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お礼

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月21日(日)10時53分19秒
  小太郎さん
ご丁寧に痛み入ります。春挽を『奥の細道』まで遡及させましたが、誤りなんですね。

どこまで本気なのか、よくわからないことばかり喋っている井上氏との対比から、本郷さんて、ほんとに真面目な人なんだなあ、と思いました。
 
 

岡谷に貼られた「女工いじめの街」のレッテル

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月21日(日)10時05分29秒
編集済
  もう少し『岡谷蚕糸博物館紀要』の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」の事例を紹介してから山本茂実『あゝ野麦峠』の信頼性に直接関係する会田進氏(元市立岡谷蚕糸博物館学芸員)の「製糸聞き取り調査の総括 山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸女工哀史』をたどる(1)」(『岡谷蚕糸博物館紀要』13号、2008)を引用しようかなと思っていたのですが、まあ、少なくとも食事に関しては、松沢裕作氏の「提供される食事は貧しく」という指摘は誤解ですね。
もちろん、2018年現在の松沢家の食卓に比べれば貧しいと評価せざるを得ないでしょうが、戦前の日本の生活事情を考えれば製糸工女に提供された食事は平均を相当上回るレベルであり、ご飯を自由に何杯でも食べられるだけで夢のようだと思った人も多いと思います。
『岡谷蚕糸博物館紀要』全14巻の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」を見ると、1927年(昭和2)8月に起きたストライキで有名な山一林組については、食事の内容に多少の不満があったという証言があるものの、それもオカズが少ない程度の話ですね。
『あゝ野麦峠』には、工女の集会で「私たちはブタではない、人間の食べ物を与えてください」との発言があったと記されていますが(新版、p267)、これが仮に事実だとしても、一時的な争議の興奮にかられた大袈裟な表現かと思います。
ということで、会田進氏の論文に移ります。
まず、聞き取り調査の趣旨ですが、

--------
1.岡谷蚕糸博物館の聞き取り調査のあらまし

 映画『あゝ野麦峠』によって、信州、諏訪、そして岡谷の製糸業は著しく暗いイメージになり、日本労働史の中でも、苛酷な、残酷な産業の歴史というイメージを負うことになってしまった。いまだ労働問題が起きるとまず言われることは、「岡谷の製糸業においては」という表現である。こう語られることがすべてを物語っていよう。
 本当に製糸業は工女虐待の経営を行い、いわゆる労働搾取を行なっていたのか、工女哀史ということがあったのか、その実態はどうなのかと様々な疑問が起きる中で、これまでなかなか岡谷の製糸業界から、疑問・反論が出てこなかった。自伝的小説やエッセイなどがないわけではないが、正面から反論することはなかった。
 近代製糸業の歴史は、世界経済の波に翻弄され、艱難辛苦の茨の道であった。栄光の陰に、工女も経営者も栄枯盛衰さまざまな過去を負っている。しかし、日本の産業の近代化に貢献し、外貨の50パーセント以上を獲得、明治政府の殖産興業を担い、維新以後の近代化に大きな役割を果たしたのは製糸業であり、それは製糸家の誇りであった。市立岡谷蚕糸博物館は、そうした製糸業の先人の顕彰を大きな目的の一つにしているのである(紀要創刊号)。当然ながら、なぜ哀史といわれねばならないのかという疑問は蚕糸博物館の初代館長古村敏章をはじめ、常に抱いていた問題である。特に二代館長伊藤正和は、山本氏に分け隔てなく資料を提供し、岡谷の製糸業の歴史を伝えている一人である。
-------

ということで(p95)、映画『あゝ野麦峠』が岡谷に与えた影響は甚大でした。
永池航太郎氏の「『あゝ野麦峠』に関する研究─「女工哀史」像の解釈をめぐって─」(『信濃』66巻10号(2014)によれば、

-------
 岡谷の街は、映画「あゝ野麦峠」が上映されて以降、「女工いじめの街」というレッテルが張られ、負のイメージが植えつけられることになる。映画が上映された昭和五四年には岡谷市内の企業への就職希望者数は激減した。
-------

とのことで(p795)、山本茂実の原作はまだしも、映画『あゝ野麦峠』は本当にシャレにならない事態を惹き起こした訳ですね。
なお、会田論文の上記引用部分だけ見ると岡谷蚕糸博物館の設立自体、映画『あゝ野麦峠』への対抗策のように見えるかもしれませんが、同館設立は1964年(昭和39)だそうで、山本茂実の原作が出た1968年の四年前、映画『あゝ野麦峠』の十五年前ですね。

「岡谷蚕糸博物館 シルクファクト」公式サイト
http://silkfact.jp/
市立岡谷蚕糸博物館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E8%9A%95%E7%B3%B8%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8
 

「春挽」について

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月20日(土)23時41分33秒
編集済
  >筆綾丸さん
>春挽

ご紹介のツイートに春挽が俳句の季語になっているとあったので、意外に古い言葉なのかなと思ってしまったのですが、『岡谷市史・中巻』(岡谷市役所、1976)の「第三編 製糸業の展開」「第三章 明治後期における製糸業の展開」「第五節 製糸労働者」には、

-------
労働時間
 明治二〇年代諏訪地方の器械製糸は六月に操業を開始し、十一月に終るを常とした。したがって年間の労働日数は一八〇日前後であった。三〇年代になって労働日数は増加し、二〇〇日前後となり、最高は二六五日、最低は一八〇日余となってその差は大きい。これは原料繭の確保と、その保管設備方法等に関係があったのであろう。四〇年代になって年間操業日数は一般に増加し、二〇〇日以下は無く多くは二五〇日を越えて二七〇余日に及ぶものもあった。このころになると春挽と称し、三月開業五月終了、夏挽六月開業十二月閉業の二期に分けこの間、三、四日ぐらいの休業があるのが普通であった。すなわち春挽の開始が年間就業日数を増加したのである。
-------

とあり(p581以下)、明治四十年代に出来た言葉のようですね。
実はこの引用部分、山本茂実『あゝ野麦峠』の信憑性に関係してくるので、些か煩雑ながら続きも引用すると、

-------
 一般的に男工は女工に比べて就業日数が若干多くなっているが、これは女工の操業の休業中といえども工場に残り、工場内の整備・整理に当たることがあり、このため日数の増加となることが多かった。一、二月は通常休業であったが、これは諏訪地方の寒気が厳しく操糸作業に不適当であったこと、原料繭の確保が困難であること、それに保管技術もまた不充分であったことなどを挙げることができる。
 明治年代には中間の休日はほとんどなく、前記春挽と夏挽の中間休みぐらいであった。明治四十二年調べによると、開業中の休みとしてお盆休み、二、三日をとるのが一般であって月々の定期休業はない。中に一、二の工場では、二、三日の臨時休業とすることがあったがこれは秋祭などの休日であった。
-------

のだそうです。
生繭は放置すると発峨して無価値になってしまうので殺蛹・乾燥させる必要がありますが、明治二十年代から米国式乾燥器の利用等で乾燥技術が徐々に向上し(p618以下)、また、保管中の繭質の維持のための貯蔵倉庫(繭倉庫)の建設が進んで(p621)、明治四十年代に春挽が一般化したようですね。
『あゝ野麦峠』との関係は後ほど。

>『日本史のミカタ』
書店でパラパラ眺めてみましたが、やっぱり私は井上章一氏が少し苦手で、購入はしませんでした。
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その9)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月19日(金)12時42分14秒
編集済
  それでは、まず岡谷市立蚕糸博物館『岡谷蚕糸博物館紀要』創刊号(1996)の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業(1)大正3年岡谷に来て」から、武井はる子さん(聞き取り平成7年7月、97歳)の発言を引用します。
この方は明治32年(1899)山梨県東八代郡一宮町生れで、尋常高等小学校の高等科を出て大正3年(1914)、数えで16歳で笠原製糸に入ったそうですが、食事に関しては、

-------
 麦飯だったが食事はおいしかった。おかずは漬物やなんか。たまには煮物出してくれたりね、いまみりゃ粗食だったね、それでも病む人もなければ、たまには病む人もあっつらけど、わしゃー丈夫のせいか、病んだことはなかったね。ご飯はおひつを置いといて、自分で盛って、腹一杯でお腹をすかせるなんてことはなかったね。
 仕事は毎晩、今で言えば9時まで、よくやったもんだ。サツマイモなんか蒸してねえ、出たぞ。
-------

とのことです。(p7)
次に同じく創刊号の、平成5年~7年にかけて12人から行った聞き取りをまとめた「(2)史上座談会」を見ると、食事に関しては、

-------
ここへ来て(大正6年)、ご飯は自由に食べられたし、満腹に食べられたわけだ。女衆だって別に決まって、ほれ、量を決めて出すじゃねーもんで、ほりゃー自由に食べられただわね。ただオカゾ(おかず)は、まあだいたい味噌汁がうまけりゃよかったぐらいのもんだ。お昼は魚があるとか、オカゾが付くだ。

うちは麦は入らず白米だけ(大正9年)、朝のおかずはお漬物とおつよ(みそ汁)。お昼は皿盛りのごちそうが毎日変わって出た、煮物とか魚とか。夕飯は朝飯と同じ。

わしんとこ(大正6年)、朝は漬物とご飯くらいだったけんど、お昼はゼンマイ、あれを油で炒めて油揚げを入れて煮るとか、サンマは半身、そんなオカズだった。えらい毎日、日を替えてごちそうしてくれるなんてことはねえ(無い)、昔のこんだものね、それで満足していた。夕飯は味噌汁と余ったものとか。
2割くらいの麦ご飯だったが、おいしかった。たくさん炊くもんでおいしかった。お味噌汁にはお菜とかワカメでも入れて煮てくれて。昔としちゃ何もないだものね、おいしかったよ。ご飯はおひつへ盛ってきてね、自分で自由に盛って回してやる。制限がなかった。残業のときにゃねえ、サツマイモ蒸してね、中位の大きさの2本ずつ配ってくれた。ゴマ塩つけたおにぎりの時もあった。

それでも、たまにゃライスカレーこしらえてくれて。会社のライスカレーは大正13年頃だったね。来たときはおいしくってね。あんころ餅こしらえてくれた、そういうことはありました。

昭和3年に製糸に入ったが、食事はねえ、うち(農家)よりよかった。朝はお漬物2色くらいとご飯。お昼は鯖か鰯とか塩鮭とか、そうゆうものが出た。
お昼が一番そうゆう変わったおかずが付いてた。夕飯はやっぱ、お味噌汁と漬物。煮物や魚はあったり、なかったり。お肉はたまーにだね、たくさんのものと一緒に煮込んだもので、ご飯はお代わり自由だった。
-------

ということで(p10以下)、食事についての不満は、少なくとも量に関しては全くないようですね。
ついで、『岡谷蚕糸博物館紀要』第2号(1997)「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業(2)家から通って」から、増沢志めさん(聞き取り平成5年11月、88歳)の発言を引用します。
この方は、「生れは岡谷の今井、昔のこと言やあ四ツ屋。会社は金山社。今の権吉さのところが本社で、歩いて10分くらい。6年卒業して(数えの)14歳から」「大正7年から11年間勤めたわけ」とあるので、明治38年(1905)生まれとなります。
工場のすぐ近くに住んでいて通勤していた人ですね。
食事については、

