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石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その12)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月20日(火)11時35分38秒
編集済
  「今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな」が『源氏物語』を踏まえているのでは、という私見は今まで誰も唱えていない超絶単独説のようですが、変ですかね。
『源氏物語』でも光源氏は都落ちの形で須磨に逃れ、ついで更に状況が悪化して明石へ向った訳ですから、仮にその心境を問われたら、光源氏が「今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな」と答えたとしても全く不思議ではありません。

明石 (源氏物語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3_(%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)

若くして勅撰歌人を目指した尊氏にとって、『源氏物語』は和歌的教養の基礎中の基礎であり、その内容を熟知していたことも自明ですから、ここまで状況が似ているのに自身を光源氏になぞらえない方が私には不思議に思えます。
ちなみに足利尊氏の正式な名前「源尊氏」はちょっと「光源氏」に似ていて、尊氏もまんざらでもない気分だったのではないかと想像します。
「源高氏」時代でもそれなりに高貴さを感じさせる名前だったのに、元弘三年(1333)八月五日、後醍醐から「尊」の字を賜って以降はますます光り輝いたであろう名前ですね。
ただまあ、この歌が何故『風雅和歌集』に載ったかというと、尊氏が他の多くの自作とともに撰歌資料として提供したからと思われますが、その際には既に作歌の時期から十年程度の時間が流れています。
とすると、悪意をもって読めば、尊氏としては、敗走の過程でも自分はこんなにも落ち着いていたのだ、と自分の剛毅さをアピールしたかったのかもしれないし、あるいは「大蔵谷」で実際に詠んだのではなく、本来あるべきであった剛毅な、余裕綽綽たる自分の理想の姿を後日捏造したのだ、などと言えない訳でもなさそうです。
ま、ひとつの和歌の解釈に過度にこだわると尊氏の全体像を見失うことになりかねないので、この歌については後でまた振り返ることとし、石川論文の続きをもう少し見ておきたいと思います。
紹介がずいぶん遅れましたが、石川泰水氏は昭和53年(1978)東大文学部国文学科卒、修士・博士も東大で、ご専門は中世和歌ですね。
昭和61年(1986)に群馬県立女子大学専任講師になられた後、助教授・教授として三十年以上同大学に勤められた方です。
詳しい経歴と著作は大学公式サイトに出ています。

https://www.gpwu.ac.jp/dep/lit/nat/2018/02/post-6.html

そして、「まほろば」というブログによれば、石川氏は2018年3月26日に六十二歳の若さで亡くなられたそうです。
私は一度も御目にかかったことはありませんが、このブログの写真を拝見すると、いかにも篤実な学者らしい雰囲気を持った方ですね。

http://mahoroba3.cocolog-nifty.com/blog/2018/03/post-b45a.html

さて、石川論文の続きです。(p16以下)

-------
 九州まで西下して軍勢を立て直した尊氏軍は、捲土重来を期して四月に再び都に向かって進攻を始めた。五月五日に、戦勝祈願のためであろう、尾道の浄土寺に立ち寄り、尊氏・直義ら六人が観音賛仰の和歌計三十三首を詠んで奉納している。同寺に原本が残る「紙本墨書観世音法楽和歌」であり、小川氏が特に注目した。尊氏にとっての和歌と信仰との密接な関わりを示唆する初期の作品である。持明院統の光厳上皇の院宣というもう一つの錦の御旗を掲げながら足利軍は進撃を続け、二十五日には湊川で楠木正成・新田義貞の軍を打ち破って都へと迫り、後醍醐天皇はまたも比叡山に退く羽目になった。入京した尊氏は光厳上皇とその弟豊仁親王を迎え、八月十五日、豊仁親王が光明天皇として践祚する。十月に後醍醐天皇は和議を受け入れて都に戻り、光明天皇に三種の神器を譲るが、十二月に出奔、吉野で引き続き自ら政務を執る意思を表明する。都の北朝に対して吉野にも政権が樹立される、所謂南北朝時代の到来である。
-------

「紙本墨書観世音法楽和歌」については、後で小川剛生氏の見解とともに紹介します。
 
 

「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月19日(月)13時54分57秒
編集済
  『太平記』によれば、建武三年(1336)二月初旬、尊氏が「今度の京都の合戦に、御方毎度打ち負けぬる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、ただ尊氏徒らに朝敵なるゆゑなり。されば、いかにもして持明院殿の院宣を申し賜つて、天下を君と君との御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり」と思案して、「薬師丸」に院宣取得を命じて以降、実際に尊氏が三宝院賢俊から「持明院殿の院宣」を得るまでに三ヶ月かかったのだそうです。
この間、『太平記』には多々良浜の合戦を始めとする膨大なエピソードが記されますから、『太平記』を普通に読んでいる読者にとっては、「薬師丸」のことなど殆ど忘れたころにやっと「持明院殿の院宣」が到来するというのんびりした展開です。
これは多々良浜の合戦等の九州での戦争に際して、「持明院殿の院宣」は何の役にも立たなかった、ということでもあります。
他方、『梅松論』によれば、そもそも「持明院殿の院宣」を得ようとの発想は尊氏自身のものではなく、赤松円心の献策によったとされています。
二月十一日の夜更け、円心は尊氏に対し、いったん西国に移動して兵を休めることとともに、

-------
凡そ合戦には旗を以て本とす。官軍は錦の御旗を先立つ。御方は是に対向の旗無きゆえに朝敵に相似たり。所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後定めて叡慮心よくもあるべからず。急に院宣を申し下されて錦の御旗を先立てらるべきなり。

http://hgonzaemon.g1.xrea.com/baishouron.html

という献策を行ないます。
そして、尊氏らが船に乗って九州に落ちる途中、備後の鞆に着いたところで、

-------
 かくのごとく定め置れて備後の鞆に御着きある所に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是に依りて人々勇みあへり。「今は朝敵の義あるべからず」とて、錦の御旗を揚ぐべきよし国々の大将に仰せ遣はされけるこそ目出度けれ。
-------

という展開となります。
円心の手配は極めて手際よく、尊氏が賢俊から院宣を得たのは二月中ですね。
この後、「建武三年二月廿日長門国赤間の関に波風のわずらひなく御船着き給ふ」とあるので、より正確には二月中旬ということになり、『梅松論』での日程は『太平記』よりも遥かにスピーディーですが、特に無理な展開という訳でもありません。
『太平記』と『梅松論』で尊氏が「持明院殿の院宣」を得た日程を比較すると、『太平記』はどうにも間延びした感じで、『梅松論』の方が自然な流れであり、多くの歴史研究者は『梅松論』を信頼しているようですね。
さて、ここで岩佐氏の記述に戻ると、「太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた」は、院宣が後伏見院のものか光厳院のものかという別の論点はともかくとして、問題はありません。
しかし、「九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得」は、『太平記』ではなく『梅松論』に基づいた記述であり、『太平記』で一貫していません。
そして、より信頼できる『梅松論』によれば、「三草山」は院宣獲得にとって特に意味のある場所ではなく、「「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名」ということにはならないですね。

参考:現代語訳『梅松論』(芝蘭堂サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou31.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou32.html
 

「持明院殿の院宣」を尊氏が得た時期と場所(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月19日(月)13時30分58秒
編集済
  岩佐美代子氏は【補説】で「太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた。二月十日打出浜合戦、十一日豊島河原合戦に敗れ、十二日海路九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得、四月東上して京を恢復、八月十五日光明天皇を践祚せしめた。すなわち「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名」と書かれていますが、ここも『太平記』と『梅松論』を混同した変な記述ですね。
まず『太平記』を見ると、西源院本では第十五巻第九節「「薬師丸のこと」に、前節最後の「二月二日、将軍は曾地を立ち、摂津国へぞ越え給ひける」に続いて、次の記述があります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p457)

-------
 この時、熊野山の別当四郎法橋道有、未だ童にて御供したりけるを、将軍、呼び寄せ給ひて、忍びやかに宣ひけるは、「今度の京都の合戦に、御方〔みかた〕毎度打ち負けぬる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、ただ尊氏徒〔いたず〕らに朝敵なるゆゑなり。されば、いかにもして持明院殿の院宣を申し賜つて、天下を君と君との御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり。御辺〔ごへん〕は、日野中納言殿に所縁ありと聞き及べば、これより京に帰つて、院宣を伺ひ申して見よかし」と仰せられければ、薬師丸、「畏まつて承り候ふ」とて、三草山より暇〔いとま〕申して、即ち京へぞ上りける。
-------

