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中村翫右衛門と赤平事件(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月20日(金)10時16分13秒
編集済
  中村翫右衛門の息子、梅之助(1930-2016)の『前進座80年』(朝日新聞出版、2013)を読んでみたところ、赤平事件に関する記述も若干ありますね。

-------
前進座は歌舞伎に反旗を翻して1931年創立の日本で一番歴史のある劇団。時代劇・現代劇・青少年劇など全国で人気を博している。戦後のGHQ干渉や劇団分裂危機などの経緯もふまえ、創立の前年に生まれた著者が波乱と感動の80年を描く。

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=14678

それなりに面白いことは面白いのですが、警察に翫右衛門と間違えられて逮捕された人が瀬川菊之丞ではなくて「三味線の杵屋十三郎さん」になっているなど、記録としての正確性には多少の疑問も感じます。
しかし、「赤平事件」の直前に1952年5月の「血のメーデー事件」をもってくる点などは、時代の雰囲気を感じさせて、翫右衛門の『劇団五十年 わたしの前進座史』よりむしろ親切ですね。(p72)

-------
 「血のメーデー事件」となった五二年五月のメーデーに、人民演劇集団の構成員として座も参加しました。あの大騒ぎの中で「ドンドンドンドコドン」と、座のメンバーが打つ力強い大太鼓の音が、みなさんを励ましていました。あとで国民救援会から呼び出しがあって行きますと、部屋の奥に「殊勲甲」と札の張ってある大太鼓が飾ってありました。前進座が会場に置いてきてしまったものでした。前年の五月三十日、皇居前広場での集会にも、救援会の一員として参加していました。デモになりはじめ、MPが数人、カメラでときどきデモの列を撮影していました。そしてデモが帰ってきて解散の会場に入る前、突然MPが飛び込んできて、数人をつかまえて行きました。行きがけに写真を撮られた数人でした。朝鮮戦争が始まろうとするときで、実に双方が緊張していた時代でした。
-------

「朝鮮戦争が始まろうとするときで」とありますが、「前年(の五月三十日、皇居前広場での集会)」は1951年なので、朝鮮戦争は更にその前年、1950年6月25日に始まっていますね。
ま、梅之助が83歳のときの著作ですから、この程度の間違いはご愛嬌です。

血のメーデー事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

翫右衛門班が北海道巡演を始めたのは「血のメーデー事件」直後の1952年5月12日、赤平事件は同月24日で、共産党と警察の「実に双方が緊張していた時代」ですね。
おまけに北海道の場合は、同年1月21日に発生した白鳥事件のために警察側の共産党への態度が極端に硬化しており、翫右衛門の神出鬼没の逃亡劇は警察にとっては許し難い嘲弄であって、「(六月)十三日の上砂川空知劇場公演は、北海道中の警官が動員された」(『劇団五十年 わたしの前進座史』、p327)といった事態に発展したのでしょうね。
ただ、そうはいっても中国密航までやるか、という疑問は残りますが、翫右衛門も相当ハイテンションになっていて、劇団運営の悪化リスクとの比較考量といった合理的な計算とは別の世界に入り込んでいたのでしょうね。
他方、共産党指導部の発想としては、翫右衛門を中国に送ればすごい宣伝になるかも、といったあたりでしょうね。
前回投稿で翫右衛門の中国密航は志田重男の指示と承認のもとに行なわれた、みたいなことを書いてしまいましたが、翫右衛門クラスの超大物の場合、やはりそれを決められるのは北京の徳田球一ですね。

志田重男(1911-71)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%94%B7
徳田球一(1894-1953)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80

翫右衛門も徳田球一を頼りにしたはずですが、あいにく翫右衛門が中国に渡ったころ、徳田は病気で入院してしまいます。
そしておそらく翫右衛門のあずかり知らないところで、「北京機関」内部では野坂参三・西沢隆二と伊藤律・聴濤克巳・土橋一吉の間で深刻な対立が生じ、伊藤律は軟禁され、査問を受けるような事態になります。

『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』(その1)─「名目は勧告だが実際は指令である。違反はできない」(by 野坂参三)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9768
『伊藤律回想録』(その2)─「金庫の鍵をくれ」(by 野坂参三)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9769
『伊藤律回想録』(その3)─「今こうして同席していても、やがて敵味方になるかも知れないぜ」(by 志田重男)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9770
『伊藤律回想録』(その4)─「野坂同志は延安で何年も粟飯を食べながら……」(by 毛沢東)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9775
『伊藤律回想録』(その5)─「徳田は党報告もロクに書けない愚者、伊藤律はスパイ」(by 安斉庫治)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9772

ま、こういうドロドロの権力闘争には翫右衛門は関わらなかったでしょうが、1953年3月にスターリンが死に、同年10月に徳田球一も死ぬと、翫右衛門もずいぶん戸惑ったでしょうね。
 
 

中村翫右衛門と赤平事件(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月18日(水)23時22分6秒
編集済
  続きです。(p327)

-------
 逮捕された六人は起訴のうえ保釈された。七月の中国、関東巡演はわたし以外のメンバーで、わたしを逮捕しようとする私服警官につきまとわれながら、予定どおりおこなわれた。わたしは多くの人びとに守られてその後も官憲の追及をのがれ、伝手をえて北京へ"亡命"した。いわれのない逮捕という暴挙に対して基本的人権を守る立場をあくまでつらぬくためであった。また、サンフランシスコ条約が結ばれて以後の日本で、このような野蛮な弾圧が文化活動に向けられていることを、折りから北京で開かれることになっていた「アジア太平洋平和会議」に出席して訴える目的ももっていた。
-------

ということで、中国密航の経緯は「わたしは多くの人びとに守られてその後も官憲の追及をのがれ、伝手をえて北京へ"亡命"した」というだけの極めてあっさりした記述になっています。
翫右衛門のケースについて調べたことはありませんが、まあ、密航の手段は「人民艦隊」なんでしょうね。
大袈裟な名称ですが、要するに共産党がチャーターした漁船です。

人民艦隊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%89%A6%E9%9A%8A

翫右衛門が密航した翌1953年、歴史学者の犬丸義一も松島栄一から指示されて「人民艦隊」で中国に渡りますが、犬丸の場合は静岡県の焼津港から出航したそうです。
松島栄一(1917-2002)は現在検討中の『大本七十年史』の編集参与の一人であり、「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」の代表世話人でもあった人ですが、東大史料編纂所ではずっと助手で、定年退職の前年にやっと講師になれた程度の人です。
でもまあ、共産党内の序列では相当高い地位にあったのでしょうね。
犬丸は密航前に当時の共産党地下指導部のトップ、志田重男と会ったそうですが、翫右衛門の場合も、志田と会っているかはともかくとして、志田の指示と承認のもとに中国に密航したのは間違いありません。

網野善彦を探して(その16)─「『井上清なり、山辺健太郎』なりを送るから待っていろ」(by 松島栄一)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9765
犬丸義一・中国へ行く(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9766

さて、赤平事件に戻ると、いくら逮捕状が出ていたからと言って、たかが建造物侵入、それも経緯を考えればいくらでも反論ができそうな事案だったのに、いきなり中国に「亡命」するというのは飛躍がありすぎて、なかなか理解しづらいところがあります。
その疑問は、前進座の大幹部であった翫右衛門の「亡命」以後、前進座の経営が深刻な状況に陥った、という翫右衛門自身の説明により一層深まります。

-------
 わたしは日本を留守にするについて、いちばんの気がかりは劇団の団結だった。大劇場公演をあきらめてから足掛け七年の多班活動がつづき、長十郎班、翫右衛門班というかたちが固定化してくるにつれ、それぞれの班にいつとはなく垣根のようなものが感じられるようになり、劇団のなかに"長十郎派"と"翫右衛門派"といった空気が生れていた。これはわたしのもっともおそれていたことであった。また"赤平事件"のころの劇団の財政事情は『箱根風雲録』までの赤字の約千万円に北海道公演などの未収金二百万円余が加わってさらに悪化し、給料は遅配して電話がとめられるという事態まで起こった。わたしは同じ班で一しょにやってきた国太郎に、「どんなことがあっても長十郎中心に団結してほしい」と頼み、みんなにもいい、北京からもそういう趣旨をふくめた手紙をかれや劇団の仲間に何度もだした。
 わたしがいない期間の前進座は、ときにはコッペパンだけでその日をすごすような苦労もしながら全国巡演をつづけ、識者やファンのあいだに次第に強くなっていた要望にこたえるため、大劇場再進出への道を進めた。
-------

ということで、劇団内の不和と財政状態の悪化が目に見えているにもかかわらず、創設以来の大幹部が中国に「亡命」してしまう理由がどれほど重大なのかと思いきや、それはたかが建造物侵入罪です。
後に白鳥事件の関係者も多数が「人民艦隊」で中国に密航しますが、これは殺人罪、しかも公安警察官殺しという深刻な犯罪で、捕まったら場合によっては死刑を覚悟しなければならない、という話なので深刻さのレベルが違います。
いったい翫右衛門は何故、たかが建造物侵入罪で逮捕状が出ている程度の事情なのに中国に渡ったのか。
また、それを翫右衛門に命じた共産党地下指導部の意図はいったい何だったのか。
 

中村翫右衛門と赤平事件(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月18日(水)15時26分48秒
編集済
  前回投稿の最後で杉之原舜一に触れましたが、杉之原には『波瀾万丈 一弁護士の回想』(日本評論社、1991)という著書があります。
私は未読ですが、その内容は、

-------
第1部 波瀾の半世紀(生いたち;一高から京大へ;九大時代;非合法共産党の幹部として;出獄;法大、北大、道労委)
第2部 自由と人権のまもり手として(東奔西走の日々―「今度死ぬのは杉之原さ」;旭川事件と小樽事件―火炎ビン事件の真実;釧路事件―破防法で初の無罪判決;外国人登録法違反事件―在日朝鮮人の人権をまもって;ラズエノイ号事件―おかしなスパイの物語;レッドパージ訴訟―無法と闘い抜いた30年;白鳥事件―秘術をつくした裁判闘争;芦別事件―官憲のでっち上げに抗して;運動と裁判―むすびにかえて)

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784535579743

というものだそうです。
杉之原は実際には白鳥事件が冤罪ではないことを熟知していたにもかかわらず、「秘術をつくした裁判闘争」を展開したようですね。
また、戦前、杉之原は学者グループから共産党への資金カンパを募る活動をしていましたが、特高に逮捕されると資金提供先を詳細に自白し、河上肇逮捕の原因を作ったことでも有名な人ですね。
単に党周辺で金集めをしていただけで、しかも特高に迎合してカンパ提供者の名前をベラベラしゃべりまくったのに「非合法共産党の幹部」を自称するのはいささか厚かましい感じがします。

非常時共産党
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E6%99%82%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A

さて、『劇団五十年 わたしの前進座史』に戻って、続きです。(p327以下)

-------
 その後の各公演地との約束を破ってはならないと、不足の人員は東京から補充して、美唄、深川、夕張、余市と炭鉱地帯をまわって芝居をやり、六月一日、札幌についたとき、「翫右衛門に逮捕状が出た」と、インタビューにきた新聞記者が知らせてくれた。以後のあれこれはのちに『潜行記』(昭和二十七年九月・改造)などに書いたが、それを聞いたわたしやみんなの気持ちは、「約束した観客のために万難を排して舞台をつとめるのが俳優としての義務である」ということだった。逮捕されては舞台に出られなくなるから、相談のうえわたしはニコヨン労働者に変装してファンの家に身をかくした。
 三日と四日の札幌市民会館の公演には、私服の警官が張りこんでいた。わたしは戦前のことを思いうかべた。新協劇団や新築地劇団の公演は臨検の警官にたえず"中止"を命令され、やがて劇団は解散させられて、太平洋戦争になった。まるであの時代に逆もどりしたような"文化弾圧"にわたしたちはあっているのだった。わたしは何人かの仲間に守られ、舞台に立ち、そうした思いで超満員の観客に挨拶し、観客の眼の前でメイクアップをし衣装をつけて俊寛を演じ、終ると舞台裏から姿を消した。六日の昼はわたしを除く顔ぶれが、北海道大学職員組合の招きによって、北大のクラーク像の広場で『守銭奴』のページェントをやり、わたしは、その夜の室蘭大黒座公演、八日の函館共愛会館公演、十一日の小樽市議事堂公演といずれも『俊寛』だけに出演した。
 わたしは、魚屋のあんちゃんになったり、リュウとした紳士になったりの変装で、"潜行"をつづけた。だがいつ逮捕されるかしれなかったから、一しょに出演する座員たちにも、その日にわたしが出るか出ないかはいっさいわからず、とつじょ舞台にあらわれたのを見てそれを知った。だから、「おお俊寛どの、ひさしゅう会いませなんだ、無事でござりましたか」という成経、康頼との芝居のくだりをとっても、舞台には真実のこもった交流がおのずとわき、それがまた観客と交流した。演じるものも観るものも異常な状態におかれてのことではあったが、俳優としてのわたしには、あとにも先にも稀れな、しかも貴重な体験だった。
 十三日の上砂川空知劇場公演は、北海道中の警官が動員されたということだった。わたしは劇場にはいることができず、菊之丞が替って俊寛をつとめたが、かれはわたしと間違えられて逮捕され、翌日、釈放された。北海道巡演は上砂川が打ちあげだった。劇団は全道各地の観客との約束を果すことができた。
-------

番組では「わたしと間違えられて逮捕され」た瀬川菊之丞が警官に担がれて屋外階段を降ろされて行く様子を撮影した、たぶん当時のニュース映像が流されていましたが、菊之丞はずいぶん楽しそうで、報道機関の人々を含め、周囲も一種のお祭り状態でしたね。

瀬川菊之丞(六代目、1907-76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B7%9D%E8%8F%8A%E4%B9%8B%E4%B8%9E_(6%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

それにしても「各公演地との約束を破ってはならない」、「約束した観客のために万難を排して舞台をつとめるのが俳優としての義務」、「劇団は全道各地の観客との約束を果すことができた」と何度も「約束」が強調されますが、単なる興業予定が変更されるのは普通のことです。
しかも劇団から逮捕者が出ているという異常事態である以上、興業予定を変更しても別に「全道各地の観客」から文句も出ないはずなのに、何故に翫右衛門と前進座はここまで意地になって巡演を続けたのか。
また、何故に警察は、翫右衛門側の多少大袈裟な表現とはいえ、「北海道中の警官が動員」されるような警備体制を敷いたのか。
これも1952年の共産党と警察との関係、そして北海道における特殊事情としての白鳥事件を念頭に置かないと理解困難ですね。
 

中村翫右衛門と赤平事件(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月18日(水)11時47分4秒
編集済
  永岡論文の検討の途中ですが、16日に放送されたNHKの『ファミリーヒストリー』「中村梅雀~名優の家に生まれて 祖父の事件の真相~」が気になったので、少しだけメモしておきます。
この番組、最後の最後まで「共産党」という表現が登場しなかったのですが、翫右衛門の中国密航の経緯を「共産党」抜きで説明するのはいくら何でも無理で、視聴者の大半は訳が分からなかったでしょうね。
前進座が共産党系の演劇団体であることを知っている人であっても、赤平事件当時、北海道の共産党が置かれていた状況を正確に理解している人は稀なはずで、けっこう難しい話だったろうなと思います。