-------
 朝は漬物とご飯くらいだったけんど、お昼にはお魚がつくし、今わし覚えてるけんど、「ぜんまい」ていうのあるじゃあ。あの頃どこから来たか知らねえが、干したのがあって、それをひやかして(水でもどして)、油で炒めて油揚げ入れるとかして煮て、わりとおいしくてね、とっても豊富にあってね、よく煮てくれた。サンマやタラを焼いてくれたり煮てくれたり、お昼はそんなオカゾ。夕食は、煮物のあまりっていうか、味噌汁、その日によりゃお魚かほかの煮物。大勢だで、まぜこぜの煮物なんて、できないでね。えらい毎日、日を替えてごちそうしてくれることはねえ(無い)。昔のこんだものね、それで満足してたで。おいしかった。ご飯もたくさん、だけど、やっぱ麦のご飯だったけど、たくさん炊くもんでおいしかった。味噌汁には麩とかワカメとか。ご飯はまるっこい竹のお櫃へ盛ってきてね、自分で自由に盛って、回してやる。こういう大きい台だもんで、そっちにやるし、また盛りに来るし、量はね、制限がなかった。
 残業する時にゃあ、わりあいおいしいサツマ芋蒸〔ふか〕して中くらいの2本ずつみんなに配ってくれた。それかゴマ塩のおにぎり、あれ意外とおいしいだよ。特別の日っていう日にはわしは家にいたで、泊っている人たちは赤飯蒸してくれたって言ったでねえ。やっぱいくらか魚でも煮てくれたずらね。麦はそんなにたくさんでもないけど、2割くらい入っていたずらかねえ。食費っちゅうのは取りゃしないでね、会社でくれたんだと思う。食費の話なんか、したことなかったもの。
-------

とのことで(p14)、やはり少なくとも量については全く不満がなかったようですね。
ちなみに同じページに、

-------
 お休みは15日と30日だでねえ。だけんど、正月から春にかけて長く休んで、お裁縫習いへ行ったもんでね。地の者の休む衆の中には100日くらい休んでる衆もあったね。
-------

とありますが、中村政則『労働者と農民』に出てくる契約書の日付が6月2日の八幡ヤスも「スワ郡長池村」ならぬ長地村ですから、やはり工場のすぐ近くの「地の者」であり、おそらく通勤していたのでしょうね。
そして工場全体が休みの1・2月に加え、3月1日から始まる「春挽」の期間も丸々休んでいたようですね。
 

日本史のミカタ

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月19日(金)11時16分40秒
  https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784396115456

井上章一・本郷和人両氏の『日本史のミカタ』を半分ほど読みましたが、随所で笑える有益な対談です。
-------------------
井上 私は、中世に朝廷の権威がどこまで力を持っていたか、疑問に思っています。しかし、自分が年を取り、先輩たちが叙勲に少なからず心を動かしている様子も見て、これは侮れないなと思うようになりました。進歩的だった人、左翼的だった人が自分はどの勲章をもらえるのかと気を揉んでいるのです。
本郷 どうでもいいように見えて、人を動かす力になっていると。
井上 フランスでも、外国人にレジオン・ドヌール勲章(フランスの最高勲章)を与えることが、安上がりな外交になっています。実力を重んじる本郷史学は、天皇制の持っている、この侮れない力を見過ごしてしまうことになりませんか。
本郷 私が「京都の研究者は唯物史観のくせに勲章を欲しがる」と言ったら、高橋昌明さん(神戸大学名誉教授)に「それだけは言うな」と窘められました。
井上 「言うな」というのは図星だからでしょう。(後略)
-------------------

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8
勲章欲しがる似非(唯物)論者、という感じですね。
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その8)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月19日(金)11時07分14秒
編集済
  松沢裕作氏が、

-------
特に、生糸をつくる製糸業では、若い女性が苛酷な条件で働いていたことはよく知られているでしょう。労働時間は長く、提供される食事は貧しく、そして彼女たちは寄宿舎に閉じ込められて生活していました。
-------

という認識をどのようにして形成したのかは知りませんが、一般的にはこうした認識は山本茂美の『あゝ野麦峠』(朝日新聞社、1968)と、これを原作にしつつ大幅に脚色を加えた山本薩夫監督の『あゝ野麦峠』(製作:新日本映画、配給:東宝、1979)に依るところが大きいですね。
永池航太郎氏の「『あゝ野麦峠』に関する研究─「女工哀史」像の解釈をめぐって─」(『信濃』66巻10号(2014)によれば、

-------
 戦後、野麦峠は、飛騨や岡谷の人々からさえ、その存在を忘れられた場所であった。その野麦峠が一躍全国的に有名になったのは、昭和四三(一九六八)年に、山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』(以下『あゝ野麦峠』と表記する)が出版され、ベストセラーになったからである。『あゝ野麦峠』は、山本茂実が五年の年月をかけ飛騨の元糸引き娘(元工女)約三八〇人に聞き取り調査を行い、そこで得られた資料をもとに工女たちの飛騨や岡谷での生活を描いた作品である。
 その後、『あゝ野麦峠』は、昭和五四年に山本薩夫監督により映画化された。映画の持つ影響力は原作より大きく、映画「あゝ野麦峠」では、雪の野麦峠越えの途中に転落したり、諏訪湖に入水したり、野麦峠で流産する哀れな工女たちと、工女に厳しい労働環境のもとで搾取する岡谷の工場主というイメージを観客に植えつけた。
【中略】
 映画化に際しては、テーマの絞り込みがあった。たいまつを持って雪の野麦峠を越える頭巾をかぶった娘たち、千本の煙突といわれる諏訪・岡谷の工場に働く工女たちのきびしい労働、ろくな食物を与えられず、技術のまずい工女は体罰を受け、減給になる、といった苛酷な労働環境と、主人公の優等工女でもあった政井みねが重態になり、故郷の兄がひきとりに来て、妹をおぶってちょうど野麦峠の頂上で妹が息絶えるクライマックスのシーンである。この結果、多くの人々の間で野麦峠=「女工哀史」のイメージが鮮烈に植えつけられることになった。映画化によって「女工哀史」像が創られたのである。一面的に女工哀史の物語とされたことによって、製糸工場の舞台となった諏訪の製糸関係者や元工女たちからは顰蹙を買い、山本茂実は「諏訪の敵」だと非難されることになった。
-------

のだそうです。(p53以下)

映画『あゝ野麦峠』
https://www.youtube.com/watch?v=eEqpQVHwKjo
あゝ野麦峠 映画 エンディング曲 主題歌/アルル (Oh/The Nomugi Pass)
https://www.youtube.com/watch?v=nYa3jkS9t2I
あゝ野麦峠 映画 サントラ ラストシーン曲 (Oh/The Nomugi Pass)
https://www.youtube.com/watch?v=EnkTDjJ42UE

諏訪の製糸業の歴史に詳しい地元の人が『あゝ野麦峠』にどのような感情を持っているかについては、岡谷駅に近い真言宗智山派・照光寺の住職・宮坂宥洪氏のサイトが参考になります。

「女工哀史」の真相(城向山瑠璃院照光寺サイト内)
http://okaya-shokoji.com/sermon/%E3%80%90%E5%A5%B3%E5%B7%A5%E5%93%80%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E2%91%A1%E3%80%91vol-44/

ま、途中で赤軍派と日本共産党を一緒くたにするところなど、ちょっと感情的になりすぎていて読みづらく、論点を史実との相違だけに絞って、自説の根拠となる文献を丁寧に紹介しつつ述べればもっと説得的になると思うのですが、郷土愛の故に冷静にはなれないのでしょうね。
私は『岡谷蚕糸博物館紀要』に連載されている「聴き取り調査の記録」を読んで、地元の製糸業関係者や元工女たちの『あゝ野麦峠』に対する違和感は理解できるようになったので、松沢裕作氏が依拠する中村政則氏の見解を批判する前に、少しだけ「聴き取り調査の記録」を紹介しておこうと思います。
あまり大量に引用するのも大変なので、とりあえず「提供される食事は貧し」かったという松沢氏の見解に対応する部分を少し紹介します。

>筆綾丸さん
>繭を年越しさせて春に挽く、ということは、繭は数ヶ月寝かせておいたほうがよい、ということになりますか。

保存による劣化があるので、寝かせた方が良いということはないと思います。
ちょっと調べてみます。
 

春挽

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月19日(金)10時33分24秒
  小太郎さん
https://twitter.com/poemor/status/174440119732944896
ご引用の文を正確に判断できる知識はありませんが、春挽という言葉、はじめて知りました。
契約終了の12月までに、その年の繭の製糸はすべて完了しているもの、と思っていました。繭を年越しさせて春に挽く、ということは、繭は数ヶ月寝かせておいたほうがよい、ということになりますか。

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno22.htm
這出よかひやが下のひきの声 芭蕉

この夏蚕は秋挽になる、ということですね。蟇蛙の「ひき」と秋挽の「ひき」が掛けられていて、季語(蟇蛙)は夏だが夏蚕の繭を挽くのは秋だ、というところがおそらくミソで、その頃、私は何処で杖を曳いているのだろう、という含みなんでしょうね。芭蕉らしい知的な句です。
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その7)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月17日(水)20時24分19秒
編集済
  2014年に私の地元の富岡製糸場が世界遺産に登録されたこともあって、私は製糸業の歴史について、素人に毛の生えたレベルではありますが、ある程度詳しいんですね。
そのため、『生きづらい明治時代』の、

-------
特に、生糸をつくる製糸業では、若い女性が苛酷な条件で働いていたことはよく知られているでしょう。労働時間は長く、提供される食事は貧しく、そして彼女たちは寄宿舎に閉じ込められて生活していました。
-------

という記述を見た瞬間、私の心の中のチコちゃんが、「莫迦言ってんじゃねーよ!」、「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叫んだのですが、おそらく岡谷市の歴史に詳しい人が同書を読めば私以上に激怒されるであろうと思います。
しかし、一般にはこうした「女工哀史」的な、「あゝ野麦峠」的な製糸工女観が今なお根強いと思いますので、私の乏しい知見の範囲で少し批判しておきたいと思います。
そこで、最初に松沢裕作氏が依拠する中村政則氏の『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)の記述を紹介しておきます。(p93以下)

-------
 話をすこしのちの時代にすすめすぎたので、ここでふたたび明治期にもどして、製糸会社と女工との雇用契約の実態をみてみることにしたい。まずその一例として、日本最大の製糸会社であった片倉組とのあいだの雇用契約書を左にかかげよう。

製糸工女約定書〔やくじょうしょ〕/ スワ郡長池村(岡谷市)/ 戸主八幡伴蔵長女/ 工女同ヤス/ 十八年(歳)/ 一金五円也約定証/ 右之者、貴家製糸工女トシテ明治卅年三月ヨリ同年十二月迄、製糸開業中就業之約定致シ、前記ノ約定金正ニ請取〔うけとり〕候。然〔しか〕ル上ハ成規・御家則堅〔かた〕ク遵守〔じゅんしゅ〕致スベク候。期間中ハ何等〔なんら〕ノ事故出来〔しゅったい〕候共〔そうろうとも〕決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候。万一右約定ヲ違変候節ハ、違約ヨリ生ズル損害金ハ御請求ニ応ジ、必ズ弁償可致〔いたすべく〕為後日〔ごじつのため〕約定書。仍〔よっ〕テ如件〔くだんのごとし〕。/ 明治卅年六月二日/ 右戸主八幡伴蔵/ 片倉兼太郎殿

