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あるかのごとく

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 6月 5日(金)14時35分40秒
編集済
  小太郎さん
長村氏の著書をざっと確認したところ、『六代勝事記』に言及した箇所で(274頁~)、
--------------
承久の乱の発端の叙述では、後鳥羽の追討命令に対して北条政子が、(中略)北条義時追討命令を将軍追討命令であるかのごとく演説し、「不忠の讒臣」に対する名目で東国武士を結束させたとする。
--------------
とありますね。
 
 

「幕府内の権力闘争に勝利した義時は、頼朝の真の後継者として、鎌倉武士の棟梁になった」(by 本郷和人氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 6月 5日(金)10時57分9秒
編集済
  本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』は非常に鋭い指摘と、何を言っているのか理解できない非論理的な部分がまだら模様になっていて、実に奇妙な本ですね。
後者の例として、和田合戦に関する叙述を見ておきます。(p129以下)

-------
 権力の座に就いた北条義時もまた、自らの権力基盤を固めるための陰謀を巡らせます。相模国に勢力を持ち、幕府創設以来の重鎮として栄えたのが三浦一族ですが、そのなかでも、三浦本家を凌ぐ力を持っていたのが和田義盛でした。義時はその和田氏を繰り返し挑発して、暴発させたのです。
 かつて北条氏が自分よりも強大な比企氏を滅ぼした際は、騙し討ちで当主を殺してから奇襲をかけ、一族を皆殺しにしました。しかし、和田義盛とは真っ向勝負を行います。それだけ、北条氏の力は急成長を遂げていたのです。
【中略】
 和田義盛は幕府を草創期から支えた人物です。義時は鎌倉幕府の軍事部門のトップと、正面からぶつかり武力で叩き潰すことに成功したわけです。この戦いで名実ともに北条氏が鎌倉幕府のナンバー1になりました。
 このように義時は、実力で北条家の家督を奪い取り、幕府の実権を握ったのです。
 鎌倉を舞台に、梶原景時、比企氏、畠山重忠といったライバルたちを次々に謀略で滅ぼし、将軍・頼家までも幽閉した北条時政。その時政に従い、血なまぐさい政争に明け暮れながら、最後は父すら追い落とした北条義時。血で血を洗うサバイバルの最終勝者となった義時こそ、知謀と武力、すなわち実力で勝ちあがった「鎌倉の王」であると、東国武士の誰もが認めたはずです。
 頼朝が関東の武士団を率い、平家を打ち破って「武士による、武士のための政治」を実現する場として、鎌倉幕府は生まれました。その幕府内の権力闘争に勝利した義時は、頼朝の真の後継者として、鎌倉武士の棟梁になった。このとき、鎌倉幕府は、「頼朝とその仲間たち」による政権から「義時とその仲間たち」による政権となったのです。
-------

うーむ。
頼朝は確かに「関東の武士団を率い、平家を打ち破って」東国に「武士による、武士のための政治」をもたらしましたが、義時は頼朝が「武士による、武士のための政治」を「実現する場」として作った鎌倉幕府という組織を前提に、その中で「血で血を洗うサバイバルの最終勝者」となっただけじゃないですかね。
結局のところ、義時は「幕府内の権力闘争に勝利した」だけ、そして頼朝が創始した「武士による、武士のための政治」を「北条氏による、北条氏のための政治」に変えただけの人であり、「義時とその仲間たち」に入れなかった東国武士は、義時の「知謀と武力」は嫌々ながら認めても、義時が「頼朝の真の後継者」・「鎌倉武士の棟梁」・「鎌倉の王」だなどとは決して認めなかったでしょうね。
また、本郷氏は和田合戦の勝利によって「鎌倉幕府は、「頼朝とその仲間たち」による政権から「義時とその仲間たち」による政権となった」と言われますが、では頼朝の死(1199年)から和田合戦(1213年)までの足かけ十五年間は何だったのか。
その間は「鎌倉幕府」は存在していなかったのか。
第二代将軍頼家の時代のように、幕府のリーダーシップの所在が明確ではない時期は鎌倉時代を通していくらでもあります。
理念や形式ではなく「実態を捉える」(p99)、「実態の力関係」(p103)を直視するという本郷氏の発想も理解できない訳ではありませんが、「実態」のみを重視するならば、「頼朝とその仲間たち」「義時とその仲間たち」以後も、宝治合戦後の「時頼とその仲間たち」、元寇に対処した「時宗とその仲間たち」、更に霜月騒動後の「平頼綱とその仲間たち」の時代などを除いた時期には「鎌倉幕府」は不存在で、「鎌倉幕府」は間歇的にのみ生起する不連続政権、ということになりかねません。
ま、「実態」とともに制度・法形式も重視すべきであって、鎌倉幕府の本質は決して「その時々の実力者とその仲間たち」ではないと私は考えます。

>筆綾丸さん
『中世公武関係と承久の乱』は未だに入手できていませんが、長村氏も政子による「すり替え」という表現を使用されていますか。
 

東下りの変(上京の乱)

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 6月 3日(水)19時29分56秒
編集済
  小太郎さん
今日、長村祥知著『中世公武関係と承久の乱』と野口実編『承久の乱の構造と展開』を図書館で借りましたが、最近は、スマホで英仏の記事を読むことが多く、読書量はめっきり減ったので、はたして通読できるかどうか、自信がありません。

四人の使者は、5月15日以後、京を発ち、5月19日、鎌倉に着いたが、時刻は異同があって、よくわからない、ということかもしれませんね。
坂井孝一著『承久の乱』には(159頁)、胤義の使者と押松は別々に京を発ったのに、どこかで合流したらしく、両者は一緒に鎌倉に着いたとありますが、これがよく理解できません。常識的に考えて、両者は別々に行動したのではあるまいか。

田辺旬氏のように、実朝亡き後の政子の政治権力を強調しすぎると、実朝暗殺の真の黒幕は政子になってしまうんじゃないの、と皮肉りたくなります。
 

「幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」」(by 本郷和人氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 6月 3日(水)14時12分32秒
編集済
  「討幕説」に立つ本郷和人氏の見解も、『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2018)に即して確認しておきます。

-------
そもそも後鳥羽上皇はなぜ幕府に戦いを挑んだのか?
「錦の御旗」を敵に回して勝利したリーダー、北条義時はどんな人物だったのか?
それを理解するには、後鳥羽上皇が歴代天皇のなかでも指折りの文武に長けたカリスマだったこと、そして頼朝以降の鎌倉幕府で繰り広げられた、血で血を洗う「仁義なき政争」を知る必要がある、と本郷さんは説きます。
さらにこの戦いは、朝廷と幕府の関係を決定的に変えました。以後、明治維新までのおよそ六百五十年間、武士が日本の政治を動かす時代となったのです。まさに承久の乱の起きた一二二一年こそ日本史の大きなターニングポイントといえます。
日本史ブームの中、第一人者による決定版の登場です。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166611997

同書の「第一章 「鎌倉幕府」とはどんな政権なのか」において、本郷氏は次のように述べます。(p21以下)

-------
幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」

 では、まず承久の乱の一方の主役である「鎌倉幕府」とは何かから論じていきましょう。
 実は、源頼朝もその家来も、頼朝を将軍に任命した朝廷も、誰一人として「鎌倉幕府」というものが生まれた、とは考えていませんでした。なぜなら、武士が政治を司った体制・政権を一般的に「幕府」と呼ぶようになったのは、明治時代のことだからです。
 そもそも「幕府」とは、中国で将軍が戦争の時に拠点とした陣幕を指す言葉でした。頼朝のころに「幕府」といわれているものがあったとすると、システムではなく頼朝の居館そのものです。
 それを室町時代のお坊さんが、「武士の政治体制を表すのにちょうどいい」と漢籍の中から引っ張り出してきたのですが、一般に使われた言葉ではありませんでした。江戸時代になっても、徳川家の支配体制は「柳営」と呼ばれます。今のように使われはじめたのは、ようやく幕末になってからでした。
 便宜上、本書でも「鎌倉幕府」を使いますが、一見面倒そうな語釈論議からはじめたのは、そもそも鎌倉時代に、「幕府」というきちんとした政治システムが確立していたわけではなかった、ということが言いたかったのです。
 頼朝がつくった鎌倉幕府は、同じ幕府でも、たとえば江戸幕府とはまったく違います。
 江戸幕府はいわば完成された世襲官僚組織です。頂点に立つ将軍から領地と位を与えられた家臣たちが、序列にのっとり、それぞれの職掌にあたる。各藩も、やはり将軍に領地をもらった藩主が同様のピラミッド型組織を運営します。
 それに対して、頼朝の作った政治体制の実態を一言で言い表すとすると、私が最もぴったりだと考えるのはこれです。「源頼朝とその仲間たち」。こういうと「ふざけるな!」と叱られてしまいそうですが、実態はこの通りなのです。
 頼朝を棟梁と仰ぎ、そこに結集することで、自分たちの権益、特に土地の保障(安堵といいます)を得る。これが鎌倉幕府の本質でした。その頼朝による土地の安堵が「御恩」、それに報いるために、頼朝の命令のもと戦うことが「奉公」です。それを受け入れた武士たちは、頼朝の直属の子分(仲間たち)として「御家人」と呼ばれます。
 もし頼朝が安堵した土地を、誰かが理不尽に奪い取ったり、頼朝が決めた土地の境界線を勝手に破ったとします。それを頼朝に訴えると、頼朝が仲間たちを連れて来て、その相手を撃退してくれるのです。逆にいえば、頼朝から「今度、あいつを懲らしめるから、すぐに来い」と言われれば、何があっても駆けつけなければいけません。これが「いざ鎌倉」です。
 鎌倉幕府とは、一言でいえば、この保証人ならぬ保障人・頼朝と主従契約を結んだ仲間たちが、東国に築き上げた安全保障体制なのです。
-------

うーむ。
確かに「幕府」という言葉は鎌倉時代には存在しなかったのでしょうが、それは「幕府」的な「組織」が存在したかどうかとは別問題じゃないですかね。
「実態」という表現が大好きな本郷和人氏は法的な分析が苦手のようで、そのあたりがごっちゃになっているように感じます。
まあ、大多数の研究者は、「完成された世襲官僚組織」である江戸幕府ほどではないにしても、鎌倉時代のかなり早い段階で、単純な人的結合を超えた「政治システム」ないし「組織」が形成されていると認識しているものと思われます。
本郷氏の「鎌倉幕府の本質」論は、傑出したリーダーシップを発揮した源頼朝の生存中に限れば、それなりにもっともらしい感じもしますが、本郷氏はこれを北条義時の時代にそっくりそのままスライドさせるので、非常に奇妙な議論になっていますね。
その点は次の投稿で確認したいと思います。

>筆綾丸さん
押松については、公武間のコミュニケーションギャップの問題を扱うときに少し論じたいと思います。
 

「義時追討後に、他の有力御家人が三寅を擁立して幕府が維持されていくことを想定することも難しい」(by 田辺旬氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 6月 2日(火)11時53分56秒
編集済
  『中世史講義【戦乱篇】』(ちくま新書、2020)の「編・執筆者紹介」を見ると、田辺旬氏は、

-------
一九八一年生まれ。東京都立浅草高等学校教諭。大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了。専門は日本中世史。論文「北条義時」(平雅行編『公武権力の変容と仏教界』清文堂)、「北条政子発給文書に関する一考察」(『ヒストリア』二七三号)など。
-------

とのことで、大阪大学の平雅行氏のお弟子さんなのかなと思ったら、元々は都立大で川合康氏に学んだ方だそうですね。
ま、それはともかく、前回引用部分の続きです。(p63以下)

-------
北条政子と義時

 実朝暗殺後の幕府政治は、どのように運営されていたのだろうか。【中略】実朝暗殺後の幕府政治において意思決定を行っていたのは、実質的な将軍である政子であり、執権義時はそれを補佐する立場にあったのである。
 次に当該期の幕府発給文書に注目したい。鎌倉幕府では御家人に対して本領安堵や新恩給与を行う際には下文が発給された。実朝暗殺後の幕府では、将軍が不在となったために下文が発給されることはなく、執権義時が署判した下知状が発給された(近藤成一『鎌倉時代政治構造の研究』校倉書房、二〇一六)。義時署判の下知状については、義時の判断によって発給されたものとする見解もだされている(岡田清一『北条義時』ミネルヴァ書房、二〇一九)。
 一三四〇年(暦応三)の足利直義下知状には、伊豆国(静岡県)の武士である田代氏の相伝文書が引用されている(『南北朝遺文関東編』一一一四)。一二二四年(貞応三)に、田代信綱が承久の乱の恩賞として獲得した和泉国(大阪府)大鳥郷地頭職の証拠文書として「下文」と北条政子の「和字御教書」が挙げられている。「下文」は義時署判の関東下知状であり、「和字御教書」は政子の仰をうけたまわった仮名による奉書である。仮名の奉書では「和泉国の大鳥郷の御下文を与える。人々が御恩を受けているが、信綱は漏れており不憫であるので、信綱にと御下文をなしたのである」と述べられている。仮名の奉書には、恩賞に漏れてしまった田代信綱が不憫であるので、大鳥郷地頭職に補任する「下文」(文書様式は下知状)を発給したとする政子の意向が述べられている点は注目される。御家人に新恩給与を行う下知状は、政子の意思によって発給されていたのである。下知状は、政子の「仰」を受けて執権義時が署判して発給されたのであり、義時の独断によって発給されたものではない点に留意する必要があろう。
-------