即ち、「持明院殿の院宣」を得ようとする発想は尊氏自身が「つらつら事の心を案」じた結果出て来たもので、尊氏は二月初めに「日野中納言殿(日野資明)に所縁」がある「薬師丸」に命じて院宣を得ようとしますが、「薬師丸」がいつ戻ってきたのかというと、実は「薬師丸」は『太平記』にただ一ヵ所、ここだけに登場する人物です。
では、いつ誰が「持明院殿の院宣」を尊氏にもたらしたのかというと、それは第十六巻第四節「尊氏卿持明院殿の院宣を申し下し上洛の事」に出てきます。(兵藤裕己校注『太平記(三)』、p49以下)

-------
 さる程に、尊氏卿は、多々良浜の合戦の後、九州の兵一人も残らず付き順〔したが〕ひしかば、靡かぬ草木もなかりけり。【中略】
 かかる処に、赤松入道円心が三男則祐律師、得平因幡守秀光、播州より筑紫へ馳せ参つて、「京都より下されたる敵軍、備前、備中、美作に充満して候ふと云へども、これ皆、城を攻めかねて、機〔き〕疲れ粮〔かて〕尽きたる折節にて候ふ間、大勢にて御上洛候ふとだに承り及び候はば、ひとたまりも怺〔こら〕へじと存じ候ふ。御進発延引候ひて、白旗の城攻め落とされなば、自余の城一日も怺へ候まじ。四ヶ所の用害、敵の城になり候ひなば、何十万騎の御勢候ふとも、御上洛は叶ふまじく候ふ。これ、趙王城を秦の兵に囲まれて、楚の項羽が船を沈め釜甑〔ふそう〕を焼いて、戦ひ負けば、士卒一人も生きて帰らじとせし軍〔いくさ〕に候はずや。天下の成功、ただこの一挙にあるべきものにて候ふものを」と、言〔ことば〕を残さず申しければ、将軍、げにもと思ひ給ひて、「さらば、夜を日に継いで上洛すべし」とて、同じき四月二十六日に、太宰府を打つ立ちて、二十八日の順風に纜〔ともづな〕を解きしかば、五月一日、安芸の厳島に船を寄せて、三日参籠し賜ふ。
-------

「破釜沈船」エピソードは少し創作っぽいものの、他はそれなりにリアルな描写ですね。
このように、いったん九州まで落ちて、三月の多々良浜の戦いで奇跡的な勝利を得た尊氏が、四月、赤松円心の使者・則祐の説得で上洛を決意し、五月、安芸の厳島に入ったところで、「持明院殿の院宣」を持った「薬師丸」ではない人物がやっと登場します。(p50)

-------
 その結願の日、三宝院の賢俊僧正、京都より馳せ下り、持明院殿より成されたる院宣をぞ奉られける。将軍尊氏、院宣を拝見し給ひて、「函蓋〔かんかい〕すでに相応して、心中の所願忽ちに叶へり。向後〔きょうこう〕の合戦に於ては、必ず勝つべし」とぞ、喜び給ひける。去んぬる卯月六日、法皇は、持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申しける。かの崩御以前に申し下しし院宣なり。
-------

ということで、尊氏が三草山で「薬師丸」に命じた三ヶ月後にやっと、日野資明の弟である「三宝院の賢俊僧正」が厳島に来て「持明院殿より成されたる院宣」を尊氏に渡したのだそうですが、その間の三月六日に院宣を発した後伏見院が崩御とのことで、ずいぶんのんびりした、ある意味、間の抜けた展開になっています。
なお、史実では後伏見院崩御は四月六日です。

後伏見天皇(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%8C%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%A4%A9%E7%9A%87-65906
 

岩佐美代子氏『風雅和歌集全注釈』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月19日(月)09時54分59秒
編集済
  「今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな」が『源氏物語』を踏まえ、尊氏が自身を光源氏に模した一種の演劇的精神に基づく歌であろうことは私には自明なのですが、石川氏のみならず、岩佐美代子氏もその点を指摘されてはいないですね。
「風雅和歌集 巻第九 旅歌」所収のこの歌は、岩佐氏の大著『風雅和歌集全注釈』上中下全三巻では中巻(風間書房、2003)に出ています。(p24以下)

-------
      世の中さはがしく侍りけるころ、みくさの山をとおりておほくら谷といふ
      ところにて
                       前大納言尊氏
933  いまむかふかたはあかしの浦ながらまだはれやらぬわがおもひかな

【詞書】 世間が騒乱の中にありました頃、三草山を通って、大蔵谷という所で詠みました歌。
【通釈】 今、これから向う方角の海岸は、「明石の浦」という名だが、まだその名のように明るく晴れ晴れするというわけにはいかない、私の心中の思いだなあ。
【語釈】 〇世の中さはがしく……─延元元(建武三)年(一三三六)正月、鎌倉から京に進攻し、一旦後醍醐天皇方を破った尊氏が、北畠顕家らに追い落とされた動乱。〇みくさの山……─二月二日尊氏京を落ち、兵庫に逃れる。三草山は兵庫県加東郡多可郡の境界をなす高原地、大蔵谷は明石市。〇かた─「方」と表記する本も多いが、「浦」と対応するものとして「潟」をかけたと解してみた。如何。〇あかしのうら─播磨の歌枕、明石浦。兵庫県明石市の瀬戸内海沿岸。「明かし」をかけ、「晴れやらぬ」と対比する。
【校異】 〇みくさの山─「の」欠(章・流)
【補説】 太平記によれば尊氏は侍童薬師丸(熊野別当道有)を三草山から京に遣わして、光厳院の院宣を請うた。二月十日打出浜合戦、十一日豊島河原合戦に敗れ、十二日海路九州に落ちるが、その途次、光厳院の院宣を得、四月東上して京を恢復、八月十五日光明天皇を践祚せしめた。すなわち「三草山」は尊氏にとっても光厳院にとっても記念すべき地名、しかし本詠詠出の時期には前途暗澹として、まさに「まだ晴れやらぬ」心境であったであろう。
-------

加東市観光協会サイトによれば、

-------
三草山は標高423.9m、1184年源義経が平資盛を夜半に襲撃した“三草山合戦”で有名な山。現在は、畑・三草・鹿野と3ヶ所の登山道がつき、山頂には京都北野天満宮から勧請した三草山神社があります。山頂からは。明石海峡大橋や淡路島が一望できます。

https://www.kato-kanko.jp/2017/03/mikusayama/

とのことですが、その位置は現在の明石市中心部のほぼ真北、直線距離で30㎞以上離れた場所ですね。
海岸線を移動しているならともかく、明石の遥か北方の山の中から南方を望んでいる訳ですから、「「浦」と対応するものとして「潟」をかけたと解してみた。如何」と問われれば、その解釈はかなり不自然で、まあ駄目でしょう、と答えることになろうかと思います。
ま、そんな細かいことはともかくとして、石川氏の表現を借りれば、岩佐氏は尊氏が「さぞや沈痛の思いであったろうと推測」するだけで、「この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がする」とは思わず、「内容はさておき、詠みぶりにどこか飄々としたものを感じてしまう」こともなく、「絶望的状況の中で詠まれたこの和歌の飄逸ぶり」を感じることもなく、佐藤進一流の「精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように思われる」こともなさそうですね。
石川氏は「こうした傾向が彼の和歌乃至和歌活動に多く看取されるとは言い難いが、尊氏にとっての和歌というものの意味を考える際に稿者には気になってならない」とされますが、私が共感する石川氏のこの心境は、岩佐氏にはまったく無縁のようです。
うーむ。
私にとって岩佐氏は、多くの国文学者の中で井上宗雄氏と並んで本当に畏敬すべき特別な存在なのですが、この歌の解釈に限っては、あまり賛同できる部分がありません。

-------
『笠間注釈叢刊 風雅和歌集全注釈』

最善本である京都女子大学図書館所蔵、谷山文庫「風雅和歌集」を底本として、通釈・語釈・参考・校異・出典・補説・作者で編成。著者の60年にわたる京極派研究が結実。上巻は真名序・仮名序から巻八まで。
http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305300348/
 

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その11)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月18日(日)11時27分3秒
編集済
  昨年九月に『太平記』に取り組み始めて以降、三百近い投稿をしたので、自分でも「あれはどこに書いたっけ」といった状態だったのですが、全十七回の中間整理を終えて、いろいろすっきりしました。
さて、中間整理の直前、3月31日の投稿は次のものです。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10643

ここでは『太平記』と『梅松論』に依拠する多くの歴史研究者の尊氏像と、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏詠二首から窺える尊氏像が食い違うことを指摘しました。
そして、もう一つ、この時期の尊氏の精神状態を伺わせる極めて興味深い歌があることに触れました。
それは『風雅和歌集』九三三ですが、石川泰水氏の「歌人足利尊氏粗描」からこの歌に関係する箇所を見て行きたいと思います。
石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その10)で紹介した、

-------
 だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10637

に続く部分です。(p16)