-------
中村梅雀さん63歳。祖父は中村翫右衛門。戦前から戦後と活躍した名優。父は「遠山の金さん」などでおなじみの、中村梅之助。今回、祖父・翫右衛門が関わった、戦後まもなくに起きた事件の詳細が明らかになる。警察から追われ、北海道から姿を消した翫右衛門。行方が分かったのは3か月後。中国・北京からのラジオ放送だった。驚きの真実が明らかになる。そして、父・梅之助の「遠山の金さん」秘話。激動の芸能一家の歳月。

https://www4.nhk.or.jp/famihis/x/2019-09-19/21/29254/1804167/

私は「五〇年分裂」当時の共産党に少し興味を持っていて、翫右衛門がどのようなルートで中国に密航したのか、中国でどのような生活を送っていたのか、野坂参三等の同時期の中国密航者とどの程度の接触があったのかが気になったのですが、今はちょっと調べる時間がありません。
そこで、とりあえず『劇団五十年 わたしの前進座史』(未来社、1980)で基本的な事実関係を確認しておくことにします。
まず、前進座は単なる共産党シンパではなくて、ほぼ全員が正式な共産党員ですね。

-------
 昭和二十四年(一九四九)、劇団員の多くが共産党に入党した。新聞は「既に時日の問題だけだったが、いよいよ全員が東京にそろったのを機会に五十余名が入党を決定、七日一時から研究所で徳田球一氏を迎えて入党式をおこなった。
-------

ということで(p306)、徳田球一に祝福された共産党のエリート宣伝部隊です。
ま、この時点では「獄中十八年」の徳田球一は絶大な権威を誇り、いかにも知的な風貌の野坂参三が「愛される共産党」などと戯言を言っていた訳ですが、翌1950年に入るとコミンフォルムの野坂参三批判で情勢が一変します。
共産党は徳田・野坂・伊藤律らの「所感派」と宮本顕治らの「国際派」に分裂し、1951年、徳田・野坂・伊藤たちは中国に亡命して「北京機関」を構成します。
他方、「北京機関」の包括的な了解の下、日本に残った志田重男らの地下指導部は武装闘争路線を推進し、「中核自衛隊」や「山村工作隊」などを組織して様々な騒擾事件、テロ事件を惹き起こします。
そして北海道では1952年1月21日、札幌市警の警備課長・白鳥警部がピストルで射殺されるという白鳥事件が起きます。

白鳥事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6

当時の状況からすれば共産党が極めて怪しく、警察は必死に共産党関係者の捜査を行なっていた訳ですが、ちょうどその頃、北海道に現れたのが前進座の翫右衛門班です。

-------
 わたしたちの班は、『箱根風雲録』の撮影を終えた二月から四月にかけて、北海道、関東、信州、北陸とまわり、五月は十二日の富良野を初日に十九ヵ所二十ステージを予定する北海道巡演にはいった。帯広、足寄と無事に公演がすみ、十六、十七日は春採の太平洋炭鉱で公演する日程をたてていたが、会社側から「共産党の宣伝をするから」と会場の提供を断られた。【中略】二十四日は赤平炭鉱の組合主催の公演に出るはずだった。だが、ここでも会社と組合および講堂が会場に予定された豊里小学校側と、公演の実現に一ばん熱心だった豊里演劇愛好会とのあいだにいざこざがあったが、とどのつまりは「組合が責任をもつなら貸す」という学校の教頭のことばで、組合は代議員大会まで開いて「組合は責任をもって会場を借りる」と多数決で決めたのだった。ところが公演前日になって、学校側は「なにがなんでも使用させない」と態度を豹変させた。【中略】当日になり、開演時間がきて前売り券を買った人びとは入り口で待ちきれず、折からの雨もあって、やがて会場には二千人ほどの観客があふれた。切符を買って集まってくれた観客のために芝居をやるのはわたしたちの義務だった。『どんつく』の幕をあけ、裸電灯の照明で狭い演壇を舞台に芝居をした。その途中で武装した警官が会場を遠まきにしているという知らせがあった。わたしは客席の高揚した空気と演じるものの心が一つになるのを感じながら俊寛をつとめた。
-------

ということで(p325以下)、このあたりは「ファミリーヒストリー」でも一応の説明がありましたが、たかが劇団の公演になぜ警察がそこまでピリピリしていたかは、共産党地下指導部の武装闘争方針、そして白鳥事件という北海道特有の事情を知らなければ全然分からないですね。

-------
 その夜、わたしたちは全員がファンの家に分宿した。このころはどの班も旅館に泊ることは例外で、分宿し、宿泊さきで感じたままの感想や批判を聞き、それを芝居の肥しにするという生活をつづけていた。その夜から翌朝にかけて、若い劇団員四名、床山の青年、手伝いの青年、現地の青年等八名が逮捕され、六名が"建造物侵入"の容疑で起訴された。
 前進座の法律顧問として、布施辰治弁護士は、すぐに「即時釈放」を求める書面を札幌地方裁判所岩見沢支部に提出し、次ぎのように声明して、現地の杉之原舜一弁護士らとともに以後の弁護にあたった。
-------

布施辰治(1880-1953)は共産党系の自由法曹団の創設メンバーの一人で当時は顧問、杉之原舜一(1897-1992)は元九州大学助教授、元北海道大学教授の民法学者で、白鳥事件でも弁護団の中心になった人物です。
 

永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月16日(月)13時17分54秒
編集済
  それでは「二 出口栄二と平和運動」に入ります。
まず、出口栄二氏の略歴ですが、

-------
 一九七九年にそれぞれ出口和明、栗原彬を相手として行なわれた対談において、出口栄二は自らの半生について詳しく語っている。これらの対談をもとに、彼の足跡をたどってみよう。栄二は、一九一九年に家口顕・いく夫妻の子として佐賀県で生まれた。八人きょうだいの六人目である。東邦電力の支店長を勤めた父の顕は一九二七年に亡くなり、それ以後は母・いくの下で育つことになる。いくは、顕の死後、栄二の姉・愛子のぜんそくをきっかけとして大本に出会い、一九二九年に入信したという。その後、栄二も亀岡で道場講座を受け、彼や兄弟姉妹も熱心に信仰するようになっていく。信仰にのめりこみすぎて、中学校を一年留年したほどであった。いくは一九三三年には佐賀の家を引き払って亀岡に移住したが、中学生だった栄二は佐賀市内に嫁いでいた姉とともに地元に残った。いく一家が熱心な信仰を始めた昭和初期には、大正天皇の大葬にともなう大赦で第一次大本事件が終息し、出口王仁三郎率いる大本は飛躍的に教勢を伸ばしていたのである。
-------

ということで(p133)、父が「東邦電力の支店長」ですからそれなりに裕福な家庭ではあったでしょうが、別に古参信者の家柄という訳でもないですね。

東邦電力
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%82%A6%E9%9B%BB%E5%8A%9B

1942年に早稲田大学法学部を卒業後、栄二は亀岡に住むことになりますが、栄二が教団内で枢要な地位につけたのは、ひとえに「アジア・太平洋戦争末期の一九四五年四月、保釈中の王仁三郎の勧めにより、彼の孫娘(三代教主・直日の長女)である直美の婿として出口家に入った」(同)おかげです。
「王仁三郎が一九四八年に亡くなったあと、教団は王仁三郎の妻である二代教主のすみを戴いた体制に移行」(同)しますが、そのすみも1952年に亡くなってしまいます。
そして第三代教主・直日(1902-90)を直日の妹・八重野の夫の宇知麿(佐賀伊佐男、1903-73)が「総長」として支える体制になりますが、栄二は1958年、宇知麿の後を継いで「総長」となります。
ちなみに直日の夫・日出麿(高見元男、1897-1991)は京都帝大中退のインテリですが、特高の拷問で精神を病み、直日を助けることはできなかったようです。
なお、1979年という極めて微妙な時期に栄二と対談した出口和明(1930-2002)は宇知麿と八重野の間に生まれた人で、大本教の分裂後は直美・栄二氏とは別の教団(「いづとみづの会」、「愛善苑」)を作ることになります。

出口宇知麿(1903-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E5%AE%87%E7%9F%A5%E9%BA%BF
出口和明(1930-2002)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E5%92%8C%E6%98%8E

さて、

-------
 一九五四年からは、大本は原水爆禁止運動へと乗り出していくことになる。直接的には、三月一日のビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験、そして第五福竜丸の被曝が契機となったが、それ以前より大本には人類愛善会を中心とした平和運動の基盤があり、いち早く原水禁運動に取り組んでいった。栄二は青年会長として先頭に立ち、原水爆禁止のための署名運動を展開していく。また、物理学者・湯川秀樹や四手井網彦【ママ】、経済学者・岸本英太郎ら京都大学の研究者と交流をもち、彼らを青年会の学習会に招いて原子力問題にかんする知識の共有に努めた。一九六二年にいたるまでの大本は、平和憲法擁護、世界連邦運動、原水爆禁止と世界的軍縮の推進、日本の再軍備反対、新安保条約批准反対といったテーマで、署名運動、デモ行進、国際会議への出席、学習会などの活動を精力的に行ったのである。
-------

ということで、ファシズムを推進する側であった「昭和神聖会」運動などに関わった信者からすれば吃驚仰天の教団運営が展開された訳で、反発も強かったようです。
1919年生まれの栄二が「総長」となったのは39歳、編纂会長となったのは41歳のときで、ずいぶん若いですね。
その若さゆえに第二次大本事件でも逮捕・投獄を免れ、王仁三郎の近くで「帝王教育」(?)を受けた期間も短いですから、結局、栄二による「支配の正統性」の根拠は出口家の長女の婿という親族関係だけといってもよさそうですね。
ちなみに七十年史の編纂が開始された1960年時点での執筆を担当した編集参与・編集委員の年齢を見ると、

上田正昭(1927年生、33歳)
佐木秋夫(1906年生、54歳)
松島栄一(1917年生、43歳)
村上重良(1928年生、32歳)
鈴木良(1934年生、26歳)
安丸良夫(1934年生、26歳)
前島不二雄(1931年生、29歳)

ということで、栄二は佐木の13歳下、松島の2歳下です。
 

永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月15日(日)09時55分38秒
編集済
  「はじめに」には「研究対象を信仰の文脈から引き剥がすという暴力的な契機」(p127)とか、「ひとつの(たとえば信仰の)文脈から対象を引き剥がし、べつの(たとえば歴史学の)文脈へと翻訳するということの暴力性が、そういって悪ければ非自明性が、否応なく「意識化」されてしまう」(p129)といった難しそうな話が出てきますが、具体例に即して考えないと分かりにくいですね。
そこで、このあたりは後で見直すことにして、「一 大本の歩みと『大本七十年史』編纂事業」に入ります。
まず大本教の歴史ですが、第一次弾圧までは既に何度か触れているので、第二次弾圧を見ると、

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 その後、一九二七年に大赦によって免訴となった王仁三郎らは布教活動を再開、満蒙問題への発言や立替え立直しの主張などで注目を集めていく。一九三四年には外郭団体・昭和神聖会を結成し、軍人や民間右翼団体と提携しながら活発な政治的活動を行なおうとするが、これらの動きが不敬罪や治安維持法違反にあたるとして一九三五年に第二次大本教事件が勃発し、王仁三郎以下幹部が投獄され、教団施設は破壊、土地も不法に売却されるなど、徹底的な弾圧を受けた。
-------

ということで(p130)、ここで重要なのは「昭和神聖会」ですね。
出口王仁三郎が頭山満・内田良平と一緒に写った有名な写真がありますが、「昭和神聖会」は客観的には右翼団体であり、天皇機関説排撃運動にも加担します。
そしてこの「昭和神聖会」の活動が第二次弾圧事件のきっかけとなる訳ですが、治安維持法で弾圧された他の宗教団体とは異なり、大本教は「ファシズム」の単純な犠牲者ではなく、第二次弾圧事件前はむしろ国家の「ファシズム」化を積極的に推進した側ですね。
従って『大本七十年史』においては「昭和神聖会」は扱いが非常に難しいテーマとなり、執筆者の間でも論争を呼ぶことになります。

昭和神聖会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%A5%9E%E8%81%96%E4%BC%9A
出口王仁三郎(1871-1948)【頭山・内田との写真あり】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%8E%8B%E4%BB%81%E4%B8%89%E9%83%8E
頭山満(1855-1944)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80
内田良平(1874-1937)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E8%89%AF%E5%B9%B3_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%AE%B6)

さて、「大本には二度にわたる弾圧事件をとおして形成された「邪教」としてのレッテルが、戦後にいたっても貼りつけられたままであった」(p131)ので、教団の「総長」であり、編纂会長を兼ねた出口栄二氏は「大本事件についての「はっきりした態度」を示し、「誤解」を解くこと」(同)を『大本七十年史』のひとつの大きな課題として、1960年に編纂事業を開始します。
しかし、その僅か二年後、「『七十年史』編纂が続くさ中の一九六二年一〇月、出口栄二は大本の総長ほか、ほとんどの役職を辞任することに」(p156)なります。
とはいっても、出口栄二氏は『大本七十年史』が完成するまで編纂会長に留まり、『大本七十年史』には出口栄二氏の個性が強く反映することになるので、次に出口栄二氏とは何者かを見て行きます。
 

永岡崇「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって」を読む。(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月14日(土)12時20分51秒
編集済
  私も別に「左翼」が書いたから『大本七十年史』はダメ、と思っている訳ではありません。
上田正昭氏が自画自賛されているように、思想はともかくとして、それなりに優秀な歴史研究者・宗教研究者が参加したことにより、「異色でレベルの高い『大本七十年史』を完成した」(『アジアのなかの日本再発見』、p123)のは確かですね。

「出口王仁三郎と小幡神社」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10015

しかし、それが「教団史のあるべき方向を示唆する編纂となった」(同)かについては若干の疑問があります。
というのは、『大本七十年史』は1980年に起きた大本教の分裂の直接の原因ではありませんが、編纂の過程で大本教内部にもともと存在していた信仰上、思想上の対立を刺激し、亀裂を拡大させた面があるからです。
少なくとも新興宗教教団の内部の人から見れば、『大本七十年史』みたいなものを作ったら教団が分裂する前例を作った訳ですから、後に続く教団が出てくるとも思えません。
ま、それはともかく、『大本七十年史』は宗教と歴史学が接触・格闘した極めて興味深い事例ではあるので、永岡崇氏の「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」(国際日本文化研究センター『日本研究』47号、2013)に即して、もう少し検討してみたいと思います。
大谷栄一・菊地暁・永岡崇編『日本宗教史のキーワード 近代主義を超えて』(慶應義塾大学出版会、2018)の「編著者紹介」には、

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永岡崇(ながおか たかし)
大阪大学大学院文学研究科招へい研究員。1981年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専門分野:日本宗教史、日本学。主要著作:『新宗教と総力戦』(名古屋大学出版会、2015年)、「宗教文化は誰のものか」『日本研究』47集(2013年)、「近代日本と民衆宗教という参照系」『日本史研究』663号(2017年)ほか。
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とありますが、今年4月から駒澤大学総合教育研究部文化学部門講師だそうですね。
駒澤大学サイトの写真を見ると、いかにも宗教史研究者らしい渋い顔をされておられますね。

https://researchmap.jp/ukon30/
https://www.komazawa-u.ac.jp/academics/teachers/synthetic/culturology.html

さて、「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」の構成は、

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 はじめに
一 大本の歩みと『大本七十年史』編纂事業
二 出口栄二と平和運動
三 民衆宗教史研究と大本という事例
四 大本出現の意義、あるいは神がかりの意味をめぐって
五 大本の戦争観をめぐって
六 昭和神聖会・第二次大本事件・大本思想
七 『大本七十年史』とその後
 おわりに
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となっています。
「はじめに」はその一部を既に紹介しています。

出口栄二著『大本教事件』(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10006

なお、「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」は日文研サイトでPDFで読めます。

『日本研究』第47集
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&index_id=196&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese&page_id=41&block_id=63
 

『大本七十年史』執筆者における「左翼」の割合

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月13日(金)10時14分43秒
編集済
  前々回投稿のプチ疑問に対するプチ解答ですが、『大本七十年史 下巻』(宗教法人大本、1967)の巻末に大本七十年史編纂会のメンバー一覧があり、

