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内田力「一九五〇年代の網野善彦にとっての政治と歴史」へのプチ疑問(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月16日(日)11時56分20秒
編集済
  ツイッターで内田力氏の「一九五〇年代の網野善彦にとっての政治と歴史 : 国際共産主義運動からの出発」(『日本研究』58巻、国際日本文化研究センター、2018)という論文の存在を知り、PDFで読んでみました。

https://nichibun.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=7061&item_no=1&page_id=41&block_id=63

文章からまだ若い人なのだろうなと思って読み進めると、伊藤律に言及する部分で私の心の中のチコちゃんがムクッと起動し、「バカ言ってんじゃねーよ!」「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と叫びました。
その部分を引用すると、

-------
 一九五〇年代の網野の活動については、党幹部伊藤律との関係を示唆する証言も存在している。日本中世史家の今谷明は「〔網野〕先生から「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を担っていたと承ったことがある」と書いている(30)。伊藤律という人物は、五〇分裂のなかにあってもっともその立場が状況に翻弄された党幹部である(31)。日本共産党の当時の最高指導者徳田球一の右腕ともいえる党幹部であり、一九五一年に北京に渡航して北京機関にくわわった。しかし、徳田が病気で倒れると、野坂参三によりスパイ容疑をかけられ、一九五三年九月に伊藤律は党から除名され中国で投獄された。伊藤の除名は共産党の機関紙『アカハタ』(のちの『しんぶん赤旗』)でも報告され、監禁状態は一九八〇年までつづく。
 今谷は伊藤からの指令があった時期を「恐らく伊藤律の離日直前の頃ではあるまいか」と推測している(32)。伊藤が国内の地下指導部で中心的人物のひとりとなった時期と一致するので妥当な推測であろう(33)。
 さらに犬丸義一はつぎのような証言をのこしている(34)。

「薄紙指導」と呼ばれた、党の地下指導部からの指示書があった。カーボン紙で限られた枚数だけ複写され、封をした秘密書類である。それを網野さんから受け取って、民科歴史部会のグループ員に届けるというメッセンジャーボーイの役を私が一時期つとめていたので、それを受け取るために何度か月島の常民文化研究所を訪ねたものである。

「常民文化研究所を訪ねた」ということは一九五〇年四月以降のことである。この「薄紙」(35)が伊藤から受け取ったものかは不明であるが、網野は地下潜伏した党幹部との連絡役を務めていたことがわかる。そして、伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まったことは想像に難くない。網野が左翼政治運動から離脱した一九五三年夏はちょうどこの時期であった。
-------

といった具合です。(p200以下)
この文章を読んだ人は、当時の網野善彦が伊藤律と直接のつながりを持つ共産党の大物と想像するでしょうが、実際にはそんなことは全くあり得ず、網野は共産党のヒエラルヒーの中で、単に犬丸義一の上流に位置する「メッセンジャーボーイ」に過ぎないと私は考えます。
従って、「伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まった」などという事態もあり得なかったと思います。
そんなことは内田氏が引用する諸文献をざっと読んだだけでも自明なのですが、若い研究者にはその程度のことも分からなくなっているようなので、少し検討してみたいと思います。
なお、参照の便宜のため、上記引用部分に関連する注記も引用しておきます。

-------
(30)今谷明「時局下の網野先生」『網野善彦著作集』六巻「月報」二〇〇七年一一月、五頁。その後に発表された犬丸義一の文章もあわせて参照のこと。今谷の文に対して補足や訂正する意図があると思われる文がいくつか見受けられる。犬丸義一(談)「網野さんと私」『網野善彦著作集』四巻「月報一五」二〇〇九年一月、七~一〇頁。
(31)伊藤律についてはたとえばつぎの文献を参照のこと。伊藤律『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』文藝春秋社、一九九三年。つぎの文献は伊藤律の次男による回顧録である。伊藤淳『父・伊藤律─ある家族の「戦後」』講談社、二〇一六年。なお、網野はつぎの文献で宇野脩平とともに左翼運動に入った人物として伊藤律に言及している。網野『歴史としての戦後史学』一八三頁。
(32)今谷明「時局下の網野先生」『網野善彦著作集』六巻「月報」、五頁。今谷はおなじ箇所で「五六年以降の武装共産党時代」と書いているが、「五一年以降」の誤記と思われる。
(33)井上敏夫「戦後革命運動の息吹と襞」『マイクロフィルム版『戦後日本共産党関係資料』解題・解説』不二出版、二〇〇八年、三七~三八頁。
(34)犬丸義一(談)「網野さんと私」『網野善彦著作集』四巻「月報一五」、九頁。なお、一九五〇年代の状況に関してはつぎの文献も参照のこと。犬丸義一「戦後日本マルクス主義史学史論」『長崎総合科学大学紀要』二五-一、一九八四年。
(35)薄い紙が用いられたのは、不意に警察官の職務質問にあったとしても飲み込むことができるようにするためだったという。「薄紙指導」についてはつぎの文献を参照のこと。井上敏夫「戦後革命運動の息吹と襞」三七~三九頁。
-------
 
 

クーシネン発言の出典について

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月15日(土)07時39分57秒
  前回投稿で紹介したように、中村政則は、

-------
かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破したが、まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである。
-------

と書いていますが(『日本の歴史第29巻 労働者と農民』、小学館、1976、p173)、クーシネンの発言についての出典を明示していません。
その内容と「コミンテルンの常任委員」としてのクーシネンの発言であることから、おそらく「32年テーゼ」に関連するものと思われますが、何か御存じの方はご教示願いたく。

なお、少し検索してみたところ、和田春樹(監修/編訳)『資料集コミンテルンと日本共産党』(岩波書店、2014)に、

-------
資料84 コミンテルン執行委員会幹部会での日本問題討議におけるクーシネンの結語(一九三二年三月二日)
資料97 クーシネン書記局が作成した日本共産党の政策、人事点検に関する報告と提案(一九三六年二月二日)

https://honto.jp/netstore/pd-contents_0626338570.html

という資料があるとのことで(内容未確認)、あるいは前者のことかも知れませんが、中村が何を見たのかを確認したいので、『労働者と農民』が刊行された1976年以前の資料について何か心当たりのある方は教えてください。

参考:加藤哲郎氏「「三二年テーゼ」と山本正美の周辺」より

-------
 つまり、「三二年テーゼ」の発想は、「コミンテルンとプロフィンテルンをはかりにかけたら。これはもう天ビンにかからない」という当時の大衆団体に対する党の優位の構造のもとで、コミンテルン東洋部よりもさらに上級のレベル、すなわちスターリンらソ連共産党政治局とコミンテルン最高幹部であるピアトニツキー、マヌイルスキー、より直接には東洋問題担当の常任幹部会員オットー・クーシネンから出たことを示唆している。

http://netizen.html.xdomain.jp/MASAMI1.html
 

「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」(by コミンテルン常任委員クーシネン)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月13日(木)11時37分22秒
編集済
  前回投稿の末尾に書いたように、石原修の「大正二年十月国家医学会例会席上に於ける講演 女工と結核」には、

-------
第三号表は或る一定の時期を限つて、そこで市勢調査みたいなことをやりました、其結果が生糸は事情が違ひまするが、紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ、勤続一年未満の其中の半分は、六カ月続いて勤めないものであります、【後略】
-------

とあり(『生活古典叢書第5巻 女工と結核』、光生館、1970、p181)、石原は明確に生糸と紡績・織物を区別していますが、中村は「生糸は事情が違ひまするが」を削除していますね。
実際、『あゝ野麦峠』を通読しただけでも、多くの女工が何年も続けて製糸工場に出ており、一年で止めるのがむしろ例外です。
ま、それはともかく、『労働者と農民』の引用をもう少し続けます。(p172以下)

-------
 ところで、昭和四五年の夏、私は新潟県北魚沼郡堀之内町で出稼ぎ女工の調査をおこなったことがある。最盛期の大正末期、堀之内町からは七〇〇人ちかい娘が県外に働きにでていたのである。この調査先で、当時八〇歳の、もと堀之内町長森山政吉をたずねた。大正五年(一九一六)、かれはこの一〇年後に堀之内町に合併された田川入村の役場の書記となり、大正九年に北魚沼郡中部女工保護組合をつくって女工保護に立ち上がった。

昔はひどいものでした。戸籍を見るたびに、一六歳から二二、三歳の村の娘が結核でつぎつぎと死んでゆくことがわかる。各工場の寄宿舎もみてまわったが、娘たちはみなせんべい布団にくるまって寝ているんです。これでは結核になるのはあたりまえだと思った。それに工場は風紀が悪い。村内には私生児もふえてきた。結核と私生児、このまま放っておいたら村の将来はどうなるか。そう思うと矢も楯もたまらなくなって、女工保護組合の結成にのりだしたのです。

 女工保護組合についてはのちの章で述べることにするが、まさに結核と私生児の発生は、窮乏農村の荒廃ぶりをいっそうはげしくした。かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破したが、まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである。

今から十年前に当つて奉天の戦争(日露戦争)で戦死者七八千負傷者五万人位を出して居ると思ひますが、(中略)工業の為に犠牲になつた所の女工の数は、奉天戦争の死者或は傷者と相当するものではないかと思ひます。謂はゆる矛を執つて敵に向つて戦をして死んだ者は敬意を以て迎へられ、国家から何とか色々の恩典に報いられ、国民より名誉の戦死者とされ、又負傷者となつたものは充分の手当てを受け、名誉の負傷者として報いられ迎へられます。それにかゝはらず、平和の戦争の為に戦死したものは、国民は何を以て之に報いて居るかといふことは、私には分りませぬ。涙深いことを申すやうでございますが、女工の運命は実に悲惨なものでございます。矢張り彼等女工と雖も、我々の大事な同胞の一つであらうと思ひます。

 石原修は、さきの講演の末尾でこのように述べた。工場法の完全実施は、緊急の問題になっていたのである。
-------

とのことですが、再び石原修の講演録を確認すると、中村が引用する部分の直前に、

-------
 それから十八号十九号表(前掲)を御覧願ひます、紡績の結核に密接の関係があるといふことはそれで御分りであらうと思ひますが、どの表でも紡績は結核が多い、連続徹夜業をやつて居るものは紡績に限ります、どの方面から見ましても紡績は生糸織物より余計責任を負はなければならぬと思ひます。先刻申しました五千人といふものは工業の戦争の為に犠牲になりましたが、此衝に当りました五千人の戦死者の外に二万五千人といふ工業をやつた為に余計重病人が出来たといふことを申してよからうと思ひます。さうすると今から十年前に当つて奉天の戦争で………
-------

とあって(『生活古典叢書第5巻 女工と結核』、p196)、石原は「紡績の結核に密接の関係があるといふこと」「どの方面から見ましても紡績は生糸織物より余計責任を負はなければならぬ」という具合に、結核に関しては明確に製糸業と紡績業を区別していますが、中村の引用の仕方ではそれは分かりにくいですね。
煩雑になるので石原の作成した表は紹介しませんが、結核との関係では製糸工場は紡績工場より良好な労働環境であることは数字の上からも明らかです。
ま、製糸工場の場合、石原の強調するように深夜業が一切ない上に工場内に粉塵が舞わないので、この結論は常識にもかなうと思われます。
なお、中村が<かつてコミンテルンの常任委員クーシネンは、「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」と喝破した>とオットー・クーシネンを高く評価している点は、その妻アイノ・クーシネンの自伝 『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(坂内知子訳、平凡社、1992)を読んだことのある私にとってはなかなか味わい深いものがあります。
コミンテルンで働いていたアイノ・クーシネンは、夫が最高位の共産党幹部であったにも拘らず逮捕・投獄されてしまうのですが、オットー・クーシネンは、妻を救おうとすれば自身がスターリンに粛清される可能性が高かった時期が過ぎても妻を助けようとせず放置した人物で、個人的にはあまり好感を持てません。
ま、「講座派」の人たちにはいろいろ奇妙なところがあるので、別に驚きはしませんが。

オットー・クーシネン(1881-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3
アイノ・クーシネン(1886-1970)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3

アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(その1)(その2)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9072
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9073
アイノ・クーシネンの獄中記憶術
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9077
 

石原修「大正二年十月国家医学会例会席上に於ける講演 女工と結核」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月12日(水)11時31分19秒
  山本茂実『あゝ野麦峠』に続いて、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)から「女工と結核」と題する部分を紹介します。
中村著は普通の歴史書とは異なり「第〇章第〇節」といった具合に構成されていないのですが、「綿糸とアジア」という大項目の中の「職工事情」という中項目の最後に「女工と結核」という小項目があります。
即ち、

