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長谷川昇『博徒と自由民権』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月20日(金)11時43分45秒
編集済
  早くピーター・ゲイの『シュニッツラーの世紀』を読み終えねば、などと思っていたのですが、自由民権運動も結構面白くて、ついつい長谷川昇『博徒と自由民権─名古屋事件始末記』(平凡社ライブラリー、1995。初版は中公新書、1977)と井上幸治『秩父事件─自由民権期の農民蜂起』(中公新書、1968)を読んでしまいました。
前者は松沢裕作氏が「私が『自由民権運動』を書いたときに強い影響を受けた本」だそうで、松沢氏は、

-------
本書には、著者の姿は正面に出てきません。自由民権運動の研究者と対象との距離は近づきやすいのですが、本書では、対象への思い入れが語られているわけではなく、博徒が運動に参加するに至る過程をある意味淡々と、事実関係に絞って記述してゆく。鮮明な図式が打ち出されたり見事な解説がなされたりしているわけでもないのですが、しかし、歴史書のなかには、物事が淡々と綴られていることに引き込まれる、叙事の面白さのある本も確かにある。本書はそのようなものです。
「このテーマの資料を追い求めて、いつのまにか二十余年の歳月が経過してしまった。……もうこのテーマを避けては通れない運命的な関わり合いをもってしまった」とあとがきに書かれているように、絶対に書き残さねばならないという強い執念が、じつは著者にはあるのです。この本の中で行われている事実関係を明らかにする仕事は、じつはものすごく大変で、ちょっとやそっとで調べられるようなことではありません。長期間にわたってそれだけを追い続けなければ明らかにはできない。幕末維新期の社会の変化に翻弄される人たちの運命を、埋もれさせずに、正確に記録しておきたいという熱意がなければ書けない本です。熱意を秘めつつ、淡々と書ききっているところに、歴史書の一つの模範を見ています。

https://www.iwanamishinsho80.com/contents/matsuzawayusaku

と言われています。
松沢氏は「ある意味淡々と」「物事が淡々と綴られている」「淡々と書ききっている」と「淡々」を三回も強調されるのですが、これは「自由民権運動の研究者と対象との距離は近づきやすい」一般的傾向のなかで、色川大吉のような研究者に典型的な「対象への思い入れ」がないことを言っているのみで、書かれている内容はあまり「淡々」としたものではないですね。
例えば、尾張藩草莽隊の中心となった博徒に近藤実左衛門という人物がいるのですが、長谷川氏は実左衛門の経歴を、

-------
 嘉永三年、二五歳のとき、近隣岩作〔やさこ〕の博徒の親分直蔵の娘を娶り、直蔵と近隣の博徒太郎七との喧嘩のさい、五寸にもおよぶ刀疵をうけながら怯まなかった無鉄砲さが評判となり、水野村の吉五郎という尾張東部に名の知れた親分が自身で出向いて乾分〔こぶん〕にくわえた。嘉永五年二七歳のときである。翌年、奥伊勢で有名な親分桶吉という者の乾分が吉五郎宅に草鞋〔わらじ〕をぬいでいたさい、この者とのいさかいに示した実左衛門の気合の鋭さを聞きおよんだ桶吉から、義兄弟の縁を結ぶ申入れがあり、このころから実左衛門の侠名は近隣にひろまった。
 水野村吉五郎には愛吉・伊勢常・新五郎など先輩格の有力乾分がいたが、安政二年実左衛門三〇歳のとき、親分吉五郎に見込まれて跡目をつぐことになったため、先輩格の乾分らが不平をとなえ陰に陽にこれを妨害した。実左衛門は腕力と度胸にものをいわせて、これらと数十回によぶ闘争をなしつつ圧服し、その縄張りを尾張東部から三河の西部に拡大していった。
-------

と描いていて、まるで講談でも聴くような趣があります。
ここなど、まだ「淡々」の度合いが少ない部分で、清水次郎長と三河の博徒「平井一家」の抗争を描く場面など、あまりに「淡々」としすぎていて、とても歴史学の論文とは思えない味わいがありますね。
なお、社会の底辺に生き、歴史の闇の埋もれてしまう運命にあった人びとの生態を調べるにあたって長谷川氏が手がかりとしたのは壬申戸籍であり、1968年以降は研究目的であっても閲覧できませんから、史料として非常に貴重なものが多いですね。

>筆綾丸さん
>『TN君の伝記』
「なだいなだ」という奇妙な名前の由来については、遥か昔、高校の英語教師から聞いた覚えがあり、ちょっと懐かしいですね。
『TN君の伝記』は未読ですが、読んでみたいと思います。

京極純一氏とキリスト教&共産主義
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8208
 
 

nada y nada と有袋類

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 7月19日(木)11時45分52秒
編集済
  小太郎さん
松沢裕作氏『自由民権運動―〈デモクラシー〉の夢と挫折』を、少し読みました。
氏の言う「袋」は、フランスの commune やドイツの Gemeinschaft に近い概念のような気がしますが、そう言ってしまうと、ぽろぽろと袋から零れ落ちるものがあるのでしょうね。

---------------
 私がはじめて自由民権運動に関心をもったのは、おそらく小学生のときに読んだ、なだいなだ『TN君の伝記』だったと思う。以来つねに関心を寄せつつも、正面から向かうことなく回避しつづけてきたテーマでもある。(「おわりに」217頁)
---------------
http://19san.com/?p=366
未読ですが、早熟な小学生だったのですね。

スペイン語の nada y nada は、敢えて訳せば、イヤよ、イヤイヤ、或は、ダメよ、ダメダメ、ですかね。
 

「袋」の世界

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月15日(日)11時36分23秒
  昨日は松沢裕作氏の『自由民権運動―〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書、2016)を読んでみましたが、これは非常に良い本ですね。

-------
維新後,各地で生まれた民権結社.それは〈デモクラシー〉に夢を託した人びとの砦であった.新しい社会を自らの手で築く.その理想はなぜ挫折に終わったのか.旧来の秩序が解体してゆくなかで,生き残る道を模索する明治の民衆たち.苦闘の足跡が,いまの日本社会と重なって見えてくる.

https://www.iwanami.co.jp/book/b243833.html

国会図書館サイトで検索してみたら高島千代(『人民の歴史学』212号)、飯塚彬(『千葉史学』71号)、安在邦夫(『民衆史研究』94号)の諸氏の書評があるとのことなので、後で読んでみたいと思います。
ネットでも評価は高く、書評が多いようなので内容紹介はそちらに譲るとして、以下は個人的なメモです。
先月、大山喬平氏のインタビュー「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)を読んだ後、近世の身分制も一度きちんと勉強しておかねばいかんなあ、などと漠然と思っていたのですが、松沢氏の近世身分制に関する「袋」の比喩は卓抜ですね。
本書の「第一章 戊辰戦後デモクラシー」は、

一 戦場での出会い
二 それぞれの戊辰戦後
三 暴力の担い手たち
四 近世身分制社会とその解体

と構成されていて、四に「袋」の比喩が出てきます。(p24以下)

-------
 さて、ここまで「近世の身分制」という言葉を漠然と使用してきたが、ここで少しその意味を厳密に考えておきたい。
 江戸時代における身分制といえば、「士農工商」の階層的な秩序が想起されるかもしれない。いわば、政治権力を持つ武士を頂点とするヒエラルヒー的な上下関係、階層秩序のことである。
 しかし、筆者は、近世史研究の蓄積にもとづき、少し違った意味で「近世の身分制」という言葉の意味をとらえている。「士農工商」が、三角形のヒエラルヒーでイメージされるとすれば、筆者のいう身分制とは、人間が、いくつかの「袋」にまとめられ、その「袋」の積み重ねによって一つの社会ができあがっているようなイメージである。
 ここでいう「袋」とは、社会集団のことである。たとえば、「百姓」という身分を持つ人びとは、「村」という集団に所属し、幕藩領主から「村」単位で把握される。そのあらわれが、年貢の「村請制」である。【中略】
 一人ひとりの人間が、身分的な社会集団という「袋」にまとめられ、支配者から集団を通じて賦課される「役」を果たす。これが近世身分制社会の基本的な構造である。
-------

ところが、戊辰戦争では、この身分制社会の根幹であったはずの武士の「軍役」の仕組みが崩れてしまう訳ですね。(p26以下)

-------
 しかし、戊辰戦争による軍事動員は、近世社会の本来的なあり方だった軍役を通じた武士の動員という形ではおこなわれなかった。実際には、都市下層民や博徒の軍隊が戦場に投入され、河野広中のような、政治的に活性化した武士身分以外の人びとも戦争に参加した。つまり、戊辰戦争において、近世身分制社会の基本単位となっていた「袋」がやぶれてしまったのである。
-------

そして、この「袋」の比喩が「終章 自由民権運動の終焉」に改めて登場します。(p204以下)

-------
 自由民権運動は、「ポスト身分制社会」を自分たちの手でつくり出すことを目指した運動であった。したがって、それはポスト身分制社会の形が、まだはっきりとは見えていない時代、すなわち、近世社会と近代社会の移行期に生まれた運動であった。そして移行期が終わり、近代社会の形が定まったとき、自由民権運動は終わる。一八八四(明治一七)年秋、展望を失った自由党が解党し、秩父の農民の解放幻想が軍隊の投入によって打ち砕かれたとき、自由民権運動は終わった。【中略】
 近世身分制社会は、個々人が集団に仕分けされ、「袋」に閉じ込められる息苦しい社会であった。戊辰戦争は、一面でそうした息苦しい「袋」に穴をあけ、人びとの新たな活動への余地をつくり、一面でこれまでひとつの「袋」に良くも悪くも依存しながら生活してきた人びとに不安をもたらした。戊辰戦争による社会の流動化は、一方で政治参加への熱意と野心を、一方で依るべき集団を失った人びとの不安を同時に引きおこした。自由民権運動はそうした熱意と野心と不安のなかから生まれた。
-------

ひところ江戸をやたらと礼賛する風潮があり、当掲示板で少し検討した水谷三公氏などはその代表者でしたが、まあ、動機には酌むべきところがあるとはいえ、いくら何でも行き過ぎでしたね。

『江戸は夢か』への若干の疑問
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8989
「アメリカ人学者ハンレー及びヤマムラ夫妻の研究が、説得的」(by 水谷三公)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8991
E・H・ノーマンと「戦後日本の倒錯した悲喜劇」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9004

「近世身分制社会は、個々人が集団に仕分けされ、「袋」に閉じ込められる息苦しい社会であった」のは間違いなく、明治政府は諸々の「袋」を果断に破った点で、基本的には正しい方向を進んだ訳ですから、私はあまり自由民権運動に同情的ではありませんが、「おわりに」を見ると、松沢氏にはもう少し複雑な感情があるようです。
 

「虚偽のイデオロギーとしてのナショナリズムを指弾するだけではじゅうぶんではないのだ」(by 松沢裕作)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月14日(土)11時39分49秒
編集済
  昨日は『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)の「むすび」について非常に否定的に書いてしまいましたが、松沢氏が一昔前の西川長夫氏あたりを中心とする国民国家批判を冷静に評価している点は良いですね。
そもそも西川長夫説はどのようなものかというと、

-------
 フランス史家の西川長夫氏は、この木畑氏の定義をうけて、国民国家は以下の五つの特徴を備えているという。
 第一に、国民国家は国民主権と国家主権によって特徴づけられること。
 第二に、国民国家には国家統合のためのさまざまな装置(議会、政府、軍隊、警察、等々といった支配・抑圧装置、家族、学校、ジャーナリズム、宗教、等々といったイデオロギー装置)、国民統合のための強力なイデオロギー装置を必要とすること。
 第三に、国民国家は、他の国民国家との関連において存在するのであって、単独では存在しえないこと。
 第四に、国民国家による解放は抑圧を、平等は格差を、統合は排除を、普遍的な原理(文明)は個別的な主張(文化)を伴うというように、国民国家は本来矛盾的な存在であること。
 第五に、国民国家を形作るさまざまな要素は、他の国民国家から取り入れ可能であり、別の国民国家に移植可能な、「モジュール」としての性格を持っていること。たとえば明治の日本が、分野に応じて、ドイツ、イギリス、フランス、アメリカといった諸外国をモデルとして、それぞれのシステムを輸入することが可能だったのは、こうしたモジュール性ゆえである。
 こうした国民国家の特徴に注目する歴史研究は、日本では一九九〇年代に盛んにおこなわれた。とくに注目されたのは、西川氏の指摘する第二の特徴、国民国家の統合装置とイデオロギーの研究である。現在の人々は、つい、「日本」や「フランス」といったひとつのまとまりが、遠い昔から存在していたように考えがちであるが、それは近代国民国家が創り出した幻想である。人びとは、教育やメディアを通じてそのような意識を身につけさせられるのである。そのような意識を持つことによって、ナショナリズムというイデオロギーに人びとは熱狂し、ついにはそのために命を投げ出し、戦争にまで駆り立てられてゆく。研究者たちはそのように論じた。
-------