理事 9名
編集参与(五〇音順)9名
編集委員 (部内)4名 (部外)3名 計7名
事務局 13名 (補助)11名 計24名

の名前が出ています。
理事は出口栄二・出口うちまる・出口虎雄の三名が出口姓で、残りの6名も教団内部の人です。
編集参与は9名全員が教団外部の学者ですが、奇妙なことに(五〇音順)と書かれているにも拘らず、そうはなっていません。
9名は二つのグループに分かれていて、

京都大学助教授 上田正昭
日本宗教学会評議員 佐木秋夫
東京大学史料編纂所員 松島栄一
東京大学東洋文化研究所員 村上重良

東京大学教授 小口偉一
立命館大学教授 北山茂夫
京都大学教授 岸本英太郎
京都大学教授 柴田実
立命館大学教授 林屋辰三郎

という順番であり、各グループ毎に五十音順なのかなと思ったら北山・岸本は五十音順ではないですね。
鈴木良・安丸良夫・前島不二雄の3名は編集参与ではなく、編集委員の(部外)に名前が出ています。
永岡崇氏「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」で永岡氏がインタビューしている若本美晴氏は事務局の二番目ですね。
さて、永岡崇氏と上田正昭氏が挙げる学者のリストのずれの原因ですが、「あとがき」の一番最後に、

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 最後になったが、『大本七十年史』の出版にさいしては、編集参与の方々に、史料や執筆内容についていろいろ助言をいただき、とりわけ編集参与佐木秋夫・松島栄一・上田正昭・村上重良、編集委員鈴木良・安丸良夫・前島不二雄の各氏には執筆についてもご協力をわずらわし、また上田正昭氏には全文についてのリライトをおねがいした。ここにそのご協力に感謝する。
-------

とあって、永岡氏は執筆を分担した編集参与4名、編集委員(部外)3名を挙げているのに対し、上田氏は編集参与9名を挙げている訳ですね。
ということで、上田氏が安丸良夫氏を軽んじている訳ではなさそうです。
この当時、鈴木良・安丸良夫氏は京都大学、前島不二雄氏は立命館大学の大学院生で、あくまで上田氏から紹介されたアルバイトとして編集委員となり、執筆を分担した、という立場ですね。
ところで、上田氏は自伝である『アジアのなかの日本再発見』(ミネルヴァ書房、2011)において自らを「左翼」とは位置付けておられないようですが、少なくとも『大本七十年史』に関与した1960年代においては「左翼」と見られることが多かったでしょうね。
編集参与の第一グループ4名のうち、佐木秋夫は戦前「戦闘的無神論者同盟」で活動していたゴリゴリの「左翼」で、松島栄一・村上重良とともに共産党員です。(但し、村上重良は後に「創共協定」とそれを主導した宮本顕治を批判して除名される。)
編集参与の第二グループ5名のうち、歴史学者の北山茂夫は著名な「左翼」ですし、宗教学者・小口偉一のことはよく知りませんが、佐木秋夫と一緒に『創価学会 その思想と行動』(青木書店、1957)という本を出しているそうなので、たぶん「左翼」でしょうね。
経済学者・岸本英太郎についても特に知りませんが、青木書店から多数の編著を出しており、出口栄二氏とは「平和運動」「原水禁運動」で旧知の間柄だったとのことなので(永岡論文、p134)、まあ「左翼」ですね。
上田氏を京都大学助教授に招いてくれた「恩師柴田實先生」(『アジアのなかの日本再発見』、p42)についても私はよく知りませんが、著書のタイトル・出版社を見る限り、あまり「左翼」っぽくはないですね。
「科学運動」に熱心な日本史研究会の創設者の一人である林屋辰三郎の扱いはちょっと迷いますが、文化史の業績が多く、また本人は「科学運動」に積極的に関わるタイプでもなさそうなので、一応「左翼」から外した方がよさそうです。
ということで、編集参与は9名中、7名が「左翼」のようです。

小口偉一(1910-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8F%A3%E5%81%89%E4%B8%80
岸本英太郎(1914-76)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E6%9C%AC%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E
柴田實(1906-97)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%AF%A6

ついで(部外)の編集委員のうち、鈴木良氏はガチガチの「左翼」で共産党員ですね。
前島不二雄氏については、失礼ながら私は永岡論文を読むまでは名前も聞いたことがなかったのですが、『大本七十年史』の記述をめぐる微妙な論点で鈴木・安丸氏と意見が一致し、上田・村上氏をかなり厳しく批判するような場面があったとのことなので(p148以下)、まあ「左翼」であることだけは間違いないですね。
安丸氏はもちろん「左翼」なので、(部外)の編集委員3名全員が「左翼」です。

鈴木良(1934-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%89%AF
前島不二雄(1931生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%B3%B6%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E9%9B%84

ということで、編集参与・編集委員の殆どが「左翼」で、実際に執筆に関与した「編集参与佐木秋夫・松島栄一・上田正昭・村上重良、編集委員鈴木良・安丸良夫・前島不二雄」の7名は全員が「左翼」です。
大本教内部において、『大本七十年史』が「「あれはサヨクだ」とか、「あんなの読むな」とかね、いろいろ厳しい批判を受け」たというのも、まあ、仕方がない面もありますね。

出口栄二著『大本教事件』(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10006

※追記(9月18日)
北山茂夫と林屋辰三郎をひとまとめにして著名な「左翼」 と書いたのはまずかったので、若干修正しました。「左翼」は乱暴な括りですが、ここでは大本教の反出口栄二派から学者たちがどのように見えたかを重視して「左翼」云々の区分をしています。
学問の世界に縁のない人びとからすれば、学者の思想の細かな違いは良く分からず、これだけ「左翼」的傾向の人が多いのであれば、全体として「サヨク」、即ち自分たちとは異質な存在と見たのではないかと思います。
 

「西田文化史学を慕って受験しました」(by 上田正昭)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月12日(木)11時50分25秒
編集済
  中学二年生のときに小幡神社社家上田家を継ぐことになった上田正昭氏は、

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 早く神職の資格をとらねばならぬ。第三高等学校への志願はあきらめ、京都府立二中を経て、京都圀学院、さらに國学院大学専門部へ進むことになる。和銅元年(七〇八)に丹波国司の大神朝臣狛麻呂〔おおみわのあそみこままろ〕の尽力で創建されたと伝える丹波の古社小幡神社兼神明社の宮司に任命されたのは、昭和二十二年(一九四七)の五月一日であった。
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とのことで(『アジアのなかの日本再発見』、p15)、巻末の「上田正昭略年譜」を見ると、この年、圀学院大学専門部を卒業し、京都帝国大学文学部(史学科)に入学されていますね。
ちなみに1954年(昭和29)に「関西医科大学瀬戸文雄教授の娘祐子と結婚」とあるので、婿養子ではないのですね。
さて、上田氏は京都大学卒業後、京都府立園部高校、ついで京都府立鴨沂高校教諭となりますが、鴨沂高校では「のちに大阪大学教授となり、東亜大学学長ともなった山崎正和君なども自治会長として活躍」しており、「生徒部長として自治会の代表と団交したありし日のできごとなどが懐かしい」(p41)そうです。

貝塚啓明「高校時代の山崎氏のこと」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8949
『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の聞き手について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8952
「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9540

そして1963年(昭和38)、上田氏は京都大学助教授となりますが、

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 高校教師からいきなり京大助教授への採用は、当時としては異例で、左翼の研究者からはいろいろといやがらせをうけた。今はある公立大の教授となっているS君からは、研究会でこのたびの人事が批判されているという知らせもあった。しかし忍耐を積み重ねて研究と教育にいそしみ学位論文『日本古代国家論究』をまとめた(塙書房、一九七〇年)。
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のだそうです。(p43以下)
ここで上田氏自身は自分のことを「左翼」とは思っていないらしい点がちょっと面白いですね。
傍からみると上田氏は思想的には「左翼」色が強いような感じがしますが、式内社の神主という立場でもあることが「左翼」否定の一因でしょうか。
上田氏の国学院大学専門部(旧高等師範部)を経て京大入学という経歴も珍しくて、旧制三高あたりを出た京大本流(?)の「左翼」の人から見たらケチをつけたくなるのかもしれないですね。
ちなみに上田氏が京大に進学したのは「西田文化史学を慕って」だそうです。

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 昭和二十二年(一九四七)四月一日、京都帝国大学文学部史学科(国史学専攻)に入学した。入試はペーパーテストのほかに面接があった。そのおりの国史学の主任教授は西田直二郎先生である。西田文化史学の泰斗であり、名著『日本文化史序説』は、國学院大学在学中によんで深い感銘をうけていた。面接のおりに西田先生がもの静かに「國学院には折口君・武田君や岩橋君がいるのに、なぜ京大へ進学するのか」と問われた。折口信夫・武田祐吉・岩橋小弥太の三先生は天王寺中学で西田先生と同級生であった。「西田文化史学を慕って受験しました」と答えたことを、今でもはっきり覚えている。
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とのことで(p27)、西田直二郎もまんざらでもない気分だったでしょうね。

西田直二郎(1886-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%94%B0%E7%9B%B4%E4%BA%8C%E9%83%8E
 

出口王仁三郎と小幡神社

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月11日(水)21時32分20秒
編集済
  永岡崇氏「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」(国際日本文化研究センター『日本研究』47号、2013)の注記に出てきた上田正昭著『アジアのなかの日本再発見』(ミネルヴァ書房、2011)を確認してみたところ、上田氏と大本教の「因縁は深い」ですね。

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日本史の碩学が描き出す多彩な知的交流

湯の町城崎に生まれたガキ大将は、やがて神職の道、さらに教育・研究の道へ。ひろく日本とアジア、世界を見渡し、歴史学のみならず国文学、考古学、民俗学にも精通、研究者はもとより多くの作家・先学とも深くまじわってきた碩学による「生きた歴史」研究の軌跡。
https://www.minervashobo.co.jp/book/b86709.html

関係する部分を少し引用してみます。(p122以下)

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 地域史ではないけれども、私の生涯にとって忘れることのできない仕事に、『大本七十年史』(上巻・下巻)の編纂がある。明治二十五年(一八九二)に、丹波の綾部で出口なおによって開設した大本を、国内はもとより国際的なひろがりをもつ教団に発展させたのは出口王仁三郎であった。大正十年(一九二一)の第一次事件、つづく昭和十年(一九三五)の第二次事件で徹底的な弾圧をうけながらも、不死鳥のようによみがえって、「立替え・立直し」による「みろくの世」の実現をめざす活動をつづける大本と私の因縁は深い。
 出口王仁三郎は明治四年(一八七一)の八月二日(旧七月十二日)に、丹波国桑田郡穴太村(亀岡市曾我部町穴太)に小作農上田吉松とよねとの間に生まれた。幼名上田喜三郎を名乗ったが、明治三十三年の一月一日、開祖出口なおの娘すみ(二代教主)と結婚して、出口王仁三郎と改名し、のちに聖師とあおがれるようになる。
 その上田喜三郎が幼少のころより崇敬していた穴太の産土神小幡大神の教示によって、雲山高熊山に、明治三十一年三月一日(旧二月九日)入山修行する。その産土の小幡神社の社家三十三代目を私が継承したのである。出口聖師を介して大本とのかかわりが生じ、三代教主出口直日の委嘱で、『大本七十年史』を編集することになった。編集参与となった私のほか、小口偉一東京大学教授・柴田實京都大学教授・岸本英太郎京都大学教授・林屋辰三郎立命館大学教授・北山茂夫立命館大学教授、松島栄一東京大学史料編纂所員、佐木秋夫日本宗教学会評議員、村上重良東京大学東洋文化研究所研究員が編集参与として参加し、異色でレベルの高い『大本七十年史』を完成した。教団史のあるべき方向を示唆する編纂となった。序章の執筆はもとより執筆原稿のすべてを補訂するのに苦策した日々があらためてよみがえってくる。
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『大本七十年史』(上巻)に出口王仁三郎(上田喜三郎)の生家付近の地図が載っていますが、それを見ると王仁三郎の生家と一軒挟んだだけの隣に小幡神社があります。
小幡神社の社家は上田姓で、これだけご近所ですから、親族関係もたぶんあるのでしょうね。
もっとも上田正昭氏自身は城崎の呉服屋に生まれ、「中学二年生のおりに京都府南桑田郡曾我部村(現亀岡市曾我部町)穴太の延喜式内社小幡神社の社家上田の三十三代をつぐことになった。先代が逝去して、後継者がなく、父母と親しい間柄であった上田多美・美智の懇望にもとづく」(p15)という事情で上田家の養子となった人なので、王仁三郎の生家との直接の関係はありませんが。
さて、永岡崇氏が、

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 検討する事例は、『大本七十年史』(以下、『七十年史』と略記)編纂プロジェクトである。『七十年史』とは、京都府亀岡市・綾部市に本部を置く宗教法人大本が一九六四~六七年にかけて刊行した教団史のことだが、執筆には教団に属する信仰当事者だけでなく、上田正昭、佐木秋夫、松島栄一、村上重良、鈴木良、前島不二雄、安丸良夫ら、当時では中堅から若手の世代に属する歴史学者や宗教学者が深くかかわり、高い学術的価値を備えた教団史として評価されてきた。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10006

としているのに対し、上田氏が小口偉一・柴田實・岸本英太郎・林屋辰三郎・北山茂夫・松島栄一・佐木秋夫・村上重良の名前だけを挙げているのはちょっと面白いですね。
なぜこの順番なのか、そして上田氏が『出口ナオ』その他で大本教について書きまくっている安丸良夫の名前を出さないのは何か事情があるのか。
ま、謎というほどではありませんが、少し長くなったので解答は次の投稿にて。

上田正昭(1927-2016)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%98%AD
「丹波路を行く 京都府亀岡市 小幡神社へ」
https://30047809.at.webry.info/201706/article_19.html
 

大本教は「なんらの社会的活動をしないとしても危険思想として注目された」のか?