-------
綿糸とアジア
 近代紡績業の基底
  工場の惨劇
  繊維戦争
  詐欺的な女工募集
 職工事情
  はだしの逃亡
  女工の足どめ策
  長幼男女の同一労働
  インド以下的低賃金
  女工と結核
-------

と構成されていて、近代紡績業に関する叙述のうち、既に紹介済みの「インド以下的低賃金」に続いて「女工と結核」が出てきます。

「植民地以下的=印度以下的な労働賃銀」(by 山田盛太郎&中村政則)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9707

山田盛太郎と中村政則のインド好き、二人がインドとの比較にやたらこだわる理由についてはまだ答えを出していなかったのですが、それをやっていると手間と時間がかかるので、とりあえず「女工と結核」に進みます。(p170以下)
なお、石原修の引用部分は中村著では全体を二字分下げています。

-------
 大正二年(一九一三)一〇月、国家医学会例会で青年医学士石原修は、「女工と結核」と題する有名な講演をおこなった。この講演は、紡績資本家による女工食いつぶしがいかにひどいものであるかを事実をもってしめし、人道主義的正義観から資本家をするどく断罪したものであって、工場法の施行を世にうったえたものとしてよく知られている。しかもそれは、かれが内務省嘱託として明治四二年いらい各地の農村を回りあるいて実際にしらべた、帰郷女工にかんする克明なデータにもとづいていただけに、ひじょうな説得力をもっていた。石原はまず、日本の労働者のなかでもっとも多いのは生糸(一九万人)・紡績(八万人)・織物(一三万人)の繊維労働者であることをあきらかにし、そのなかでも紡績業につきものの深夜業が若い娘たちの肉体をすりへらしていることを、具体的な数字をあげて説明する。

七日間連続徹夜業をしたならば、(中略)どの位目方が減るかといへば、一例として紡績甲に於ては一人平均夜業後の減量は百七十匁〔もんめ〕(一匁=約三・七五グラム)である。次の昼業間に恢復するのはどの位かといへば、六十九匁である。回復しない中に直ぐ夜業に掛るといふことになるから、交替期間まで夜業を続けて居れば百一匁は体重を奪はれて仕舞ふのであります。(中略)いつまでも夜業を続けて行つたならば、遂には骨と皮ばかりになる人間が出て来やうと思ひます。是では堪へられませぬから、退職するより外ないといふことになりませう。(中略)言葉は少し乱暴に失するかも知れませぬが、見方に依りましては、此夜業といふものは人間を長い時期に於て息の根を止めつつある行為ではないかと思はれます。息を止めつつある行為は、常に未遂に終はるのであります。それはどいういふ訳かといへば、其被害者が迚〔とて〕も我慢仕切れぬで自由に遁走するのであるから、既遂にならぬで済むのであらうと思ひます。

 高い塀がめぐらされた工場を脱出するのは、容易なことではない。監視人の目も光っていよう。そこで、「紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ。勤続一年未満の其中の半分は、六カ月続いて勤めないものであります」ということになる。女工の帰郷原因をみると、次ページの表のように疾病などをふくめ、労働にたえられないという者が全体の二九パーセントで、家事のつごうによる者とおなじ比率をしめしている。結婚を理由に帰郷した者は六パーセントに過ぎない。さきに述べた桑田熊蔵の見解がいかに皮相なものであるかがこれからもわかるであろう。

彼等女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの六人又は七人の中一人は、必ず疾病にして重い病気で帰つて来る。先づ八万の中で一万三千余人はありませう。疾病たるの故を以て国に帰ります一万三千人の重い病気の中の四分の一、三千人といふものは、皆結核に罹つて居ります。

と石原は説く。しかも、その「結核は、伝染病の処女地たる農山村と生活条件の低い農家で、工場内における以上の猛威を振るって蔓延し、農山村そのものを破滅させたのであった」(生活古典叢書『女工と結核』籠山京解説)。
-------

長くなったので、途中ですが、いったんここで切ります。
中村は石原修の「紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ」という文章を引用しますが、石原の講演録を見ると、この直前に「其結果が生糸は事情が違ひまするが」という表現が存在しています。

石原修(1885-1947)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E4%BF%AE
 

酒井シヅ『病が語る日本史』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月11日(火)20時28分21秒
編集済
  製糸工女と結核の関係について参考になるかな、と思って酒井シヅ氏(順天堂大学名誉教授、日本医史学会元理事長、1935生)の『病が語る日本史』(講談社学術文庫、2008)をパラパラと眺めてみたのですが、些か微妙な記述がありました。

-------
古来、日本人はいかに病気と闘ってきたか。 縄文人と寄生虫、糖尿病に苦しんだ道長、ガンと闘った信玄や家康……。糞石や古文書は何を語るのか。〈病〉という視点を軸に日本を通覧する病の文化史・社会史。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151477

同書「第3部 変わる病気像」の「2 死病として恐れられた結核」では、

-------
 結核は先史時代から人類を苦しめてきた。二十世紀半ばに抗結核剤が発見されるまで、結核は死病として恐れられてきた。それだけに結核が治る病気になったときの喜びは大きかった。
 結核の恐ろしさは、いつ感染したのか、すぐわからないことにある。症状が現れるまでに時間がかかり、その間に周囲の人に結核菌をばらまいているからだ。これはいまも昔も変わらない。結核の歴史はこの病気との闘いが一筋縄でいかないことを語っている。
--------

と前置きした上で(p259)、次のような節に分けて、結核の歴史が説明されます。

1 「結核の病名」
2 留学生と結核
3 社会と結核
4 『女工哀史』と結核
5 小説『不如帰』と結核

1 では『枕草子』『源氏物語』『好色一代女』などが引用され、2 では、

-------
 ところで、日本で結核が社会問題になったのは明治以降のことである。明治維新後、すぐれた学生が選ばれて、海外留学したが、海外で結核に冒され、留学を中断して帰国したり、留学中に亡くなった者がたくさんいた。
 留学先の欧州では、ちょうど産業革命に続いて、資本主義が展開して、工場がふえていったが、劣悪な衛生環境で暮らしている低所得者や労働者がふえて、彼らの間で結核が蔓延していた。
 そこへまったく無防備で留学生が入っていき、刻苦勉励の暮らしをしていたが、食生活を切りつめる生活を余儀なくされているうちに、結核になったのである。
 東京大学医学部では、初期の卒業生の中から最優秀者三名を選び、将来、東京大学の教授になることを約束して、ドイツに留学させた。第一回卒業生の中から清水郁太郎、梅錦之丞、新藤二郎の三名が選ばれた。清水は産婦人科学、梅は眼科学、新藤は病理学を専攻することになった。
 しかし、新藤は留学中に発病して帰国し、梅と清水は帰国して教授になったあと数年にして、いずれも結核でたおれたのであった。
-------

とあります。(p263以下)
梅錦之丞は珍しい名字なので、民法起草者の一人である梅謙次郎の親戚かなと思ったら、二歳上の兄だそうですね。
大変な秀才兄弟ですが、28歳での死はいかにも惜しい感じがします。

梅錦之丞(1858-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E9%8C%A6%E4%B9%8B%E4%B8%9E
梅謙次郎(1860-1910)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E8%AC%99%E6%AC%A1%E9%83%8E

ま、このような新知識を得ることができて、同書はなかなか有益だなと思って読み進めたのですが、肝心の「4 『女工哀史』と結核」を見ると、

-------
 明治五年に設置された官営の富岡製糸場に始まる紡績産業が日本の産業革命の中核になったが、山本茂実の小説『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀話』で知られるように、結核が紡績工場の悲劇を生み出していた。
-------

とあって(p267)、酒井シヅ氏には製糸業と紡績業の区別が全くついていないことが分かります。
せっかくなので続きも引用すると、

-------
 農村から集まった女子工員が結核に感染して、彼女らが郷里に結核を持ち帰り、農村地帯に結核を広げ、悲惨な結果をひきおこしていたのである。 しかし、工業国の立国を急いでいた政府は、女子工員の結核を問題にする余裕がなかった。工場労働者の結核がはじめて記録に出てくるのは、明治三十六年(一九〇三)に出た農商務省編の「職工事情」の中であった。だが、その報告が出て、結核対策がただちにとられたのではない。政府が本腰を入れて対策に乗り出したかに見えたのが、明治四十四年に工場法を制定したときであった。
 しかし、この法律も実施されたのは、大正五年(一九一六)になってからであり、そのときまで、女子工員はひどい労働条件のもとで働いていた。
 先述の農商務省の報告が出たのと同じ年に、香川県の技師高畑運太が「香川県における女工の肺結核患者について」という報告書を出している。そこには香川県から他県に出稼ぎに出た紡績女子工員の記録が載るが、高畑がこの報告書をつくった動機は、疾病のために帰郷療養する者がふえてきたことにあった。
 この当時の女子工員の労働時間は長く、深夜労働は当たり前であった。彼女たちは就職すると、まもなく月経が閉止し、次第に虚弱になっていった。胃病、子宮病の名でしばらく治療を受けるが、三ヵ月以上加療しても治らないと、会社がその女子工員を自動的に解雇して、帰郷させたのである。そのとき肺病にかかっていた者はほとんど亡くなったのであった。
 ちなみに『女工哀史』は大正十四年(一九二五)に細井和喜蔵が紡績工場に勤務する妻と自身の体験に基づいた記録文学である。
-----

ということですが、「この当時の女子工員の労働時間は長く、深夜労働は当たり前であった」とあるので、やはり酒井シヅ氏は製糸と紡績の区別がついていないようですね。
繰り返しになりますが、紡績工場では「深夜労働は当たり前」であっても、製糸工場では一切ありませんでした。
それは別に紡績工場の経営者が非人道的で、製糸工場の経営者が人道的であったためではなく、紡績工場では深夜労働(二十四時間操業)が合理的であり利益を生んだのに対し、製糸工場では深夜労働は非合理的で利益を生まなかったからです。

製糸と紡績の違い─「みのもんた」を添えて
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9715

酒井シヅ氏は『あゝ野麦峠』を「小説」としているので、この点、何か見識をお持ちなのかなと思いましたが、特にそんなことはなさそうですね。
 

「長野県下製糸女工の結核死亡統計は総死亡の七割強が結核という戦慄すべき惨状」(by 山本茂実)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月10日(月)11時17分57秒
編集済
  とりあえずの出発点は、やはり山本茂実『あゝ野麦峠』とします。
山本は「天竜川の哀歌」の章で、最初に「天竜川の肝取り勝太郎」という、川岸村の製糸工女も犠牲者の一人となった不気味な連続殺人事件について長々と書きます。
即ち、六人殺しの犯人・馬場勝太郎、通称「水車場の勝」が「製糸工場〔きかや〕から帰って来て、農家の納屋でじっと死を待っていた肺病病みの娘」(角川文庫版、p148)を救うため、「不治の病いといわれた結核性疾患の特効薬、高貴薬」である人間の肝を取る目的で殺人を重ねた、という「ただの憶測」の話を延々と続けて読者の好奇心を刺激した後、「戦慄すべき工場結核」という小見出しの下、結核に関する悲しいエピソードを三つ続けます。
そして、その後に次のように書きます。(p151以下)

-------
 平野村役場が明治四十一年村内工場を調査した「工女病歴調べ」(巻末資料7参照)に見るとおり、調査工女約一万に対して、結核性の疾患は一九六ということになっている。この数字は同調査中から肋膜、胸膜、腹膜、呼吸器病等々、結核性病患を合計した数字であるが、それでもこの表ではどうも少ない。
 細井和喜蔵の『女工哀史』に引例されている石原博士の「国家医学上より見たる女工の現況」と題した長年にわたる研究発表によると、これがまったく違っている。すなわちわが国の繊維工場に働く工女は、千人のうち毎年十三人の割合で死んでいる。しかもこれは工場内で死ぬ数で、このほかに工場の死亡率には入らないが、病み出してから解雇または退職して帰郷後に死んだ者がさらに十人もいるから、これを加えると工女千人について二十三人という高率の死亡になると書いている。
 この割合でいくと、女工七十二万人(大正中期)の千分の二十三人、すなわち一万六千五百人が毎年死んでいることになる。これは一般同年齢の女子死亡率の三倍、つまり一万人は工場労働によって余分に死んだことになる。このうち結核死亡はその約四割を占め、また帰郷死亡の七割は結核である。ただしこれは一般繊維労働者での話で、長野県下製糸女工の結核死亡統計は総死亡の七割強が結核という戦慄すべき惨状であるという。
 ところが平野村のこの調査にはそういうものはほとんど現れていない。その理由を考えてみると、この調査はおそらく役場のアンケートで工場側の回答という形式をふんだものと推定されること。また当時は平野村役場自体が製糸経営者の掌中にあったことも考え合わせると、その表現には若干の手心が加えられたということも考えられる。例えば前記政井みねのような女工死亡を退職者として削るとか、結核とすべきを腹膜、胸膜、呼吸器病と分離するとか、この分では「感冒」と書かれている「一、〇五八」も相当数を結核初期に入れるべきかもしれない。さらに大事な「病気帰郷者」を削除していることなど、この統計には不備を感ずる。
 この外では「胃病(腸カタル、腸胃カタルを含む)八六一」が注意をひく。貧しさの象徴でもある「飯だけは腹いっぱい何杯でも食べられる生活」、そして食休みもなく働く工場生活の当然の帰結でもあった。
【中略】
 工場内は高温・高湿度で、一日じゅう単衣物〔ひとえ〕で濡れて働き、一歩外に出ればたちまち真冬の風が吹いているという、極端な寒暖の差のある生活では、よほど健康な者でも風邪をひきやすい。ましてや夜業残業の過労がたたって体力はおちている。それはまたとない結核の温床であった。
 しかも当時はこの結核菌に対して、何一つ有効な医学的手段は、世界のどこにも見出せず、まさに結核全盛時代であった。
-------