北条政子の「和字御教書」については『ヒストリア』第273号の論文に詳しい説明があるのでしょうね。
さて、田辺氏は、この「和字御教書」に関する検討を踏まえて次のように言われます。

-------
 このように、実朝暗殺後の鎌倉幕府では、幕政運営や文書発給において、北条政子が実質的な将軍として意思決定を行っており、義時は執権として政子の政務を補佐していた。政子・義時の姉弟は政治的立場を同じくしており両者は幕府権力の中心に位置していたが、政子が幕府の意思決定を行っており、義時が専断していたわけではなかったのである。こうした幕府政治のありかたを踏まえれば、後鳥羽院の義時追討命令は、政子が主導する幕府の政治体制そのものを否定することを目指したものであり、院の挙兵目的は討幕であったと考えるべきであろう。
-------

うーむ。
この部分、論理の飛躍があるような感じがして、私はちょっと賛成できないですね。
そもそも「実朝暗殺後の鎌倉幕府では、幕政運営や文書発給において、北条政子が実質的な将軍として意思決定を行っており、義時は執権として政子の政務を補佐していた」という点は、別に田代氏による独創的な発見ではなく、以前から同じようなことを言っている学者は大勢いたはずです。
というか、慈円の『愚管抄』にも同趣旨のことが書かれていますね。
とすると、田辺氏の功績は「尼将軍」が単なる美称や比喩ではなく、実体を伴っていたことを実証的に解明したことにありそうですが、だからといって「討幕説」が論理必然かといえば、そこは疑問です。
ごく普通の理解によれば、将軍も執権も幕府という組織の機関・役職であって、そこに人的変動があっても組織としての幕府は連続性を維持しているはずです。
「義時追討」=倒幕ではないように、「政子&義時の追討」も倒幕ではないですね。
田辺氏は、この後も少し気になることを言われています。(p65)

-------
 また、実朝暗殺後に将軍後継となった三寅は、鎌倉の義時邸の敷地内に新造された邸宅に居住しており、三寅の警固や供奉を管轄する小侍所の別当には義時子息の重時が就いている。三寅は、義時の保護下に置かれていたのである。そもそも義時追討後に、他の有力御家人が三寅を擁立して幕府が維持されていくことを想定することも難しいといえよう。
 後鳥羽院は、鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵したのであり、近年の院の挙兵目的は討幕ではなかったとする見解には賛同できない。
-------

ここも私には田辺氏の論理が理解できません。
承久の乱勃発の時点での三寅ちゃん(四歳)は将軍という幕府の機関ではなく、単に将来の将軍候補者ですね。
従って、仮に三寅ちゃん(四歳)が政子・義時と一緒に死んだとしても、別の将軍(候補者)に置き換えれば、幕府は存続できるはずです。
「義時追討」=倒幕ではないように、「政子・義時&三寅ちゃん(四歳)の追討」も倒幕ではないですね。
多少強引に近代法的な用語を使えば、幕府は法人であって、将軍も執権も幕府という法人の機関に過ぎず、当該機関に就任する具体的人間に変動があっても、法人としての幕府は連続性を保っているはずです。
田辺氏の議論は、法的な分析が貧弱なように感じられます。

>筆綾丸さん
>なぜこんなことになってしまうのか、疑問を感じないのかな

野口氏は慈光寺本『承久記』の記述を整理しているだけですが、追い抜いたのが不自然ということでしょうか。
なお、時間については『吾妻鏡』との異同はありますね。
 

おし松くん

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 6月 1日(月)19時58分6秒
編集済
  小太郎さん
ご引用の野口氏の「京よりの使者」の記述によって、光季の下人と押松の、京都発:鎌倉着を記せば、
下人 5月15日戌刻(午後8時)  5月19日酉刻(午後6時)
押松 5月16日寅刻(午前4時)  5月19日申刻(午後4時)
で、押松は下人より8時間遅く出発したが、途中で下人を追い越して、2時間早く鎌倉に到着した、ということになります。日本史上、最も重要なメッセンジャーであるにもかかわらず、なぜこんなことになってしまうのか、疑問を感じないのかな、と思いました。
追記
押松が捕えられた「葛西谷山里殿辺」は、幕府の宿老葛西清重の別墅と思われるのですが、押松はなぜそんな所にいたのか、清重は反義時の嫌疑をかけられる虞れはなかったのか、などの疑問が湧いてきます(私なら、化粧坂の遊女の茅屋に潜んで工作活動をします)。そして押松は、宣旨(院宣と官宣旨?)・副状・交名註進状等一式、あっさり没収されてしまう。これでは、大事な使者というより、間抜けな狂言まわしのようで、なにかチグハグなんですね。

義時亡き後、幕府をコントロールできる、と研究者が言うのはゾルレン的な権門体制論、あるいは、予定調和的な楽観論でしかなく、コントロールの具体的な内容については何も考えていない、と言えば言い過ぎになりますかね。
 

「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」(by 長村祥知氏、但し伝聞)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 6月 1日(月)09時07分51秒
編集済
  野口実氏は『承久の乱の構造と展開』の「あとがき」において、次のように書かれています。(p237)

-------
 もうすぐ、承久の乱から八〇〇年を迎えることもあってか、最近つぎつぎと、この事件に関する一般向けの本が刊行されるようになった。坂井孝一氏の『承久の乱』(中公新書)は、政治過程の理解において、私とは見解を異にする部分が見受けられるものの、本書の執筆に参加された研究者たちによる最新の知見も多く取り入れられていて、わかりやすく整理された好著だが、他の本は「公武対立」や「討幕」といった旧態依然とした公武対立史観に塗り固められている。こうした状況からも、学術的レベルから「承久の乱」を論じた書籍の刊行は意味を持つと思う。
-------

野口氏から見れば、東大史料編纂所の古狸である本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2019)などは「旧態依然とした公武対立史観に塗り固められている」本の代表格なのでしょうね。
ただ、近時の学説も「義時追討説」一辺倒ではなさそうです。
本郷氏より若い世代の「倒幕説」として、田辺旬氏の「第3講 承久の乱」(高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』、ちくま新書、2020)を紹介したいと思います。
この論文は、

-------
はじめに
後鳥羽院と源実朝
実朝暗殺の衝撃
後鳥羽院の挙兵
北条政子と義時
北条政子の演説
幕府の戦後処理
おわりに
-------

と構成されていますが、「はじめに」には次のような指摘があります。(p56)

-------
 公武政権が協調関係にあったことを重視して、近年、承久の乱における後鳥羽院の挙兵目的は、討幕(=鎌倉幕府の打倒)ではなく、執権北条義時の追討であったとする議論がさかんになっている(長村二〇一五、坂井二〇一八、野口二〇一九)。こうした見解では、後鳥羽院の義時追討命令は、義時個人の排除を目指したものであり、鎌倉幕府を打倒する意図はなかったと理解している。院の挙兵目的をどのように理解するかは、承久の乱の性格を考えるうえで重要な問題であるが、院の挙兵目的を討幕ではなかったと考えてよいのだろうか。本講では、近年の研究を踏まえて、承久の乱の性格について検討したい。
-------

長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)は未確認ですが、坂井・野口氏の場合、「義時個人の排除」だけで満足する純度100%の「義時追討説」ではなく、何らかの幕府への「コントロール」を想定されていることは注意しておきたいと思います。
さて、田辺氏は、承久の乱が起こる前の朝幕関係について概観した後、次のように論じられます。(p61以下)

-------
後鳥羽院の挙兵

 一二二一年(承久三)五月十五日、後鳥羽院は、北条義時追討の命令を出して挙兵した。承久の乱の勃発である。院は在京武士を中心に畿内近国から軍勢を召集したが、佐々木広綱・三浦胤義・加藤光員といった在京御家人の多くは召集に応じている。在京御家人は、幕府と主従関係を結びながらも院の命令で軍事活動を行っており、院の召集命令に応じるのは自然なことであった。後鳥羽院の挙兵は、公武政権の協調のもとで在京御家人を含む京都の武士社会を編成していたことにより可能となったのである。京都守護の大江親広は、父は幕府重臣の大江広元であったが、院の命令に従っている。一方で、もうひとりの京都守護であった伊賀光季(北条義時の妻伊賀の方の兄)は、院の召集命令を拒否したために、院方の軍勢に攻められて自害した。後鳥羽院の軍事作戦は、院が召集した畿内近国の武士で京都を制圧したのちに、東国御家人に蜂起を促して鎌倉の北条義時を討つものであったとされる(白井克浩「承久の乱再考」『ヒストリア』一八九号、二〇〇四)。
 五月十五日に「五畿内諸国」に宛てて発給された宣旨では、幼齢の三寅を擁立した北条義時が「天下の政務」を乱しているとして、その追討を命じている(『鎌倉遺文』二七四六)。宣旨は諸国に宛てられてはいるが、東国の御家人たちに対して義時追討の軍事行動を起こすことを命じるために出されたと考えられている。
 一方で、慈光寺本『承久記』は、後鳥羽院の近臣の藤原光親が奉者となって、鎌倉の有力御家人に宛てた院宣が発給されたとする。光親の子息葉室定嗣の日記『葉黄記』には、「承久乱逆、故殿(光親)に追討の院宣をお書かせになられた」と記されていることから、院宣の発給は史実であると考えられる(長村二〇一五)。『承久記』によれば、院宣は北条時房(義時の弟)や三浦義村といった幕府中枢の有力御家人に宛てられており、「義時朝臣奉行」の停止を命じたという。院宣は、有力御家人に対して院方に帰参することを促すために出されたのであろう。
-------

ということで、長村氏は官宣旨とは別に院宣が出されたことを明確にされるなど、史料面では承久の乱研究の進展にずいぶん貢献されたようですね。
ただ、田辺氏が要約引用されているところによれば、長村氏の見解には些か奇妙なところもありそうです。
続けます。(p62)

-------
 前述したように、近年、院の挙兵目的は討幕ではなく義時個人の追討であったとする議論がさかんになっている。こうした議論では、討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはずであり、後鳥羽院には幕府そのものを打倒する意図はなかったとする(長村二〇一五)。しかし、そもそも幼児や女性が追討対象となることはありえない。後鳥羽院による義時追討命令は義時個人の追討を目的としていたとする見解が妥当であるかは、当時の幕府における義時の政治的立場を踏まえたうえで改めて検討する必要がある。
-------

まあ、確かに「討幕を目指すのであれば義時ではなく三寅や政子を追討対象としたはず」というのは形式論に過ぎる感じがしますし、宛先となった武士たちにとっても、僅か四歳の幼児(藤原頼経、1218-56)や六十六歳の老尼(平政子、1156-1225)を追討しましょうと言われても、なかなか気分が乗らないでしょうね。
 

「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」(by 野口実氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月31日(日)11時22分39秒
編集済
  「義時追討説」を唱える研究者軍団の棟梁と思われる野口実氏の最新の見解も少し紹介しておきます。
引用は「序論 承久の乱の概要と評価」(野口編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』、戎光祥出版、2019)から行います。

-------
これまで乱の勃発要因や合戦の動向の解明に主眼が置かれてきた承久の乱を主題に取り上げ、後鳥羽院が率いる朝廷や後鳥羽院周辺の人物、さらには幕府の諸将や構造等を多面的に再検討することで、承久の乱の前と後で、中世社会の何が変化したのかを明らかにする。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/522/

「義時追討説」派の特徴のひとつとして慈光寺本『承久記』の重視が挙げられるので、まずはこの点について、論文の冒頭部分を引用します。(p8以下)

