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「心を高くあげよ」(by 第三三代院長 深井智朗)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月25日(土)10時32分3秒
編集済
  深井智朗氏の捏造騒動で一番奇妙なのは、やはり深井氏の動機ですね。
マスコミでは旧石器捏造事件の再来だ、みたいな記事もありましたが、あの事件では捏造した人に名誉・功名を得たいという分かりやすい理由がありました。

旧石器捏造事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%8D%8F%E9%80%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

深井氏の場合、『ヴァイマールの聖なる政治的精神―ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』(岩波書店、2012)のカール・レーフラーにしても、「エルンスト・トレルチの家計簿」(『図書』2015年8月号、岩波書店)にしても、その時点で深井氏は既に宗教思想史の世界で相当の実績をあげ、充分な学問的評価と社会的名誉を得ていました。
そして深井氏が捏造した架空の人物、架空の史料には、別にその存否が学界の動向に影響を与えるような重大性は全くなくて、本当につまらない、子供の悪戯のようなものです。
Aug.T 氏は、

-------
一つの私見。私は深井先生と面識はないが、上司や同僚は様々な被害に遭っていたそうだ。期限が過ぎても原稿が提出されないなどは、単なる多忙と片付けたが、脈絡もなく突然ブチ切れメールを送られた時には流石に「おかしい」となり、同業者の話も総合して、何らかの心因性の病気が推測されていた。

https://twitter.com/mad_sad_toad/status/1127662342492176384

と言われていますが、まあ、今回の事件がなければ、単に怒りっぽい人程度の話のような感じもします。
深井氏の文章は明晰だし、院長就任時の挨拶など実に立派なもので、病気とまで言うのは躊躇われますね。
捏造の舞台が二つとも岩波だったことで、岩波の校正のレベルも落ちたものだ、みたいなコメントもネットでは見かけましたが、深井氏が敢えて岩波を選んだのだとすれば、業界最高水準と自他ともに認める岩波の校正のレベルを試したい、からかってやりたい、みたいな愉快犯的心情があったのかもしれません。
ま、病気ではなく、屈折した愉快犯、学問の世界のタブーを犯すことに特異な喜びを感じる「変態」くらいでいいんじゃないですかね。

岩波書店:「謹告(深井智朗氏『ヴァイマールの聖なる政治的精神』ほかについて)」
https://www.iwanami.co.jp/news/n29826.html

Aug.T 氏のツイートで知った深井氏の院長就任挨拶(東洋英和女学院学院報『楓園』85号、2018.1.31)、本当に素晴らしいものですが、今後削除されるかもしれないので、記念に保存しておきます。

-------
深町正信前院長の任期満了に伴い、院長選考委員会での協議を経て、二〇一七年七月二十一日に開催された臨時理事会において深井智朗新院長が選任され、一〇月一日に就任しました。
九月二十九日に行われた院長就任式の様子を写真でお伝えするとともに、深井院長と深町前院長からのメッセージをご紹介いたします。


心を高くあげよ
        第三三代院長 深井 智朗

 今から三〇年も前のことです。その頃住んでおりましたアウクスブルクの町でカトリック教会の司教の着座式がありました。この町の教会を指導する新しい司教が選ばれたのです。世界最古のステンドグラスがある大きな教会でその式は行われました。カトリックの教会ですから荘厳な衣装を身にまとった、威厳に満ちた司教たちが入場し、その式ははじまりました。式の中で、新しく司教となる司祭が神と会衆の前で誓約をします。その姿を忘れることはできません。新しい司教はどのように誓約をしたのでしょうか。彼は誓約にあたって姿勢を正すのでも、ひざまずくのでもなく、聖壇から降りて、会衆の前で、人々が座っているその足元でうつ伏せになったのです。両手を左右に広げ、まさに上から見れば十字架のような姿になり誓約したのです。そして司教は、床に顔をこすりつけるようにしながら、三度ラテン語で「私をお選びになられた神よ、あなたに私のすべてを明け渡します」と叫ぶのです。そして誓約が行われる間ずっとそのままの姿でした。そして司式をする司教が誓約の最後に「私の羊を養え」とラテン語で告げると、司教は立ち上がるのです。そして新しい司教はこういうのです。「スルスム・コルダ(sursum corda)、「心を高くあげよ」。
 式が終わってから、一緒に出席した友人に新しく就任する司教がうつ伏せになって誓約したことに驚いたと述べますと、これは一四世紀から続く伝統だと教えてくれました。司教に就任する際、誰によってこの職を与えられたのかということを明らかにすること、そして間違っても司教になることで傲慢になったり、また自分の使命を誤って理解し、権力や名誉を手に入れることだと思わないために、誰よりもへりくだって、地べたにうつ伏せになって、誓約をするのだと教えてくれました。
 就任式の朝、三〇年前の出来事を思い起こしながら六本木に向かいました。そしてこう考えました。この姿はマーサ・カートメル先生から第三二代院長として四年間ご奉仕くださった深町正信先生に至るまでの本学院の院長の姿でもある。先生方はみなこの学院を心から愛し、先生方の豊かな才能のすべてを捧げてこの学院に仕え、指導してこられました。しかし先生方はみな誰よりも謙虚で、献身的で、この学院とそこで学ぶ者、働く者に仕えてこられました。まさに神を愛し、隣人に仕えてこられたのです。
 私はこの職に就くにあたり、この精神を先生方から受け継ぎ、学院とここで学ぶ者、働く者のすべてに仕える者となり、「喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者とともに悲しむ」者となることを神の前で約束したいと思います。
 わが国の教育機関が置かれている状況は決して楽観できるようなものではありません。本学院も例外ではありません。幸いなことに本学院は神のご恩寵のもと、また歴代の優れた学院指導者たちによって守られ、今日の姿にまで発展してきました。しかしそれでもいくつもの難題の前に今日の教育機関は立たされていると思います。社会的、経済的な要因もありますが、教育システムそれ自体が問われている時代なのです。変わらねばならない、勇気をもって変えてゆかねばならないことがあるはずです。決断しなければなりません。それが東洋英和女学院の将来を生み出すことになります。しかし他方で変えてはならないものがあります。それは本学院が建学以来一三三年間それを堅持してきたキリスト教の教えに基づく教育です。院長の職務はこの二つのこと、建学の精神の堅持と、それに基づいた将来の学院のヴィジョンを共に描き出すことだと考えています。
 これからご一緒に歩いて行きましょう。一緒に考え、悩み、議論し、決断し、東洋英和女学院という大きな船を約束の地へと導いて行きましょう。これまでの本学院の歴史は神の導きのもとに祝福された歴史でありましたが、いつも平穏であったわけではありません。困難な時にこそ、大きな課題に直面した時にこそ、壁や隔てを超えて、ひとつになって問題と取り組み、戦おうではありませんか。ここで学ぶ園児、児童、生徒、学生、院生のために、ここで働く全ての者たちのため、同窓生の方々、この学院に連なるすべての関係者の方々のために。これからなさねばならないいくつもの大きな課題と取り組むために心をひとつにし、心を高くあげ、学院の将来のために、一緒に歩んで行きましょう。
 一九〇〇年に完成した木造校舎が、その建築中にやってきた台風によって二度も倒壊した時、イサベラ・ブラックモア先生は大きな痛みと困難の中で、生徒や職員にこう呼びかけたことはこの学院を愛するすべての者がいつも思い起こすことです。「雨のあとには虹が出ます。恵みの虹を信じましょう。」みなさん。愛する東洋英和女学院のみなさん。一緒に「恵みの虹」を見ようではないですか。

http://www.toyoeiwa.ac.jp/publications/pdf/fuen85.pdf
 
 

「解題 エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』を読む」を読む。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月24日(金)12時10分15秒
編集済
  一昨日、ツイッターで、

-------
春秋社サイト、『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』の紹介に「社会学者マックス・ウェーバーの同僚兼同居人としてたがいに深く影響を与え合った著者」とあるけど、これは誤解を与える表現だなあ。
ハイデルブルクのネッカー川沿いの広い邸宅の一・二階にウェーバー夫妻が住み、三階にトレルチ夫妻が住んでいたという関係であって、二人が一緒に暮らしていた訳ではない。

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1131168720062099456

と書いたのですが、たった今、同社サイトを見たら、「社会学者マックス・ウェーバーの同じ大学、同じ屋根の下の住人としてたがいに深く影響を与え合った著者」となっていますね。

-------
新しい学問的方法の台頭や多元化する宗教・文化状況で、キリスト教が無条件に超越的・絶対的真理性を主張することは不可能ではないか。社会学者マックス・ウェーバーの同じ大学、同じ屋根の下の住人としてたがいに深く影響を与え合った著者は、それまでの神学的・哲学的議論を精査し、キリスト教がひとつの歴史的形態にすぎないことを認めつつも、なお他の啓典宗教やインド思想・仏教との比較を通じて、キリスト教の偉大さを示そうとする。みずからの価値を再確認し、さらなる前進を促す本書は、トレルチ生誕150年、ますます多元化する現代において、必ず読みかえされなくてはならない古典的名著である

http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-32363-2/

まあ、確かに「同居人」よりは「同じ屋根の下の住人」の方が正確ですが、妄想を生む可能性という点ではあまり変わりばえがしないような感じもします。
さて、私は二年前に『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』を手に取ったのですが、当時の私の関心は深井英五(1871-1945)と「普及福音新教伝道会」にあったので、本文はパラパラと眺めただけで済ませ、熟読したのは深井智朗氏による「「解題 エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』を読む」(p269-313)の方でした。

「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8839
鴎外の「序文」代筆の先行例?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8842
「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8864
「マルクスの著作の訓詁」の謎
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8865
「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8866
「マルクスの著作の訓詁」の謎、回答編
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8867
深井英五と井上準之助
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8872

今回、改めて「解題」を読み直してみると、深井氏の引用の仕方は本当にいい加減ですね。
(その4)でチラッと触れた部分は、

-------
 ところでハイデルベルク時代のトレルチは、公的な仕事における成功とは裏腹に、家庭ではひとなみの苦労を経験していた。彼はハイデルブルクに赴任した時には独身であったが、一八九七年になって大学の同僚のヤーコブ・ヴァッサーマンの娘マリアと婚約したのであるが、その数週間後に婚約は解消された。理由は定かではないが、トレルチのウッテンルティア以来の性的志向が問題だったようで、その後ハイデルベルクの大土地所有者の娘マルタ・フィックとの結婚までトレルチは独身のままだった。実はその結婚が一九〇一年であり、ちょうど『絶対性』論文が刊行される時と重なっている。トレルチは本書の刊行元であるJ・C・B・モール社のパウル・ジーベックと何度も手紙のやり取りをし、少しでも有利な条件で印税の契約をしようとしている。
 二人の結婚生活はその後も決して順調とは言えず、トレルチの長男エルンスト・エーベルハルトが誕生したのはようやく一九一三年六月三〇日で、結婚後一二年目で、トレルチは一九二三年に亡くなっているので、彼の人生はあと一〇年しかなかった。晩年になってもトレルチは常に数名の自分の学生たちと非常に密接な関係を求め続け、「婚姻生活は常に不安定で、幸福なものとはいえなかった」。
 このハイデルベルク時代に迎えた、彼の人生にとっては大きな転機となる結婚式を五月三一日に終えたトレルチは、夏の休暇を新婦との旅行に費やし、一〇月四日にミューラッカーでの講演に望んだ【ママ】のであった。それ故にその年は人生の転機であると同時に、彼の学者としての生活の、あるいは思想にとっての大きな分岐点となった。彼自身この『絶対性』論文は「以後の〔自らの研究の〕あらゆるものの萌芽」であったと述べている。
-------

となっていますが(p292)、「婚姻生活は常に不安定で、幸福なものとはいえなかった」・「以後の〔自らの研究の〕あらゆるものの萌芽」のいずれも出典不明です。
また、「トレルチは本書の刊行元であるJ・C・B・モール社のパウル・ジーベックと何度も手紙のやり取りをし、少しでも有利な条件で印税の契約をしようとしている」とありますが、これと酷似した表現が『図書』2015年8月号の「エルンスト・トレルチの家計簿」にもあって、しかし、「エルンスト・トレルチの家計簿」の方では明らかに第一次世界大戦終了後の話になっています。

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9903

約二十年の時を隔てて同一の相手と厳しい印税の交渉をしているのだったら、単にトレルチが金銭面に細かい人というだけの話で、生活の困窮や、まして「性的志向」とは全然関係ないことになりますね。
 

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月23日(木)12時18分10秒
編集済
  続きです。(p24以下)
「トレルチが自宅とは別に借りていたベルリンのアパートの代金の領収書」がどうしたこうしたというチマチマした話の後、一転して非常に格調高い話となります。