山本は平野村(現岡谷市)の公的な統計を引用しながら、「この調査はおそらく役場のアンケートで工場側の回答という形式をふんだものと推定され」、「当時は平野村役場自体が製糸経営者の掌中にあった」から「その表現には若干の手心が加えられ」、要するにウソだらけだと非難するのですが、実際にはどうだったのか。
また、山本は諏訪では一月二月の厳寒期には操業していないことを熟知しているはずですが、「工場内は高温・高湿度で、一日じゅう単衣物〔ひとえ〕で濡れて働き、一歩外に出ればたちまち真冬の風が吹いているという、極端な寒暖の差のある生活」という表現は少し変ですね。
もしかして山本は織物業に関するある史料の表現をコピペしているのかな、と私は疑っているのですが、もう少し調べてみるつもりです、
 

木谷恭介『野麦峠殺人事件』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月10日(月)10時42分22秒
編集済
  >筆綾丸さん
いえいえ。
私もある程度自信を持って書けるのは明治・大正期の製糸業だけで、紡績業については詳しくなく、まして絹紡糸の世界は全く視野の外でした。
製糸業と紡績業との混同、近代製糸業史の「女工哀史」化は根深くて、山田盛太郎等の「講座派」が理論的基礎を提供し、山本茂実『あゝ野麦峠─ある製糸女工哀史』が民衆の世界から新たな材料を入手して作家ならではの巧みさで補強し、そのエッセンスを山本薩夫監督が抽出して映画『あゝ野麦峠』で「女工哀史」像を完成させたのかな、などと思っていたのですが、『絹と明察』は私にも盲点があったことを自覚させてくれました。
近江絹糸争議は、事実のレベルとして製糸業と紡績業が交わる「女工哀史」的世界が存在していたことを示すものですから、研究者や一般人の認識にも相当な影響を与えているのかもしれないですね。

『絹と明察』のついでに、製糸業と結核の問題にも少し触れておこうと思います。
『絹と明察』では駒沢善次郎の妻・房江が結核で京都宇多野の国立療養所に入院しており、そこに駒沢によって「絹紡工場」に移され、結核に罹患した石戸弘子も入院したとのストーリー展開となっており、結核の存在が物語の全体を暗く彩っていますが、製糸工場でも結核が蔓延していたというイメージは今でもかなり根強く存在していると思われます。
『絹と明察』と比べると些か文学的香気は劣りますが、ネットで「野麦峠」を検索している際に知った推理作家・木谷恭介の『野麦峠殺人事件』を入手して「あとがき」を見たところ、『あゝ野麦峠』を読んで結核の悲惨さに強く印象付けられたと書いてありました。

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峠を越えて女は死出の旅へ…?

連上蘭はワイドショーのかけだしリポーター。「未婚の母」告白の会見をした人気女優・仁科奈津子を追いかけることになった。その奈津子が失踪した。娘の紀子は京都で保護されたが、奈津子は野麦峠のふもとの実家で首を吊って死んでいた。所轄署は自殺説だが、蘭は他殺説にこだわって取材をつづけていく。そんな蘭のもとに宮之原警部が訪れ、不可解な死の真相を解明していく……。

http://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-60522-7

私も、製糸工場では大勢が寄宿舎生活をしていたのだから、結核の蔓延はあったのだろうなと思っていたのですが、実態はかなり異なるようなので、少し検討してみたいと思います。
 

反省

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年12月 9日(日)17時42分5秒
  小太郎さん
数十年ぶりに三島のレトリックに酔っ払っていて、製糸と紡績の矛盾にも気づかいとは、まあ、ただのバカですね。やれやれ。
三島の作品は、評論も含め、ほとんど読んでるはずですが、「栄光の蛸のやうな死」は記憶にありません。
 

製糸と紡績の違い─「みのもんた」を添えて

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 8日(土)11時39分24秒
編集済
  >筆綾丸さん
>「栄光の蛸のやうな死」

カギ括弧に囲まれているので三島の小説のフレーズのような感じがしますが、そうであればネットで何か引っかかりそうなのに、「蛸」でも「絹」でも全くヒットしないですね。
松岡正剛氏以外、この謎を解ける人がいるのかも疑問になってきました。

『絹と明察』は「絹」を強調しながら「製糸」工場ではなく「紡績」工場が舞台なので、どうにも落ち着かないですね。
ウィキペディアからの引用ですが、紡績(spinning)は、

-------
「紡」(紡ぐ/つむ・ぐ)は寄り合わせることを意味し、「績」(績む/う・む)は引き伸ばすことを意味する漢字で[1][2][3]、主に綿や羊毛、麻などの短繊維(最長1.5m程度のもの)の繊維を非常に長い糸にする工程をいう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A1%E7%B8%BE

のに対し、「長繊維の絹を蚕の繭から繰り出し、ばらばらにならないよう数本まとめて撚る工程は製糸と呼ばれる」(同)のであって、繭から取れる生糸は数百メートルの長繊維ですから、製法が全く違ってきます。
そして、その違いが労働関係にも顕著に反映されます。
即ち、紡績業においては、近代的な紡績工場が設立された当初から工場の主役はヨーロッパ製の巨大で高価な「機械」であり、労働者の仕事は比較的単調です。
従って、高価な機械から効率的に利益を生み出そうとして、二十四時間の連続操業が行なわれ、労働者は深夜労働を余儀なくされます。
他方、製糸業の場合、設備は単純な構造の「器械」であり、個々の女性労働者の技量によって生産量と品質に大きな差が出ます。
製糸工場では長時間労働はあっても、深夜労働などは全くないですね。
それは別に製糸業者が人道的であったからではなく、深夜に働かせても良い糸が取れず、利益は上がらず、全く経済的合理性がないからです。
製糸工場での設備が何とか「器械」からの脱却を始めたのは1904年(明治37)、御法川直三郎という人物が「御法川式多条繰糸機」を発明して以降ですが、様々な事情からその普及はそれほど進まず、本格的に「機械」と呼ぶに相応しい自動繰糸機が登場したのは昭和に入って暫くしてからですね。

「製糸工場を知ろう」(片倉工業株式会社サイト内)
https://www.katakura.co.jp/silk/study/museum/column2.html

それでは、何故に『絹と明察』の舞台が「紡績」工場かというと、これは元ネタが1954年(昭和29)の「近江絹糸争議」で、彦根の実業家夏川熊次郎らが1917年に設立した近江絹綿(株)(1920年近江絹糸紡績(株)と社名変更)で起きた労働争議だからです。

近江絹糸争議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E7%B5%B9%E7%B3%B8%E4%BA%89%E8%AD%B0

近江絹糸紡績(株)の社名には「絹」が入っていますが、元々は質の悪い「屑繭」を原料とする絹紡糸の半製品(ペニー)を生産していた会社ですね。
『絹と明察』(講談社、1964)がどこまで「近江絹糸争議」の史実を反映しているのかは知りませんが、次のような描写(p54)は製糸工場ではあり得ません。

-------
 菊乃は一等湖のちかくにある赤煉瓦の絹紡工場だけは、訪ねるのが辛かつた。そこに飛び散る屑繭の埃と異臭は、建物の古さと共に、陰惨の気を湛へ、驕奢な絹の息づまるやうな出生の暗さがそこに澱んでゐた。下端の針が絹紡糸からじゆんじゆんにごみを取除いてゆく鉄の水車みたいな機械に、中腰でのしかかつて、その鉄輪をゆるゆると廻しつづける女子工員は、姿勢からして拷問めき、吐く息もその蒼ざめた顔から著くきこえた。
-------

製糸工場ではそもそも「屑繭」を扱わず、従って「絹紡工場」は存在せず、「陰惨の気を湛へ、驕奢な絹の息づまるやうな出生の暗さ」もないですね。
要するに『絹と明察』は製糸業とは関係のない世界を描いている訳です。
しかし、元ネタの「近江絹糸争議」が紡績工場に取材した細井和喜蔵の『女工哀史』(改造社、1925)を連想させるのはもっともで、従って『絹と明察』も「絹」を扱う工場と『女工哀史』を渾然一体化させるイメージを社会に普及させたのではないかと思います。
そして、1964年の大ベストセラー『絹と明察』が、その四年後に出る山本茂実『あゝ野麦峠』の「女工哀史」イメージを増幅させる下地となったのかな、などとも想像されます。
なお、御法川直三郎の名前は司会者の「みのもんた」氏(本名御法川法男、みのりかわ・のりお)を連想させますが、特に親族関係はないようですね。

御法川直三郎(1856-1930)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/minorikawa_n.html
 

ニューマフィルとスライバーとブント

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年12月 7日(金)11時53分40秒
編集済
  小太郎さん
「栄光の蛸のやうな死」は意味不明ですが、絹の言い間違えですかね。蛸は三島美学にもっとも反する生き物のような気がします。

http://kotobakan.jp/makoto/makoto-1260
憂きことを 海月に語る 海鼠かな  召波
足を欹てて 聴く壺の蛸       綾丸

https://www.youtube.com/watch?v=UO4_boTtDF0
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弘子は顔に似合わない赤味がかった岩乗な手で、管糸を引き出して、糸口を探して、トラベラーに引っかけて、撚りがかかっている糸をつないで、ひねりながらニューマフィルの吸い口へそっと差し込む。(『絹と明察』新潮文庫版66頁~)
----------------------
女子工員のこの作業を正確に理解することはできませんが、ニューマフィルは引用の YouTube を見ると、おおよそのことはわかりますね。また、練糸行程にでてくるスライバーも(同書66頁)、YouTube で探すと、大体のイメージが掴めます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%9D%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A1%94
『硝子の塔』の原題は Sliver なんですね(硝と蛸という字は、似ているような似ていないような)。

追記1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AE%E9%BB%99%E7%A4%BA%E9%8C%B2%E3%81%AE%E5%9B%9B%E9%A8%8E%E5%A3%AB
『絹と明察』の駒沢紡績の社旗(白馬)は、ヨハネの黙示録の四騎士を踏まえているとすれば、勝利(支配)であるから、駒沢善次郎の家父長主義的な支配のメタファーということになりますね。小説の世界では、絹のような肌をした駒(馬)沢善次郎の象徴ですが。

追記2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F
ドイツの放送を見ていると、Bundeskanzlerin だの、Bundesinnenminister だの、Bundesaußenminister だの、色々な Bundes が出てきますが、この Bund と日本的な手垢のついたブントが同じ語だというのは、なんだか奇異な感じがするとともに、ブントの多言語版をウィキでみると、韓国語と中文しかなく、うら淋しい感じがします。
 

「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」(by 伊藤隆)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 7日(金)10時21分9秒
編集済
  脱線からの脱線になりますが、上山和雄氏の「伊藤先生はどのような立場だったのですか」という質問に高村氏が「よく分からない」と答えている点、実際には詳しく事情を知っているけれどもあまり語りたくない、という感じではないですかね。
伊藤隆氏の『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書、2015)を見ると、1951年の大学入学以降、共産党のバリバリの活動家となった伊藤氏は、「東大細胞の文学部班のキャップ」(p8)として活躍するも、次第に熱が冷め、六十年安保の頃は「すでに運動から離れていた」(p16)そうです。