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 承久の乱の史料

 従来、承久の乱の顛末は、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』や流布本『承久記』によって叙述されてきた。本来なら、一次史料である貴族の日記などに拠らなければならないのだが、乱後の院方与同者にたいする幕府の追及が厳しかったため、事件に直接関係する記事を載せた貴族の日記などの記録類がほとんどのこっていないからである。しかし、『吾妻鏡』や流布本『承久記』は、勝者の立場あるいは鎌倉時代中期以降の政治秩序を前提に成立したものであって、客観的な事実を伝えたものとはいえない。承久の乱後の政治体制の肯定を前提に後鳥羽院を不徳の帝王と評価したり、従軍した武士の役割などについて乱後の政治変動を背景に改変が加えられている部分が指摘できるからである。
 そうした中、最近その史料価値において注目されているのが、『承久記』諸本のうち最古態本とされる慈光寺本『承久記』である。本書は、乱中にもたらされた生の情報を材料にして、乱の直後にまとめられたものと考えられる。そこで、ここでは、できるだけ慈光寺本『承久記』の記述を踏まえて承久の乱の経過を再構成してみたい。
-------

そして、野口氏も「コントロール」に言及されているので、この点を確認しておきます。
後鳥羽が藤原秀康を使って在京中の三浦胤義を味方に取り込み、次いで承久三年五月十五日に京都守護の伊賀光季を討った後の記述です。(p11以下)

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京よりの使者

 光季は討死の前に、院の挙兵を伝える文書を下人に託していた。この下人が京都を発ったのは十五日戌刻(午後八時頃)であったが、これと同時刻に三浦胤義の使者も義村宛の書状を携えて鎌倉に向かっている。また、院からは幕府の有力御家人である北条時房・三浦義村・武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏らに、五機七道諸国に宛てた義時追討の官宣旨と義時の幕政奉行を停止すべしとする院宣が下された(とりわけ北条時房・三浦義村の両人に対しては、院の内意を伝える秀康の秀康の書状が添えられた可能性がある)。これらを携えた院の下部押松が、鎌倉を目指して京都を出発したのは、十六日の寅刻(午前四時頃)のことであった。
 早馬を駆って夜を日についで東海道を走り抜けた押松が鎌倉に到着したのは、十九日の申刻(午後四時頃)のことであった。一方、光季の使者も僅かに遅れて酉刻(午後六時頃)に鎌倉に入り、すぐに北条政子のもとに参上したのである。政子は即座にこの情報を諸方に伝え、政子のもとには武田・小笠原・小山・宇都宮・長沼・足利氏ら義時追討宣旨の発給対象となった有力御家人たちが参集した。
 ここで政子は、義時追討を幕府追討にすり替えることによって彼らを説得してしまう。すなわち、義時が討たれれば、頼朝以来築き上げてきた幕府という組織とその機能が消滅し、御家人たちの既得権が失われてしまうことを、頼朝の後家、頼家・実朝の母、義時の姉という立場から情を交えて切々と語りかけたのである。
 後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとしたのであって、決して幕府を消滅させようと考えていたのではなかった。北条氏の専権に不満を持つ御家人たちが義時追討の宣旨を受けて立ち上がることを期待していたのである。しかし、この政子の説得によって、院の目算は水泡に帰してしまった。
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坂井孝一氏は「後鳥羽が目指したのは義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであり、討幕でも武士の否定でもなかった」(『承久の乱』、p156)と言われますが、具体的に何を、どのように、どの程度「コントロール」するのかは明示されていません。
野口氏の場合、「後鳥羽院は北条義時を追討することによって、幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうとした」ということで、「完全に」ですから、何を、どのように「コントロール」するのかは不明ですが、「コントロール」の程度は相当に強力のようです。
しかし、他方で野口氏は「義時が討たれれば、頼朝以来築き上げてきた幕府という組織とその機能が消滅し、御家人たちの既得権が失われてしまうこと」は政子による「すり替え」だと言われているので、どんなに後鳥羽が「コントロール」を強化しようとも、「頼朝以来築き上げてきた幕府という組織とその機能」は「消滅」しないし、「御家人たちの既得権」は失われないことになりそうです。
まあ、確かに抽象的にはそういう微妙な中間領域が想定できない訳でもないのかもしれませんが、具体的に幕府諸機関の役職の人事権や守護・地頭の人事権を誰が掌握するのかを考えて行くと、後鳥羽が「幕府を完全にみずからのコントロールのもとに置こうと」すれば、人事権は最終的には全て後鳥羽が掌握することにせざるをえず、その場合には「幕府という組織とその機能」は「消滅」しないにしても形骸化は否めず、「御家人たちの既得権」も相当弱体化するのではないですかね。
ま、坂井氏の場合も野口氏の場合も、北条義時を追討すればそれだけで後鳥羽が満足するという純度100%の「義時追討説」ではなく、プラスアルファとして、何らかの幕府への「コントロール」を想定していることは確認できました。
ま、それは当たり前で、北条義時を追討したとしても、「幕府という組織とその機能」をそのまま温存すれば第二・第三の「義時」が登場するだけの話であり、骨折り損のくたびれ儲けになってしまいますからね。
なお、野口氏は北条政子が「義時追討を幕府追討にすり替え」たと言われる訳ですが、これは幕府の有力御家人らに事態を正確に認識する能力がなく、彼らは政子の「すり替え」に騙されるほど莫迦だった、と言うに等しい評価ですね。
果たして彼らは本当にそこまで莫迦だったのか。
 

「コントロール」の内実

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月30日(土)13時02分29秒
編集済
  承久の乱についての現在の研究水準を知るには長村祥知氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)を見る必要がありそうですが、同書を所蔵する群馬県内の某図書館は現在一応開館しているものの、コロナの関係で入館証を持たない人は入れないとのことで、まだ閲覧できていません。
同書の値段は税込み約一万円で、普段だったら借りれば済むものをわざわざ購入するのは些か躊躇われる金額ですから、もうちょっと様子を見ていようかな、などとビンボーくさいことを思っています。

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武家優位の公武分立体制が確定した一画期である承久の乱。京方武士・鎌倉方武士の動向・特質や、彼らと後鳥羽院との関係、鎌倉幕府による賞罰を検討。重要史料を発掘し、歴史思想史上の意義や、後世における歴史像の変容をも論究する。政治史、思想史・史学史、史料論の視角から、史料が乏しく低調であった承久の乱研究に新知見を示した意欲作。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b210792.html

ということで、とりあえず坂井著の疑問点をいくつか挙げておくことを優先したいと思います。
さて、後鳥羽院は前回投稿で引用した院宣の他に、承久三年五月十五日付の「北条義時追討の官宣旨」(『鎌倉遺文』二七四六号)も下していて、こちらは宛先が「五畿内・諸国<東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・大宰府>」の「諸国庄園の守護人・地頭等」となっています。
坂井氏は前回投稿で引用した部分の後、この官宣旨についての説明を加えた上で、次のように書かれています。(p155)

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院宣・官宣旨の力

 ところで、朝敵の追討というのは、追討使を任命し、その指揮のもと追討軍を派遣するのが通例である。しかし、後鳥羽の院宣・官宣旨には追討使に関する記述がない。従来、これは院宣・官宣旨の力を過信していた後鳥羽が、院宣・官宣旨を下すだけで武士たちを「京方」に立たせ、北条義時の追討および討幕が可能であると楽観視していたからと解釈されてきた。しかし、現実には幕府が「鎌倉方」の大軍を西上させ、数で劣る京方はなす術もなく敗れ去った。承久の乱の勝敗は、院宣・官宣旨の力を過信した後鳥羽の楽観論、見通しの甘さに基づく当然の帰結とみなされたのである。
 しかし、この従来の説には本質的な部分に事実誤認がある。それはまず、後鳥羽の目的が朝敵北条義時を追討し、幕府を倒すことにあったとみている点である。しかし、すでに述べたように、後鳥羽が目指したのは義時を排除して幕府をコントロール下に置くことであり、討幕でも武士の否定でもなかった。それは、院宣に義時の「奉行を停止」し、すべて「叡慮に決す」と記していることから明らかである。
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坂井氏は後鳥羽の目的を単純に義時を排除することではなく、「義時を排除して幕府をコントロール下に置くこと」とされているのですが、この「コントロール」の内容は坂井著を全部読んでも全く明確ではありません。
官宣旨の宛先が「諸国庄園の守護人・地頭等」ですから、武士の存在を否定したのでないことはもちろん、守護・地頭体制も否定はしていないのでしょうが、では守護・地頭を誰がどのように「コントロール」するのか。
お飾りの将軍候補者の幼児(三寅)はそのままでよいとして、執権のように幕府の運営の中心となる存在を認めるのか、それとも有力御家人の集団的指導体制とし、特定の誰かが優越的な存在となることは否定するのか。
守護・地頭体制は存続させるとして、守護・地頭を任命するのは誰なのか。
実朝没後、後継将軍として親王下向を要請した幕府に対し、後鳥羽はそれを拒否したばかりか摂津国長江・倉橋の二つの荘園の地頭改補を要求するという、幕府側から見れば不誠実極まる対応をした訳で、『承久記』の慈光寺本によれば、これが後鳥羽が義時追討を決意する直接のきっかけとなっています。
とすると、後鳥羽としては、承久の乱に勝利した後は、地頭を任命する権限を自分が掌握しなければ満足できなかったであろうことが容易に想像されます。
仮に「幕府」の存在を容認し、「執権」ないし有力御家人の集団指導体制を容認したとしても、それらに許されるのは地頭の候補者の推薦だけであって、最終的には後鳥羽自身が決めるのだ、ということになりそうです。
守護についても、地方の治安維持の責任者は必要だからということで、その存続を認めるにしても、やはり最終的には後鳥羽自身の承認がないとダメ、という体制になりそうです。
とすると、仮に「幕府」が残るとしても、それは全くの骨抜きされた形式的存在であって、東国武士の集団的利益を反映させることができるような組織ではなさそうです。
また、「幕府」の所在地はどこにするのか。
鎌倉に残すのであれば後鳥羽としては不安でしょうから、できれば京都に置きたいはずですが、それでは東国武士の集団的利益は全く反映されない「幕府」の抜け殻になりそうです。
このように「コントロール」の具体的な内実を考えて行くと、坂井理論は討幕論とどこが違うのかも不鮮明になってくるように思われます。

>筆綾丸さん
>「雪の日の惨劇は、追い詰められた公暁のほぼ単独の犯行と考えるしかない」
本郷氏は義時黒幕説を超えて、その背後に「御家人の総意」があったのだ、とまで言われていますね。(p158)
私は今のところ保留です。
 

些末なこと(カンチューハイ二本)

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 5月27日(水)16時54分37秒
編集済
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最後は少しまじめな話をしよう。二〇一九年(平成三十一年)四月末から五月初めにかけて、歴史上の画期となる出来事がある。今上天皇の退位と皇太子の即位である。明治以後の近代日本において生前退位は初のことであり、「上皇」という呼称が用いられるのも初めてである。中世史を研究する者として、「上皇」の誕生に立ち会えることは驚きであり、喜びでもある。本書の主人公の一人は後鳥羽「上皇」であり、不思議なめぐり合わせを感じる。ただし、現代の日本は象徴天皇制をとっており、呼称は同じ「上皇」でも政治的な権力とは無縁である。本書が後鳥羽「上皇」を、あえて中世で一般的に用いられていた「院」と記しているのも、現代の「上皇」と同一視することがないよう配慮したためである。(坂井孝一『承久の乱』あとがき 263頁~)
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読んでいて恥ずかしくなるような文ですが、氏は真面目でウブな人なんだなあ、と思いました。
巻末の主要参考文献を見ると、関西圏の研究者が多く、東西のバランスが悪い、と感じました(どうでもいいことですが)。
「鎌倉幕府の興廃 この一戦にあり!」というような帯文(日本海海戦のZ旗のパロディ)は、著者の意向とは無関係でしょうが、恥ずかしいので止めてほしい、と思いました。

追記
同書に、北条義時黒幕説も三浦義村黒幕説も成り立たず、「雪の日の惨劇は、追い詰められた公暁のほぼ単独の犯行と考えるしかない」(101頁~)とあるのですが、こんなナイーブなことでいいのか。
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
と云った感じです。
 

「御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう」(by 坂井孝一氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月27日(水)09時18分15秒
編集済
  それでは「「討幕」の二文字」が存在しない史料の代表例として、「北条義時追討の院宣」を見て行きます。(p151以下)

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 次いで後鳥羽は、五月十五日付「北条義時追討の院宣」を下した。承久の乱の勃発である。院宣とは、院に近侍する院司が院の意向を受け、自分が形式上の差出人(奉者という)となって発給する命令書である。「慈光寺本」は、藤原光親が奉者となった院宣を載せている。長村祥知氏の詳細・綿密な分析によれば、これは実在した院宣を引用したものであるという。全文を掲出してみよう。