-------
 この時代、トレルチは新しく生まれたドイツの共和制のために、思想的にも、政治的にも戦いを続けていた。フリードリヒ・ナウマンのドイツ民主党からプロイセン州議会に立候補するために必要であったさまざまな諸経費も、当然困難な家計に追い討ちをかけた。
 彼の政治的努力は「妥協」ということであった。彼はその考えを思想的にも、政治的にも洗練された概念、いや政策へと磨き上げたのである。それは一種の現実主義であった。彼は、皇帝がおり、またビスマルクのような絶対的な指導者が政治を掌握し続ける中で、何らの主体的判断もできず、都合よく飼いならされた愛国主義者であった国民に、突如共和政やデモクラシーを適用するのは無理だと考えたのである。それゆえに彼は、もし現在の政府がラディカルな改革を強行すれば、それに対する保守派の抵抗が起こるし、国民も指導者も、現在の新しい統治システムさえそれを自分たちのものとして運用する政治的能力を欠いていると考えた。そうであるなら、最小限度の改革を、緩やかに行い、完全な理想を実現できなくても、はっきりとした解決には至らなくとも、現時点で最善な政策を実現しようと考えたのである。
 そのために彼は、保守派と急進派のどちらに対しても、ドイツ的伝統と新しい時代精神との創造的な「妥協」を求めた。彼はドイツの保守派と社会主義勢力、あるいは伝統から自立した個人主義との創造的妥協のためには、ドイツ社会と精神のもっとも深い基盤となっている宗教の改造が不可欠だと考えたのである。元来、デモクラシー、共和制、資本主義、個人主義などまったく受け入れることのできなかったドイツ・ルター派が、これらの制度や価値観を自らの精神的伝統を放棄することなく受け入れることができるようになるための、気が遠くなるような現実主義的な努力や選択を、彼は妥協と呼んだのである。もっとも彼自身、ドイツ的伝統やナショナリズムから自由になれない自分に気がついており、この妥協は実際にはバランスを欠いており、保守的な改革に傾いていた。
-------

ということで、途中で文章に若干の乱れもありますが、まあ、それなりに高度な議論が展開されます。
しかし、この後、再び「家計簿」が登場します。

-------
 議員として、事務次官としてこのような政治的戦いを続けていたトレルチが家庭で経験していた苦悩も、もしかすると似たようなものであったのかもしれないと、あの家計簿をみながら考えるようになった。いや逆に彼の家庭での経験が、「妥協」という考え方を生み出したのかもしれないとさえ思った。彼は現実を受け入れ、その上で、この現実を最善の仕方で改革する道を模索していたのであるから。
 トレルチ家の家計簿を見ると、子どものための、また妻のためのポンドでの信託預金が残されていたことが分かるが、そのために彼は働き続けた。彼自身が衣食住において極端な倹約家となることで、それを実現しようとしていたようだ。
 一九二三年二月一日、ポンドによる高額の講演料が得られ、あの信託預金を増額できるはずだったイギリスでの講演旅行への出発を目前にして、彼は急死した。イギリスの新聞は、その死を「食糧封鎖の犠牲者であった」と書いた。彼は家庭での理念上の矛盾や破綻を承知の上で、それにもかかわらず妻と子に対する責任を果たそうと、妥協に基づく努力を最後まで続けていたのである。
(ふかい ともあき・ドイツ宗教思想史)
-------

ということで、深井氏は実在しない「トレルチ家の家計簿」を見ながら、様々な思索を重ねられたようです。
細かいことですが、p22では「戦後もトレルチはベルリン大学の哲学部教授として神学を教え、同時にプロイセン州の議員として、また科学・芸術・国民教育省の政務次官として、主に新しく生まれた共和国における学校制度と教会制度の整備という特命を与えられていた」となっていたのに、こちらでは「事務次官」になっていますね。
さて、「エルンスト・トレルチの家計簿」のほぼ全文を紹介しましたが、改めてこのエッセイのどこからどこまでが虚偽・捏造なのかを考えると、本当に悩ましいですね。
なにしろ、

-------
しかし、小柳先生がミュンヒェンのF. W. グラーフ教授に問い合わせて得られた回答は「深井氏は、バイエルン科学アカデミーに来たことはありません」「トレルチが生きていた時代のそのような書類は全くありません」「深井氏による純然たるでっち上げです」というもの(『日本の神学』57号)。バッサリ。

https://twitter.com/mad_sad_toad/status/1126788449799888897

ということなので、「トレルチ家の家計簿」に直接関係する部分は全てダメだとしても、敗戦後の生活の困窮とか蔵書処分とかは本当らしい感じがします。
ちなみに、Aug.T 氏の上記ツイートに登場するトレルチ研究の第一人者、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・グラーフ教授は深井智朗氏とも旧知の間柄で、深井氏はグラーフ教授の本を二冊、翻訳していますね。

Friedrich Wilhelm Graf(1948-)
https://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Wilhelm_Graf

深井智朗・安酸敏眞編訳 『トレルチとドイツ文化プロテスタンティズム』(聖学院大学出版会、2001)
https://www.seigpress.jp/book/%e3%83%88%e3%83%ac%e3%83%ab%e3%83%81%e3%81%a8%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e6%96%87%e5%8c%96%e3%83%97%e3%83%ad%e3%83%86%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%ba%e3%83%a0
近藤正臣・深井智朗訳 『ハルナックとトレルチ』(聖学院大学出版会、2007)
https://www.seigpress.jp/book/%e3%83%8f%e3%83%ab%e3%83%8a%e3%83%83%e3%82%af%e3%81%a8%e3%83%88%e3%83%ac%e3%83%ab%e3%83%81
 

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月22日(水)14時51分9秒
編集済
  前回投稿で「彼はハイデルベルク時代の一八九七年に、同僚の娘マリア・バッサーマンと婚約したが、数週間後にはその婚約はトレルチの性的志向のゆえに解消されることになった」との記述を引用しましたが、『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(深井智朗訳、春秋社、2015)の「解題 エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』を読む」では表現が弱まっていて、婚約解消の「理由は定かではないが、トレルチのウッテンルティア以来の性的志向が問題だったようで」(p292)となっていますね。

『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』
http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-32363-2/

同書の「訳者あとがき」は2015年11月18日付なので、深井氏は『図書』2015年8月号での婚約解消理由についての断定を、数か月後にあまり自信のなさそうな推定に改めたことになります。
両者を読み比べると他にも気になる点がありますが、それはまた後で述べるとして、『図書』2015年8月号の引用を続けます。(p24以下)

-------
 一九〇一年になってトレルチは、ハイデルベルク大学神学部を代表してバーデン州の教会問題を取り扱う枢密顧問官となっていたこともあり、彼の友人たちは教会から彼の性的志向が問題視されないように注意を与えた。そのためトレルチは、同僚に紹介された大規模農場の経営者の娘マルタ・フィックスと結婚した。彼は同時代の神学者、マールブルクのルドルフ・オットーが同じ問題で教会当局から神学者としての資格を疑問視され、神学よりは宗教学に専門を移すことでその苦境を乗り越えようと苦労する姿を見ていた。このような事情であるから、妻との関係は常に危機に直面していた。トレルチはその暗い家族関係から逃げ出すように、研究室に閉じこもって精力的に仕事を続けた。そのような家庭の状況が、アイロニックなことだが彼の厖大な仕事を生み出したのである。
 それでも彼は「ウッテンルティア」の時代と同じように、特定の学生との関係を止めることができず、そのためにかなりの金額を支出している。そのことはトレルチが自宅とは別に借りていたベルリンのアパートの代金の領収書から明らかである。マルタはそれを当然知りながら、黙認していたと思われる。彼の同性愛的な志向は晩年まで変わることなく、しかし同時に家庭生活を続けてもいた。今日の言葉で言えばこの家庭は崩壊していた可能性がある。
-------

ここに「トレルチが自宅とは別に借りていたベルリンのアパートの代金の領収書」が登場しますが、今までの文章の流れから言えば、これも2015年2月に深井氏が(事実に反して)訪問したと称する「ミュンヒェンのバイエルン科学アカデミー」で見つけた「一〇枚ほどの茶色く変色した書類の束」に含まれているのでしょうね。
従って、この領収書も実在せず、トレルチが「特定の学生との関係を止めることができず、そのためにかなりの金額を支出」し続けていたか、妻の「マルタはそれを当然知りながら、黙認していた」か、更に「妻との関係は常に危機に直面していた」か、「この家庭は崩壊していた」かについては、少なくとも深井氏は自らの推定を基礎づける具体的な根拠を示せなかったことになります。
さて、深井氏はトレルチが生活の困窮から蔵書「約二千冊」を処分したのは1920年だと言われる訳ですが、トレルチとマルタの結婚は1901年で、トレルチが36歳の時です。
二人はハイデルベルクで結婚し、1915年にベルリンに移ったので、「トレルチが自宅とは別に借りていたベルリンのアパートの代金の領収書」は、仮にアパートの賃貸借契約自体は存在し、その証拠が存在していないだけだとしても、1915年以降の話であり、既に第一次世界大戦が始まった後の時期ですね。
更に仮定を重ねて、1901年の結婚以降、「トレルチが自宅とは別に借りていた」ハイデルベルクの「アパート」もあったとしても、トレルチはハイデルベルク大学教授であり、妻も「大規模農場の経営者の娘」ですから、「アパート」の一つや二つを借りたところで特に生活に影響するとも思えません。
要するにトレルチの「性的志向」がどのようなものであれ、それは直接に生活の困窮や蔵書の処分に結びつくものではなく、それらはあくまで「戦後よく知られたドイツの天文学的な数字のインフレ」の結果でしょうね。
ところで、私は従来からナチスが生れた精神的土壌に関心を持っていて、第一次大戦後のドイツのハイパーインフレーションと、それが学者に与えた影響について多少調べたことがあります。
この掲示板でもゾンバルトの蔵書が大阪市立大学にもたらされた経緯について触れたことがありますが、その際に得られた僅かな知識からすると、深井氏がトレルチの蔵書処分の時期を1920年としているのは、若干早すぎるのではないかなという印象を受けます。
ただまあ、あまりに細かい話になるので、この点は一応メモしておくだけにとどめます。

ゾンバルトが蔵書を売却した理由
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9616
「シュタンムラー先生と(1923年5月、ベルリンにて)」(by 南原繁)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9617
「ベルリンで櫛田、リヤザノフの大格闘」(by大内兵衛)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/7580
 

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月21日(火)10時30分15秒
編集済
  続きです。(p22以下)

-------
 トレルチは大変な読書家で、蔵書家であったことが知られているが、一九二〇年にはその蔵書のかなりの部分を手放している。その時の領収書が今回見つけた書類の束の中に残っていた。その時売却されなかった方の蔵書は、死後ベルリン大学の神学部図書館に寄贈され、第二次大戦後は東ドイツ側に保存されたので、詳細については何も知らされていなかったのだが、再統一後にタイトルのすべてが判明した。そのリストを最初に見たとき、彼の蔵書が意外にも少なく、トレルチが自らの著作でしばしば引用している文献さえその中には見あたらないことに疑問を感じた。しかしこの書類の束の中にあった領収書がその理由を明らかにしてくれた。彼は生活のために戦後蔵書の大部分を処分したのだ。トレルチの蔵書の売却を仲介した古書店は、そのほとんどを彼の希望でイギリスの図書館や個人蔵書家に売却し、代金はポンドで受け取る約束になっていた。その数は約二千冊である。
-------

「その時の領収書が今回見つけた書類の束の中に残っていた」とありますが、この「領収書」も実在しないことが確定した訳ですね。
でもまあ、「ベルリン大学の神学部図書館に寄贈され」た蔵書は実在するでしょうし、トレルチが蔵書の一部を処分したこともたぶん事実と思われます。
ただ、それが1920年の出来事であったか、また、「トレルチの蔵書の売却を仲介した古書店は、そのほとんどを彼の希望でイギリスの図書館や個人蔵書家に売却し、代金はポンドで受け取る約束になっていた。その数は約二千冊である」かどうかは、実在しない「領収書」を見たという深井氏の説明を信頼することもできず、他の証拠から事実か否かを探る以外にないですね。
また、たかだか「約二千冊」程度で「蔵書の大部分を処分した」というのも些か妙な感じがします。

-------
 新しい全集には、トレルチと彼の著作を多く出版したチュービンゲンのJ・C・B・モール(パウル・ジーベック)社との間の書簡が数多く収録されているが、この時期トレルチは過去の著作の改訂版の刊行や、その印税を少しでも多く受け取るための交渉を続けている。彼は生活のために書かねばならなかったのだ。ヴァイマールの共和制についての彼の数々の政治的評論は、この時代の政治的状況を知るための第一級の史料として今日でもよく知られているが、これも彼は使命感からだけではなく、生活のために書いていたのである。
-------

「この時期トレルチは過去の著作の改訂版の刊行や、その印税を少しでも多く受け取るための交渉を続けている」かどうかは「新しい全集」に「数多く収録されている」「トレルチと彼の著作を多く出版したチュービンゲンのJ・C・B・モール(パウル・ジーベック)社との間の書簡」を見れば分るのでしょうね。
さて、深井氏はトレルチが「生活のために書かねばならなかった」「生活のために書いていた」ことを強調されるのですが、この後、話は若干奇妙な方向に進んで行きます。