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月11日(水)12時08分45秒
編集済
  『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(新教出版社、1972)の「Ⅲ 論稿」に掲載された小池健治「5 戦前戦中の国家神道による人権侵害─控訴審での「宗教弾圧」の立証を中心にして」(p286)から「甲第一二号証」の出口栄二『大本教事件』(三一新書、1970)に移り、更に大本教に対する吉野作造・姉崎正治の評価などを見てきました。
大本教の成立は「開祖」出口なお(1837-1918)に「艮(うしとら)の金神(こんじん)」が「神懸り」した1892年(明治25)とされていますが、1898年に「聖師」出口王仁三郎(上田喜三郎、1871-1948)が加わった後も教勢はそれほど伸びず、「大正初年における大本の信者数は千人にみたない綾部の一地方教団にすぎなかった」(『大本七十年史』上巻、p513)そうですね。
大本教の全国展開は1916年(大正5)に始まりますが、そこからの伸びは急激で、第一次弾圧までの僅か五年程度の間に教団は爆発的に成長します。
同時期、日本経済は空前の好景気となり、いわゆる「成金」が続出しますが、卓越した宣伝戦略で時代の波に乗った大本教は、新興宗教のビジネスモデルを考案・確立した「宗教成金」ですね。
そして大本教に入信した人々の中から、世界救世教の岡田茂吉や立正佼成会の庭野日敬など、次世代の新興宗教界の巨人たちが続々と誕生することになります。

岡田茂吉(1882-1955)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E8%8C%82%E5%90%89
庭野日敬(1907-92)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E9%87%8E%E6%97%A5%E6%95%AC

もちろん終末思想で社会不安を煽るという大本教のビジネスモデルだけが唯一の手法ではなく、大本教が育んだ新興宗教界のアントレプレナーたちはそれぞれ独自の工夫を重ねる訳ですが、大本教出身の人材の豊富さだけを見ても、出口王仁三郎は新興宗教業界の渋沢栄一みたいな存在、と言っても過言ではないかもしれません。
さて、小池健治弁護士は、

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 大本教は艮の金神による三千世界の立替え立直しという明確な教義をもち、かつその金神の宿し主であるナオとその後継者こそ最高の宗教的権威をもつものとしたから、天皇を現人神〔あらひとがみ〕として、政治的権威に止まらず宗教的権威としても崇拝させていた当時の国家神道による支配体制からはなんらの社会的活動をしないとしても危険思想として注目されたことは当然のことであった。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10004

などと言われていますが、大本教くらい騒々しく「社会的活動」を行なった宗教団体は他に存在しないですね。
「天皇を現人神として、政治的権威に止まらず宗教的権威としても崇拝させていた当時の国家神道による支配体制」といった表現は、小池弁護士のみならず、「国家神道」という言葉を極めて否定的に用いる研究者・運動家に愛用されていますが、少なくとも大正デモクラシーの時期には「支配体制」と呼べるような強固な宗教統制は全然存在していません。
小池弁護士が推奨する「甲第一二号証」の『大本教事件』でも、出口栄二氏は美濃部達吉の天皇機関説や津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』に触れた後、

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 大正二年三月号の「中央公論」には、早大教授副島義一が「天皇も人なることは世界何人も争うをえざる事実なり、然らば絶対に過失なしというべからず」と論じ、四月号には貴族院議員大木遼吉【ママ】が「現代において天皇は神なりといい、万智万能にして過誤なしというが如きは失当の言である。君主が宗教的哲学的見地から認めたる宇宙の主宰者と同一であるなどというのは、牽強付会に非ざれば阿諛諂佞の辞である」とかいて天皇人間論をのべ、天皇無過失説を批判した。
-------

と述べますが(p70)、副島義一や大木遠吉が不敬罪で逮捕・訴追されたかというと、そんなことは全然ありません。

副島義一(1866-1947)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B3%B6%E7%BE%A9%E4%B8%80
大木遠吉(1871-1926)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%A8%E9%81%A0%E5%90%89

天皇が「現人神」などというのは単なる美称であり、キリスト教などで言う「神」とは全く別な存在であることは誰でも知っていた訳ですが、そういうことをあからさま言うのが躊躇われるような世相になったのはずっと後、軍部の強大な圧力の下で帝国憲法下の国家運営が変質してしまった天皇機関説事件後の異常な一時期だけですね。
大正デモクラシー期に大本教が弾圧されたのは、小池弁護士が言うように大本教が原理的に「危険思想」を胚胎していたからではなく、斬新な宣伝手法を駆使して、その終末思想で社会不安を煽ったからですね。
綾部のような田舎町で細々と「危険思想」を奉ずる少人数の教団が存在したとしても、「なんらの社会的活動をしない」のであれば国家権力が干渉しないのは「当然のこと」です。
警察もそこまで暇ではありません。
 

「大本教問題は、個人心理よりも、寧ろ社会心理の問題」(by 姉崎正治)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月10日(火)10時25分46秒
編集済
  続きです。(p88以下)

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一方、一九二〇年前後より、出口王仁三郎が大本の実権を握り、社会的センセーションを巻き起こすようになると、大本教への姉崎の言及も増えてくる。この時期の姉崎の大本論の特徴は、それが社会論および政治批判と結びついて展開されていることにある。大本教批判の急先鋒中村古峡の主催する『変態心理』に載った「大本教について」を見ると、姉崎の嫌悪の的である「軍人」を中心とする有識階級特有の節操なき「迷信遍歴者」が大本信徒の中核をなしていること、「現世利益」と「偏狭な国家主義」、「科学的精神の欠乏」などを特徴とし、激しく社会不安を煽ることで教勢を延ばそうとすることを、大本教の決定的問題点と見る。それと同時にこの論考では、大本教のような宗教信仰の出現が、明治初年以来の政府と教育による宗教への「虐待」の結果であるとし、自然な宗教性の成熟を妨げた日本の宗教政策への批判もなされる。また古峡の大本批判(『大本教の解剖』)の一方的な病理学的態度にも批判を加え、「大本教問題は、個人心理よりも、寧ろ社会心理の問題だと考える」としている。これは姉崎初期の「病理学」論からの姉崎自身の移行をも示しているといえよう。さらにこの時点で大本教に対する内務省の弾圧を察知した姉崎は、大本を取り締まるなら国家が強制している神社信仰にも見られる呪術行為をも取り締まるべきであり、必要なのはまず「政府の自己治療」である、とまで言っている。
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日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』(2004)によれば、中村古峡(1881-1952)は、

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明治~昭和期の小説家,医師 異常心理研究の草分け。
【中略】
学歴〔年〕東京帝大英文科卒,東京医専〔昭和3年〕卒
経歴 夏目漱石門下生として東京朝日新聞社に入社したが、作家への夢が断ち難く、明治43年退社し、長編「殻」を朝日新聞に連載。大正2年同作品を出版し好評を博す。6年文学を棄て、日本精神医学会を組織し、月刊機関誌「変態心理」を創刊。健康と病気、正常と異常の区別を排した精神医学と変態心理学の必要を説き、現代の異常心理研究の草分けとして偉大な業績を残した。また千葉市に中村古峡療養所(のちの中村古峡記念病院)を開院。昭和12年には詩人・中原中也が入院した。著書に「変態心理の研究」「二重人格の女」などの他、作家としての作品に「甥」「永久の良人」などがある。平成11年「変態心理」全巻の復刻版が出版される。

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%9D%91%20%E5%8F%A4%E5%B3%A1-1651288

という人物です。
出口栄二『大本教事件』には、

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変態心理学者・中村古峡
 中村古峡は「変態心理」(今日でいう異常心理)の立場からはげしく大本を攻撃した。のちに警察官練習所の講師をつとめ、「大本邪教」観を中堅の警察官に教育し、二次弾圧事件への影響もみのがせない。中村は大正七年九月に大本をおとずれ、浅野にあい鎮魂帰神や筆先などに関心を示した。【中略】
 大正八年には内務大臣官邸で、内相床次竹二郎はじめ警保局長・警視総監らにたいし、二回にわたって大本批判の講演と鎮魂帰神についての心霊実験をおこなった。その後、当局の大本に対する意向をみた中村は、主宰する「変態心理」紙上に大本攻撃の筆陣をはり、「学理的厳正批判大本教の解剖」を出版して攻撃に拍車をかけた。仏教はじめ各方面のもとめに応じて大本撃滅講演会に出向し、学問的よそおいをもった中村の弁舌とペンが、大本弾圧に果たした役割は大きかった。
 中村は、「大本教は山師と狂人と迷信者の愚劣な集団で、教祖は宗教性妄想痴呆患者、王仁三郎は神諭と予言を捏造して私利私欲虚名をむさぼる大詐欺師、集る者は世の不平家・落伍者・過激論者・反国家主義者、教祖の神憑りは妄想にもとづく人格変換であり、筆先は荒唐無稽な濫書にすぎない」と、自分勝手な理論をふりかざして大本を攻撃し、「こんな愚劣な集団を不敬罪で処罰するのはかいかぶりもはなはだしい。破廉恥罪こそふさわしく、王仁三郎と浅野を半年か一年社会から隔離したら大本教の自滅は火をみるよりもあきらかだ」と当局をたきつけたのである。
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とあります。(p52以下)
中村古峡のあまりの言葉の激しさに、ちょっと吃驚しますね。
中村に比べると姉崎正治の分析は視野が広く、バランスが取れていて、知識人としての格の違いを感じさせます。
 

「此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人」(by 浅野和三郎)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 9日(月)21時43分28秒
編集済
  吉野作造の「大本教の如き迷信の由つて来る所以については、先般或新聞紙上で姉崎博士が頗る肯綮に中つた論評をせられて居る」に対応する姉崎正治の文章は未確認ですが、姉崎の大本教に対する評価については磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)が参考になります。

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日本宗教学のパイオニアである東大教授姉崎の全体像を捉えるべく姉崎正治伝・研究論文・年譜・関係資料目録の4部より成る。とりわけ年譜と資料目録が詳細で,姉崎研究には不可欠である。

http://www.tokyodoshuppan.com/book/b80102.html

同書の「第一部 姉崎正治伝」は磯前順一氏が執筆していますが、その「第七章 世界平和と現代文化の危機(一九二〇-二九年)」に次のような記述があります。(p86以下)

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新宗教評価の変化
 一九二六(大正一五)年に天理教管長で二代目真柱の中山正善が東大宗教学科に入学する。かつて学生時代には天理教を「信解の知的方面なく実行努力の感情的宗教」として宗教病態の一種に扱った姉崎であるが、明治末年には「迷信もあるが、而かも一般の心情に幾分の満足を与へるべき宗教」としてその社会的影響力を高く評価するようになり、三教会堂や帰一協会をとおして交流をもつようになっていた。【中略】
 おなじ民衆宗教でも、姉崎から正反対の評価を受けたのが大本教であった。この姉崎の大本評価は、姉崎の宗教と社会に対する位置決定を確認する上でも興味深いものである。一八九二(明治二五)年、出口なおの神がかりで開教された大本は、王仁三郎が女婿となり、またことに一九一四(大正三)年、皇道大本と改称して以来、知識人や軍人の入信が相次ぎ、あなどれない宗教勢力となってきた。姉崎の著書には大本の名が散見されるが、否定的な評価という点では終始変わらない。一九一六年一〇月刊の『人文』に、編集委員の姉崎の許可なく浅野和三郎の「余が信仰の経路と大本教の紹介」が載ると(『人文』一-一〇)、姉崎は翌号でさっそく反駁を試みる。英文学者であった浅野は姉崎より一歳下の後輩であり、『帝国文学』同人としても顔なじみであった。姉崎は、鎮魂帰神による神秘体験は主観的確実性をもたらすにしても客観的認識をもたらすものではなく、また大本の予言等の秘義めかしたエソテリズムの態度そのものが、人道救済という目的と矛盾するものだとの批判を行なう。浅野はさらに次号で、反論を試みているが、すでにこれは大本神論に内在した反論であったため、論争はここで立ち消えとなった。
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途中ですが、いったんここで切ります。
浅野和三郎が大本教に入信したのは1916年なので、「余が信仰の経路と大本教の紹介」は入信直後の心境を語ったもののようですね。
興味深いのは姉崎から批判された浅野の姉崎に対する人物評です。

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なお、浅野は、一九二一年に出された自伝『出廬』でこの論争にふれ、姉崎に対して極めて辛辣な批判の言葉を浴びせている。『人文』での姉崎の批判に対しては、「自分から嘲風氏のやり口を見れば、畳の上の水練、趙括の兵法、口と筆との遊技は甘いが実行はゼロと言ひたい」(一九四頁)と言い、また姉崎が大本等の宗教に凝る軍人を批判した件では、「姉崎君などは、此等の連中を捕へて迷信遍歴者だなどと悪口する。一面に於て全く無理もない。尤も此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人といふ所かもしれない。即かず離れず、可い加減の効能を並べ、御自身一つも懐をいためずにしこたま口銭をせしめる」(一九九頁)と述べている。同年代の成功者姉崎に対する浅野のルサンチマンといった要素も否定できないが、宗教者から見た宗教学者に対する疑念を如実に示したことばと見ることもできるだろう。
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さすがに英文学者だけあって、「姉崎博士などは宗教仲買人」「即かず離れず、可い加減の効能を並べ、御自身一つも懐をいためずにしこたま口銭をせしめる」といった皮肉の冴えはなかなかのものですね。
この程度の反撃を楽々とこなせる文章力があるからこそ、浅野は入信後、たちまち大幹部となり、機関誌「神霊界」の編集、更には大正日日新聞の社長も任せられることになります。
ただ、独自理論を持った浅野と王仁三郎との間は常に円滑であったとはいえず、また、浅野の周辺には浅野派とでもいうべきグループが出来て、古参メンバーとの対立もあったようですね。

姉崎正治(1873-1949)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E6%B2%BB
浅野和三郎(1874-1937)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%92%8C%E4%B8%89%E9%83%8E
 

「宗教政策の腕力を以てする圧迫は如何なる場合に於いても禁物」(by 吉野作造)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 9日(月)12時50分36秒
編集済
  『近代日本思想大系17 吉野作造集』(松尾尊兌編、筑摩書房、1976)には、前回投稿で紹介した『中央公論』1920年(大正9)9月号の記事に続いて、翌年11月号の「大本教神殿の取毀ち」という記事が出ています。
いきなりこの記事を見ても分かりにくいかもしれないので、周辺事情を少し説明すると、1921年(大正10)2月12日、不敬罪・新聞紙法違反の容疑で第一次弾圧が始まり、綾部の大本本部、亀岡の大道場、その他の拠点が警官隊の捜索の対象となります。

大本弾圧(「大本信徒連合会」サイト内)
http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=21
大本事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

出口王仁三郎は大阪梅田の大正日日新聞社長室で、浅野和三郎は綾部の自宅でそれぞれ逮捕されますが、ただ、第二次弾圧(1935年)と比べると、第一次弾圧の逮捕者は吉田佑定を加えた僅か三名だけですね。
吉田は機関誌「神霊界」の発行・編集・印刷人です。
そして三名の刑事裁判とは別の行政手続きとして、京都府知事は同年10月、大本教が綾部・本宮山に建立した神社は明治五年の大蔵省達、大正二年内務省令の神社創立に関する布達に違反しているとして自主的な撤去を命じますが、王仁三郎はこれを拒否。
そこで、京都府は神殿破壊工事請負の入札を行って、10月20日から落札業者が神殿を破壊します。(費用は大本教側の負担)
このニュースを聞いて、吉野作造は次のように書きます。

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大本教神殿の取毀ち

 大本教の神殿はいよいよ十月廿日の正午から取毀たれた。甲斐甲斐しく身を固めた多数の人夫、之を遠巻きに保護する警察官、更に万一の警戒として市中を練り歩く三千五百の在郷軍人、凡てが芝居がかりで、其報道を読んで一種異様の悪感を催さずには居られない。大本教の神殿が畏れ多くも賢所に形取つたといふ丈けなら、不敬を諭して改築する事に大した困難はなからう。腕力を用ひて荒々しく取毀つといふ事は、いろいろの意味に於て正しい遣り方ではあるまいと考へる。私は何も大本教に同情するつもりはない。同情どころか邪教迷信として之を排斥するに決して人後に落ちざるものである。けれども由来宗教政策の腕力を以てする圧迫は如何なる場合に於いても禁物だと信じて居る。迷信であるとは云へ、兎も角もあれ丈け多数の魂を捉へて居る精神的威力には、相当の敬意を払ふの必要がある。少なくとも之に対抗するには、同じく健全なる思想を以つてすべく、腕力を以て之に臨むのは本来の目的に裏切る自殺的行為たるのみならず、亦自ら侮るの甚だしきものと云はねばならぬ。何故なれば対抗すべき正当なる武器を有せざるを自白するに等しいから。大本教が邪教迷信である以上、どうせ長く続く筈はない。政府は之を自然の消滅に放任し難き特別の理由を認めて法律的制裁を加へたのであらうが、あゝした形で腕力の圧迫を加へては、却つて彼等の結束を固くする。意地にも之れで押さうといふ気になるの恐れがある。私は大本教の不遜を予ね予ね非常に不快に思つて居る。さればと云つて今度のやうな形で圧迫されるのを痛快とするには堪えない。官憲の態度の常軌を逸して居るのは言ふまでもないが、国民が之を平然として看過して居るのも、私自身に取つては浅間しく思ふ。
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「私は何も大本教に同情するつもりはない。同情どころか邪教迷信として之を排斥するに決して人後に落ちざるものである」、「大本教が邪教迷信である以上、どうせ長く続く筈はない」、「私は大本教の不遜を予ね予ね非常に不快に思つて居る」という具合に、吉野の大本教に対する態度は一年前と同様に極めて冷ややかです。
しかし、「宗教政策の腕力を以てする圧迫は如何なる場合に於いても禁物」というのが吉野の信念であり、これはこれで筋の通った考え方ですね。
ただ、「邪教迷信」は「自然の消滅に放任」しておけばよいという見通しは、「兎も角もあれ丈け多数の魂を捉へて居る精神的威力」を余りに甘く見積もっているようにも思われます。
 

