寧を得、キリストの光をいささかでも受けることができるかもしれない。かれはもちろん善良な気質の持ち主だった。しかし、この善なる金も、天の御父を知らない子の場合には、御父の前にもたらされることはなく、戸外に積まれていたのだ。天の御父はかれを非難されることもないし、誉めもなさらないだろう。なぜなら、この金が得られたのは天の御父を思う思いからでも、御父を敬う思いからでもなかったのだから。
 わたしは、副島伯爵の逝去にたいし、直接ご遺族に哀悼の意を表すこと、あるいは葬儀に出席することはできない。警察官を尻尾のように従えて行かねばならないのは不愉快だから。きょう、ご遺族に弔意を表すべく、わたしの名刺を持たせて宣教団書記のダヴィド藤沢〔次利〕を遣わした。
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日露戦争が継続中で、正教会に対する脅迫めいた事件も頻繁に起きていた時期ですから、ニコライは不測の事態を避け、警備側に負担をかけないために副島の葬儀には出席しなかった訳ですね。
ちなみに1904年3月15日の記事によれば、東京復活大聖堂は「昼も夜も三人あるいは四人の警官があらゆる方面から教団を護っていてくれるのだ。それに加えて憲兵が二人、警護のために教団内に住んでいる」という状態だったそうです。(第8巻、p36)
なお、当掲示板でも筆綾丸さんの投稿をきっかけに副島種臣について少し言及したことがありますが、それは副島の書家としての側面についてでした。
副島の書は極めて独創的で、書家としては殆ど天才と言ってよい水準にある思いますが、「儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった」にもかかわらず、副島がニコライに「救世主キリストのイコンをほしいと」言い、それを「かれの家の目立つところにかけて」いたのは、あるいは芸術的な観点からの行為なのかもしれません。

副島の血(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5327
副島種臣の後半生
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5328
「副島種臣の借金問題について」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5338

なお、去年、日露戦争中の松山ロシア兵捕虜収容所を舞台にした『ソローキンの見た桜』という映画が公開されたそうですが、私は全然知りませんでした。

https://sorokin-movie.com/

ソローキンは『宣教師ニコライの全日記』にもほんの少しだけ登場しますが、あまり好意的な描かれ方ではないですね。
1904年7月31日の記事です。(第8巻、p103)

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【前略】松山にいる捕虜の一人、ミハイル・ドミートリチ・ソローキンという少尉から手紙がきた。英語を学びたいので本を送ってほしいという。すぐに、ロベルトソンの本を二冊、レイフの辞書、そして英語で書かれた世界史を送った。手紙に親切に助言も書いて、先生としてミス・パーミリーを教えてやった。しかしこの少尉の短い手紙のぞんざいな態度やものの考え方から、これが宗教心のない若者だということがわかり、悲しい気持ちになる。
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ソローキンについてはこれだけですが、その後、ニコライの悲痛な心情が縷々語られます。

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 日本人はわれわれを打ち負かしている。あらゆる国の人びとがわれわれを嫌っている。主なる神はわれわれに怒りを注いでおられるようだ。それもむべなるかなだ。われわれには、愛され褒められる理由はない。
 わが国の貴族は何世紀にもわたって農奴制に甘やかされ、骨の髄まで堕落してしまった。一般民衆はその農奴制に何世紀にもわたって圧しひしがれ、手のつけようのない無知蒙昧で粗野な者になってしまった。軍人階級と官吏は、賄賂と公金横領で暮らしてきた。いまやかれらは上から下まで一人残らず良心のかけらもなく公金着服の風習に染まってしまい、機会さえあればところ嫌わず盗みに精を出している。上層階級はさまざまな狼の集まりであって、ある者はフランスを、ある者はイギリスを、ある者はドイツを、そしてその他もろもろの外国を崇拝してそのまねをしている。聖職者階級は貧困にさいなまれ、教理問答集だけはやっと手放さないでいるという有り様だ。そういう聖職者がキリスト教の理想を広め、それによって自分や他人を啓蒙していくことなど、できるわけがない。
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まだまだ続きますが、この辺で止めておきます。
 

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その18)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月24日(金)11時34分13秒
編集済
  それでは1889年1月14日の記事を見てみます。(『宣教師ニコライの全日記 第2巻』、p240以下)