-------
 しかしなぜ彼の家計はここまで逼迫していたのか。トレルチは学問の世界、あるいは政治の世界では有能で、指導的な役割を果たしたが、家庭生活は苦悩の連続であった。彼はハイデルベルク時代の一八九七年に、同僚の娘マリア・バッサーマンと婚約したが、数週間後にはその婚約はトレルチの性的志向のゆえに解消されることになった。彼はエアランゲン時代に「ウッテンルティア」という学生団体に加入していた。その団体は、決闘はしないが、男性会員による友情と、学問、そして愛国心を養うための組織であり、トレルチの研究者フリードリヒ・ヴィルヘルム・グラーフによれば「この男性ばかりの結社での友情は、トレルチの潜在的な同性愛的感情を促進させた」のであり、それ以後トレルチはベルリン時代になっても、自分の学生たちとの関係を持ち続けた。
-------

ということで、生活困窮の原因を縷々述べるのかと思ったら、何故か「トレルチの性的志向」、即ち同性愛の話に移ってしまいます。
これがパウル・ティリヒのようにSM趣味か何かだったら多額の出費が必要となるのかもしれませんが、「自分の学生たちとの関係を持ち続け」るためにそれほどお金がかかるものなのか。

ラインホールド・ニーバーが浅薄?
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8844
パウル・ティリヒと南原繁
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9618
 

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月20日(月)18時40分25秒
編集済
  さて、問題はその次の部分です。(p21以下)

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 今年の二月、トレルチの誕生日に合わせて二つの場所を訪ねた。ひとつは生誕の地で、彼はハウンシュテッティンというアウクスブルク近郊の小さな村で一八六五年二月一七日に生れている。【中略】
 もうひとつ訪ねたのは、ミュンヒェンのバイエルン科学アカデミーで、そこにあるトレルチの新しい校訂版全集を編集しているシュテファン・バウトラーたちの仕事場である。この部屋には、三〇年程前にアウクスブルク大学にエルンスト・トレルチ資料室が設置されて以来収集が進められてきたさまざまな資料が整理、保存されている。
 そこで二つの興味深い資料を見つけた。ひとつは一九二〇年六月二〇日付の『フランクフルト新聞』で、そこには既に述べたトレルチによるヴェーバーの弔辞が掲載されており、合わせてトレルチの手書き原稿もファイルされていた。この弔辞は彼の死後刊行された『ドイツ精神と西欧』に再録されたので、そちらが広く読まれてきたが、改めて新聞に掲載されたものと比べてみると、『ドイツ精神と西欧』に収録された方は、編者のハンス・バーロンによって手が加えられ、また短縮化されていることがわかった。これは近いうちに紹介したいと思う。
 もうひとつは、一〇枚ほどの茶色く変色した書類の束で、それはあえて言うならばトレルチ家の家計簿の一部であった。借用書や領収書なども含まれていた。こちらの書類は、今後も資料室には保存され続けるであろうが、全集には入らない資料である。どうでもよいようなただの書類の束にも思えるが、よく読んでみるとそれは「ライプニッツ以後最大の知識人」、あるいは「廃墟のドイツを導く最高の知性」と呼ばれたトレルチの人生と思想をこれまでと違った視点から、しかしよりよく理解することができる重要な資料のようにも思えた。
-------

今回、「一〇枚ほどの茶色く変色した書類の束」が実在するかが争われ、調査の結果、実在しないことが確定した訳ですが、そもそも深井氏は「ミュンヒェンのバイエルン科学アカデミー」を訪問しているのかというと、行ってないそうですね。
Aug.T 氏のツイートによると、

-------
しかし、小柳先生がミュンヒェンのF. W. グラーフ教授に問い合わせて得られた回答は「深井氏は、バイエルン科学アカデミーに来たことはありません」「トレルチが生きていた時代のそのような書類は全くありません」「深井氏による純然たるでっち上げです」というもの(『日本の神学』57号)。バッサリ。

https://twitter.com/mad_sad_toad/status/1126788449799888897

とのことです。
ただ、「一九二〇年六月二〇日付の『フランクフルト新聞』」の方はどうなのか。
深井氏がバイエルン科学アカデミーには行っていないとしても、この「一九二〇年六月二〇日付の『フランクフルト新聞』」に掲載されていたという、従来『ドイツ精神と西欧』で知られていた弔辞とは異なる、「編者のハンス・バーロンによって手が加えられ、また短縮化されて」いない弔辞は実在するのでしょうか。
ま、そのような疑問を感じつつ、続きを読んでみます。(p22以下)

-------
 これらの書類が書かれたのは一九二〇年から二三年にかけてで、第一次世界大戦後のトレルチ家の家計状況を伝えている。彼は一九一四年の開戦をハイデルベルクで迎えた。他の知識人同様それを支持し、これが「文化戦争」であり、ドイツ精神を擁護するための戦いであると受け止めた。それゆえに彼はその年、戦意高揚のための講演を何度も行っている。しかし翌年ベルリン大学に移り、帝国宰相ベートマン・ホルヴェークの政策顧問官のひとりとなったこともあって、この無謀な戦争は早期に終結しなければならないと考え、さらには戦後ドイツの再建についても論じるようになった。そのため、ヴァイマールの共和制が誕生する頃には、彼は「理性の共和主義者」へと転身し、新しく生まれた政府や、ドイツの政治的状況についての評論をさまざまな新聞や雑誌に驚くべきスピードで、大量に書くようになっていた。
 戦後もトレルチはベルリン大学の哲学部教授として神学を教え、同時にプロイセン州の議員として、また科学・芸術・国民教育省の政務次官として、主に新しく生まれた共和国における学校制度と教会制度の整備という特命を与えられていた。彼が一九二三年に急死した際に、大統領であったフリードリヒ・エーベルトが弔辞を書いたのはそのためである。
 そうであるならば、彼は戦後よく知られたドイツの天文学的な数字のインフレの中でも例外的に生活が保証されていたひとりではないかと考えたいところであるが、どうも事実はそうではないようだ。彼は終戦時の一九一九年頃にはかなりの借金を抱え、食べてゆくことにさえ困っていた。その時トレルチは既に五四歳になっており、彼に残された人生の時間はあと四年もなかった。戦争が始まる前年、一九一三年に誕生した長男はまだ六歳で、その子の将来の教育や生活に不安を感じていたことがそれらの書類から読み取れる。彼は何とかして、借金を減らし、また倹約して、家族のために当時比較的安定した通貨であったポンドで預金を残そうとしているのだ。それは痛ましいほどの努力であるように感じた。
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「その子の将来の教育や生活に不安を感じていたことがそれらの書類から読み取れる」とありますが、今回の調査の結果、「それらの書類」、すなわち「一〇枚ほどの茶色く変色した書類の束で、それはあえて言うならばトレルチ家の家計簿の一部であった。借用書や領収書なども含まれていた」ところの書類が存在していないことは確定済みです。
しかし、トレルチの経済的な実情はどうだったのか。
「彼は終戦時の一九一九年頃にはかなりの借金を抱え、食べてゆくことにさえ困っていた」こと自体が根拠のない深井氏の妄想なのか。
それとも、他の資料からトレルチが経済的に窮していたこと自体は相当の根拠に基づき合理的に推測でき、深井氏は単にその根拠となる書類の存在を偽っただけなのか。
 

「エルンスト・トレルチの家計簿」を読む。(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月20日(月)13時46分32秒
編集済
  >筆綾丸さん
>深井智朗氏はすべてを喪失してまでなぜ捏造したのか、と考えると、
>精神を病んでいるのだろう、としか言いようがないですね。

深井氏の二つの捏造のうち、『ヴァイマールの聖なる政治的精神―ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』(岩波書店、2012)については問題発覚前に一応読んでいましたが、「エルンスト・トレルチの家計簿」(『図書』2015年8月号、岩波書店)は未読でした。
こちらは「キリスト教関連書籍の編集者」で「ゆるゆるな自堕落カトリック信徒」だという Aug.T 氏のツイートで全文が読めますが、いったい自分はどこで騙されているのだろうかと考えながら読むと、今にも割れそうな薄氷の上を歩むが如きスリルを味わえますね。

https://twitter.com/mad_sad_toad/status/1126788228143386624

冒頭を引用すると、

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 ハイデルベルクを訪ね、ネッカー川の南側の山腹にある有名な城跡に立つと、大学町として発展した美しい旧市街のほぼ全てを見渡すことができる。街はネッカー川の雄大な流れに沿って広がっている。ネッカー川に架かる二つの橋のうち古い方のカール・テオドール橋を渡り、河畔に沿って走る道路を東に向かい、有名な哲学の道へとつながる小道の入口を通り過ぎたあたりに大きなお屋敷がいくつか並んでいる。そのひとつは、現在ハイデルベルク大学の留学センターが管理し、留学生がドイツ語とドイツ文化を学ぶ場所となっている。
 しかしこのお屋敷ははじめから大学のものであったわけではなく、今から百年以上前にハイデルベルク大学で教えるある教授がそこに住むようになり、しばらくすると彼の親しい同僚教授夫妻に三階部分を提供したので、そこは知的サロンとなり、知識人たちの巡礼の場となった。
 この家に一九一〇年から住むようになった教授とはマックス・ヴェーバーで、そこに同居することになったのが彼の友人で『ルネサンスと宗教改革』(岩波文庫)の著者、神学・哲学・社会学の研究で知られると同時に政治家でもあったエルンスト・トレルチであった。二人は一九一四年に何らかの理由で絶交するまでその家で暮らしていた。二人は互いの仕事を熟知しており、時には共同して学問的・政治的論敵と戦い、一九〇四年には一緒にアメリカを旅行している。一九〇六年にはヴェーバーがある事情で急に行うことができなくなったドイツ歴史家協会での講演をトレルチが代行したことさえあった。それ故にヴェーバーが亡くなった時、妻のマリアンネは他の誰かではなく、トレルチに弔辞を依頼した。
 ヴィルヘルム時代の偉大な知識人であり、政治家でもあった二人は、昨年、そして今年の始め、相次いで生誕一五〇年を祝われた。もっともその記念の様子は対照的であったが。二〇一四年にはヴェーバー生誕一五〇年を記念して世界各地でさまざまな記念行事が行われた。しかし二〇一五年のトレルチ生誕一五〇年は、彼の誕生日である二月十七日に、生まれ故郷のアウクスブルクで、質素に、ひっそりと祝われただけである。ヴェーバーの生誕一五〇年にあたってドイツ郵便が大変美しい記念切手を発行したが、トレルチの場合にはそのような計画はない。ヴェーバーもトレルチも校訂版全集の刊行が続いているが、ヴェーバー全集のかなりの購入者が日本人であるのに対して、トレルチ全集は日本ではほとんど購入されていない。それどころか今年が彼の生誕一五〇年であることもほとんど意識されていない。
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といった具合ですが(p20)、まあ、少なくともここまでは充分厚い氷の上のようですね。
ドイツにおけるマックス・ウェーバー生誕150周年の様子については、「日本独文学会」サイトに掲載されている山室信高氏(東洋大学経済学部准教授)の「50の坂を越して、8月の砲声を遥かに聞く ――マックス・ヴェーバー生誕150年と第一次世界大戦開戦100年に寄せて」というエッセイが参考になりますが、それによれば、

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 マックス・ヴェーバー生誕150年を記念して、ドイツではこの春から夏にかけてシンポジウム、連続講演会、研究会合等がヴェーバーゆかりのハイデルベルク、エアフルト、ベルリン、ミュンヘンで相次いで開催された。報道・出版の方面では、主要紙の学芸欄には少なからず記事が掲載され、またヴェーバーその人への関心から社会学者ディルク・ケスラーと新聞編集者ユルゲン・カウベ各氏による本格的な伝記2冊、メッツラー社から『マックス・ヴェーバー・ハンドブック』、そしてヴェーバーの著作を扱うジーベック社からは『マックス・ヴェーバー全集』の『経済と社会』の研究版全6巻が特価で出されるなど、こちらも盛況といっていい。もう一つおもしろいところでは、連邦財務省からヴェーバーの記念切手が発行されるほどだった(現財務大臣ヴォルフガング・ショイブレがヴェーバーの愛読者である由)。

http://www.jgg.jp/modules/kolumne/details.php?bid=113&date=2014&uid=318

のだそうです。
山室氏のエッセイに付された写真で「現在ハイデルベルク大学の留学センターが管理し、留学生がドイツ語とドイツ文化を学ぶ場所となっている」ウェーバー旧宅も確認できますね。

Max Weber(1864-1920)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
Ernst Troeltsch(1865-1923)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%81
 

朝廷内における市民権?