 これから気づくことは、第一に父親たる戸主が雇主にたいして一方的に誓約するというかたちをとっていること、また、女工が雇主にとって不都合なことをしたばあいには戸主が責任を負う、となっていることである。ここでは、女工本人が契約主体となっていないことに注目すべきである。
 第二に、前貸金とか手付金ともいわれた「約定金」の存在である。これは女工の争奪が激しくなった明治三〇年前後に一般化したようであるが、大製糸資本家が女工を有利に獲得するための有力な募集手段であった。その手続きは、つぎのようにしておこなわれた。各工場の募集人は年始と春挽〔はるびき〕まえに二度ずつ、まえの年に自己の工場に働いていた女工はもちろんのこと、他の工場の女工であった者、あるいは工場勤めを希望している者を問いあわせ、その家を歴訪する。そのさい募集人はいろいろの甘言をもって父兄ないし当人を勧誘するわけであるが、貧しい農家にとって、この前借金はたいへん魅力のあるものであった。
 石井寛治の『日本蚕業分析』によれば、この前貸金は明治二五年当時、山梨県では一人二円であったが、明治三四年ごろになると四、五円内外をつねとするようになり、明治三九年の山梨県の例では五円から一〇円くらいをだすようになったという。そして、同氏はいくつかの製糸場の事例を検討した結果、前貸金の分布は「一円と五円の二極集中型」になっていること、また五円以上の前貸金は、主として未経験女工をひきだすばあいか、他の製糸場へ勤めた女工をひきぬくさいに用いられる例が多かったことをあきらかにしている。また『生糸織物職工事情』によれば、雇い入れようとする女工が熟練女工で、かつ、他工場との募集競争がはげしい場合には、五、六十円もの前貸金を給する例さえあったという。この前貸金は女工の就業中の賃金からさしひかれるものであったが、明治三二年当時の小作農家(家族五人、小作田畑一町歩耕作)の年間現金支出が全国平均で一六六円であったことをみても、農閑期の一、二月に、女工一人につき五円前後の現金がはいることは、貧農にとっては大きな魅力であっただろう。親にとってたいせつな娘を遠く、見も知らぬ他県の製糸会社へだすことは心配であったが、この前借金ほしさに、契約を結ぶ農家が何戸もあったのである。
 第三に注目しなければならないのは、「何等ノ事故出来候共決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候」という条項であり、かつ、万一違約したばあいには工場主の請求に応じてかならず弁償する、という規定である。ここにはたんに賠償するとだけあって金額を明示していないが、おなじ明治三〇年の林国蔵の工場のばあいをみると、なんと二〇倍の損害金を要求している例さえある。
 このように前貸金はたんに女工募集の有力な手段であっただけではなく、女工の移動の自由を事実上禁止した足どめ手段としても機能していたわけであり、製糸業における雇用関係の前近代的性格をうきぼりにしているといえよう。こうして明治三〇年代になると、女工はいわば借金つきで工場にはいるのが一般化し、女工は親に迷惑をかけたくないの一心から、苛酷な労働条件にもじっとたえて、糸引きに精をだしていたのである。
-------

ここに述べられた見解は、1976年当時の「戦後歴史学」の水準としては普通の出来ですが、現時点では相当に問題がありますね。
というか、間違いだらけです。

中村政則(1935-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%89%87
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月16日(火)16時23分49秒
編集済
  中村政則氏の『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)を確認してみたところ、中村氏は八幡ヤスの「製糸工女約定書」を、

-------
製糸工女約定書/ スワ郡長池村(岡谷市)/ 戸主八幡伴蔵長女/ 工女同ヤス/ 十八年(歳)/ 一金五円也約定証/ 右之者、貴家製糸工女トシテ明治卅年三月ヨリ同年十二月迄、製糸開業中就業之約定致シ、前記ノ約定金正ニ請取候。然ル上ハ成規・御家則堅ク遵守致スベク候。期間中ハ何等ノ事故出来候共決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候。万一右約定ヲ違変候節ハ、違約ヨリ生ズル損害金ハ御請求ニ応ジ、必ズ弁償可致為後日約定書。仍テ如件。/ 明治卅年六月二日/ 右戸主八幡伴蔵/ 片倉兼太郎殿
-------

という具合に、全く改行せず、スラッシュ(/)で区切って引用していますが(p93以下)、『生きづらい明治社会』と比較すると、「(岡谷市)」が削除され、「一金五円也約定<証>」が「一金五円也約定<金>」となり、句読点の打ち方も異なるので、松沢氏は中村著だけではなく、別の資料も参照していますね。
何を使っているのかなと疑問に思っていたのですが、これはおそらく大石嘉一郎氏の「雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」という論文ですね。
そもそも中村氏は、一般書という制約もあって、八幡ヤスの契約書の出典を明示していないのですが、上記引用部分の少し後に「一般に製糸業の賃金制度は等級賃金制とよばれており、最近、この等級賃金制については大石嘉一郎・石井寛治・岩本由輝らのすぐれた研究があいついで発表されている」(p96)という一文があるので、中村氏が大石嘉一郎氏の「日本製糸業賃労働の構造的特質─『等級賃銀制』を中心として─」(川島武宜・松田智雄編『国民経済の諸類型』、岩波書店、1968)と密接に関連している「雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」(東京大学社会科学研究所『社会科学研究』24巻2号、1972)を見ているのは明らかです。
大石嘉一郎氏のこの二つの論文は、『日本資本主義の構造と展開』(東京大学出版会、1998)「第三章 製糸業賃労働の構造的特質と形態変化」の「第一節 日本製糸業賃労働の構造的特質─「等級賃銀制」を中心として─」と「第二節 雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」として、「若干の字句を修正しただけでほとんどそのまま」掲載されています(p207、「補注」)。
そして、「雇用契約書の変遷からみた製糸業賃労働の形態変化」は全部で十七の雇用契約書例を紹介しているのですが、その二番目に出ている八幡ヤスの契約書を引用すると、

-------
〔例二〕
    製糸工女約定書
          スワ郡長地村 番地
             戸主 八幡伴蔵 長女
一金五円成約定金     工女 同 ヤス
                    十八年
右之者貴家製糸工女トシテ明治卅年三月ヨリ同年十二月迄製糸開業中就業之約定致シ前記ノ約定金正ニ請取候然ル上ハ成規御家則堅ク遵守致スベク候期間中ハ何等ノ事故出来候共決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候万一右約定ヲ違変候節ハ違約ヨリ生ズル損害金ハ御請求ニ応ジ必ズ弁償可致為後日約定証仍テ如件
 明治三十年六月二日     右戸主 八幡伴蔵
  片倉兼太郎 殿
-------

となっています。(p149)
中村著を見ただけでは文章の配置は分らないので、松沢氏は『日本資本主義の構造と展開』を見て、中村著を参照しつつ読み下したものと思われます。
因みに大石氏は正しく「長地村」としていますが、中村・松沢氏は「長池村」ですね。
ということで、私は当初、松沢氏が諏訪の製糸業の歴史についてあまり詳しくなく、少し雑なところがある中村氏の説明に安易に乗って『生きづらい明治社会』を書いたのかなと思っていたのですが、そうではなく、松沢氏は大石氏の言うところの「製糸業賃労働の構造的特質と形態変化」を熟知しつつ、それでもあの叙述となった訳ですね。
ふーむ。
そうなると、松沢氏の著作姿勢への評価も、また違ってくることになりますね。

>筆綾丸さん
>期間が「明治三十年三月より同年十二月」なのに、なぜ、契約日が「明治三十年六月二日」なのか
大石著でも「六月二日」となっているので、中村氏の誤記の可能性は消えましたね。
まあ、たぶん「製糸工女約定書」はこの時期の片倉の定型文書であって、工女毎にその個人的事情を考慮して契約書を作成しているのではなく、(約定金額を除き)全く同一の書式で集団的に処理しているのでしょうね。
この契約の場合、「約定金」の受領は六月で、八幡ヤスが働き始めたのも六月からでしょうが、契約書の書式にはわざわざ変更を加えなかったということだと思います。
ちなみに明治三十年くらいの段階では、片倉だけでなく、諏訪の製糸業者は概ね厳冬期の一・二月は工場の操業自体を止めていたようで、他の業者の雇用契約書でも契約期間は三月から十二月までとなっていることが多いですね。
その他の点はまた後で。
 

製糸工女約定書

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月15日(月)12時52分15秒
  小太郎さん
「製糸工女約定書」でよくわからないのは、期間が「明治三十年三月より同年十二月」なのに、なぜ、契約日が「明治三十年六月二日」なのか、ということです。普通であれば、契約日は「明治三十年三月」より前になるはずです。
また、「製糸開業中就業の約定」ですが、製糸開業中でない期間はどうなるのか、ということもよくわかりません。養蚕は、春蚕、夏蚕、秋蚕というように、いわば季節労働だから、契約期間中、継続して「製糸業」があるわけではないですよね。片倉製糸は近隣の養蚕農家から大量の繭を買い取るので、契約期間中は一貫して「製糸業」が続くのだとすれば、「製糸開業中就業の約定」などという文言は不要のはずです。
それはさておき、この約定書は、江戸期の身売り証文と同じようなもので、女工として働けなくなれば、雇主は損害金の弁償として遊女屋に売り飛ばすこともできるのだ、と解すればいいのですか。
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月15日(月)10時58分42秒
編集済
  『生きづらい明治社会』に私が抱く多くの疑問のうち、二番目の製糸工女に関する問題に移ります。
大倉喜八郎については、史料の一部だけ引用することにより読者、特に「岩波ジュニア新書」が対象とする若年の読者が誤解する可能性が極めて高いにもかかわらず、意図的かどうかはともかくとして、その誤解を放置するのは教育者としていかがなものか、という疑問でした。
そして、こちらは、史料の背後にある世界を著者がどれだけ正確に理解しているのか、という著者の歴史研究者としての資質・能力に直接関係する問題です。
最初に問題となる記述を引用しておきます。(p114以下)

-------
 日本の近代史のなかで、女性が働く場合の典型的な事例としてとりあげられることが多いのは、繊維産業の女性労働者、いわゆる「女工」です。特に、生糸をつくる製糸業では、若い女性が苛酷な条件で働いていたことはよく知られているでしょう。労働時間は長く、提供される食事は貧しく、そして彼女たちは寄宿舎に閉じ込められて生活していました。
 なぜそのような条件で彼女たちは働いているのでしょうか。次の史料をみてください。(中村政則『労働者と農民』より引用)。

製糸工女約定書
          スワ〔諏訪〕郡長池村 番地
             戸主 八幡伴蔵 長女
一金五円成約定金     工女 同 ヤス
                    十八年
右の者、貴家製糸工女として明治三十年三月より同年十二月まで、製糸開業中就業の約定致し、前記の約定金正に請け取り候。しかる上は成規・御家則固く遵守致すべく候。期間中は何等の事故出来候とも決して他の製糸家へ就業致さず候。万一右約定を違変候節は、違約より生ずる損害金は御請求に応じ、必ず弁償いたすべく、後日のため約定書、よってくだんのごとし
 明治三十年六月二日     右戸主 八幡伴蔵
 片倉兼太郎 殿

 これは、製糸業の中心地、長野県の諏訪地方で、片倉という有名な製糸業者のもとで働くことになった八幡ヤスという一八歳の女性についての契約書です。昔の文章で読みにくいかもしれませんが、解説すれば次のようになります。ヤスは、明治三〇年、すなわち一八九七年の三月から一二月まで、一定の期間、片倉のもとで工女として働くこととなり、その契約が成立した代金として、片倉は五円を、ヤスの父八幡伴蔵に支払った。こうした契約を結んだ以上は、どのような理由があっても、ヤスは、片倉の工場での規則を守り、また片倉以外の工場で働くことはない。もし契約違反があった場合には、損害賠償金を支払う。のちのちの証拠のためにこの文書を作成する、ということです。
 ここで注意してほしいのは、この契約は、製糸業者の片倉と、工女ヤスの父親で、八幡家という家の当主(「戸主」)である八幡伴蔵とのあいだで結ばれていることです。ヤスは、伴蔵をあるじとする「家」のために、「家」の収入を増加させる目的で、製糸工場に働きにいったのです。
-------

途中ですが、いったんここで切ります。
まず、単純な事実の問題として、「長池村」は誤りで、正しくは「長地(おさち)村」ですね。
著者は中村政則『労働者と農民』(『日本の歴史』第二九巻、小学館、1976)を参考にしたとのことなので、同書(但し、小学館ライブラリー版、1998)を見たところ、やはり「長池村」となっており(p105)、中村氏の誤りを松沢氏がそのまま承継したようですね。
長地村(合併により現在は岡谷市内)は片倉の工場のあった平野村に歩いて通える距離ですから、ヤスが「寄宿舎に閉じ込められて生活」していたかには若干の疑問があります。