-------
六〇年安保の頃

 六〇年安保は、修士課程の二年目でした。
 佐藤君が、「デモだ、デモだ」と言っていましたから、付き合ってデモに行き、「民主主義を守れ」などと叫んでいました。あとで岸信介氏にインタビューして本を出すことを考えるとおかしいのですが、「岸を倒せ!」と言ったかもしれません。
 佐藤君は日共系を離れ、ブントなどの新左翼にかなりシンパシーを感じていたようですが、すでに運動から離れていた私は、彼等の過激な行動を少し斜めに見ていました。
 六月十五日、国会突入デモで樺美智子さんが亡くなった日のことはよく覚えています。
 樺さんは国史研究室の四年生でした。あの日、大学で樺さんに会った時、「卒論の準備は進んでいるか」と聞いたのです。あまり進んでいない様子でした。
「何とかしなきゃな」と、私は言いました。
「でも伊藤さん、今日を最後にしますから、デモに行かせてください」と彼女は答えます。
「じゃあ、とにかくそれが終わったら卒論について話をしよう」
 そう言って、別れました。
-------

「佐藤君」は佐藤誠三郎(東大名誉教授、政治学)のことで、佐藤は既に日比谷高校時代に「民青のキャップ」であり、「私が駒場に四年いたこともあって、彼のほうが追い越して、先に本郷の国史学科に進んでいた」(p9)のだそうです。

佐藤誠三郎(1932-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%AA%A0%E4%B8%89%E9%83%8E

また、「あとで岸信介氏にインタビューして本を出す」云々は『岸信介の回想』(文藝春秋、1981)のことですね。

「内閣書記官長・星野直樹」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7783
「お前みたいな机上の学問をやっている奴とは違うんだ」(by 矢次一夫)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7790

さて、「やっぱりデモが気になって」国会議事堂周辺に行き、南門に「中央大学のブントの勇ましい連中が丸太をぶつけ」「中になだれ込むところまで見て」から家庭教師のアルバイトに行った伊藤氏は、帰宅後、妻から「デモで誰か女の人が死んだ」と聞かされます。(p17)

-------
 ほとんど眠れぬまま朝を迎え、早くに登校して、自分たちが何をなすべきかを、佐藤君など国史研究室の友人たちと相談しました。私が提案したのは、国史研究室が中心となって全学合同慰霊祭を実行しようということでした。全学の統一した行動を第一の目的とし、ジグザグデモもシュプレヒコールもせず、安保反対も岸打倒もスローガンとして掲げず、厳粛な行進を行う、これが慰霊祭のイメージでした。
 提案は了承されました。十九日午前零時には新安保が自然成立してしまいます。実行は十八日と決まりました。あと一日半しかありません。研究室全員で手分けして準備にかかりました。

樺美智子合同慰霊祭

 会場の準備、受付、ビラの作成、立て看板、マイク、ピアノの調達と、やるべきことは山ほどありました。研究室のメンバーは仕事を分担して懸命に努力しました。
 私は共産党と、共産党と反目していたブントに、この慰霊祭を一緒にやろうと説得を試みました。樺さんは共産党からブントに移行していましたから、共産党としては樺さんが自分たちと同じ立場だと思ってはいない。真正面からだけでは駄目と思ったので、生活協同組合の「親分」は当然民青ですから、これをなんとか口説いて、とにかく場合によっては一緒にやってもいいという言質を得ました。ところがブントのほうは、共産党が来るならこれを「粉砕する」と言い出す。
 そこで新左翼の一翼、第四インターの北原敦君、のちに北海道大学の西洋史の先生になりますが、彼に「ここは一緒にやろうじゃないか」と話すと、「やる」と言う。結果として文学部教授団、全大学院生協議会、全学助手集会連絡会、各学部学生自治会、東大職員組合、生活協同組合の六団体の協賛を得ることができました。北原君には、「たぶん人が大勢集まるから、警備隊がいないと困る。君のところでやってくれないか」と頼むとOKしてくれました。北原君は本当によくやってくれて、当日集まった連中からたくさんのカンパも集めてくれました。一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました。
 国史研究室の主任教授は宝月圭吾という中世史の先生で、彼に代表者になっていただき、デモの許可をとるために一緒に警察に行きました。【後略】
-------

ということで、ここまで活躍したのであれば、追悼デモの先導車に宝月圭吾と並んで乗るくらいは許されるでしょうね。
私は最初に『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』を読んだとき、ここで笑ってはいけないと思いつつ、「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」で笑ってしまいました。

「これはお金になるから駄目」(by 有馬頼義夫人)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7799
 

「栄光の蛸のやうな死」の謎

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 6日(木)23時11分14秒
編集済
  >筆綾丸さん
『絹と明察』(講談社、1964)を読み始めたのですが、今は頭が完全に経済史、しかもマルクス経済学にもとづく思弁的な経済史ではなく、にわか仕込みとはいえ、数量データを重視するサバサバとした経済史の勉強モードなので、並行して三島由紀夫の華麗な文章を読むのはいささかつらいですね。

ツイッターで「絹と明察」を検索したら、

-------
「意識が高い」という言い回しは最近出来たものだと思っていたら、三島の『絹と明察』(64年)で使われていた。
https://twitter.com/FumitakeKajio/status/985802861559693312

というツイートを見つけたので、以前、丸ちゃんに「意識高い系」とか言われたことを思い出して笑ってしまいました。

丸島和洋氏のご意見
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb
書評:丸島和洋著『戦国大名の「外交」』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0ac71f315a069919f1402e7c924d889d

「意識が高い」を探してみたところ、p121に、

-------
 駒沢紡績の男子寮には、さすがに女子寮のやうな、手紙の検閲はなかつた。もしそんなことをすれば、「意識の高い」男子工員を、無用に刺戟することになるからである。
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とあり、左翼的な思想の持ち主を揶揄する表現だったようですね。
また、「松岡正剛の千夜千冊」の「意表篇1022夜」には、

-------
 三島がこれを書いたのは三九歳のときである。自決するのは昭和四十五年(1970)の四五歳の十一月だから、死の六年前のことになる。その六年間のあひだ、小説としてはずつと『豊饒の海』だけを書きつづけ、その他は、一方では自衛隊に体験入隊して「楯の会」を結成し、随筆スタイルでは『英霊の声』『太陽と鉄』『文化防衛論』などを書いただけだつた。
 あきらかに三島は「栄光の蛸のやうな死」の準備に向かつてゐたのだ。その準備は『絹と明察』の翌年の四十歳から始まつてゐた。四十歳ちやうどのとき三島が何を始めたかといへば、『憂国』を自作自演の映画にし、『英霊の声』を書いたのである。しかし、かうした準備は三島のこれみよがしの誇大な行動報告趣味からして誰の目にもそのリプリゼンテヱションがあきらかであつたにもかかはらず、その姿は滑稽な軍事肉体主義か、ヒステリックな左翼批判か、天皇崇拝の事大主義としか写らなかつた。
https://1000ya.isis.ne.jp/1022.html

とありますが、「栄光の蛸のやうな死」とは何なのか、三島を殆ど読んでいない私には謎の表現です。
 

高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 6日(木)14時26分5秒
編集済
  遥か昔の左翼学生運動の話など下らないといえばそれまでなのですが、中村政則氏のような「古老」の文章は、それなりの時代背景を知らないと理解できない部分が多いので、高村直助氏の回想の紹介も全く無駄ではないと思っています。
ということで、続きです。(p35以下)

-------
 事件のすぐ後、六・一八でした。法文一号館の25番教室で追悼集会をやった後、国会に向けてデモが東大から三千人出たのです。先導車には、宝月圭吾先生と伊藤隆さんが乗っていました。あの時責任者になったのでしょう。それで、威勢のいい連中などは、「こんな葬式デモでは駄目だ」などと文句を言っていた。
上山 伊藤先生はどのような立場だったのですか。
高村 よく分からない。その時はもう国史学科全員が、とにかく何か、愛する人を亡くしたような雰囲気になって。助手も含めてね。やはり、あんな真面目な人なのに警察はひどいと思ったのですね。当日の写真も当時の『国史研究室』に出ていますが、オーバードクターを含めほとんど全員が写っています。
 その後何年続いたのか、六月十五日に東大から追悼デモをやった。国史学科主催といっても、せいぜい二、三十人ですけれども。私は二年間、警視庁に許可をもらいに行きました。三年目は三鬼清一郎さんがやってくれた。僕が嬉しかったのは、石母田正さんが来てくれたことでした。弟が共産党から立候補している人で、当時党は「トロツキスト樺美智子」だったですからね。
-------

人情の機微を政治に優先させるところは石母田正氏の懐の深さを示していますね。
「共産党から立候補している」弟は石母田達氏で、政治家である同氏の回想には少し注意しなければならない点があることは以前書きました。

石母田正氏が母に海に突き落とされかけた?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7201
「石母田五人兄弟」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7203
「札幌番外地」(by義江彰夫)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7228
緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8105

ま、石母田兄弟はともかくとして、「反動」歴史学者の代表格と思われている伊藤隆氏が樺美智子追悼デモの先導車に宝月圭吾と一緒に乗っているというのは、今から見れば奇妙な感じもしますが、伊藤隆氏の『歴史と私─史料と歩んだ歴史家の回想』(中公新書、2015)を見たところ、伊藤氏は追悼デモを纏め上げるのにずいぶん活躍されたようですね。
 

高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 5日(水)10時18分50秒
編集済
  前回投稿で「持ち前の要領の良さ、逃げ足の早さを生かして」と書いたのは私の多少悪意を含んだ解釈で、高村氏の表現ではありません。
経済史とは全然関係ありませんが、以前、この掲示板でも樺美智子について少し触れたことがあるので、樺美智子伝説の一資料として、少し高村氏の表現を引用してみます。

「かの学園紛争」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7379
「国史学科」の樺美智子氏
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7381

まず、高村氏の安保闘争前の状況ですが、

-------
【前略】
高村 その頃からだんだん反党的になってきて、あれは五八年の秋ですかね、それには僕は行かなかったけれども、学生党員達が代々木の党本部を占拠してしまった。結局、東大学生細胞が、ほぼ丸ごと分離してしまったのです。
上山 あのブントですか。
高村 残ったのは本当に数人だけ。もちろん幽霊党員はそこで消えたと思いますが。僕は名指しで除名されてはいない。「党章」制定に伴う新たな党員章を交付されなかっただけです。大口さんなどは麗々しく除名宣告が『赤旗』に出た。
 僕はLCではやはり情宣担当で、当時、年に四回でしたが、『マルクス・レーニン全集』という機関誌を出していたのです。薄っぺらいけれども大判の。結構、全学連関係者には読まれていたのですけれども、最後の編集長は私なのです。それは日本共産党の東大学生細胞の機関誌だった。ブントに移行したら、もう出ないわけです。
 ただし僕はブントになってから、実際にはほとんど活動していない。「体調が悪い」などと言ってサボってしまったね。事務所にも行ったことがない。【中略】
 それと、正直言って、社会主義は歴史の必然だから、それを推し進める責務があるというのは本当かという疑問が膨らんできていた。【中略】
 ですからだんだん足が遠のいた。何があったかというと、時々臨時で使われるのです。命令ではないのだけれども、「お前は学籍がないので大学に処分されることはないから、ビラまきをやれ」などと。
-------

といった具合です。(p32以下)
「ブント(共産主義者同盟)」は今や古語ですが、青木昌彦氏(スタンフォード大学名誉教授、1938-2015)が極めて有能なブントの指導者で、その経歴がアメリカ渡航の障害になった、などという話は経済学に全く縁のない私も耳にしたことがありました。
なお、「上山」は上山和雄氏(国学院大学名誉教授、1946生)ですね。

共産主義者同盟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F

ま、それはともかくとして、樺美智子(1937-60)の登場する場面に移ります。

-------
老川 以前、樺美智子さんと一緒にデモに行かれたという話を聞きましたが。
高村 樺さんね、彼女は二年下でしょうが、極めて生真面目な女性で、本当に裏も表もない。逆に言えば、思い込んだら命懸けというようなところがあった。
上山 それは先生が大学院に入られてから。
高村 六・一五事件は一九六〇年でしょう。あの年の四月に僕は大学院に入っています。だから、彼女が特に頑張ったのは、その少し前からだけれども、国史の学生で文学部学友会委員長をやったのが、一年下の栗山君と二年下の道広君で、道広君と樺さんが同期。
 それで、彼女が特にラジカルになったのは、羽田事件で逮捕された後か先か、選挙に落ちてしまったのだ。要するに学科二人の学友会委員に対立候補が出てきて、そちらは、第四インター系の女性なのだけれども、負けてしまったのです。それがかなりショックだったのではないかと思う。
 しかし樺さんは、生きていたら、大学院を受けていたのではないかと思いますけれどもね。最後に、『明治維新史研究講座』の地租改正の部分が机の上に開いてあったというから。その日に大口さんが卒論の相談を受けているのですね。
上山 そうですか。
高村 午前中に授業を受けて卒論の相談をして、午後に国会デモに行くという、そのような人だったのです。その日、僕は見物人で国会の周りをうろうろしていたら、彼女がデモ隊の中にいて、「今日は突入するの」、「もちろんやります」などと言葉を交わした。この日は真夜中までいましたね、現場に。危ういところ、僕の一人後ろまで警官の鞭でやられた。
上山 鞭ですか。
高村 指揮棒の先が鞭のようになっていて、あれでピシッとやった。十二時過ぎたら凶暴に、要するにもう報道陣がいなくなって暗くなってきたから。道路脇に車が停まっていて、僕は小柄だからその隙間から抜け出した。僕らは一〇人ぐらい、知り合いのアパートに逃げ込んで、要するにメーデー事件のことが頭にあったから、山手線の駅に行くのは避けて夜明かしした。
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途中ですが、ここで切ります。
なお、「老川」は老川慶喜氏(立教大学教授、1950生)です。