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2019年 5月18日(土)15時05分50秒
編集済
  言葉尻を捕らえるケチな話で恐縮ですが。
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延久の荘園整理令を、中世の幕開けの指標とみなすことができる理由のひとつは、政府による文書審査によって所有権を確定しようとしたことが、「中世的文書主義」の出発点と位置付けられるからである。(本郷恵子氏『院政 天皇と上皇の日本史』62頁~
この段階では「院政」概念は朝廷内においても市民権を得ておらず、有能で熱心な天皇・関白の組み合わせの前では、旗色が悪かったといえる」(同書81頁)
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後者の天皇・関白とは堀河と師通のことですが、「政府」や「市民権」というような本郷氏の言語感覚についてゆけず、ここで一旦、中断しました。今のところ、再開の見通しはないのですが、「朝廷内における市民権」という用語は、奇妙な倒錯的概念ではあるまいか。


http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000322202
同時代人の著書を読むのはやめて、退屈ですが、森鷗外『元号通覧』でも眺めたほうがいいのかもしれない。
 

琴瑟相和す

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2019年 5月18日(土)07時59分57秒
  小太郎さん
骨壺やはかなき夢を運の尽き
は、
蛸壺やはかなき夢を夏の月
を踏まえたものですね。
安東次男は、蛸壺に情を寄せたと読んだのでは平家滅亡の怨に呑まれてしまうのであって、芭蕉はそんなことを言いたかったのではない、と云っていますが(『芭蕉百五十句』文春文庫100頁~)、そうだとすれば、枯骨閑人の辞世の狂句は単純すぎる、ということになりますね。

昔の某仏和辞書に、「彼はすべてを失った、家も妻も猫も何もかも」という例文があったのですが、深井智朗氏はすべてを喪失してまでなぜ捏造したのか、と考えると、精神を病んでいるのだろう、としか言いようがないですね。

本郷和人氏は、「日本史ひと模様 森鷗外」(本日の日経26面)で、鷗外の『元号考』をダシにして、また性懲りもなく「令和」批判を展開しています。
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(前略)この話を妻にした。彼女は同業であるが、頭の切れで勝負するタイプで、けっして物知りではない。ところが「森鷗外は『正』を「一に止まる」と読んで、『大正』に反対したそうだよ」と言ったところ、彼女は「あら、それは鷗外の発案なんかじゃないわよ」とサラリと驚くべきことを教えてくれた。(後略)
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などと相変わらず妻を自慢してますが、好い加減でやめてほしい。
ちなみに、白川静『字統』によれば、正は「正字は一と止とに従う。一は口(い)、城郭でかこまれている邑。止はそれに向かって進撃する意で、その邑を征服することをいい、征の初文」(492頁)、令は「礼冠を着けて、跪いて神意を聞く神職のものの形。上部は三角形に似た深い冠の形である」(896頁)とありますね。本郷氏の説く「令」の解釈は一面的なものにすぎない。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000322699
「頭の切れで勝負するタイプ」の『院政 天皇と上皇の日本史』を、いまさら院政でもあるめえ、と思いながらも買って読み始めました。
 

「総州陋屋籠居 枯骨閑人 沓掛良彦」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月17日(金)12時21分18秒
編集済
  『古代ギリシャのリアル』の参考文献中に、

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★『ホメーロスの諸神讃歌』ホメーロス著、沓掛良彦訳 筑摩書房 2004年
紀元前7世紀ごろから紀元前1世紀ごろに渡って書かれたホメロスが書いたように装った讃歌集。本文の讃歌に加えて、沓掛先生の詳細な注釈、解説が圧巻。
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とありますが(p268)、これはちくま学芸文庫版で、もともとは1990年に平凡社から出ていますね。
内容は、

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光り輝く青年神アポローン、秘儀の大母神デーメーテール、魂の導者にしてトリック・スターたるヘルメース、精液から生まれた美神アフロディーテー…ギリシアの神々の物語は西洋の文学・芸術に無数の素材を提供してきた。ギリシア神話はまた、西洋人の基層的な心性や世界観を知るうえで逸することのできない記憶の宝蔵でもある。数多い典拠のなかで、大ホメーロスの名を冠して伝存された本書は、内容の充実、作品の完成度、作風の多様をもってひときわ異彩を放つ。33篇22柱の神々に捧げられた讚歌集を流麗・典雅な日本語に移し替えるとともに、博捜の訳註・解題を付した唯一の全訳。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088697/

というもので、私は平凡社版をパラパラ眺めてみただけですが、確かに注釈・解説が充実しています。
同書「あとがき」に、

一九九〇年二月 総州陋屋籠居 枯骨閑人 沓掛良彦

とありますが(p399)、沓掛良彦氏は1941年生まれなので、このときまだ49歳ですね。
沓掛氏は一体いつから「枯骨閑人」などという渋い号を用いておられるのか。
「枯骨閑人」で検索してみたら、高崎市で「はっとり皮膚科医院」を運営されている服部瑛氏の「最終講義」というエッセイが出てきましたが、それによれば、「枯骨閑人辞世之狂歌」と「辞世之狂句」は、

枯れ果てて身は塵土に還りなば
 骨壺の底の辺りから灰さようなら

骨壺やはかなき夢を運の尽き

というものだそうです。
また、東京大学大学院在籍当時の沓掛氏については、

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 風貌は若いが、先生ほどの語学の天才を私は知らない。ラテン語、ギリシャ語、ロシア語など多くの言語を自由に駆使していた。天才の領域に近いと感じている私は、手放しで尊敬し、友人数人と図ってフランス語の特別学習をお願いした。
 快く引き受けてくださった先生の特別講義は数回で終わったが、講義後の酒の付き合いは、その後長く続いた。何度か私の下宿にも泊まっていただき、夜更けまで「ギリシャ叙情詩」など、 多岐にわたる興味深い話を聴かせていただいた。
 当時、先生は東京・武蔵境のアパ-トに住んでおられた。学生たちが入れかわり立ちかわり出入りしており、私も年に数回、泊めてもらった。国木田独歩の「武蔵野」に描かれた雰囲気そのままの武蔵境で、真冬の銭湯帰りの寒さは今でも忘れられない。
 先生の部屋には天井まで届く本棚が四方にあり、ラテン語やギリシャ語の原書が整然とびっしり並べられていた。それらを大切にされている先生のお気持ちを感じると同時に、日本語の書物がない書棚を異様に思った。
 一方、部屋には酒が必ず用意されていて、大いに飲み、かつ話した。学生運動が盛んな時代、その殺伐とした渦から離れた場所で、まことに潤な時間を過ごせたことを、今でもしみじみ、幸せだった、と思う。

http://www.hattori-hifuka.com/old/menu/koramu/ikageizyutu/saisyu-kougi.html

とあります。
「日本語の書物がない書棚」に挟まれて暮らしていた沓掛良彦氏は、四十代にして些か西洋の書物に倦み、和漢の書にも親しまれるようになったようですね。

沓掛良彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%93%E6%8E%9B%E8%89%AF%E5%BD%A6
 

藤村シシン『古代ギリシャのリアル』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月16日(木)09時28分50秒
編集済
  気分転換にと思ってツイッターで見かけた藤村シシン『古代ギリシャのリアル』(実業之日本社、2015)を読んでみたところ、これはとても面白い本でした。

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青い海、青い空、白亜の神殿、ロマンチックな神話といった、私たちが日ごろイメージする古代ギリシャとはちょっと違う、「古代ギリシャのリアル」がわかる一冊。
なぜ古代ギリシャ人は血や涙を「緑色」と表現するのか? なぜ古代ギリシャの主神ゼウスはあんなに浮気性なのか? そして「壺絵の落書きにみる同性愛」に至るまで、ネットやツイッターで大人気の著者が詳細かつ面白く解説。

【オリンポスの神々履歴書】【神話・古代・現代 ギリシャ地図】【未来・現代・古代 神話時代までのギリシャ年表】【ギリシャ神話、神々の相関図】付き。

http://www.j-n.co.jp/books/?goods_code=978-4-408-13362-1

同書の「おわりに」の日付は、

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第698オリンピア紀 第3年 隣人を変える月 第27日
                神々、神慮めでたく
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となっていて、脚注によると、これは2015年9月10日だそうです。(p267)
藤村シシン氏は1984年生まれ、東京女子大学大学院博士前期課程修了だそうで、研究者としての基礎がしっかりしている上に、文章が軽妙で、大変な才能ですね。
別の著作も読んでみたいなと思ったのですが、今のところまとまった著作は『古代ギリシャのリアル』だけみたいです。
少し検索してみたところ、藤村氏の「今後の目標」のひとつは神殿を建てることだそうですね。

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――今後の目標は何かありますか?
藤村 たくさんあります! 例えば、神殿を建てたいですね!
――神殿!?
藤村 だって神殿建てたことあります!? ないでしょ!?
――えっ、いや、ない、ないです!
藤村 やっぱり、パルテノン神殿なんかはギリシャの神髄なんですよ。人間が見上げたときの目の錯覚をきちんと考えて柱の太さを考えられていて、そういうの、やってみたくないですか!?
――うーん……。神殿を建てるからには、今後は建築技術を学んでいかないとですね。
藤村 そこは、祭儀イベントをやったときみたくTwitterで石を運んで削る動画をアップします。そして「う~ん、一人で神殿建てるの難しいなぁ。誰か一緒に神殿建ててくれる人いないかな~?」って匂わせていくことにします。でも石って高いからなぁ……。最終目標かもしれません。死ぬまでには建てたいですね。

https://www.e-aidem.com/ch/listen/entry/2018/12/05/110000

>筆綾丸さん
10日(金)に深井智朗院長懲戒解雇のニュースが流れた後、この掲示板の投稿を保管している私の地味ブログ「学問空間」の訪問者が急増してびっくりしたのですが、昨日からやっと落ち着きました。

「カール・レーフラー」を探して(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9666
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9667

捏造疑惑発覚前の自分の投稿を読み直してみたところ、2017年5月7日には、

-------
深井智朗氏は専門のドイツの宗教事情に関しては正確、というか仮に誤りがあっても一般読者との学識の差がありすぎるので読者が気づかないでしょうが、日本については要注意ですね。
出典の明示についてもちょっと雑なところがあり、『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』の「解題」のように全然出典を示さない場合もあるので、これまた警戒が必要です。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8876

などと書いており、まあ、一安心ですね。
絶賛していたら赤っ恥をかくところでした。
 

お悔やみ申し上げます(夏目金之助)

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2019年 5月12日(日)08時34分42秒
  辱知猫久々病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にかうらの物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の儀は俥屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但し主人『三四郎』執筆中につき、御会葬には及び不申候。以上
 

猫の死去

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月12日(日)07時03分30秒
  長年飼っていた猫が、昨日急死しました。
幼い時に我が家に居つき、父親が「チビ」という雑な名前をつけ、大きくなってもその名前のままだったのですが、それなりに可愛がっておりました。
今日は一日、掲示板やツイッターはお休みして、猫のお墓作りなどをして過ごすつもりです。

>筆綾丸さん
東洋英和もそれなりにしっかり調査したようですが、動機は分からないままですね。
 

閑話

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2019年 5月11日(土)20時13分20秒
  https://www.asahi.com/amp/articles/ASM5B4GVBM5BUCVL00K.html
まだ旅先なので、スマホでの書き込みになりますが、結局、懲戒解雇で終わりなんですね。
 

新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 9日(木)11時10分25秒
編集済
  続きです。(p56以下)

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第二節 姈子内親王の役割

 では、後宇多後宮に迎えられた姈子内親王は実際にどのような社会的役割を果たしていたのか。
 後宇多と婚姻したとされる永仁二年(一二九四)の翌年から、姈子の行動には、後宇多院との同車での御幸や、亀山院主催の仏事への布施を沙汰する等(19)、大覚寺統内での中心的人物としてのものが確認される。そして『続史愚抄』永仁六年(一二九八)七月三日条に、

  法皇<本院>幸万里小路殿<新院御所、抑新院此御所後初度云、是依遊義門院御事、有御隔意故歟>

とあり、後深草院が姈子のいる後宇多院御所を訪問(この時、東二条院も同行)することで、ようやく略奪婚についての和解成立とみなされている記事がある(20)。確かに、この永仁二~永仁六年の期間内において、姈子と実家・持明院統側の交流は管見の限り確認できない。そしてこの対面以降は活発な交流が見られるのである。例えば同年八月の伏見院の御幸始を母・東二条院と同車で見物している(21)。この時、別の車には後深草・亀山・後宇多の三後院が同車していた。後伏見天皇が践祚し、持明院統の治世が続くとはいえ、五日後には邦治(後二条)立太子を控えている。七月三日の対面はこうした一連の両統融和の出発点であり、邦治の立太子が実現したのもおそらくはその即時時に姈子が国母の扱いを受ける前提だからこそ持明院統も了承できたと思われる。持明院統と大覚寺統の間は、後宇多・姈子の婚姻を媒介に比較的良好だったと言えよう。更に三ヵ月後の後伏見天皇大嘗会後の祝宴には、姈子が後深草院・東二条院・伏見院・永福門院らと同席している等(22)、実家である持明院統と円滑な関係を保っていたと思われる。

(19) 注(16)、『実躬卿記』永仁三年閏二月七日条。
(20)『続史愚抄』の典拠『継塵記』には、「今夜御幸万里小路殿<遷御之後初度御幸也>」とだけある。
(21)『公衡公記』「伏見院御幸始記」永仁六年八月五日条。
(22)『公衡公記』「即位大嘗会等記」永仁六年十一月六日条。
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「略奪」された遊義門院が直ぐに後宇多院と仲良く暮らし始め、「実家である持明院統」との間では関係修復に四年もの歳月を要したということは、「略奪」には遊義門院の同意があったこと、また、「この婚姻について、両統あるいは西園寺氏の暗黙の了解があった可能性」(p56)は皆無であったことを示していますね。
そもそも「略奪」の実態は、遊義門院の自発的な家出を後宇多院が支援した、ということであろうと思います。
後宇多院と遊義門院は知己を介して事前に綿密な連絡を取り、例えば何かの行事などの機会に常盤井殿に寄った公卿・某の牛車に遊義門院が密かに乗り込み、後宇多院の待つ冷泉万里小路殿に移った、暫くして常盤井殿では遊義門院が行方不明とのことで大騒ぎとなっていたところ、後宇多院はしかるべき使者を派遣して事情を説明し、遊義門院は常盤井殿には戻りたくないと仰っておられるので、暫く冷泉万里小路殿に御滞在になります、みたいな口上を言わせたのではなかろうか、というのが私の想像です。
『増鏡』の、