といった内容です。(p194以下)
松沢氏は、

-------
 これらの研究は、国民国家の存在を自明視していた人びとに対して、それが人工物、それも近代になってから作り出された人工物なのであって、太古の昔から存在していたわけではない、ということを暴露した点において大きな意義を持つものであった。
 しかし、それだけでは、本書の視角からすれば不十分である。国民国家は、単独で存在しているのではなく、国民国家を同心円のひとつとする、複数の同心円によって成り立つ世界の秩序に支えられて存在しているからだ。
-------

とした上で、ホブズボームに着目します。

-------
 この点で興味深いのは、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームのナショナリズム論である。ホブズボームによれば、一九世紀のヨーロッパにおいて、ある集団が、国民国家を形成しうる「ネイション」であるかどうかという点について、人口や面積に「閾値」があると考えられていた。国民国家を形成しうるのはすべてのエスニックな集団ではなく、その集団がある一定の規模を持っていることが必要だった。したがって、ネイションの形成とは、より大きな国家から小さな国家が「独立」していく過程ではなく、逆に、いくつもの小さな集団がひとつの「ネイション」という大きな集団にまとまってゆく過程であり、つまり国民国家の形成とは、世界を分割する単位の拡大の過程であると考えられていた。そして、いつかは全世界の統一に帰着すべき単位の拡大の次善の策として複数の国民国家からなる世界が存在する、とされていたのである。ホブズボームはこれを「自由主義ナショナリズムの古典的時代」と呼び、二〇世紀のナショナリズムと区別する。
-------

ということで(p196以下)、いわれてみれば当たり前の「コロンブスの卵」ですが、国民国家批判の狂騒期には、こうした視座を確保するのもけっこう難しいことでしたね。
さて、松沢氏は、

-------
 ホブズボームのナショナリズム論の教えることは、本来、国民国家の人工性は自明視されていたのであって、人びとはそれを知らずに国民国家のイデオロギーに熱狂していたわけではない、ということである。
-------

と纏めた後で、独自の「同心円」理論を展開するのですが、ここは私には理解しにくいので紹介も難しく、興味を持たれた方は松沢著を確認していただきたいと思います。
私には、

-------
 問題は、そうした、便宜的単位にすぎず、ごく散文的で事務処理的なつまらない国民国家から、人がそれに命がけになってしまうような、あるいは人の命を奪ってしまうようななにか、つまり「境界的暴力」が生まれてしまうことだ。
 虚偽のイデオロギーとしてのナショナリズムを指弾するだけではじゅうぶんではないのだ。ナショナリズムの虚偽性を暴いたとしても、ナショナリズムを支える秩序の本体を撃ちぬいたことにはならない。本来はごく散文的でつまらない、切実性を持たないはずの国民国家が、人びとに対して暴力をふるうのはなぜなのか。
-------

といった松沢氏の問いかけの仕方が(p198)、国民国家を論ずるにしてはずいぶん無邪気で、「笑顔を輝かす少年のよう」だなあという感じがします。

西川長夫(1934-2013)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E9%95%B7%E5%A4%AB
Eric Hobsbawm(1917-2012)
https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Hobsbawm
 

松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月13日(金)22時35分53秒
編集済
  今日は松沢裕作氏の『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)をパラパラ眺めてみたのですが、あまり感心しませんでした。
この本の構成は、

-------
はじめに 境界を持たない社会・境界を持つ権力
第一章 江戸時代の村と町
第二章 維新変革のなかで
第三章 制度改革の模索
第四章 地方と中央
第五章 市場という領域
第六章 町村合併
むすび 境界的暴力と無境界的暴力

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195525

となっていて、第一章から第六章までは、おそらく「「難しくてよくわからない」という評価をしばしば頂戴した」(p217)という前著『明治地方自治体制の起源』(東京大学出版会、2009)の内容を分かりやすく整理したであろう実証的な研究で、私など全く門外漢ですが、まあ、何とか理解できます。
しかし、松沢氏は「むすび」で西川長夫、エリック・ホブズボーム、ベネディクト・アンダーソン、カール・マルクス、イマニュエル・ウォーラーステインなどを引用しつつ、ものすごく大きなことを言われていて、ご本人はそれが第一章から第六章までと緊密に結びついていると思われているのでしょうが、分量だけ考えてもあまりに不親切な説明で、これで納得できる人は殆どいないんじゃないですかね。
松沢氏は同心円という表現がお気に入りのようで、最初から最後まで何十回と同心円が登場するのですが、池田嘉郎『ロシア革命─破局の8か月』のトロツキー評を借用するならば、

松沢裕作は大風呂敷に同心円を本当に美しく描いて「僕こんなのできるんだよ」と笑顔を輝かす少年のようであった。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9560

てなことを言いたくなりますね。

>筆綾丸さん
昨日の投稿では最後にラベンダーの香りとか書いてちょっと洒落たことを言ったつもりになっていましたが、ラベンダーの香り=「時をかける少女」と松田優作は全然関係ないのに変な思い込みで書いてしまいました。
読み直すとかなり恥かしいですね。
わはは。

時をかける少女
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E3%82%92%E3%81%8B%E3%81%91%E3%82%8B%E5%B0%91%E5%A5%B3

>「これもみたび仁和寺の法師」
仁和寺は労働裁判でも話題になりましたね。
拝金主義のブラック寺院。

「まさか寺までブラック化」元料理長349日連続勤務、世界遺産・仁和寺の「罰当たり」ネットで拡散
https://www.sankei.com/west/news/160516/wst1605160004-n1.html
 

『徒然草』第53段の2

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 7月12日(木)16時28分5秒
編集済
  https://unipa-web.atomi.ac.jp/kg/japanese/researchersHtml/R1160/R1160_Researcher.html
禿あや美氏の名で、『平家物語』に登場する密偵(禿)を連想しましたが、若い頃は、きっとイジメを受けたのでしょうね。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180711-00000001-pseven-soci
『徒然草』第53段「これも仁和寺の法師・・・」を踏まえ、この記事には、「これもみたび仁和寺の法師」という標題を付けて、第53段の2に分類したいところですね。
 

ピーター・ゲイ『シュニッツラーの世紀─中流階級文化の成立1815-1914』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月12日(木)11時29分2秒
編集済
  『分断社会・日本─なぜ私たちは引き裂かれるのか』のような陰気な本を読んでしまった後の毒消しという訳ではありませんが、ピーター・ゲイの『シュニッツラーの世紀─中流階級文化の成立1815-1914』(田中裕介訳、岩波書店、2004)もパラパラ眺めてみました。

-------
19世紀ウィーンの小説家・劇作家の日記の解読を通して,ブルジョア文化のさまざまな側面を分析.厳格で堅苦しい19世紀という神話化された西欧文化史の通念を大胆な手法で覆し,新しい時代像を描き出す刺激的力作.

■著者からのメッセージ

私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた.歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは,1970年代はじめのことである.その結実が,『ブルジョワの経験 ヴィクトリアからフロイト』(1984―98)の総題のもとにまとめた五巻に及ぶ嵩高い研究であり,セクシュアリティ,愛,攻撃感情,内面生活,中流階級の趣味といった異例な主題に的を絞っている.この主題の選択は私がフロイトの衝撃を受けたことをあからさまに物語っていようが,私は自分の過去への見方を,歴史家共通の土俵である「実在の」世界へと結びつけるように細心の注意を払った.結論とは裏腹に分量はつつましやかなこの書物は,先立つ大作の単なる『リーダーズ・ダイジェスト』風の要約ではない.大量の新しい史料と主題を投入しているうえに,既出のいくつかの主題もさらなる考察に値すると思われたものである.新しい小振りの瓶に詰め直した古いワインというわけではない.私はそれを再考し,相当に深く追究しえたと思うのである.(本書「序」より:圧縮のうえ転載)

https://www.iwanami.co.jp/book/b261537.html

<本書「序」より>とありますが、実際には「序文」なので、ずいぶん細かいところまで「圧縮」していますね。
「序文」冒頭を「圧縮」しないで紹介すると、

-------
 この書物は、あるひとつの階級、すなわち一八一五年から一九一四年までの十九世紀の中流階級の伝記である。私が案内役として用いたのは、アルトゥア・シュニッツラー、その同時代でもっとも興味深いオーストリアの劇作家にして主に中篇と短篇を書いた小説家である。なぜシュニッツラーなのか。彼はおよそブルジョワの典型ではない。財産、才能、表現力─そして鋭敏な神経─の点で彼に劣る、つまり彼よりもよくこの階級を体現する十九世紀生れの人間は無数に存在する。「平均的なブルジョワ」という意味で「ブルジョワを体現する存在」を求める限り、「凡庸」とはまったく縁のないシュニッツラーは、私の目的とは合致しないであろう。しかし、私が研究の過程で気づいたように、かれはその才質によってこの書物で私が記述する中流階級の世界について信用のおける情報をおびただしくもたらす目撃者となっている。彼は以下に続く各章で、時に広範な研究への案内役として、また時に登場人物として現れるだろう。私はこの男がたいへん興味深い(つねに好ましいわけではないが)と思うのだが、それだけのために、私が探求を重ね、理解しようと努めてきた壮大なドラマの一種の進行役に任じたのではない。さらに私には好都合な、より説得力のある理由がある。
-------

とあり、そもそもシュニッツラーの小説自体を読んだことのない私でも理解できるのだろうかと不安に思って読み始めたところ、本文はシュニッツラーに関する詳細なエピソードに溢れているので、十分に理解可能ですね。

Arthur Schnitzler(1862-1931)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%A9%E3%83%BC

さて、ピーター・ゲイは自身の歴史研究の方法に関して、同じく「序文」で次のように述べています。

-------
 私はこの書物を要約としてではなく集大成として書いた。歴史家に比較的看過されていた題目であったヴィクトリア時代のブルジョワジーに私が関心を抱くようになったのは、一九七〇年代はじめのことである。もちろん十九世紀の中流階級について教えてくれる書物はいくつか存在していたが、この主題は歴史家の大多数の興味を惹いてはおらず、確かに食指が動く主題ではなかった。興味をそそる研究分野は他にあった。女性史、労働者階級の歴史、黒人の歴史、そしてやや羊頭の気味があるが「新しい」文化史と自ら名乗るものである。哲学者が歴史の因果律を世俗に引きずり下ろした十八世紀以降たっぷり二百年以上にわたって、専門の歴史家は不満を募らせる時期を周期的に経験してきた。誰もが了解する歴史研究の領域が狭苦しく思える時期である。
 こうした不満の多くが豊かな実りに結びついた、つまりかつては問われなかった問いと抱かれなかった疑問を産み出したのである。しかし同時に事態が泥沼化したのは、とりわけ主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈するようになって以降のことである。彼らは、歴史家の地平を押し拡げるのではなく、これまで長いあいだ多くの歴史家が携わってきた過去をめぐる真実の探求へときわめて不当な疑念を投げかけた。このような騒然とした雰囲気のなかで、私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史─支えられている、のであって、押し潰されている、のではない─が、私には正しい導きの糸に思われたのであり、誰ひとり見向きもしなかった十九世紀のブルジョワが豊かな可能性を秘めた主題であるように思われたのである。私の仕事が修正主義的な性格を帯びようとは、当時気づかず、またその後何年も気づかなかった。私がそうした性格を当初より織り込み済みではなかったことは確かだ。証拠の導きに従って、わが道を進んでいっただけなのである。
-------

「主観主義を掲げるポストモダンの商人がこの領域で跳梁跋扈」云々は辛辣で笑えますね。
ピーター・ゲイは訳書も多く、「私自身の歴史の方法、つまり精神分析に支えられた文化史」は日本においてもそれなりに好意的に受け止められているのではないかと思いますが、肝心の歴史研究者の世界において、ピーター・ゲイはどのような存在なのですかね。
ピーター・ゲイの方法を正面から受け止め、この方法で歴史叙述を行なっている日本の研究者は誰かいるのでしょうか。
 