>筆綾丸さん
『絹と明察』は面白そうですね。
早速、読んでみます。

 

絹と明察

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年12月 4日(火)17時46分47秒
編集済
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E4%BB%81
https://www.jcer.or.jp/about-jcer/enjyoji
小島武仁氏は、本年度の円城寺次郎記念賞を受賞した優秀な経済学者ですが、数学に挫折して経済学に転じたようです。武仁(ふひと)は、四柱推命ではありませんが、(藤原)不比等を踏まえているのでしょうね。
主な論文はすべて英文ですが、私にはひとつも理解できないだろうな、と思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B9%E3%81%A8%E6%98%8E%E5%AF%9F
紡績業を専門とする経済学者は誰も読まないでしょうが、『絹と明察』は三島の小説の中で好きな作品のひとつです。

追記
Fuhito Kojima のツイートを暇潰しに読むと、『昆虫すごいぜ!』の香川照之の書き込み(11月8日)を発見しました。文学部出身らしいパセチックな(?)文章ですね。
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な、なんと…深夜0時撮影終わりで自宅に帰ると、ベランダの壁でハラビロカマキリが産卵しているではないか!
去りゆく秋の物悲しさそのままに、黒く傷付いたその翅の揺らめきは、何としても次の世代の命を残すために、最後の力を振り絞っている執念のようにも思える。
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高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 4日(火)10時38分54秒
編集済
  経済史を研究している学者には経済学部出身と文学部出身の二つのグループがあって、数学が得意そうなのが前者、ダメそうなのが後者という印象があったのですが、中林真幸氏は意外なことに後者(東大文学部国史学科卒)ですね。

中林真幸(1969生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9E%97%E7%9C%9F%E5%B9%B8

近代紡績業研究で有名な高村直助氏(東大名誉教授)も後者ですが、高村氏の『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(日本経済評論社、2015)を読んでみたところ、けっこう面白い読みものでした。

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生い立ちから学生時代、大学院・東大社研・横浜国立大学を経て、東大文学部時代、横浜とフェリス女学院時代へと至る軌跡を、多くの出会いなど知られざる話も交えて語る。

目次
一 生い立ちから学生時代まで
二 大学院・東大社研・横浜国大
三 東大文学部時代
四 横浜とフェリス

http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2396

直助というお名前は学者には些か珍しい感じがしますが、大阪で「和装小物と風呂敷の卸」をしていた父親の「奉公人時代の名前」だそうですね。

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ついでに言っておきますと、私の直助という名前は、父親の奉公人時代の名前なのです。山本有三の『路傍の石』の主人公吾一は、丁稚奉公をした時、最初は吾吉でしょう。親父は本名は武ですが「直」という字をもらって直吉、手代になって直七、番頭としては直助となったのです。だから誰かに跡を継がせたいと思っていたのですが、一方では四柱推命に凝っていて、姓名判断ですね。生年月日との相性が、上の兄三人はみんな合わなくて、私になってようやく合った。だから、跡継ぎを期待していたらしいのです。
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とのことで(p5)、出世魚みたいに名前が変って行くというは商家ならではの面白い習慣ですね。
商売人に学問は要らないというのが常識だった時代、父親には特別な学歴はなかったそうですが、子供の教育には熱心だったようで、一番上の姉は神戸女学院、長男が京大文学部哲学科、三男は京大農学部、本人が東大文学部、そして妹が女子栄養短期大学だそうです。
二男だけ「もともと大学に行く気がなくて、山を見たかったということで信州大学を受けに松本に行って、白紙で答案を出して」(p7)帰ってきて、そのまま商売の道に入ったとか。
また、「三番目の兄は、京大の農学部へ行ったけれども、これは山岳部と言った方がいいほど山に凝って」、「桑原武夫先生についてヒマラヤへ行くなどしていた」のだそうです。
京都大学学士山岳会サイトを見ると、「京大学士山岳会とカラコラム・クラブにより構成された、日本パキスタン合同サルトロ・カンリ遠征隊が1962年7月24日に初登頂に成功した」というサルトロ・カンリ(7,742m)の初登頂者三人の中に高村泰雄という人がいるので、この人でしょうね。

https://www.aack.info/ja/archive/

大阪の裕福な商家に育ったにもかかわらず、直助氏は1956年秋、共産党に入ったそうですが、まあ、当時は「文学部だけで共産党在籍者が一〇〇人以上いる」(p29)時代だった訳ですね。
「東大学生細胞は、文教地区委員会に属している。細胞委員会、リーディングコミッティー(LC)が指導する。十二、三人いて、私もその一人」(p31)だったにも拘らず、持ち前の要領の良さ、逃げ足の早さを生かして警察には一度も逮捕されなかったそうです。
共産党の方は58年、「東大学生細胞が、ほぼ丸ごと分離」してしまったときに、名指しで除名はされなかったものの、「「党章」制定に伴う新たな党員証を交付されなかっただけ」(p32)で、離党したそうですね。
ちなみに「大口さんなどは麗々しく除名宣告が『赤旗』に出た」そうですが、これはお茶の水女子大学名誉教授の大口勇次郎氏ですね。
共産党を離れた後も政治活動は多少やっていて、国史学科の二年下の樺美智子氏と一緒にデモに行ったこともあったそうです。
ま、そんな高村氏が、東大社会科学研究所・横浜国立大学を経て、1971年、東大紛争で荒れ果てた母校に「文学部国史学科助教授」として戻ってきた後は、立場が一転して不良左翼学生を取り締まる側になったので、林健太郎や堀米庸三には「君も、大分大人しくなったらしいね」とからかわれたとか。(p79)
 

「植民地以下的=印度以下的な労働賃銀」(by 山田盛太郎&中村政則)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 3日(月)11時20分18秒
編集済
  「インド以下的低賃金」に関する部分も、その内容の紹介だけ先にしておきます。(p168以下)

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インド以下的低賃金

 心身ともにすりへるような重労働のあげくに女工の得た賃金は、山田盛太郎によって「植民地以下的=印度〔インド〕以下的な労働賃銀」(『日本資本主義分析』)と規定されたようなものであった。ただ、山田のこの規定については、向坂逸郎が実証上の難点があると批判し、この点をめぐって学界ではいくつかの論争がくりひろげられたものである。その後、名和統一の『日本紡績業と原棉問題研究』と高村直助の『日本紡績業史序説』上巻で、日印紡績職工の賃金比較がこころみられ、やはり日本の紡績職工の賃金はインドよりも低いと証明された。
 明治三一年(一八九八)当時、日本の紡績職工の一か月分の平均賃金は、男工が六円八三銭、女工が四円五銭であるのにくらべて、インドは男工が中心であるとはいえ、八円前後から最高九円一八銭であった。この賃金の低さは、欧米先進国やインド綿業資本家から、たえず非難と軽蔑をむけられてきたものであり、とくに、昭和恐慌後の為替ダンピングの波にのって日本綿糸布がアジア市場に殺到したときには、世界的非難の的となったものであった。日本では長時間労働と低賃金が、なにゆえ可能であったのだろうか。この点について、もと農商務省官僚で大日本製糖社長酒匂常明の指摘は、それが資本家の言であるだけに興味深い。

斯〔か〕かる安い労力者は何処〔どこ〕から得られませうか。皆農村から来るものであります。(中略)己〔おの〕れの小作して居る、或〔あるい〕は所有して居る所の田畑を耕作して、尚〔な〕ほ労力余り有ると言ふ所の分子が即ち此の都会、或は製造地に来まして職工労働者となる。(中略)一家の維持、或は両親・兄弟の賄〔まかない〕と言ふものは、農村で既に出来て行くのである。唯〔ただ〕、その家族の一分子が工業の労働に従事するのでありますから、其の人一人生活し得る収入を取れば宜しいのであります。之が即ち労銀の安い所以〔ゆえん〕である。是〔これ〕は実に我国の発展上商工業と言ふ関係に於て、此〔こ〕の農業の非常に必要なる原動力であると言ふことが分る(社会政策学会編『関税問題と社会政策』)

 紡績女工が猫の額ほどのせまい土地を耕作しているにすぎない貧農の娘であったということ、ここに出稼ぎ型賃労働の低賃金の秘密があったことを、酒匂は見ぬいているのである。絶対的貧困の農村は、潜在的過剰労働力の貯水池であった。いくら女工を使いすてても、募集地を拡大しさえすれば、あらたな女工の補給はなんとかなった。農村の慢性的窮乏と、過剰労働力の多量な存在、これこそ紡績資本の好餌にほかならなかった。
 さらに、農村の家父長的家族制度のもとにおける、婦人の社会的地位の低さが、それに加重されていた。三菱経済研究所編『日本の産業と貿易の発展』は、「農村と都会の工業との間に於ける直接の且つ永続的の労力需給関係は我国の家族制度が其の基礎となって始めて円滑に行はれる」と指摘している。家父長を頂点とし、その妻・子女にいたる序列的で家父権のつよい家族関係のもとでは、困窮・借金に苦しむ家長をたすけるためには、ばあいによっては娼婦になってまでも親に孝をつくすことが子女のつとめであり、また、それが美徳とされる価値観が支配していた。優等女工を親孝行とほめそやすには、あまりに悲惨で、あまりに残酷な「美徳」の強制が行なわれていたといわなければならない。
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ということですが、これらは全て紡績業に関する記述ですね。
紡績業の場合、その原料の綿花は全て輸入品なので、農村との関係は製糸業とは決定的に違います。
ま、そのあたりは後で論じたいと思います。
なお、名和統一『日本紡績業と原棉問題研究』は1937年(昭和12)、高村直助『日本紡績業史序説』は1971年(昭和46)、社会政策学会『関税問題と社会政策』は1909年(明治42)、三菱経済研究所編『日本の産業と貿易の発展』は1935年(昭和10)刊行の書籍ですね。
いつの時点の見解かはけっこう重要ですから、中村君も出版年くらい書いてくれればよいのに、不親切だなあ、と感じます。
 

「おーい中村君」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 3日(月)10時15分3秒
編集済
  中村政則は、諏訪の製糸工女全体に占める割合で1903年(明治36)に65.2%、1918年(大正7)に59.5%とダントツの一位である長野県を含め、工女の出身が貧農だ貧農だと騒ぐのですが、ちょっと不思議なのは、中村は長野県の農民がいったいどんな農作物を育てていると思っているのか、という点です。
長野県は江戸時代から養蚕が盛んだった土地柄ですが、明治に入ってからの製糸業の発展にともない、長野県全体の農地がどんどん桑畑になり、自作農はもちろん小作農民も養蚕に精を出すようになります。
そして、大雑把に言って生糸の製造原価の8割強は原料繭の購入代金であり、出荷額と比較しても、その8割弱が原料繭の購入代金です。
ということは、諏訪の製糸業者が生糸をガンガン売りまくると、その8割弱が養蚕農家に廻ってくる訳ですね。
もちろん長野県にも地主制は存在していましたから、製糸業者への原料繭の売主が地主の場合には、実際に養蚕に関わる小作農民に廻ってくるお金は地主の取り分を差し引いたものになり、場合によっては微々たるものなのかもしれません。
しかし、それは地主・小作農民間のパイの配分の問題であり、パイ自体はけっこう巨大なものが長野県の農村に廻ってくる訳です。
とすると、長野県のかなり多くの農家は原料繭を諏訪の製糸業者に出荷して儲け、更に子女が諏訪の製糸工女になって高賃金を得て、生糸バブルでウハウハだったのじゃないかな、などと想像されます。
少なくとも1893年8月26日の『信濃毎日新聞』の記事は、そうした状況を想定しないと理解しづらいですね。

「唯一の目的は嫁入支度に在り」(『信濃毎日新聞』1893年8月26日)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9703

ま、私も長野県の地主・小作関係については全く無知なので、中村がそれをどのように認識しているのかを含め、少し調べてみたいと思います。

若原一郎「おーい中村君」
作詞:矢野亮,作曲:中野忠晴
https://www.uta-net.com/movie/43671/
 

「これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(by 中村政則)(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 2日(日)12時05分45秒
編集済
  続きです。(p92以下)