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 皇后宮もこの頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らにおはしましつるを、中院、いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします。またなく思ひ聞えさせ給へる事かぎりなし。

http://web.archive.org/web/20150918073142/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-fushimitenno-joui.htm

という表現も、「とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて」ですから、別に「略奪」を示唆している訳ではなく、「ぬすみ」云々との表現をあまりに生真面目に受け止めて「略奪婚」だなどと騒ぎ立てる読者が出て来るというのは『増鏡』作者にとっても想定外であったと思われます。
私はこの場面より、むしろ「北山准后九十賀」の、

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 姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という記述に刺激されて、旧サイトでは、弘安八年(1285)の時点で後宇多と姈子は関係を持っており、邦治(後二条)は実は姈子の子なのではないか、などと妄想を膨らませていました。

http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm

しかし、『増鏡』の「北山准后九十賀」の記述は一連の出来事が後宇多の片思いに始まったことを示唆するだけですね。
姈子が後宇多にどのような感情を抱いていたかを示す史料は残されていませんが、後深草院一周忌の願文に「准陰麗之跡」云々とあるのを見ると、後宇多が自分を熱烈に慕ってくれたのは悪い気はしなかった、程度のような感じもします。
後宇多は弘安八年(1285)三月以来ロミオであったけれども姈子はジュリエットではなかった、同年八月に姈子が「尊称皇后」となったのは周囲の大人の事情によるもので姈子はそれを受け入れただけだった、しかし永仁二年(1294)に姈子が後宇多の許に移ったのは姈子自身の自発的意思によるもので、しかしそれは姈子の後宇多に対する愛情に基づいた行為ではなかった、というのが現時点での私の仮説なのですが、最後の点については別途説明が必要なので、次の投稿で書きます。
 

「光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し……」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 6日(月)22時34分46秒
編集済
  続きです。(p55以下)

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 更に推測するならば、姈子願文の一節、「早出椒芳之宮、久臨芝英之砌」、「聊雖隔 禅居従容之礼、于晨于昏、莫不通音問矣」、「准陰麗之跡」(15)等の文言は、思いがけなく後深草院の膝元を出て後宇多後宮に入侍した、との意味合いが解せられる。姈子の半生の重大事を綴るこの願文の性格上、そして何より後二条「 國母之徽號」の前提は、後宇多院との婚姻であろうことから、そのことについて物語る必要があったのだろう。
 この婚姻について、両統あるいは西園寺氏の暗黙の了解があった可能性も捨て切れないが、間違いなく言えることは、翌永仁三年(一二九五)正月からは、史料上に登場する姈子の姿は、後深草・東二条院の「娘」としてではなく、後宇多と同居している「妻」の姿、その正妻格としての行動が見て取れるという事実である(16)。
 ではなぜ後宇多は、略奪という強引な手段をもってしてでもこの婚姻を実行したのか。この婚姻が行われた永仁二年の状況を鑑みるに、伏見親政下、胤仁立太子、浅原為頼乱入事件の嫌疑、大宮院の死去─といった、大覚寺統側には相当に不利な状況が蓄積されたことが挙げられる。姈子立后当時の大覚寺統政権下における持明院統の逼塞とは、対照的な状況である。そういった大覚寺統側の危機感の中で、持明院統第一の皇女であり、西園寺氏掌中の珠である彼女を大覚寺統内に迎え入れ、婚姻というより直接的な手段としての融和策に出たのではないだろうか。例えば後宇多と姈子の間に皇子が誕生すれば、両統が最も妥協しやすい皇統の一本化につながるのではなかろうか(17)(ただし、この強引な婚姻について、両統の和解成立とみなせるまでには、後述するように四年かかっている)。
 菊地大樹氏は、亀山・後宇多が宗尊親王統との糾合を諮る動きがあったことを指摘しているが(18)、宗尊親王統よりも強大なライバルが持明院統であることに疑いは無く、姈子との婚姻は、最も手っ取り早く有効な手段として期待されていたと思われるのである。

(15)「陰麗」とは、後漢・光武帝の皇后・陰麗華を指すものと思われる。光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し、天下を得て後、ついに積年の望みを果たした故事を指す。
(16)『実躬卿記』同月五日条。
(17)姈子の婚姻は、内親王が正后妃として扱われた婚姻としては実に高松院姝子内親王(二条天皇中宮)以来のことであるが、姈子以後、南北朝期に至るまでの短期間に、崇明門院禖子内親王(後宇多女、邦良親王妃)、宣政門院懽子内親王(後醍醐皇女、光厳妃)、新室町院珣子内親王(後伏見皇女、後醍醐中宮)等、内親王の婚姻が相次ぐ。
(18)注(1)に同じ。
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三好氏は前回投稿で引用した部分で、「はたして実際のところ、このようにいかにも物語的な事件が本当に起こったのだろうか」と疑問を呈しておられ、ここでまた「両統あるいは西園寺氏の暗黙の了解があった可能性も捨て切れない」などと言われているのもかかわらず、結論的には、「ではなぜ後宇多は、略奪という強引な手段をもってしてでもこの婚姻を実行したのか」という具合に、ずいぶんあっさりと「略奪」が事実であることを認めてしまっています。
そして、「略奪」を前提に「西園寺氏掌中の珠である彼女を大覚寺統内に迎え入れ、婚姻というより直接的な手段としての融和策に出た」などと言われるのですが、「略奪」という暴力的行為から「融和策」が生れるなど、およそ人間の感情を無視した暴論です。
二十五歳の成人女性、しかも十六歳で「尊称皇后」、二十二歳で女院となった誇り高い女性を文字通り「略奪」するようなことが本当にあったはずがなく、遊義門院が後宇多院の御所に移動したのは遊義門院自身の同意があったからと考えるべきです。
森茂暁氏は『とはずがたり』を全面的に信頼するなど、些か朴念仁すぎる学者莫迦タイプなので、まあ、仕方ないのですが、女性研究者である伴瀬明美氏や三好千春氏が、遊義門院をまるで主体的な意思を持たない、単に後宇多院の行動を消極的に受容するだけの受け身の存在と認識している点、私には極めて奇異に感じられます。
さて、私には漢籍の教養が全くないので遊義門院の願文を正確に理解できないのですが、「陰麗」についての三好氏の見解、即ち「「陰麗」とは、後漢・光武帝の皇后・陰麗華を指すものと思われる。光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し、天下を得て後、ついに積年の望みを果たした故事を指す」が正しいのであれば、これは極めて興味深い指摘ですね。
この故事を後宇多院と遊義門院に当てはめると、「微賤」の身であった後宇多院が、「後漢・光武帝の皇后・陰麗華」のような「美女」の遊義門院を娶らんことを期し、様々な困難を乗り越えて、「ついに積年の望みを果たした」という話になります。
これが一般人ならずいぶん厚かましい自慢話ですが、文字通り「皇后」である点では陰麗華と同じ立場の遊義門院にとっては、ある意味、自然な発想ともいえそうです。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8095
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8097
 

「この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 6日(月)14時49分0秒
編集済
  続きです。(p54以下)

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 中世的な「家」が成立していく中で、天皇家においても皇位継承者の生母の出自はかつてほど問われなくなった。だがその一方で、治天の君の「正妻」の地位はより重要視されるものに昇華されていた(7)。西園寺氏を拒否した亀山院とて、後宇多生母の京極院洞院佶子亡き後、近衛位子(新陽明門院)を正妃格として迎え入れており(8)、彼女の出家、没後は更に西園寺瑛子(昭訓門院)を迎えている(9)。これに対し、後宇多後宮の源基子や一条頊子も決して低い出自ではないが正后妃扱いを公的にはされず、後宇多には頼りになるパートナー=正妻が不在のままだったのである。後宇多の正妻について、結果的には亀山は干渉しなかった。しかし、それゆえに後宇多は自らの「家」確立のために、自分自身で価値ある正妻を選出し、獲得する努力をしなければならなかったと言える。のちに、後宇多によって中継ぎの天皇とされた後醍醐にも後宇多指定の正后は不在であり、東宮時代に後醍醐自らが西園寺実兼女・禧子を略奪という強引な手段で正妻に迎えた(10)ことも、そういった背景を裏付ける事例である。そして、後宇多もしくは彼を取り巻く状況が選んだのは、結局のところ、持明院統の姈子内親王だったのである。

(7) 注(2)、栗山圭子「中世王家の存在形態と院政」(『ヒストリア』一九三号、二〇〇五年)。夫帝譲位に伴い女院号宣下を受けて、夫院と同居する後宮(国母)女院が出現するのもこのためであろう(高倉中宮・建礼門院平徳子、後堀河中宮・藻璧門院九条竴子、後嵯峨中宮・大宮院西園寺姞子等)。彼女たちが母后として内裏で幼帝に近侍するよりも、治天の君(夫院)との同居を選択した結果、幼帝に必要な母后代理として不婚内親王立后が行われている(殷富門院亮子内親王、式乾門院利子内親王、仙華門院曦子内親王等)。
(8)『女院小伝』によれば、文永十一年六月入内、翌文永十二年に女御、准三宮、新陽明門院号宣下。『吉続記』建治元年十二月二十六日条に「舞踏如常、新女院御方同申之、依御同宿也」とあり、正妻格であることがわかる。
(9)『実躬卿記』正安三年三月十九日条。
(10)『花園天皇宸記』正和三年正月二十日条。
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三好氏の「正妃格」、「正后妃扱い」、そして「頼りになるパートナー=正妻」といった表現の曖昧さについては既に若干の私見を述べました。
「正妻」については栗山圭子氏の「中世王家の存在形態と院政」を読む必要がありそうですが、現時点では未読です。

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 この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である。『増鏡』には、弘安八年(一二八五)二月の北山准后・四条貞子(西園寺実氏室、後宇多と姈子にとって外曾祖母)九十賀の席上において、「姫宮、(中略)おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ」(11)と姫宮・姈子に注がれる内の上・後宇多の眼差しについて語られ、その後、後宇多が「いかなるたよりにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍びがたく思されければ、とかくたばかりて、ぬすみ奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿におはします」(12)と、略奪婚説を伝えている。はたして実際のところ、このようにいかにも物語的な事件が本当に起こったのだろうか。『勘仲記』や『実躬卿記』にはそれらしい記述は見当たらない。婚姻した日付も『女院小伝』は永仁二年(一二九四)六月三十日としているが、『続史愚抄』の同年六月二十八日条に、

今夜、遊義門院<法皇本院皇女、御同座、御年廿五>不知幸所、是新院竊被奉渡于御所<冷泉万里小路>云、<或作五条院、謬矣、又作三十日、今月小也、無三十日>後為妃、

とある。伴瀬明美氏は「日付がはっきりしない点は、この事件全体の真相が明らかではないことと無関係ではあるまい」(13)とし、森茂暁氏は後醍醐の西園寺禧子略奪が実際に史料上確認できることから、姈子略奪についても事実ではないかとの見解を示している(14)。

(11)老の波。
(12)さしぐし。
(13)「はじめに」注(5)に同じ。
(14)『後醍醐天皇』(中公新書、二〇〇〇年)
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伴瀬明美氏の見解はこちらです。

遊義門院再考
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9870
「『盗み出した』ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである」(by 伴瀬明美氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9871
「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9872

また、森茂暁氏の見解はこちらです。

http://web.archive.org/web/20150923223743/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-godaigonotojo-01.htm
 

ご連絡

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 6日(月)12時36分1秒
編集済
  >筆綾丸さん
すみませぬ。
管理者側の事情で投稿を削除させていただきました。

南山大学教授は同姓同名の別人ですね。
 

「正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 5日(日)19時00分54秒
  三好論文に戻って、続きです。(p54以下)

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第二章 後宇多後宮における姈子内親王の位置
 第一節 姈子内親王の婚姻

 前述したように姈子の願文は、彼女の半生における重大事が列挙されているが、その中でも立后に並んで重要なのが、遊義門院号宣下後に後宇多後宮となる点である。女院となった後に婚姻する事例は、姈子が史上ほぼ唯一と考えられる(1)。
 姈子が入る以前の後宇多後宮はどのような状況であったのかを概観すると、最大の特徴が在位中の後宇多に正后が不存在であった点である。後伏見や花園のような在位年数が短い場合や中継ぎであることがはっきりしている天皇ならともかく、後宇多は亀山の正嫡、すなわち今後の嫡流と目されていた天皇である。在位期間も十三年に及び、この後宮に正后不在というのはかなり異様な状況ではないだろうか。その理由として『増鏡』(老の波)は、前章で触れた今出河院嬉子の一件を挙げている。しかし、西園寺氏以外にも后妃を出し得る家として、洞院氏や摂関家が存在しているのに、そこからも立后がなされないのはやはり不自然と言わざるを得ない。