-------
      世の中さわがしく侍りけるころ、三草の山をとほりて大蔵
      谷といふ所にて
                       前大納言尊氏
  今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな
                        (風雅九三三)

 「大蔵谷」は明石の北東の地。二月十・十一日の西宮打出浜や豊島河原での戦に敗れ、大蔵谷から明石の浦に向かう、敗走の道中での詠という事になる。「明石」に「明し」を響かせるのは常套的手法。「明し」を連想させる「明石」に向かいながらも、「明し」とは程遠い暗澹たる気分だ、とその時の心境を詠んだ歌だが、詞書に大蔵谷の地名が明記されている事から察するに、大蔵谷の「くら」の音が「暗し」に通じる事に発想を得たものではなかったかと想像したい。
 官軍に敗れ敗走する朝敵の将、それがこの時の尊氏の立場である。『太平記』が伝えるようにこれ以前に持明院統の錦の御旗を得るための使いを出立させていたとしても、まだ思惑通りに事態が進む確証もない。九州まで西下しても、今の己の立場ではどれだけの軍勢を召集できるか不安もあっただろう。さぞや沈痛の思いであったろうと推測されるのだが、この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がするのは稿者だけであろうか。内容はさておき、詠みぶりにどこか飄々としたものを感じてしまう。尊氏はカリスマ性を備え武士達の信望を集めた人物であったのだろうが、他方、鎌倉で天皇からの追討令を受けたショックで隠棲しようとする気弱さ、繊細さも持ち合わせていたらしい。その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが、しかし絶望的状況の中で詠まれたこの和歌の飄逸ぶりに、そうした精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように思われる。こうした傾向が彼の和歌乃至和歌活動に多く看取されるとは言い難いが、尊氏にとっての和歌というものの意味を考える際に稿者には気になってならないのである。
-------

「その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが」に付された注(8)には、

-------
佐藤進一氏『日本の歴史九 南北朝の動乱』(中央公論社、昭和四〇)が尊氏の性格の多様性をそう指摘し、例えば近年の峰岸純夫氏『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、平成二一・六)もそれに従っている。
-------

とあります。
さて、「この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がするのは稿者だけ」ではなく、私もそう思いますし、私も「内容はさておき、詠みぶりにどこか飄々としたものを感じてしま」います。
石川氏の言われる「絶望的状況の中で詠まれたこの和歌の飄逸ぶり」は、言い換えると、必死に敗走する尊氏をどこかの高いところから眺めているもう一人の尊氏がいて、「なかなか大変だね」と他人事のように笑っているような感じでしょうか。
また、石川氏は指摘されていませんが、明石という地名からは『源氏物語』も連想されて、尊氏は自身を明石に向かう光源氏に模して楽しんでいるような感じも受けます。

須磨 (源氏物語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E7%A3%A8_(%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)
明石 (源氏物語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3_(%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E)
 

四月初めの中間整理(その17)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月17日(土)11時28分16秒
編集済
  元弘三年(1333)十二月、後伏見院皇女珣子内親王が中宮となり、立后の屏風に歌人が詠を進めるという雅な行事が行われましたが、これが尊氏の「都の歌壇へのデビュー」です。
このデビュー作が掲載された『新千載集』は尊氏の執奏により撰集が進められた勅撰集で、その完成は尊氏没の翌延文四年(1359)ですから、珣子内親王立后の実に二十六年後です。
『新千載集』は従来の勅撰集とはかなり異質な存在ですが、ぞの特徴をひと言でいえば、『新千載集』は尊氏が歌の世界に造った天龍寺のようなものですね。
そして『新千載集』では尊氏詠が「後醍醐院御製」の直後に排列されています。

(その4)(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10631
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10632

珣子内親王立后の屏風和歌はなかなか興味深いので、ここで石川論文を離れて、少し丁寧に検討してみました。
尊氏詠が「後醍醐院御製」と同じ場面に置かれたことは、後醍醐の尊氏に対する破格の優遇を可視化しているものと考えてよさそうです。

(その6)(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10633
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10634

石川論文に戻って、尊氏と二条派、特にその総帥である為世との交流を確認しました。

(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10635

そして、中先代の乱の直後に行われたと思われる「建武二年内裏千首」の検討に入りました。
この「建武二年内裏千首」は後醍醐と尊氏の関係を考える上で極めて興味深い素材で、従来の歴史学の通説的枠組みと国文学の歌壇史研究がどうにも整合的でないように思えてきます。
歴史的背景に関する石川氏の叙述は概ね佐藤進一説に拠っていますが、多少の誤解もありますね。

(その9)(その10)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10636
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10637

ここで石川論文を離れて、「建武二年内裏千首」が行なわれた時期と尊氏の動向の関係を探るために、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』を見ることにしました。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その10)~(その12)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10638
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10639
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10640

井上氏は「建武二年内裏千首」の題が尊氏に与えられた時期について「十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか」とされていますが、中院具光の勅使云々は『太平記』には出てこない話です。
『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣」が登場しますが、その派遣時期は不明です。
ちょっと不思議に思って『大日本史料 第六編之二』を見たら、関係記事が十月十五日にありましたが、これは考証と記述の仕方に相当問題がある雑な記事でした。
私は中院具光の発遣は九月初めだろうと考えます。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10641
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10642

さて、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏詠二首を見ると、この時点での尊氏の精神状態が極めて安定した、清澄とでもいうべき心境にあったことを窺うことができます。
しかし、これでは多くの歴史研究者の認識とのズレが大きくなります。
『太平記』や『梅松論』に描かれた中先代の乱後の尊氏の対応は極めて理解しにくく、多くの歴史研究者は尊氏を支離滅裂、頭のおかしい人とまで評価してきましたが、かかる評価は「建武二年内裏千首」の尊氏詠を素直に眺めた場合の尊氏像と食い違いが生じます。
この食い違いを確認したことが先月までの到達点です。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10643
 

四月初めの中間整理(その16)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月17日(土)10時43分9秒
編集済
  ここまで準備して、やっと歌人としての足利尊氏の検討に入りました。
一般的に入手可能な文献の中で、私にとってもっとも参考になったのは石川泰水氏(故人、元群馬県立女子大学教授)の「歌人足利尊氏粗描」(『群馬県立女子大学紀要』32号、2011)という論文ですが、石川論文を検討する前に、予備的知識の確認を兼ねて小川剛生氏の見解(『武士はなぜ歌を詠むか』、角川叢書、2008)を少し見ておきました。

「かれの生涯は悪のパワーがいかにも不足している」(by 小川剛生氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10626
「このような謙遜は、いっぱしの歌人にこそ許されるであろうから」(by 小川剛生氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10627

小川著の関東歌壇関係の記述は省略して、石川論文の検討に入りました。
とにかく尊氏の場合、歌人としてあまりに早熟であることがその一番の特徴ですね。
普通の武家歌人の場合、歌は清水克行氏の言われるところの「心の慰め」程度の存在ですが、尊氏は明らかに異質です。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10628

石川氏は「この時代、既に東国にも和歌に代表される都の文化が十分に浸透していた事は言うを俟たないが、それにしても十代半ばにして都の勅撰集撰者のもとに詠草を送る早熟さには驚きを禁じ難い」とされています。
尊氏が「十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まら」ず、「十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた」「そういう野心を東国の地で育んでいた」ことは重要ですね。
もちろん、この「野心」を政治的野心に直結させることはできませんが、尊氏の視野が若年から極めて広かったことは注目してよいと考えます。
上杉家からは京都の最新情報が頻繁に寄せられたでしょうし、赤橋登子の姉妹、正親町公蔭の正室・赤橋種子からも京都情報が到来したはずです。
また、登子の兄・鎮西探題の赤橋英時と「平守時朝臣女」からは九州、そして海外情報ももたらされたはずですね。
尊氏のみならず、登子も視野の広い、極めて知的な女性だったと私は想像します。

(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10629

『臨永集』の尊氏の三首は紹介済みですが、『松花集』の尊氏詠二首も紹介しておきました。
『松花集』は、『新編国歌大観 第6巻 私撰集編 2』(角川書店、1988)の福田秀一・今西祐一郎氏の解題によれば、「撰者は未詳だが、おそらく浄弁(当時九州在住か)が関与しているであろう。作者の官位表記から、元徳三年(一三三一)夏秋頃、臨永和歌集と同時期の成立と推定されている」という歌集です。
しかし、全く同時期に浄弁が『臨永集』と『松花集』という「鎮西探題歌壇」を中心とする私撰集を二つ編むというのも少し変な話で、別人の方が自然です。
『松花集』では「同じ心を」という詞書のある歌がなかなか興味深く、私は『松花集』は赤橋英時が編者の可能性も大きいのではなかろうかと思っています。