長地村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%9C%B0%E6%9D%91

ま、これは些細な話ですが、「その契約が成立した代金」という表現はもう少し深刻な問題です。
果たしてこれで理解できる読者がいるのか。
そもそも著者がこの契約、そしてその背後にある世界を理解しているのか。

>筆綾丸さん
>題名自体がマヌケなような気がします。
確かに辛気臭いタイトルですが、ネットでの評判は概ね良好で、けっこう売れているみたいですね。
 

岩波シニア古書

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月15日(月)10時43分0秒
  小太郎さん
https://www.iwanami.co.jp/search/g8317.html
岩波ジュニア新書でいうジュニアとは、普通に考えれば、中学生以下でしょうが、そんな少年たちを対象に、『生きづらい明治社会』という変なタイトルの本を出す、著者の了見がわかりません。学校でイジメが横行する時代、明治も「生きづらい」社会だったのだから、君たち平成の少年も我慢して生きてね、とでも言いたいのかな。題名自体がマヌケなような気がします。
『岩波シニア古書』というシリーズを新設してで出版すべき題名ですが、人生に疲れた爺さん婆さんは、まあ、誰も読まんでしょうね。
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月14日(日)11時02分52秒
編集済
  私は昔、戦前の財界に少し興味を持って、小島直記などが書いた著名財界人の伝記をまとめて読んだことがあります。
その程度の限られた範囲の知見でも、大倉喜八郎は非常に好印象を残した人物だったので、松沢裕作氏の大倉評に奇異な感じがしたのですが、松沢氏が引用する『致富の鍵』を実際に読んでみると、やっぱり大倉は面白い人物ですね。
大倉は故郷の新発田にいた若年の頃から狂歌が大好きで、狂歌を一生の趣味としており、『致富の鍵』にも諧謔の風味が横溢しています。
松沢氏は大倉とは正反対の生真面目な、大倉から見れば冗談の分らない朴念仁なので、『致富の鍵』との相性は悪そうですね。
さて、前回投稿で紹介した部分だけでは、貧困者を助けることを嫌悪する大倉が、明治天皇に良く思ってもらうために一回だけ珍しく寄付をしたように見えるかもしれませんが、そうではありません。
この点、復刻版『致富の鍵』の冒頭に置かれている「東京経済大学名誉教授・史料委員会顧問」の村上勝彦氏の「解説」に要領の良い説明がありますね。

-------
三、慈善と自助、健康法と趣味

 喜八郎の労働観はまた、独特の慈善事業観となる。また常に奮闘して働けるようにすべく、独特の健康法と「くつろぎの哲学」が彼にはあった。貧苦は遊惰の結果なので、貧民救済は惰民救済となり、人に依頼心を起こさせ、独立して飯を食う精神を鈍らせる。だからそんなものは本当の慈善ではない。慈善事業には消極的と積極的の二つがあり、貧民救済は前者であり、独立して生活できるようにすべく人々に職は与え、そのために青年への教育の機会を与えるのが後者である。彼の生涯にわたる巨額の寄付の中には、この積極的慈善である教育機関の設立・運営に関わるものが多い。自ら設立した三つの商業学校(大倉商業学校・大阪大倉商業学校・善隣商業学校)のほか、現在の慈恵医科、同志社、工学院、拓殖、慶應、早稲田、日本などの各大学、あるいはその前身校などに対してである。商業学校設立の動機の一つとして、商売には商業道徳の観念が不可欠で、それは学校教育で養成されるという経験・信念があった。
 かといって彼は消極的慈善に無関係だったわけではない。医療による貧民救済のため、明治天皇の発意と下賜金に基いて設立された恩賜財団済生会と、貧民・病者・孤児・老人・障害者などの福祉のため、渋沢栄一が生涯にわたって尽力した東京市養育院とには多額の寄付をしている。だから「孤児院より人傑の出たことはない」という彼の言葉は、額面通りには受け取れない。慈善もやり方次第では人を益し、世を利することもある、物事は多面的に見なければならないと、彼がいっているからだ。では彼の巨額の寄付行為はいかなる考えによるのか。富や財産は単に個人の努力だけでなく、時勢・社会・国家の急激な進歩にもよる。だからその恩に報いるためにも独り占めすることは許されない。富の永久的独占は不当で、自分の子供(喜七郎)には事業は譲るが財産の相続は別であり、「子孫の為に牛馬にならず」という標語を自身が経営する大倉組の事務室に掲げていると、彼はいう。
-------

ということで、大倉は松沢裕作氏の勤務する慶応大学にも寄付をしています。
ま、自ら設立した商業学校や恩賜財団済生会・東京市養育院などへの寄付に比べれば少額でしょうが。
大倉が設立したのはそれほど裕福ではない若者を対象とする商業学校であり、ビジネスエリートを育成した慶応大学に比べればマイナーな存在ですが、自助を重んずる教育方針はけっこう福沢精神と重なるのではないですかね。

大倉喜八郎(東京経済大学サイト内)
https://www.tku.ac.jp/tku/founder/okura/
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月13日(土)22時53分50秒
編集済
  私も別に大倉喜八郎を弁護しなければならない渡世の義理はなく、「あっしには関わりのないことでござんす」と聞き流せば良いのかもしれませんが、何故に松沢氏がこれほどまでに大倉喜八郎にメラメラと敵意を燃やすのかが不思議です。
まあ、好き嫌いは人それぞれとはいえ、偏った情報で大倉喜八郎への誤解が広まるのはちょっと気の毒な感じがするので、私としては少しだけ大倉喜八郎の肩を持ってみたいと思います。
さて、『致富の鍵』においては、前回投稿で引用した部分の直後に次のような記述があります。(p54以下)

-------
聖旨を奉戴して百万円を寄付す

大御心に感泣す
 允文允武〔いんぶんいんぶ〕の聖上陛下が常に下万民を慈しみ給うは、申すも畏れ多いことである。それに過ぐる紀元節の当日は、御内帑〔ごないど〕よりとくに一百五十万円を御下賜になって、施療の資となせよとの有り難い思し召しを下されたことは、国民の斎〔ひと〕しく感泣するところで、私は陛下の大御心を拝承したときは、感涙に咽んだのである。歴代の聖天子、皆臣下を愛撫せらるることの厚きは申すまでもないが、今上陛下が始終万民のために叡慮を煩わし給わることが、かくまでに御優渥〔ごゆうあく〕であることを承わりし以上は、我々臣下たるものはさらに進んで叡慮の万分の一にも報ゆることをせなければならぬ。そこで内閣諸公を始めとして渋沢氏、その他実業界の有志は率先して、聖旨奉戴について協議している次第で、これ国民としての分としては当然のことである。私もその一員となってその協議を賛じて、微力ながらも尽力しているのである。
-------

『致富の鍵』は明治四十四年(1911)刊行の本なので、ここに言う「聖上陛下」「今上陛下」は明治天皇(1852-1912)のことですね。
大倉喜八郎は1837年生まれで、明治天皇より十五歳年上です。
そして、明治天皇が「施療の資」、すなわち貧しい病人などを無料で治療する財源として百五十万円を下賜することとなったのを受けて、時の桂太郎首相の「内閣諸公」以下、実業界では渋沢栄一その他の有志が、我々も何かしなければならぬと協議をします。
そして、その結果生まれたのが「恩賜財団済生会」ですね。

「なりたちから今へ」(社会福祉法人恩賜財団済生会サイト内)
https://www.saiseikai.or.jp/about/history/

大倉もその趣旨に賛同するのですが、ちょうどその頃に病気になってしまって、協議には参加できなかったそうです。

-------
十年間に百万円
 私が、聖旨の有り難きに感泣して出来得る限りの力を振って、聖旨奉戴のことについて奔走をしようと思う矢先き、突然にも病気に罹ったのである。三月上旬から悪くなって病勢は急に募って、一時は家人や知人も心配したそうだが、平素の健康は難なくその病魔を斥けて、今日では全く快方に向いておる。その病中、常に私は陛下の大御心に報い奉ることについて考えておったが、何分にも臥床中であるから、協議会へも出席することが出来ず、また会の委員の方々の意見を知ることが出来なかったものであるから、私は分相応の出金をして誠意を表しようと思って、百万円を十ヶ年賦で出すことに定めた。これを桂首相まで申し上げたのである。私は微力相応のつもりであるから、一年に十万円ずつは確かに実行が出来る心算である。
-------

ということで、大倉は結局のところ明治天皇の「叡慮の万分の一」ならぬ三分の二の巨額を個人で寄付する訳ですね。
何か変な感じがするのは、大倉はp53で「私は病気には決して敗けぬのである。必ず打ち勝つという覚悟を有っているのである」と言って松沢裕作氏を「うんざり」させていながら、その3ページ後に「一時は家人や知人も心配」するほどの結構な病気になっていることです。
でもまあ、大倉の「元気増進的養生法」の中の「精神的の養生法」は何かというと、

-------
 私は総てのものを苦にせず、たちまち過ぎ去ったことを忘るる性癖〔くせ〕があるので、この性癖のあるために心配もなければ、また不平もなく、夜分は熟睡できるのである。私は人力を尽くして天命を待つの主義を採っているので、出来るだけ力を尽くして、それで失敗をするのは天なり命なりで、人力のもって如何ともする能わざることであると信じているのである。失敗したところで何もクヨクヨするには当たらぬのである。しかるに世間には失敗や困難に遭遇するとたちまち意気が沮喪するものがある。しかしこれははなはだ愚の極である。何でも物を忘れるということが大切である。過去は過去として葬むり去らしめよである。さらに新たなる生面〔せいめん〕を開拓することが肝要である。この忘れるという性癖が私の健康を保つにおいて多大の貢献があったということは争うべからざる事実である。
-------

ということなので(p53)、多少の矛盾は大倉の「たちまち過ぎ去ったことを忘るる性癖」の発露であり、読者もそんなことは気にしないで、「何でも物を忘れるということが大切」という方針で『致富の鍵』を読むべきなのでしょうね。
松沢氏のように「年中かぜをひいたり寝込んだりする」程度の困難に遭遇しただけで「意気が沮喪」し、遥か昔に死んだ人の文章の片言隻句にクドクド・ネチネチと文句をつけるのは、大倉に言わせれば「はなはだ愚の極」となりそうです。
「過去は過去として葬むり去らしめよ」は良い言葉ですね。
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月13日(土)18時28分40秒
  ※前回投稿は長すぎたので二つに分けました。

復刻版の大倉喜八郎述・菊池暁汀編『致富の鍵』(東京経済大学、2017)の構成は、

第一編 奮闘積富の生涯
第二編 国民致富策
第三編 商戦必勝法
第四編 積富立身策
第五編 立身出世策
第六編 処世の要道
第七編 人物の偉力
第八編 国富と国力
第九編 経済界振興策

となっていて、「年中かぜをひいたり寝込んだりする」松沢氏を「うんざり」させた「この一節」は、「第一編 奮闘積富の生涯」の全部で十章の九番目、「私の元気増進的養生法」に登場します。
「私の元気増進的養生法」は、

物質的の養生法
習慣的朝風呂
七時間の睡眠と飲食
精神的の養生法
奮闘的精神

の五つの項目から構成されていて、最後の「奮闘的精神」に、

-------
 また私は奮闘的精神と反発的気力とを有っているのである。故に一難を経れば勇気はさらに一倍しきたるので、この旺盛なる気力のために、ひっきょう病魔などに襲われぬのであると信ずるのである。私は病気には決して敗けぬのである。必ず打ち勝つという覚悟を有っているのである。私が強壮で無病息災であるのは、この精神作用が大いに助けていると思うのである。しかしてこの奮闘的精神は私の天性であろうが、また王陽明の学派を汲んでいることも、またその一原因であろうと信ずるのである。
-------

とあります。(p53以下)
大倉は「この精神作用が大いに助けていると思うのである」と言っているので、松沢氏のように「要は病気なんて気合いでなんとかなるという根性論」と纏めるのは少し乱暴ではなかろうかと思いますが、ま、それはたいした問題ではありません。
松沢氏は、更に次のように述べます。(p92以下)