  院宣を被るに称へらく、故右大臣薨去の後、家人等偏に聖断を仰ぐべきの由、申さしむ。
  仍て義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食すのところ、三代将軍の遺跡、管領す
  るに人なしと称し、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるるによつて、摂政の子息
  に迭へられ畢んぬ。然而、幼齢未識の間、彼の朝臣、性を野心に稟け、権を朝威に借れ
  り。これを政道に論ずるに、豈に然るべけんや。仍て自今以後、義時朝臣の奉行を停
  止し、併ら叡襟に決すべし。もし、この御定に拘らず、猶反逆の企てあらば、早くそ
  の命を殞すべし。殊功の輩においては、褒美を加へらるべき也。宜しくこの旨を存ぜ
  しむべし、てへれば、院宣かくの如し。これを悉せ。以て状す。
    承久三年五月十五日                  按察使光親奉る

 内容は次の通りである。
「故右大臣」実朝の死後、御家人たちが「聖断」すなわち天子(この場合「治天の君」後鳥羽)の判断・決定を仰ぎたいというので、後鳥羽は「義時朝臣」を「奉行の仁」、すなわち主君の命令を執行する役にしようかと考えていたところ、「三代将軍」の跡を継ぐ者がいないと訴えてきたため、「摂政の子息」に継がせた。ところが、幼くて分別がないのをいいことに「彼の朝臣」義時は野心を抱き、朝廷の威光を笠に着て振舞い、然るべき政治が行われなくなった。そこで、今より以後は「義時朝臣の奉行」をさしとめ、すべてを「叡襟」(天子のお心)で決する。もしこの決定に従わず、なお反逆を企てたならば命を落とすことになるだろう。格別の功績をあげた者には褒美を与える。以上である。
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「慈光寺本」とは『承久記』の諸本の中で最古態であり、史料的価値が特に高いとされているものです。
ずいぶん高飛車な物言いですが、まあ、院宣というのはこんなものですね。
さて、私には少し意外なほど、坂井氏はこの院宣を高く評価されているのですが、まず対象を黒く描いてからその黒さを批判するのは私の好むところではないので、坂井氏の見解を丁寧に紹介しておきます。(p152以下)

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院宣の論理

 ここにみられるのは、後鳥羽の意思に従いたいとする御家人たちの願いに反し、奉行の北条義時が朝廷の威光を笠に着て政治を乱している、義時の奉行をやめさせ、後鳥羽の意思で政治を行わば御家人たちの願いも叶えられる。つまり義時排除という一点で、御家人たちと後鳥羽の利害は一致するという論理である。しかも、義時に味方すれば命を落とし、義時排除に功があれば褒賞すると、賞罰を明示する。日本全土に君臨しようとする後鳥羽ならではの論理である。とはいえ、院宣を受け取る御家人側からみても、問題が幕府の存廃ではなく義時排除の一点に絞られている上、最大の関心事である恩賞への言及もあり、受け入れやすい内容となっている。御家人の心を掴むのに十分な院宣といえよう。
 「慈光寺本」は、院宣を武田信光、小笠原長清、小山朝政、宇都宮頼綱、長沼宗政、足利義氏、北条時房、三浦義村の八人に宛てて下したとする。いずれも錚々たる有力御家人であり、かつ在京経験が豊富であった。後鳥羽が彼らを選んだのは、在京中に接点があったからと考えられる。また、義時の弟時房と甥の足利義氏(母親が政子・義時の妹)が含まれているのは、同族内の競合・対立を利用して御家人たちの分断を狙ったものであろう。幾人かを取り込むことができれば、絶大な効果を発揮することは間違いない。
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坂井氏は後鳥羽の院宣が「御家人の心を掴むのに十分な院宣」であって、「絶大な効果を発揮することは間違いない」と言われる訳ですが、では、実際にこの院宣は「御家人の心を掴」んだのか、「絶大な効果を発揮」したのかというと、全くそんなことはなかった訳で、坂井氏の力強い文章は、私にはいささか滑稽に思われます。
 

「後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかった」(by 坂井孝一氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月26日(火)08時23分40秒
編集済
  ということで、最初はごく基本的なところから、現在の学説の状況を確認しておきたいと思います。
そのためには坂井著の「はじめに」が便利ですね。

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 「承久の乱」といえば、朝廷の最高権力者たる後鳥羽院(上皇)が鎌倉幕府を倒す目的で起こした兵乱、、というのが一般的なイメージであろう。確かに、乱を境に朝廷と幕府の力関係は大きく変わった。この点だけを取り上げれば、朝廷が幕府を倒そうとして失敗した事件ということになる。ただ、そこには、朝廷と幕府を対立する存在とみなす先入観が働いているように思われる。また、ほぼ百年後、討幕を企てた後醍醐天皇が、後鳥羽の配流地である隠岐島に流されたという事実も影響しているかもしれない。
 しかし、研究の進展によって、朝廷と幕府の関係は対立の構図だけで捉えられるものではなく、後鳥羽が目指したのも執権北条義時の追討であって討幕ではなかったことが明らかになってきた。高校日本史の教科書も、後鳥羽は「北条義時追討の兵をあげた」「義時追討の命令を諸国に発した」と叙述し、「倒幕」「討幕」という表現は少なくなっている。
 さらに、後鳥羽の人物像も誤解されてきた。無謀にも幕府にたてつき、返り討ちにあって島流しになった、時代の流れが読めない傲慢で情けない人物といったイメージを抱く人が多いのではないか。おそらくこれも、先に述べた承久の乱の一般的理解や、朝幕関係に対する先入観に負うところが大きい。しかし、後鳥羽は中世和歌の極致ともいえる『新古今和歌集』を自ら主導して編纂した優れた歌人であり、諸芸能や学問に秀でた有能な帝王であった。一般には、こうした面に考慮が払われることはほとんどないように思う。
 同様のことは、鎌倉幕府三代将軍源実朝の人物像にもあてはまる。従来、実朝は万葉調の雄大な和歌を詠み、家集『金槐和歌集』を自撰した天才歌人ではあるが、それがゆえに荒々しい東国武士の間で孤立した政治的には無力な将軍、若くして甥の公暁に暗殺された悲劇の貴公子というイメージで捉えられてきた。しかし、これもまた先入観に基づく誤解である。幼少の頃はともかく、長じてからの実朝は将軍として十分な権威・権力を保ち、幕政にも積極的に関与していたことがすでに明らかにされている。しかも、後鳥羽の朝廷と実朝の幕府は、対立どころか親密な協調関係を築いていた。実朝の暗殺事件は幕府だけでなく朝廷にも衝撃を与え、乱の勃発に重大な影響を及ぼしたのである。

 本書は、こうした先入観に基づく一般的イメージを払拭し、研究の進展に即した「承久の乱」像を描きたい。【後略】
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「後鳥羽は中世和歌の極致ともいえる『新古今和歌集』を自ら主導して編纂した優れた歌人であり、諸芸能や学問に秀でた有能な帝王であった。一般には、こうした面に考慮が払われることはほとんどないように思う」はいくら何でも言い過ぎでしょうね。
『新古今和歌集』編纂における後鳥羽の関与の度合いが並大抵のものではなかったことはあまり知られていないかもしれませんが、優れた歌人であることは周知であり、また、様々な分野で傑出した能力を誇示したエピソードが豊富にあることも多くの人が知っているのではないですかね。
他方、実朝についての一般的な認識は坂井氏の言われる通りだと思いますが、例えば「謎の渡宋計画」(p89以下)はずいぶん奇妙な話で、これ以降も「実朝は将軍として十分な権威・権力を保」ったかというと、若干の疑問を感じます。
ま、あまり手を広げると収拾がつかなくなるので、当面は承久の乱に絞りたいと思います。
承久の乱に関する坂井氏の基本的認識は次の通りです。(p134以下)

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 もともと頑健な肉体と抜群の身体能力を持ち、乗馬・水練・笠懸などの武技に秀で、自ら太刀の焼き入れをしたと伝えられる後鳥羽には、幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかったと思われる。ただ、日本全土に君臨する王が、幕府をコントロール下に置けないのは問題であった。なぜコントロールできないのか。幕府の中に元凶がいるからである。その元凶とは誰か。
 表向きは三寅が将軍予定者、北条政子が尼将軍として幕府を代表している。しかし、後鳥羽が鎌倉に送った弔問使藤原忠綱は、実朝の生母である政子に弔意を伝えた後、義時の邸宅を訪れて長江・倉橋両荘の地頭改補要求を突き付けた。実質的に幕府を動かしているのは義時だと、後鳥羽が認識していたことの表れである。また、卿二位は先の言葉に続けて「去バ、木ヲ切ニハ本ヲ断ヌレバ、末ノ栄ル事ナシ。義時ヲ打レテ、日本国ヲ思食儘ニ行ハセ玉ヘ」と進言したという。卿二位も幕府を倒せ、とはいっていない。「本ヲ断」、すなわち元凶である義時を討って日本国を思いのままに支配するよう勧めているのである。
 かつては、後鳥羽が目指したのは「討幕」であったとする説が有力であった。また、現在の学界にも、後鳥羽の究極の目的を「討幕」とみなす説があることも確かである。しかし、承久元年(一二一九)から同三年に至る後鳥羽の動きや、承久の乱について記す鎌倉期の史料から「討幕」の二文字を読み取ることは難しい。大内裏造営を進める中で苛立ちを募らせた後鳥羽が、幕府をコントロール下に置くために優先順位を変更し、大内裏の完成から問題の元凶である北条義時の追討へと方針を転換するに至ったのだと考えたい。
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坂井氏によれば、「幕府や武士の存在そのものを否定する気などなかった」後鳥羽は、「実質的に幕府を動かしているのは義時だと」認識していて、「元凶である義時」さえ討って誰かと交代させれば「日本国を思いのままに支配する」ことが可能だと思っていたそうですが、本当にそうなのか。
坂井氏もご存じのように、軍事政権と言う意味での「幕府」の用法は鎌倉期にはないので、「承久の乱について記す鎌倉期の史料から「討幕」の二文字を読み取ることは難しい」というか、全く無理です。
しかし、史料に「討幕」の二文字がないからといって、「後鳥羽の究極の目的を「討幕」とみなす説」が史料に基づく実証的歴史学の範囲を逸脱するかというと、私はそうでもないんじゃないかな、と思います。
 

坂井孝一『承久の乱』 VS.本郷和人『承久の乱』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月25日(月)11時07分30秒
編集済
  >筆綾丸さん
本郷和人氏の『承久の乱』については、呉座勇一氏が

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 大河ドラマ「平清盛」の時代考証などで知られる歴史家の本郷和人氏は、日本経済新聞紙上で「日本史ひと模様」というコラムを連載している。先月16日の回では、同時期に刊行された本郷氏の『承久の乱』(文春新書)と坂井孝一氏の『承久の乱』(中公新書)のうち、後者の方が高評価の理由を考察していた。
 本郷氏によると、氏の著作のように結論をズバリ明快に語る本はありがたみが薄い。今のご時世、坂井氏の『承久の乱』や拙著『応仁の乱』(中公新書)のような、もったいぶって難解に語り答えを出さない本がもてはやされるのだという。
 拙著の評価はさておき、「難しく書けば売れる」という見方には同意できない。【中略】わかりやすさ至上主義に疑問を抱いた方々の支持で拙著はヒットしたと思うが、世間ではまだ少数派だろう。仮に拙著のヒットが、坂井氏の著作のような読者に迎合しない良質な歴史本への注目につながったとしたら、これにまさる喜びはない。

https://www.asahi.com/articles/DA3S13929048.html

と書かれていますね。
「日本史ひと模様」の内容は確認できませんが、たぶん下記リンク先と同じようなことを言われているのだろうなと思います。

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坂井さんはぼくの1学年先輩で、研究室で「同じ釜の飯を食った」仲です。その学風は端正で品が良い。いろいろなことを言いすぎる、説明しすぎるぼくとはまるで違う。だから棲み分けることは十分に可能、そう考えていました。
ただ、思わぬ副産物がありました。アマゾンのレビューをみると、2冊ともに読んでくれた方が、こんな感想を述べています。「本郷の本には和田合戦が書いてない、年表がついてない」と。そう冷静に指摘して、坂井本に軍配を上げられていたのですが、これを読んだときに閃きました。
ある一定数の読者は「持続可能性」、サステナビリティーこそを求めているのではないのか、と。
妻である本郷恵子さんが実際に聞いたところによると、東大という組織で高い地位にあったK先生はこうおっしゃっていたそうです。
「学者は軽々に答えを出してはいけない。アメをいつまでも口の中で転がすように、みんなでこうだろうか、ああだろうか、と考えるのがサステナビリティーだ。答えを出すヤツは嫌われる」。
恵子さんはつづけて「そこなのよ。結論を出してしまうから、私は誰からも褒めてもらえなかった」とグチる。ちなみに彼女は本質を抉り出すことが第一、と考えるタイプの研究者で、実生活でもぼくの話が冗長に流れると、「要点を言え、要点を!」と厳しく叱責してくるのです。
この戦いは何なのか? その意義は何か?――そう性急に問いかけること自体をそもそも自重しなくてはならない。重い問いには軽々に答えを出してはいけない。重い問いへの答えは、ああでもない、こうでもない、とみんなでゆっくり考えるべき・・・。
そう考える人々が多数派である中にあっては、快刀乱麻を断つが如くに答えを出しても称賛されることはありません。というか、答えを出すヤツは嫌われる。中味が理解できないところは、分からないまま、その輪郭だけを丁寧に描写すればよいのだ――こういった謙虚な姿勢こそが、大多数の共感を呼ぶわけです。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60224?page=3