井出英策・松沢裕作編『分断社会・日本―なぜ私たちは引き裂かれるのか』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月12日(木)10時20分0秒
  私は松沢裕作氏の著書を全然読んだことがなかったのですが、何故か奇妙に懐かしい名前のような感じがしていたところ、昨日、某図書館で演劇関係の本を眺めている時に、俳優の松田優作に似ていることに気づきました。

松田優作(1949-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%84%AA%E4%BD%9C

ま、だから何なのだ、と言われればそれまでなのですが、ふとそんなことを思いついたので、その図書館で松沢氏の著書を検索してみたところ、

『明治地方自治体制の起源─近世社会の危機と制度変容』(東京大学出版会、2009)
『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』(講談社選書メチエ、2013)
『分断社会・日本―なぜ私たちは引き裂かれるのか』(岩波ブックレット、2016)

の三冊が出てきました。
最初の本は本格的に固い学術書みたいだったのでちょっと手が出ず、二番目の選書メチエをパラパラ眺めてみたところ、「あとがき」によれば、この本は松沢氏が史料編纂所にいたときに、本郷和人氏が講談社の編集者を紹介してくれたので出せたそうですね。
また、最後の岩波ブックレットは井出英策氏(慶応大学経済学部教授)と松沢氏の共編で、『世界』の特集記事をまとめたものでした。

-------
 いまや、メディアを覆い尽くすのは、自分よりも弱いものを叩きのめす「袋叩きの政治」であり、強者への嫉妬、「ルサンチマン」である。そして、社会的な価値の共有の難しさが連帯の危機を生み、地方誘導型の利益分配も機能不全に陥るなか、不可避的に強められるしかない租税抵抗が、財政危機からの脱出を難しくしている。「獣の世」としての明治社会は、まさに今日の「分断社会の原風景」だったのである。
 近代化が進められたプロセスにあって、わたしたちは、既存の秩序が綻ほころびを見せるたびに、繰り返しこの原風景へと立ち返ってきた。世界史的な人口縮減期に入り、持続的な経済成長が前提とできない時代、いわば近代自体が終焉へと向かう時代がわたしたちの目の前に広がっている。
 わたしたちは、新しい秩序や価値を創造し、痛みや喜びを共有することを促すような仕組みを作り出すことができるだろうか。あるいは、経済的失敗が道徳的失敗と直結する社会を維持し、叶かなわぬ成長を追いもとめては、失敗者を断罪する社会をふたたび強化するのだろうか。明治維新から約一五〇年。これからの一五〇年のあり方がいま問われている。

https://www.iwanami.co.jp/book/b243803.html

この本は、

Ⅰ 分断社会の原風景─「獣の世」としての日本
Ⅱ 分断線の諸相
Ⅲ 想像力を取り戻すための再定義を

の三部構成になっていて、Ⅰ・Ⅲは井出氏と松沢氏の共同執筆、Ⅱは禿あや美(跡見学園女子大学マネジメント学部准教授)、祐成保志(東京大学文学部准教授)、吉田徹(北海道大学法学研究科教授)、古賀光生(中央大学法学部准教授)、津田大介(ジャーナリスト)の諸氏が執筆しています。
「獣の世」は大本教の出口なおの、

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外国は獣類の世、強いもの勝ちの悪魔ばかりの国であるぞを。日本も獣の世になりて居るぞよ……是では国は立ちて行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。
-------

という不気味な予言に出てくる表現です。(p3)
まあ、パラパラ眺めただけですが、私の関心とはあまり重ならないテーマの生真面目で陰鬱な文章が続いて、ちょっとしんどかったですね。
「Ⅲ 想像力を取り戻すための再定義を」には、

-------
 今回、私たちは、解決のための処方箋ではなく、問題の所在を明らかにすることを目的とした。おそらくは、いまの日本社会で頻繁に目に留まる議論、耳にする主張が、どのように私たちの社会の分断を強めているかを確認できたと思う。
 分断が問題なのは、社会のいたるところに境界線が引かれ、他者に対する想像力が次第にうしなわれていくことで、私たちは「日本社会」の一員であること、「日本国民」の一員であることの実感をなくしてしまう、ということである。それは、肯定するにせよ、批判するにせよ、私たちが無意識のうちに前提としてきた社会や国民という概念そのものに疑問を投げかけるものである。
 だが、それだけではなく、その時どきの支配者は、社会の凝集力を維持するために、もっともらしい装いをした偏ったイデオロギーでもって、なかば「一君万民」的に人びとを理念で結合し、社会や国民を力ずくで「建設」しようとするかもしれない。各層への分解と国家的・理念的結合、それが全体主義の時代を生むメカニズムである。
-------

とあり(p84以下)、「その時どきの支配者は」以下は随分古風な感じがするので、これを書いている井出英策氏が1972年生まれ、松沢裕作氏が1976年生まれと私よりかなり若い世代であることを考えると、ちょっとびっくりです。
私が高校・大学生のころの岩波新書などには、こんな雰囲気の本がけっこうあったような感じがするのですが、その後、山口昌男らの『へるめす』を契機に岩波の雰囲気も相当変わった後、再び時代が一回りしたのかな、とも思います。
ま、私も『世界』などを時々読んでいたのは殆どラベンダーの香りが漂ってくるほどの昔のことで、岩波の動向に詳しい訳ではないのですが、何だか妙な気分ですね。

井手英策(1972-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%89%8B%E8%8B%B1%E7%AD%96
松澤裕作(1976-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%BE%A4%E8%A3%95%E4%BD%9C
 

池田嘉郎『ロシア革命─破局の8か月』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月11日(水)08時14分35秒
編集済
  ずいぶん長く投稿を休んでしまいましたが、そろそろ復活したいと思います。
網野徹哉氏の『インカとスペイン 帝国の交錯』(講談社、2008)をチラ見した後、桜井万里子・本村凌二氏のギリシア・ローマ関係の本とか、以前から気になっていたピーター・ゲイのフロイト伝などをパラパラ眺めていたところ、たまたま松沢裕作氏(慶応大学准教授)が池田嘉郎氏(東京大学准教授)の『ロシア革命─破局の8か月』(岩波新書、2017)を好意的に紹介されている文章を読んだので、同書を通読してみました。
松沢氏は、

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そして3冊目は、池田嘉郎『ロシア革命――破局の8か月』(岩波新書、2017年)です。
この本を読んだときは、正直に言って嫉妬しました。ロシア革命という巨大な歴史的変革を一挙に描き切る力量があるんだな、池田さんには、と。くやしかったですね。
本書も対象を突き放して距離をとっているといえます。ロシア革命を突き放すときに最も簡単で思いつきやすいのは、レーニンを中心としたボリシェヴィキから距離を取る、ということでしょう。冷戦終結も遠くなった現在では、もちろんそう考える人が多いわけです。ところが、本書はそれだけではない。2月革命以降、自由主義者たちや他の社会主義者たちがどういう行動をとったかに焦点を当てるのですが、彼らにロシアを変えてゆく可能性があったのかという話すらしない。彼らは頑張ったけれどもあまりに力が弱くて、それ以前の歴史に規定されて、負けるべくして負けたことが克明に描かれている。
つまり、あらゆる勢力に対して冷たい記述なわけですが、それでもなお面白いのはすごいことだと思います。物事がどう起きてゆくかの描き方に大変な力量を感じます。それからこの本は人物描写が際立っていますね。レーニンとトロツキーの比較をするところなど、登場人物一人ひとりの姿が鮮明に描き出されています。

https://www.iwanamishinsho80.com/contents/matsuzawayusaku

と書かれていて、この「レーニンとトロツキーの比較をするところ」は、池田著によれば、

-------
 要するにレーニンの「ソヴィエト共和国」構想は、民衆の反乱を全肯定し、そうした反乱のありようをそのままあたらしい秩序の基礎に据えようというものなのであった。「底が抜けた」状態を全肯定して、資本主義や私的所有権を迂回したロシアをつくろうというのであった。それは世界革命への確信とも結びついていた。
 レーニンの主張はそれまでの社会主義者の常識とはかけ離れていたので、彼の同志や弟子たちでさえも大いに困惑した。みな、ゆっくりとレーニンの発想に近づいていったが、彼の古くからの弟子であるカーメネフはのちのちまで、よりゆるやかな革命の道を求め続けた。ボリシェヴィキ党の幹部たちよりも、党外にいたトロツキーの方が、ずっと先に「四月テーゼ」に賛同した。ロシア革命はひとたび始まったならば社会主義革命の段階までとまることなく進むであろうという予見は、むしろトロツキーに著作権があると言ってよかった。
 レーニンとトロツキーはロシア革命の傑出した二人の指導者であった。自律心の強いトロツキーはレーニンと長らく対立していたが、ロシアで革命が起こると二人の立場は急速に接近した。既存の秩序を何とも思わない点において、二人はともに子供に似ていた。だが、レーニンが泥んこのなかで天衣無縫に遊ぶ幼児のようであるとすれば、トロツキーは積木をきれいに積み上げて「僕こんなのできるんだよ」と笑顔を輝かす少年のようであった。
-------

となっています。(p97以下)
おそらく池田嘉郎氏はこの比喩が非常に気に入っていて、「僕こんなに素晴らしい比喩を思いつくことができるんだよ」と「笑顔を輝かす少年のよう」に喜んでいるのでしょうが、私はあまり感心しませんでした。
ずいぶん昔、中沢新一の『はじまりのレーニン』(岩波書店、1994)を手に取って、中沢がレーニンはよく笑う人だったと強調していたのを読んだときと同じような、いささか落ち着かない、ある種、気味の悪い感じを抱きました。
別に『ロシア革命─破局の8か月』全体の学問的評価に影響を与える部分ではないのですが、前日にこの文章の直前まで読んで、

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松沢氏が推薦する『ロシア革命―破局の8か月』(岩波新書、2017年)を途中まで読んでみたけど、これは優れた著作。池田嘉郎氏の著書・論文は纏めて読んでみたい。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1016464889785692160

などと暢気な感想を述べていた私の心を冷え冷えとさせるには十分な記述でした。
ま、私にはロシア革命全般に関する知識が乏しいので、池田著に漠然とした違和感を感じるだけで何か具体的に反論することはできないのですが、もう少し勉強すれば何か掴めそうな予感もするので、今後の課題としたいと思います。
それにしてもレーニンは当時のロシアとしては裕福な家庭で、家族の愛情に恵まれて精神的にも豊かな環境の中で育ったのに、ちょっと想像できないほど冷酷な人間に成長した点は本当に謎ですね。
スターリンあたりは、まあ、あの環境に育って権力を握ったらこうなっても不思議じゃないな、みたいな感じがするのですが。

「少年少女世界の名作 レーニン」(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9122
レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9124
 

「君らは赤松先生の弟子や」(by 黒田俊雄)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 7月 1日(日)11時01分2秒
編集済
  六月後半は京都大学名誉教授・大山喬平氏のインタビュー「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)から始まったラテンアメリカ紀行になってしまいましたが、いろいろ課題はできたものの、一応このあたりで終えようと思います。
発端となった大山氏のインタビューは、その聞き手が、

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大山先生の最初のご本『日本中世農村史の研究』の刊行に協力されるなど先生の研究の身近なところに七〇年代から八〇年代初め頃までおられた久野修義さん、清水三男『日本中世の村落』を岩波文庫に収録する仕事を先生と一緒にされた馬田綾子さん、中世の身分・寺社・社会研究から近年は「ムラの戸籍簿研究会」を大山先生と一緒に進めておられる三枝暁子さんに聞き手をお願いし、近世史からも塚田孝さんにもご参加いただくこととしました。久野さん・馬田さんは、大山先生も中心になって進められた『部落史史料選集』(第一巻「古代・中世篇」、部落問題研究所、一九八八年)の編集にも参加しておられます。なお、この聴き取り会の事務局は、近代史が専門ですが西尾泰広さん(部落問題研究所)と私、竹永が務めます。
-------

ということで(p3以下)、専門も世代も幅広く、非常に充実していますね。
ちなみに久野修義氏は岡山大学名誉教授、馬田綾子氏は梅花女子大名誉教授、三枝暁子氏は立命館大学准教授を経て東京大学准教授、塚田孝氏は大阪市立大学教授、竹永三男氏は島根大学教授です。
大山氏が早熟な政治青年だった高校生の頃の話は既に少し紹介しましたが、大学に入るとすっかり政治嫌いになり、林屋辰三郎や赤松俊秀の下で勉強に専心したそうですね。