-------
 ここから導き出される結論は、もちろん、つぎのようなものです。「慈善は悪事である」。このように大倉は断言するのです。怠け者を助けてやっても、ますますつけあがって怠けるだけである、と。
 こうした成功者たちが動かす社会では、政府がつかうカネが増えたからといって、それが貧困対策につかわれることはありません。成功者たちからみれば、貧困者は怠け者の「ダメ人間」です。一部の「ダメ人間」のために、みんなが稼いで、みんなが払った税金をつかう必要があるか。これが成功者たちの言い分になってきます。それでは、「みんなのもの」とは何かといえば、道路、鉄道、学校といった、建て前としては「みんながつかうもの」ということになります。それは、実際には、貧困者の生活の改善に役にたつものではなく、むしろお金持ちの成功者にとって利益となる公共事業にすぎなかったのです。
-------

この後、松沢氏は更に大倉喜八郎への不平不満をブチブチと書き綴るのですが、省略します。
さて、『生きづらい明治社会』の大倉喜八郎に関する記述を読んだ読者、特に「岩波ジュニア新書」が対象とする若い読者は、大倉喜八郎を血も涙もない守銭奴、慈善事業などには一切寄付しない冷血漢だと思うでしょうが、実際には大倉喜八郎は慈善事業に多額の寄付を行なっています。
しかもそのことは、「私の元気増進的養生法」の直後に出てきます。
 

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月13日(土)11時34分37秒
編集済
  横山百合子氏の『江戸東京の明治維新』に続いて、これもツイッターで少し話題になっていた松沢裕作氏の『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書、2018)を読んでみたのですが、こちらは正直、あまり感心しませんでした。

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日本が近代化に向けて大きな一歩を踏み出した明治時代は,実はとても厳しい社会でした.社会が大きく変化する中,人々は必死に働き,頑張りました.厳しい競争のなかで結果を出せず敗れた人々…,そんな人々にとって明治とはどんな社会だったのでしょうか? 不安と競争をキーワードに明治社会を読み解きます.

https://www.iwanami.co.jp/book/b374925.html

思想的な面は別として、いろいろと疑問を感じた点のひとつは大倉喜八郎の著書の引用の仕方です。
同書には大倉喜八郎(1837-1928)への言及が少し奇異に感じられるほど多いのですが、まず、「はじめに」に次のようにあります。

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 実際、明治時代を生きた人びとのなかには、大きな変化をチャンスととらえ、成功をつかんだ人もいます。たとえば、明治時代に、ひと財産を築いた実業家に大倉喜八郎という人物がいました。彼は江戸時代の終わりから明治時代のはじめにかけて、政治が不安定だった時期に、武器の取引や、軍隊相手の商売で大きな利益を得た人物です。まさに、時代が大きく動いていたからこそ成功した人物です。彼は、明治の終わりごろ、自分の人生を振り返って、成功の秘訣は「ひたすら働くこと」「自信をもって命がけで仕事に取り組むこと」だったと言っています。大倉が挙げている「命がけ」のエピソードの一つには、取引相手に商品を早く渡すため、日曜日だからといって手続きを拒む税関の役人にピストルを突きつけて手続きを無理やりやらせた、といったものまで含まれています。
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このピストルのエピソードは、幕末の本当に政情が緊迫した時期、某藩家老から「一藩の浮沈、我々の死生に係る場合だから」として小銃五百挺を揃えるように頼まれた時の話で(復刊『致富の鍵』、東京経済大学、2017、p21以下)、さすがに大倉もやたらと「税関の役人にピストルを突きつけて」いた訳ではありません。
このエピソードの直後には、突然数十騎の兵に囲まれて彰義隊の本営に連れ込まれた大倉が、いきり立って白刃を突き付ける将校から「三日のうちに、五百挺、小銃を納めよ」と命令され、その契約をしたものの、「その翌朝から上野戦争となったので、幸いに右の契約履行の奇禍を免れた」(p25以下)という話も出ていて、まあ、そういう本当に際どい時期の冒険的取引の話ですね。
ま、それはともかく、松沢氏は上記引用に続けて、

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 たしかに大倉喜八郎は、努力をして、果敢に行動し、その結果成功をつかんだのでしょう。しかし私は、何もそこまでしなくとも、人生なんとかならないものかと思うのです。みんながみんな大倉喜八郎みたいな性格の持ち主だったわけでもないでしょう。だいたい、大倉喜八郎のように努力して、命がけで仕事をした人は全員が成功したのでしょうか。努力したけれど失敗した人、命がけでやった結果命を落とした人もいたと考えるのが普通ではないでしょうか。
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という感想をのべます。
そして「第5章 競争する人々」に再び大倉喜八郎が登場します。(p91以下)

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 成功した人物の言い分として、「はじめに」でも紹介した大倉喜八郎にもう一度登場してもらいましょう。大倉は一八三七年生まれ、現在の新潟県の出身です。裕福な商人の三男でしたが、江戸に出て、鰹節屋の見習い店員となり、独立して食料品店を経営しました。幕末に国内外の軍事的緊張が高まると、武器商人に転身して、幕府、大名、新政府に武器を売って大儲けします。その後は、軍の御用商人となり、日清・日露戦争でも軍隊への物資供給を一手に引き受けて、巨額の利益をあげました。たしかに経済的成功を手に入れた人物には違いないでしょう。
 その大倉喜八郎は、七〇歳をすぎた一九一一年、その名も『致富の鍵』、つまり財産をつくるためのカギ、というタイトルの回顧談を出版しています。このなかで大倉は、貧困者を助けることを強く批判しています。「人間は働きさえすれば食うだけのものはチャンと与えられるように出来ている」というのです。「富まざるは働かないためである。貧苦に苦しむは遊惰の民である」とも述べています。豊かでないのは働いていないからだ、貧困に苦しんでいるのは怠け者だからだ、ということです。そして、貯蓄の心がけと、自分を律する心さえもっていれば、「必ず貯金が出来る」とも述べます。
 しかし人は病気にかかって貧困におちいることもあるのではないでしょうか。これに対し大倉は、自分が健康であることを誇り、つぎのように言います。「私は病気には決して敗けぬのである。必ず打ち勝つという覚悟を有〔も〕っているのである」。自分が病気にかからないのは、病気にはまけないという精神力があるからだというのです。要は病気なんて気合いでなんとかなるという根性論なのです(どうでもよいことですが、私は年中かぜをひいたり寝込んだりするので、この一節を読んだときはうんざりしました)。
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横山百合子『江戸東京の明治維新』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月12日(金)10時51分29秒
編集済
  ツイッターで話題になっていた横山百合子氏の近著『江戸東京の明治維新』(岩波新書)を読んでみましたが、良い本ですね。

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維新の激動に飲み込まれた江戸.諸大名の一斉帰国で人口は一挙に半減し,百万都市は瞬く間に衰退へと向かう.横行する浮浪士のテロ,流動化する土地と身分.人心は荒廃し怨嗟の声があふれる.江戸の秩序が解体してゆく東京で,人びとは時代の変化に食らいつき,生き延びる道を求めて必死にもがきつづけた.名も残らぬ小さき人々の明治維新史.

https://www.iwanami.co.jp/book/b372707.html

私にとっては、近世身分制度についての近時の学説の簡明な整理・紹介の部分が特に参考になりました。
「第2章 東京の旧幕臣たち」の「第二節 身分の再編という矛盾」では、

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 そもそも、明治維新後、新政府は身分というものについて、どのような姿勢で臨んでいたのだろうか。「門閥制度は親の敵〔かたき〕でござる」(『福翁自伝』)という福沢諭吉の言葉や、武家社会の家格秩序を打ち破って維新を主導した下級武士のイメージから、新政府は維新の当初から身分制の廃止と四民平等を目指していたと思われるのが一般的であろう。研究上も、平等思想をもつ開明派官僚が、身分制の打破を目指したとする見解が唱えられてきた。賤民のような身分の廃止の理由についても、近代化政策のもとでの開明派官僚の役割が高く評価されてきたのである。これらの見解は、身分は政治的に制定したり廃止できるという見地に立っている。
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という導入部分に続いて、「同じ職分の人びとの集団が、何らかの公的役割を担うことによって社会的に認められ、身分が成立する」(p50)という「集団の構成員に注目」する新しい近世身分論が紹介されます。
即ち、

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 江戸時代の社会は、このようにして生まれた身分がいくつも重なり合って形作られ、また、それらの身分集団に依拠し、役と特権に基いて統治が行なわれた社会であった。さらに、士農工商賤民という基幹的身分だけでなく、芸能者や宗教者など、職分に応じた細かな身分集団が数多く生まれ、集団の実態に応じて身分も生成・変化してきた。これが、近年提起されてきた身分のとらえ方である。江戸時代の身分は、従来考えられてきたような、政治的に個々の人に貼りつけられた印やラベルのようなものではないのである。
-------

ということで、近世に疎い私もこのあたりの一般論は一応把握していたのですが、遊郭の統制の解体や弾左衛門支配の終焉など、明治に入って旧来の身分制が解体されて行く具体的状況を細かく追うことで、近世身分制社会とは何だったのかがくっきりと見えてくるような感じがします。
なお、細かいことですが、「第4章 遊郭の明治維新」の「第二節 遊郭を支える金融と人身売買」の、

-------
 貸し付けに際してはまず、借り主が担保を提出する。現存する引当証文(担保証文)の担保物権をみると、一般の町人の場合には、土地や建具付の家屋、株化した水茶屋の営業権などが担保とされている。これに対して、遊女屋の場合には、担保物権はすべて遊女となっていた。
-------

といった記述(p112)に見える「担保物権」は、物を支配する権利としての「物権」ではなく、担保の対象となる個々のモノを意味しているので、「担保物件」の方が適切だと思います。
ま、「担保物件」は業界用語みたいなものなので「担保対象物」「被担保物」等の表現でもよいのですが、「担保物権」は民法等の条文に出てくるガチガチの法律用語であって、ここで用いるのは誤りです。
 

「世直し一揆の指導者の復元には、民俗学的手法の援用を必要とする」(by 中島明)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月 9日(火)10時48分26秒
編集済
  前回投稿の後、中島明氏の『上州の百姓一揆』(上毛新聞社、1986)、『上州の明治維新』(みやま文庫、1996)、『八州廻りと上州の無宿・博徒』(みやま文庫、2004)を読んでみました。
中島氏は1933年生まれ、法政大学法学部卒、専修大学大学院経済学研究科博士課程修了という経歴の持ち主で、専修大学では文学部の林基・松本新八郎の指導も受けたそうですね。
『幕藩制解体期の民衆運動』には、今ではかなり古風な印象を与えるマルクス主義的な語彙も多く見られますが、『八州廻りと上州の無宿・博徒』あたりはずいぶんさばけた文章になっています。
さて、前回投稿では、

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まあ、「博徒の本場」という土地柄から、素性の良くない人も相当参加していたようですが、中島明氏も明確には書いていないものの、「頭取」はかなりの人数がいて、数からいえば博徒ではない普通の農民が多いように思えます。
須田氏の書き方だと「上州世直し騒動」全体の指導者が博徒であったように誤解する読者も多そうですね。
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などと書いてしまったのですが、中島氏は『幕藩制解体期の民衆運動』の「第二章 西上州世直し一揆とその構造」「第二節 世直し一揆の指導と貧農的経験」の冒頭において、

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 以上が西上州における世直し一揆の基盤であるが、つづいてその「指導」に関する問題に移りたいと思う。結論的にいえば、西上州世直し一揆の指導層は、いわゆる「博徒」、あるいは「無宿」といわれているような人物である。
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と明確に書かれていますね。(p107)
「序章 方法と構成」においても、