坂井著と本郷著を両方読んでみたら、近年の研究を丹念にフォローし、史料も丁寧に紹介している坂井著は確かに「読者に迎合しない良質な歴史本」ですし、これと比較すると本郷著はテレビ番組での解説をそのまま文章化したようなお手軽さで、参考文献も全く載っていない雑な本ではありますね。
ただ、本郷氏もこの時期は若き日に相当熱心に研究されているので、ところどころ鋭い指摘がありますし、老獪な古狸となった本郷氏がボソッと呟く人物評などもそれなりに味わいがあります。
他方、誠実一筋の坂井著は、政治的人間への洞察の面で相当に甘さがあるのではないか、と思われます。
坂井・本郷氏以外にも多くの歴史学者が正面から争っている分野に参入する勇気はありませんが、知識の量が鎌倉後期に偏っている私にとって、承久の乱は勉強の素材として適当なので、坂井著と本郷著をもう少し検討してみたいと思います。
 

義時とその仲間たち

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 5月24日(日)14時30分15秒
編集済
  小太郎さん
主旨が一貫しなくて恐縮ですが、実は私も、義時追討と幕府追討は同値ではないという論法は、史料の字面に拘泥した屁理屈にすぎず、実質的には同じだろう、という思いがありました。
昔のように、後鳥羽院の名を僭称していた頃なら、院の本意をもう少しよく理解できたはずなのに、と思います。「幕府の公的な要素」という言葉に眩惑されて、幕府は追討の対象ではない、などと利いた風なことを軽々に言うべきではない、と反省しています。

ところで、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』(三谷幸喜)は、本郷氏が『承久の乱』(文春新書)で言われている、「幕府の本質は「頼朝とその仲間たち」」(21頁)や「幕府の実態は「義時とその仲間たち」」(171頁)などを踏まえているのではないか、と思っています。
専門家を挑発するような確信犯的な史劇になればいいな、と期待しています。
 

北条義時追討説への若干の疑問

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月23日(土)22時40分23秒
編集済
  >筆綾丸さん
上横手雅敬氏の『日本中世国家史論攷』(塙書房、1994)は近隣の図書館に見当たらないのですが、「鎌倉・室町幕府と朝廷」の初出は『日本の社会史第3巻 権威と支配』(岩波書店、1987)のようなので、これであれば明日にも確認できそうです。

>諸史料によれば、後鳥羽院は義時朝臣を追討せよ、と命じているだけであって、幕府を倒せ、とは言っていないので、幕府は追討の対象ではありません。

義時追討説は近時の極めて有力な説で、私も例えば近藤成一氏の次のような説明に納得していました。

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 承久三年(一二二一)五月十五日、後鳥羽は京都守護伊賀光季を討つとともに、義時の追討を五畿七道に対して命ずる宣旨を出させた。いわゆる「承久の乱」のはじまりである。宣旨が命じているのは義時の追討であって、討幕ではない。討幕が目的であれば、追討の対象は将軍のはずである。実朝の後嗣三寅は元服前だしまだ征夷大将軍に任ぜられていないけれども、宣旨のなかでは「将軍の名を帯す」と認められている。三寅は「将軍の名を帯す」るけれどもまだ幼齢であり、それをいいことに義時が専権を振るっていることが謀反と断じられて、義時の追討が命じられているのである。三寅は追討の対象ではない。
 しかも義時追討に立ち上がることが求められているのは諸国の守護人、荘園の地頭である。そもそも諸国の守護人が国衙に結集する武士を動員して王朝を警固する体制は、鎌倉幕府成立以前にさかのぼるものであり、鎌倉幕府はその体制を一元的に掌握することにより御家人体制を構築したのであるが、後鳥羽はその諸国守護人とさらには地頭に対して直接呼びかけ、自己のもとに直接再編成しようとしているのである。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9217

ただ、最近、義時追討説を詳しく論じた坂井孝一氏の『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書、2018)と、討幕説を維持する本郷和人氏の『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書、2019)を読み比べてみて、義時追討説にも若干の疑問を感じるようになりました。
それは仮に後鳥羽が戦闘に勝利したら一体何をやりたかったのだろう、武士との間にどのような関係を構築しようとしたのだろう、という戦後構想の問題です。
義時追討説を文字通りに理解したら、義時だけを排除して幕府機構は温存、三寅の地位も温存ということになりますが、では「尼将軍」政子もそのままでよいのか。
慈光寺本承久記によれば、後鳥羽は藤原光親を奉者とする北条義時追討の院宣を武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村の八人に充てて下したとのことで、これはそれなりに真実味がありますが、では、これらの者が義時に反抗して勝利し、例えば北条時房を首班とする守護・地頭を統括する機構が鎌倉にできそうになったとして、後鳥羽はそれに満足するのか。
義時の弟である時房だったら義時と五十歩百歩であり、元の木阿弥、何のために戦ったのかも分からなくなりそうです。
では、例えば三浦だったらよいのか。
北条を中心とする幕府機構が三浦を中心とする幕府機構に変ったら、後鳥羽は満足だったのか。
義時追討説を説く論者も、後鳥羽勝利後の戦後構想についてはあまり論じていないようで、坂井氏などは本当に義時排除だけで良かったように思っているのかもしれないですが、それもあまりに無邪気ではなかろうかと感じます。
後鳥羽が院宣と官宣旨に書いた文章はあくまで義時追討ですが、それは幕府内部の対立を誘発させるための手段であって、後鳥羽の本来の意図は別だと考えることは充分に可能であり、「尼将軍」政子や大江広元らは決して後鳥羽の命令をすり替えたのではなく、むしろ後鳥羽の真の意図を正確に読み取ったのだ、そして院宣の宛先であった八人を含む御家人も、政子らの解釈に納得したのだ、と解することも充分に可能なのではないかと思います。
 

追記

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 5月21日(木)17時22分13秒
編集済
  http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122105.html
諸史料によれば、後鳥羽院は義時朝臣を追討せよ、と命じているだけであって、幕府を倒せ、とは言っていないので、幕府は追討の対象ではありません。
従って、法理論的には(屁理屈としては)、「公的な要素」の意味は不明ながらも、幕府に公的な要素はあった、と考えられるのではあるまいか。
補遺
幕府の公的な要素とは、後鳥羽院を以てしても否定しえない幕府の legitimacy (合法性・正当性)のことかな、という気もしますね。
 

野口氏の記述について

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月21日(木)09時22分18秒
編集済
  >筆綾丸さん
ご指摘の部分、私もちょっと引っかかったのですが、野口氏は「幕府に公的な要素がなかったからであるが」に付された注(18)と、「武士社会の慣例が躊躇無く適用されたともいえるのである」に付された注(19)において、

-------
(18) 上横手雅敬「鎌倉・室町幕府と朝廷」(同『日本中世国家史論攷』塙書房、一九九四年。初出は一九八七年)
(19) 上横手雅敬「「建永の法難」について」(同編『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、二〇〇八年)。なお、中世前期における死刑や天皇・貴族の武装については、同「講演 天皇と京都」(『ミネルヴァ日本評伝選通信』36・37、二〇〇七年)を参照(坂口太郎氏の御教示による)。
-------

と書かれています。
『鎌倉時代の権力と制度』は以前読みましたが、関係部分の内容は忘れてしまったので、後で確認してみます。

「上横手のじっちゃんと11人の孫たち」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5583
徳大寺公継
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5594
 

疑問

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 5月20日(水)18時30分24秒
  小太郎さん
ご引用の野口氏の記述の内、
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乱後、公家法の伝統によれば文官であるがゆえに死罪にされないはずの彼らが処刑されたのは、理論的には朝廷から追討の対象とされた幕府に公的な要素がなかったからであるが、実際、彼らは武装して戦ったのであるから、武士社会の慣例が躊躇無く適用されたともいえるのである。
----------
は理解しにくい文で、幕府の「公的な要素」とは何を意味するのか、権門体制論から導出される概念なのかな、とも思いますが、わかりません。
 

「貴族が軍事指揮官・戦闘員として戦場に臨んだ極めて稀な事件」(by 野口実氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月20日(水)11時16分18秒
編集済
  16日に近隣の公共図書館が利用できるようになって、図書館砂漠のカラカラ状態から、やっと一息つきました。
早速、承久の乱研究の最新成果だろうと目星をつけておいた野口実編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)を借りてきて通読しましたが、予想通り充実した内容ですね。

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これまで乱の勃発要因や合戦の動向の解明に主眼が置かれてきた承久の乱を主題に取り上げ、後鳥羽院が率いる朝廷や後鳥羽院周辺の人物、さらには幕府の諸将や構造等を多面的に再検討することで、承久の乱の前と後で、中世社会の何が変化したのかを明らかにする。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/522/

中でも山岡瞳氏の「後鳥羽院と西園寺公経」は、自分でもきちんと調べなければと思っていたことが丁寧に整理されていて良かったのですが、直近の関心からは野口実氏の「承久宇治川合戦の再評価」が一番参考になりました。
同論文は、

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はじめに
一、『承久三年四年日次記』など
二、『吾妻鏡』と流布本『承久記』
三、『吾妻鑑』と『承久記』の記事の検討
四、承久宇治川合戦の歴史的意義
おわりに
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と構成されていますが、論旨がコンパクトに纏められている第四節の冒頭を少し引用してみます。(p83以下)

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 四、承久宇治川合戦の歴史的意義

 宇治川を挟んだ軍事的衝突は、源平内乱期から承久の乱の間、治承四年(一一八〇)・寿永二年(一一八三)・元暦元年(一一八四)・承久三年(一二二一)に惹起されているが、「合戦」と呼びうるほどの大事件は承久の乱におけるもののみであり、『平家物語』の語る宇治川合戦譚は、承久宇治川合戦や、宇治を舞台として頻繁に展開された南都悪僧による強訴の際に発生した逸話をベースとして、聴き手の興味を誘う文学的な虚構が大きく付加されたものとみるべきであり、歴史的事実としては否定されなければならない。
 反対に、従来あまり評価されることのなかった、承久の乱における宇治川合戦こそ、その歴史的意義づけが求められるのである。この合戦は、その経過を上記『承久三年四年日次記』などの史料に『吾妻鏡』の記事も加えて跡づけることが出来、しかもそこからは史上稀に見る大激戦であったことが伺えるのである。
-------

『吾妻鏡』承久三年六月八日条に「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」と名前が出てくる土御門定通が、乱後、他の三人と異なって全く処分されなかった理由について、私は定通が北条義時娘と既に結婚していたからではないか、と考えましたが、やはり罪状についても、定通は他の三人よりは軽微のようですね。
特に「史上稀に見る大激戦」であった宇治川合戦については、『吾妻鏡』六月十二日条に、

-------
重被遣官軍於諸方。所謂。三穂崎。美濃堅者觀嚴。一千騎。勢多。山田次郎。伊藤左衛門尉。并山僧引卒三千余騎。食渡。前民部少輔入道。能登守。下総前司。平判官。二千余騎。鵜飼瀬。長瀬判官代。河内判官。一千余騎。宇治。二位兵衛督。甲斐宰相中將。右衛門權佐。伊勢前司〔淸定〕。山城守。佐々木判官。小松法印。二萬余騎。眞木嶋。足立源三左衛門尉。芋洗。一條宰相中將。二位法印。淀渡。坊門大納言等也。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、諸所に派遣された官軍の中に、宇治に向かった「二位兵衛督」源有雅、「甲斐宰相中將」藤原範茂、淀渡に向かった「坊門大納言」忠信の名前はあっても土御門定通は登場しません。
また、『承久記』流布本にも定通は登場しておらず、やはり他の三人とは合戦への関与の程度が異なったようですね。
さて、野口氏は、上記引用部分の少し後に、

-------
 最後に、この合戦で貴族が戦闘に加わっている点についてもコメントしておきたい。
 平治の乱における藤原信頼・成親らの武装従軍の事実もあるが、中世前期においては、この宇治川合戦が、公戦において貴族が軍事指揮官・戦闘員として戦場に臨んだ極めて稀な事件であったことは銘記されなければなるまい。これは鎌倉幕府滅亡・建武政権期における千種忠顕や北畠顕家らの先蹤をなしたものと評価されるであろう。
 乱後、公家法の伝統によれば文官であるがゆえに死罪にされないはずの彼らが処刑されたのは、理論的には朝廷から追討の対象とされた幕府に公的な要素がなかったからであるが、実際、彼らは武装して戦ったのであるから、武士社会の慣例が躊躇無く適用されたともいえるのである。
-------