(1)もう一例、永嘉門院瑞子女王も女院号宣下後の後宇多後宮かと思われるが(『増鏡』浦千鳥)、近年の研究では婚姻関係そのものを否定する向きもある(菊地大樹「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」(『歴史学研究』七四七号、二〇〇一年)
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三好氏は「在位中の後宇多に正后が不存在であった」と言われますが、三好氏が「正后」をどのように定義しているのかは明確ではありません。
ごく普通の用法では天皇の「正后」は中宮か皇后ということになります。
姈子内親王は「尊称皇后」ですが、これは研究上の用語であって、史料には「皇后」ないし「皇后宮」として登場します。

尊称皇后・女院・准三宮について(岩佐美代子氏『内親王ものがたり』)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9881

そして「皇后」姈子の許には「皇后宮大夫」(徳大寺公孝)、「皇后宮権大夫」(西園寺公衡→洞院実泰)も置かれており、当時の公家社会の人々の認識としては、弘安八年(1285)八月以降、「在位中の後宇多に正后が」存在していたはずです。
後の文章で、三好氏は「後宇多には頼りになるパートナー=正妻が不在のままだったのである」(p55)と書かれているので、「頼りになるパートナー」=「正妻」=「正后」なのかもしれませんが、「頼りになるパートナー」が学問的な概念といえるか疑問です。

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 院政期以降、天皇家の後宮構成の主導権が摂関家から天皇家に取り戻された(2)とはいえ、それは天皇の正后妃候補を「上皇養子」にして入内させる(3)という、家長である治天の君が実質的に掌握していた形である。従って後宇多後宮に正后が不存在なのも、亀山院の考えによるところが大きかったのではないだろうか。のちに後二条が即位した際、治天の君となった後宇多は嫡子のために正妻を選出し、自らの養女に迎えている(4)。そしてそれは、西園寺氏ではなく徳大寺氏であったことも見逃せない事実である(5)。
 在位中はついに正后を持たなかった後宇多であるが、退位後は「心のままにいとよくまぎれさせ給ふ程に」(6)適当な女性を迎えていたようである。その後宮から輩出された女院は、西華門院源基子(後二条生母)、談天門院五辻忠子(後醍醐生母)、万秋門院一条頊子がいるが、そんな中で正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王であり、彼女たちの女院号宣下は、実は全て姈子の没後のことである。

(2)伴瀬明美「院政期における後宮の変化とその意義」(『日本史研究』四〇二号、一九九六年)
(3)鈴木英雄「天皇養母考」(『中世日本の諸相』上、吉川弘文館、一九八九年)。直近の事例としては西園寺公子(後嵯峨養女、後深草中宮)、西園寺寧子(伏見養女、後伏見妃)等。
(4)『実躬卿記』正安四年二月一日条。「如此有沙汰、且毎度例歟」とあり、上皇養子が定着していることがわかる。
(5)徳大寺公孝娘・忻子。公孝は後宇多の東宮権大夫であり、姈子の皇后大夫も務めている。
(6)『増鏡』浦千鳥。
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「正后妃候補」、「後宇多は嫡子のために正妻を選出」、「正妻格として出現」と三好氏の表現は多様で、「正后」と「正妻」との関係ははっきりせず、まして「正妻格」となると何を言いたいのか良く分かりません。
なお、『増鏡』の巻十二「浦千鳥」は徳治二年(1307)から文保元年(1317)までの出来事を記しており、弘安八年(1285)の姈子内親王の立后や永仁二年(1294)の後宇多院による略奪婚(?)からは隔たった時期になります。
三好氏が引用される箇所の原文は、

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 院の上は位におはせし程は、中々さるべき女御・更衣もさぶらひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後、心のままにいとよくまぎれさせ給ふ程に、この程はいどみ顔なる御かたがた数そひ給ひぬれど、なほ遊義門院の御心ざしにたちならび給ふ人は、をさをさなし。
 中務の宮の御女もおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり。
 また一条摂政殿の姫君も、当代、堀河の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて、初めつ方は基俊の大納言うとからぬ御中にておはせしかば、彼の大納言東下りの後、院に参り給ひし程に、殊の外にめでたくて、内侍のかみになり給へる、昔おぼえておもしろし。加階し給へりし朝、院より、
  そのかみにたのめし事のかはらねばなべて昔の世にや帰らん
御返し、内侍のかんの君 頊子とぞ聞ゆめりし、
  契りおきし心の末は知らねどもこのひとことやかはらざるらん
 露霜かさなりて程なく徳治二年にもなりぬ。遊義門院そこはかとなく御悩みと聞えしかば、院の思し騒ぐこと限りなく、よろづに御祈り・祭・祓へとののしりしかど、かひなき御事にて、いとあさましくあへなし。院もそれ故御髪おろしてひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。その程、さまざまのあはれ思ひやるべし。悲しき事ども多かりしかど、みなもらしつ。

http://web.archive.org/web/20150830053427/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-goudainno-koukyu.htm

というもので、遊義門院崩御の直前に出てくる文章です。
この場面、特に万秋門院についての記述には謎が多いですね。
『増鏡』の作者は明らかに様々な事情を熟知しながら、あえて曖昧な表現で記述しています。
 

「北山准后九十賀」と姈子内親王立后の連続性

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 5日(日)14時03分4秒
編集済
  弘安八年(1285)八月、姈子内親王が後宇多天皇の皇后に冊立されたことについて、三好氏は持明院統が大覚寺統に打ち込んだ「楔」であり、伏見践祚の「前哨戦」とされる訳ですが、私は賛成できません。
「尊称皇后」とはいえ立后は結婚ですから、対立よりも宥和を目指したものと考えるのが自然です。
旧サイトでは、私は『増鏡』の「北山准后九十賀」の場面に、

-------
姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。
http://web.archive.org/web/20150918073835/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という意味深長な描写があることから、今となっては我ながら少し妄想っぽい方向に想像を膨らませていました。

http://web.archive.org/web/20150821011144/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yugimonin-to-sonoshuhen.htm

今回改めて「北山准后九十賀」について検討してみた結果、私は時期的に近接している「北山准后九十賀」と姈子内親王の立后は後深草院と亀山院の宥和の試みとして共通しており、諸記録から「北山准后九十賀」を主導したのが大宮院であることが明確になっているので、立后も大宮院が主導したのではないかと考えてみました。
当時の治天の君である亀山院は剛毅な性格で、鎌倉幕府には遠慮していますが、宮廷社会の中では強力な指導力を発揮していた存在です。
治天の君である以上、兄の後深草院から何かを要求されたとしても平気で拒否できる立場であり、また拒否を躊躇うような性格でもありません。
しかし、そんな亀山院にとっても唯一頭の上がらない存在と想像されるのが母親の大宮院で、後嵯峨院崩御後、亀山院が治天の君となれたのは後嵯峨院の「素意」について問い合わせて来た鎌倉幕府に、それは亀山だと答えてくれた大宮院の応援があったからです。

「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9404

従って、大宮院が姈子内親王の立后を企画したと仮定すると、後深草院はもちろん歓迎、亀山院も反対はしづらいということで、極めて異例であることには間違いない出来事が実現された経緯をそれなりに説明できるように思われます。
なにぶん史料の少ない時期なので、以上の仮説を直接に裏づける根拠を示すのは困難ですが、状況証拠的なものが何か出てこないかなと思って探しているところです。
 

「不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 4日(土)10時08分15秒
編集済
  続きです。(p51以下)

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 しかし、伏見が徐々に西園寺氏離れを始めていく(31)のと時を同じくして、『伏見天皇宸記』における角御所への訪問回数も影をひそめていく。
 伏見の皇子・胤仁が立太子し、鎌倉将軍に後深草皇子・久明親王が就任、後深草院自らが持明院統政権の安定を見届けて「更無所愁、於事只有所悦」と述べて出家、正応三年(一二九〇)、伏見親政が開始される。更に浅原為頼乱入事件により大覚寺統が壊滅的なダメージを蒙った(33)その翌年の正応四年(一二九一)、姈子は遊義門院号宣下を受けて皇后位を引退し、内裏を出て再び父母と同居するようになる。後深草院の停止、伏見政権の安定の結果、不婚内親王皇后としての使命を終えたからであろう。そう考えるとき、後宇多朝における姈子立后は、持明院統から大覚寺統に対する王権への楔という性格がより明確に理解できるのではなかろうか。
 不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し、その本来の性格を踏まえて姈子の場合、「二つの天皇家」のバランスとなることを期待されて立后した。そして、持明院統に天皇位と治天の君の二つの王権が揃った時、「異例の皇后」から従来の性格に変化を遂げているのである。これが彼女の立后例における最大の特徴であり、これこそが両統迭立というこの時期の天皇家の複雑性を反映したものといえる。
 更に姈子は、再び両統迭立期の複雑性を反映する存在になる。それは、女院となった後に婚姻するという史上稀な形であった。

(31) 注(30)、今谷明『京極為兼』(ミネルヴァ書房、二〇〇三年)
(32)『後深草天皇宸記』正応三年二月十一日条。
(31)『増鏡』さしぐしによると、西園寺公衡が事件の黒幕は亀山院であるとして、後深草院に対し流罪をも含めた厳罰を厳しく要求している。
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引用部分の少し前に「後深草院政という二元王権」という表現があり、ここで「院と天皇の二元王権」「天皇位と治天の君の二つの王権」とあるので、三好氏が院政を「二元王権」と捉えていることが分りましたが、これはかなり特殊な理解ですね。
院政の下における天皇は、その地位すら「治天の君」である上皇の判断に左右されており、例えば後深草天皇は後嵯峨院の判断で亀山天皇に譲位させられています。

http://web.archive.org/web/20150918073221/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu6-gofukakusatenno-joui.htm

ごく普通の理解では、院政は「一元王権」であり、院政下での天皇は臣下の如く「治天の君」である上皇に仕える存在ですね。
それが歴史学の世界での当たり前の認識なので、誰も「一元王権」などという表現は用いませんが、もしも三好氏がそうした常識的理解に挑戦したいのならば、遊義門院について論ずる前に「院政=二元王権論」の大論文を書く必要がありそうです。
なお、『増鏡』に描かれた「西園寺公衡が事件の黒幕は亀山院であるとして、後深草院に対し流罪をも含めた厳罰を厳しく要求している」場面の原文を見ると、

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 この事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条宰相中将実盛も召しとられぬ。三条の家に伝はりて鯰尾とかやいふ刀のありけるを、この中将、日頃持たれたりけるにて、かの浅原自害したるなどいふ事どもいで来て、中の院もしろしめしたるなどいふ聞えありて、心うくいみじきやうにいひあつかふ、いとあさまし。
 中宮の御せうと権大夫公衡、一の院の御まへにて、「この事はなほ禅林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」など、かの承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまではあらん。実ならぬ事をも人はよくいひなす物なり。故院のなき御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみてのたまふを、心弱くおはしますかなと見奉り給ひて、なほ内よりの仰せなど、きびしき事ども聞ゆれば、中院も新院も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、しろしめさぬよし誓ひたる 御消息など東へ遣されて後ぞ、ことしづまりにけり。

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

といった具合です。
西園寺公衡は正応三年(1290)の浅原事件の時点では亀山院を厳しく糾弾していますが、後に妙に亀山院と仲が良くなり、亀山院の最晩年の子、恒明親王の保護者となって後宇多院と対立して勅勘を受けることになります。
人間関係の変遷は世の常ですが、ここまでの極端な変化はなかなか珍しいですね。
なお、西園寺公衡が後深草院を支持しているように見えるこの文章の中にも、「後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事」は、後嵯峨院の意思は明確に亀山親政・院政にあったのだ、という見解であり、ここは後深草院にとってはとても受け容れることのできない暴論です。
この場面も決して事実の記録ではなく、『増鏡』作者の解釈ないし意図的な誘導に基づくものですね。
なお、『増鏡』作者は浅原事件を受けて亀山院が出家したというストーリー展開にしていますが、これも史実と反します。
こちらは明らかに物語を面白くするための意図的な改変ですね。
 

駄レス

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2019年 5月 4日(土)02時49分50秒
  >>Emperor Emeritus

確か、上皇の公定訳が「Emperor Emeritus」というニュースを何処かで見た記憶があります。

確かに「Emeritus」は「名誉」という訳が多いようですが
WikiでのEmeritusの用例を見れば、「名誉」というよりも「前官礼遇」と言う意味合い
もあるようですので、そちらを取ったのでしょう