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一八八九年一月二日(一四日)、月曜。

 副島伯が新年の挨拶に来た。「議会(来年開催予定の)では、おそらく、日本にとっての信仰の問題が取り上げられるのでしょうね」というわたしの問いに答えて曰く。「そうはならないでしょう。なんとなれば、信仰に政府は関与しないのです。信仰は個人の意思に委ねられることになるでしょう」。「しかし、天皇はどんな信仰を持つことになるのですか」。「これはかれの個人的な問題です」。─「しかし、信仰は国家の見地から見てたいへん重要ですし、政府も信仰に対して無関心でいるわけにはいかないでしょう。日本は今、自分の信仰を模索する時期ですよ。ただ政府だけがどんな信仰が真の信仰であるかを調査し決める権限をもっているのです。個々の人間にとってこれを決めるのは難しいことです。手段も十分ではありません。個人は真理を見つけても、これを国家に伝える権威を持っていません。もし政府がこの問題で国民を助けることがないならば、ここにはあらゆる宗派が入り込んできて、日本を分断してバラバラにしてしまうでしょう」などなど。こうしたことをかれに説明したのは初めてではないが、きょうはわがヴラヂミル聖公〔九八八年にロシアが正教を国教と定めた時のキエフの大公〕がいかに真の信仰を探し出したか、話して聞かせた。政府に対するキリスト教諸派の対応のしかたの違いについても話した。ここにカトリックが入ってきたら、日本の天皇は教皇の僕〔しもべ〕(奴隷)になってしまうことだろう。もしプロテスタントが入ってくれば、信仰は政府に奉仕することになるだろう。さもなければ、今のアメリカ(「自由な国家における自由信仰」を標榜している)やフランスのように、政府によって殲滅されてしまうだろう。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ニコライの日記を読んでいると、その思考の明晰さ、実務処理能力の高さ、更には悪口雑言罵詈讒謗の面白さから、ついついニコライを現代人のように錯覚してしまいますが、宗教と国家の関係について「ただ政府だけがどんな信仰が真の信仰であるかを調査し決める権限をもっているのです」などと論ずるこのあたりの記述を見ると、発想の根本が全く異質な人であることに改めて驚かされます。
ただ、それは日本国憲法下の現代日本人にとって常識的な国家と宗教の関係が、漠然とアメリカ・フランスの「政教分離」観をモデルにしているからであって、現代でもドイツなどは「政教分離」にほど遠い状態ですね。
そして、帝政ロシアは国家と宗教が密着し、国家が宗教を監督し、財政的にも丸抱えする宗教国家であって、ニコライにとっては当然これが日本にとっても望ましい国家と宗教のモデルです。
さて、副島の反応をもう少し見ておきます。

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伯はこうしたことをみな聞いていたが、ただときおり「わたしは自分で信仰をこしらえますよ」などという、愚にもつかない反論で話の腰を折るのであった。あるいはどうやら、聞いていても耳に入らず、自分の考えに耽っているといった様子であった。というのは、この人はいい年をして、どんな宗教的信念の影響もいささかなりとも受けていないのである。かれを見ていると、日本がかわいそうになる。日本の最良の人々のうちの一人が、どうやら民衆の精神を代表し表現する人と見なされかねない。はたして(外国人が皆、日本人について評しているように)この国民は本気で宗教というものに期待するところがないのか、本性からして無関心あるいは無信心なのだろうか。
 いま東京で伝道活動をしているアメリカ渡来のユニテリアン派のナップ〔一八八七年来日、福沢諭吉の支援を受けて伝道した〕がどうやらかれのお気に入りらしいが、そのナップは、驚くほどに多数の聴衆と上流階級にも信奉者を持っているということだ。もしかりにほとんどゼロに等しい宗教信仰のひき割り麦の粒を、かれ〔副島〕がその精神の胃袋によって消化しおおせるとしても、真の信仰を渇望するほどに成長するには、まだ長い時間がかかることだろう。
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1月14日の記事はこれで終りです。
1月2日の記事では、副島は「わたし自身のことは別にして、─と彼は答えた─他の人たちの言うところによれば、プロテスタントです。官吏はみなそういっています。政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れています」などと言っていますが、これは客観的分析に止まらず、別にそうなってもかまわない、なるようなればよいのだ、といったニュアンスを感じさせます。
そして、1月14日の記事では、政府が個人の信仰に関与しないのはもちろん、天皇の信仰ですら「かれの個人的な問題」だと言う訳ですから、副島のサバサバした個人主義的宗教観は本当に徹底していますね。
副島自身は「いい年をして、どんな宗教的信念の影響もいささかなりとも受けていない」無神論者であり、「本気で宗教というものに期待するところが」なく、「本性からして無関心あるいは無信心」な人だと思いますが、副島のような宗教観を持った人は明治政府の高官に相当多かったのではないかと思います。
「政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れて」いて、それを親の政府高官たちが許容していたのは、宗教など極めて軽いもので、個人の趣味みたいなものだから、各自が好きなようにやればいいのだ、といった認識を前提にしていますね。
 

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その17)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月24日(金)10時29分38秒
編集済
  続きです。(p235)

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 プロテスタンチズムが日本人には「一番都合がいい」のではないかという予想は、ニコライの日記にくりかえし現われる。
 「日本人はきわめて皮相的で、浮気で、真剣ではない。その意味ではプロテスタントがかれらに合っている。……きょう、副島〔種臣。ニコライの友人だった〕に、<日本にはどの信仰が入ると、あなたは見ているか>と尋ねた。かれは<自分のことは別として、他の連中はプロテスタントだろうと言っている。役人たちはみなそう言っている。身分の高い人々の娘がたくさんプロテスタントになった。教師たちが実に大勢来ておるからな>と言った。副島のことばによれば、ユニタリアンも日本へどんどん入りこんでくるだろうという」(一八八九年一月二日)
 「何百人もの外国人宣教師が日本のあらゆる町に、津々浦々に広がっている。外国人だらけだ。かれらはいたるところで文明と実利性と上昇志向の魅力をふりまいている」(一八八九年八月一六日)
 ここに、正教布教の困難と苦しさがあった。ニコライは宗教を伝えたかったのに、日本人は文明と上昇志向の魅力に惹かれていた。
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副島種臣の発言は些か奇矯な感じもするので、『宣教師ニコライの全日記 第2巻』を確認したところ、次のような内容です。(p237)