「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9540

大山氏が黒田俊雄から「君らは赤松先生の弟子や」と言われていたという話はちょっと面白いですね。

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久野 でも、その黒田さんが、大山先生は赤松さんのお弟子やというふうに感じるというのは、どういうふうに考えればいいのですか。
大山 僕だけではないですよ。黒田さんは「君たちは」と複数で言っていました。赤松先生の演習に出席した、村井康彦さん以下の新制の中世史のことですね。西田直二郎さんの講義とは大違いだって。西田さんの黒板はフランス語、ドイツ語、英語と横文字ばかりだったと言っていました。僕たちは赤松さんの匂いがぷんぷんすると。
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ということで(p25)、黒田俊雄氏は1926年生まれだから大山氏とは7歳違いですが、僅かな年齢差で京大史学科の雰囲気もかなり異なったようですね。
率直に言うと、当時、旧制の人は新制の人を、語学ができない莫迦ども、みたいに軽蔑していたところがあったようです。

赤松俊秀(1907-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E4%BF%8A%E7%A7%80
黒田俊雄(1926-93)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E4%BF%8A%E9%9B%84

さて、大山氏が大山荘の研究を始めたのは姓が大山だから、という伝説もあるようですが、大山氏自身は、

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久野 大山荘(丹波国)との出会いもかなり偶然という感じでしたか。
大山 そういうことです、まったく。あの当時、中世史は個別荘園研究と決まっているというような状態でしたね。村井康彦さんは伊勢国川合大国荘。史料カードに筆写した「川合大国荘関係文書」を年次順にリングで閉じて、いつも繰っていました。戸田さんが伊賀国黒田荘、熱田公さんが紀伊国荒川荘という具合でした。それで村井さんがドクターの一番上、新制のトップでした。それで村井さんのお宅に河音と二人で卒論の相談に行き、「何にしようか」と言いましたら、村井さんが僕には大山荘を薦めました。
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と言われていますね。(p26)
 

『インカとスペイン 帝国の交錯』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月29日(金)10時26分18秒
編集済
  マヤからメキシコ壁画運動に移り、増田義郎氏の『メキシコ革命』(中公新書、1968)を経て同氏の『古代アステカ王国』(中公新書、1963)に遡り、更にインカに南下しているところなのですが、ここは網野さんの本拠地ですね。
網野さんといっても善彦氏ではなく御子息の徹哉氏の方ですが、徹哉氏の「講談社創業100周年記念出版 興亡の世界史」シリーズ第12巻『インカとスペイン 帝国の交錯』(2008)は次のように始まります。(p13)

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 クスコ大広場〔プラザ・マヨール〕。ケチュア語でハウカイパタ。ここをインカ史探求の旅の出発点としてみよう。空から俯瞰すると、ピューマの形をしているとされるペルー南部の都市クスコだが、広場はちょうどこの動物のおなかのあたりに抱かれている。町は三四〇〇メートルもの高度に位置する。南アメリカ大陸を南北に走るアンデスの山々に囲まれているが、南東方向、ピューマの背に沿うようにして少しずつ降りていくと、そのずっと先には、聖なる谷が広がっている。なんと青い空だろうと思っていると、突然さーっと雨が落ちてきて、気がつくと大きな虹がかかっている。
-------

徹哉氏の文体は、父・善彦氏のようにところどころでハッタリをかましつつ、キビキビと力強く論証を進めて行くスタイルとは違って、少し甘い香りが漂いますね。
このあたりはもしかすると中沢新一氏の影響を多少受けているのかもしれません。
中沢新一氏にとっては網野善彦氏が『僕の叔父さん』ですが、「徹哉君」にとっては、従兄弟とはいっても10歳も年上の中沢新一氏(1950生)が「僕の叔父さん」ならぬ「変なおじさん」なのかもしれません。

相生山「生駒庵」の謎(その1)~(その3)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7644
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7645
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7646
『血族』の世界
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7648

>筆綾丸さん
>キラーカーンさん
また、新しい観光地の誕生ですね。
市長さんも実は狙っていたりして。

https://twitter.com/koldinni/status/1011258841605005314

https://www.theguardian.com/world/2018/jun/26/second-spanish-church-falls-prey-to-well-intentioned-restorer-st-george-ecce-homo-monkey-christ
https://www.nytimes.com/2018/06/26/world/europe/spain-estella-church-statue.html
 

RE:輪廻転生

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2018年 6月28日(木)01時22分32秒
  https://matome.naver.jp/odai/2137644250058123801

この一件以来、スペインはこの手の「魔修復」を
キラーコンテンツにしようとしているのではないか
と邪推したくなります。
 

輪廻転生

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 6月27日(水)20時39分3秒
編集済
  https://www.bbc.com/news/world-europe-44619416
https://edition.cnn.com/style/article/spanish-church-restorer-st-george-intl-trnd/index.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%82%B9
たんに画に関連するだけの話で恐縮ですが、ここまで「修復」すると、もう犯罪ですね。こんな顔では、竜を退治できません。下の方の絵は、Ecce Homo から Monkey Jesus への華麗なる輪廻転生です。  
 

イサム・ノグチと「青い壁の家」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月26日(火)18時58分50秒
編集済
  加藤薫氏の『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』(岩波書店、2011)は八百ページを超える大著で、なかなか読み応えがありますね。

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これまで断片的紹介にとどまってきたリベラ作品を,現地調査を踏まえて詳細に分析.波乱に富む作家の軌跡とその特異な生き方をエピソードとともに紹介する.時代状況やぶつかりあう最先端の社会思想と関連させながら,ディエゴの芸術思想について考察.政治と芸術の相克を描き出し,オルターナティブ・モダニズムの先駆者の現代的・普遍的意味を浮彫りにする本邦初の本格的研究.

https://www.iwanami.co.jp/book/b265622.html

全体的に非常に真面目な論考なのですが、対象がそれほど真面目でもない部分を持った人たちなので、時々出てくる変なエピソードに惹かれてしまいます。
例えば彫刻家のイサム・ノグチは1935年夏から翌年春にかけて八か月ほどメキシコに滞在していたそうですが、その間にフリーダ・カーロの愛人になっています。(p547)

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 メキシコ生活にまた別の楽しみと刺激を与えたのはある女性だった。はっきりした日時までは不明だが、ノグチがメキシコにきてからまだそれほど間のない夏の終わりか初秋のある日の午後、ロドリゲス市場の近くを歩いていたノグチに一台の車が近づき、後部座席の女性が声をかけてきた。現代風にいえば逆ナンパの状況だろう。いずれにしてもこれがノグチとディエゴの妻フリーダ・カーロの最初の出会いであった。二人はたちまち恋仲になった。一九三五年頃に写真家エドワード・ウェストンの撮影したノグチの肖像写真余白にフリーダは「私のダーリン 私の愛する人に」という書き込みを残している。二人の密会にはコヨアカンのフリーダの実家「青い壁の家」が使われたり、それでなければやはりコヨアカンのアグァヨ通りにあった妹クリスティーナの家が使われた。サン・アンヘルにあるファン・オゴルマン設計のアトリエ兼住居の三階にあるフリーダの寝室ではあまりに危険が多かったのだろう。
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そして、フリーダが、より安全な密会用のアパートを準備している時に、家具の誤配からディエゴが二人の関係に気づきます。(p548以下)

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 怒り狂ったディエゴはフリーダのいるはずの「青い壁の家」に向かった。ノグチとフリーダはベッドでお楽しみ中だったが、フリーダの使用人のチューチョが機転をきかせてディエゴを引きとめる一方、迅速に二人にディエゴの到来を告げた。いつもと違う空気の流れから、フリーダが誰か他の男と密会しているのを確信したディエゴは拳銃を抜いてフリーダの寝室へと走った。
 ノグチはあわてて服を着たが、飼い犬がじゃれつき、靴下の片方を持ち去った。ノグチは銃弾を避けるために、庭には出ず、中庭にあったオレンジの木を伝って屋根の上によじ登り逃げ去ったという。犬のくわえた靴下に気がついたディエゴは音のする屋根に向かって発砲した。間一髪で逃げ切ることができたのはまさに幸運としかいいようがないし、後でフリーダとディエゴの間でどのような修羅場が展開したかはあまり明らかではない。次にディエゴとノグチの二人が出会ったのはフリーダの病状悪化で入院していた病院で、ディエゴが看病しているところに野口が見舞いに現れた。ディエゴは早速銃をとりだし、次に会った時は確実に弾をぶち込むことを告げた。この後ノグチは帰国までフリーダと会うことはなかった。
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ディエゴは身長約185cm、体重は120㎏を超える巨漢で、ヒキガエルに似た怪異な容貌をし、ピストルの扱いにも慣れた人ですから、ノグチもよくもまあフリーダの愛人になったものだと思います。

イサム・ノグチ(1904-88)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%B0%E3%83%81

フリーダ・カーロ博物館(「エスニック見ーつけた!」サイト内)
http://search-ethnic.com/museo-fridakahlo
 

トロツキーとディエゴ・リベラ

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月25日(月)08時24分14秒
  現在の日本では、ディエゴ・リベラはメキシコ壁画運動の中心人物というよりはフリーダ・カーロの夫として有名なのかもしれないですね。

フリーダ・カーロ(1907-54)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AD

ディエゴ・リベラを始めとしてメキシコ壁画運動の関係者はアブナイ人だらけで、その多くがPCM(メキシコ共産党)に入党したり除名されたりしていますが、中でも一番ヤバイのはスターリンの命令でトロツキーを暗殺しようとしたシケイロスでしょうね。
加藤薫氏の『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』には、

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 一九四〇年早々に、モスクワではついにスターリンがトロツキーの活動を封じるための暗殺指令を下す。これを受けて二つのグループがお互いの連絡なく動きだした。
 一つはシケイロス・グループで、ソ連から暗殺指令を受けたPCMが後押しし、武器装備や変装用の軍服と警官衣装を用意した。一九四〇年五月二四日の午前四時ごろに、シケイロスを含む約二〇名の武装集団がビエナ通りの邸宅を襲った。いち早く不穏な気配に気づいたナターリャ夫人が寝室の片隅にトロツキーを追いやり、襲撃をしのいだ。後日談としてシケイロスもまたPCMも、脅しをかけるだけで殺意はなかったと弁明しているが、実弾を使用し、証拠隠滅のために焼夷弾で焼き尽くそうと試みたことからも本気だったことが窺える。そして秘書兼当日の警護役だったロバート・シェンドル・ハートを連れ去り、拷問の上殺害し、デシェルト・デ・レオネスに埋めたことには弁明の余地もなかったが、シケイロスは自分は関知しなかったと責任を回避した。それでも投獄されたがカルデナス大統領の友人であったことを利用して一年後には国外亡命を条件に解放された。美術作家仲間ではアントニオ・プホル、ルイス・アナレル(義兄=シケイロスの妻アンヘリーナ・アレナルの兄)、レオナルド・アレナル(ルイスの弟)などが襲撃メンバーに加わっていた。
-------

とあります。(p570)
シケイロス・グループの襲撃が失敗して、次に出てくるのがラモン・メルカデルですね。

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 この襲撃の失敗からもう一つの暗殺グループの出番となり、ラモン・メルカデルに正式なトロツキー暗殺指令が下される。メルカデルは老いて病気の母親を人質にとられていて、暗殺を拒否できる状況ではなかった。全てが周到に準備されていて、パリ郊外ペリニー村での第四インターナショナル創立会議で通訳を務めたシルヴィアはメキシコ支部設立のために再び採用されたが、すでにシルヴィアと接触済みのメルカデルは再び近づき、深い仲となっていた。そしてトロツキーの家の警備担当者とも少しずつ馴染みになり、ナターリャ夫人に花を贈るなどして親しくなっていった。八月二〇日午後五時二〇分から三〇分の間にメルカデルは一人でトロツキーの書斎に入るチャンスを得、背後からピッケル状の金具で襲った。即死というわけではなく、死亡宣告が出されたのは翌日八月二一日の午後七時二五分だった。八月二二日の葬儀から二七日に火葬される六日間に三〇万人近くの人が別れを告げに訪れた。遺灰はビエナ通りの家(現トロツキー博物館)の中庭に埋められ、墓碑には鎌とハンマーが刻まれた。そしてナターリャ夫人も死後火葬され、同じ墓所に眠っている。
-------