確かに「名誉名人」や「名誉十段」と言う用例を見れば、Emperor Emeritusに「追贈天皇」
というニュアンスを感じても仕方が無いと言う面もありそうですが

追伸
令和も20年くらいになって、秋篠宮が高齢になれば、皇位継承順位の変更で秋篠宮が存命中に
悠仁親王の登極があれば、「尊称天皇」の復活になるのでしょうか
 

(Her Majesty) the Empress Emerita

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 3日(金)22時07分27秒
編集済
  >筆綾丸さん
宮内庁ホームページの「皇室の構成図」、日本語版と英語版を比べると、秩父宮・高松宮・三笠宮・常陸宮から悠仁親王殿下までみんな Prince であり、女性も三笠宮妃百合子殿下から愛子内親王殿下・眞子内親王殿下・紀子内親王殿下、そして彬子女王殿下・瑶子女王殿下・承子女王殿下までみんな Princess で、日本語の細かい違いが英語ではあっさり無視されていますね。

http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html
http://www.kunaicho.go.jp/e-about/genealogy/koseizu.html

日経新聞の2017年4月4日付記事に、

-------
天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議(座長・今井敬経団連名誉会長)は4日、退位後の天皇の呼称や待遇などの制度設計に関して集中討議を行った。陛下の退位後の皇后さまの呼称について「上皇后」や「皇太后」を検討したものの方向性は出なかった。21日にも安倍晋三首相に提出する最終提言に向け、意見集約を急ぐ。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS04H38_U7A400C1EA1000/

とあるように、退位後の皇后の名称については色々議論があり、個人的には伝統的な「皇太后」で別に問題はないように思っていましたが、結局、「上皇后」という新語になってしまいました。
あの議論も、どっちに転ぼうと英語では、

上皇(陛下): (His Majesty) the Emperor Emeritus
上皇后(陛下): (Her Majesty) the Empress Emerita

という具合になることが予め予想されていたのでしょうね。
ついでながら、「上皇后」についてウィキペディアを見ると、

-------
譲位した天皇の后の称号としては、歴史的には皇后を維持した例や皇太后とした例などがあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%9A%87%E5%90%8E

とありますが、「皇后を維持した」具体例は挙げられていません。
姈子内親王は後宇多天皇が譲位した後も「皇后を維持した」ケースですが、これは「尊称皇后」だから今回の問題には全然参考にならなかったでしょうね。
 

Emperor Emeritus

 投稿者:筆綾丸メール  投稿日:2019年 5月 3日(金)12時32分40秒
  旅先のため、スマホでの簡単な書き込みで恐縮ですが。
BBCは、上皇を Emperor Emeritus と訳していますが、これを名誉天皇と反訳したら、名誉が諡号のように見えてしまって、誤訳というべきなのでしょうね。
 

「もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたこと」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 3日(金)11時40分49秒
編集済
  それでは三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)に戻って、続きです。(p50以下)

-------
第二節 皇后留任

 姈子の立后例で、もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたことである。【中略】
 更に注目すべきは、山田彩起子氏(24)によって指摘されたその居住状況である。後宇多朝での姈子は、父母と同居し、後宇多(天皇)や亀山(治天の君)と隔絶していたことは前述のとおりである。しかし伏見が践祚すると、後深草と東二条院は居住していた富小路殿を新帝・伏見に譲り渡して常盤位殿へ転居するが(25)、姈子だけは留まり続け、姈子だけは留まり続け、自分の居間を伏見に譲り、同じ邸内の「角御所」に居を移して同宿するのである(26)。父母と別居してでも天皇となった異母兄・伏見と同居する点で、これは大きな変化である。
 『伏見天皇宸記』は践祚の日から書き起こされているが、以後、頻繁に伏見が角御所を訪問している記事が見える(27)。また、姈子が行啓する際には伏見が自ら細やかにその沙汰をし(28)、姈子のもとに母・東二条院(伏見にとってはこの時期国母の礼を取っている継母)が訪問すれば顔を出す(29)など、その濃密な交流状況が窺える)。
 天皇と内裏で同居する不婚内親王の意義について、母后の内裏、天皇の後見者的な意味合いを山田氏は指摘しており、姈子のこの事例についても同様と見なしている。実際、彼女はここでようやく従来の不婚内親王皇后と同じ要件を備え、後深草院政という二元王権を媒介する位置に置かれていることになるのである。
 亀山・後宇多という長期政権の後を受けて、実務官僚にも不足しがちな不安定な後深草院政初期に(30)、前代から既に皇后として権威を持つ姈子内親王は、後深草・伏見政権にとって数少ない拠り所であったに違いない。西園寺※子が伏見の中宮として立后しても、なお姈子は引き続き皇后に留まった。

(24)「天皇准母内親王に関する一考察─その由来と下限を巡って─」(『日本史研究』四九一号、二〇〇三年)
(25)『実躬卿記』弘安十年十月十九日条。
(26)『伏見天皇宸記』弘安十年十月二十一日条。
(27)例えば、弘安十年十月二十二日、十一月八・九・十・十三・十八・十九日等。
(28)『公衡公記』弘安十一年二月八日条、『伏見天皇宸記』同日条。
(29)『伏見天皇宸記』弘安十年十一月二十一・二十二日条、十二月十六日条、『公衡公記』弘安十一年正月十三日条等。
(30)本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、一九九五年)。
-------

三好氏は本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』を受けて「亀山・後宇多という長期政権の後を受けて、実務官僚にも不足しがちな不安定な後深草院政初期」と言われるのですが、その不安定さが何故に「実務」能力が全くない姈子内親王によって安定化されるのかについての具体的な説明はありません。
そもそも十六歳で皇后となった姈子内親王にどのような「権威」があったのかについての具体的説明もなく、このあたりは史料的根拠に基づかない空論ではないかと私は感じます。
また、姈子内親王が後宇多退位後も「皇后宮」に留まり、それが正応四年(1291)八月四日に遊義門院との女院号が定められるまで続いたことは確かですが、元々婚姻関係と切り離された「尊称皇后」ですから、それ自体は特におかしなことではないように私には思えます。
そして、三好氏は姈子が「西園寺氏唯一の外孫」などと西園寺氏との結びつきを強調されるのですが、姈子が皇后であった時期に一貫して「皇后宮大夫」であったのは徳大寺公孝であって、西園寺家との関係だけを殊更強調してよいのか、という疑問も感じます。
なお、立后時に「皇后宮権大夫」となったのは西園寺公衡ですが、西園寺※子が伏見天皇の中宮となると、公衡は中宮大夫に転じ、代って「皇后宮権大夫」となったのは洞院実泰です。
西園寺本家と微妙な関係にあったことが『増鏡』で繰り返し強調されている洞院家の人物が「皇后宮権大夫」であったことにも留意すべきではないかと私は考えます。

徳大寺公孝(1253-1305)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%AD%9D
西園寺公衡(1264-1315)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E8%A1%A1
洞院実泰(1269-1327)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E9%99%A2%E5%AE%9F%E6%B3%B0
 

尊称皇后・女院・准三宮について(岩佐美代子氏『内親王ものがたり』)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 2日(木)13時23分24秒
編集済
  ここ暫く三好千春氏の論文に即して姈子内親王(遊義門院)を検討してきましたが、「尊称皇后」自体がかなり難解な応用問題である上に、姈子内親王の場合、十六歳で皇后となった九年後、二十五歳のときに後宇多院と現実の婚姻関係を結ぶという極めて特異な、史上唯一の事例となっていて、応用問題中の応用問題ともいえます。
三好氏の論文は国文学の人ならある程度理解できるでしょうが、中世史の研究者でも荘園や武士論などをやっている野蛮人の方々にはチンプンカンプンかもしれないので、何か参照に便利な基礎知識のまとめがないかなと探していました。
まあ、ウィキペディアなども便利は便利なのですが、平易な文章で、しかも記述のバランスが良いものはなかなか見当たらなかったのですが、岩佐美代子氏の『内親王ものがたり』(岩波書店、2003)の「序章」が優れていることに気づいたので、これを紹介したいと思います。
同書の「序章」は、

-------
1 内親王とは
2 内親王のお名前
3 内親王の生き方
-------

と構成されていて、「3 内親王の生き方」には最初に若干の解説の後、「内親王の生き方としては、昔からどういう道があったのでしょうか」として、六つの道が列挙されています。(p7以下)

-------
1 天皇の正后─皇后・中宮
 皇后・中宮は古くは同じ意味でしたが、平安時代、立后の順序により、新たに立たれた正后を中宮と称し、これに対してもとからの正后を皇后と称するようになりました。天皇の正規の配偶者で、これは女性の最高地位。内親王にはいかにも望ましく、またふさわしいと思われますが、この地位にはどうしても政権とそれを支える財力という問題がからんで来ます。従って、ごく初期には皇女独占であったこの地位も、聖武天皇の光明皇后以後藤原氏に取ってかわられ、内親王として正后となられたのは次の十人の方々だけです(後に述べる尊称皇后は除きます)。
 光仁天皇皇后井上内親王(聖武皇女)
 淳和天皇皇后正子内親王(嵯峨皇女)
 冷泉天皇中宮昌子内親王(朱雀皇女)
 後朱雀天皇中宮禎子内親王(三条皇女)
 後冷泉天皇中宮章子内親王(後一条皇女)
 後三条天皇中宮馨子内親王(後一条皇女)
 堀河天皇中宮篤子内親王(後三条皇女)
 二条天皇中宮姝子内親王(鳥羽皇女)
 後醍醐天皇中宮珣子内親王(後伏見皇女)
 光格天皇中宮欣子内親王(後桃園皇女)
しかもこのうち、天皇の生母は、御三条天皇をお生みになった禎子内親王(のち、陽明門院)だけです。そしてほとんど皆、天皇との愛情というより、周囲の地事情により結婚されましたので、お幸せな一生であったとは軽々しく言えません。
2 女帝
 【中略】
3 斎宮・斎院
 【中略】
4 結婚
 【中略】
-------

いったんここで切ります。
先日言及した洞院佶子・西園寺嬉子の場合、最初に佶子が亀山天皇の「中宮」となった後、嬉子も入内して「中宮」となり、「もとの中宮」の佶子は「あがりて、皇后宮とぞ聞え給ふ」となっています。

「巻七 北野の雪」(その4)─洞院佶子、立后
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9279
「巻七 北野の雪」(その5)─西園寺嬉子
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9280

二人の関係は後堀河天皇(1212-34)の時代の三条有子(安喜門院、1207-86)、近衛長子(鷹司院、1218-75)、九条竴子(藻璧門院、1209-33)の関係、即ち権勢を握った者が自分の娘を入内させると先行の中宮が皇后となって宮中を退去するというパターンを連想させますが、佶子の場合は皇后となっても退去することはなく、時代の変化、ないし後嵯峨院・亀山天皇の個性の強さを感じさせます。

「巻三 藤衣」(その2)─安喜門院・鷹司院・藻璧門院
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9221

さて、「内親王の生き方」に戻って、続きです。

-------
5 独身─尊称皇后・女院
 結局、内親王方は多く独身で過される事になります。当然、生活が問題になりましょう。母方、また乳母の一族が面倒を見ると同時に、内親王としての体面を保つため、品位(親王に与えられる位階。一品から四品まであり、一定の俸禄が保証される)を賜わるという事がありましたが、平安中期以後はその機能は衰退、独身生活は難しくなりました。一方、白河天皇が皇子堀河天皇に位を譲って院政を開始されて以来、十歳に満たない幼い天皇が続き、その生母がすでに故人である時、また身分の低い時は、形式的に天皇の准母(お母様代り)として、近親の独身の内親王を皇后とし、即位式の高御座に天皇を抱いて登る、また行幸の輿に同乗するなど、天皇としての威儀を整えると同時に、独身の内親王を財政的に優遇する、という便法が生れました。その最初、堀河天皇准母となられた媞子内親王(白河皇女)は中宮を称されましたが、次の鳥羽天皇准母令子内親王(白河皇女)以後は、「中宮」は天皇の配偶者、「皇后」は配偶関係のない天皇准母、という呼び分けができ、歴史学ではこれを「尊称皇后」といって区別しております。また男女の別なく三后(皇后・皇太后・太皇太后)に準ずる待遇を与える「准三宮(准三后、准后)」という制度を適用された方もあります。
 一条天皇生母東三条院(皇太后藤原詮子)にはじまる女院の制は、国母(天皇の母后)を尊んで太上天皇に準じた制度でしたが、次第に範囲を拡大、平安末から鎌倉にかけ、内親王が尊称皇后を経て女院となるのが慣例となり、更に八条院(鳥羽皇女暲子内親王)以後准三后から女院となる、という新例も聞かれました。
 これらは内親王優遇の一面、院政期に入って上皇個人の所有として貯えられた膨大な所領を、分割散逸させず守り続けるため、配偶者もお子さんもいない内親王をその相続者とし、皇室領として温存しようとする、時代の要請にそった便法でもあったわけです。宮廷の実力も土地制度も一変した南北朝時代以降は、このような独身内親王の優遇制はなくなりました。
6 出家─尼門跡【後略】
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ということで、「尊称皇后」は婚姻関係とは切り離されており、特定の女性が極めて高い身分であることを示す概念ですが、これは史料用語ではなく、あくまで研究上の用語です。
 

「東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔であり」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 5月 1日(水)09時43分38秒
編集済
  続きです。(p50)