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一八八八年一二月二一日(一八八九年一月二日)、水曜

 上野の例のお気に入りの二つの並木道を散歩しながら決心した。今度は大聖堂の周りに塀をめぐらそう。神学校の校舎のほうはしばらく待とう。なぜならば、古くはなったがまだ手狭というわけではないからだ。【中略】
 神は日本にどのような運命を定めておいでなのだろう。正教の日本であろうか。それとも他会派の日本であろうか。それを誰が知ろう。日本は物質的で卑小だ。外見には飛びつくが、外見をとれば、数百人の宣教師や男女の教師がいて、文明のあらゆる魅力を備えた他会派のほうに分がある。正教にできることはただ、自分たちの内面的な力、内面的な説得力、内面的な強固さを確信させることだけだ。深く究明し、体験してみて初めて信心を起こそうというのだから。こんな教えに耳を貸そうという者がいるだろうか。これが問題だ。日本人というのはほんとうに皮相的でせっかちで軽薄だ。その意味ではプロテスタントが連中には似合っている。だが、果たして神を前にして、かれらには、プロテスタントと呼ばれるこの腐臭を発しつつある死体を抱かされている程度の取り柄しかないのだろうか。この死体はプロテスタントの昨今の印刷物(Japan Mail─この軽蔑すべき召使ら)のなかでなんという悪臭を放っていることだろう。いったいまだ何人の人々が、bishop Williams〔聖公会の監督ウィリアムズ〕や Bickeit〔Bickersteth?〕等々と言った連中に騙されなければならないのか。そして騙された当の連中が、今度は別の連中を騙し、愚かにしているのだ。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ニコライは「上野の例のお気に入りの二つの並木道」がよほど好きだったようで、日記に頻繁に登場します。
1月2日の次に記されている1月10日の記事では「朝上野の、わたしの話し相手であるわたしの並木道を散歩」といった具合に、並木道を擬人化しているほどです。
ま、それはともかく、「プロテスタントと呼ばれるこの腐臭を発しつつある死体」といった表現はあまりに強烈で、ちょっとびっくりしますね。
そして、この後に副島種臣が登場します。

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わたしはきょう副島に訊いてみた。「あなたのお考えでは、どんな信仰が日本に合っていますか」。「わたし自身のことは別にして、─と彼は答えた─他の人たちの言うところによれば、プロテスタントです。官吏はみなそういっています。政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れています。教師もたくさんいます」。いやはや、なんということだ。そんな理屈があるものか。「官吏」と「娘たち」によって日本がプロテスタントの国になると決められるなんて。もし、こうした連中が決めるというなら、日本などもはや哀れむにも値しない。副島の言によれば、ユニテリアニズムがきわめて強く浸透しているのだそうだ。(このことはきのう長沢がユニテリアンの徳川公爵のところでの晩餐会の話をした時にも言っていた。)と言うのもアメリカ人教師ナートと四〇人の客人がいたからだ。長沢の話だと、ナートのところにはもう上流階級の中から四〇人もの改宗者がいる。徳川はもうユニテリアニズムを受け入れ、洗礼名も「イマヌイル」というのだそうだ。(やがては心霊術も浸透することだろう。副島はヨーロッパでベネトとかいう人物のところで、この信仰とそのからくりに蒙を啓かれた津田某のことを話してくれた。)不幸な日本、一日も早く正教を選ばねば。悪魔の弟子たちがみなで寄ってたかってその肉体に食い入り、その体液を吸い取り、毒で汚染してしまうだろう。……主よ、この国に哀れみを。この苦い杯からこの国を救いたまえ。もし、この国がこの苦い杯を首尾よく免れたなら、この国をしてなによりもまず、あなたの唯一の救済的真理の光によって、毒と闇から癒したまえ。至純なるあなたの母とあなたのすべての聖人の祈りによって、この国の上に平安を賜らんことを。
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副島種臣は1828年生まれなので、1836年生まれのニコライより八歳年上、1889年1月時点では61歳ですね。
1887年に宮中顧問官、翌1888年に枢密顧問官になっています。
副島は1月14日の記事にも登場するので、そちらも見てから少し検討したいと思います。
なお、ユニテリアンになったという「徳川公爵」は德川家達のことです。

德川家達(1863~1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94
 

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その16)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月22日(水)12時04分36秒
編集済
  続きです。(p231)