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 このような事態は、大正期にはいってもかわらない。長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県の農業状態を見ると、いずれも、五反以下の零細農民の比率の高い県(山梨県は五反以下の層が四六・八パーセントで最高)か、小作および自小作農の多い県(山梨・新潟・富山県では全戸数の七六パーセントをしめる)か、農閑期に適当な副業をもたない県(新潟・富山県)ばかりである。小作農民あるいは五反以下の自小作農民の家庭が、女工の主要な出身階層であったと考えられるのである。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「長野県製糸業全体に女工を供給している上位五県」は、大正7年には、

長野 59.5
山梨 18.5
新潟  9.9
富山  5.7
岐阜   5.0

となっていて(単位は%)、「その他」は1.4%ですから無視してよいレベルですね。
そして中村は約6割と一番人数の多い長野県については特別なコメントをしていませんが、諏訪郡を含む長野についても「零細農民」と捉えているとすれば、私は若干の疑問を抱きます。
ま、それは後で検討するとして、続きを見ると、

-------
大正期に叔父の経営する進工社※(ヤマジョウ)に勤めて、女工募集の仕事をしたことのある明治三三年生まれの山岡直人は、当時のもようをつぎのように語った。

工女はたしかに貧しい農家の出が多かったようです。とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった。畳を敷いた家は一軒もなく、みんな菰を敷いているだけでした。大正末期から昭和初期の不況のころにかけては、とくに貧農の前借がひじょうに多かったのです。私らとしては、あまりに貧しい農家には前貸ししないように避けたのですが、ある農家にいったときはたいへんでした。家中で泣いて、おたのみ申す、おたのみ申すというのです。しまいには親類中あつまって、ぜひ前貸ししてくれろという。断るのはたいへんなことだった。一年がまんすれば年末には金がゆくのだが、貧しいのでそれをまてない。まえで借りているから、娘が帰るときには空手だ。だからまた前借りしなければならない、というような悪循環でした。それでも、これらの農家では主食は大根と玉蜀黍で、こっち(岡谷)へくれば粗悪な等外米ではありましたが、それでも米を三度三度食べられるから、娘たちはよろこんでいたくらいです。

 この話には誇張はないと思う。山梨県は甲州財閥の名で知られているように、若尾逸平・根津嘉一郎などの地方財閥を生みだすとともに、大地主の多い県であった。貧富の差ははげしく、娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた。山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって、信州寄りの北巨摩郡や中巨摩郡からは、たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていたのである。
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ということで、悲しいエピソードには違いないのですが、素材も中村の解説も山梨県に偏り過ぎではないか、という印象を受けます。
山岡直人なる人物も「とくに山梨県の農家は、長野県の農家より貧しかった」と言っていて、全体の6割と一番重要な長野県については、中村のように「娘たちの製糸資金にたよらなければ生きてゆけない貧農がたくさんいた」とは認識していないようですね。
また、中村は「山梨県自体、有数の製糸県であったが、県内の工場だけでは彼女らを雇いきれず、したがって」と述べるのですが、まあ、普通に考えれば、山梨県の工場より諏訪の工場の方が賃金が高かったから「たくさんの女工が岡谷へ出稼ぎにでかけていた」のではないですかね。
 

「これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(by 中村政則)(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 2日(日)11時19分41秒
編集済
  それではまず、中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)から「女工の出身地」と題する部分を紹介します。(p90以下)

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 明治三〇年代の製糸女工の実態を知るうえで欠かすことのできないのは、明治三六年(一九〇三)に農商務省商工局工務課の工場調査掛が刊行した『職工事情』(全五巻)である。この調査は、工場法の制定を審議するにあたって、まず労働者の実態を政府がよくつかんでおく必要があるとの認識からおこなわれたもので、付録には各府県からの労働実態アンケートや関係者の談話などがおさめられている。この報告書の主要部分は、『綿糸紡績職工事情』『生糸職工事情』で、女工にかんする実態が数多くのデータをもって克明に記録されている。
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『生糸職工事情』を実際に読んでみると、本文は50ページほどで、「克明」というのは若干大袈裟な感じもします。
また、単に製糸業者から聞き取った内容をそのまま書いただけで、しっかり考察した訳でもなさそうな記述も多いですね。
ま、そうはいっても、もちろん貴重な記録ではあります。

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 これによれば、製糸工場の労働者の九〇%以上が女工であり、しかもそのほとんどは未婚の娘たちであった。「生糸工女ノ多数ハ十六、七歳乃至廿一、二歳トス。而シテ多クハ未婚者ニシテ、稀ニ既婚者ヲ見ルノミ。彼等ノ工女トナルヤ十六、七歳ニ始マリ、結婚期ニ及ベバ乃チ退場(退職)スルヲ常トス」とあるように、女工の多くは貧しい農家の娘たちであって、いわば嫁入りまえの口べらし、あるいは家計補助的な賃金を得るために糸引きに出るのがふつうであった。女工には通勤女工と寄宿女工との二種類があったが、どちらかといえば寄宿女工は大工場に多く、通勤女工は小工場のほうに多かった。すでに述べたように、遠隔地募集がおこなわれるようになると、しだいに出稼ぎ型の寄宿女工が支配的となっていったようである。
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「女工の多くは貧しい農家の娘たちであって、いわば嫁入りまえの口べらし、あるいは家計補助的な賃金を得るために糸引きに出るのがふつうであった」とありますが、『生糸職工事情』には女工の出身階層についての記述は特になく、これらは全て中村の解釈・主張であって、ちょっと紛らわしい書き方ですね。

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 岡谷製糸業における女工の出身地は、次ページの表のように、明治三十年代にすでに他郡出身者が諏訪郡をうわまわっている。そして、長野県内ではとくに上伊那郡と東筑摩郡出身者が多く、県外では山梨・岐阜の両県で全女工の三〇%前後が供給されている。大正期にはいると新潟県と富山県出身の女工がふえてくるが、明治期にはまだ全女工の四、五パーセントをしめるにすぎない。これらの女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった。昭和四〇年、私は明治四三年の山梨家の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがあるが、それによると八一パーセントの女工が三反以下所有の零細農家から析出されており、これを七反歩で切れば、じつに九二パーセントの女工がこれら零細農家から送り出されている。
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中村が『平野村誌』下巻から作成した「岡谷に働く製糸女工の出身地」という一覧表を見ると、明治36年(1903)と大正7年(1918)の「長野県内」「長野県外」からの人数が書かれています。
「長野県内」は郡毎に細分化されていますが、「長野県外」は県名のみで、山梨・新潟・富山・岐阜の四県と「その他」となっています。
そして、「長野県内」の小計は明治36年には2,689人で全体の65.2%、大正7年には14,589人で全体の59.5%ですね。
また、総計は明治36年には4,125人、大正7年には24,526人と、僅か15年の間に約6倍になっており、諏訪の製糸業の膨張のすごさが窺われます。
 

「唯一の目的は嫁入支度に在り」(『信濃毎日新聞』1893年8月26日)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 1日(土)21時18分49秒
編集済
  二つ前の投稿で、

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(1)については、少し前の「女工の出身地」という部分で、『生糸職工事情』から「女工の多くは貧しい農家の娘たち」(p91)だったとか、岡谷製糸業における「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(同)などと言っているのですが、『生糸職工事情』にはそんなことは書かれておらず、また、中村は「明治四三年の山梨県の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがある」(同)だけで、日本全国はもちろん、諏訪の製糸工場に限っても、「製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること」は全然証明されていないですね。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9700

と書いたことは、対象を黒く描いてからその黒さを批判するというやり方であり、あまり芳しいものではなかったので、公平を期すために中村の言い分は全て紹介しようと思います。
ついでに「インド以下的低賃金」に関する部分(p168以下)も紹介します。
まあ、説教臭くてビンボー臭い話がちょっと続くことになりますが、事前の毒消しとして、そうした左翼版の勧善懲悪物語とは異質な史料をひとつ紹介しておきます。
中林真幸氏の「製糸業における労使関係の形成」(『史学雑誌』108編6号、1999)からの引用です。(p21以下)

-------
  三 優勝劣敗・賞罰必至・自働自営

 最後に、諏訪製糸業と社会との結節点としての、工女の生活と心性について検討しよう。

史料二〇 〔「諏訪製糸工女」、『信毎』一八九三年八月二六日〕

唯一の目的は嫁入支度に在り 女子十一二才より二十才位に至るまで、貴賤貧富の別なく殆ど製糸工女とならざるものなく、而して其得る所の金銭は、未来に於ける事業の資本となるにあらずして、皆之れ変じて不生産的の虚飾品、即ち彼等の嫁入支度となる、希望は辛苦に克つ、彼らが星を戴いて出で月を踏んで帰へり太陽を見ること稀に終日孜々として稼ぎ溜むる所の目的は、一に彼等が他に嫁入る時に着飾る綾羅を得んが為めなり、左れば此地方に於て婦女が熱心に語る所のものは嫁入支度の多少にして、母親の十七八才に至れる娘を持てるものは、明け暮れ娘の支度を案じ煩ひ殆んど寝食を忘れて心配し、其支度を多くせんがためには、故らに嫁期を延して二十才以上となし(娘も亦支度が少なければ世間へ対し外聞悪しとて動かず)、中等の家にても箪笥三個、長持一個、振袖拾枚(一枚金五円位より二三十円までにて大抵十円前後が多し)を持たせて遣るを通常とし、尚ほ追々華奢に趨むく風あり。

 諏訪郡の農家の娘が製糸工女となる動機が「嫁入支度」にあり、そのために長時間労働を甘受するという指摘は、工女の「家」に対する「没人格的融合関係」の指摘とも合致する。製糸家が盆暮に工女に「贈物」を与える場合にも、「帯」、「着物」、「箪笥」、「長持」といった「嫁入支度」の要求に積極的に対応した(『信毎』一八九五年一一月二九日)。
-------

この新聞記事は「百円工女」続出の1919年(大正8)ではなく、その四半世紀前のものですね。
中村の「女工の多くは貧しい農家の娘たち」「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」などという主張とは矛盾しそうですが、果たして中村の主張が基本的には正しくて、上記は諏訪だけの極めて例外的な事象なのかが問題となりそうです。
なお、<「没人格的融合関係」の指摘>は、注37を見ると東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度』(東大出版会、1990)p55の見解ですが、中林氏が東條氏に賛成しているらしいのはちょっと意外ですね。
東條由紀彦氏は少し変わった、癖のあるタイプの研究者で、私は中林氏の『近代資本主義の組織』を読む前に『製糸同盟の女工登録制度』を四苦八苦しながら読んでしまい、順番を間違えたなとちょっと後悔しました。

東條由紀彦(明治大学サイト内)
https://www.meiji.ac.jp/keiei/faculty/01/toujyo.html
 

「糸目テトロ」の謎

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 1日(土)18時11分47秒
  >筆綾丸さん
>ティトラツィオーネとは糸の等級を決める作業のこと

山本茂実『あゝ野麦峠』を見たら、

 工女殺すにゃ刃物は要らぬ
 糸目テトロ(検査)でせめ殺す

とありますね。(角川文庫版、1977、p95)
中村がテトロを「繊度」としているのに対し、山本は「検査」であり、また、「しめ殺す」ではなく「せめ殺す」ですね。
そもそも「糸目」とは何かというと、中林『近代資本主義の組織』によれば「原料繭1杯(4升=7.216リットル)当たりの繰糸量」です。
中林著から「第2部 工場制工業の発展」「第5章 賃金体系による誘因制御」の関連部分を引用してみると、

-------
3 近代製糸業における賃金決定の仕組み

 それでは, 諏訪郡の近代製糸業における女性繰糸労働者の賃金決定の概要を確認しておこう. 労働者は寄宿舎に生活し, 食費をはじめとする生活費は企業が負担する. 労働者の賃金は, 年度末(12月)に一括して支払われる. この賃金を決定するために, 1900年代半ば以降, 企業は各女性繰糸労働者について,

・労働生産性:「繰目〔くりめ〕」. 1労働日(人工〔にんく〕)当たりの繰糸量.
 単位は匁(3.75グラム).
・原料生産性:「糸目〔いとめ〕」. 原料繭1杯(4升=7.216リットル)当たりの繰糸量.
 単位は匁. いかに原料繭を節約しているかが問われる.
・生糸の繊度の均一性:繰糸された生糸の繊度(太さ)のばらつき. 繊度の単位
 「デニール」によって計られる. いかに繊度の均一な生糸を繰糸しているかが問われる.
・生糸の光沢:繰糸された生糸の光沢の良し悪し.