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 歴史学、とりわけ日本近世史は、おおむね書かれた文書記録を根本史料として採用し、それの解釈を通じて歴史的な復元を試みるのが主流をなしている。本書もそれにしたがって素朴な実証主義と批判されるような方法を採用している。【中略】
 とりわけ本書の中心項目をなしている世直し一揆について史料は、単なる暴徒の打ちこわしというだけで、その具体的様子を書き残すことが少なく、また遺跡や遺物として痕跡をとどめないことが多い。そのような中で博徒や無宿、あるいは悪党と称される世直し一揆の指導者については、その感がとりわけ強い。史料に残っているものは「博徒」「無宿」という為政者側の記述のみであって、彼らがなぜ世直し一揆の頭取となり、そしてあのように大勢の世直し勢が博徒や無宿の指示にしたがって整然たる行動を示したかについては、何ら語ってくれない。史料に記されているのは、忌まわしい印象がきわめて強い「博徒」、あるいは「無宿」という悪の紋章のみである。それも為政者が一方的に押しつけたレッテルであって、後年になるとそれは一人歩きをし、それを聞くだけで「悪」の印象をわれわれの頭脳に想起させる。そのため世直し一揆の指導者の復元には、民俗学的手法の援用を必要とする。伝承の発掘である。
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と書かれていて(p13)、世直し一揆の指導者層が「博徒」「無宿」とレッテルを貼られている者たちであることは中島氏にとって自明の前提ですね。
しかし、「民衆」に同情的な中島氏は、彼らは「悪」ではないのだ、と主張するために「民俗学的手法」を採用します。

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 その具体的実例として「岩戸村無宿常五郎」がいる。通称「ボロ常」である。彼の実像については、すでに明らかにしたが、その手法は民俗学的手法の全面的採用であり、作品はその成果である。佐久世直し一揆において西上州、それに佐久農民の指導者でもあった常五郎は、世直し終了後無宿として小幡藩の追及を受けて逮捕され、斬首の刑に処せられた。彼について文書史料は何も語らず、ただ「無宿」と記すのみである。それも一人の無宿が藩の掟にそむいた罰で川原で刑死したという記録を残すのみである。
 これに対し地域の民衆は、ボロ常を世直し一揆の有能な指導者として密かに言い伝え、地下水脈的に彼を顕彰しつづけ、それを決して表にだすことはなかった。民衆は、ボロ常を民衆の指導者として民衆の心のなかにだけとどめたのである。このような事例は、他にもあげることができる。第二部第三章に登場する矢川村の宝十郎と野栗沢村の倉十郎、そして第三部第一章で論及する星尾村の市川実五郎などは、そのよき例である。
-------

ということで、この部分だけ読むと、一昔前の古臭い左翼歴史学者の「民衆」幻想、「民衆」ポエムのようにも見えますが、実際に中島氏の「民俗学的手法」の実例を見ると、相当に堅実な検討を重ねており、なるほどな、と思えるものが多いですね。
ま、私にもほんの僅かながらの郷土愛があるので、ついつい須田氏の文章に感情的に反発してしまったのですが、中島説の紹介としては須田氏が正しかったですね。

>筆綾丸さん
>サイトの管理人(玄松子)がどういう人なのか

ご紹介のサイト、私も以前から時々利用させてもらっています。
玄松子氏は特に自己紹介的な文章は書かれていないようですが、「参考文献」を見ても、大変な努力家であることが分かりますね。

http://www.genbu.net/tisiki/bunken.htm
 

閑話

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月 7日(日)10時58分42秒
編集済
  小太郎さん
http://www.genbu.net/data/kouzuke/karasina_title.htm
サイトの管理人(玄松子)がどういう人なのか、知りませんが、ずいぶん詳しいですね。

「鎮座地名、および社家の神保は、「神領」の意味だろうか。」
たぶん、そうなのでしょうね。
「神紋 抱茗荷(社家神保氏裏家紋)」
私は、そーめんの汁には胡瓜と茗荷を刻んだものを入れて食べます。
「社家 神保氏
鎌倉時代「吾妻鏡」承久三年(一二 二一)の承久の変の際の宇治合戦に上野 國の鎌倉幕府御家人として神保与一、 与三、太郎の名が見える
文和三年(一三五四)の「足利義詮御教書 案」に多胡郡地頭職として神保太郎左衛門 尉の名がある。家紋は○に縦二引」
宇治川畔で翩翻とはためいていたのは、 抱茗荷の紋か、○に縦二引の紋か。多胡郡地頭職・神保太郎左衛門尉の名から推測すると、与一と与三の家は廃れて、太郎の家が残った、あるいは、太郎が正嫡で与一と与三は庶子だ、というようなことか。意味のある推測ではありませんが。
 

中島明『幕藩制解体期の民衆運動』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月 6日(土)10時54分44秒
編集済
  前回投稿で『幕末の世直し 万人の戦争状態』の些細な誤りを指摘しましたが、辛科神社については、p159に、

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西上州を席巻した世直し騒動
 慶応四年二月二二日、西上州の多胡郡神保村(現 高崎市)辛科神社の境内に一〇人ほどの百姓たちが集まった。彼らは、岩鼻陣屋関東取締出役渋谷鷲郎に協力して農兵取り立て計画に参与した村役人たちを弾劾し、さらに開港以降、小前百姓たちが物価上昇に苦しんでいる中、富を拡大した質屋・米穀商人を襲撃し、質地証文・借金証文を破棄することを目的として結集した。上州世直し騒動が始まった。
-------

とあるのに、次のページの写真のキャプションに「図11 辛科神社境内(高崎市高松町所在)」とあるのはどういう事情なのか。
辛科神社が所在する旧多野郡吉井町は2009年に高崎市に合併されたばかりの地域で、同神社と高崎市役所のある高崎市の中心部・高松町とは直線距離で10㎞ほど離れています。
高崎市出身だという須田努氏が辛科神社を高松町所在と誤解するとは考えにくいので、あるいはキャプションは担当編集者が別途付けたということなのか。
それと、p166には、

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鬼定・鬼金という頭取
 上州世直し騒動では、さすが上州、博徒の本場、と納得できるようなおもしろい人物が登場している。自称鬼定・鬼金という二人の頭取である。群馬県で高校教員を勤め、上州地域の社会経済史・百姓一揆、幕末の政治動向、そして世直し騒動を研究し続けた故中島明さんは、彼ら二人を、脇差を帯び、博奕を渡世とする無宿であり、無頼の悪徒であったと紹介した(中島明『幕藩制解体期の民衆運動』校倉書房、一九九三年)。鬼定・鬼金は、参加強制の廻状を村々に出し、鉄砲を持参して集まるようにとアピールしていたのである。
 先述したように、上州世直し勢は、小栗上野介が隠遁した群馬郡権田村の東善寺を攻撃した。東上州では、「悪もの」として殺害された頭取は、鑓・脇差を身に帯びていた。上州の世直し勢は鉄砲などの武器を携帯使用し、家屋にも放火していたのである。
-------

とありますが、『幕藩制解体期の民衆運動』を確認してみたところ、「自称鬼定・鬼金という二人の頭取」は非常に広範囲にわたった「上州世直し騒動」全体を統轄していた訳ではなく、また、辛科神社で決起して東西に分かれた西上州勢の本隊を指揮していた訳でもなく、少し北に離れた碓氷郡・群馬郡に廻状を廻した別働隊の「頭取」ですね。(p212)
まあ、「博徒の本場」という土地柄から、素性の良くない人も相当参加していたようですが、中島明氏も明確には書いていないものの、「頭取」はかなりの人数がいて、数からいえば博徒ではない普通の農民が多いように思えます。
須田氏の書き方だと「上州世直し騒動」全体の指導者が博徒であったように誤解する読者も多そうですね。
ふーむ。

※追記
高崎市の公式サイトに、

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辛科神社

奈良時代この神保の地を辛科郷(からしなごう)といった。大宝年間(701~703)に大陸から渡来した人々によって創建されたと伝えられている神社である。
上野国神名帳に従二位とあり、安居院(あごいん)の『神道集』の多胡郡二十五社中の筆頭に出てくる。寛文元年(1661)に流れ造りの本殿と拝殿が修復されており、随神門は寛政9年(1791)の修復、神楽殿は慶応2年(1866)の建立で、春秋の祭日には京都で伝習された太太神楽が氏子により舞われた。
神主による神事でその年の豊作物の豊凶を占う筒粥(つつがい)神事は1月14日。茅の輪(ちのわ)神事のみそぎ流しは7月31日の夜に行われる。社宝として鎌倉時代の懸仏(銅板製)や、室町時代の大黒面(出目上満(でめじょうまん)作)などがある。

http://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121701150/

とありますが、安居院は「あごいん」ではなく「あぐい」と読みます。
確かに『神道集』には「安居院作」と書いてあるのですが、作者の実態は不明です。
最近では福田晃氏が『安居院作「神道集」の成立』(三弥井書店、2017)という本を出されていて、私もパラパラ眺めて見たのですが、作者論の骨格は従来の福田説のままですね。

神道集
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93%E9%9B%86
 

須田努『幕末の世直し 万人の戦争状態』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月 4日(木)11時22分48秒
編集済
  図書館でたまたま手に取った吉川弘文館「人をあるく」シリーズの一冊、『三遊亭円朝と江戸落語』(須田努著、2015)が面白かったので、同じ著者の『幕末の世直し 万人の戦争状態』(吉川弘文館、2010)も読んでみたところ、これも分かりやすい好著でした。

-------
百姓一揆の作法が崩壊し「悪党」と化して暴力に訴える騒動勢、鎮圧に走る幕府、武装する村々。激動の幕末を襲った暴力の有様を抉る。

暴力を封印し、作法のもとに行われた百姓一揆。しかし、私慾容認の政策から経済格差は拡大、飢饉に対応できない幕藩領主への不信から、この作法は崩壊し、「悪党」による暴力・放火をともなう騒動が発生した。騒動勢を殺害する幕府、自衛のため武装する村々、そして世直しが始まった。激動の幕末社会に広がっていく暴力の有様を鋭く抉り出す。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b68270.html

須田氏は既に2002年に『「悪党」の一九世紀 民衆運動の変質と"近代移行期"』(青木書店)という専門書を出されていて、その内容を一般読者向けに要約したのが『幕末の世直し 万人の戦争状態』みたいですね。
近世に疎い私は呉座勇一氏の『一揆の原理』(洋泉社、2012)で百姓一揆研究の概要を知り、その後、同書で紹介されていた保坂智氏の著書・論文を少し読んでいた程度なのですが、須田氏は保坂氏等の研究を踏まえた上で19世紀における変容を追究しており、私には非常に説得的に思われました。

「首級への執着」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8178

なお、慶応四年(1868)の「上州世直し騒動」に関する記述の中に「吉井藩(二万石)」(p160)、「小幡藩(三万石)」(p161)とありますが、いずれも江戸初期の数字であり、慶応四年の時点では吉井藩は一万石、小幡藩は二万石ですね。
また、p160の写真には「図11 辛科神社境内(高崎市高松町所在)」とありますが、正しくは高崎市吉井町です。
どうでもよいような細かい話ですが、須田氏は高崎市出身だそうなので、何じゃこれ、という感じになりますね。
ま、それはともかくとして、須田氏には『吉田松陰の時代』(岩波書店、2017)という近著があり、少し検索してみたら世間の評価がなかなか高いようなので、『「悪党」の一九世紀 民衆運動の変質と"近代移行期"』とどちらを先にすべきか迷っているところです。