(その3)
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四月初めの中間整理(その15)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月17日(土)09時51分34秒
編集済
  「平守時朝臣女」は実際には赤橋久時娘・守時養女であり、赤橋登子とは姉妹の関係にあるのではなかろうかという関心から、「鎮西探題歌壇」に戻って、『臨永集』に掲載された「平英時」(赤橋英時)・「平貞宗」(大友貞宗)・「藤原貞経」(少弐貞経)・「源高氏」(足利尊氏)、そして「平守時朝臣女」の歌を実際に確認してみました。
「平守時朝臣女」の歌は平明な二条派風で、しかもあまり若々しい雰囲気ではなく、やはりこの女性は赤橋英時・赤橋登子の姉妹ではないか、という感じがします。
ただ、種子の歌は残っていないようなので、両者の歌風を比較することはできず、結局、「赤橋三姉妹」なのか、それとも種子=「平守時朝臣女」なのかは今後の課題です。

軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10617
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10618

ついでに『太平記』に描かれた鎮西探題崩壊の過程も少し見ておきました。
元弘三年(1333)三月には少弐貞経・大友貞宗に裏切られた菊池武時が鎮西探題側に誅殺されますが、死に臨んだ菊池武時が「古里に今夜ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん」という歌を詠んだエピソードは「袖ヶ浦の別れ」として古来『太平記』でも屈指の名場面とされてきました。
ただ、菊池武時は歌人ではなかったようで『臨永集』にも登場しておらず、この歌は『太平記』の創作のようですね。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)(その2)
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https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10620

結局、鎮西探題崩壊の過程で『太平記』に魅力的な武人として描かれているのは菊池武時・武重父子だけで、大友貞宗と少弐貞経・頼尚父子は散々です。
ここだけ読むと、『難太平記』の「この記の作者は宮方深重の者にて」という表現もけっこう説得力があるように思えます。

(その3)
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さて、ここで尊氏周辺のそれぞれに個性的な「新しい女」たちをまとめておきました。
このような「新しい女」たちが尊氏周辺に集中しているように見えるのは果たして偶然なのか。
私はそれは決して偶然ではなく、尊氏そして直義は単なる血統エリートではなく、安達・金沢・赤橋・上杉という鎌倉の「特権的支配層」の中でも最も知的なグループが集中した地点に生まれた知的エリートであって、恵まれた教育環境の中で新しい時代を切り拓く準備を十分に重ねた上で歴史の表舞台に登場した存在だと考えます。

尊氏周辺の「新しい女」たち(その1)
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そして尊氏周辺の「新しい女」たちを検討することで、私の想定する尊氏像が清水克行氏の描く「八方美人で投げ出し屋」とは全く異なることも、より明確になりました。
清水氏が描いた「薄明のなかの青春」は大半が単なる妄想であろうと私は考えています。

「薄明のなかの青春」との比較
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四月初めの中間整理(その14)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月15日(木)09時54分49秒
編集済
  尊氏周辺の女性シリーズ、釈迦堂殿とその母・無着、赤橋登子に続いて、登子の姉妹の赤橋種子を見て行きました。
といっても種子の事績は全然分からないのですが、その夫の正親町公蔭という人物は極めて興味深い存在です。
公蔭は京極派の歌人として国文学方面ではそれなりに有名ですが、歴史学では、家永遵嗣氏の最近の論文「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」(桃崎有一郎・山田邦和編『室町政権の首都構想と京都』所収、文理閣、2016)で初めて注目されるようになった人物と思われます。
家永氏は北朝崇光天皇の皇太弟・直仁親王との関係で公蔭に着目されたので、倒幕前の公蔭については特に検討されていませんが、私にとって興味深いのはむしろ鎌倉最末期に公蔭が置かれていた状況です。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)
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公蔭の経歴で何といっても特徴的なのは「歌人京極為兼の養子となり、忠兼と名乗った」点です。
家格からいえば正親町家(洞院家)の方が京極家より遥かに高いのですが、忠兼は何故か京極為兼の養子(または猶子)となります。
そして正和四年(1315)、忠兼が十九歳のときに遭遇した京極為兼の失脚、ついで二度目の流罪という大事件により、それまで順調だった忠兼の人生も暗転し、以後十五年間、その官歴に長い空白期間が生まれます。
そして、「種子の産んだ忠季は元亨二年(一三二二)の誕生」なので、この空白期間に忠兼は赤橋種子と出会い、結婚したと思われます。
北条一門の中でも得宗家につぐ超名門、赤橋家のお嬢様である種子からすれば、流罪となった京極為兼の猶子で、公家社会における出世の見込みが全く閉ざされていた忠兼と結婚することに何のメリットがあったかというと、全くなかったと思います。
赤橋種子にとって全然メリットがなく、親や親族からは大反対されたであろうこの結婚に種子が踏み切った理由を考えると、もしかしてこの結婚は、当時の日本では稀な「恋愛結婚」なのではなかろうか、というのが私の想像です。

(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10609

公蔭の経歴は井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)に的確に纏められているので、参照しました。

(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10610

私も別に京極為兼の反幕府的思想が正親町公蔭、赤橋種子を通じて赤橋登子に、そして尊氏に影響を与えた、などと主張したい訳ではなくて、あくまで赤橋登子という(私の仮説が正しければ)日本史上稀有な「鉄の女」を生みだした知的環境を探っているだけです。

(その4)(その5)
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https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10613

『公卿補任』によると、正親町公蔭(忠兼)は正和四年八月蔵人頭となったものの、「十二月廿八日東使為兼卿を召し取りの時同車、但即ち赦免と云々、同五正十一頭を止む(宣下)。其の後辺土に籠居す」とのことです。
この「辺土」で公蔭と種子が婚姻生活を営んだと思われますが、具体的にどこかは分かりません。
ただ、やはり京都近郊ではなかろうかと思います。

(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10614

さて、「北条系図」(『続群書類従』系図部三十五)には赤橋久時に三人の女子がいたと書かれており、登子と種子は実在が明確ですが、もう一人の女子は系図自体に奇妙な点があります。
そして、「鎮西探題歌壇」で活躍した「平守時朝臣女」との関係も問題となってきます。
仮に「赤橋三姉妹」が実在したとすると、登子・種子以外の女子が守時の養女となり、「平英時にともなひて西国に」一時的に居住して、「平守時朝臣女」として鎮西探題歌壇の二つの歌集である『臨永集』と『松花集』、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性はあります。
また、仮に久時の女子が登子・種子の二人だけだとすると、種子が「平守時朝臣女」として二つの私家集、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性も一応は考えられます。

勅撰歌人「平守時朝臣女」について
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勅撰歌人「平守時朝臣女」について(補遺)
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四月初めの中間整理(その13)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月15日(木)08時35分46秒
編集済
  鎌倉を脱出した後、千寿王(義詮)は新田義貞の軍勢に合流しています。
千寿王配下の人数は僅少で軍事的には殆ど意味がなかったでしょうが、尊氏の指揮で義貞が動いていたことを示す象徴的な効果があり、鎌倉攻めでは戦功抜群の義貞も後に鎌倉から京に拠点を移さざるをえなくなります。
この間、赤橋登子の動向ははっきりしませんが、僅か四歳の千寿王をめぐるこのような手際の良い采配が登子を蚊帳の外として行われたとは考えにくく、むしろ登子が積極的に主導したと考える方が自然だと思われます。

謎の女・赤橋登子(その4)
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実家の一族が皆殺しになった場合、中世の女性の生き方としては、おそらく出家して一族の菩提を弔うのが常識的ではないかと思いますが、登子は出家はしませんでした。
また、「親兄弟の仇の筋」である夫と離縁することがなかったばかりか、義詮を産んだ十年後の暦応三年(1340)には基氏を産み、もう一人、女子(鶴王)も産んだようで、尊氏とは終生仲良く暮らしたようです。
現代人の感覚では、自分の親兄弟を皆殺しにした夫と一緒に普通に生活し、普通に子供を産んだりするのは相当に気持ちが悪い、というか、サイコパス的な不気味さを感じますが、登子はなぜにこうした生き方を選んだのか。
登子は今まで歴史研究者に殆ど注目されていなかった存在で、国会図書館サイトで「赤橋登子」を検索すると論文は僅かに一つ、谷口研語氏の「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)のみです。
谷口論文を読んでみた結果、率直に言って、私には谷口氏の見解に賛同できる部分は全然なかったのですが、従来、登子がどのように見られていたのかを確認するため、谷口論文を少し検討してみました。

(その5)~(その7)
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https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10603
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10604