「之は姉崎博士のいはるゝ如く思想上の低能児に多い」(by 吉野作造)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 7日(土)23時38分38秒
編集済
  参考までに大正デモクラシーを代表する知識人、吉野作造が第一次弾圧前後の大本教をどのように見ていたかを確認しておきます。
引用は『近代日本思想大系17 吉野作造集』(松尾尊兌編、筑摩書房、1976)から行ないます。

吉野作造(1878-1933)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E4%BD%9C%E9%80%A0

最初は第一次弾圧の一年前、1920年(大正9)の『中央公論』九月号の記事です。(p233)

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大本教の取締

 思想は思想を以て対抗せしむべきもの、若し之を官憲の威力を以て取締るやうな事でもすれば、却て反対の結果を生ずるものであると云ふ事は、政府の、所謂危険思想取締について云はれて居つたが、同じやうな現象を昨今大本教についても之を見ることになつた。尤も取締の対象物が違ふので、一方は取締の結果却て識者階級の間に蔓延して行くに反し、他方は所謂愚民の間にどんどん拡まつて行く。大本教の如き迷信の由つて来る所以については、先般或新聞紙上で姉崎博士が頗る肯綮に中つた論評をせられて居るが、之が取締についても姉崎博士の説に同感するのみならず予は更に其無益なることを主張するものである。
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途中ですが、いったんここで切ります。
「危険思想」はもちろん社会主義思想のことですね。
「危険思想」を「官憲の威力を以て取締やうな事」の代表例は大逆事件(1911)で、その後、一時的に社会主義者は逼塞し、「冬の時代」を迎えますが、ロシア革命の影響もあって、次第に社会・労働運動は活発化し、吉野作造がこの文章を書いた時期には「取締の結果却て識者階級の間に蔓延して行く」状態となっています。
他方、大本教を「官憲の威力を以て取締」ったならば、「所謂愚民の間にどんどん拡まつて行く」というのが吉野作造の予想です。
大本教は「愚民」の「愚民」による「愚民」のための宗教、というのが吉野作造の基本的認識ですね。

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姉崎博士の云ふが如く大本教の流行は時代特有の病弊であつて一時はどんなに盛んでも早晩衰ふべき運命にある。昔一八三三年米国新英州〔ニユーイングランド〕に於てウイリアム・ミラーなるものが、アドヴエンテストと云ふ一派を開いた。基督教会一部の伝説となつて居る基督の再臨が十年後の一八四三年に間違いなく実現すべしとて非常に人心を煽揚した。基督の再臨は或意味に於て世界の滅亡である。此時に基督の審判によつて天国に生きんとするものは来つて我が教に投ぜよと云ふ点が一寸大本教に似て居る。之が当時の人心に投じて非常に流行した事は今日の大本教の比ではない。此流行は十年続いた。けれども一八四三年が暮れても基督は来なかつた。それから教勢は俄然として衰へた。今日は更に六派に分裂して違つた意味で余喘を保つて居る。畢竟斯くなるのが、此種迷信教の運命であらう。
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ウィリアム・ミラー(1782-1849)を指導者とする「アドヴエンテストと云ふ一派」は後にセブンスデー・アドベンチスト教会となりますが、1920年当時は「更に六派に分裂して違つた意味で余喘を保つて居る」に過ぎなかったとしても、現在は相当な勢力になっているようですね。
ウィキペディア情報ですが、「過去30年間では、10年毎に倍増する成長を逐げ、信徒数2000万人を越えている」のだそうです。

William Miller(1782-1849)
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Miller_(preacher)
セブンスデー・アドベンチスト教会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A

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 大本教の予言する大事件は大正十一年と云ふから世間を騒がすのもあと二年余りの事と見ていゝ。深く顧慮するにも当るまい。余輩の観る所によれば如何に此教が流行しても識者階級は依然として軽蔑の眼を以て視て居る。所謂上流階級に属するものにして之に帰依せるなきにあらざるも之は姉崎博士のいはるゝ如く思想上の低能児に多い。外の理由で取締るなら格別、只一種の迷信を流布すと云ふ丈なら、官憲の取締は寧ろ無用であると考へる。
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浅野和三郎は大正十年立替え説を宣伝しており、これは第一次弾圧が1921年(大正10)に行われた理由のひとつだと思いますが、吉野が聞いたのは大正十一年説のようですね。
いずれにせよ、吉野は大本教のような「迷信教」がどんなに流行しても、吉野を含む「識者階級は依然として軽蔑の眼を以て視て」いて、東京帝大卒の英文学者である浅野和三郎のような「所謂上流階級に属するものにして之に帰依せる」人たちがいない訳ではないけれども、そういう連中は「姉崎博士のいはるゝ如く思想上の低能児」だ、というのが吉野の評価です。
「思想上の低能児」という表現が「或新聞紙上」での姉崎正治の「頗る肯綮に中つた論評」の中にあるのか、それとも吉野自身の表現なのかは未確認ですが、極めて辛辣で、今ではとても使えない表現ですね。
 

出口栄二著『大本教事件』(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 7日(土)12時18分31秒
編集済
  「予言」の内容については「大本信徒連合会」サイトを参照してもらうとして、と書きましたが、少しだけ見ておくと、社会不安を煽ったのは「開祖」・出口ナオのものではなく、有力信者のそれですね。

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 信者の中には、これらの大本神諭や、瑞能神歌(みづのしんか。王仁三郎の手を通して書かれた予言の神示)に、自己流の解釈を加えて、具体的な時期を示して、予言と警告をことさら強調する者もいました。
 大正日日新聞の社長として論陣を張っていた浅野和三郎らは、大正10年に立替えが起きると宣伝しました。友清九吾が書いて機関誌に発表した『一葉落ちて知る天下の秋』(大正7年)はその代表的な例です。
「この現状世界が木っ葉に打ち砕かれる時期が眼前に迫りました。それはこの欧州戦争(第一次大戦のこと)に引続いて起る日本対世界の戦争を機会として、いわゆる天災地変も同時に起り、世界の大洗濯が行はれるので、この大洗濯には死すべきものが死し、生くべきものが生くるので、一人のまぐれ死も一人のまぐれ助かりも無いのであります。」
「日本対世界の戦争が何時から始まるかというと、それは今からわずか一、二ケ年経つか経たぬ間に端をひらきます。」
「時期は日に日に刻々と切迫して参りました。モウ抜差しならぬ処まで参りました。眼の醒める人は今のうちに醒めて頂かねばなりませぬ。日の経つのは夢のやうですが、今から一千日ばかりの間にそれらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって、大正十一、二年頃はこの世界は暴風雨の後の様な静かな世になって、生き残った人達が神勅のまにまに新理想世界の経営に着手してる時であります。」

http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=19

以上の内容は『大本教事件』p97の記述と大体一致しています。
浅野和三郎は東京帝大卒業後、海軍機関学校の英語教官を長く務めた英文学者であり、大本教には珍しい「知識人」ですね。
第一次弾圧後は大本教を離れ、1923年、「心霊科学研究会」を創立します。

浅野和三郎(1874-1937)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%92%8C%E4%B8%89%E9%83%8E
「公益財団法人 日本心霊科学協会関連年表」
http://www.shinrei.or.jp/?page_id=434

友清九吾は1918年に大本教に入信し、「一葉落ちて知る天下の秋」のような過激な文章を書きまくって大きな反響を呼んだのですが、組織内での待遇に不満があったらしく、僅か一年で脱退します。
そして、一転、大本教を攻撃する離反者グループの中心になります。(p51以下)

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 友清を中心に結束した離反者たちは、大本の教義は剽窃であり鎮魂帰神はまがいものである。開祖は精神病者で王仁三郎は悪智慧にたけた大詐欺師・好色家である。皇道大本は天皇の大権をひそかに奪おうとする陰謀団体であるとさかんに吹聴し、神諭の〇〇の伏字に自己流の解釈を加えて、大本は「邪教」である、信者は「逆徒」であるとののしり、不敬罪、内乱予備罪に該当するものとして当局に弾圧をうながしたのである。
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大本教を離れた友清九吾は、暫くして「神道天行居」という教団を創設します。

友清九吾(1888-1952)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E6%B8%85%E6%AD%93%E7%9C%9F
神道天行居
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93%E5%A4%A9%E8%A1%8C%E5%B1%85

このように、急激に膨張した大本教には、単純な信奉者ではなく、独自の思惑を抱きつつ入信した人も多いのですが、終末思想という点では概ね共通性がありますね。
さて、終末思想を煽って急激に膨張した宗教団体となると、1995年のオウム真理教事件を生々しく経験した世代の人は嫌でもオウム真理教を連想せざるを得ません。
『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(新教出版社)が出た1972年当時では、仮に同書の小池健治論文を見て『大本教事件』を読んだ読者がいたとしても、第一次弾圧事件前の大本教の具体的イメージをつかむのはけっこう大変だったと思いますが、我々にとっては簡単なことですね。
要するに彼らが叫んでいたのは「ハルマゲドン」であり、大本教はサリン事件発覚前のオウム真理教みたいなものですね。
もちろん、大本教は実際には武装集団ではなく、「ハルマゲドン」を現実化させるために自ら「サリン」を撒いたりはしなかった訳ですが、終末思想で社会不安を煽って教団の勢力を拡大した点は共通です。
 

出口栄二著『大本教事件』(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 6日(金)12時15分52秒
編集済
  「悪魔の郡是」は笑い話で済んだとしても、大本教に対して警察がある種の武装集団的なイメージを抱いたのは、やはり大本教側の活動形態が原因ですね。
また、信者の活動が、外部から見れば「狂信的」と思えるほどだったことは出口栄二氏自身も認めています。(p92以下)

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 明治から大正にかけての信者は、開祖をかがみとし、どのような苦難もすべては神のご用であり、身魂みがきとしてうけとめていた。そこには今日からみれば、狂信的とさえみえるほど筆先第一の精神でつらぬかれた人間像をみることができる。【中略】
 当時の「一信者の手帳」は語る。「いかなる人でも、大本へ来て数日間を経過すると、大抵みな質実生活の帰依者となっている。【中略】大本の中で労働に従事している人たちには相当の地位にあった人や陸海軍の将校、中等学校の教員、専門学校の学生、あるいは巨万の資産を弊履の如く抛って来ている人や色々様々で、泥まみれになって愉快に活動している。教主のごときも"この光ある労働団"の群れに交って働いておられます。神を相手にする人に於ては、眼前の得失行蔵はさならがら月前の雲であります」と。
 しかもひとたび街頭にたつや、「狂と嘲られ、痴と譏され、迫害をこうむっても、勝利の都に達する迄は死すとも退却せない覚悟」をもって、開祖の予言・警告を宣伝した。世間では「綾部の長髪族」とかげ口をたたいたが、大正維新の志士をもって任ずるその気概は、幕末の志士をおもわせるものがあった。
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壮麗な神殿の建築費用や大正日日新聞の巨額な買収費用(後述)などは、「巨万の資産を弊履の如く抛って来ている人」の寄付によるところが大きいのでしょうね。
大本教の信者に軍人が多かったことは事実で、一番有名なのは海軍中将・秋山真之(1868-1918)でしょうね。
下記サイトには第一次弾圧時の大本教大幹部・浅野和三郎(1874-1937)から見た秋山真之像が紹介されています。

「真之と大本教」(『春や昔~「坂の上の雲」のファンサイト~』)
http://www.sakanouenokumo.com/syukyo.htm

さて、「予言」の内容については「大本信徒連合会」サイトを参照してもらうとして、興味深いのはその宣伝方法です。(p98以下)

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 当時、大本は、機関誌、単行本、パンフレットをつぎつぎと刊行して天下に訴え、文書宣伝はきわめて活発であった。全国的教団へと成長した大本は、大正八年に明智光秀の亀山城址を手に入れて宣教の拠点(天恩郷)とし、翌年には五〇万円を投じ大阪の大正日日新聞を買収して、天下と戦う姿勢をつよくした。九月二五日(二六日付)に第一号四八万部を発行した。丹波の田舎教団が彗星のごとくあらわれて、大阪で日刊新聞をだすというニュースは世人をおどろかした。ことに大正日日新聞というものが、政府を批判したため、権力によって弾圧された朝日新聞の「白虹事件」の落し子であった事情もあって、当局に深刻な印象を与えたのは事実だろう。
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1918年の「白虹事件」は朝日新聞の筆禍事件として有名ですが、大正日日新聞が「白虹事件」の「落し子」というのはどういうことかというと、同事件で朝日新聞を追われた鳥居素川(1867-1928)を主筆として新たに創刊されたのが大正日日新聞なんですね。
ただ、二百万という巨額の出資をした人物が新聞経営には全くの素人で、加えて大阪朝日新聞と大阪毎日新聞による執拗な営業妨害のために、大正日日新聞は僅か八ヶ月で破綻してしまいます。
それを五十万円で買収したのが大本教で、新興宗教団体による新聞経営というメディア戦略の斬新さは社会を驚愕させた訳ですね。

白虹事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
大正日日新聞
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%97%A5%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E

大正日日新聞については木村愛二氏の「大正日日の非喜劇を彩ったメディア梁山泊的人間関係」(「電網木村書店 Web」サイト内)という記事が参考になります。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-3-5.html

この記事の中に、朝日新聞を退社して鳥居素川とともに大正日日新聞に移った大物記者のひとりとして丸山幹治という人物が登場しますが、丸山眞男の父親ですね。

鳥居素川(1867-1928)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E7%B4%A0%E5%B7%9D
丸山幹治(1880-1955)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E5%B9%B9%E6%B2%BB
 

出口栄二著『大本教事件』(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 5日(木)13時00分22秒
編集済
  それでは出口栄二著『大本教事件』(三一新書、1970)の本文を少し見て行きます。
同書は全部で283頁あって、

-------
 はじめに
Ⅰ 第一次弾圧─不敬罪とのたたかい
(1)大検挙
(2)破壊された神殿
(3)弾圧への工作
(4)弾圧の理由
(5)人民の宗教・大本
(6)法廷のたたかい
(7)人類愛善の旗をかかげて
Ⅱ 第二次弾圧─治安維持法とのたたかい
(1)ファシズム化する社会
(2)「国権の威を示すはこの時」
(3)再度の大弾圧
(4)「天皇陛下ノ御名ニ於テスル取調ベ」
(5)大本を地上から抹殺
(6)国家権力側の主張
(7)帝国憲法下の裁判
(8)予言された敗戦
(9)ふきとんだ不敬罪
Ⅲ 大本の新生
-------

と構成されています。
そして、前回投稿で述べた事情から「宗教法人大本」の分裂後に出口直美・栄二氏らが組織した「大本信徒連合会」サイトに描かれた教団史は栄二氏の『大本教事件』の内容を反映しています。

「第一次大本事件」
http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=86

そこで第一次事件の概要は「大本信徒連合会」サイトに譲り、私としては、結果的に小池健治弁護士が言われるように「喜劇」に終わったとしても、大正デモクラシーで思想取締りの圧力が全般的に弱かった時代に何故に大本教だけが国家権力から狙われたのか、そして何故それが1921年だったのかに関連する部分を見て行きます。
まず、指摘したいのは、大本教の宣伝方法が極めて斬新だった点ですね。
第Ⅰ部の「(5)人民の宗教・大本」から「直霊軍」に関する部分を引用します。(p91以下)