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 姈子は立后の八日後、初行啓しているが、その様が「其体如 行幸」(19)と称されていることは、実に暗示的である。持明院統及び持明院統の政権復帰を最も待ち望む西園寺氏にとって、行啓の華やかさはその威信をかけたものであり、本命である次期政権(天皇位)への強固な意思を示す鮮烈なアピールの場であったに違いない。後深草の唯一の正后腹という血統の正しさを持ち、西園寺氏唯一の外孫でもある姈子内親王は、その主役として最も相応しい存在であった。
 従前の不婚内親王皇后が、院政という政治体制下において、王権を補完する役割を負っていたのに対し(20)、姈子は時の政権を構成する天皇と治天の君とは実質的にほぼ没交渉であり続けた。治天の君と天皇の二元王権の橋渡しや補完ではなく、東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔であり、彼女に期待されたのは、むしろ二つの天皇家のバランスになることであったといえよう。ゆえに彼女は天皇でも治天の君でもない父・後深草と同居を続け、従来の原則にあてはまらない不婚内親王皇后となったのである。まさしく、両統迭立という時代を反映した不婚内親王立后だと言えるだろう。
 そしてまた、このような使われ方をした皇后位というものが、鎌倉期において王権を象徴するものとして充分に価値のある地位であり、「后位尤尊」と称されるにふさわしい社会的評価の高さが指摘できるだろう。

(19)『実躬卿記』弘安八年八月二十七日条。なお、短いこの記事中に「其体如 行幸」という言葉は二度も出てくる。
(20)栗山圭子「准母立后制にみる中世前期の王家」(『日本史研究』四六五号、二〇〇一年)。
-------

『実躬卿記』は後で確認するつもりですが、『続史愚抄』によると、弘安八年八月十九日に「本院皇女姈子内親王<十六歳。母東二条院。>冊為皇后宮。<于時非今上妃>節会。有宮司除目。於本宮。<本院御所富小路殿中歟。>有御遊。拍子徳大寺大納言。<公孝。>此日。春日第四殿鳴。<〇一代要記、女院伝、続女院伝、御遊抄、歴代最要、宣順卿記追、公卿補任>」とあり、ついで二十七日に「皇后宮行啓本院御所。<初度>為賞有叙人。<園太歴追(貞和二)>」とあります。
姈子内親王は「本院」即ち後深草院と同居している訳ですから、「皇后宮行啓本院御所」といっても自分の住んでいる御所の特定の門から出て、ぐるりと回って別の門から入って来る程度の地味な移動であって、「本命である次期政権(天皇位)への強固な意思を示す鮮烈なアピールの場」であったかについては私は懐疑的です。
また、三好氏は姈子内親王が「東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔」と言われるのですが、東宮は鎌倉幕府の斡旋があったので断れなかったとしても、姈子内親王の立后に鎌倉幕府が干渉したという話も聞きません。
もし姈子内親王の立后が「楔」であるならば、そんな楔を打ち込まれるのは治天の君である亀山院には迷惑であって、最初から断ればよいだけの話となります。
ま、このあたりは史料的根拠に基づかない三好氏の妄想じゃないですかね。
また、「后位尤尊」は後深草院一周忌にあたり遊義門院が捧げた願文の中の表現ですから、古典に詳しい学者が飾り立てた美辞麗句の一節であり、あまり深い意味を読み込むべきではないと思います。
 

「姈子立后はその前哨戦として位置付けられるのではないだろうか」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 4月30日(火)22時54分11秒
編集済
  橋本芳和氏の「遊義門院姈子内親王の一考察」(『政治経済史学』283号、1989)一九八九年)に一言だけ触れておくと、これは「姈子内親王の専論としては唯一の先行研究」(p49)です。
しかし、姈子が実は亀山後宮ではないかという極めて大胆な推理を展開する橋本説には史料的根拠が皆無であり、学説の体をなしていません。
そこで、橋本論文に関する記述は省略して、その後の部分を引用します。(p49以下)

-------
 大覚寺統との婚姻でもなく准母立后でもないとなると、なぜ後宇多朝での立后であったのかという当初の疑問が残る。立后の事情を語る史料が無い以上、伴瀬明美氏が言う、「持明院統に対する配慮(ないし懐柔策)」と解するのが穏当だが、配慮(ないし懐柔策)の手段がなぜ不婚内親王立后という形で行われたのか、この点についてはもう少し検討すべき余地があると思われる。
 彼女が立后したのは弘安八年(一二八五)八月。弘安八年は、後深草譲位から二十六年、後宇多即位から十一年、煕仁立太子から数えても既に十年を経過していた。将来的には持明院統に政権が戻ることが予定されていたとはいえ、持明院統とその外戚・西園寺氏に大覚寺統長期政権への焦燥があったことは想像に難くない。例えば龍粛氏は、弘安三年(一二八〇)の飛鳥井雅有の東下を後深草院の命による煕仁践祚の働きかけであったと推測している。また、森茂暁氏は弘安五年(一二八二)から弘安十年(一二八七)の間に成立したとされる「宸筆御事書」が、後深草院の年来の不満と焦燥が表れたものと解している。加えて弘安八年は、後宇多に第一子・邦治(のちの後二条)が誕生していることから、煕仁廃太子─大覚寺統直系継承への転換という可能性が、現実的な脅威として持明院統側の深刻な危機感を募らせていたと考えられる。のちに伏見が即位すると、西園寺実兼女・※子が伏見の中宮となったが、その腹の皇子誕生を待たずに胤仁(のちの後伏見)を立太子させたのも、直系継承の確保が最優先事項として相当に意識されていたからであろう。姈子立后から二年後の弘安十年(一二八七)、突如として鎌倉幕府からの指示により伏見践祚が実現したことを考え合わせると、姈子立后はその前哨戦として位置付けられるのではないだろうか。
 つまり、天皇「家」のうち、天皇位は大覚寺統、后位は持明院統で折半する構図がここで現出している。本来は一対で王権を構成するはずの地位を、「二つの天皇家」が分割・保持することで、本命である皇位継承の攻防戦にとりあえずの折合いをつけた結果の姈子立后だったのではないだろうか。
-------

以上、長々と引用しましたが、私は立后が「前哨戦」であるという三好氏の基本的発想が全く理解できません。
三好氏は特に説明することもなく「天皇位」と「后位」が「本来は一対で王権を構成するはずの地位」であるなどと言われますが、そもそもかかる王権論を誰が主張しているのか。
私にはこのような王権論が歴史学界で共有されているとは思えず、三好氏の独自理論ではないかと邪推しますが、三好氏はかかる理論を前提に、「本来は一対で王権を構成するはずの地位」を持明院統・大覚寺統が奪い合っていて、「本命である皇位継承の攻防戦」の「前哨戦」が姈子の立后だと言われます。
しかし、立后は婚姻の一形態であり、当事者および関係者の合意があるのが通常であって、「尊称皇后」という特殊性を考慮しても、少なくとも婚姻の形式・外形を伴う儀礼ですから、争いよりも協調、戦争よりも平和をイメージさせるものであるはずです。
後深草院が姈子の立后を希望しようとも、亀山院側が嫌ならあっさり断れば良いだけの話で、立后が実現したのは両者間で合意があったからです。
それが円満な合意ではなく、後深草院側が亀山院側に事実上強要したのだと主張するのであれば、その史料的根拠を示す必要がありますが、そのような史料の提示ができないのであれば、三好説は橋本芳和説と同様の空論ですね。
 

「姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 4月30日(火)09時22分1秒
  続きです。(p48以下)

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 姈子内親王に関する史料は僅少だが、その半生を端的に語る同時代史料として唯一のものが、後深草院一周忌に際して作られた姈子の願文である。

就中弟子忝稟貴種、頻誇恩華、婦範是疎、雖慙梁武帝之公主、后位尤尊、謬慣魏文皇之息女、早出椒芳之宮、久臨芝英之砌、而自備 姑射同躰之儀、聊雖隔 禅居従容之礼、于晨于昏、莫不通音問矣、云小云大、莫不蒙頤眄焉、
国母之徽号者、
天子之所重也、准陰麗之跡、恐坤教之徳、是匪下愚之徽併依
先院之餘慶、報詶之志寤寐難休、

 ここから解ることは、父・後深草院との絆の深さから「頻誇恩華」の結果、「尤尊」とされる后位についたこと、更に「天子之所重」の国母の地位を得たことである(この願文作成時は後二条朝であり、姈子は後二条国母に擬せられていた)。彼女の半生における重大事が、「後深草の「餘慶」によるもの」という形で列挙されている。
 まずはその重大事の一つ、立后が問題となる。彼女が史料上、本格的に姿を現すのもこの十六歳の時の不婚内親王立后である。
 姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である。それまでの不婚内親王立后は、治天の君の娘もしくは姉妹というごく近親から選ばれていた。しかし、姈子は治天の君・亀山の姪であり、天皇・後宇多とは従兄妹である。これは不婚内親王立后全十一事例を通して姈子のみのことであり、立后をめぐる原則が全くあてはまらない、異例の立后である。その事情を明確に物語る史料は無い。のちに彼女が後宇多の妃となったことから、後宇多後宮としての立后と誤解されることがあるが、天皇時代の後宇多と皇后・姈子は断絶状態であり、『続史愚抄』が「于時非今上妃」と注釈するとおり、不婚内親王立后であったことは明白である。また、『女院小伝』に「後二条准母」とあることから後二条准母立后とされることもあるが、姈子立后当時の後二条は生まれたばかりで親王宣下もされておらず、これも立后そのものとは無縁である。彼女が後二条准母と称されたのは、のちに後二条の父・後宇多の正妻となったからで、継母の立場から後宇多嫡子の母に準えられたものと思われる。
-------

注記は省略しますが、遊義門院の願文は「『公衡公記』「後深草院一周忌御仏事記」嘉元三年七月十六日条。前後省略」とのことです。
また、「なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか」についての私の意見は後で述べます。
三好氏はこの後、橋本芳和氏の見解を紹介して批判されていますが、省略します。

橋本芳和氏と『政治経済史学』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9016
 

「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」(by 三好千春氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2019年 4月29日(月)22時15分29秒
編集済
  前投稿で引用した部分で、三好氏は、

-------
 だが、後深草・亀山の次世代において成人した西園寺氏の外孫は、実に姈子内親王ただ一人であった(8)。その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり、「東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなり(皇子に恵まれなかった東二条院の心情を思い、また煕仁はやんごとなき方ではないので、皆、さほど大切に気を遣わなかった)」(9)という。皇子ではなかったものの、後深草の血統を最も正しく受け継ぐ、しかも唯一の存在である姈子は、西園寺氏にとってかけがえのない掌中の珠であった。
-------

と言われていますが、『増鏡』の引用の仕方にはかなり問題がありますね。
「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」との評価の根拠として『増鏡』が引用されているので、公家社会における一般的評価として煕仁より姈子の方が注目されていたと誤解する読者が多いのではないかと思いますが、巻七「北野の雪」を見ると、当該記事では別に煕仁と姈子が比較されている訳ではありません。
この文章は姈子が生れる三年前の文永四年(1267)、洞院佶子が世仁親王(後宇多)を生んだ記事の中にありますが、

-------
 上も限りなき御心ざしにそへて、いよいよ思すさまに嬉しと聞しめす。大臣も今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮もこの殿の御孫ながら、それは東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなりつれど、この今宮をば、本院も大宮院も、きはことにもてはやし、かしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。

【私訳】
亀山天皇も皇后宮を限りなく寵愛されていたが、皇子が生まれていよいよ嬉しいと思われた。実雄公も今こそ胸中晴れ晴れとして心が落ち着かれた。後深草院の若宮(後の伏見天皇)も実雄公の御孫ではあるが、そちらは(皇子のいない)東二条院の御心中も推察され、だいたい、若宮はだれ憚ることのない尊い方という訳でもない方だから、後嵯峨院も大宮院も万事につけて軽く聞き流されておられるが、この新たに生まれた皇子は、後嵯峨院も大宮院も格別に大切になさる。これも中宮(嬉子)のためにはお気の毒でない訳でもないが、どうしてそんなに遠慮ばかりしていられようかと(実雄方は振舞い)、西園寺家の方では非常に不愉快で、興ざめなことだとお聞きになる。

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ということで、ここで比較されているのは、洞院実雄の孫という点では共通の煕仁親王(伏見)と世仁親王(後宇多)ですね。
洞院実雄から見れば、洞院愔子が生んだ煕仁の場合、正妃の子ではないので東二条院への遠慮があるものの、洞院佶子が生んだ世仁は皇后の子という申し分のない立場です。
正妻として並び立つ中宮・西園寺嬉子はいるけれども、嬉子があくまで形式的な存在であることは世間周知であり、遠慮する必要は全くない、ということになります。
そもそも皇位継承の可能性のある男子と、それが全くない女子を比較すること自体あまり意味があるとも思えませんが、少なくとも「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」という評価の根拠として『増鏡』を引用するのは誤りですね。
なお、煕仁親王を生んだ愔子(1246-1329)には伏見即位の翌正応元年(1288)十二月十六日、准三宮宣下があり、同日、院号定があって玄輝門院となります。
愔子は『とはずがたり』には「東の御方」として登場し、「粥杖事件」では後深草院を羽交い絞めして二条に杖で打たせる手伝いなどをしています。
ま、「粥杖事件」に描かれた「東の御方」が愔子の実像といえるかについては、私は極めて懐疑的ですが。

http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm
 

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