『シェイクスピアはわれらの同時代人』のヤン・コットの自伝(『ヤン・コット 私の物語』、みすず書房、1994)には、ラモン・メルカデルがジャック・モルナールという偽名でシルヴィア・アゲロフに巧妙に近づく様子が描かれていますね。

Assassination of Trotsky
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8776

そもそもトロツキーをメキシコに迎え、その亡命生活を支えたのはディエゴ・リベラですが、フリーダ・カーロがトロツキーと通じるといった事情もあって、後に二人の間には亀裂が入ります。
そして、トロツキーがフリーダ・カーロの生家「青い壁の家」を出て、結果的に人生の終焉を迎える場所となったビエナ通りの家(現トロツキー博物館)に移ったころにはディエゴ・リベラとトロツキーは険悪な関係となっており、シケイロスのトロツキー暗殺未遂事件ではリベラも警察の容疑者になっていたのだそうです。(p581)
 

『日本中世のムラと神々』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月24日(日)10時26分3秒
編集済
  大山喬平氏の『日本中世のムラと神々』(岩波書店、2012)を入手してパラパラ眺めているのですが、きちんとした論文はもちろん、エッセイ・講演記録の類までどれも非常に緻密で、さすが京都大学名誉教授だなと感心してしまいます。

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「平成の大合併」によって,「村」という地名が消えようとしている.日本のムラは古代以来続いてきたので,これは歴史の大転換点である.古代の郷里制,中世の荘園制,近世の村落など制度上の仕組みとの関係に留意しながら,中世のムラを中心に,ムラの持続性とムラの生活を支えてきた「神々」について論じた画期的論集.

https://www.iwanami.co.jp/book/b265025.html

ただ、こうした専門領域での緻密さと、メキシコ旅行の回想の粗っぽさとの落差はどう考えればよいのか。
大山氏の記憶は、

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これはね、メキシコ革命の後に壁画運動というのがあって、シケイロスやオロスコやリベラなどという人がいます。たくさん見たので、どの人の壁画か忘れましたが、その中に、土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっているのですね。それで、地上にトウモロコシが稔っている。地中に横たわっているのは亡くなった人で、それが血流でつながって穀物の豊穣をもたらす。こういうモチーフの壁画が現代絵画でも描かれているのです。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9543

という具合にずいぶん曖昧なものなので、私が推定したインスルヘンテス劇場の屋外壁画と違っている可能性は残りますが、まあ、壁画は普通の絵画と異なり一点一点に巨額の費用がかかり作品数も限定されますから、まず間違いないはずです。
そもそも高校生で共産党活動に没頭していた革命青年タイプで、運動に挫折して以降は地味な荘園研究に沈潜していた大山氏のような人に美術を語る語彙がプアーなのは理解できるのですが(わはは。少し莫迦にしています)、それでも壁画運動はメキシコ革命と直接に連動していて、革命青年の心を騒がせる要素に満ち溢れていますから、大山氏が旅行中にそれほど感銘を受けたのなら、帰国後に誰の作品だったのか確認する程度のことを何故しないのか。
「専門バカ」で済ませてよい問題でもないような感じがするのですが、やはり「専門バカ」以外に説明のしようがないですかね。

>筆綾丸さん
亀井勝一郎のことは知らないのですが、本郷氏は昔から海音寺潮五郎く評価されているようで、エッセイなどで何度も言及されていますね。
 

実証のあとさき

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 6月23日(土)12時52分48秒
編集済
  小太郎さん
ご引用の文にある「これらを見る観光客の多く・・・」は、20年前の我が身にもピッタリ当てはまります。観光社会学の世界的トップランナーは、世界遺産の伝道師ユネスコでしょうか。

今日の日経から、本郷和人氏の連載「日本史ひと模様」が始まりました。
初回は「亀井勝一郎・海音寺潮五郎」で、分野が違うなあと変な感じがしたのですが、これは、実証、実証と馬鹿の一つ覚えみたいに唱えている同業者を揶揄したものと読むべきなんでしょうね。いわゆる「実証」が三度のメシより好きな歴史学者に対して、僕はもう卒業したよ、と言いたいのかもしれません。

http://www.jca.apc.org/gendai/contents/syohyo/978-4-7738-1002-8.html
Mario Vargas Llosa は、大江健三郎が昔からよく言及しています。スペイン語Llosaの発音は「ジョサ」のような気がするのですが。
 

「土の中に横たわる人物から」出ている「血管」について

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月23日(土)12時27分4秒
編集済
  『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』第六部「第6章 インスルヘンテス劇場の屋外壁画─一九五三年」の構成は、

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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート
2 カンティスフラスの身体性
3 演劇の象徴
4 カンティスフラスの役割
5 屋外壁画用の新しい素材
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となっていますが、まずは概要ということで、「1」を引用してみます。(p671以下)

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1 劇場壁画とディエゴ式ポップ・アート

 一九五三年二月末に建築家フリオとアレハンドロのプリエト兄弟がディエゴのもとにやってきて、新しく建設する予定のインスルヘンテス大通りに面した映画劇場の壁画を注文した。この場所は音楽の編曲家で政治家としても有能だったホセ・マリア・ダビラと、美貌と話術に長けた社交家として有名だったその妻ケタの所有物だった。夫の死後、ケタ夫人が夫の功績を残すために劇場建設を計画し、彼女の願いでディエゴに壁画を注文することになったものだ。
 インスルヘンテス劇場は映画上映をメインに、演劇やミュージカル公演など多様な娯楽を提供する施設である。【中略】
 ディエゴはここに<メキシコの大衆文化の歴史>をガラスモザイク技法で描いた。完成は一九五三年である。カトリンは、大壁画というとこれまでシリアスな政治性の強い主題を扱ってきたディエゴが、当時の西欧現代美術の新しい潮流として後に広く認識されるに至った「ポップ・アート」の手法に手を染め、大飛躍を遂げた記念すべき作品だと評価している。ディエゴはこれまでにも大衆文化との接点として、コリドの歌詞を画面に取り込んだり、グロテスクなほどに戯画化した政治家や歴史上の人物を表現し、記号化してきたし、また大衆の抑圧された精神が解放される野性的な祝祭場面などを描いてきた。具象的な表象はしばしば大衆の愛するマンガに似たものですらあった。現代の眼から見ると、ディエゴがメキシコ大衆の想像力や道化役、変身キャラクターなどへの愛を理解し、その心性を反映した作品はそのまま、大量生産・大量消費の画一化された商品記号に侵されてゆく現代社会のグローバリゼーションに対抗するエスニックな文化要素を強調しているように見える。その意味での限定的なものではあるがポップ・アート的表現という評価も受け入れられる。
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そして大山喬平氏が着目したであろう部分に関連して、「3 演劇の象徴」に若干の説明があるので、これを引用します。(p677以下)

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伝統の二元論の表象─まだ終わらない革命

 観客からみて画面右端では上から、トラティルコ遺跡から出土した女性土偶を模した音楽に合わせて踊る芸人たちの姿がある。その足元ではアステカ時代のものと記述される二元論的宇宙観に基づいた二つの相反する要素の悠久の闘い(画面の演者の衣装は「生」と「死」の表象となっている)のドラマを演じている(図6-68)。その左側ではメキシコ革命時期の様々な事件をギターの弾き語りで、家庭にしかいられなかった女性に伝えている場面が描かれている。どちらの場面にも歌詞や科白はテカティワカン式の音声記号で書き込まれている(図6-69)。その下段では先-スペイン時代の衣装や仮面をつけたダンサーが太鼓などのリズム楽器に合わせて踊り、ジャガーがおそれおののいている場面となっている。このセクションで一番大きく描かれているのがメキシコ革命の指導者でディエゴも支持したエミリアーノ・サパタの姿で、土地の恵みの大切さを示している(図6-70)。右手で高く掲げるたいまつの火は、まだ革命が終わっていないことをしめし、その炎に鼓舞されて未だ闘う農民たちの姿も描かれている。
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さて、ここで改めて当該部分を見ると、大山喬平氏は「土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっている」と言われていますが、銃を手放して横たわっている農民兵は別に「地中」に埋葬されたのではなく、単に地表に仰向けで倒れているだけのように見えます。
また、その左手は出血している訳でもなく、指の先はエミリアーノ・サパタが左手に持っているトウモロコシから伸びた何かと接してはいますが、これは倒れた農民兵の「血管」ではなくトウモロコシの「ひげ」ではないですかね。
背後に六本のトウモロコシが見え、その中ほどに実がなっていますが、その実の「ひげ」と同じオレンジ色ですね。

http://1.bp.blogspot.com/-6sC_vauEgfc/U0gyd1o1THI/AAAAAAAAGu4/ejW4gb2H8f0/s1600/El+teatro+en+Me%CC%81xico+(4).jpg
http://notasomargonzalez.blogspot.com/2016/03/

うーむ。
どうも大山氏はこの壁画を見た時点で既にトウモロコシの「ひげ」を死んだ農民兵の「血管」と誤解していて、その誤解を四十数年以上大切に胸に秘めてこられたのではないかと思われます。
 

ディエゴ・リベラの  El teatro en México (1953)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月23日(土)08時23分30秒
編集済
  大山喬平氏が、

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これはね、メキシコ革命の後に壁画運動というのがあって、シケイロスやオロスコやリベラなどという人がいます。たくさん見たので、どの人の壁画か忘れましたが、その中に、土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっているのですね。それで、地上にトウモロコシが稔っている。地中に横たわっているのは亡くなった人で、それが血流でつながって穀物の豊穣をもたらす。こういうモチーフの壁画が現代絵画でも描かれているのです。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9543

と言われている壁画は何かなと思ってグーグルの画像検索で探してみたところ、最初にリンク先のブログでディエゴ・リベラの El teatro en México (1953)らしいと見当をつけ、

http://notasomargonzalez.blogspot.com/2016/03/

更にこの作品名で検索してみたところ、この巨大な壁画の右上部分で間違いないようですね。

https://mxcity.mx/2017/11/el-mural-de-diego-rivera-que-adorna-el-teatro-insurgentes/

1953年ですからメキシコ壁画運動の最盛期からは遥かに遅れたディエゴ・リベラ(1886-1957)の最晩年の作品ですね。
加藤薫氏の『ディエゴ・リベラの生涯と壁画』(岩波書店、2011)に「第六部 晩年のメキシコ生活 一九四一年~一九五七年」の「第6章 インスルヘンテス劇場の屋外壁画─一九五三年」として、かなり詳しい説明があります。
それによると、右上部分で一番大きく描かれている人物はメキシコ革命の指導者のエミリアーノ・サパタで、その下に横たわっているのが大山喬平氏が注目した人物ですが、これは別に特定のモデルがいる訳でもなさそうです。
というか、よくもまあ、巨大な壁画のこんなマイナーな部分に目をつけたなと感心してしまいます。

エミリアーノ・サパタ(1879-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%91%E3%82%BF
 

「我々の神秘的な古代文明への関心を刺激しようとする遺跡公園」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月22日(金)23時06分26秒
編集済
  今日は杓谷茂樹氏の「メキシコにおける『マヤ文明』イメージの<女性性>と観光」(『国立民族学博物館調査報告』37号、2003)と「マヤ・イメージの形成・消費と古代遺跡─マスツーリズム状況下を生きるマヤ遺跡公園のイメージ戦略」(『大阪経大論集』61巻6号、2011)を入手して読んでみたのですが、観光社会学はなかなか面白い世界ですね。
チチェン・イツァに関しても新たに興味深い情報をいくつか仕入れたのですが、とりあえず「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』所収)の続きの方を先に引用しておきます。(p327以下)