谷口氏の赤橋登子論は『太平記』だけを素材とするもので、ホップ・ステップ・ジャンプと軽やかに論理が飛躍する谷口氏の見解は、結局のところ『太平記』の読書感想文ではあっても歴史学の「論文」とは言い難いものですね。
ただ、『太平記』が全く参考にならないかというとそんなことはなくて、類似の状況におかれた女性に関する『太平記』の記事と比較して、登子がいかなる女性だったかを考えることはそれなりに有効な手法と思われます。
登子の場合、その立場が一番似ているのは正中の変(1324)に巻き込まれた土岐頼員の妻ですね。

(その8)
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ちなみに『太平記』には自刃直前の赤橋守時が中国の古典を引用して縷々感懐を述べる場面がありますが、実際に戦闘の渦中に置かれた守時がのんびりと中国古典を引用したりするはずがないので、ここは『太平記』作者の創作です。
ところが谷口氏は、この守時エピソードに基づき、「たとえ、鎌倉が陥落せず、北条得宗の専制体制が安泰であったとしても、尊氏の寝返りがわかった時点で、守時はおそらく登子をみずからの手で殺したにちがいない。いや、みずからの手で殺さざるをえなかったであろう。兄守時もまた、他に選択する道はなかったはずである」と想像を重ねます。
谷口説は学問的には何の価値もありませんが、『太平記』はここまで歴史研究者を惑わせるのか、という事例の一つとしては興味深いですね。

(その9)
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また、谷口氏は『太平記』の「継母の讒」エピソードに基づき、登子が直冬に冷酷だったとされるのですが、これも亀田俊和氏の直近の研究に照らすと、「継母の讒」自体が『太平記』の創作と考える方がよいのではないかと思われます。
ただ、登子に対する歴史研究者の関心が極めて低かった理由のひとつとして、この「継母の讒」エピソードの影響はかなり大きかったようにも思われます。

(その10)
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四月初めの中間整理(その12)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月14日(水)09時31分9秒
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  清水克行氏の描く尊氏は「病める貴公子」、即ち精神的に複雑に屈折した血統エリートですが、私は尊氏を恵まれた環境でのびのびと育った教育エリートと考えています。
この点を説得的に論証したいと思って、尊氏の周辺、特に女性たちに注目してみたところ、当初の予想より遥かに充実した知見を得ることができました。
まず最初に調べたのは尊氏の異母兄・高時の母方です。
私は以前、足利貞氏の正室・釈迦堂殿と側室・上杉清子が、高義遺児と尊氏のいずれを足利家当主とするかをめぐって厳しく対立していたと考えていたのですが、この点も根本的な誤りだったかもしれないな、と思うようになりました。
高義の母・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれていますが、生年も不明で、金沢貞顕の異母姉かそれとも妹かも分かりません。
ただ、母親の安達泰盛娘は法名を無着といい、無学祖元の弟子であって、京都で資寿院という寺を創建するなどして禅宗の発展に貢献した女性です。
私は無着を視野が広く、行動力に富んだ極めて知的な女性と考えています。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10592
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10593

無着の履歴は無外如大という、やはり無学祖元の弟子の女性と混同されてしまっていて、非常に分かりにくいところがあるのですが、私は二十年ほど前に山家浩樹氏の論文に即して無外如大についてあれこれ考えてみたことがあります。
今回、釈迦堂殿の母である無着を中心に据えて再考してみたところ、無着は上杉清子や赤橋登子などの尊氏周辺の女性の生き方を考える上で本当に参考になる女性ですね。

(その3)(その4)
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https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10595

釈迦堂殿の母・無着の人生はある程度追えますが、釈迦堂殿の方は少し難しいですね。
経歴はともかく、その思想を窺う史料は全くありませんが、安達泰盛に関する知識や安達泰盛の理念が、娘の無着や孫の釈迦堂殿によって多少理想化されていたかもしれない形で尊氏や直義に伝わった可能性もあるのではないか、と私は想像しています。

(その5)
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さて、次に尊氏の正室・赤橋登子について考えてみましたが、これはなかなか長大なシリーズになってしまいました。
まずは清水氏の見解を確認しましたが、清水氏は「尊氏を叛逆に走らせた決定的な要因は、やはり彼自身が北条氏の血をひかない、北条氏と距離のある人物であることにあったのではないだろうか」という立場です。
そして清水氏が描く尊氏像は一貫して「主体性のない男」であり、「主体性のない男」尊氏の「背中を押」して「叛逆に踏み切」らせたのは「上杉氏を中心として、家中で北条氏に特別な恩義を感じることなく、北条氏の風下に立つことを潔しとしないグループ」です。

謎の女・赤橋登子(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10597
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10598

清水氏は妻子を人質に取られた以上「幕府に叛逆するということは、彼女らを見殺しにするということを意味していた」と言われますが、人質といっても別に拘禁されている訳ではなく、足利邸に普通に住んでいただけですから、適当な時期に鎌倉を脱出すればよいだけの話で、実際に登子と義詮はそうしています。
清水氏は「母の実家をとるか、妻の実家をとるか。現代人の感覚からすれば尊氏は身を切られるような重大な決断を迫られていた」と言われていますが、別にそんなことはないですね。
また、妻を保護することと「妻の実家をとる」ことは全く別の話で、実際に尊氏は登子は保護したものの、「妻の実家」の人々は皆殺しにしています。

(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10599
 

四月初めの中間整理(その11)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月13日(火)21時42分12秒
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  歌人としての尊氏を検討し始めて「鎮西探題歌壇」まで進みましたが、ここで清水克行氏が『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)で言及されていた『臥雲日件録抜尤』享徳四年(1455)正月十九日条に登場する「松岩寺冬三老僧」について検討しました。
私が歌人としての尊氏に拘る理由の一つは、清水著によって矮小化されてしまった尊氏像を修正することにあります。
清水氏が尊氏に関する新史料を発掘された功績は大変なものですが、それと清水氏が導き出した「お調子者でありながらもナイーブ」「八方美人で投げ出し屋」といった尊氏像が正しいかは別問題です。
私は清水氏の尊氏理解は基本的な部分で誤っていると思っていますが、清水氏の誤解の相当部分は『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」エピソードに由来すると思われます。
そこで、そもそもこのエピソードが信頼できるのか、「松岩寺冬三老僧」が誰で、尊氏とどのような関係にあるのかを検討する必要を感じたのですが、清水著には手掛かりはなく、暫く暗中模索状態が続きました。
しかし、いろいろ調べた結果、「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身「松厳寺」で、かつて「鹿苑院末寺」であり、その地は元々「四辻宮之離宮」であって、開基は四辻善成の子の「松蔭和尚」であることが分かりました。
四辻善成は足利義満の大叔父ですから、そのゆかりの寺に尊氏のエピソードが伝えられていることは不自然ではなく、『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」の記事は信頼してよさそうです。

「松岩寺冬三老僧」について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10578
「彼の子息で禅僧となった松蔭常宗は、嵯峨の善成邸に蓬春軒、のちの松厳寺(松岩寺)を開いた」(by 赤坂恒明氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10581

さて、この記事によれば「尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々」とのことで、尊氏は毎年、年頭の吉書で「天下政道、不可有私」と「生死根源、早可截断」と書いていたそうですが、後者は難解です。
ただ、私はこの表現に一種の自殺願望を見る清水氏の見解にはとうてい従うことはできません。
そこで、清水氏の描く「病める貴公子」としての尊氏像を批判的に検討してみました。

「八方美人で投げ出し屋」考(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10582
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10583
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10584

その過程で問題となったのが尊氏と赤橋登子の婚姻の時期で、清水氏は義詮誕生の元徳二年(1330)をあまり遡らない時期とするのですが、この点については細川重男氏の批判があり、私は細川説が妥当と考えます。

(その4)(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10585
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10586

ここで亀田俊和氏の「新説5 観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった」(『新説の日本史』所収、SB新書、2021)を読んで、直冬について考え直すきっかけを得ました。

「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10587

尊氏が庶子の直冬を嫌っていた訳ではないとすると、清水氏が描く尊氏の「薄明のなかの青春」も、ますます奇妙な物語になってきますね。

(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10588

「薄明のなかの青春」の一番の問題は、清水氏が近代的・現代的な家族観・結婚観・「青春」観で中世人を見ている点です。

(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10589

清水氏が「妾腹の二男坊」という表現を繰り返す点も、私は相当に問題だと思います。

「貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである」(by 永井晋氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10591
 