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 ニコライは沢辺や酒井についても「かれらは頭がよく、日本的意味合いにおいて教育もあり、きわめて道徳的で」あると言っている。もちろんニコライは日本人の入信の動機を詮議しているのではない。ニコライはとにかく正教を宣教し信徒を獲得したいのであって、何に動かされたのであれ正教徒になった日本人はニコライにとって実りでありわが羊群であった。ただ、おそらくかれは、自分に近づいてきた「頭のいい」沢辺たちの動機の根が宗教的な寄りすがりではないことは感じとっていただろう。
 沢辺も仙台藩士たちも、新しい日本の支配体制のバスに乗ることはできなかったが、その形成に参加しようとする意欲に燃える国士たちであった。仙台藩士たちが正教へ向かうきっかけを作った金成善右衛門は後に自由民権運動に強く共鳴していった。かれらは、ニコライのもたらした「ハリストス教」を新しい時代へ漕ぎ出す新しい船と見て、日本社会に新たな益をもたらし自分たちも雄飛できるはずの「事業」と想像して、それに近づいたのであろう。
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「酒井」は沢辺琢磨が函館で親しくしていた医師、酒井篤礼のことで、沢辺・酒井と浦野大蔵の三人が、まだキリスト教が禁止されていた1868年5月にニコライから最初の洗礼を受けます。


酒井篤礼(1835-82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E7%AF%A4%E7%A4%BC
金成ハリストス正教会(栗原市公式サイト内)
https://www.kuriharacity.jp/w038/010/010/010/100/668.html

武士階級出身で、この種の「国士」的信念を持ち、身分制秩序の解体後も農業や商工業その他の職業に転ずることのできなかった人々の一定割合がキリスト教に流れ込んで初期の指導層を形成した、という事情はプロテスタントも全く同様ですね。
信者の社会的階層が広がってくると、もちろん「国士」タイプではない人も増えますが、それでもプロテスタントとの「互換性」は継続します。
そしてニコライは、次第に正教会がプロテスタント的な方向に変質するのではないかと心配するようになります。(p234以下)

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 そうであるからニコライには、自分は、いわば合わないものを無理に合わせようとしているという感覚があった。自分の「本当のキリスト教」は日本には適さないのではないか、特に欧米の新しい知識を求める日本の知識人は「本当の宗教」になじまないのではないか、かれらはプロテスタンチズムへ向かうのではないかという予感を持っていた。
 「ひょっとすると日本は実際に本当のキリスト教にふさわしくないのかもしれないという考えが、ますます頻繁に頭に浮かんでくるようになった。日本人は、とりわけその上層は、もっぱら西欧の文明を追っている。信仰については、かれらは考える様子も、配慮する様子も見えない。……〔文明化のためには〕日本人にはプロテスタントが一番都合がいいのだ。なんといっても、プロテスタントの宣教師たちは教育の高い国々の人々であり、日本人はそれらの国々にぺこぺこ頭を下げている。
 しかし、そんなことはみんな、本当のキリスト教からなんと遠いことか! <霊的目的><永遠の救い>、これらは日本のリーダーたちの考えからなんと遠いことか!」(一八八五年一月二三日)。
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この後、ニコライが親しく付き合っていた副島種臣のエピソードが引用されますが、『宣教師ニコライの全日記 第2巻』で当該箇所を確認したところ、非常に興味深い内容だったので、次の投稿で併せて紹介します。
ま、副島も年をとって、ちょっとボケてしまったのかな、と思わせるような部分もあるのですが。

副島種臣(1828-1905)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B3%B6%E7%A8%AE%E8%87%A3
 

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その15)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月21日(火)10時29分5秒
編集済
  1904年7月17日の「公会」ではニコライが正教会の統計資料を読み上げているので、参考までにその記述を引用しておきます。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p98以下)

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一九〇四年七月五日(一八日)、月曜。

 八時から十字架教会において公会。全部で二〇名の司祭とわたしが参加した。他の司祭たちはさまざまな理由で公会に来ることはできなかった。
「景況表(統計資料)」はすでに司祭たちによって「内会」で検討されていたので、わたしはすぐに全体の統計だけを読み上げた。一年間の受洗者数の総計七二〇名、死者二八九名、よって現在の信徒に加わる増加分は四三一名。ということは現在の日本の信徒総数は二万八三九七名。これまでの教役者数は一八〇名であった。いまこれに、神学校卒業者四名、伝教学校卒業者一〇名が加わった。したがって現在の総数は一九四名。これだけでも神に感謝だ!【後略】
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1895年の三国干渉でロシアに対する国民の悪感情が顕在化して以降、日露戦争に至るまで、正教会にはなかなか厳しい状況が続いていたはずですが、開戦後も信徒が微増しているのはちょっと驚きです。
正教会の信徒数はこのあたりがピークだったようですね。
さて、『宣教師ニコライと明治日本』に戻って、(その10)で引用した部分の続きです。(p229以下)

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その10)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10126