須田努(1959年生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%94%B0%E5%8A%AA

>筆綾丸さん
>辺鄙な田舎出の水尾なんかになぜ惚れた、という作者の悔恨と怨念が隠された本当のテーマなんじゃないか、

「ソーラー招き猫事件」の謎は解明したかったのかもしれないですね。
なぜあんな素晴らしいプレゼントを彼女は拒絶したのか、と。
 

水尾の思い出

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月 2日(火)14時44分45秒
編集済
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%B0%BE
むかし、清滝から愛宕山に登って水尾に下り、市内に帰ろうとMKタクシーに電話したら、(当社の)地図に載ってません、と断られ、思わず絶句したことがあります。嘘のような実話です。仕方がないので、野良仕事をしている腹黒そうな爺さんに最寄り駅を尋ねると、山陰本線の保津峡駅だと教えてくれたので、数キロ、トボトボ歩きました。山登りで草臥れていたので、歩きながら、なにが柚子の里だ、なにが清和天皇陵だ、こんなところ二度と来るもんか、と腹が立ち、野良猫がいたら、蹴飛ばしていたかもしれません。
そんな訳で、『太陽の塔』を読みながら、辺鄙な田舎出の水尾なんかになぜ惚れた、という作者の悔恨と怨念が隠された本当のテーマなんじゃないか、と思いましたが、どうでもいいような話で恐縮です。
 

「よろしいんじゃないでしょうか」(by 「水尾さん」のモデル)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年10月 2日(火)13時40分13秒
編集済
  >筆綾丸さん
確か『ぐるぐる問答 森見登美彦氏対談集』(小学館、2016)に出ていたのですが、森見は『太陽の塔』を書き終えた後、「水尾さん」のモデルの女性と会って原稿を見てもらったそうですね。
すると別に修正を求められることもない代わりに特に感想もなく、「よろしいんじゃないでしょうか」との素っ気ない返事だったとか。
私はこのエピソードから、『太陽の塔』は実は「水尾さん」とヨリを戻すために書かれた作品ではないかと疑っているのですが、まあ、仮にそれが正しいとしても、「よろしいんじゃないでしょうか」で一刀両断されて、完全にふっ切れたのでしょうね。
『夜は短し 歩けよ乙女』(角川書店、2006)の主人公も、二足歩行ロボットのような不思議なステップを踏んだりするなど外形的には「水尾さん」を真似ていますが、すっかり小説の中の面白い登場人物に昇華されていますね。
また、森見の京大農学部と院での研究活動は『美女と竹林』(光文社、2008)というエッセイ集に詳しく描かれていますが、これは担当編集者が登場する内輪もので、率直に言って森見作品の中では少しレベルが落ちる内容です。
研究者としての将来に見切りをつけた森見は国立国会図書館という安定した職場を得て、最初は関西館、後に東京の本館に勤務したそうですが、なじみのない東京での仕事のストレスに加え、様々な出版社からの依頼を断ることができずに休みなく執筆に追われているうちに体調を崩して、結局は国会図書館を辞めて奈良に戻ったそうです。
『美女と竹林』にはそういう方向に向かう事情がチラチラ描かれていますが、それでも最後の方にそれなりの盛り上がりがあって、決して読んで損する作品ではありません。
 

むささび(もま)鍋

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年10月 2日(火)11時10分41秒
  小太郎さん
『ペンギン・ハイウェイ』を読みました。変な内容ですが、少年の失恋の物語として読めばいいのでしょうね。恥ずかしながら、ペンギン・ハイウェイ(penguin highway)やルッカリー(rookery)という用語を初めて知りました。ちなみに、辞書を引くと、pengwyn はウェールズ語で、白い頭、とありますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%AC%E3%81%8D%E3%83%BB%E3%82%80%E3%81%98%E3%81%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
『太陽の塔』に、「むささび・もま事件」の話がありますが、「たぬき・むじな事件」は知っていたものの、これは知りませんでした。
何の関係もありませんが、MOMAはニューヨーク近代美術館のことですね。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35984500R01C18A0ACYZ00/
今日の日経に、本庶佑氏のノーベル賞受賞に関連して、京大農学部3年の鍋加有佑という、森見登美彦氏の後輩の話が出ています。鍋とは農学部らしい姓だな、と思いましたが、鍋加(なべか)と読むみたいですね。なお、『太陽の塔』の主人公の専門は遺伝子工学とありますね。
 

森見作品に触発された綾小路きみまろ的感慨

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月29日(土)12時31分20秒
  >筆綾丸さん
>『夜は短し 歩けよ乙女』
私は映画『ペンギン・ハイウェイ』の原作から始めて、短期間にほぼ全ての森見作品を読み尽くしてしまったのですが、どの作品も面白いですね。
変てこな内容であっても文章に清潔感があって、読んでいて気持ちが良いです。
ただ、デビュー作の『太陽の塔』(新潮社、2003)だけは少し異質で、生々しい失恋の記憶を反芻する一種のストーカー小説ですから、そこまで書かなくとも、と少し戸惑う部分もありますね。
森見登美彦は寮生活の経験はないそうですが、『太陽の塔』などの四畳半シリーズを読んでいると、自分が寮生活をしていた頃の出来事が思い出されてきます。

「モスクワ横丁」こと駒場寮中寮二階
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8141

私と同室で一年上だった人に開成高出身の哲学青年がいて、群馬の田舎でのんびり育った私は、難解な書物で溢れていたその人の書棚を見て、都会の秀才は違うな、とびっくりしたのですが、その人を時々訪問してきた仲間の中に、その人を更に上回る博識の人物がいて、難解な哲学・思想用語が飛び交う会話にはとてもついていけませんでした。
後にその人物が研究者として大学に残ったことを知り、やはり学者になるような連中は違うな、とずっと思っていたのですが、最近になってその人物が書いた『迷走する民主主義』(ちくま新書、2016)という本を読んだら、意外なことにそれほど感心するような内容でもありませんでした。
不遜な言い方ですが、あれだけ才能に満ち溢れていたように見えた人でも、結局はこの程度なのか、みたいな感じですね。

森政稔『迷走する民主主義』
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068811/
松岡正剛の千夜千冊、森政稔『変貌する民主主義』
https://1000ya.isis.ne.jp/1277.html

石川健治教授なども昔は周囲から羨望の目で見られるような秀才だったのでしょうが、四十代で清宮四郎のストーカーを始めて以降、すっかり隘路に入り込んでしまっている感じがしますね。

石川健治教授の「憲法考古学」もしくは「憲法郷土史」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8419
石川憲法学の「土着ボケ黒ミサ」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8807

苅部直教授も昔は大変な秀才と目されていたのでしょうが、少なくとも『「維新革命」への道』と『歴史という皮膚』はあまり感心しませんでした。

山崎正和氏の『「維新革命」への道』への評価について
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9179
真夏のスランプ
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9029

私など、自分が研究者になって大学に残ろうなどと一かけらも思ったことはなく、その能力もなかったのですが、それでも地味にコツコツと色んな本を読んでいるうちに、それなりに知識も増えて学問が楽しく思えるようになりました。
逆に若い頃、まかりまちがって研究者の世界に入り込んでいたら、今ごろはすっかり燃え尽きていたかもしれないですね。
 

言葉の発酵

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 9月27日(木)13時29分34秒
  小太郎さん
森見登美彦氏『夜は短し 歩けよ乙女』の第一章を読みましたが、大変な才能ですね。農学部卒とは思えぬほど語彙が豊富で、専門は(言葉の)発酵学かもしれないですね。
 

パウル・ティリヒと南原繁

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月27日(木)09時13分28秒
編集済
  『聞き書 南原繁回顧録』(東大出版会、1989)には、前回投稿で引用した部分の少し後にパウル・ティリヒが出てきますね。(p118)

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福田 哲学の講義はお聞きになりませんでしたか。
南原 ときどき聞きに行きました。エドワルト・マイヤー教授のソクラテス、ギリシャ哲学ですね。それにカール・ホルの神学。これらはいずれも小さな教室で地味な講義でした。
 それからパウル・ティリヒがいた。ティリヒは、私の関心─マルクスとカント─に近い宗教的な立場から社会主義を見るということをやっていた。それを私は一覧広告で知って聞きに行きました。彼は私より三つばかり年上ですね。十人か二十人くらいを相手に、全部書いてきた原稿を読むといった調子で顔もあげずに、一生懸命やっていました。今から考えると『ルーテル主義と社会主義』ではなかったかと思います。
 このティリヒさんには、数年前(一九六〇年)日本に来たときあって話をしました。そのときはハーヴァード大学のユニヴァーシティ・プロフェッサーになっていました。フランクフルトの大学にいたとき、教場に暴れこんできたナチの学生を、あの人は正義派で、処罰する方に立ったのだね。それでナチににらまれて、アメリカにわたったということです。なつかしかったですよ。
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深井智朗氏の『パウル・ティリヒ─「多く赦された者」の神学』(岩波書店、2016)をきっかけにパウル・ティリヒについて少し調べた後に上記部分を読み直すと、何だか妙な気分です。
パウル・ティリヒは天才的な説教師としての社会的活動の裏で、常に複数の愛人を持ち、酒乱で、高級ワインとSM趣味に湯水のように金を注ぎ込んだ人格破綻者で、一種の詐欺師のような人物であり、お人好しの南原もうまく騙されたようですね。
南原と話し合ったという来日中の期間も、パウル・ティリヒは毎日銀座で豪遊していたはずです。

マイスタージンガーの「ちゃりん」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8827
ラインホールド・ニーバーが浅薄?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8844

『聞き書 南原繁回顧録』を初めて読んだ頃は南原繁を立派な人物だと思っていたので、同書のささいな記述にいちいち感心したりしていたのですが、改めて読み直してみると、上記以外にも、なんだかなー、と感じる部分が多いですね。
世間では無教会主義の人々を持ち上げる傾向があるので、私も何となく彼らを立派な人たちと思っていたのですが、矢内原忠雄や藤林益三などの人生を探ってみると幻滅を感ぜざるをえず、さらに内村鑑三と生育環境が近い深井英五について調べているうちに無教会主義の本家本元である内村鑑三にも多大な疑問を感じるようになってしまいました。

「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8971
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8977

「近代日本における宗教と民主主義」を読んでみた。(その1)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8337
藤林益三の弁明(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8362
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8363

深井英五『回顧七十年』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8854

そうなると、坊主憎けりゃ袈裟まで、ではありませんが、かつては輝いていた『聞き書 南原繁回顧録』のいくつかのエピソードも、何だかずいぶん色褪せてしまいました。
また、ところどころに挟まれる南原の短歌の莫迦さ加減は本当に耐え難いですね。

歌人としての南原繁
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7404
 

「シュタンムラー先生と(1923年5月、ベルリンにて)」(by 南原繁)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月26日(水)10時36分27秒
編集済
  成城大学名誉教授・池田浩太郎氏は2012年に87歳で亡くなられたそうですね。
池田氏の論文に、

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1. 1923年はじめ、誇り高いベルリン大学の経済学正教授でありながら、破局的インフレーションのもとでドル稼ぎの必要から、日頃見下してしたであろう日本人留学者に、ドル建ての授業料を受取って、個人教授をせざるをえなくなったこと、
-------

とあったのを見て、ドイツ留学中の南原繁が有名教授から個人授業を受けていたことを思い出し、『聞き書 南原繁回顧録』(東大出版会、1989)を確認してみました。
1922年5月にベルリンに行った南原は、矢内原忠雄の紹介で「カイゼル時代からの元軍人、カンターという中佐か少佐」が「戦後数年をへたころですから、恩給生活でうらぶれて暮らして」いた家に下宿したそうですが(p110)、当時の経済状況はというと、

-------
福田〔歓一〕 インフレは如何だったのですか。
南原 そう、ひどいインフレーションで私らも週に一回ずつ銀行へ行かなければならない。ビールを飲んで、そのビールビンが高く売れて儲かったという笑い話があったくらいの時代です。マルクが下落してゆくから、私ら日本人はドイツ人に気の毒なほど金をもっていた。内務省の役人なんかも多勢きておりましたが、金があるものだから贅沢をして、なかには悪い病気になるものもおったほどです。ぼくらは文部省の留学生ですけれど、それでも本が沢山買えた。乱費というほどでもないけれど、恵まれたいい時代でした。私の唯一の贅沢といえば、私に似合わないんだけれども、オペラ・ハウスに通った。いい席を買って、下宿のお嬢さんのイムハルトと一緒に馬車に乗ってゆく。雪の降る晩にね。ぼくの唯一の楽しみでした。
丸山〔眞男〕 当時の文部省留学生は、本屋にあるだけの本を買い占めたとか、いろいろ伝説がありますね。
-------