四月初めの中間整理(その10)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月13日(火)12時14分41秒
編集済
  森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)は、尊氏関係の古文書の分析では最新研究でしょうが、そこに描き出されているのが宣伝文句に言う「これまでになく新しいトータルな尊氏像」かというと、そんなことは全然なくて、むしろ佐藤進一氏が半世紀以上前に描いた古色蒼然たる尊氏像と瓜二つですね。
さて、佐藤氏の「公武水火」論を検討した後、井上宗雄著『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻るべきか、それとも奥州将軍府・鎌倉将軍府をめぐる佐藤氏の「逆手取り」論の検討に進むべきか、ちょっと迷ったのですが、歌人としての尊氏を検討することが、いささか遠回りではあっても『太平記』や『梅松論』などの二次史料によって歪められていない尊氏に近づく最適なルートだろうと考えて、前者の道を進むことにしました。
歴史学の方では歌人としての尊氏は全くといってよいほど研究されていなくて、例えば佐藤和彦門下の早稲田大学出身者が中心となって編まれた『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)は、二十五人もの分担執筆者がいながら、誰一人として歌人としての尊氏について論じていません。
佐藤和彦氏自身、尊氏に尋常ならざる興味を持っておられたようですが、歌人としての尊氏に特に関心を持たれた様子はなさそうで、これは佐藤氏の立脚する基本的な歴史観(いわゆる「階級闘争史観」ないし「民衆史観」)の限界を示しているように私には思われます。

全然すべてではない櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10570

ところで、この頃、清水克行氏『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)に出ていた『臥雲日件録抜尤』の享徳四年正月十九日条が気になって、少し調べていたので、

緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10571

という投稿をしてから、井上著に戻りました。
井上著については(その5)で「第二編 南北朝初期の歌壇」の「第五章 建武新政期の歌壇」の途中まで進んでいましたが、勅撰歌人を目指していた若き日の尊氏、そして尊氏の「北九州歌壇」での活動を確認するために該当箇所に戻りました。
尊氏は二条為冬という歌人と交流があったので、歌壇での為冬・為定の争いに関連して、この点も少し触れておきました。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10572

森茂暁氏は尊氏の勅撰集初入集歌に関して、頓珍漢なことを言われていますね。

(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10573

ついで「北九州歌壇」で生まれたと思われる『臨永集』について概観しました。
「和歌四天王」の一人、浄弁が編んだと思われる私撰集『臨永集』は作者に武家歌人が多いのが特徴で、尊氏も三首入集しています。
なお、私は尊氏が元弘三年(1333)になって初めて大友貞宗と接触したのではなく、「北九州歌壇」の中で、二人が既に交流していた可能性も充分あるのではないかと思っています。

(その8)(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10574
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10575

「北九州歌壇」は井上氏の用語ですが、中世九州での文芸活動に詳しい川添昭二氏もこの歌壇(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)について検討されているので、これも紹介しておきました。

川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10576
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10577
 

四月初めの中間整理(その9)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月13日(火)10時46分13秒
編集済
  従来、護良親王は後醍醐により征夷大将軍を「解任」、すなわち一方的にその地位を剥奪されたと考えられてきましたが、「解任」を裏付ける史料はなく、護良が元弘三年(1333)八月末ころに「将軍宮」といった称号を使わなくなったことが分かっているだけです。
そして、約一年の空白があって、建武元年(1334)十月に護良は逮捕・監禁されます。
「解任」後、直ちに護良が逮捕・監禁されてくれたら二人の関係は非常に分かりやすいのですが、この空白期間はいったい何なのか。
ちなみに白根靖大氏(中央大学教授)などは護良の逮捕・監禁が元弘三年十月のことだと誤解されていますね。

南北朝クラスター向けクイズ
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10558
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10560

白根氏の錯覚の元をたどると佐藤進一氏の「公武水火の世」論に至るのですが、佐藤氏は『太平記』とともに『梅松論』を妄信していて、『梅松論』の作者を「一人の歴史家」などと呼んでいます。
しかし、『太平記』と同様、『梅松論』もそれほど信頼できる書物ではないばかりか、『太平記』の作者が相当なレベルの知識人であるのに対し、『梅松論』の作者はせいぜいルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10562

佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになってしまいます。

佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10564
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10565
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10566

そして、この僅かな期間に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」といった法令も出されていて、この法令の性格を巡っては佐藤氏と黒田俊雄氏、小川信氏の間で古い論争があります。
私も「旧領回復令」について少し書いていますが、それは後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤説には何とも不自然な感じが漂うといった印象論に過ぎません。
このあたり、旧来の議論の評価は私には荷が重いのですが、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)の最後の方に、「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、少し紹介してみました。

美川圭氏『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10567
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10568

また、私は吉原弘道説が後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思っているのですが、ただ、九大系の大御所・森茂暁氏は未だに頑固な佐藤進一派ですね。
森氏によれば、建武新政発足の当初から後醍醐・護良・尊氏の三つ巴の緊張状態がずっと続いていて、護良が失脚しても「後醍醐にとっては依然として問題は解決され」ず、「中先代の乱を契機に」、「尊氏と後醍醐との政治路線の食い違い」が「表面化したことはまちがいない」のだそうです。
ただ、森氏のこのような認識は『梅松論』に大きく依存しています。
森氏が一次史料の取り扱いには極めて厳格なのに、『太平記』や『梅松論』のような二次史料に対しては極めて甘いことが私にはどうにも不思議なのですが、この点でも森氏は佐藤氏の正統的な後継者ですね。

「発給文書1500点から見えてくる新しい尊氏像」(by 角川書店)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10569
 

四月初めの中間整理(その8)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月12日(月)11時06分33秒
編集済
  既に「四月初め」ではなくなってしまいましたが、今さらタイトルを変更するのも面倒なので、このまま数回続けるつもりです。
歴史学と国文学を跨いであちこち手を広げて来たので、自分の頭を整理することが一番の目的ですが、リンクの都合も考えています。
今までも参照のために特定の投稿にリンクを張ることは頻繁に行ってきましたが、数が多い場合には手間ばかりかかって分かりにくいので、ひとまとまりの話題については今回の中間整理の投稿にリンクを張るようにしようと思っています。
さて、私はこの掲示板の主たる読者を歴史研究者と想定しているので、歌人としての尊氏を検討するに際して、国文学研究者には不要な基礎的事項も改めて確認しておきました。
その作業は主として井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)に依拠しています。
井上著を引用した最初の投稿が次のもので、タイトルを井上著のままにしておけばよかったのですが、妙に凝り過ぎてしまいました。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10546

ついで井上著に後醍醐による珣子内親王の立后への言及があったので、この点についての歴史学の最近の進展について少し触れておきました。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10547

この後、事実上の「その3」で恒良親王の立太子に触れて、事実上の「その4」からタイトルを変更しました。
そして「その5」に尊氏が登場します。

「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10548
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10549
(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10550

ここで井上著の紹介を中断して、護良親王について少し論じました。
私は細川重男氏が史料的根拠なく「むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう」と主張されているのかなと思ったのですが、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018)を見たところ、呉座氏も細川氏と同様の主張をされています。
そして、その根拠として、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたことを挙げられています。

「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10552

そこで、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたか否かについて、森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」という論文に即して、少し検討してみました。
森氏の研究によれば、護良親王は六波羅潰滅の直後、元弘三年(1333)五月十日付の令旨で「将軍宮」を称しています。
森氏は護良帰京をめぐる『太平記』の「二者択一パターン」エピソードに縛られているので、これが「自称」だとされるのですが、『太平記』を全く無視して、森氏が綺麗に整理された護良親王令旨の一覧表をごく素直に眺めれば、護良は「父帝の暗黙の了解」ではなく、正式の了解を得て征夷大将軍に任官したと考える方が自然ではないか、と思われます。
幕府が相当危なくなっているぞ、と多くの人が不安に思っている時期に、後醍醐が守邦親王から征夷大将軍の地位を奪って護良親王に与えたとなると、鎌倉幕府はもはや支配の正統性を失った存在なのだ、というけっこう強力な政治的・軍事的なアピールになって、親幕府側の武士に一層の心理的圧力を加えることが可能になります。
私は護良親王が僅か数か月間で征夷大将軍を解任された後も後醍醐との関係が決裂しなかった理由について、二人にとって征夷大将軍など名誉職的な地位であったからと思っていましたが、しかし、より正確には、征夷大将軍は討幕活動の最中には極めて重要な政治的・軍事的な意味を持ったものの、天下「静謐」が達成された結果、その重要性が低下し、護良が後醍醐と合意のうえで征夷大将軍を辞職したのではないかと再考しました。

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)~(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10553
【中略】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10557
 

四月初めの中間整理(その7)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月11日(日)13時57分12秒
編集済
  尊氏が鴆毒で直義を毒殺したという『太平記』のエピソード、田中義成・高柳光寿・佐藤進一・佐藤和彦・伊藤喜良・村井章介等の錚々たる歴史学者が信じ込んでいるのですが、中でも興味深いのは永原慶二氏の見解です。
歴史学研究会の重鎮で、容姿端麗、文章も極めて明晰な永原氏の『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)を読んでみたところ、いくら一般書とはいえ、ずいぶん安っぽい活劇風の文章が続き、永原氏の別の顔を見た感じがしました。