-------
 布教の実戦部隊として大正三年九月には「直霊軍」が結成され、全国で大道布教が開始された。羽織・袴に襷をかけ、長髪にスゲ笠、わらじに脚絆という風変わりないでたちで、幟をおしたて、騎馬姿あり、太鼓をうつものあり、のちには自動車までくりだして意表をついた宣伝活動が展開された。直霊軍の編成は壮年層が中核となり、別働隊として青竜隊(青年隊)、婦人隊、白虎隊(少年組)、娘子軍(少女組)、幼年組がある。軍規・軍則・軍歌・進軍歌なども制定された。この進軍歌についてはおもしろい話がのこされている。
 直霊軍はその団隊訓練と宣伝のためよく綾部の町通りを四列縦隊で行進した。「やあ、大本さんの行進だ」と人びとは働く手をやすめ、あるいは窓から顔を出して、その行進を軽侮と好奇心のまじった目なざしで見送っていた。

  ヒラヒラと神軍旗 ヒラヒラヒラと革正旗
  先頭に押立てて立ち向う 悪魔の軍勢と戦いて
  勝どきもろともあぐるまで 命を惜しまず進みゆく……

 これは行進歌の一節であるが、声高だかに歌いながら北西町を通り踏み切りを越えて郡是製糸会社の前を通り過ぎ、里町に行く橋の手前でひきかえす。ところがある日綾部本部の受付にひどい剣幕で抗議の電話がかかって来た。「大本はけしからん! こともあろうにわが会社の本社前で大勢の隊伍を組み、わが社を悪魔呼ばわりするとは何事だ!」というのである。大本側は「いやそんな事を云うはずがない」と弁解するがどうも話がかみ合わない。よくよく調べてみたら「悪魔の軍勢〔ぐんぜい〕」を「悪魔の郡是〔ぐんぜ〕」と聞き違えたという事がわかってお互いに大笑いした。
-------

「わが社を悪魔呼ばわりするとは何事だ!」の「悪魔」には傍点が振ってあります。
これ、郡是製糸株式会社がどんな会社かを知らないと若干分かりにくい話なのですが、大本教の誕生とほぼ同時期、1896年(明治29)に波多野鶴吉が綾部に創業した郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)はキリスト教精神に基づく企業運営を目指し、女子従業員への精神教育を重んじた珍しい会社なんですね。

「沿革・歴史」(グンゼ株式会社公式サイト内)
https://www.gunze.co.jp/corporate/history/
波多野鶴吉(1858-1918)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%90%89
 

出口栄二著『大本教事件』(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 4日(水)12時40分3秒
編集済
  いろいろ前置きが長くなってしまいますが、厳密に言うと『大本教事件』は出口栄二氏の著作とは言い難いところがあります。
というのは、この本は大本七十年史編纂会編『大本七十年史』上下二巻(上巻1964、下巻1967)二千数百ページのうち、第一次・第二次弾圧を中心に「新書版向きに圧縮」(p10)したものだからです。
そして『大本七十年史』は、新興宗教の教団史としてはかなり珍しいタイプの書籍です。
即ち、永岡崇氏の「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」(国際日本文化研究センター『日本研究』47号、2013)によれば、

-------
【前略】
 検討する事例は、『大本七十年史』(以下、『七十年史』と略記)編纂プロジェクトである。『七十年史』とは、京都府亀岡市・綾部市に本部を置く宗教法人大本が一九六四~六七年にかけて刊行した教団史のことだが、執筆には教団に属する信仰当事者だけでなく、上田正昭、佐木秋夫、松島栄一、村上重良、鈴木良、前島不二雄、安丸良夫ら、当時では中堅から若手の世代に属する歴史学者や宗教学者が深くかかわり、高い学術的価値を備えた教団史として評価されてきた。完成後の座談会で、佐木秋夫はつぎのようにのべている。

一応外部から客観的にやるという態度でもって、それぞれの第一線の人たちが取っ組んで来た。それを教団側でも充分に認めて、もちろんある点では妥協もしてますけども、しかし相当、普通の常識をはるかにこえた、つまり自由な発言や書き方を認めるという形で仕事がすすめられたという点では例がないと思いますね。

佐木が自画自賛しているように、たんなる名義貸しのようなかたちではなく、本格的な議論のなかで、信仰当事者と研究者が「取っ組んで」作成された教団史の例は、それほど多くないだろう。そして安丸良夫が振りかえっているように、「日本近代史上における大本教団の位置と意味は、複雑な対抗関係のなかにおかれたきわめて多義的なものなのだから、それをうまく整理して一貫した歴史叙述を実現することは、とても難しい課題」であり、「会議は多人数の参加者による、かなり錯綜した議論の場となった」のである。
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とのことです。(p129以下)
なお、佐木の引用部分は全体が二字分下げてあります。
既に見たように、佐木秋夫(1906-88)・松島栄一(1917-2002)・村上重良(1928-91)は津地鎮祭訴訟にも深く関わる共産党系の宗教・歴史研究者ですね。
その他、濃淡はありますが、概ね左翼系の「当時では中堅から若手の世代に属する歴史学者や宗教学者」が何故に『大本七十年史』に関わったかというと、そのパイプ役は上田正昭(1927-2016)だったそうです。
永岡氏によれば、

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 教外から参加した編集参与のうち、大本ともっとも深いつながりをもち、いわば大本と研究者たちのパイプとしての役割を果たしたのは、歴史学者の上田正昭であった。一九二七年に城崎の呉服屋の子として生まれた上田は、中学校を出るころ、母と親交のあった亀岡の小幡神社の社家・上田家を継ぐことになった。この小幡神社は出口王仁三郎の産土社であり、その縁から大本と深いかかわりをもつことになったという。
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のだそうです。(p136)

上田正昭(1927-2016)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%AD%A3%E6%98%AD

さて、研究者からは極めて高く評価された『大本七十年史』ではありますが、編纂事業が開始された1960年には大本総長であり、かつ編纂会長であった出口栄二氏が1962年に総長を更迭された影響で、『大本七十年史』も教団内では微妙な存在と化してしまったようですね。(p158)

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 『七十年史』編纂会会長だけが、栄二に残された公的な役職であった。逆にいえば『七十年史』は、栄二を中心として平和運動にまい進した一九五〇年代の大本の思想が強く反映された書物として、ともかくも完成したといえるだろう。さきにのべたように、『七十年史』は歴史学者やマスコミなどから高い評価をえた。【中略】だが、教内での反応は厳しいものだったようである。

「あれはサヨクだ」とか、「あんなの読むな」とかね、いろいろ厳しい批判を受けてね、結局私らが計画した、これで学習会をずうっと全国で開いて、歴史を勉強してもらおうという計画は全部おじゃんになって、何もできなかったです。ただ本を作ったっていうことだけでね。
-------

後半の引用部分は編纂事務を担当した教団側のスタッフ(若本三晴氏)への2010年のインタビューによるものだそうです。
さて、いろいろと周辺事情を書きましたが、要するに『大本教事件』は専門研究者が関与した『大本教七十年史』の要約・抜粋であって、少なくとも事実関係については相当に信頼できる内容ですね。

なお、永岡崇氏の「宗教文化は誰のものか─『大本七十年史』編纂事業をめぐって─」は日文研サイトでPDFで読めます。

『日本研究』第47集
https://nichibun.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&index_id=196&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese&page_id=41&block_id=63
 

出口栄二著『大本教事件』(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 4日(水)10時37分41秒
編集済
  ということで、ここで「甲第一二号証」の『大本教事件』(三一新書、1970)の内容を確認してみます。
今は「三一新書」を見かけることがなくなりましたが、かつて三一書房は青木書店などと並ぶ左翼出版社の雄で、それなりに大きな書店では「三一新書」はけっこうなスペースを確保していましたね。
しかし、そのような栄光の日々も長くは続かず、壮絶な労働争議の結果、一時は会社存続が危ぶまれるような事態になったこともあったようですが、今でも営業は継続していますね。

三一書房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%80%E6%9B%B8%E6%88%BF

さて、同書の奥付を見ると、著者について、

-------
出口栄二〔でぐちえいじ〕
1919年 佐賀県に生まれる
1942年 早稲田大学卒業
1945年 大本の再建につとめ今日に至る
    その間大本総長、大本七十年史編纂会会長
現在  東筑紫学園にて宗教を講ずるかたわらアイヌの宗教について研究する
    日本宗教学会会員
著書  『内外宗教の研究』(株式会社 東通社出版部刊)その他
現住所 京都府綾部市【下略】
-------

とあります。
「大本総長」というのは宗教法人大本の運営面の最高責任者ですが、何故に出口栄二氏(旧姓・家口)がそのような枢要の地位につけたかというと、三代教主・出口直日(でぐち・なおひ、1902-90)氏の長女・出口直美(1929生まれ)氏と結婚したからです。
ただ、出口栄二総長の運営方針に対する内部の反発が強く、栄二氏は1962年、三代教主の承認の下、総長を更迭されてしまいます。
「大本七十年史編纂会会長」は栄二氏に残された数少ない役職の一つだったのですが、『大本教事件』出版の後、1981年になって栄二氏は全ての役職を解任されてしまい、地位確認を求めて教団を提訴します。
そして翌年、夫の提訴を止めさせなかったことを理由に、三代教主は出口直美氏の教主継承者としての地位を奪い、三女の聖子氏(1935-2001)に替えます。
他方、直美・栄二氏側は「大本信徒連合会」を組織し、あくまで直美氏が第四代教主であると主張することになります。
このあたり、部外者にはよく分からないことが多いのですが、興味のある方はウィキペディア等を参照してください。

出口直日(1902-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E7%9B%B4%E6%97%A5

なお、「大本信徒連合会」側の公式サイトでは、宗教法人大本の分裂を「第三次大本事件」と呼んでいます。

http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=378

このように『大本教事件』の出版を挟んで、出口栄二氏の人生は三一書房以上に波瀾万丈な訳ですが、そちらを調べ始めると収拾がつかなくなるので、とりあえず第一次弾圧事件に関連する部分を見て行きます。
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その10)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 2日(月)10時55分52秒
編集済
  続きです。(p288以下)

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 大本教は一八九二年(明治二五)京都府綾部に住む大工の未亡人出口ナオが艮の金神(うしとらのこんじん)によって神憑りをおこしたことに始まる。ナオが艮の金神の言葉を書きつづった「御筆先」を教典として布教を進めたが、一九〇〇年(明治三三)ナオの女婿となった出口王仁三郎がその宗教的天才によって宗勢を発展させるに至る。とくに第一次大戦後の労働者、小市民層の生活苦の中で、世の中の根本からの立直しを説く大本教の教えは、広くうけ入れられ、インテリ層の間にまで浸透し、急激な宗勢の拡張を見たのである。
 大本教は艮の金神による三千世界の立替え立直しという明確な教義をもち、かつその金神の宿し主であるナオとその後継者こそ最高の宗教的権威をもつものとしたから、天皇を現人神〔あらひとがみ〕として、政治的権威に止まらず宗教的権威としても崇拝させていた当時の国家神道による支配体制からはなんらの社会的活動をしないとしても危険思想として注目されたことは当然のことであった。
-------

「天皇を現人神として、政治的権威に止まらず宗教的権威としても崇拝させていた当時の国家神道による支配体制」とありますが、第一次弾圧があった1921年(大正10)はいわゆる大正デモクラシーの時代です。
1917年のロシア革命を受けて、日本でも社会運動・労働運動が活発に行われていた時期であり、理念ないし建前としてはともかく、実体として天皇崇拝を強要するような「国家神道による支配体制」が機能していたかというと、かなり疑問ですね。
そもそも小池健治弁護士は「国家神道」について特段の定義をしていませんが、「国家神道」という表現を極めて否定的に用いる人たちの一般的傾向として、「国家神道」なるものを非常に長期間に亘って固定的なイメージで捉え、時期的な変化は考慮しないことが多いですね。
なお、小池氏を含む四人の弁護士(原山剛三・松浦基行・小池健治・今村嗣夫)の昭和46年2月17日付証拠説明書では、

-------
8 甲第八号証「神道精義」【中略】
(立証事実)
① 明治憲法下では前述のとおり"神社は神道に非ず"として宗教政策上、国法上神社神道(国家神道)は宗教として取扱われなかったのであるが、当時宗教学の第一人者であった著者は神道の本質は宗教である旨を明らかにしていた(二七〇頁)。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10000

という具合に「国家神道」を「神社神道」の同義語として用いていますが、「神社神道」と同義というのは小池弁護士の他の用法とは整合性が取れていないように思われます。
さて、小池弁護士は、「なんらの社会的活動をしないとしても危険思想として注目されたことは当然」と言われますが、いくら明治憲法下とはいえ、信教の自由は憲法に明記されており(第28条「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」)、具体的な社会活動が全くなく、従って「安寧秩序ヲ妨ケ」る可能性が一切ないにも拘らず国家権力が介入するというのも随分奇妙な話です。
そこで、大本教側に本当に「なんらの社会的活動」もなかったのか、小池氏の説明に従って、もう少し見て行きます。

-------
(1)第一次弾圧
 一九二一年(大正一〇)二月一二日検事総長平沼騏一郎(後述宗教団体法成立時の首相)の特命により京都府警察部は綾部の町に約二百名の武装警官を派遣して皇道大本本部を包囲し、かつ綾部からの鉄道、郵便、電話による外部への連絡をすべて断ち切ったうえ、本部の一斉捜索を行ない、幹部の浅野和三郎、吉田祐定の二名を逮捕した。王仁三郎は折柄大阪へ出張中であったが同時に逮捕された。この弾圧では前もって第一線の警察官によほど邪教感を吹きこんでおいたらしく、「錦の御旗はどこにある」とか「爆裂弾はどこに隠してあるか」などと一様に詰問し、浅野宅では片栗粉を見て爆薬と勘違いしてなかなか近寄らなかった、といった喜劇があちこちで演じられたという。弾圧の模様はこの外「大本教事件」に詳しくかつ鮮やかに描写されている。
-------

ということで、結果的には「喜劇」だったとしても、何故に浅野和三郎宅を捜索した「第一線の警察官」は「爆裂弾」に怯えていたのか。
小池弁護士は、その点は出口栄二著「大本教事件」(甲第一二号証)に譲り、何も語ってくれません。
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その9)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 1日(日)12時41分45秒
  (その7)で「戦前戦中」の「宗教弾圧の大半は昭和十年代」と書きましたが、もちろん明治初期には有名な「浦上四番崩れ」があります。

浦上四番崩れ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%9B%9B%E7%95%AA%E5%B4%A9%E3%82%8C

「殉教する宗教─孤独な自我の萌芽」(by 山崎正和)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8188
「ツルの寒ざらし」(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8189
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8190
「殉教者」の光と影
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8201
「今後の予定」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8204
「殉教者は何に対して命を捧げたのか」(by 宮崎賢太郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8212

三千人以上が配流となり、六百人以上が死亡したという大事件ですが、ただ、これは帝国憲法制定の遥か前、国家の体制が固まっていない時期の出来事であって、小池健治弁護士も特に言及していません。
小池弁護士が挙げる事例の中で一番深刻なのは大本教事件で、特に第一次弾圧は1921年であり、他の宗教弾圧事件とは時期的に隔たっています。
そこで、大本教事件について、少し検討してみます。
まずは小池弁護士の見解を紹介します。(p208以下)

-------
   2 大本教に対する弾圧」

 戦前戦中の宗教弾圧の中で最大規模のものは、大本教に対するものであった。控訴審では裁判所にその事実を直視してもらうためにまず、大本祭教院斉司出口伊佐男(でくちうちまる)氏を、証人として申請した。同氏は大本教の最高幹部のひとりであるが、後述のとおり戦前一九三五年(昭和一〇)の第二次弾圧の際投獄され、拷問など厳しい糾問をうけ約七年間、獄中にあった人で、国家神道による人権侵害の文字どおりの生き証人であった。証人申請の立証趣旨は「神道が国教とされた戦前戦中における大本教弾圧の模様及び現在の社会情勢の下において地方公共団体が神道式による起工式を主催することが公認された場合の危険性を立証する」というものであった。しかし裁判所は、「大本教に対する弾圧についてはたくさん書物も出ているし、戦争中自分もそのことを見聞している。したがって証人の必要はない」と述べて同証人を採用しなかった。弁護団としては、生〔なま〕の声を聞いてもらうことができないことを大変残念に思ったが、次善の策として、大本弾圧に関する書物や前掲の「大本教事件」と「写真図説民衆の宗教・大本」の二冊を書証として提出した。そこで、ここでは右の両著書を中心として立証された大本教弾圧の状況について述べることとする。
-------