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 内村鑑三はニコライ師は「新教の宣教師の如く文明を利用することなく、赤裸々に最も露骨に基督を伝えた」と言ったが、たしかに、ニコライがもたらしたキリスト教は、西洋文明に寄りかかっていない宗教だった。ニコライの場合は、内村の流れの、明治以降の日本の「中産知識層」の個人的倫理主義としてのキリスト教とも異質な、生々しい宗教だった。奇蹟を約束し、歴史の終わりを告げ、あの世での死者との再会を約束し、イコンに接吻して聖歌に歓喜しかつ涙する宗教であった。
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これは一応もっともな説明ですが、ロシア正教を受容した側からすれば、やはり多くの人が正教も「西洋文明に寄りかかって」いるものと考えたのではないかと思います。
キリスト教を受容した人は、カトリック・プロテスタント、そして正教を全部合計したとしても、日本の全人口比から見れば圧倒的に少数派で、基本的には「西洋文明」への好奇心に満ち溢れた人々ですね。
そして、複数の選択肢の中から自分の必要とする宗派を選択した人よりは、たまたま最初に出会った宗派のキリスト教に入信した人が多く、また、正教からプロテスタントへ、といったキリスト教内部での移動もかなりあります。
もちろん、中村氏も正教に近づいた人と他の宗派のキリスト教に近づいた人との類似性には気づかれていて、次のように続けます。

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明治の日本人とキリスト教

 ドストエフスキーも言うように、プロテスタンチズムは宗教でありながら宗教的感性を非合理として批判する諸刃の剣であって、宗教として本質的な矛盾をはらんでいるのかもしれない。しかし、この「本当のキリスト教」であるロシア正教は、ニコライによって日本にもたらされて仙台藩士たちに伝えられた当初から、日本という地盤のゆえの布教上の困難と矛盾をかかえることになった。文明開化へ向かおう、必死に近代化の波に乗ろうとしている日本へ、豊かな前近代性をたたえた「本当の」宗教がやってきたのである。受け入れた日本人たちもいわばこの矛盾の創造に加担した。初期の正教徒となった仙台の人たちの入信の動機は、沢辺において見られたものと重なっている。
 「国家の事に当らんと欲せば、文明の知識なからざるべからずを以て、外国人と交り、其学問を修め、これによりて一事業を挙げ、名をなさざるべからず。……仙台藩の志士は一度函館に於ける宣教師の事を聞き、又人心の統一は真性の宗教に依らざるべからずとの沢辺の論を聴くや、彼らの理想は忽ちに此一事に向かつて進みたり」(『日本正教伝道誌』)
 函館での暗中模索の学習に見られるように、仙台藩士たちの正教受容の仕方は沢辺を先達とする半ば自力の教義学習であって、プロテスタントの、多数の外国人宣教師による宣教とは大分違っていた。西洋文明を宣教に利用する点でもニコライは最初から不利な立場にあった。
 しかし、そうではあったが、ニコライに近づいて「福音伝道の前駆」となったかれら仙台の士族の根にあった動機は、プロテスタントに向かった日本人のそれと基本的に同じであったと考えられる。それは儀礼や神秘に惹かれる宗教的感性ではなく、あるいは苦しむ者が救われようとして綱にすがる依頼の願望でもなく、「国家の事」「人心の統一」を思う武士の志であり、「一事業を挙げ、名をなさざるべからず」という実践的な向上の精神であった。
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いったん、ここで切ります。
 

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その14)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月20日(月)22時37分51秒
編集済
  1904年7月13日の記事の続きです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p95以下)

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 実際、もし最初の「建議書」が沢辺両神父の入れ知恵で出されたのであれば、その衰退した精神と無力には、絶望しそうになる。教会の運営、その運営の基礎となっている教会の典範について、二人の神父は学んでいないのか。そして得られるかぎりの知識を与えられていないのか。しかも、日本の高度の文明開化という流砂の上ではなに一つしっかりと立ってはいられない。すべては崩れて塵となる! 教会運営がたちまちのうちにプロテスタンティズムにすべってゆきはしないかという懸念を感じないで日本教会の運営をまかせられるような、そういう人材がいつになったら育ってくるのだろうか。わたしの後継者は、日本人のこの精神的能力不足をしっかりと頭に入れて、忍耐強くかれらを教育すべきである。しかし、おそらくわたしの後継者も、日本教会がしっかりと自分の足で立つようになるまで、まだ数世代かかるだろう。
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パウェル沢辺琢磨(1834-1913)は幕末にニコライが最初に洗礼を施した最古参の信者で、アレキセイ沢辺はその息子です。

『ニコライの見た幕末日本』(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10105

沢辺父子が背後にいそうな麹町教会の不穏な動きに関連して、三日後の7月16日には次のような記述があります。(p97)