永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10533
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10535
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10536

南北朝時代を現実に生きた「民衆」に比べると、永原氏を代表とする現代の生真面目な実証主義の歴史研究者たち、特に「科学運動」や「民衆史研究」が大好きな左翼インテリの歴史研究者たちは、『太平記』の作者にとって、どんな作り話にも感動してくれる理想的な読者・聴衆であり、良いカモだったカモしれない、と私は思います。

(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10537

さて、私は『太平記』の征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードをいずれも創作と考えますが、では、『太平記』が、建武の新政の入口と出口という重要なポイントに、こうした創作エピソードを置いた目的は何か。
私はそれを、建武の新政において後醍醐と尊氏は最初から最後まで対立していた、「公家一統」などというのは出発点から極めて無理の多い体制であって、所詮は短期間で崩壊する運命だったのだ、という歴史観を広めるためだったと考えます。
永原氏は、このような「『太平記』史観」のプロパガンダを最も素直に受け入れた研究者の一人と思われますが、では、このようなプロパガンダにより、どのような歴史の実像が消されてしまったのか。
私が考える建武新政期の実像は永原氏と正反対で、後醍醐と尊氏は最初から全く対立しておらず、後醍醐の独裁どころか実際には後醍醐と尊氏の共同統治といってもよい公武協調体制だった、しかし尊氏は権勢を誇らず、極めて控えめな立場で後醍醐の理想の実現に実務的に尽力していた、というものです。
「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた」のは、むしろ足利家内部の尊氏派(公武協調派)と直義派(武家独立派)の対立であって、中先代の乱をきっかけに尊氏派が直義派の説得に負けて、足利家が武家独立派で一本化された、と私は考えます。

(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10539

このように考えると、天龍寺の建立なども従来の諸学説より合理的な説明ができるのではないかと思います。

「尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している」(by 亀田俊和氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10540

そして、私は後醍醐と尊氏の人間関係の核心は和歌の世界に鮮明に現れていると考えているのですが、歌人としての尊氏を検討する前に、後醍醐と尊氏の関係について、呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)に基づき、近時の学説の状況を確認しておきました。

「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10541
「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10542

呉座氏は「戦前以来の公武対立史観と戦後歴史学の基調である階級闘争史観が結びついて、復古的な公家と進歩的な武家が対立する図式が強調され、「建武政権・南朝は、武士の世という現実を理解せず、武士を冷遇したから滅びた」という評価が浸透した」とされますが、この戦後歴史学のいわば「保守本流」ともいうべきの歴史観は、実は『太平記』の歴史観と瓜二つ、全く同じですね。
従って、戦後歴史学は『太平記』と極めて親和的です。
他方、最近の学説は、これも呉座氏が強調されるように「足利尊氏は建武政権内で厚遇され、後醍醐天皇とも良好な関係を築いており、主体的に武家政権の樹立を志向していたとは考えられない」という認識で概ね一致しているようですが、護良親王の位置づけについてはどうなのか。
私の見るところ、後醍醐と護良との関係については、呉座氏や細川重男氏を含む殆どの研究者が「『太平記』史観」の影響から脱しておらず、脱出の可能性も見えていないように思われます。

「「建武政権・南朝は異常な政権」という思い込みから自由になるべき」(by 呉座勇一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10543
「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10544
 

四月初めの中間整理(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月10日(土)09時29分20秒
編集済
  従来、存在そのものが「通説」であった佐藤進一氏は、征夷大将軍が「諸国の武士の帰服をもとめるうえにもっとも有力な無形の権威」であって、尊氏が鎮守府将軍の「称号を与えられたのは、やはり高氏の要望の結果であり、あるいはかれが征夷大将軍を切望したのにたいして、後醍醐はむげにこれを拒むことができずに、一段低い権威の鎮守府将軍を与えたのかもしれない」とされていました。
この点、吉原氏は鎮守府将軍は「有名無実の官職」ではなく、「建武政権下でも鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあった」とされます。
私も基本的には吉原説に賛成ですが、ただ、吉原氏は鎌倉時代を通して鎮守府将軍も相当の権威が維持されていたことを前提とされているようです。
しかし、後醍醐は鎮守府将軍を「本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である」といった古色蒼然たる由緒から切り離して、新たな意味を与えたと考える方が自然ではないかと私は思います。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その13)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10518

さて、『太平記』では護良親王も征夷大将軍を強く望んだされていますが、とすると護良が任官から僅か数ヵ月で解任されたにもかかわらず、その時点では特に後醍醐に反抗しなかったらしいことが奇妙に思えてきます。
この点、私は元弘三年の時点で征夷大将軍は別のそれほどの重職とは関係者の誰一人思っておらず、後醍醐は単なる名誉職としてこれを護良に与え、その僅か二・三ヵ月後、後醍醐はそれなりの理由をつけて護良に退任を求め、護良も素直に了解したのではないか、と考えました。
ただ、従来、護良は正式に征夷大将軍に任じられる前に既に征夷大将軍を「自称」していたとされていたのですが、私は「自称」ではないのではないか、と考えるようになり、その場合、「名誉職」に止まらない可能性も想定されます。
この点は、少し後で改めて論じています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)~(その16)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10520
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10521
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10522

このように十六回に渡り2002年の吉原論文を検討しましたが、この論文は多くの歴史研究者が「建武政権における足利尊氏の立場」を見直す転機となったものの、吉原氏自身はその後、あまりこの関係の研究を深めることがなかったようですね。
私の場合、成良親王の征夷大将軍任官時期について従来の定説に疑問を抱いたことが「建武政権における足利尊氏の立場」に関わるきっかけでしたが、成良親王は『太平記』に記されたその死の状況、すなわち同母兄弟の恒良とともに足利尊氏・直義によって鴆毒により毒殺されたというエピソードでも興味深い存在です。
そして、このエピソードは、同じく『太平記』に記された尊氏による直義の鴆毒による毒殺というエピソードを連想させます。

帰京後の成良親王
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10523
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10524
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10525
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10526

私は成良・恒良親王が尊氏・直義に毒殺されたという『太平記』のエピソードを創作と考えますが、そうすると尊氏が直義を毒殺したというエピソードも創作ではなかろうかという疑いが生じてきます。
実はこの点、中世史学界の重鎮と呼ぶべき複数の碩学から清水克行氏のような中堅・若手まで、極めて多くの歴史研究者が『太平記』の直義毒殺エピソードを史実と考えていて、ちょっと嘆かわしい状況です。

「直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解もある」(by 清水克行氏) .
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10527
峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10528
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10529
「歴史における兄弟の相克─プロローグ」(by 峰岸純夫氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10531
百科事典としての『太平記』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10532
 

四月初めの中間整理(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月 8日(木)09時01分48秒
編集済
  2002年の吉原論文の「はじめに」に置かれた「従来の研究では、建武政権の軍事・警察機構についてほとんど手付かずの状態であった。その中で、足利尊氏が鎮西軍事指揮権を公式に有していたとの網野善彦氏の指摘は注目に値する。さらに、網野氏は、通説化してきた政権内における尊氏の否定的な評価に対する見直しの必要性を提言された」という指摘は重要ですね。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10494

「尊氏の否定的な評価」というのは具体的には佐藤進一説ですが、亀田俊和氏らの佐藤説批判が進んだ今日から見ると、佐藤説は典型的な「『太平記』史観」ですね。
大きな虚構を含む『太平記』の枠組みを疑うことなく、あくまでその枠組みの中で厳密な史料批判に基づく分析を行って行くので、一見すると極めて緻密な論理のように見えながら、実際には奇妙に歪んだ議論となっています。
例えば佐藤氏は尊氏が着到状の受理を行なったことを尊氏との個人的な主従関係の設定のためと捉えるのですが、これは誤りで、あくまで後醍醐の委任を受け、後醍醐のために行っているからこそ多くの武士が尊氏の下に集まってくるのであって、尊氏は私兵を集めている訳ではありません。
このあたり、吉原氏は緻密な古文書分析に基づいて、丁寧に論証されています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その4)~(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10500
【中略】
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10503

ただ、私にも吉原説に対する若干の疑問はあります。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その8)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10504

そして、議論は「元弘の乱の戦後処理」に移ります。
後醍醐が帰洛した元弘三年(1333)六月五日に尊氏は「鎮守府将軍」に任じられますが、この地位がどのようなものかが問題となり、網野善彦氏の先駆的な論文「建武新政府における足利尊氏」も少し検討しました。
現在の私は「網野史観」にかなり批判的ですが、網野氏の古文書の博捜と緻密な分析はやはりすごいですね。
ただ、網野氏自身はこの短い論文の視点を特に発展させることはなかったようです。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10505
網野善彦氏「建武新政府における足利尊氏」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10506
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その10)~(その12)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10507
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10508
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10509
大晦日のご挨拶
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10510