いったんここで切ります。
「出口伊佐男(でくちうちまる)氏」とありますが、「伊佐男」を「うちまる」と読むのは無理で、これは別名が「宇知麿」「宇知丸」だったからですね。
大本教の幹部は別名(教団名?)を持つ人が多いですね。

出口伊佐男(1903-73)
https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E5%8F%A3%20%E4%BC%8A%E4%BD%90%E7%94%B7-1650005

また、「裁判所」は「大本教に対する弾圧についてはたくさん書物も出ているし、戦争中自分もそのことを見聞している。したがって証人の必要はない」と述べたとのことですが、これは裁判長の伊藤淳吉氏の発言でしょうね。
伊藤淳吉氏は名古屋高裁の後、札幌高等裁判所長官を勤め(1973-74)、これを最後に定年退職しているようなので、1974年に定年の65歳とすると1909年くらいの生まれですね。
とすれば、第一次弾圧(1921年)の時は12歳、第二次弾圧(1935年)のときは26歳くらいなので、事件当時、新聞等でセンセーショナルな報道がなされたことは生々しい記憶として残っていたのでしょうね。
さて、小池弁護士は出口伊佐男氏を証人として申請した立証趣旨を「神道が国教とされた戦前戦中における大本教弾圧の模様及び現在の社会情勢の下において地方公共団体が神道式による起工式を主催することが公認された場合の危険性を立証する」としていますが、過去の「大本教弾圧」と現在の「地方公共団体が神道式による起工式を主催することが公認された場合の危険性」との間には、因果関係など、特別な関係は本当にあるのですかね。
両者を結びつけるとしたら、「国家神道」というのは時代を超越した極めて危険な存在であって、地鎮祭のような些事であろうと、そのような形で神道行事と国家・地方公共団体の関係を認めたら、そこから「国家神道」の悪夢が復活するのだ、という論理(?)になりそうですね。
地鎮祭は小さな穴ではあるが、そこから水が漏れたらやがて堤防全体が崩壊するのだ、といった感じの「蟻の一穴」論です。
正直、私などには「蟻の一穴」論は「風が吹けば桶屋が儲かる」論と五十歩百歩のように思えるのですが、その点はまた後で論じます。
 

八雲神社の第三類型?

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 9月 1日(日)10時35分12秒
編集済
  >筆綾丸さん
駄文に過分なお褒めを頂いて恐縮です。
ソネットの旧サイトは消滅してしまいましたが、今はインターネットアーカイブスに保存されたものを読むことができます。
1969年生まれの森高千里が「渡良瀬橋」をリリースしたのは1993年ですが、私が駄文を書いたのは1998年8月で、ずいぶん昔のことになりました。
森高千里も既に五十路ですが、テレビで「17歳」を歌っている姿を見ると、とてもそんな年齢には見えないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%AB%98%E5%8D%83%E9%87%8C

ところで先日、田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』を読んで、津地鎮祭訴訟の原告・関口精一氏の子供時代の思い出の中に北海道二海郡八雲町の八雲神社が出てきたので、「渡良瀬橋」に触発されて八雲神社研究家になった私はちょっと興味を惹かれました。

田中伸尚『政教分離─地鎮祭から玉串料まで』(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9990
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9991

全国の八雲神社の大半は神仏分離以前には「牛頭天王」を祀っていて、勧請の歴史的経緯を辿ると、その系統は大きく京都の祇園社(八坂神社)と尾張の津島社の二つに分かれます。
そして足利の八雲神社は津島社の系統なのですが、八雲町の八雲神社は熱田神宮の分社とのことで、非常に特殊な例ですね。
この神社のためだけに八雲神社の第三類型を立てる必要があるのかもしれません。

参照の便宜のため、過去の駄文からちょっと引用しておきます。

-------
 そこで八雲神社の歴史を振り返って見ると、『足利市史・上』(足利市役所編纂.昭和3年)によれば、明治初期の廃仏毀釈以前、「八雲神社」は「祇園社」ないし「牛頭天王(ごずてんのう)」と呼ばれていたことが分かる。即ち同書1099頁に引用せられた『本島彦五郎所蔵古文書.下野足利本町鎮守祇園牛頭天王由来』その他の古文書並びに諸々の伝承によれば、同社は下野国に疫病が蔓延して人民が難渋したために、尾張国津島より牛頭天王を勧請したのが始まりである。その時期については、清和天皇の貞観年中とする古文書もあるが、これは歴史的事実としては若干無理があろう。
 ところで「牛頭天王」は、もともとインドの祇園精舎の守護神で、日本では素戔嗚尊(すさのおのみこと)と習合され、疫病除けの神として尊崇されていた。頭に牛の角をもつという容貌の魁偉さが、猛威に満ちた除疫神としてふさわしかったのであろうと思われる。
 「牛頭天王」を祀った神社と言えば、京都祇園の八坂神社が最も著名であるが、足利の八雲神社は、前述のように明らかに尾張の津島神社の系統である。また、言うまでもないことだが、八坂神社も津島神社も、廃仏毀釈前は仏教的要素が神道的要素を凌駕していて、神社というよりはむしろ寺と考えた方がよいのであり、社名も明治以後のものである。

http://web.archive.org/web/20081228203020/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kiroku9808.htm
 

閑話ー渡良瀬橋

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2019年 8月31日(土)11時44分12秒
  小太郎さん
https://r.nikkei.com/article/DGKKZO49156060Z20C19A8KNTP00?s=3
昔、小太郎さんが、ご自身のサイトで、この歌をユーモアたっぷりに分析されていたことがあり、懐かしく思いました。
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その8)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 8月31日(土)11時17分5秒
編集済
  前回投稿で引用した部分に「甲〇号証」という表現が出てきますが、裁判に馴染みのない方のために説明すると、原告側の証拠が「甲号証」、被告側の証拠が「乙号証」ですね。
裁判所に証拠として認めてもらうためには、そもそも何を立証するために当該証拠を提出するのかを説明する必要がありますが、その点は「証拠説明書」という書面に書きます。
そして、「証拠説明書」において、ある資料を「甲〇号証」と特定したら、当該資料の原本、または資料の性質に応じて、そのコピーに「甲 号証」というハンコを押して、空白部分に数字(連番)を書いて裁判所に提出する訳ですね。
『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』には「Ⅰ 名古屋高等裁判所判決」の最後に、昭和46年2月17日付の「証拠説明書(控訴人側)」が掲載されていますが(p113以下)、それを見ると、例えば「甲五四号証」は(一)(二)に分れていて、

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54 (一) 甲第五四号証の一「国家神道」
(作成)村上重良著、岩波書店昭和四五年発行、著者は龍谷大学講師、宗教学者でありかつ、神道人以外の神道学者としては第一人者である。
(立証事実) 国家神道のなりたち、思想、構造、政教分離をめぐるその危険性
(二) 甲第五四号証の二「『国家神道』の書評(昭和四五・一二・二八付朝日新聞朝刊)」
右著書の書評である。本件地鎮祭に関し、「とりたてて大騒ぎするほどのことではないと考えられがちであるが、国家や公共団体が神社と公に関係を持つということがどのように重大な結果をもたらすか反省してみる必要がある」との指摘は正鵠を得ている。
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と書かれています。
村上重良が「神道人以外の神道学者としては第一人者」云々はあくまで弁護団の主観的評価ですが、当時の研究水準に照らせば、決して的外れな評価ではないでしょうね。
さて、この証拠説明書の中で「甲第八号証」の加藤玄智著『神道精義』に関する記述はけっこう重要なので、詳しい説明は後で行ないますが、とりあえず引用だけしておきます。(p117以下)

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8 甲第八号証「神道精義」(表紙、二三二~二三三頁、二七〇~二七一頁、三〇八~三〇九頁、三四八~三四九頁、三五六~三五七頁)
(作成)大日本図書株式会社発行(発行年は不詳、昭和一〇年代前半ごろか)著者加藤玄智は文学博士、国学院大学、東京帝国大学等の宗教学神道学教授を歴任した戦前宗教学の権威とされた者である。本書は同人の主要著書の一つである。
(立証事実)
① 明治憲法下では前述のとおり"神社は神道に非ず"として宗教政策上、国法上神社神道(国家神道)は宗教として取扱われなかったのであるが、当時宗教学の第一人者であった著者は神道の本質は宗教である旨を明らかにしていた(二七〇頁)。
② 右に関し、著者の「宗教」の定義は注目に値する(二七一頁)。即ち、著者は宗教とは「最も広汎なる意味にて、神と称せられる所のものと、人間との特殊の関係である」と定義し、ここでいう神とは、キリスト教のゴッドのようないわゆる神人懸隔教系の造物主たる神を意味するばかりでなく人神即一教の仏教、如来のようなもの神道の神も、劣等自然教の精霊のようなものを含み、そういう神の救済や助けを信じ、求めることが宗教であると述べているのである。前記のような経歴を有する著者の見解からしても神道が宗教であることは明らかであり、本証は控訴人の神社神道は宗教であるとの主張(準書三四~三五頁)を正に裏付けるものである。
③ 右のような神社神道の宗教性について正直に見解を述べた著者は、反面、神社神道の国教化における危険な一面をこれ又文字通り率直に述べる。即ち同人の見解によれば、神道は国民的宗教であるから、個人個人の信教の自由は入りこむ余地がないとする。「神様の国に生まれて神様の道がいやなら外国へ行け」とまで極言する。そして右神道信仰─天皇信仰に背反しない限りにおいてのみ憲法(明治憲法)は信教の自由を与えたのだと言う(三四八頁)。これは戦前戦中の国家神道による信教の自由、思想、良心の自由迫害の生(なま)の理論であり、生の事実である。まことに怖ろしいといわざるを得ない。しかしながら、このことは戦前のことだから今とは関係がないと楽観することはできない。新憲法下の現在でもその思想は依然として残っており又戦前へ戻ろうとする動きがあるからである。右は神社神道を国民道徳として天皇崇拝、神社参拝などを国民全体の守るべき道徳とした大石鑑定や靖国神社国営化の動きなどに端的に表れている。
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加藤玄智『神道精義』の「発行年は不詳、昭和一〇年代前半ごろか」とありますが、これは1938年(昭和13)ですね。
『神道精義』のような古色蒼然とした大部の書物を、「全部読め」と言わんばかりに丸々提出するのは殆ど嫌がらせに近い行為なので、弁護団側で重要と思われる個所を抜粋し、そのコピーを裁判所に提出した訳ですね。
ちょっと気になったのは加藤玄智が「戦前宗教学の権威とされた者」「宗教学の第一人者であった」云々という部分で、もちろんこれは弁護団の主観的評価ではありますが、相当問題があります。
というのは、加藤玄智と同年(1873年)の生まれで、学歴も似ていながら、加藤玄智よりずっと早く東京帝国大学の教授となって多くの門下を育てた姉崎正治という宗教学者がいて、姉崎こそが当時の「宗教学の第一人者であった」ことは衆目の一致するところだからです。
加藤玄智が「神道学の第一人者」ということであれば、まあ、それなりに妥当かもしれません。
そのあたりの事情も詳しくは後で論じます。

加藤玄智(1873-1965)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E7%8E%84%E6%99%BA
姉崎正治(1873-1949)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E6%B2%BB
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その7)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 8月30日(金)22時46分51秒
  それでは「Ⅲ 論稿」に掲載された小池健治「5 戦前戦中の国家神道による人権侵害─控訴審での「宗教弾圧」の立証を中心にして」(p286)を少し紹介してみます。
この論文は全部で24頁で、その構成は、

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1 はじめに
2 大本教に対する弾圧
3 ひとのみち教団に対する弾圧
4 日本基督教団に対する弾圧
5 むすび
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となっています。

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  1 はじめに

 国または公共団体が神道式地鎮祭を主催・挙行すること、それに公金を支出することが憲法に違反するか否かを争っている津地鎮祭違憲訴訟において、もっとも本質的な問題点は、国や公共団体と神道という特定宗教との癒着・結合を許すか否か、もしこれを許した場合国民の信教の自由を初めとする精神的自由が侵害される危険はないか、ということである。控訴人側は、この訴訟において、地鎮祭は日常行われている習俗行事である、といった表面的な見方で結局のところ国と特定宗教たる神道との結合を許容したとすれば、政教分離の憲法原則を冒すことはもちろん、国民の宗教の自由や精神生活の自由に多大の危険をもたらすであろうことを憂え、絶対にこれを許してはならないとの考えから、一見些事にみえるこの訴訟を戦い抜いてきたのである。
-------

途中ですが、いったんここで切ります。
小池氏も一般人からは「一見些事にみえる」であろうことを認めた上で、次のように続けます。

-------
それでは何故そんなに心配するのか。何を根拠に大騒ぎするのかと反問されるであろう。それに対する答えとして、われわれ弁護団は、国家と神社が一体化した戦前戦中の国家神道による人権侵害とくに他宗教に対する弾圧について生〔なま〕の事実を証人や書証(証拠書類)で立証し、裁判官にそれらの事実に対する直接の認識とそのような苦い体験を経たからこそ憲法で政教分離原則が制定されたのであり、だからこそその原理は、慎重にかつ厳しく、考えなければならないということの深い洞察と理解を求めたのである。以下私は、控訴審で立証した宗教弾圧を中心とする国家神道の人権侵害について述べようと思う。

 初めに控訴審において、右の立証テーマで提出・採用された証拠の主要なものを列記しておく。
(証人)滝沢清(元日本基督教団総務局主事)
(書証)
(1) 加藤玄智著「神道精義」(甲第八号証)
(2) 河野省三著「神道読本」(甲第九号証)
(3) 米田豊、高山慶喜共著「戦時ホーリネス受難記、昭和の宗教弾圧」(甲第一一号証)
(4) 出口栄二著「大本教事件」(甲第一二号証)
(5) 出口栄二監修「写真図説民衆の宗教・大本」(甲第一三号証)
(6) 津田騰三著「ひとのみち教団の裁判」(甲第一四号証)
(7) 村上重良著「国家神道」(甲第五四号証の一)
-------

ということで、「2 大本教に対する弾圧」以下、「国家と神社が一体化した戦前戦中の国家神道による人権侵害」の実例が列挙されています。
それを読んでみると、まあ、各事例の関係者はそれぞれに大変だったのだろうな、とは思うのですが、「戦前戦中」、即ち明治維新から敗戦までの約八十年間に万遍なく宗教弾圧が起きていたかというと、そんなことはありません。
大本教に対する第一次弾圧が1921年(大正10)であることを例外として、大本教第二次弾圧は1935年(昭和10)、ひとのみち教団弾圧は1936年(昭和11)、ホーリネスへの弾圧は1942年(昭和17)という具合に、宗教弾圧の大半は昭和十年代ですね。
美濃部達吉の天皇機関説事件が1935年(昭和10)ですから、帝国憲法下の国家運営の仕組みが軍部の強大な圧力によって変容させられて以降の出来事です。
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 8月30日(金)10時36分32秒
編集済
  「回顧と展望」座談会における佐木秋夫氏の発言の続きです。(p347)