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 これらを見る観光客の多くは、そうした情報をチチェン・イツァに来る前から、様々なメディアを通して学習しており、彼らは遺跡公園に来ることで、実物を目の当たりにし、ガイドの説明によって自らの知識を確認、補足することで、満足して帰って行くことになる。そして、この観光用に「囲い込み」された遺跡中心部の側も、観光客が遺跡について事前に獲得し、また期待して持ち込んでくるイメージに対応して、彼らが遺跡に求める要素を強調、あるいは追加して提示することで遺跡公園を形作っている。その際、そこではマヤとは別の文化要素まで利用されることすらある。選ばれた建造物、遺構が、驚異と奇異に満ちた物語性をまとい、我々の神秘的な古代文明への関心を刺激しようとする遺跡公園のあり方は、観光客に見せるもの、そしてその見せ方の意図的な操作の上に成り立っているということだ。【後略】
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p328には「球戯場でのガイドの説明」とのキャプションがついた写真が載っていますが、これは「勝った方のチームのキャプテンが首をはねられるという西欧的な考え方からは奇異に感じうるガイドの説明」がなされている場面と思われます。
地元の観光関係者は観光客の反応を冷静に観察しており、おそらく実際には「勝った方のチームのキャプテンが首をはねられるという西欧的な考え方からは奇異に感じうるガイドの説明」が「俗説」であることを承知の上で、多くの観光客の期待通りに神秘的でエキゾチックな説明を繰り返しているのでしょうね。

また、『「世界遺産を旅する」11 メキシコ・中米・カリブ海』(近畿日本ツーリスト出版部、1999)に「チチェン・イツァーの支配者は、神への生けにえとして、あるいは神の託宣を聞かせるために、男性、女性や子供までも生きたままこの池に投げ込んだ」云々と紹介されている「聖なるセノーテ Cenote Sagrado」ですが、青山和夫氏は、

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 チチェン・イツァ最大の「聖なるセノーテ」は直径六〇メートル、深さ三六メートルを誇る。七〇〇年頃から雨と稲妻の神チャークの宗教儀礼に用いられ始め、都市が衰退した後も一六世紀までマヤ低地北部の重要な巡礼地であった。【中略】
 「聖なるセノーテ」の底の発掘調査によって、上記の遠距離交換品に加えて、多種多様な供物が見つかっている。【中略】
 雨乞いのために、「聖なるセノーテ」に「多くの処女が生け贄とされた」という俗説がある。これまでに一二〇体ほどの人骨が確認されているが、一〇〇〇年以上にわたる生け贄の数はそれほど多くはない。事故死など、生け贄でないものもあるだろう。実際には子供の骨が半分以上を占め、成人では男性の骨が女性よりも多い。生け贄はそれほど頻繁に行われたのではなく、宗教儀礼では主に供物が供えられたのである。
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と書かれています。(『マヤ文明』、岩波新書、2012、p121)
120体もの人骨が出たと聞くとおどろおどろしい感じがしますが、1000年で120人であれば8~9年で1人くらいの割合ですから、まあ、誤って落ちたり、子供が泳いでいるうちに溺れたり、といった事情で相当数が説明できそうですね。

>筆綾丸さん
ククルカン神殿の階段、登るのはまだしも下りは本当に怖そうですね。

Mexiko - Welt der Maya - Chichén Itzá - Pyramide Kukulcan
https://www.youtube.com/watch?v=GoxiGgIiLWQ

>拾ひし玉
九条良経の叔父の慈円に「拾玉集」という歌集があるのを思い出しましたが、これは他撰(尊円入道親王)で、一四世紀中頃の成立なんですね。

https://kotobank.jp/word/%E6%8B%BE%E7%8E%89%E9%9B%86-76881
 

言海

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 6月22日(金)14時32分34秒
編集済
  小太郎さん
ご紹介の青山和夫氏『マヤ文明』を眺めていますが、マヤ関連の書を読んでいた20年前の記憶が、だんだん蘇ってきました。

http://www.shinchosha.co.jp/book/133301/
高田宏『言葉の海へ』を読み始めたところですが、これは良い本ですね。
『言海』が、後京極(九条良経)の歌に由来することを、はじめて知りました。

   敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり
 

「若い女性や子どもが生きたまま投げ込まれたといわれるセノーテ・サグラード」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月21日(木)12時41分36秒
編集済
  『「世界遺産を旅する」11 メキシコ・中米・カリブ海』(近畿日本ツーリスト出版部、1999)は一応は長谷川悦夫氏という考古学研究者が「監修者」となっていますが、その内容が長谷川氏の学問的見解をそのまま反映したものかというと、そこは微妙な問題があるのでしょうね。
発行者の近畿日本ツーリストとしては、読者の好奇心を掻き立て、旅行に行ってもらうことが目的であって、監修者に余り煩く口出しされるのは迷惑かもしれません。
個別の事情は分かりませんが、世界遺産関係の旅行ガイドの類を見ると、「監修者」がNHK大河ドラマの歴史考証担当者くらいの存在である例も多そうです。
ま、それはともかく、杓谷茂樹氏(中部大学国際関係学部教授)の「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」(井上幸孝編『メソアメリカを知るための58章』所収)を少し紹介したいと思います。
同書の「執筆者紹介」では杓谷茂樹氏の専攻は「観光人類学、ラテンアメリカ地域研究」となっていますが、もともとは考古学出身で、中部大学サイト内の記事によれば、専攻を変えたのはチチェン・イッツァ訪問がきっかけだそうですね。

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当時ゴリゴリの考古学者だった私は、ある日、チチェン・イツァという世界遺産になっている遺跡公園に行きました。そこはすべてが観光用に美しく整えられていて、日頃私が発掘作業などで接してきた遺跡とは全く異質な場所に感じたのです。その時、考古学者として私はそこが「つまらない」と感じたのです。しかし、その後ふと「あのつまらなさは何だったのだろう」と自分に問いかけました。そして、この問いを発端に、目の前で現在を生きる遺跡公園を相手にすることにしたのです。

https://www3.chubu.ac.jp/international/news/198/

ということで、以下、「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」の引用です。

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 メソアメリカ地域を構成するメキシコおよび中米諸国にとり観光は製造業と並んで国家を支える重要な産業であり、それぞれの国が時に連携しながら観光産業を盛り上げようと努力し、開発が行なわれている。【中略】
 この魅力的な資源である古代遺跡を観光利用する形の開発が目的とするべきは、単に観光客が落としてゆく金で地域経済が潤うというだけのことではない。【中略】
 しかし、地域振興を観光に頼ろうとすればするほど、経済的な側面が強化されていってしまうことは想像に難くない。この地域でも古代遺跡は、まず観光客を集めて満足させ、お金を落としていってもらうことを第一に、様々な魅力的な意味づけがなされて、「遺跡公園」として地域における観光のメニューに並んでいる。【中略】
 この遺跡への意味づけは比較的自由に行われるものだ。【中略】一方で、この意味づけを科学的な手続きを踏んで「正しく」やろうとするのが考古学である。だから「一般的には」私たちは考古学者による説明を正しいこととして考える。しかし、それでも遺跡公園においては、考古学者が解明し、説明してきたものとは若干異なる語りが、観光という現実の中で日々生み出されているのはおもしろい。
 メキシコのユカタン州にチチェン・イツァというマヤ遺跡公園がある。現在までに積み上げられてきた国際的な知名度とそのイメージから、この遺跡は「マヤ文明」に関する一般の興味や関心の中で、常にその中心的な存在であり続けてきた。現在の遺跡公園の形は20世紀前半にアメリカのカーネギー研究所によって行われた調査・修復によってほぼ決まったと言っていい。そして、1988年にはユネスコの世界遺産に登録されている。【中略】
 チチェン・イツァという遺跡は非常に広大な都市遺跡であるが、遺跡公園として観光客に公開されているのはごく限られた中心部のみにすぎない。【中略】この他にも、神からの神託を得るために若い女性や子どもが生きたまま投げ込まれたといわれるセノーテ・サグラード、生贄から取り出した心臓を置いたチャクモールという石像、あるいは建築様式の類似性から中央高原で語り継がれた伝承と結びつけて語られる戦士の神殿もある。さらにメソアメリカ最大の規模を誇る大球戯場のレリーフ彫刻に描かれている球戯の場面は、勝った方のチームのキャプテンが首をはねられるという西欧的な考え方からは奇異に感じうるガイドの説明が興味をそそる。見所が多いのだ。しかし一方で、観光客がわざわざ足を運ばなかったり、素通りしてしまったりする建造物も少なくない。
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途中ですが、いったんここで切ります。
「神からの神託を得るために若い女性や子どもが生きたまま投げ込まれたといわれるセノーテ・サグラード」とありますが、青山和夫氏によれば、これも「俗説」のようですね。
その点も後で紹介します。
 

「生きた人間の心臓は、夜の旅で疲れた太陽に東の空から再び昇り輝く活力を与えると考えられていたらしい」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月20日(水)11時26分34秒
編集済
  『メソアメリカを知るための58章』(井上幸孝編、明石書店、2014)には杓谷茂樹氏(中部大学国際関係学部教授)の「遺跡利用と観光開発─チチェン・イツァを中心に」という興味深い記事が載っているのですが、これを紹介する前提として、観光ガイドブックの類でチチェン・イッツァがどのように描かれているかを見ておきます。
素材は何でもよいのですが、私がときどき利用している図書館に『「世界遺産を旅する」11 メキシコ・中米・カリブ海』(近畿日本ツーリスト出版部、1999)という本があったので、これを引用します。
この本は長谷川悦夫氏(当時、東京大学大学院博士課程在学、日本学術振興会特別研究員)が監修者となっています。

長谷川悦夫(1967生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%82%A6%E5%A4%AB

チチェン・イッツァ関係の記事は42~47pまでで、カラー図版がふんだんに用いられていますが、見出しには、

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古代都市チチェン・イツァー
マヤ後古典期ユカタン半島に栄えたトルテカ色濃い祭祀の都

暦の神殿に目を見はり生けにえの神事に驚愕する
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とあって、本文も生贄を強調する記述が目立ちます。
総論的な部分はウィキペディアなどと重複するので省略するとして、大山喬平氏も触れているチャク・モールについては、

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 戦士の神殿の急な階段を登りきったところには、一対の、頭を下にして尾を天空に跳ね上げた羽毛のある蛇クルルカンの姿を象った石柱が立ち、その下には膝を折り曲げて仰向けに腰をおろした、チャク・モールが置かれているが、これと瓜ふたつの石像が、中央高原に栄えたトルテカの王都トゥーラにもある。チャク・モールが腹部に支え持つ鉢は、生けにえとして捧げる人間の心臓を入れるための器だったといわれる。トルテカの戦士は、自らの都市を守るためだけでなく、神に捧げる生けにえを捕えるためにも戦をした。捕虜は、生きたまま胸を石の刃で切り裂かれ、心臓をえぐり取られ、その心臓が神に捧げられた。生きた人間の心臓は、夜の旅で疲れた太陽に東の空から再び昇り輝く活力を与えると考えられていたらしい。現代にも通用する戦士の神殿の美しさからは想像もできない、残忍な生けにえの儀式が神事として行なわれていたのだ。
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とあります。

チャクモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB

また、セノーテ(泉)については、

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マヤには珍しいドーム型建物と衝撃的な「生けにえの泉」

【中略】またこの都市遺跡には、地下水の涌く泉・セノーテが2つある。南部のセノーテ(セノーテ・シュトロック)は生活用水用だが、北の外れにあるセノーテは、衝撃的な生けにえの伝承をともなう泉である。水深約20m、直径60mで、周囲を石灰石壁で囲まれた、泉というよりは池という感じのこのセノーテは、雨の神チャクの棲み家と信じられ、聖なるセノーテ Cenote Sagrado、と呼ばれていた。チチェン・イツァーの支配者は、神への生けにえとして、あるいは神の託宣を聞かせるために、男性、女性や子供までも生きたままこの池に投げ込んだ。地方の首長たちも、何人もの処女を連れてこの地を訪れ、聖なるセノーテに彼女たちを投げ込んだといわれている。奇跡的に生き残った女性は、引き上げられて、神の託宣の伝達を求められた。エドワード・H・トンプソンの浚渫・潜水調査により、この池の底から黄金製打ち出し細工の円板、翡翠の耳輪・首飾り、銅の鈴、祈りを神の元まで煙りに包んで運ぶという聖なる樹脂の香ポムなどと共に、多数の男女、子供の骨が見つかり伝承は裏づけられた。
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とあります。
更に「神に心臓を捧げる儀式」と「死の球戯」という二つの囲み記事があって、前者には、