と記されていますが(p85)、千種忠顕は定通の同母兄・久我通光の子孫(久我通光─六条通有─六条有房─六条有忠─千種忠顕)であり、同じく北畠顕家は定通の同母弟・中院通方の子孫(中院通方─北畠雅家─北畠師親─北畠師重─北畠親房─北畠顕家)です。
定通は、処刑ないし流罪となった源有雅・藤原範茂・坊門忠信ほど積極的ではありませんが、「軍事指揮官・戦闘員として戦場に臨んだ極めて稀な」貴族の一員ではあったので、客観的には武士ではないとしても、承久の乱の記憶がまだ生々しかった安貞元年(1227)に「我又武士也」程度のことを言う資格は充分にあったはずです。
「我又武士也」に関する本郷和人氏の議論は一般論に流れ過ぎであり、岩田慎平氏も「彼を取り巻く姻戚関係とそこから派生する縦横の人脈にも注目」すると同時に、あるいはそれ以前に、承久の乱における土御門定通の「軍事指揮官・戦闘員として戦場に臨んだ極めて稀な」行動に注目すべきではなかろうかと思います。

「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241

>筆綾丸さん
すみませぬ。
レスは後ほど。
 

文永10年12月の後朝

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 5月19日(火)13時43分42秒
編集済
  邪魔ばかりして恐縮です。

https://www.bbc.com/news/health-52677203
バイオテクノロジー企業モデルナが開発したワクチンmRNA-1273がコロナウイルスに有効かもしれない、という記事です。
『とはずがたり』(講談社学術文庫)には、文永10年(1273)、二条は院の皇子を生み(2月)、さらに、雪の曙と同衾して(12月)、
「・・・塗骨に松を蒔きたる扇に、銀の油壺を入れて、この人の賜ぶを、人に隠してふところに入れぬと夢に見て」目が覚めると、相手も似たような夢を見たというので、不思議なことがあるものねえ、といったような神々しくもエロチック話があります。
現代の若者はクールなので、都内のシティホテルに宿泊して二人で同じ夢を見るようなことは、ゆめゆめないだろうと思われ、昔は良かったなあ、と帰らざる青春の日々をも重ね合わせ、うたた感慨を禁じえない今日此頃です。
蛇足ながら、mRNA-1273のmはメッセンジャーの略称ですが、雪の曙は二条に、どんな後朝の歌(メッセージ)を送ったのか、何も書いてないので、わかりません。
 

土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月18日(月)11時12分7秒
編集済
  前回投稿の最後に「これは何故なのか」と書きましたが、答えは明らかで、土御門定通が承久の乱の前から北条義時の娘と結婚していたからですね。
しかし、義時娘が土御門定通に再嫁した時期について、本郷氏は承久の乱の後と考えておられるようです。
前回投稿で引用した部分の少し後、本郷氏は、

-------
 廷臣五人の処刑は稀有なことであり、また幕府の主導のもと武士の論理に沿って行われた。しかしそれは律令に準拠し得る行為であった。【中略】けれども上皇、それも天皇家の家長の配流となれば別である。律令には太上天皇を罰する規定は無いし、いわんや朝廷の主導者を罰するそれなど原理的にも存在しなかった。
-------

と強調されます(p55)。
そして「武士の論理が朝廷の法より先行した先例を求めれば、保元の乱にまで遡れるだろう」(同)と、保元・平治の乱について論じられた後、

-------
 しかし承久の乱は違う。後鳥羽上皇の配流は、繰り返しになるが准的・折中等々のいかなる方法を以てしても、朝廷の法では説明ができない。かかる科罪を支えるものは、「屠者・屠類」とよばれ恐れられた武士の荒々しい慣習があるばかりである。世の人はこの時明らかに、武士の論理が朝廷のそれに凌駕したことを思い知ったであろう。かねてから恐怖の対象であった武士の所業が朝廷に及び、それに対し朝廷が為す術をもたぬのを眼前にした時に、彼らも「ひしと武士の世になったのだ」という慈円の認識を共有することになったのである。
 承久の乱、それは朝廷の権威が瓦解し、武士の世の始まりを人々に告げ示す事件であった。武士は人々の意識を改革したこの時点において、名実ともに貴族に代わる存在となった。また幕府は実質的な統治権力として、朝廷を乗り越えて機能することになる。そして如何に撫民・徳政を標榜しようとも、その統治の実現の根底にあるものは、「たちまちに神人を斬首する」畏怖を伴う武力に他ならなかった。
 北条泰時が良くて何でこの私は非難されるのか。高貴な地位にある私が泰時風情に劣るのか。冒頭の事件からは定通の無念の歯噛みが聞こえてくる如くである。けれどもそうした定通の悲憤をよそに、これ以後朝廷は幕府と結んだ者が権威を誇る場となった。幕府と緊密な連絡を保ち、事あらば武力の援助を要請できる者だけが、朝廷の統治行為に関与し得たのである。
-------

と続けます。(p56)
なかなかの名文なので長々と引用してしまいましたが、アユ釣り事件に際し、定通は本当に「北条泰時が良くて何でこの私は非難されるのか。高貴な地位にある私が泰時風情に劣るのか」と思ったのか。
その点を検討するために、更に続きの部分を引用します。

-------
 事件から十五年後の仁治三(一二四二)年、朝廷は深刻な事態に直面していた。四条天皇が十二歳で没し、皇位の継承が問題になったのである。朝廷の実力者九条道家は順徳上皇の子忠成王を推したが、幕府はこれを拒絶した。後鳥羽上皇の嫡流が皇位に返り咲くことに、また道家の勢力の増大に警戒感を持ったためと推測される。さてここで私たちは思いがけない人物と再び出会う。他ならぬ土御門定通である。彼は土御門上皇と姪との間に生まれた邦仁王を推戴して幕府に働き掛け、首尾よく認可を引き出した。彼の画策が成功した蔭には、執権泰時の信任厚い六波羅探題北条重時の存在がある。実は重時の同母の姉妹を、定通は前々から妻の一人に迎えていたのであった。
 かつて「我また武士なり」と叫んだ彼と、関東武士との縁組みを利用し外戚の地位を手にいれた彼と。定通の武士観はこの十五年のうちに一体どのように変化したのだろうか。「屠児」たる武士との縁を積極的に求めることに、彼は痛みを感じなかったのだろうか。一時の悲憤など実利の前には何ら意味を為さなかったのだろうか。とまれ、一人の貴人の複雑な武士への思いを伴って邦仁王、すなわち後嵯峨天皇が即位し、朝廷はまた新たな変貌を遂げる。そして彼のその思いが持つ振幅は、「武士」ということば自体のそれに等しいのであった。
-------

「実は重時の同母の姉妹を、定通は前々から妻の一人に迎えていたのであった」の「前々から」が具体的に何時なのかを本郷氏は明確にはされていませんが、「かつて「我また武士なり」と叫んだ彼と、関東武士との縁組みを利用し外戚の地位を手にいれた彼と。定通の武士観はこの十五年のうちに一体どのように変化したのだろうか」とあるので、安貞元年(1227)のアユ釣り事件の後だと考えておられるのは明らかですね。
しかし、承久の乱で定通と同様に軍事活動に加担した人々は死罪を含め、厳しく処断されており、西八条禅尼(実朝未亡人)の兄である坊門忠信すらいったんは処刑の対象となり、政子・義時の温情で流罪に軽減されています。
それなのに定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
定通の一歳上の同母兄・源(久我)通光は後鳥羽院の叡山御幸に同行しただけなので、乱への関与は定通より軽いはずですが、それでも乱後、直ちに内大臣を辞し、その後、安貞二年(1228)三月二十日に「朝覲行幸時始出仕。弾琵琶」とあるまで「承久三年後篭居」(『公卿補任』)であり、定通とは対照的です。
このように乱後の定通の処遇は本当に恵まれていて、奇跡的とすら言えると思いますが、そのような処遇となった理由は、定通と北条義時娘との婚姻が承久の乱の前だったこと以外に考えられません。
従って定通は、アユ釣り事件に際して、承久の乱の時は俺も武士のように暴れまわったものだが、それでもこうして生きていられるのは義理の兄の北条泰時殿のおかげだ、と感謝こそすれ、「北条泰時が良くて何でこの私は非難されるのか。高貴な地位にある私が泰時風情に劣るのか」などとは決して思わなかっただろうと思います。
私の耳には、アユ釣り事件から「定通の無念の歯噛み」など全く聞こえては来ず、それは「一人の貴人」に妙に感情移入されている本郷氏にだけ聞こえる幻聴だろうと思います。
「定通の武士観はこの十五年のうちに」特に変化することはなく、承久の乱の前から、「「屠児」たる武士との縁を積極的に求めることに、彼は痛みを感じなかった」のであり、邦仁王の践祚を画策するに際しても、妻の同母兄(弟)である北条重時と協力するに際して、「複雑な武士への思い」は伴わなかっただろうと私は考えます。
 

土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月17日(日)11時11分11秒
編集済
  土御門定通のアユ釣り事件をきっかけに、久しぶりに本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)を少し読んでみましたが、本当に充実した内容ですね。
四半世紀前、『とはずがたり』から中世文学・中世史の世界に迷い込んだ私にとって、鎌倉時代の貴族社会はどうにも難解でしたが、「訴訟」をタイトルに入れているこの本を初めて出会ったとき、法制史は自分の興味と直接にはつながらないなあ、などと思いつつ目次を見たら、実にドンピシャの内容であることに驚愕しました。
そこで早速購入して、叙述の高度さに苦しみつつも、熱心に読み耽った日々を思い出します。
さて、この本は、

-------
はじめに
序章  朝廷訴訟の構造
第一章 九条兼実の執政と後鳥羽院政
第二章 承久の乱の史的位置
第三章 九条道家の執政
第四章 後嵯峨院政─後期院政の成立─
第五章 亀山院政─朝廷訴訟の確立─
第六章 持明院・大覚寺両統の治世
終章  朝廷訴訟の特質
附論 朝廷経済小考
廷臣小伝
おわりに
-------

と構成されていて、アユ釣り事件は「第二章 承久の乱の史的位置」の「(3) 「武士」と承久の乱」に出てきます。
その冒頭を少し引用してみます。(p49以下)

-------
 押し寄せる鎌倉の軍勢の前に栄華を誇った後鳥羽院政が崩れ去った承久の乱から六年、安貞元(一二二七)年、京都。洛南の吉祥院前において鮎をとる人があった。神人が四至殺生禁断を説いて制止を加えると、貴人がお出になってなさっていることだから、と聞き容れない。ついには何を生意気なとばかり、殴る蹴るの乱暴をうける始末である。
 怒った神人は関白近衛家実に訴え出た。家実が調べたところ件の貴人は土御門定通と判明。家実の意を受けた老儒菅原在高(従二位散位)から定通に向け、神人の愁訴を鎮めんがため、形ばかりで良いから下部一人を検非違使に引き渡して欲しいとの申し入れが行われた。これに対し定通は反駁する。先ごろ同じ場所で武士が漁をしたが問題にならなかったではないか、人によって咎め立てるのか。たしかに神領と知らず六波羅探題北条泰時が観漁を企てたが、注意されてすぐさま立ち去った。神人がどうしてそれを訴えようか、と在高が陳弁するや定通は更に言う。「武士の威を恢〔おお〕しとし(私を)軽んぜらるか、我また武士なり、早く其所に向かい、件の神人皆悉く斬首して見せ申すべし」。在高はその権幕に舌を巻き、止むなく引き下がったのであった。
 定通は時に四十歳。正二位大納言。後鳥羽上皇若年の一時期に権勢をふるった内大臣源(土御門)通親の子息で長兄通宗の養子でもあり、通宗早逝の跡をうけて久我・中院・堀川・唐橋等の家からなる村上源氏一門の中心人物と目されていた。まさに上流貴族である。
 その彼に「我もまた武士なり」という言辞は甚だふさわしくないよに思える。それは我々が江戸時代の武士のイメージ、農・工・商の上に立つ階層としてのそれ、に強く拘束されているからだろう。定通、あるいはこの事件を書き記した藤原定家にとって、「武士」は単に身分の指標として限定的に用いることばではなかった。貴族・神人・百姓等に対置すべき社会的階層を指し示す以上に、「刀をふるい、意のままにならぬ神人をたちどころに斬首してしまう」ような人々を意味したのであった。
-------