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そこでちょうど靖国神社国営化の反対運動に私もタッチしていた関係上、関口さんからご連絡いただくと、すぐにその集まりの中で発表し、皆さんの注意をよびおこそうとしました。そこで支援を訴えたのですが、靖国神社問題で戦っておりましたから、すぐ皆さんは理解されまして、これは大変だぞ、ということで支援の体制が始まったのです。それでそういうバック・アップを受けながら私は最初の鑑定人として、名古屋に行ったわけでございます。キリスト教は信教自由の問題では、明治以来ずっとたたかっておられるわけですね。靖国神社問題でも先頭に立っておられる。キリスト教だけでなく、宗平協の諸君、それだけではなくさらに一般の仏教、新宗教の方々─靖国問題に結集しておられる方々─が腕を組む。【後略】
-------

「宗平協」は「日本宗教者平和協議会」の略称で、共産党に近い団体のようですね。

http://n-syuhei.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%97%E6%95%99%E8%80%85%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

佐木秋夫氏の獅子奮迅の活躍は今村嗣夫弁護士の発言の中にも出てきます。(p354)

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 それからもう一つ、この裁判の一番の功労者は佐木先生でしょう。あの田舎の三重県で起こった事件を靖国の問題と結びつけて中央へ持ってこられたのは実は佐木先生なのです。新宗連の清水さんが申していましたが、靖国の会合がある度に佐木さんは何とかの一つ覚えのように、「津、津」と言って説いて回ったそうです。その中に靖国の人たちが皆「津、津」と言うようになった……。(笑い)それでやがて弁護団ができ、「守る会」ができたわけです。ですから佐木先生こそ勝訴をもたらした最大の功労者ということになる……。(笑い)
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「何とかの一つ覚え」には傍点が付されています。
「新宗連」は「新日本宗教団体連合会」の略称で、いわゆる「新宗教」関係の教団の集まりですね。

http://www.shinshuren.or.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%97%E6%95%99%E5%9B%A3%E4%BD%93%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BC%9A

「新宗教」の教団の大半が民衆的・大衆的な基盤に根ざしているので、理屈っぽい人が多い共産党とはあまり相性が良くないように思われますが、宗教学者の佐木氏は従前から「新宗教」との人脈も豊富だったようですね。
さて、今村弁護士から「この裁判の一番の功労者は佐木先生」、「あの田舎の三重県で起こった事件を靖国の問題と結びつけて中央へ持ってこられたのは実は佐木先生」、「佐木先生こそ勝訴をもたらした最大の功労者」と持ち上げられた佐木氏はまんざらでもない気分だったでしょうが、

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佐木 私はメッセンジャーみたいなものですよ。この問題はなかなか分かりにくいですからね。
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と控え目な返答をします。
「守る会」の軍師として、かの黒田官兵衛並みに大活躍された佐木氏が率直に認めておられるように、確かに地鎮祭問題には分かりにくさがあります。
「靖国の問題」、すなわち当時具体化していた靖国神社国家護持法案のような問題であれば、誰もが憲法の政教分離原則と抵触する可能性を理解できますが、地鎮祭みたいな地味な習俗的儀式の場合、一般人にとっては「靖国の問題」との結びつきは自明ではなく、憲法を持ち出すこと自体があまりに大袈裟な感じがしてピンと来ません。
そこで「守る会」側としては、自己の主張をアピールするために、地鎮祭は「国家神道」と、従って「靖国の問題」と重大な関係があるのだ、という論証をする必要が生じます。
そのあたりを小池健治弁護士の「5 戦前戦中の国家神道による人権侵害─控訴審での「宗教弾圧」の立証を中心にして」(p286以下)に即して見て行くことにします。
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 8月29日(木)06時27分38秒
編集済
  1971年5月14日の控訴審勝訴を受けて行なわれた座談会は、

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  1 二審の勝因

司会 皆さん今晩は。いろいろな都合で来られない方もいらっしゃいますが、最高裁での連続勝訴をめざして、「回顧と展望」という題のもとに、しばらくの間、皆さんの自由な発言また決意といったものをいただきたいと願っております。
 私たちは皆、去る五月十四日において、文字通り、「名古屋の空は青かった」という大変うれしい思い出を持っているのですが、一体何が名古屋高裁において、あのような歴史的勝訴をもたらしたということについて、最初に皆さんからお話を承りたいと思います。原告の関口先生からまず最初に発言していただきたいと思います。
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という司会(西川重則氏)の高揚感に満ちた発言(p345)を受けて、関口精一氏が、

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関口 裁判に勝ったということですが、こういう機会を持てて、全国的な課題として深めていただくことに感謝しています。
 まず第一審の結果と比べましても、問題が全国的な問題と言いますか、全国に、そういう知的な高い水準の問題としてとらえられていたことと、それから「守る会」が出来てそのバック・アップが種々な専門家を結集する力となった。そういうことが非常に大きな力となったと、相手方と対比してみますと一目瞭然だと思います。第二に、もう一つの側面は、司法反動というか、靖国問題を含めてですね。このことは私は非常に一面的にとらえて、どの裁判官も最高裁の判決になびいて迎合的でないかと考えていましたが、むしろあの司法反動の空気そのものが真面目な裁判官の気風を引きしめさせ、判決という形で自分たちの姿勢を明らかにしていくという一つの機縁になったのではないかということですね。これは、ごく最近では、新潟の水俣病とかそのほかいろいろな判例を見ても何かそのような事を私は考えるわけですね。それから第三にはやはり、これは靖国問題、また、もっと底流と言えば軍国主義の復活に対する反対ですね。国民が具体的に日常生活の中であれこれということでは、わたしの提起した裁判という形ではやっていませんけれども、何かしらなじまない、こう戦争反対というか、根強い流れを社会も特にマスコミなどは敏感にとらえて、それが一つの表面の事象としてこれを批判し支持するという形、これがあったと思うのです。それだけに反動側、神社本庁側、こういう方はですね、非常にヒステリックになって、しかも、論理になっていないということが裏の現象となっていたと思うのです。【後略】
-------

と発言します。
地鎮祭のような地味な行事を扱い、金額的にも僅か7,663円という少額の事件が全国的な問題に発展した理由としては、やはり靖国問題と連動させた運動方針の的確さが挙げられるでしょうね。
そして、「最高裁があることですから、そんな有頂天になってはいけませんけどね」という「有頂天」な気分に溢れた感想で終わった関口発言を受けて、司会は、

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司会 この勝訴がもたらした要因の中で、この際改めて確認しておきたいと思うのですが、佐木先生が第一審の判決について、宗教学者として冷静に分析され、そして鑑定人の立場から、宗教の本質論と言いますか、相手側の習俗論に対して、真正面から対決をされたと承っておりますが、そのような鋭い理論的な掘り下げをされたことによって、その後の裁判に大きな影響を与えたという意味で、非常な重責を果たされたわけですね。そのような立場から、次に佐木先生からお話を承りたいと思います。
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と佐木氏に発言を促します。
佐木氏が理論面のみならず組織・運動面でも「守る会」の中で大きな役割を果たしながら役職にはついていないのは、鑑定人としての立場を優先させたからでしょうね。
一宗教学者として、あくまで客観的な立場から鑑定を行ないました、というイメージを損うのはまずい、という訴訟戦略上の判断だと思います。
さて、この後、佐木氏の非常に長い発言があります。(p346以下)

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佐木 私はこの事件を関口さんから連絡をいただいて初めて知ったのですが、その時はすでに名古屋高裁にかかっている段階でした。それを知りまして、非常に驚いてですね。これは大変だと思ったのです。というのはサンフランシスコ講和条約が発効するとまもなく、急テンポで国家神道を復活させる動きが起こってまいりました。【中略】これはいかん、と思って、いろいろな立場の方々と一緒になっていろいろやっておったことがあるのですが、なかなかはっきりした戦いにはならない。そうするうちにさっきおっしゃっていたような靖国神社問題が起こってきた。つまり、一九六六年にまず紀元節復活、その次の段階で靖国神社問題、次は伊勢だ、とこういうふうにわれわれは見た。ところが靖国神社、伊勢神宮を公的なものにするには、政教分離の条項をあいまいにしなければならないという絶対の条件がある。この地鎮祭の問題は、まさにここにぶつかっています。つまり神道行事を公的にやっても違憲ではない、という論理がここにあるわけですね。で、第一審判決はそれを認めている。これをこのままうっちゃっておいたら、えらいことになると非常に驚きました。
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途中ですが、長くなったのでいったんここで切ります。
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 8月28日(水)13時53分8秒
編集済
  日本において宗教学を学問として確立したのは姉崎正治(嘲風、1873-1949)ですが、佐木秋夫は姉崎門下の最左翼ですね。
磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)には、「(姉崎に)学んだ者の政治的傾向を見ても、左木秋夫【ママ】のような左翼陣営から、大川周明・蓑田胸喜のような極右思想家に至るまで実に多彩である」(p98)とありますが、大川周明(1886-1957)・蓑田胸喜(1894-1946)と並ぶとなかなかの大物感が醸し出されますね。
1906年生まれなので、佐木の二十代は戦前の共産主義運動の全盛時代であり、ウィキペディア情報ですが、佐木も「日本戦闘的無神論者同盟、唯物論研究会に拠って著作をなす」とあります。
この「日本戦闘的無神論者同盟」というのはちょっと気になるので、後で調べてみるつもりです。

佐木秋夫(1906-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%9C%A8%E7%A7%8B%E5%A4%AB

さて、佐木は「守る会」で特に役職についていないにも拘らず、「Ⅳ 回顧と展望<座談会>」に参加しています。
この座談会のメンバーは、

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  出席者(発言順)
原告/控訴人・被上告人 関口精一
宗教学者 佐木秋夫
日本キリスト教団社会委員会幹事 戸村政博
被上告人代理人弁護士 今村嗣夫
被上告人代理人弁護士 小池健治
宗教学者 日隈威徳
新教出版社出版部 西川重則(司会)
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となっています。(p343)
この中で、戸村政博氏は熱心な政治活動で有名なプロテスタントの牧師ですね。
また、西川重則氏も「政教分離の会」事務局長を務めるなど、プロテスタントの政治運動家として有名な人です。

戸村政博(1923生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%8D%9A
西川重則(1927生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%89%87

弁護士の今村嗣夫氏は、リンク先サイトによれば、

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1932年生まれ。弁護士。韓国・朝鮮人元BC級戦犯者の戦後補償裁判、津地鎮祭違憲訴訟、自衛官「合祀」拒否訴訟、定住外国人の指紋押捺拒否裁判など国家と宗教、少数者の人権、外国人と憲法に関わる裁判を多数担当。主な著書に、『象徴天皇制と人権を考える』(日本キリスト教団出版局、2005)、『一匹の羊の教え―いま問われる少数者の人権』 (共著・日本基督教団出版局、2000)、『戦後補償法―その思想と立法』(共著、明石書店、1999)、『アイデンティティーへの侵略―いま高校生と語る戦後補償・人権』(共著・新教出版社 、1995)、『こわされた小さな願い―自衛官〈合祀〉拒否訴訟』(キリスト新聞社 、1989)などがある。

http://gendainoriron.jp/vol.05/feature/f07.php

という経歴の方ですね。
小池健治氏については、次のような記事がありました。

http://www.shinshuren.or.jp/page.php?id=371
http://www.naganolaw.co.jp/attorneys/koike.html

また、「日本キリスト教団 百人町教会」サイトによれば、今村嗣夫氏と小池健治氏は同教会の会員だそうですね。

http://hyakunincho-church.com/
http://hyakunincho-church.com/6column/aso/hncc-as132.html

ということで、座談会参加者はプロテスタントが戸村政博・今村嗣夫・小池健治・西川重則の四名、共産党系の無神論者が関口精一・佐木秋夫・日隈威徳の三名という組み合わせです。
座談会記録を通読した印象としては、「守る会」の実態は「国家神道」の復活に対して抵抗する(神社神道を除く)全宗教勢力の連合体というよりは、共産党系の無神論者と政治活動に熱心な一部プロテスタントの集まり、といったところのようです。
 

『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 8月27日(火)10時58分10秒
編集済
  関口氏は問題となった地鎮祭に自身も出席し、「神式地鎮祭の全容を、市議になってから市政チェック用にと「月賦で購入した」カメラ─当時の歳費は一万四〇〇〇円で生活もきつかったから、と苦笑する─におさめた」(田中信尚『政教分離』、p6)そうですが、『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』の口絵には、そのカメラで撮影したと思われる地鎮祭の模様を中心に15枚の写真が載っています。
その最後は「違憲判決直後、共同記者会見でその喜びを語る原告の関口氏(中)、小池弁護士(左)、松島栄一氏(右)」というキャプション付きの一枚ですが、私はこれで初めて関口氏の風貌を知りました。
1915年生まれで北海道帝国大学工学部機械科卒の共産党員という経歴から、頑固なエンジニア風のごつい人、みたいなイメージを抱いていたのですが、意外なことに関口氏は非常に穏やかな感じの人ですね。
顔がそっくりという訳ではありませんが、雰囲気は出会い系バーでの「貧困調査」で有名になった前川喜平氏(元文部科学事務次官)に似ていて、育ちの良さを感じさせます。
ま、戦前の帝国大学を出ているだけあって、それなりに裕福な家庭の人なのかもしれません。
私は佐伯真光氏が関口氏に行ったインタビューを読んだ感想として、「1915年生まれの古参の共産党員である関口氏は、政治的に利用できそうなものは何でも利用しようとする貪欲なマキャベリストで、煮ても焼いても喰えない古狸、といった感じ」などと書いてしまったのですが、これも些か思い込みが過ぎたようです。
そもそも私は関口氏の共産党入党の時点を確認していなかったので、「古狸」は特にまずかったですね。

「訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者」(by 佐伯真光氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9974

さて、「守る会」の「常任世話人」や『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』の執筆者を見ると、佐伯真光氏の「訴訟を支援している人たち、および弁護士はほとんどすべてキリスト教関係者」という認識は若干不正確なようで、「代表世話人」の松島栄一氏の他にも共産党関係者がやはり多いですね。
その中でも一番共産党色が強いのは「常任世話人」の一人、日隈威徳(ひぐま・たけのり、1936-2019)氏です。
日隈氏が書いた『戸田城聖─創価学会─復刻版』(本の泉社、2018)の「著者略歴」を見ると、

-------
1936年鹿児島市に生まれる。東京大学文学部印度哲学梵文学科卒業、同大学院修士課程修了。気象大学校、文教大学で非常勤講師。鈴木学術財団研究部、春秋社編集部を経て、日本共産党中央委員会に新設された宗教委員会に勤務(1976~2004年)、その間、同委員会責任者(1982~2004年)、参院比例代表名簿登載者(1983~1995年)、中央委員(1987~2004年)。
<現在>
勤労者通信大学講師、アジア・アフリカ研究所会員、部落問題研究所会員、日本共産党を支持する全国宗教人の会・代表委員
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とのことで、共産党のスーパーエリートですね。
創価学会に詳しい日隈氏の、この異常に輝かしい経歴と、1977年に「共産主義政党と宗教─「創共協定」を再考する」(『世界』1977年10月号)という論文を書いて宮本顕治委員長を批判し、共産党を除名されてしまった村上重良の人生を比較すると、いろいろ想像したくなります。

村上重良(1928-91)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%87%8D%E8%89%AF
日隈威徳(1936-2019)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9A%88%E5%A8%81%E5%BE%B3

ま、それはともかくとして、「常任世話人」ではありませんが、「Ⅲ 論説」に「地鎮祭と習俗」という論説を寄せ、「Ⅳ 回顧と展望<座談会>」に日隈氏と一緒に参加している佐木秋夫氏も共産党系の研究者ですね。
この座談会記録を読むと、佐木氏は関口氏の孤独な闘いを靖国問題と関係づけて全国レベルの戦いに連結・拡大させることにずいぶん貢献したようですが、その点は次の投稿で書きます。

佐木秋夫(1906-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%9C%A8%E7%A7%8B%E5%A4%AB
 

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