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 人間の心臓を捧げる儀式では、まず生けにえの体と石の祭壇が青く塗られる。頭に円錐形の帽子を被せられた生けにえは、祭壇の上に仰向けに寝かされて手足を押さえられる。執行人が石のナイフでその生けにえの脇腹を切り裂き、心臓を掴みだして鉢にのせる。神官はその心臓の血を神像の顔に塗りつける。高い基壇の上でこの心臓の取り出しが行なわれたときには、遺体は階段下に転がし落とされる。そしてその遺体から剥ぎとられた生皮を神官が裸身に纏って人々と踊ることで、儀式は最高潮に達したという。チチェン・イツァーのジャガーの神殿の壁には、その様子が描かれている。
 一見残忍そのもののような儀式ではあるが、一木一草も神への償いなしには採れない、採れば災いを招くという神への強い畏怖の念や部族の因習が、宗教と政治が未分化の社会のなかでこうした儀式に発展したものと思われる。
 チチェン・イツァーで行われていた、生きた人間の心臓を取りだして神に捧げるという神事は、マヤ、トルテカ、アステカなどメソアメリカ文化圏に興った諸文明で広く行なわれた。現代のマヤの人々も神に生けにえを捧げる習慣を保っているが、対象はニワトリなどの小動物に限られている。
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とあります。
もう一つの囲み記事「死の球戯」には、

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負けたチームの長は、首を切られ生けにえにされたといわれるが、奇妙なことに勝ったチームの長だという見方もある。この見方によれば、勝者が生けにえにされることを甘受したのは、勝って生けにえになる者は必ず神の許に行けると信じられていたからだという。
壁面石板には、競技者が首を切られ、切り口からほとばしり出る血が6匹の蛇(カン)の形で表され、豊饒を表すように中央から1本の植物が伸びて枝を広げ、実をつけている浮彫りがある。蛇(カン)には、神聖な印であることから、今では、生けにえになっている浮彫りの人物は、勝者であるという説が支持されている。死と再生の信仰のようなものがうかがえる話である。
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とあって、勝者説が正しいとされています。
全体的に生け贄を執拗に強調した、血みどろの世界になっていますね。
 

「だって新しい血がないと、朝日が昇ってこれないというのです」(by 大山喬平)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月19日(火)23時23分31秒
編集済
  大山氏が夢中になって語るメキシコ体験談は「中世の身分制と国家」とどう関係するのか、ちょっと分かりにくく、聞き手側も若干困惑しているようで、次のようなやり取りがあります。(p33以下)
なお、「久野」は久野修義氏(岡山大学教授、1952生)です。

-------
久野 先生の論文との関わり合いで言うと、穢れ感の両義性のようなものですか。
大山 穢れ感の両義性というか、難しいことは分かりませんが、要するに血の穢れというものは、このレリーフを作った人たちにはないのです。穢れではないのですね。
久野 今のお話と、「自分が論文で書いたことは間違ってはいなかった」というのはどうつながるのですか。
大山 一つは、ひざまずいた強壮な人物がいて、頭部が切り落とされて地面に転がり、首から吹き出す六本の文様化した血流があって、真ん中の噴流が植物文様となり、その先にたぶんトウモロコシがたわわに実っているというモチーフ。これはね、メキシコ革命の後に壁画運動というのがあって、シケイロスやオロスコやリベラなどという人がいます。たくさん見たので、どの人の壁画か忘れましたが、その中に、土の中に横たわる人物から血管が出て、足だったか、これがずっと地中に伸びてトウモロコシの根に繋がっているのですね。それで、地上にトウモロコシが稔っている。地中に横たわっているのは亡くなった人で、それが血流でつながって穀物の豊穣をもたらす。こういうモチーフの壁画が現代絵画でも描かれているのです。
-------

ということで、チチェン・イッツァからいきなりメキシコ革命後の壁画運動に話が飛んでしまいます。
チチェン・イッツァは「七〇〇年頃から繁栄し始め、九〇〇~一〇〇〇年が最盛期」(青山和夫『マヤ文明─密林に栄えた石器文化』、岩波新書、2012、p116)であった古代都市であり、他方、シケイロス(David Alfaro Siqueiros,1896-1974年1月6日)、オロスコ(José Clemente Orozco、1883-1949)、リベラ(Diego Rivera、1886-1957)が中心となったメキシコ壁画運動は1920~30年代の話で、千年ほど離れていますから、あまりに唐突な展開にちょっとびっくりしますね。
また、地中の死体とトウモロコシが繋がっているという壁画を探してグーグルで少し画像検索をしてみたのですが、どうもぴったり当てはまるものがなさそうで、若干の戸惑いを覚えます。

メキシコ壁画運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3%E5%A3%81%E7%94%BB%E9%81%8B%E5%8B%95

さて、大山氏の上記発言を受けた久野氏が話を纏めようとすると、大山氏は更に別のメキシコ体験を語り出します。

-------
久野 メキシコ体験というのは、先生の中に沈殿していって、カースト社会論にもつながっているのですか。
大山 そう、そう。それからね、観光バスで闘牛場に闘牛を観に行きました。日本人学者のツアーです。闘牛は何度も繰り返して行なわれるらしいのですが、我々が到着したときには、観客席は熱狂の最中でした。僕と朝尾さんは最後まで残ってかなり興奮して、牛が倒れるまで観ていました。気がついてみたら、我々の席は空席だらけになっていました。「その回だけで引き返す」と案内人が言うので、もっと見たいと思ったのですが、バスに戻りました。驚いたことにバスには、先に引きあげてきている人がいっぱい待っていて、「よくああいう残酷なものをみてきたね」と言うのです。僕の記憶では、古島敏雄先生や吉田晶さんは引きあげた組でした。同じ日本人で、同じ文化に染まっていても、感じ方は違っている。朝尾さんや僕は興奮して見ている部類でした。これが差別意識とか、穢れの歴史的感性などと関係があるのかな、などと考えました。メキシコでそういうことがいっぱいありました。そうそう、断頭台があって、ここで一人ずつ毎朝生け贄を捧げる。だって新しい血がないと、朝日が昇ってこれないというのです。チャクモールの像というのがチチェン・イッツァの上の方にありますが、これは生け贄の心臓がここに捧げられるというのです。メキシコに行っている間にそういう話がいっぱいありました。
-------

ということで、「そうそう」以下は闘牛から再びチチェン・イッツァに戻るのですが、ここも何だか唐突です。

>筆綾丸さん
『メソアメリカを知るための58章』(井上幸孝編、明石書店、2014)という本にチチェン・イッツァ観光に関する面白い記事があったので、次の投稿で紹介します。
 

マヤ文明の思い出

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 6月18日(月)23時31分30秒
  小太郎さん
たしか、二十年ほど前になりますが、フロリダ半島から空路でユカタン半島に入り、チチェン・イッツァのククルカン神殿の階段を登ったことがあります。写真で見ると、さほどでもないのですが、かなり急傾斜の階段で、転落して死亡した観光客がいたはずです。
球戯場も見ましたが、私の時も、勝者のキャプテンの首を刎ねる、と英語のツアーガイドが説明し、違和感を覚えたことを思い出しました。ご引用の青山氏の記述を読んで、得心しました。

細かいことながら、ウィキの球戯の説明にある「現在もくびきを意味するユーゴ(スペイン語: yugo)と呼ばれることがある」ですが、スペイン語ならば、yugoの発音は「ユーゴ」ではなく「ジューゴ」ですね。
 

「ああ俺は『岩波講座』に書いたのは間違ってなかった」(by 大山喬平)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月18日(月)21時55分7秒
編集済
  「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)の中で、メキシコ体験の部分はちょっと問題がありますね。(p32以下)

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(2)メキシコ体験─穢れ観念の多様な在りようの確認

大山 七六年の夏、「中世の身分制と国家」を書き終えた直後にメキシコに行きました。
久野 そうでしたか。メキシコに行かれたのはその直後でしたか。
大山 執筆直後でまだ活字になっていないときでした。でもあの論文は、言葉は非常に注意して書いています。でも、やはり自分で分かること、書くべきことは、まあ一応書いたというつもりになって、メキシコへ発ったわけです。僕は穢れの問題、何と言うか穢れに対する感覚・感性というものは、自分が生まれ育った文化によって規定されている。つまり自分の感性を疑ってかかれっていうことは、一つのメッセージのつもりだったのです。
 日本人学者はメキシコに沢山行っていましたが、私たちは吉田晶さんと朝尾直弘さんと三人で行きました。今日は、チチェン・イッツァのサッカー場の写真を持ってきましたが(大山氏の写真と吉田晶氏の写真を提示)、ここにサッカー場、球技場があるのです。ここにボールを蹴り込んで勝負をするということでした。この辺がサッカー場で、この裏側にこちらのレリーフがありました。このレリーフにぼくはある意味で衝撃を受けると同時に、「ああ俺は『岩波講座』に書いたのは間違ってなかった」と思いましたよ。これね、選手がいて、ひざまずいているのですが、ここの前の所に首から先が飛んで転がっています。その首からは血が六本にわたって吹き出ていて、その中の一本、上から三本目のが、ずーっと伸びて植物文様になっています。多分これはこの先にたわわなトウモロコシだと思いますが、豊作を暗示したレリーフですね。これがサッカー場を取り囲む壁面に描いてありました。その時に案内人が英語で言っているのを、僕はあまり正確に聞き取れないけれど、これはサッカーで勝負に勝った方のキャプテンが首を切られる、つまりサッカーの試合に勝った方のキャプテンが生贄になるということでした。後でほかのものを読むと、首を切られるのは負けた方だと書いているものもあります。でも、僕はそのときは勝った方だと聞きました。確かに、勝った方のキャプテンでないと話は辻褄が合いません。そういうのは、一番元気で活力のある人間の血でないと、負けた者では力がないからあまり役に立たないということでしょう。だから豊饒の源ですね。これにまず、一番ショックを受けました。とにかくメキシコ体験というのは、カルチャーショックでしたよ。小学校のときに京都に来て「田舎者や」と言われて以来のショック。見るもの聞くもの、まったく違ったものでしたね。
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聞き手の方々は大山氏からチチェン・イッツァの写真の提示を受けているからマヤ文明の話だと分かるでしょうが、大山氏は終始「サッカー場」という表現を用いており、このすぐ後にもメキシコ革命後の壁画運動の話が出てくるので、混乱してしまう読者も多いでしょうね。
チチェン・イッツァで行われていた球技は現代のサッカーとは全然違うものです。

チチェン・イッツァ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A1
メソアメリカの球戯
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%90%83%E6%88%AF

そして、大山氏が衝撃を受けたレリーフというのは、おそらくこれのことだと思います。

http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20121210/333459/?P=3

大山氏は「これはサッカーで勝負に勝った方のキャプテンが首を切られる、つまりサッカーの試合に勝った方のキャプテンが生贄になるということ」で、「勝った方のキャプテンでないと話は辻褄が合いません」と言われるのですが、およそ学問的とは言い難い見解ですね。
マヤ文明研究の第一人者である青山和夫氏(茨城大学教授)の『マヤ文明を知る事典』(東京堂出版、2015)には、

-------
 球技場は、国家儀礼や政治活動と密接に関連した重要な施設であった。【中略】
 球技者は貴族であり、王が自ら球技に参加することもあった。多彩色土器の図像によれば、球技の前にラッパが鳴らされ、球技が終わると球技具が王宮の部屋に運ばれた。硬く重いゴム球は、中に空気が入っておらず、当たり所が悪いと骨折してしまう。球技者は、手、肘、膝、腰などに球技具や防具を身に着けて、命がけで球技を競った。「勝ったチームのキャプテンが、自らの命を神々に捧げるべく喜んで生け贄になった」という俗信が、テレビ番組などで放映されることがあるが間違いである。重要な祭礼では、負けチームかそのキャプテン、あるいは重要な戦争捕虜が人身供犠にされることが稀にあった。
-------

とあります(p173)。

青山和夫
https://info.ibaraki.ac.jp/Profiles/5/0000403/profile.html
https://www.jsps.go.jp/jsps-prize/ichiran_4rd/01_aoyama.html
 

「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月17日(日)10時54分30秒
編集済
  ちょっと間が空いてしまいましたが、ツイッターで京都大学名誉教授・大山喬平氏のインタビュー「大山喬平氏の中世身分制・農村史研究」(『部落問題研究』218号、2016)が面白いと言っている人を見かけたので、私もこれを読んでから大山氏の過去の著書・論文をいくつか眺めていました。