本郷氏は『明月記』に記された「相模太郎」を北条泰時(1183-1242)とされていますが、泰時は貞応三年(1224)六月に六波羅探題を辞めて鎌倉に戻っていますから、三年以上前の話を先例として持ち出すのも少し変で、ここはやはり岩田氏の言われるように、「相模守北条時房の長男・北条時盛に比定すべき」(注2)なのでしょうね。

北条時盛(1197-1277)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E7%9B%9B

ま、それはともかく、この後、本郷氏は「侍(さぶらひ)」という言葉や貴族社会における「穢」の観念などを論じてから、

-------
 穢および殺生という概念を媒介にすると、武士と貴族はかくも隔たった存在であった。こうした理解を踏まえて初めて、定通のことばも解することができる。彼ら貴族にとって、武士は何にもまして殺生の徒と映ったのである。さて、以上のことを前提として、次に承久の乱を見てみよう。承久の乱こそは当時に生きる廷臣すべてが、否も応もなく、武士との接触を余儀なくされた事件であった。
 乱の結果、すなわち武士の勝利がもたらした特筆すべき事象の一つは、乱の首謀者たる廷臣の斬罪である。葉室光親(正二位前権中納言)・源有雅(同前)・葉室宗行(正三位前権中納言)・高倉範茂(従三位参議)・一条信能(正四位下参議)の五人の権臣が、乱後直ちに処刑されたのであった。同じ運命をたどる筈だった坊門忠信(正二位権大納言)が妹西八条禅尼(源実朝未亡人)を通じて北条政子・義時に命乞いをし、辛くも許されたことが逆に証明するように(忠信は代わりに越後国に流されるが、『公卿補任』は「無流罪宣旨」と記す。すなわち、これも朝廷の正規の規定に則った処罰ではない)、処罰はまさに北条氏、幕府の命によって行われたのである。
-------

と続けます。(p53)
ただ、定通は、前回投稿で引用したように、『吾妻鏡』に「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」と書かれていて、「否も応もなく、武士との接触を余儀なくされた」というよりは、むしろ積極的に後鳥羽院の企てに協力して「武士との接触」を図り、戦闘にも加担した人ですね。
そして、定通と同様の行動を取った源有雅・高倉範茂は「乱後直ちに処刑」され、「同じ運命をたどる筈だった」坊門忠信は皮一枚で首がつながって流罪です。
従って、定通も「同じ運命をたどる筈だった」ように思われますが、しかし『公卿補任』を見ると、定通は乱後も官位官職に何の変化もなく、正二位権大納言のままです。
これは何故なのか。

>好事家さん
陰陽師の方の土御門家は全然別の系統で、私は全く知識がありません。
すみませぬ。
 

土御門定通

 投稿者:好事家  投稿日:2020年 5月16日(土)14時22分52秒
  この掲示板に土御門定通(1188-1247)が登場しました。
村上源氏、源師房(1008-1077)の7代目の子孫。
調べると定通から数えて11代目の子孫、定長(1408-1411)は赤松満祐の
嘉吉の変の一か月後出家直後亡くなっています。
定長の子有通も早世し残念ながら土御門家断絶。

その後も継続した土御門家は安倍晴明(921-1005)の子孫。
晴明から数えて14代目の有世(1327-1405)から土御門を名乗ったようです。
小太郎さん、なぜ安倍から土御門に?ご存知なら教えて下さい。
関西のあべのハルカスは安倍晴明に由来しているとか?
土御門有世から18代目の範忠氏(1920-1994)には善子(1959-)と言う
一人娘を残して他界したようです。
安倍晴明自体、平将門(903-940)息子だと言う人もいます。
 

「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月16日(土)10時21分13秒
編集済
  土御門定通のアユ釣り事件について、岩田氏は、

-------
 この事件については、これまでにもいくつかの研究で取り上げられている。本郷和人氏は、「この当時は実力で処断権を行使する者のことを広く「武士」と称する用法があった事に加えて、承久の乱の後には、武士に対して卑屈に成り下がった公家社会(土御門定通自身も含む)に対する痛烈な皮肉」が込められていたとする。また、高橋昌明氏は「武をもてあそぶ貴族」の一例としてこの土御門定通を挙げている。桃崎有一郎氏は、土御門定通が、承久の乱で幕府を勝利に導いた執権北条義時の婿となったことで、自分を甘く見る者を全員斬首しようという武士的な思考様式を開花させるに至ったとする。
 本郷氏の指摘は「武士」という語の定義および理解に無理があり、高橋氏および桃崎氏の指摘は定通とその周辺の人脈についての検討が充分になされているとは言い難い。「我又武士也」とする定通の自己主張が、北条義時との姻戚関係を誇示したものであろうことは疑いないが、かりにも「武士」を自称するに至った背景について、彼を取り巻く姻戚関係とそこから派生する縦横の人脈にも注目すべきである。その上で、彼が「我又武士也」と主張したことの意味を検討してみたい。

http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_017.pdf

と書かれていますが、注(4)を見ると、桃崎氏の見解の出典は「鎌倉幕府の成立と京都文化誕生のパラドックス─文化的多核化のインパクト─」(中世学研究会編『幻想の京都モデル』高志書院、二〇一八年」となっています。
相変わらず桃崎氏の言語感覚は華麗であり絢爛豪華でありバブリーですが、正直、阿呆だな、という感じを受けない訳でもありません。
ま、それはともかく、定通の発言は老儒者・菅原在高(当時六十九歳)との何度かのやり取りの最後に出てきたものですね。
在高は最初、関係者から「源大納言」と聞いたので権大納言正二位の源雅親(源通親の弟・通資男、土御門定通の従兄、四十八歳)ではないかと疑って雅親に問い合わせたところ、「於吉祥院前、釣魚事、老翁全非思寄事、天神定御知見歟云々」との返事が来て、その後、やっと定通だと分かり、定通と何度もやり取りを重ねます。
定通からしてみれば、たかが魚くらいで面倒くせーことを言いやがって、みたいな気持ちになって、最期に「俺だって武士だぞ。ガタガタ言うならその神人どものところに行って、全員首をたたっ斬ってやる」みたいなことを言い出した訳で、これを聞いた在高は、「ヤバい人に関わってしまった」と恐れをなして交渉を止めた訳ですね。
こうした経緯を考えると、酔っぱらいの戯言に類するような「我又武士也」という表現を本当に真面目に分析してよいのだろうか、という感じもしますし、「定通の自己主張が、北条義時との姻戚関係を誇示したものであろうことは疑いない」と言えるのかも若干の疑問が生じてきます。
でもまあ、この表現に一抹の真実が秘められているとすると、岩田氏は特に触れておらず、また、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)にも出ていませんが、私はこの土御門定通の発言は承久の乱の記憶がまだ生々しい時期のものであることを重視すべきではないかと思います。
承久の乱に際して、定通はそれなりの軍事的活動をしていることが『吾妻鏡』承久三年六月八日条に出ていますが、原文を見る前に坂井孝一氏の『承久の乱』(中公新書、2018)で当時の状況を確認しておくと、

-------
 同じ六月八日、京方の藤原秀康と五条有長は、傷を負いながら帰洛し、摩免渡での敗戦を報告した。院中は騒然となり、坊門忠信、源(土御門)定通・同有雅、高倉範茂ら院近臣の公卿も、宇治・瀬田・田原方面の防衛に向かうことになった。
 追いつめられた後鳥羽は、比叡山延暦寺の僧兵に期待をかけた。土御門・順徳両院、雅成・頼仁両親王らと、院近臣二位法印尊長の邸宅で評議を凝らした上、六月八日の夕刻、比叡山に御幸した。甲冑を身につけた源通光、藤原定輔・同親兼・同信成・同隆親ら公卿・殿上人と尊長を従え、西園寺公経・実氏父子を囚人のように引き連れた。
-------

といった具合です。(p182以下)
この部分は『吾妻鏡』同日条の、

-------
寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

という記述にほぼ対応していて、「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」とあるように、定通は戦場に派遣されています。
ここで定通は一歳上の同母兄「内府」源通光(三十五歳)や四条隆親(十九歳)のように甲冑を着けていると明記されている訳ではありませんが、後鳥羽院の御幸に同行するより遥かに危険な任務を遂行している訳ですから、当然に甲冑を着ていたのでしょうね。
こうした経験は、興奮したときに「我又武士也」と言う程度の話の背景には充分なると思われます。
 

土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月15日(金)20時16分40秒
編集済
  京都女子大学宗教・文化研究所の『紫苑』はPDFで読めますが、17号(2020)の岩田慎平氏による「「我又武士也」小考」という論文は面白いですね。

http://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_017.pdf

「我又武士也」とは承久の乱の六年後、安貞元年(1227)に洛南の吉祥院前で鮎を釣っていて神人とトラブルになった土御門定通、当時四十歳で正二位大納言が、神人の関白近衛家実に対する訴えを受けて事実関係を調査し、妥協的な解決策を提案した菅原在高(従二位散位)に対して言い放った言葉です。
最上層クラスの貴族である土御門定通は客観的には「武士」ではありませんが、とにかく自分も武士だと言い放った訳で、いささか奇妙な話です。
この話は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)に詳しく出ていて(p49以下)、ずいぶん昔、私は本郷氏に対して、定通の意図についての素人っぽい質問をしたことがあります。
ま、そんなこともあったので、私はこのエピソードが従前から気になっており、岩田氏の説明を興味深く読みました。
論文の内容は直接読んでもらうとして、非常に些細な点で、一箇所、岩田氏の考え方に疑問を感じました。
それは、大江親広と離縁した北条義時の娘が土御門定通と再婚した時期についてです。
岩田氏は注(7)において、

-------
(7) 土御門定通と北条義時の娘との婚姻時期については、両者の子・顕親の生年が参考となる。顕親が宝治元年(一二四七)六月二日に出家した際の年齢について、『葉黄記』と『百錬抄』の同年六月三日条ではそれぞれ「年廿六」・「生年廿六」、『公卿補任』では二十八才とある。すなわち生年は、宝治元年に二十六才なら承久四年(貞応元年、一二二二)、二十八才ならば承久二年(一二二〇)となる。両者の婚姻はそれ以前のことであろうが、承久の乱の前後いずれであったかは決しがたい。
-------

とされていますが、顕親の経歴は顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の『公卿補任』の尻付に相当詳しく書かれており、それによると

-------
従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。

貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
-------

とのことで、ここまで詳しく出ている以上、『公卿補任』の記述を疑う理由は特にないと思います。
そして貞応元年(1222)正月二十三日に叙爵ですから、さすがに同年の出生は変で、承久二年(1220)誕生、嘉禎四年(1238)に十九歳と考えるのが自然ですね。
従って、土御門定通と北条義時娘の婚姻は承久の乱の前となり、当然、大江親広と義時娘の離縁も承久の乱の前となりますね。
さて、ちょっと面白いのは、土御門定通に再嫁した義時娘は比企朝宗の娘「姫の前」の所生であって、北条朝時・重時と同母です。
そして、母の「姫の前」は北条義時と離縁した後、京都で源具親に再嫁しますが、この再婚についても比企氏の乱(1203)との前後関係が問題となって、森幸夫・呉座勇一氏は再婚は比企氏の乱の後であるとしています。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10174
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10175
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10176

「姫の前」の場合は、スケジュール的に相当厳しいものの、一応、再婚が比企氏の乱の後という可能性が皆無ではありませんが、北条義時娘の再嫁は承久の乱の前で確定ですね。
実は、かくいう私も、検索してみたら二年前の投稿で、

-------
伊賀光季はその姉か妹が北条義時(1163-1225)の後室(伊賀の方)となって義時に重用され、実朝横死の翌月、大江広元の長男・親広とともに京都守護として上洛します。
大江親広は後鳥羽院に丸め込まれてしまったものの、伊賀光季は後鳥羽院の誘いを拒否して自決した訳ですね。
『増鏡』には言及がありませんが、大江親広も村上源氏との関係で興味深い人物です。
この人は源通親の猶子となって源親広を称した後、大江に復姓しますが、その室は北条義時の娘(竹殿)で、重時・朝時の同母妹です。
承久の乱に加担した親広が、死罪は免れたものの京都を追放された後、義時娘は土御門定通(1188-1247)に再嫁しますが、四条天皇の頓死後、後嵯峨が践祚するに当たっては、この義時娘を通じての定通と幕府の関係が後嵯峨に有利に働いたといわれています。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9213

などと書いてしまっているのですが、単なる思い込みでしたね。
北条義時娘は源頼朝に説得されて義時と結婚した「姫の前」以上に周囲に遠慮などする必要のない立場ですから、政治情勢とは無関係に、大江親広との離婚をさっさと決断し、京都に行って土御門定通と再婚したのでしょうね。
なお、土御門定通と北条義時娘の間に生まれた顕親については、『弁内侍日記』にその出家の状況が詳しく描かれています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p175以下)