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一九〇四年七月三日(一六日)、土曜。

 統計的報告書、請願、手紙、提案等々、公会に宛てて送られてきたものや集められたものについて、司祭たちは事前の打ち合わせ会を続けている。もう四日目である。きっとたくさん知恵が溜まったことでしょう。拝見いたしましょう。どうぞ、神さま、司祭たちが考えてことがすべて賢いことでありますように! ほんとうに賢い共同立案者がいてほしいと心から思う!
 麹町教会の信徒マトフェイ丹羽がやってきた。丹羽は長年伝教者として働いてきたが、妻と別れたことから教会の勤めもやめさせられてしまった。なんとも鼻もちならぬ性格である。あきらかにかれは、公会で提出された教会運営改変案の起草者の一人だ。
 遠まわしに、やや媚びた調子で話を切り出し、だんだん核心に近づいてきた。
「日本中の人がわれわれの教会をニコライの教会と呼んでおりますが、これはよいことじゃありません」
 わたしもそう思う、と言った。
「これは、あなたが他の者たちは加わらせないで一人で教会を取り仕切っておられるせいです」
「それは違う。教会の運営には常に司祭たちが加わっている。わたしは、いかなる教区においてもその教区を管轄している司祭とあらかじめ相談しないでは、なに一つ決めたことはない。そして重大な事柄はすべての教役者の加わった場で決定されている。そのためにわれわれは公会を開いている」
「しかし、司祭たちばかりでなく平信徒も加わった常設の会議が設けられるべきです」
「平信徒は、必要な場合には教会運営の仕事に加わることが認められている。たとえば、聖務執行者の選出に加わっている。さらにわれわれの公会において伝教者たちの任地の割り振りにも、また教会の資産の管理にも、必要なかぎりにおいて加わっている。あなたはそのことを知っているではないか……」
「日本は以前は天皇による統治がなされていました。しかし天皇は権限を国民に譲られた。われわれの教会でも同じようにする必要があります」
「教会の運営は不変の教会典範に基づいて行われている。われわれはそれから外れることは許されていない。もしそれを踏みはずせば、われわれは全世界正教会に属する者ではなくなってしまう」
「しかしですな……」とマトフェイは、堂々めぐりしながらもしゃべるわしゃべるわ。しばらく黙って聞いてやってから、司祭たちの集まりがあるから、そこで考えを述べるようにと言って立ち去らせた。
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マトフェイ丹羽の「日本は以前は天皇による統治がなされていました」以下の発言は面白いですね。
マトフェイ丹羽にとっては明治憲法の制定により「天皇は権限を国民に譲られた」ことは自明の歴史的事実なのでしょうが、明治憲法が「外見的立憲制」に過ぎないという、現在では些か賞味期限切れの感がある「戦後歴史学」の認識とはズレており、これ自体が興味深い発想です。
ま、それはともかく、マトフェイ丹羽は、現在の日本正教会ではニコライが統治権を掌握した「天皇」だが、帝国憲法の制定により天皇が権限を国民に譲ったように、「われわれの教会」でもニコライはその権限を信徒に譲るべきだ、と主張します。
世俗の動向をそのまま教会に反映させようとするこのような主張が「不変の教会典範」に基づく教会運営を行なってきたニコライに受け入れられるはずもありませんが、ニコライがこうした批判を頭から撥ね付けるのではなく、一応、マトフェイ丹羽にしゃべりたいだけしゃべらせ、司祭たちの集まりの場でも話すように仕向けているのはちょっと不思議ですね。
言いたいことは言わせてガスを抜く、というのがニコライの一貫した組織運営のコツなのか、それとも日露戦争が日本に有利に展開されている状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなっている」信徒をあまり刺激したくないという、この時期特有の事情の反映なのか。
さて、「内会」の準備の後、7月18・19日に「公会」が開かれますが、それが無事終了した翌20日の茶話会において、ニコライは、「わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない」云々という話をします。
ここまでの経緯を見ると、この話は決してニコライが唐突に持ち出したのではなく、「公会」の準備段階から多くの司祭が問題の所在を認識しており、沢辺父子などはともかくとして、おそらく司祭たちも多くはニコライの方針を受け入れていたのでしょうね。
そもそも経済的に「独立」しておらず、戦争中であっても運営資金を敵国ロシアに依存しているような状態で「独立した教会」を目指すなどというのはあまりに無理が多い話です。
ニコライの後継者にロシアから主教を招かなかったら、その時点でロシアからの資金援助がなくなり、教会組織は崩壊することになりますね。
 

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その13)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月20日(月)11時21分57秒
編集済
  (その10)で引用した、

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 ニコライが、日本人伝教者こそ教会の柱だと認めていながら、自分の後の日本正教会の教育を日本人にゆだねたくなかった理由はそこにあった。かれは、公会に集まった教役者たちに「正しい伝統」が築かれるまでは百年はロシアから主教を招くようにと教えた。日本人に任せておいたならば「プロテスタントの教会と同じようになってしまう」と予感していたのである(一九〇四年七月二〇日)。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10126

という部分ですが、『宣教師ニコライの全日記 第8巻』を見ると、これは日露戦争中の記事ですね。(p99以下)

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一九〇四年七月七日(二〇日)、水曜。

 朝から午後四時まで、松山の捕虜たちに送る本のリストを作った。すべて予備としてあった本である。返却不要ということで、今回、一四〇点の書籍と一〇〇〇冊のパンフレットを送った。書籍のうちの多くは複数部数である。たとえば新約聖書七冊、ロシア語の福音経二五冊、等々。全部で三五三冊。すべての書籍とパンフレットは、宗教道徳あるいは教理関係の内容のものである。例外として、数冊の文法、数学などの教科書がある。
 それらを、セルギイ鈴木神父とニコライ・イワーノヴィチ・メルチャンスキー〔ハルチャンスキーと同一人物か?〕大佐宛に送った。セルギイ神父には手紙を添えた。メルチャンスキー大佐には、セルギイ神父を助けて、本を将校たちと兵隊たちに分配してもらいたいと頼んだ。
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松山はロシア兵捕虜収容所が最初に設けられた土地ですね。
リンク先の論文にはロシア兵捕虜に対する正教会の活動が詳しく出ています。