の4項目の検査結果を記録するようになった. 原料生産性, 繊度の均一性, 光沢はいずれも丁寧な繰糸作業によって向上し, 労働者の能力と努力水準を所与とすれば, 労働生産性とはトレード・オフの関係にある. それらは半月ごとに項目別に集計され, さらに12月下旬の閉業後に合計されて年間成績が算出された. この成績点から, 相対評価に従って賃金額が決定される. すなわち, 同一期間, 同一業務に従事する全労働者の平均成績に対する, 各労働者の成績の総体的な優劣によって, 各労働者の賃金額が決定された. 【後略】
-------

ということで(p248)、糸目と繊度(太さ)は関係ありません。
そして、山本の「検査」で意味は通り、筆綾丸さんご指摘の「ティトラツィオーネとは糸の等級を決める作業のこと」と整合性も取れるので、こちらが正しいようですね。
うーむ。
1976年の中村助教授、何故にここまで雑なのか。
時間と手間を無駄にさせられて「しめ殺」したくなる、とまでは言いませんが。
 

テトロ

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年12月 1日(土)12時28分16秒
  小太郎さん
いえいえ、こちらこそ勉強になります。

https://ja.glosbe.com/it/ja/titolo
La titolazione è l'operazione che determina il titolo di un filo o di un filato.
は、ティトラツィオーネとは糸の等級を決める作業のことである、と訳せ、titolo 本来の意味は等級で、糸とは無関係ながら、製糸業の世界でテトロに繊度という意訳が定着したのでしょうね。
 

「インド以下的水準にある」研究者たち

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年12月 1日(土)12時23分3秒
編集済
  中村政則は「女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ」などと頻りに製糸工女が「低賃金」であったと強調するのですが、そもそも何と比べて低いのか。
普通の論理的思考力のある人だったら、諏訪の笠原製糸場の「女工の賃金用途」を縷々分析した後に「低賃金」について述べている以上、製糸工女が同じ製糸工場で働く男子労働者より「低賃金」であったとか、他の地域の工場で働く製糸工女より「低賃金」であったとか、あるいはもっと一般的に、同年代の他の職業に従事する女子労働者より「低賃金」であったとか、比較の対象を明示するはずですが、中村が何と比較して「低賃金」と言っているのか、私には理解できません。
中村は山田盛太郎の『日本資本主義分析』に言及して、「(山田が)女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)」などと言っているので、インドの紡績女工と比較しているのかな、とも思いますが、そもそもインドと比較して何の意味があるのかが分かりません。
山田盛太郎や中村は、自分がインドの大学教授・助教授より高い賃金をもらっていることが「判明」すれば喜ぶのか。
逆にインド以下であることが「判明」したら嘆き悲しむのか。
まあ、インドへの言及とかになると、「講座派」のディープな世界に通暁している特殊な研究者以外にはさっぱり理解できないし、説得力もないですね。
さて、改めて中村の頓珍漢な主張をできるだけ分りやすく理解しようと努めてみると、中村は、「女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあること」は山田盛太郎に丸投げして「証明」したことにした上で、

(1)製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること
(2)その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していること

を自分が「証明」したと言いたいようです。
(1)については、少し前の「女工の出身地」という部分で、『生糸職工事情』から「女工の多くは貧しい農家の娘たち」(p91)だったとか、岡谷製糸業における「女工は、いずれも小作ないし自小作に属する貧農の出であった」(同)などと言っているのですが、『生糸職工事情』にはそんなことは書かれておらず、また、中村は「明治四三年の山梨県の一製糸工場における女工の出身階層をしらべたことがある」(同)だけで、日本全国はもちろん、諏訪の製糸工場に限っても、「製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であること」は全然証明されていないですね。
また、(2)については、たかだか笠原製糸場という諏訪の一工場の「女工の賃金用途」を調べただけでずいぶん壮大なことを言っているのですが、阿呆としか思えません。
中村が笠原製糸場の「女工の賃金用途」を分析して分かったことは、せいぜい女工が得た賃金が家計内でどのように配分されたか、だけであって、笠原製糸場の女工が「低賃金」だったどうかの問題とすら全く関係ありません。
まあ、普通に考えれば、少なくとも1919年の賃金はどう見ても「高賃金」だと思いますが、中村は「大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった」などと言いながら、素通りしていますね。
以上、私は現在の研究水準に照らして、中村政則が古臭いことを言っているから駄目だ、と批判しているのではなく、1976年に中村が書いた文章だけを見て、何の論理性もなく、支離滅裂だなと思っている訳です。
 

一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」第二部

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年11月30日(金)13時56分10秒
編集済
  11月27日の投稿、「設問:一橋大学名誉教授・中村政則の「カラクリ」について」においては、

中村の「カラクリ」の内容と、中村がこのような「カラクリ」を「考案」した理由について考察せよ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9693

と書きましたが、そこに引用した文章だけでは、後者はちょっと分からないですね。
そこで、改めて前回投稿で紹介した部分の続きを引用してみます。(p99以下)
p99には「女工の賃金用途」というタイトルの一覧表があって、「平均額は受給者の平均額。笠原組「工女試験勘定帳」より作成」との説明があります。
この表を全て紹介するのは煩瑣に過ぎるので省略しますが、明治24(1891)、明治41(1908)、明治42(1909)、大正5(1916)、大正8(1919)の各年次と出身地別に「手付金」「前貸金」「内渡」「年内内渡」「盆」「その他」「残額」「賃金総額」が計上されていて、「賃金総額」から「1人平均額」(円)だけを抜き出すと、

明治24(1891) 各県 17.70
明治41(1908) 山梨 50.28
明治42(1909) 各県 43.59
大正5(1916)  岡谷 61.66
        山梨 81.19
大正8(1919)   岡谷 156.65
        山梨 129.44

となっています。
本文でも言及されているように、1919年の数字は突出していますね。
では、本文を紹介します。

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賃金と小作料

 では、このような苛酷な賃金制度のもとで、女工は一年間にどの程度の賃金を得、そのうち、女工自身が使える金額はどれほどであっただろうか。笠原製糸場を例にとった上の表では、用途をこまかく七項目にわけてあるが、大別すれば、

(1)手付金・前貸金・内渡〔うちわたし〕・年内内渡─ほとんどは親の手にわたる。
(2)盆・その他─女工の小づかい。
(3)残額─翌年度に支払われるもの。

の三グループに、まとめることができる。(1)の「内渡」は、年の途中で自宅に送金したり、父兄などが出向いたときに支払われるものであり、そのほとんどが、父兄に直接手わたされるものと考えてよい。「手付金」は女工との契約時に手わたすものであり、また「前貸金」あるいは「別貸金」は、貸金というかたちをとっているが、女工獲得の手段に利用された。両方とも賃金の前払いともいうべきもので、これも直接に父兄の手へわたるものである。また、(2)に「盆」とあるのは、女工がお盆のときに使った小づかいであり、「その他」には、牛乳代・薬代・日用品代・観劇料などがふくまれている。いずれにせよ、これも小づかいである。そして、(3)の「残額」は、工場主が製糸賃金の一部をわざと未払いとして翌年度にのこしておく分である。これは俗に「足どめ金」といわれたもので、女工が他工場に移ることを防ぐ手段として利用された。したがって、女工がもし翌年度に就業を継続しないばあいには、その残額を支払わない工場もあった。
 さて、以上(1)・(2)・(3)の比率を計算してみると(1)が圧倒的比重をしめていて、明治二四年の七五・二パーセントを最低に、大正八年の岡谷出身女工分の九一・七パーセントを最高にして、ほぼ八〇~九〇パーセントをしめる。いうまでもなく、これが家計補充分にあたる。(2)の女工の小づかいは、大正五年の岡谷の二パーセントを最低とし、明治二四年の一四・六パーセントを最高としているが、これからみて、女工が自分のためには金銭をほとんど使っていないことがわかる。(3)の「残額」は、明治二四年の一〇・二パーセントを最高に以後しだいに低下し、大正八年の山梨県出身女工分はわずか〇・七パーセントにまで低下している。大正八年は生糸ブームで糸価が高騰し、平均賃金が一〇〇円をこえ、「百円工女、百円工女」といって農家をおどろかせた年でもあった。これらの検討から問題にしたいのは、つぎの点である。
 いまでは古典的地位にある『日本資本主義分析』を著わした山田盛太郎は、戦前日本資本主義の構造的特質は資本主義と半封建的地主制との強固なむすびつきにあるとし、その両者の関係はとりわけ低賃金と高率小作料との相互規定関係としてあらわれると指摘した。「賃銀の補充によって高き小作料が可能とせられ、又逆に補充の意味で賃銀が低められるような関係の成立」という山田の有名な文章は、そのことを簡潔にしめしたものである。この意味するところは、女工の得る賃金によって、はじめて小作農家は地主にたいして高い小作料を払うことができ、また、逆に女工賃金は一家を養うだけの高さを必要とせず、家計の補充になれば足りるということから低賃金でもすむ、ということである。そして、このような内容をもつ高率小作料と低賃金の相互規定=相互制約の関係が、まさに戦前日本資本主義の基礎をささえ、かつ、それの急速な発展を可能にしたと主張されたのである。
 この山田説は、その後、学界の通説となっている。それでは同氏はそのことを具体的に論証したかというと、かならずしもそうとはいえない。というのは、女工の得る賃金が低賃金であること、たとえば紡績女工の賃金がインド以下的水準にあることは証明されたが(一六八ページ以下参照)、それが家計補充的であったことについては、なんの論証もしていないからである。ところが、これまで考察したことからもあきらかなように、製糸女工の基本的出身階層はたしかに小作貧農であり、しかも、その賃金の圧倒的部分は家計補充部分として一家の家計を補充していることが判明した。高率小作料と低賃金の関係は、まぎれもなく存在しており、その意味からしても、製糸女工は戦前日本資本主義の特質を一身に体現する象徴的存在であったのである。
-------

私には中村が、自身の言うような「証明」「論証」をできたとはとうてい思えないのですが、その評価は次の投稿で行ないます。
 

「師の永原慶二」と不肖の弟子

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年11月30日(金)12時15分19秒
編集済
  >筆綾丸さん
> titolazione の中にある titolo が「糸目テトロ(繊度)で しめ殺す」のテトロで

1859年の開港から1880年代初頭まで、生糸の主要輸出先はフランスを中心とするヨーロッパ市場だったので、製糸関係の言葉はフランス語・イタリア語が多いですね。
テトロはちょっと気になっていたのですが、イタリア語ですか。
ご教示、ありがとうございます。

https://it.wikipedia.org/wiki/Titolazione_(tessile)

>一橋大学の「5」

中村政則氏は『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)の「月報29」で『あゝ野麦峠』の山本茂実、『サンダカン八番娼館』の山崎朋子と「底辺史研究への直言」という鼎談をしているのですが、山本茂実とはずいぶん気が合ったようで、一緒に野麦峠に旅行に行ったりしたそうですね。
その「略歴」には、

-------
一九三五年(昭和一〇年)東京は新宿の生まれ。一橋大学商学部卒業後、六六年(四一年)に同大学院経済学研究科博士課程を修了し、講師を経て、現在は同大学経済学部助教授。師の永原慶二らとの共著に『日本地主制の構成と段階』があるほか、研究論文に「日本資本主義確立期の国家権力」など。
-------

とありますが、「師の永原慶二」氏と比べると、論理的思考力の点で若干の問題がありますね。
先に「仮に中村政則氏が在職していた一橋大学経済学部の全教員を、その知的水準で五段階評価することができ、中村氏が「5」相当だったとして」と書きましたが、思想的な偏りは共通するとはいえ、知的水準では「師の永原慶二」氏が間違いなく「5」相当であるのに対し、論理の整合性に乏しく、文章が情緒的で直ぐに左翼版の勧善懲悪思想に流れてしまう中村氏は、せいぜい「2」か「3」のような感じがします。

「もっと官僚的に答弁しなさい」(by 永原慶二氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7370
「学者は読むもので見るものではない」(by 「先人」&義江彰夫氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7373
『永原慶二の歴史学』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7118
 

となりのトトロとQMONOS

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年11月29日(木)14時54分26秒
編集済
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB
------------------------
絹などの生糸やレーヨン、ナイロンなど合成繊維の太さを表すのに用いられる。単位の名称は、フランス語の貨幣denier(ドゥニエ)に由来する。そもそもは、東洋の絹がローマのデナリウス銀貨の重さで取引されていたことに由来する。
------------------------
イタリア語の関連項目 titolazione の中にある titolo が「糸目テトロ(繊度)で しめ殺す」のテトロで、信州のテトロの方が隣の上州よりも優れていて、工女の賃金もずっと上であった、ということになるのですね。ちょうど、一橋大学の「5」よりも、シカゴ、ハーバード、ケンブリッジ、イェール大学等の「5」の方が格段に上であるように。
何の関係もありませんが、『男はつらいよ』の寅さんの台詞に、信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃあんたの側がいい、というのがあります。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html
極楽の蜘蛛の糸がスパイバーのQMONOSであったならば、カンダタ他数名の罪人が助かり、御釈迦様は吃驚仰天して腰を抜かしていたかもしれませんが、
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しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好よい匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
------------------------
 