「土御門顕定の弟・顕親の出家」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9268

上記投稿時には、私は、

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ということで、顕親は容姿も人柄も優れていて、女性に人気のあった人のようですね。
顕親の出家の理由は分かりませんが、宝治元年六月一日というと鎌倉では宝治合戦の直前で、既に相当不穏な空気が流れていたころです。
あるいは母の縁で鎌倉情報が詳しく入ったため、武家社会の粗暴・陰険さや、そうした鎌倉との関係が立身出世につながっている自分の身が疎ましく思われたようなことがあったのでしょうか。
ま、それは小説の世界に入ってしまいますが。
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などと書いたのですが、この時は顕親の祖母が「姫の前」であって、顕親は一族全滅となった比企氏の乱のことも詳しく知っていたはずであることに思い至っていませんでした。
顕親にしてみれば、武家とのつながりの疎ましさは相当深刻であって、「小説の世界」に入らずとも、それなりに説得的な説明が出来そうですね。
 

尾身茂氏と内村祐之『わが歩みし精神医学の道』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月13日(水)11時25分31秒
編集済
  ツイッターでコロナ対策専門家の尾身茂氏と立憲民主党幹事長・福山哲郎のやり取りがちょっと話題になっていて、私も動画を見たのですが、福山のあまりの無知と専門家に対する傲岸なふるまいにちょっとびっくりしました。

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京都新聞2020年5月13日
立憲民主党の福山幹事長、詰問口調を釈明「申し訳ない」 新型コロナの参院予算委

 福山氏は11日の予算委で、感染者総数は政府の報告よりも潜在的に多いという推測について尾身氏に3回にわたり認識をただした。最後の質疑で尾身氏が東京都の陽性率を引き合いにして説明を加えようとしたところ、途中で「私が言っていることについて答えてください」「短くしてください」と言葉を挟んだ。尾身氏が説明を終えると「全く答えていただけませんでした。残念です」と述べた。
 会見では、京都新聞社が政治家同士のやりとりではなく、専門家の立場にある尾身氏への態度としてどう思うかを聞いた。福山氏は質疑の冒頭で尾身氏の尽力に敬意を述べたとした上で「予算委は時間の制約がある。私の質問にストレートに答えていただけなかったので」などと説明した。

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/245347

ま、それはともかく、尾身茂氏は自治医大の第一期生とのことで、進学の経緯もちょっと珍しい方ですね。
去年8月に放送されたTBSラジオでの久米宏とのやり取りの記録に、

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尾身さんは慶應義塾大学法学部に進みますが、当時の大学は権力を敵視する学生であふれていましたから、外交官志望だった尾身さんは「この仕事は権力の手先なんだろうか…」と悩んでしまいました。学生運動で授業はほとんどなく、本屋で哲学や人生論の本を立ち読みをする毎日。そんなとき、たまたま手にしたのが精神科医・内村祐之(うちむらゆうし)が書いた『わが歩みし精神医学の道』という本。それまで微塵も考えたことがなかった「医師」という仕事が、尾身さんの胸に強烈に刻まれました。
「悩みを系決してくれる救世主のような感じで、『これだ!』と思っちゃった。すぐに退学届けを出して。父親は激怒です(笑)」(尾身さん)
1冊の本との出会いが尾身さんの人生を変えたのです。ちなみに内村祐之という人は内村鑑三の長男で、東京帝国大学教授から国立精神衛生研究所の所長となった人物。1960年代にはプロ野球のコミッショナーも務め、プロ野球の発展にも大きく貢献したのです。

https://www.tbsradio.jp/400744

とあります。
内村祐之はスポーツ万能、性格は明朗で、父親とは微妙な関係を保ち、信仰は引き継がなかったようですね。
「精神医学」の研究対象として、父親はなかなか興味深い存在だったのではないかと思われます。

内村祐之(1897-1980)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E7%A5%90%E4%B9%8B

>筆綾丸さん
井上日召をカルタにしたら、やはり「一人一殺 井上日召」ですかね。
ただ、私の曖昧な記憶では、確か井上の父親は熊本かどこかの出身で、維新後の混乱の中で川場村に流れてきて、医者もどきをやっていたようですね。

井上日召(1886-1967)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%97%A5%E5%8F%AC

ついでに「資本論初訳 高畠素之」などを加えると「ブラック上毛かるた」が出来そうです。
こちらは前橋藩士の家系ですね。

高畠素之(1886-1928)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%A0%E7%B4%A0%E4%B9%8B
 

基督教と日蓮宗

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 5月12日(火)15時06分48秒
  小太郎さん
馬主の星野壽市氏と沼田の星野家が繋がると面白いですね。
沼田市に隣接する川場村は血盟団の井上日召が生まれた所で、ウィキを見ると、沼田も川場も旧沼田藩領なんですね。ヌタ場とカワ場、似てるような似てないような。
 

星野光多とその一族

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月12日(火)10時54分8秒
編集済
  三月末から課題としている後鳥羽院宮内卿や、公名を「宮内卿」とした善鸞については、今の状況ではちょっと手が出せないので、せめて鎌倉時代の上杉氏だけでも少しまとめておこうかと思ったのですが、やはり気になることが多くて、なかなか筆が、というかキーボードの打ち込みが進みません。
別に論文を書いている訳ではありませんが、それでもある程度の水準は確保したいと思っているので、あの本を見ればきちんと確認できるはず、といった事項をそのままに書き進めるのは抵抗があります。

>筆綾丸さん
>馬主は三栄商事株式会社(高崎市)会長の星野壽市という人

その馬主さんが星野姓である点、単なる偶然かもしれませんが、ちょっと気になります。
というのは、プロテスタントの世界では、星野家はけっこうな名門なんですね。
群馬県沼田出身の星野光多という人が横浜でジェームス・ハミルトン・バラ(1832-1920)から受洗し、牧師となって、家族・親戚の多くがプロテスタントになります。

星野光多(1860-1932)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E5%85%89%E5%A4%9A

光多の年の離れた妹には津田塾大学の第二代学長になった星野あい(1884-1972)がいますし、南原繁の最初の妻、星野百合子は姪ですね。
星野百合子の兄、鉄男と南原繁は共に内村鑑三門下で仲が良く、その縁で百合子と南原繁は結婚したそうです。

星野鉄男(1890-1931)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E9%89%84%E7%94%B7

また、東条英機内閣の書記官長だった星野直樹(1892-1978)は光多の長男ですね。

「内閣書記官長・星野直樹」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7783

深井英五(1871-1945)も『回顧七十年』において、

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第三章 人生観、基督教、新島先生

 郷里に在りし幼少の時に於て、私の心境の発育に最大の影響を与へたのは、父景忠の外には、堤辰二先生であつた。【中略】
 又堤先生は、自ら英語に通ぜざるを遺憾とし、私には是非之を学べと勧めた。私はその勧めに従つて星野光多先生の教を受けるやうになつたが、更らに之を機縁として一たび基督教を信じたことは私の一生に於ける大事実の一である。星野先生は矢張群馬県の沼田より出て、横浜に於て米国宣教師と交はり、其の教を受けた。さうして私の従兄弟菅谷正樹(前掲清允の子)の知人たりしことを後から知つた。先生から伝へられた所の基督教は、狭く統一せられたる米国風の教理と先生自身の宗教的体験に立脚するものであつた。私が洗礼を受けたのは多分十四歳の時であつたと思ふ。当時信仰の友として最も親密であつたのは、同藩士にして同齢の長坂鑑次郎である。彼は後に同志社神学校に学び、組合教会の牧師となり、敬虔熱情を以て教化に力を効しつゝある。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8861

と書いていますね。
数年前、私は星野あいの自伝に出ていた星野一族の古い写真だけを手掛かりに、光多が生まれた戸鹿野村(現沼田市)を車でグルグル回ってみたことがありますが、生家の所在も分かりませんでした。
 

馬の名前ーバフンベルト・エーコ

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2020年 5月11日(月)12時16分54秒
編集済
  https://db.sp.netkeiba.com/owner/265006/
数年前から、競馬のテレビ中継(土日)を録画して欠かさず観賞していますが、とりわけ、馬の名前に興味があります。
① ヘイワノツカイ(♂ 15戦2勝) ←平和の使い 新島襄
②ライトカラカゼ(♂ 19戦1勝)  ←雷と空風 義理人情
③ココロノトウダイ(♂ 5戦2勝) ←心の燈台 内村鑑三
馬主は三栄商事株式会社(高崎市)会長の星野壽市という人で、敬虔なクリスチャンというわけではなく、たんに「上毛かるた」の愛好家なのでしょうね。

『ヨハネの黙示録』には四騎士が乗る馬の話があって、白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬の四頭のうち、青白い馬に乗った騎士は疫病のメタファなので、現在では、さしづめ、コロナウイルスになるのでしょうね。

内村鑑三のデスマスク(国際基督教大学所蔵)の写真を見ると、因業爺のような風貌で、どうも好きになれず、間違って弟子になったとしても、イスカリオテのユダのように、どこかで裏切ると思います。
パリ郊外シュヴルーズにあるポール・ロワイヤル修道院跡の記念館で見たパスカルのデスマスクは端正で、美しいなあ、と思ったことがあります。ジャンセニスムに興味はないのですが。
 

「上毛かるた」とキリスト教

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2020年 5月10日(日)23時58分57秒
編集済
  >筆綾丸さん
「上毛かるた」は群馬県のキリスト教史を考える上でも、ちょっと面白い素材ですね。
終戦直後の混乱期に「上毛かるた」の作成・普及の中心となったのは浦野匡彦という人物ですが、この人は二松学舎出身で、後に日本遺族会や靖国神社と深く関わることになる「国士」タイプの人です。

浦野匡彦(1910ー86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E9%87%8E%E5%8C%A1%E5%BD%A6

他方、浦野より十六歳年上で、この時期の浦野に強い影響を与え、「上毛かるた」に内村鑑三と新島襄を採用することを主導した須田清基(1894-1981)は、戦前は「非国民」と呼ばれたであろう一種独特の、まあ、ちょっとヤバ目のキリスト者ですね。
日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』によれば、須田は、

-------
生年 明治27(1894)年8月21日
没年 昭和56(1981)年2月20日
出生地 群馬県安中市
経歴 大正3年受洗、入営、除隊後、救世軍士官学校を経て台北神学校に学んだ。教派から自立した伝道を始め、トルストイの影響を受け軍隊手牒を焼いた。12年13カ条の軍籍離脱届を陸軍大臣に送ったが受け付けられず、当局の監視付きとなった。13年台湾に帰り、結婚、伝道を続け、神社参拝を拒否。戦後、安中に引き揚げ紙芝居で全国を伝道。昭和3年「唯一の神イエス」を刊行、真イエス会長老と称した。著書は他に「聖霊を受くる途」「隠れたる教育者」など。

https://kotobank.jp/word/%E9%A0%88%E7%94%B0%20%E6%B8%85%E5%9F%BA-1647609?fbclid=IwAR15rJpoOUNelnqWkeRiudh3Ra1Xu8O2HR_O-JpZnr0j2EHZgJ_2n-Qrssk

といった経歴の人物で、私が郷土史関係の何かの本で読んだ曖昧な記憶では、須田は長身で肉体労働者のようにがっしりとした、インテリとは程遠い風貌の人物だったようです。
新島襄や内村鑑三と違い、須田は今では忘れ去られた人物ですが、意外なことにその主張は内村鑑三にけっこう近いところもあります。
というか、内村鑑三自身が、特に晩年はけっこうヤバ目の人ですね。

「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8366

ま、私は常に宗教の表面的な現象を眺めているだけで、教義の内実に立ち入る意思も能力もありませんから、信仰の面で内村を批判することはできませんが、それでも日本のキリスト教信者が全人口の僅か1パーセント程度に止まっている原因の相当程度は、信者が集う教会の存在自体を否定した内村の無教会主義に帰せられるべきではないかと思っています。
また、新島襄も、アメリカの資金提供者には日本におけるキリスト教指導者を育てると言いながら、実際には立身出世のための語学学校もどきの同志社を運営していた国際的な二枚舌、詐欺師の一歩手前のような人物ですね。
ま、森鴎外が「かのやうに」で描いた日本の風土では、誰がやっても同じ結果だったのかもしれませんが、遥か昔、とにかく郷土の偉い人として名前を覚えさせられた一群馬県民としては、内村や新島の活動を知れば知るほど、いささかシニカルに眺める傾向が強くなってしまいます。
その点、群馬県にも足跡を残しながら、今ではすっかり忘れさられた存在となってしまったニコライのロシア正教は、日露戦争とロシアの共産化がなければ、意外に日本に根付く可能性があったのではなかろうか、などと夢想もしてしまいます。

「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10123
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10124
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10125
 

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