平岩貴比古「日露戦争期・国内収容所におけるロシア兵捕虜への識字教育問題」
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia13-4.html

さて、この後に主教後継者に関するニコライの発言が出てきます。

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 四時から、司祭全員、神学大学を卒業した神学校教師たち、そして翻訳局員たちと茶話会。かれらがわたしを招いてくれたのである。この機会を利用して、かれらに次のような話をした。すなわち、わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない。日本教会は一〇〇年以上は宗務院の監督下に留まり、ロシアから主教を迎えて、それらの主教たちの厳格な指導に従順に無条件に従わなければならない。そうしてこそ日本教会は成長して、「使徒以来の唯一の共同体なる教会」の一本の枝になってゆくのだ、と話した。
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ずいぶん傲岸で硬直的な考えのように見えるかもしれませんが、ニコライがこうした話をする必要を感じた背景としては、教会運営をめぐる内部の不満の存在があります。
この記事の一週間前、7月13日には、

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 きょうは「内会」である。司祭たちは公会前の事前の打ち合わせをしている。そのために「景況表」、公会に宛てた手紙と請願書、その他さまざまな提案(建議書や議案)を持っていった。提案はかなりたくさん集まっている。ありとあらゆることが提案されている!
 パウェル沢辺とアレキセイ沢辺が管轄する麹町教会の信徒たちから「教会運営の仕方を改善し、今日〔こんにち〕の文明開化された日本の状況に合ったものにすべきである」という要求書がだされた。これが両沢辺神父のすすめによって書かれたものであるなら、ご立派な指導者ですなと言ってやりたい。とりわけ最長老のお方〔パウェル沢辺琢磨〕は問題だ。
 柏崎から、教役者の教育のための機関を設けるべきだ、なぜなら現在の教役者は全員教養が足りず、今日の日本人の教育のたかさにぜんぜん応えていないからだ、という要求がなされた(あきらかに、いまの日本軍のロシア軍に対するうち続く勝利と、日本および外国の新聞にあふれるロシア人に対するどぎつい罵倒のために、日本人はうぬぼれで頭がおかしくなっているのだ)。
 パウェル新妻から次のような要求が出ている。
 一、日本教会の独立。
 二、宗務院と諸総主教に「勝利」ではなく「和解」を祈るよう提案する。なぜなら、ロシア人も日本人も勝利を与えたまえと祈ったら、主神はどちらの祈りを聴いたらよいのか。
 三、公会は日本人兵士の自殺を食い止める手段を講ぜよ。
 四、司祭たちの公会に輔祭の出席も認めよ。
 モイセイ葛西〔原衛。福島方面の伝教者〕が、宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた。その間に、現在信徒一人がひと月一銭出している寄付が何百万円にもなるから、そうなれば日本教会は自らの力で自らを支えられるようになる、という。
 ニコライ高木〔久吉。米子、松江の伝教者。作曲家高木東六の父〕は、「教役者たちは筆紙に尽くし難い貧困のなかにある。ゆえにその妻と娘が産婆、付添看護婦、教師などになることを許可せよ」という要請を出してきた。
 ほかにもこの類の提案や要請が出ている。そのほとんどすべてはくだらないたわごとだ。しかし遠慮なく提案し論議するがよい。だめなものは実現しない。こうした「建議書」の意義は、それらが診断と警告になるということだ。現在出ているたくさんの「建議書」からわかるのは、日本教会は、物質的に無力だからもあるが、それ以上に内的状態がまだ「ドクリツ」(自立)からは遠いということだ。
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とありますが(p95)、日本の正教会は経済的に自立できていないどころか、現に戦争している敵国から運営資金を得ているという奇妙な存在です。
それにもかかわらず、日露戦争が自国優位に進展している状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなってる」信徒も多数いて、日本教会の「独立」を要求するパウェル新妻もその一人のようです。
「宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた」というモイセイ葛西も同様ですね。
それに比べると高木東六の父、ニコライ高木の要請は伝教者の自立を促すものと思われるので、ニコライがこれについても否定的な書き方をしている理由がよく分かりません。
ウィキペディアを見ると高木東六は1904年7月7日生まれだそうですから、ニコライがこの記事を記した僅か六日前に誕生したのですね。

高木東六(1904-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%9D%B1%E5%85%AD
 

鈴木範久『日本キリスト教史─年表で読む』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 1月18日(土)13時30分49秒
編集済
  前々回の投稿で書いたように、ニコライが「イエス・キリストの神性を信じない人々は、たとえば、海老名や植村たちのようにたいていは組合派に属している」と書いている点は誤解、というかニコライの無関心の反映ですね。
海老名弾正(1856-1937)や植村正久(1858-1925)が日本のプロテスタント界でどれだけ大物だとしても、ニコライ(1836-1912)にとってみれば、つい最近本格的にキリスト教の導入を始めたばかりの国の、自分より20歳以上年下の若輩者に過ぎません。
ただ、両者の思想の違いは、明治日本の思想動向を見る上ではそれなりに重要なので、ウィキペディアへのリンクでお茶を濁すのではなく、日本キリスト教史の中での位置づけを確認しておきたいと思います。
そこで、立教大学名誉教授・鈴木範久氏の『日本キリスト教史─年表で読む』(教文館、2017)から少し引用します。(p174以下)