といった具合ですね。(p113)
丸山眞男の言う「伝説」の例は大内兵衛の回想に出てきますね。

「ベルリンで櫛田、リヤザノフの大格闘」(by大内兵衛)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7580

南原の回顧録に戻ると、

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【前略】ですからベルリン大学に登録だけして、もっぱら家にいて本格的にカントの全集に取り組んだ。そのときに、名前は忘れてしまったけれども文学士を頼んで、それを相手に質問したり、ディスカッションをしたりして三批判を読みました。
 またそれに並行してルードルフ・シュタンムラー先生の所に通いました。シュタンムラー先生はベルリン大学で法理学と民法を講じていた。先生の講義は人気があって、ほとんど講堂を満員にしていました。黒板に数行書きましてね。ごく少し筆記をさせる。それから、それをとうとうと説明するというような講義の仕方だった。老境でしたけれども、渋い大きな声で、ひげを動かしながら、なかなか雄弁だった。みんな感心して聞いておったものです。名講義の一つでしょうね。私は先生に手紙を書いて訪問を許された。先生は大きなアパートに住んでいて、外国人の留学生に興味をもっていたのか、私だけでなく、日本人の留学生を何人か世話しておりました。田中耕太郎君もいったのではないですかね。
丸山 一種の家庭教師ですか。
南原 こっちから出向いて、対でやるのです。お礼は差し上げました。先生もそれを必要としておられたのではないですかね。あとで家を建てられました。ま、それはそれとして、カントの『実践理性批判』を一年近く読むことができました。
【中略】
福田 シュタンムラーの「近世法学の系列」という論文は……。
南原 なにか使い途があったら使ってくれといって私に下さったものです。カメノコ文字とラテン文字が半々くらいずつの、上手なハンドライティングの原稿です。いまでも私の手許にあります。本当のオリジナルですね。私に読ませたいということだったのでしょう。私も礼儀として日本語に訳して出しましょうと申し上げて、まあ原稿料に当るようなものを差し上げました。
丸山 それはたいへんに貴重なものですね。また考えられないほど、親切なことですね。
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などと思い出話が続くのですが(p114以下)、「お礼は差し上げました。先生もそれを必要としておられたのではないですかね。あとで家を建てられました」や「原稿料に当るようなものを差し上げました」といった部分には皮肉な響きがあり、南原の優越感が少しイヤミったらしいですね。
また、同書の冒頭は8ページ分の写真集になっていますが、その中に「シュタンムラー先生と(1923年5月、ベルリンにて)」と題する一葉があって、シュタンムラーが椅子に座って足を組み、その右横に高級なテーラーで仕立てたと思われるスーツに身を固めた南原が立って、その右手をシュタンムラーの椅子の背に置いています。
撮影場所は明らかに高級写真館であって、わざわざ老教授にそこまで行ってもらうにも、それなりの「お礼」を差し上げる必要があったかもしれません。
南原がどんな「使い途」を意図してこの写真を撮ったのかは知りませんが、いろいろと嫌味な想像をしたくなります。
「ま、それはそれとして」、シュタンムラーにしても、別に「外国人の留学生に興味をもっていた」のではなく、おそらく留学生が持っていたドルに興味があり、そのドルを自分にもたらしてくれる留学生に「考えられないほど、親切」だったのでしょうね。
さて、南原はゾンバルトにも少し言及していて、

-------
南原 シュタンムラー先生とならんで、もう一つベルリン大学で人気を集めていたのは経済学のゾンバルトです。彼は若かったけれど多くの聴講生を集めていた。当時、教授の収入は聴講生の数に応じて上下していたから、たいへんなものだったでしょう。社会政策をやっていました。内容はもう忘れてしまったが。
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とあります。(p117)
「彼は若かったけれど」とありますが、ゾンバルトは1863年生まれなので、南原がシュタンムラーと写真を撮った1923年には既に六十歳ですね。

ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88
 

ゾンバルトが蔵書を売却した理由

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 9月25日(火)10時02分47秒
編集済
  一昨日、ツイッターで大阪市立大学にゾンバルト文庫があることに触れた複数のツイートを見かけて、少し検索してみたら、佐々木建という経済学者が『名城大学経済・経営学会会報』11号(2002年11月30日)に載せた記事として、

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 ヴェルナー・ゾンバルトは、19世紀末から20世紀前半を代表するドイツの経済学者であるが、彼は私の今の年齢と同じ66歳の時に、その蔵書の約3分の2を実に見事に売却したのである。
 1929年、11,574冊を大阪商科大学(現在の大阪市立大学)に売却している。その蔵書は「ゾンバルト文庫」として日本におけるドイツ社会経済思想史研究の最重要の源となっている。ご子息のニコラウス・ゾンバルトの回想によると(注1)、1928年に3万冊売却したことになっているが、この年代と冊数は明らかに間違いである。彼によると、売却後も6千冊から7千冊の蔵書が残されていたというから、ゾンバルトの個人文庫は全体でおよそ2万冊にものぼる巨大なものであった。ゾンバルトの邸宅は、二階建ての円形の書庫を中心に家族の部屋はその周辺に配置されるというものだったようだ。いかに蔵書が巨大なもので、彼と家族の生活の中心にあったかが想像される。その3分の2を、彼は現役の教授時代に売却したのである(注2)。
 ゾンバルトはなぜ現役の時に大量に蔵書を処分したのだろうか。二つの理由が考えられる。一つは、増えすぎて維持できなくなったのだろう。もう一つは、想像するに、60歳代半ばにして彼は学者としての先が見えてきたのではないだろうか。彼は売却の前年に、刊行に5年を費やした大著『近代資本主義』全6冊を完成させている。彼が学者としてめざしたライフワークに一応の一区切りがついたのである。

http://www.focusglobal.org/kitanihito/think/03.html

と書いていました。
私はゾンバルトが蔵書を売却したのは経済的理由に決まっているではないか、と思っていたので、ちょっとびっくりしました。
以前、ゾンバルトのことを少し調べていた際に見つけた池田浩太郎氏(成城大学名誉教授、財政学)の「マックス・ウェーバーとヴェルナー・ゾンバルト─ゾンバルトとその周辺の人々」(『成城大學經濟研究』151号、2001年3月)には、蔵書を売却したときのゾンバルトの経済状態について、次のような指摘があります。(p30、注1)

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【前略】しかもかかる境地への到達には、第1次大戦末期から1920年代前半におよぶ(ないしは1930年代にもおよぶ)、破局的インフレーションを含むドイツの政治的・社会的・経済的大混乱や大変革の時期に際会し、老年期の人間ゾンバルトも、大いなる不安と苦しみを経験したであろうことにも、かなりの程度由来するのかも知れない。 1)
【中略】
1)この時期にこの時期に味わったゾンバルトの苦悩の大きさは、当時の日本人とかかわりをもった若干の事柄を、ゾンバルトの側に立って想像するだけでも、そのおおよその見当はつくであろう。たとえばゾンバルトには、
1. 1923年はじめ、誇り高いベルリン大学の経済学正教授でありながら、破局的インフレーションのもとでドル稼ぎの必要から、日頃見下してしたであろう日本人留学者に、ドル建ての授業料を受取って、個人教授をせざるをえなくなったこと、
2. ゾンバルトが現役の研究者、大学教授であるにもかかわらず、経済学および社会主義に関する彼の貴重な蔵書11,574冊を、売却するに至ったこと、そしてこの数年に亘る懸案であった、蔵書の売却先が1928年には決まり、それが日本の大学(大阪商科大学)であったこと(大阪市立附属図書館所蔵『ヴェルナー・ゾンバルト文庫目録』ゾンバルト文庫目録刊行会編、日本評論社、1967年)、などがあった。

http://www.seijo.ac.jp/pdf/faeco/kenkyu/151-152/151-152-ikeda.pdf

ということで、私は妙な義憤にかられて直ちに、

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佐々木建氏は著名な経済学者らしいが、1920年代のドイツにおける学者の経済的状況について何も想像できないのだろうか。
http://www.focusglobal.org/profile/

というツイートをしてしまったのですが、よくよく佐々木建氏の記事を見てみると、

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注2 ゾンバルトの蔵書の壮大さと1929年の売却の意義については、次の書物でも取り上げられているが、その議論はニコラウス・ゾンバルトのエッセーに依拠している。
Bernhart vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Eine Einfuehrung in Leben, Werk und Wirkung, in : Bernhart vom Brocke (Hrsg.), Sombarts "Moderner Kapitalismus". Materialien zur Kritik und Rezeption, Muenchen 1987.この英訳は次に納められている。
Bernhard vom Brocke, WERNER SOMBART 1863-1941. Capitlism-Socialism - His Life, Works and Influence, in : WERNER SOMBART 1863-1941 - Social Scientist, Volume 1 ( His Life and Work ), Marburg.  さらに、Friedrich Lengler, WERNER SOMBART 1963-1941. Eine Biographie, Muenchen 1994, pp.184-5.
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とあります。
他方、池田浩太郎氏の論文には、引用済みの部分の次に、

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 なお、上記の二つの調査にあたっては、大阪市立大学出身の安田保氏(三菱商事)に協力いただいた。また、上記の1、2の記述とも、主としてFriedrich Lengler,1957-,WERNER SOMBART 1963-1941. Eine Biographie,München 1994, S.259-278.によった。
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とあるので、佐々木氏も池田氏と同じく Friedrich Lengler のゾンバルトの伝記を読んでいるのですね。
となると佐々木氏が上記のようなのんびりした、少し莫迦っぽい感想を抱いた経緯が奇妙に思われてくるのですが、引用ページが違うので、佐々木氏がきちんと読んでいないだけなのでしょうか。
それとも佐々木氏は Friedrich Lengler著を全て精読した上で、池田氏とは異なる推論過程から上記感想に至ったのでしょうか。
謎は深まります。
なお、私はウェーバーとの比較のために、一時期、ゾンバルトの本を纏めて読んでいたのですが、掲示板には全然反映することができなくて、投稿は次のひとつだけでした。

「ゾンバルトの Der moderne Kapitalismus」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7266

>筆綾丸さん
五百羅漢を建立した梅谿東天という禅僧は、宗永寺の住職を経て、曹洞宗の関東の寺院の中ではかなり寺格の高い雙林寺(群馬県渋川市)に移ったのだそうで、有能な人ではあったようですね。
 

一億総玉砕と生きやもめ

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 9月24日(月)12時23分58秒
編集済
  小太郎さん
「住職は号泣し必ず仏罰を加えると絶叫したといいます「」ですが、仏罰などという概念は高邁な仏教思想ではなく低級な世迷言で、高僧はこんな戯言は言わない気がしますね。

キラーカーンさん
http://shojiki496.blogspot.com/2013/07/blog-post_19.html
「いざ生きめやも」は完全な誤訳なんですね。堀辰雄は、なぜ、こんなバカな訳をあえてしたのか、ヴァレリーの原詩を読んでもわからない(ヴァレリーは狷介で食えないジジイではありますが)。この誤訳が太平洋戦争末期になされたのだとすれば、理由がわからないでもない。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる、ではないけれど、大倭豊秋津島の神風は死に絶えて、ほら、古今和歌集的な秋風の音が聞こえる、さあ、大和民族よ、みんな仲良く討ち死にしようね、と言いたかったのかな、と。そう解釈すれば、「いざ生きめやも」と反語に訳した理由がわかるのです。
なお、紛らわしい表現で性差別的になりますが、「生きやもめ」とは、夫の死後もしぶとく生き延びる後家さんのことですね(?)。
 

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