大山喬平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%96%AC%E5%B9%B3

大山氏は政治的な面で非常に早熟な人で、インタビューでは、

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塚田 中学・高校の頃に、歴史をやるんだという感覚は全然なかったのですか。
大山 まずはありませんでした。
塚田 むしろ社会科学とか革命とか、そういう感じでしたか。
大山 そうそう、途中からだけど、革命をやろうと思うようになっていました(笑)。
久野 その頃から毛沢東やスターリンを一所懸命読んだのですか。
大山 読んだ、読みましたよ。
塚田 マルクスはどうでしたか。マルクスを読むより、毛沢東やスターリンでしたか。
大山 そうですね。いやレーニンも。『レーニン二巻選集』(社会書房、一九五一年刊行開始)が一番早く出て、それが流行っていた感じでした。
久野 それは、先進的な高校生にですか。
大山 要するに、一九五〇年六月、朝鮮戦争の勃発が一挙に危機感を募らせましたね。その時、高校二年生で、洛北高校にいました。もう一度戦争に巻き込まれるのかと。その前年の末ごろから、少しずつ変わり始めていたかな。高一は鴨沂高校にいましたが、従来の共産青年同盟にかわって、民青ができたのはちょうどその頃の筈です。同級生のなかに早熟な秀才がいて、その人物に相当な影響を受けました。何人もいますが、その人たちのことを思うと今でも複雑です。
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とありますが(p12)、この「早熟な秀才」のうちの一人は山崎正和でしょうね。

貝塚啓明「高校時代の山崎氏のこと」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8949
『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の聞き手について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8952

大山氏は共産党の活動で忙しかったらしい高校生活を終え、京大経済学部の受験に失敗して浪人した後、志望を文学部に変更し、

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五三年の春にようやく拾ってもらって京都大学に入りましたが、受験勉強の間に政治活動への興味はすっかり失せていました。学生はたいてい地方から出てきて、初めての学生運動で調子良くやりますね。宇治の最後の頃でしたが、ついていけなくて、何人かで運動をやめました。その続きで、次の一年間は、あてもなく仲間で京都の町をうろうろと彷徨していました。
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とのことで(p15)、大学に入ったら「運動」をやめてしまったというパターンも山崎正和と一緒です。
大山氏の語り口には乾いたユーモアが漂っていて、漫談風に流れるところもありますが、身分制の研究を始めるきっかけとなったという1969年の大阪市立大学での「糾弾会」あたりは、さすがに口が重いですね。

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竹永 大阪市立大学の経験というのは、関西の中世史研究者の間で共有されていたのですか。
大山 いや、そういうことはありません。解放会館での経験は、別に人に言ってどうということではないから、直接的な議論をしたことはありません。
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ということで(p30)、同時代の人とすら語らなかったのだから、今更若い人に伝えたいと思うような経験ではなかったのでしょうね。
1933年生まれの大山氏が身分制の研究をしようと思ったのは36歳のときで、意外に遅いといえば遅いですね。
有名な岩波講座『日本歴史』の「中世の身分制と国家」は1976年ですが、この論文を読んだ脇田晴子氏から「あんた、勇気あるな」と誉められ、本人も「この論文を出すときは、大げさに言うと、ひょっとしたら、俺も糾弾されるかもなと、そう思いましたよ。もうしようがないなと思って書いたことは事実です」云々と回想している事情は、現時点で当該論文を読んでも全然分かりません。
ま、当時は解放同盟と共産党の政治的対立が厳しく、「落合重信さんも、被差別民について中世に遡らせて歴史的に論じること自体が問題にされたと仰っていました」(竹永氏、p31)という状況があった訳ですね。
この後のメキシコ体験やインド体験の話も面白いのですが、いずれも非常に短い旅行体験であり、長期的に滞在していれば若干見方が違っていたのでは、という漠然とした印象を受けました。

>筆綾丸さん
>『江戸吉原の経営学』の著者
経歴だけ見ると、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』に出てくる明智某氏にちょっと似ていますね。
 

閑話

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 6月16日(土)12時49分0秒
  http://kasamashoin.jp/2018/02/post_4102.html
あまり関係がなくて恐縮ですが、本日の日経読書欄に紹介されてました。
『江戸吉原の経営学』の著者(日比谷孟俊)は、妙な経歴の持ち主ですね。老後のライフワークでしょうか。
 

「セックスワーク論」と「従軍慰安婦」問題

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月12日(火)11時21分22秒
編集済
  『中世の<遊女>─生業と身分』から前回投稿で引用した部分の続きを見ると、

-------
②セックスワーク論
 セックスワーク論は、こうした通説的な買売春論に対する批判として、セックスワーカー自身によって提起されたものである。その要点は、売春がセックスワーカーによって自発的かつ合理的に選択された労働(ワーク)であるとみなす点にあり、売春を特殊視することなく、他の労働と同じく「非犯罪化」することで、セックスワーカーたちは自らの労働環境や労働条件に関して主体的な働きかけを行なうことができると主張する。通説的な買売春批判の言説に見られるように、セックスワーカーを「犠牲者」「被害者」としてのみ扱い、売春の禁止や合法化・厳罰化を行なうことは、そこからはみ出るセックスワーカーたちを非合法な地位に追いやり、彼らの主張する権利を奪い、暴力と搾取にますますさらされやすくするという。
【中略】
 思想的には、主体の複数性を尊重するポストモダンフェミニズムの立場から、売春婦を無視・犠牲者視してきた近代的フェミニズムのあり方を批判したものと位置づけられる。
-------

ということで(p38)、あまり長く引用するのも悪いですから、この後の議論は、例えばウィキペディアの英語版などを参考にしてもらえばと思います。

https://en.wikipedia.org/wiki/Sex_worker

さて、問題は歴史学にとってのセックスワーク論の意義ですね。
辻氏は次のように整理されます。(p40以下)

-------
 歴史学における買売春史研究では、例えば曽根ひろみが比較的早期にセックスワーク論の提起を受け止め、「自由意思に基づく売春」を含めて売春社会の構造的把握を目指した。また藤目ゆきは、「公娼廃止・自由廃業が売淫の廃止や娼婦の真の救いになったかどうか」という視点から、「醜業婦」観に代表される廃娼運動の抑圧的性格を指摘し、これに対する当事者からの抵抗として、戦間期に娼妓・芸妓・女給などが労働条件改善を要求して起こした争議や、売春防止法に反対する赤線従業員組合の運動なども取り上げている。最近では特に遊女や売春婦の主体的行動が問題とされることが多く、セックスワーク論の影響を受けたものも散見される。近世史・近代史においては近年、都市社会構造論の文脈で、遊女屋のネットワークや関連業種の従属などを問題とする「遊郭社会論」が盛んに論じられているが、横山百合子はそれらの研究では遊女が商品として客体化され事実上意志を持たぬ存在と位置付けられているとして、ジェンダー視点の欠如を指摘した。横山は明治五年の芸娼妓解放令に関して、よりよい生存と「解放」を求める遊女の「意志と行動」が地域や国家政策に影響を与えていく様子を描いた。平井和子は、占領軍「慰安所」やパンパンの実態を解明する中でセックスワーク論に触れ、女性団体と売春女性間の分断が売春婦差別を支え、また当事者の必要と乖離した婦人保護政策を生み出してきたことを指摘している。山家悠平は、大正末から昭和初期にかけて遊郭の中の女性たち自身が遊郭内での生活改善を求めて行った告発や集団逃走、ストライキなどを分析し、それらの行動が当時の労働運動とつながっていることを示した。当事者側の視点から買売春史を捉える姿勢が定着しつつあるといえよう。
-------

これらの具体例を眺めていると、やはりいわゆる「従軍慰安婦」はセックスワーク論の観点からはどのように分析されるのだろうか、ということが気になってきます。
例えば2015年5月25日に出された<「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明>などを見ると、特に、

-------
 第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。

http://www.torekiken.org/trk/blog/oshirase/20150525.html

といった部分は旧来型フェミニズムの影響が強いような感じがします。
「従軍慰安婦」は国内において非常にセンシティブな政治問題であるだけでなく、深刻な国際的対立の火種になっているので、歴史研究者もうっかり口を挟んだらそれこそ研究者仲間から「村八分」にされかねませんから、セックスワーク論者もそれほど積極的に「従軍慰安婦」を論じてはいないのかもしれませんが、学問的には微妙な問題が多そうですね。
ま、「従軍慰安婦」を論じ始めたら様々な人が入り込んできて掲示板が荒れるのは目に見えているので、私も正直、あまり関わりたくないのですが、<「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明>については、その内容そのものではなく、各種新聞記事から想像される賛同者の人数合わせについて、若干の疑問を呈したことがあります。

歴史学関係16団体の会員数(その1)~(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7805
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7806
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7807
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7808
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7809

「しんぶん赤旗」の2015年5月26日付記事によれば、

-------
 声明は、歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会などが呼びかけ、半年近い時間をかけて準備されてきました。現在16の団体から賛同が寄せられ、今後も賛同団体は増える予定です。
 歴史学研究会の久保亨委員長は「声明は立場をこえた多数の歴史家の標準的な考え方だ。政治家が『専門家の意見を聞く』というならば、この声明に耳を傾けるべきだ」と述べました。
 会見には、服藤早苗歴史科学協議会代表、丸浜昭歴史教育者協議会事務局長らが同席しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-05-26/2015052601_04_1.html

とのことで、服藤早苗氏も「歴史科学協議会代表」としてご活躍されていたんですね。

 

研究対象としての<服藤早苗>

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 6月11日(月)09時37分25秒
編集済
  >筆綾丸さん
>鈴木涼美氏への言及
『中世の<遊女>─生業と身分』の「序章 <遊女>を理解するために」は問題点が明確に整理されていて良いですね。
特に「第三節 本書の視角と課題」の「(二)買売春研究の動向」は至るところで、なるほどな、と思いました。
私が特に自分の無知を知らされたのは「②セックスワーク論」ですが、その基礎・前提として「①通説的買売春論」から少し引用してみます。(p37以下)

-------
【前略】バハオーフェンやエンゲルスの説は、売春を婚姻制度・社会構造の問題とみなすことで買売春史の地平を広げ、また売春の起源や売春婦への非難・差別を説明した点に意義を有する。一方で、既に触れたように、これらの説は、婚姻論・家族論として展開されるため、性(特に性交)を重視し、売春を婚姻・家族からの逸脱として特殊視する傾向にある。また、基本的な視座を男女の権力関係に置いているために売春や売春婦の実態にはさほど関心を向けない、といった傾向を有している。
 このように婚姻の側に立って売春・売春婦を特殊視し、売春の現場に目を向けないという傾向は、近代の買売春批判の言説に通底するものである。女性を「主婦」と「娼婦」に二分するエンゲルスらの枠組み自体、近代家族制度の影響下に置かれたものであるため、近代家族制度の枠組みに立って売春を批判し、否定する言説とは親和性を有している。赤川学によれば、日本では明治二〇年代頃になって、売春は通常の職業ではなく「醜業」であり、「買売春は悪いことだ」という観念が一般化する。以後、恋愛中心主義の立場からは売春が愛のない性交であって「女性の玩弄物視を招く」とされ、貞操観念を重視する立場からは「買売春が婚姻外性交だから悪い」、純潔教育の立場からは「性は人格の中心であり、それを金銭で売買することは人格を売買することと同じだ」といった非難が繰り返し主張されてきた。こうした買売春批判のレトリックは、フェミニズムにおける<性の商品化>批判にも流れ込んでいるのだが、そうした言説はそもそも売春を悪とする前提に立っているため、女性の自由意思による売春を認めず、女性が社会的弱者であることを強調して「本人が自由意思で選んだように見えるときでも、売春は実は何らかの強制の結果なのである」というレトリックをとるようになり、強制性や人身拘束・搾取状態を裏書きするような悲惨な事例が強調されるようになっているという。
 このように近代においては、学問上でも、社会運動上でも、買売春は婚姻の対立物とみなされ、逸脱したもの、非難されるべきものとして扱われてきたといえよう。
-------

歴史科学協議会の大幹部・女闘士である服藤早苗氏などはこうした旧来型フェミニズムを代表する歴史研究者といえそうですね。
「八世紀から十一世紀を主たる守備範囲とする」服藤氏は、久我家の位置づけなど基礎的な部分でも従来の国文学者の『とはずがたり』研究を鵜呑みにしており、遊女に関する部分は加賀元子氏の「『とはずがたり』における『遊女』」(『武庫川国文』42号、1993)という論文に全面的に依拠しています。
従って、服藤氏の『とはずがたり』論は『とはずがたり』自体の研究水準を高めるものではないのですが、旧来型フェミニズムの限界を考える上では非常に良い研究材料ですね。

「夏のバカンスの北欧旅行から帰国して」(by 服藤早苗氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9530
 

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