解答編(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年11月29日(木)11時07分21秒
編集済
  諏訪と他地域との賃金格差が具体的にどの程度あったのかを知るための手がかりは、近代製糸業について研究する者なら誰でも最初に手にする『生糸職工事情』(農商務省商工局工場調査掛、1903)にありますね。
同書p193には長野県の205の工場について、須坂・松代・上諏訪・下諏訪別の男女職工数とその賃金の分布(但し工場負担の食費分は含まれず)、p194には「その他諸県」の29工場の男女職工数とその賃金の分布を示した一覧表が出ていますが、中林真幸氏はこの史料から「各地方における近代製糸業女性労働者の1人1日当たり基礎賃金(1901年)」というタイトルの一覧表を作成しています。(『近代資本主義の組織』p41)
それによると、各地域の女性労働者数(人)は、

下諏訪 6,137
上諏訪 2,217
松代    874
須坂  3,291
長野県内計 12,519
その他諸県  2,909

となっており、平均賃金(銭)は、

下諏訪 20.13
上諏訪 21.55
松代  18.39
須坂  13.89
長野県内計 18.62
その他諸県 13.94

となっています。
ここから計算すると、平野村・川岸村を含む下諏訪(諏訪湖の西側)は松代より約9%、須坂より約45%、その他諸県より約44%高いですね。
また、上諏訪(諏訪湖の東側)は松代より約17%、須坂より約55%、その他諸県より約55%高くなっています。
下諏訪より上諏訪の方が若干高いのは意外で、また松代との差はあまりはっきり出ませんが、大雑把に言って下諏訪・上諏訪は須坂や他の諸県よりは約5割高いですね。
そしてこれは、時期的に少し先行しますが、牛山才治郎『日本之製糸業』(有隣堂、1893)に出ている「他府県の製糸家が十円の給料を与へたるものを彼等〔諏訪郡の製糸家〕は十五金尚ほ且つ惜むに足らず」という記述とも一致します。
この牛山才治郎の記述は面白いので、中林氏の「製糸業における労使関係の形成」(『史学雑誌』108編6号、1999)から孫引きすると、

-------
史料九

工場主にして工女を遇するに厚からざらんか、彼らは忽ち不平を鳴らし蹶然として辞し去らんとす、或は諏訪製糸工場に譜代恩顧の工女少なきを以て製糸家を咎むるもの之れなきにあらずと雖も、是れ実に皮想の見(中略)、工女は恰も野獣の如きものあり、工場主よし之を馴さんとするも彼れ遂に能く馴れざるべければなり(中略)、
伊那、須坂等に於て養成せられたる工女も一たび諏訪製糸家の眼光に触るれば忽ち尾を棹ふて服従せざる可らず、是何の故ぞ、他府県の製糸家が十円の給料を与へたるものを彼等は十五金尚ほ且つ惜むに足らずとなせばなり、彼等の工女傭入に黄金を惜まざること実に驚くべきものあり(中略)、
工女は自由労働者なり、毫も雇主の束縛を受くる者にあらず
-------

といった具合です。(p12)
給料が一・二割程度高いだけだったら、わざわざ故郷を離れて寄宿舎住まいをする人もそれほど出ないかもしれませんが、平均で五割高となれば話は違ってきます。
まして「等級賃金制」の下で優等工女・一等工女と評価されるような人であれば、故郷に製糸工場が仮にあるとして、そこで働くより数倍の給料を得ることができたはずですね。
なお、「工女は恰も野獣の如きものあり」「工女は自由労働者なり、毫も雇主の束縛を受くる者にあらず」はなかなか興味深い表現であり、『あゝ野麦峠』のようなしみじみとした、というかしみったれた物語には出て来ない民衆像がそこにありそうですね。
この点については、更に史料を紹介します。
 

解答編(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年11月28日(水)11時24分57秒
編集済
  中村政則『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)には、先に紹介した部分の続きとして縷々記述がなされているのですが、およそ論理的な説明とは言い難いので省略しました。
でもまあ、山田盛太郎まで遡る古い学説の内容を知るには便利な部分でもあるので、先に解答を示した後で紹介したいと思います。
さて、中村は「この等級賃金制の巧妙な点は、製糸女工全体に支払う賃金総額をあらかじめ固定し、決定してあることである。つまり、すでにあたえられた賃金総額を、女工を相互に競争させることによって取りあいさせるわけである」と述べるのですが、個々の製糸工女が実際に受け取る賃金は、個々の工場における「製糸女工全体に支払う賃金総額」によって決定されます。
全体のパイが小さければ、たとえ個人の相対評価が高くとも実際に貰う賃金は低くなり、全体のパイが大きければその逆となります。
そして、諏訪の製糸業者は他地域の製糸業者の間で、そして同じ諏訪の同業者との間で猛烈な工女争奪戦をしており、そのためにパイの大きさも競い合っている訳ですね。
その概要を知るために中林真幸『近代資本主義の組織』から少し引用すると、

-------
第6章 労働市場における取引の統治

 長野県諏訪郡における近代製糸業の急激な発展は, 労働市場に激しい逼迫をもたらした. その労働需給ギャップは, マクロ的, 長期的には周辺地域からの人口移動によって裁定された. 諏訪郡の高賃金が移動を促したのである. 実際, 1880年代から1900年代の間に, 諏訪郡は人口流出地域から流入地域に, 周辺地域は諏訪郡に対する流出地域へと転換した. 官営鉄道中央東線, 篠ノ井線, 信越線の建設が(第3章第3-1図), そうした動きを加速したと考えられる(序章第3節3). こうした諏訪郡への労働移動を規制しようとする行政の動きもあったが, 第2節に見るように, 諏訪郡の製糸家はそれに抵抗し, 労働者の自由な吸収を続けた. しかし, 1880年代から1900年代にかけて, 諏訪郡の近代製糸業における労働需要は年平均10%以上の増加を示し, 労働市場の逼迫は周辺地域からの労働供給の増加にもかかわらず強まり続けたのである. 労働市場の逼迫は, とりわけ1890年代に入って, 諏訪郡内の製糸家間における女性繰糸労働者の獲得競争を引き起こした.
 こうして, 労働需給の著しい逼迫は, 単に賃金上昇をもたらしただけではなく, 女性繰糸労働者の活発な工場間移動をもたらした. より優れた能力を持つ労働者が, より生産効率の高い, したがってより高い賃金を提示しうる工場に移動することは, 近代製糸業の発展にとって望ましいことである. ひとつには, それが, より効率的な資源の配分を意味するからであり, そして, いまひとつには, 移動が困難である場合, 労働者に対する誘因の効果(第5章第3節)が減殺されるおそれがあるからである. ある製糸家と雇用契約を結び, 働き始めた後に相性が悪いことが判明した場合, その労働者はすみやかに相性の合う工場に移動する方がよい. 相性の悪い企業が与える誘因体系に従って行動することが, その労働者の効用を最大化しないとき, その工場において労働者の労働を最適化することはできないからである.
-------

という具合です。(p289)
そして更に詳しい事情を知るために「諏訪郡の高賃金が移動を促したのである」に付された注(1)を見ると、

-------
(1) 1890年代前半から, 新聞記事には労働者募集の様子が描かれるようになる.

「数多き製糸家に就き其料金の多きに趨〔おもむ〕くは自然の情勢なれば, 苟〔いやしく〕も工女供給の不足なる間は製糸家が競争して之れを傭ひ入れんとするは免かれ得べきに非ず, 是に於てか, 製糸家中他の養成工女に餌〔くわ〕して我工場に釣り込まんとする横着ものあり, 工女に各地の製糸家に傭はれ不正の利を得んとする狡猾ものあり, 啻〔ただ〕に善良なる製糸家の損害を醸〔かも〕すに止まらず, 工女社会の取締を紊〔みだ〕り, 牽〔ひい〕て製造生糸に影響を及ぼすや少からず, 現に県下に於ても東筑摩地方と諏訪上下伊那に於ける, 又上高井の各社に於ける毎年工女の争奪に紛紜〔ふんうん〕を生ぜざること無き」, 『信濃毎日新聞』1892年4月27日,

「諏訪地方各製糸家にては昨今夏挽に取掛る都合なるを以て, 目下非常の競争にて工女を雇入るゝ際なれば, 松本地方は勿論南北両安曇より工女の出稼するもの中々沢山」, 『信濃毎日新聞』1892年6月18日,

「諏訪地方の製糸家は昨今社員を派して工女の捜し出しに奔走するにぞ, 地方製糸家と非常の競争にて互ひに「イクライクラ余分日給を与へるから」とて工女の歓心を買ふので今は工女の得意時」, 『信濃毎日新聞』1892年6月23日.

「東筑摩郡各製糸場工女の払底 同郡各製糸場工女の払底なるを聞くに, 給料少なき上に抱主〔かかえぬし〕が余り粗暴の取扱をなすに依るが如く」, 『信濃毎日新聞』1892年8月13日,

「本年の如き工女が払底にして製糸家が引張り合ふ如き年柄に在りては, 其待遇も自ら厚からざるを得すして, 盆の仕着〔しきせ〕の如き例年ならば真岡〔もうか〕木綿に一円を添ゆる位なりしものも本年は何れも平年に無き待遇を為し, 特に諏訪製糸家の如き優等工女には一人五円位の物品を贈与したり」, 『信濃毎日新聞』1892年8月24日,

「諏訪製糸家が年々雇入るゝ所の工女は地元出身のものもあれど, 多くは松本, 伊那, 飛騨〔岐阜県北部〕等の各地出身にして, 松本地方に於ける各製糸家の養成せし工女は, 恰〔あたか〕も技の長ずるに従つて諏訪に奪はるゝものゝ如し〔中略〕, 諏訪製糸家が今日に於て自ら新子〔しんこ〕を募り養成するものは甚だ少なく, 従つて年々同一の工女を雇入るゝ能はず, 十中の六は年々出替り工女を以て釜を充たせり」, 『信濃毎日新聞』1893年8月31日,

「諏訪の製糸家は例の如く松本地方へ来り利を餌〔く〕はしめて工女を連れ去る有り」, 『信濃毎日新聞』1894年6月6日,

「工女は各製糸場共過半数に至らざるもの多く, 為めに非常の競争にて雇入中にて, 遠きは越中〔富山県〕, 美濃〔岐阜県南部〕, 飛騨等より連れ来るあり, 伊那街道口塩尻口等へは出迎〔でむかえ〕の馬車人車, 群を為し居れり」, 『信濃毎日新聞』1894年6月14日,

「製糸家が盆と祭りとに付て工女へ出す品物は頗る多く, 本年も織物一反より三反位」, 『信濃毎日新聞』1893年8月26日.
-------

ということで(p318)、諏訪の製糸家が提示した賃金が他地域に比べて圧倒的に高いことは明らかですね。

※注(1)は原文では全く改行がありませんが、読みやすくするために記事ごとに改行しました。
 

ヒントは「ちょうど、現代の小学校などでおこなわれている五段階相対評価を思いおこせばよい」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年11月27日(火)21時08分25秒
編集済
  前回投稿の問題、ヒントは「ちょうど、現代の小学校などでおこなわれている五段階相対評価を思いおこせばよい」ですね。
製糸工女が実際に貰う賃金は相対評価ではなく、絶対的な数値で示されます。
「五段階相対評価」の方法は共通だとしても、地域の教育水準によって、個々の生徒の絶対的な学力は変わってきますね。
父兄が高収入で塾や家庭教師を自由に利用できる地域の小学校と、父兄の収入が低い地域であったり、そもそも塾などの施設が存在しない僻地の小学校では、個々の生徒の五段階評価が同じでも学力は違ってくるはずです。
余談になりますが、「日本の教育の将来をまじめに考えている」かはともかくとして、極端に平等主義的な発想が強く、多数の「教員が五段階相対評価に反対している」ような地域の生徒の学力はかなり低くなりそうですね。
また、更に余談になりますが、仮に中村政則氏が在職していた一橋大学経済学部の全教員を、その知的水準で五段階評価することができ、中村氏が「5」相当だったとして、その「5」という評価が、ノーベル経済学賞受賞者を輩出するシカゴ、ハーバード、ケンブリッジ、イェール大学等での五段階評価の「5」と同じかというと、たぶん違うでしょうね。
 

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