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  3 海老名・植村論争(一九〇一年)

 日本組合基督教会に属する海老名弾正と日本基督教会に属する植村正久との間に、一九〇一(明治三四)年から翌年にかけて交わされたキリストの神性をめぐる論争がある。前述の「自由キリスト教と新神学」を受け継いだ性格の論争ともいえる。
 論争の発端は、海老名がキリストを「神」とする植村の所論に疑問を唱えたことから始まる。両者の応答は、事実上海老名の主宰する雑誌『新人』と、植村が中心的存在の新聞『福音新報』を通じてなされた。
 海老名は植村らの奉じる「三位一体」の思想を時代的産物とみなし、キリストと「神」との間にある「宗教的意識」としての「父子有親」を強調、そこではキリストは「神にしては人、人に対しては神」とみた。だが、あくまでキリストは「神」ではないとした。したがって、海老名においては、三位一体を唱える植村らの思想のもつ罪と贖罪の考えもなく、したがってキリストを救済者とみる思想もない。
 両者のおもだった応答は次のとおり。

 植村正久「福音同盟会と大挙伝道」『福音新報』三二四号、一九〇一年九月一一日
 海老名弾正「福音新報記者に与ふるの書」『新人』二巻三号、同年一〇月一日
 植村正久「海老名弾正君に答ふ」『福音新報』三二八号、同年一〇月九日
 海老名弾正「植村君の答書を読む」『新人』二巻四号、同年一一月一日
 植村正久「挑戦者の退却」『福音新報』三三二号、同年一一月六日
 海老名弾正「再び福音新報記者に与ふ」『新人』二巻五号、同年一二月一日
 植村正久「海老名弾正氏の説を読む」『福音新報』三三七号、同年一二月一一日
 (これらの論争を集めたものとして福永文之助編『基督論集』(警醒社書店、一九〇二)がある)

 このあと海老名が「三位一体の教義と予が宗教的意識」を『新人』二巻六号(一九〇二年一月一日)に発表後、論争は植村はもとより、三並良、小崎弘道、アルブレヒト(George E.Albrecht)、高木壬太郎も意見を発表、日本のキリスト教界の神学論争として稀有なほどの関心を集めた。
 また、右の海老名のキリスト観「神にしては人、人に対しては神」は、ユニテリアンたちのキリストをあくまで「神」ではなく人とみる思想との違いがわかりがたい。これに対し海老名は『基督教本義』(日高有隣堂、一九〇三)を著し、今少しわかりやすい説明を与えている。同書によるとキリストは「人類以上としての超絶ではない、人類其のものとしての超絶である」とみている。この言葉の限りでは、植村らのいう「神」ではない。
 さらにキリスト教の本義を、「正義公道の霊、博愛慈善の霊」とみて、その霊の完全な発露がキリストの「宗教意識」であり、そのキリストの「宗教意識」と一体化して生きることとする。ここにはキリスト教の儒教的、陽明学的理解がみられ、海老名の門より少なからぬ社会事業家の生じる一因となる。
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ま、長々と引用しましたが、私には海老名理論とユニテリアンの違いがきちんと理解できません。
ただ、これだけプロテスタントの本流と異質な考え方をする人が教会を離脱しないばかりか、後に同志社の総長にまでなることは、ちょっと不思議な感じがします。
この点、鈴木範久氏は次のように「自由キリスト教と新神学」の時代からの変化で説明されます。

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 植村・海老名の論争は、これまで日本のキリスト教界では見過ごされてきた「神学と信仰との関係」が関心を高める役割を果たした。それのみでなく、先の「自由キリスト教と新神学」の時代においては、「新神学」は金森通倫および横井時雄らが教職を去るほどの衝撃を与えたのに反し、今回の一方の中心人物である海老名は、教会内にとどまり同志社総長にも迎えられる。このことは、聖書の歴史的研究の浸透をもあらわすものとみてよい。
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ということで、信仰の深化と肯定的にとらえるのが多くのキリスト教史研究者の見方なのでしょうね。
ただ、こういう理屈っぽい話について行けない古くからの信者も相当いたように思われます。
かつて見られたようなプロテスタント信者の爆発的増大がなくなる原因のひとつとして、こうした理論的な争いの複雑・先鋭化を挙げてもよいのかもしれません。
なお、三並良・金森通倫・横井時雄については、以前、深井英五を検討した際に少し言及したことがあります。

「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8864
「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8866
「マルクスの著作の訓詁」の謎、回答編
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8867
『日本に於ける自由基督教と其先駆者』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8868
金森通倫の「不穏な精神」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8873
 

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