そして、年が明けて最初の投稿で若干の整理と今後の予定、特に清水克行氏『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)の批判を行なうことを予告しました。

新年のご挨拶(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10512

「新年のご挨拶」はけっこう長くなってしまったのですが、これは『太平記』とはあまり関係なく、年末に読んだ佐藤雄基氏(立教大学准教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」という論文に触発されたものです。

新年のご挨拶(その2)~(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10513
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10514
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10515
新年のご挨拶(補遺)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10516
 

四月初めの中間整理(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月 7日(水)10時09分41秒
編集済
  征夷大将軍については2004年に国文学者の櫻井陽子氏が「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」(『明月記研究』9号)という論文を発表し、中世史研究者に衝撃を与えました。
私が何となく踏み込んでしまった「『太平記』史観」の世界にも櫻井氏の指摘を応用できそうな部分があって、それは二つの「二者択一パターンエピソード」です。
『太平記』には信貴山に立て籠もった護良親王が後醍醐に征夷大将軍任官と尊氏追罰の二つを要求し、後醍醐は尊氏追罰を拒否した一方、「征夷将軍の宣旨」を下して護良を宥め、護良も了解して帰洛するという話が出てきます。
また、中先代の乱に際し、関東へ下向する尊氏が後醍醐に征夷大将軍任官と「東八ヶ国の管領」の二つを要求し、後醍醐は征夷大将軍任官は拒否する一方、「東八ヶ国の管領」は許可するという話が出てきます。
この二つのエピソードでは、後醍醐へ二つの要求がなされ、後醍醐はひとつだけ勅許するというパターンが共通していますが、いずれのエピソードでも後醍醐・護良・尊氏の三人全員が征夷大将軍を非常に重い存在と認識していることを前提としています。
しかし、このような認識は足利家の「支配の正当性」を確立するために行われた宣伝戦略によって形成されたものではなかろうか、というのが私の基本的な仮説です。
そこで、この仮説を検証するために二つの「二者択一エピソード」を検討してみました。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10479

最初に検討したのは護良親王のエピソードで、護良が信貴山から帰洛した月日について従来の学説を整理し、『増鏡』に記された元弘三年(1333)六月十三日説が正しいだろうと考えました。

「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10480
護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10481
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10483
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10484
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10485

ここでちょっと話題を変えて、荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』(文学通信)に掲載された谷口雄太氏の「「太平記史観」をとらえる」という論文を少し検討してみました。
私は谷口氏と問題意識を共有しますが、谷口氏が提示された「「太平記史観」の超克へ向けた具体的な方法」には批判的です。

『古典の未来学』を読んでみた。(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10487
【中略】
『古典の未来学』を読んでみた。(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10492
論文に社交辞令は不要。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10493

そして征夷大将軍の問題に戻って、吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場」という論文を十二月下旬から年を越して一月上旬まで、全十六回に渡って検討してみました。
先ず、護良の帰洛が六月十三日だったとすると、この時期の護良・尊氏間の対立は『太平記』の創作となります。
そこで、建武新政期に尊氏と護良の関係がどのように変化したのかを吉原論文に即して検討してみました。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10494
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10495
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10496
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10497
「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10498
「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10499
  
 

四月初めの中間整理(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月 5日(月)10時24分28秒
編集済
  『大日本史料 第六編之二』は成良親王が征夷大将軍に任じられた時期について建武二年八月一日と断定していますが、少し調べてみたところ、『相顕抄』に基づくこの記述は信頼性に乏しいことが明らかでした。
この頃まで、私はあくまで国文学の範囲内で『太平記』について何か新しいことを言えればよいな、程度の気持ちでいたのですが、しかし、成良の征夷大将軍就任時期の問題は中先代の乱に際して尊氏が本当に征夷大将軍の地位を望んだのか、という新しい疑問のきっかけとなりました。
更に近時、呉座勇一氏や谷口雄太氏が論じておられるところの「『太平記』史観の克服」という課題にも関連してくることになったので、私の問題意識は国文学というより歴史学の方に集中することになりました。
とにかく従来の歴史学者にとって共通の盲点となっていたのが成良親王の征夷大将軍就任時期のように思われたので、私は改めてこの問題を相当しつこく検討してみました。
結果的に、この問題の解明に最も役立ったのは桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)という論文なのですが、私の結論は桃崎氏とは異なるものでした。

「(鎌倉将軍府は)制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身」(by 森茂暁氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10464
「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10465
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10466
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10467
「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10468
護良親王の征夷大将軍解任時期との関係
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10469
成良親王の征夷大将軍就任時期についての私の仮説
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10470

ここまで来て、南北朝史研究をリードする森茂暁氏と亀田俊和氏が共に注目されている直義下知状を検討する必要が生じ、古文書学には全くの素人で、『南北朝遺文 関東編』を手に取ったことすらなかった私が若干の古文書学的研究(?)をすることになりました。
その結果、私は建武元年二月五日が成良の征夷大将軍就任日の可能性が高いのではないか、という一応の結論を得ました。
これが正しいかはともかくとして、不動の定説であった建武二年八月一日説(田中義成説)は、実際にはかなり脆弱な基盤の上の推論であったことは明らかにできたのではないかと思います。

「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(by 亀田俊和氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10471
「大御厩事、被仰付状如件、 元弘四年二月五日 直義(花押)」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10472
人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10473

さて、以上の検討の結果は、意外にも桃崎説に近い部分もあったのですが、しかし、桃崎氏は征夷大将軍という存在を非常に重いものと捉えているのに対し、成良親王に関する近時の諸学説を概観した私は、建武政権期の征夷大将軍という存在は結構軽いものだったのではないかな、という印象を受けました。
建武政権期を生きた人々は征夷大将軍をけっこう軽く認識していたのに、むしろ後世の歴史学者が、それをけっこう重大なものと認識しているのではなかろうか、という疑いが生じてきた訳です。
そういう目でもう少し視野を広げてみると、例えば征夷大将軍を解任された後の護良親王の位置づけなども、ちょっと不思議に思えてきました。
そこで、護良親王の検討を始めました。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10474
【中略】
征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10478
 

四月初めの中間整理(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月 4日(日)13時54分34秒
編集済
  兵藤裕己氏は『難太平記』を極めて重視されていて、『難太平記』の記述から演繹的に『太平記』の成立過程等を論じられるのですが、私はその基本姿勢に疑問を感じています。
清水克行氏も兵藤説の影響を強く受けて、例えば『難太平記』に尊氏が「降参」したという表現があるので「現存する『太平記』では、穏当な内容に修正が施されているらしい」と推測されています。
そこで、本当に今川了俊が見た『太平記』には「降参」の二字があったのかを検討してみたところ、「降参」はあくまで了俊の解釈であって、『太平記』自体には存在しない表現だったろうと私は考えます。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10428
【中略】
『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その11)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10438

そして、『太平記』と比較するために『梅松論』についても若干の検討を行いました。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10439
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10440
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10443

更に少し視点を変えて、今川了俊にとって望ましかった『太平記』とはどのようなものかを検討してみました。

今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10444
【中略】
今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10452

そして、了俊が見た『太平記』は現存の古本系『太平記』とさほど変わらないものだったのではないか、即ち義満が独裁的な権力を振るい始める前に『太平記』は既に完成していて、以後は多少の改訂があった程度ではなかったかと考えました。

今川了俊が見た『太平記』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10453

こう考えても『難太平記』の記述と矛盾はしないであろうことを確認するため、今川家関係者が『太平記』の青野原合戦の場面でどのように描かれているかを検討し始めたところ、その過程で尊氏・直義兄弟に鴆毒で毒殺されたという成良親王が極めて奇妙な存在に思えてきたので、成良親王の周辺を少し調べてみました。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10454
【中略】
西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10459

そして成良親王が征夷大将軍に任じられた時期について、従来の定説(建武二年八月一日)が誤りではないかと思われたので、この点を更に詳しく調べてみました。

『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10461
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10462
成良親王についての一応の整理と次の課題
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10463
 

四月初めの中間整理(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 4月 2日(金)09時03分52秒
編集済
  去年の九月から鎌倉幕府滅亡の原因を論じ始めて、最初は呉座勇一氏の『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―』(新潮社、2014)を素材に少し検討していたのですが、自分の本来の関心である天皇制の権威低下や「宗教的空白」の問題とは直接にはつながらないような感じがして、いったん保留にしました。

「そう、これらの学説は「階級闘争史観」のバリエーションでしかない」(by 呉座勇一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10383
「ひとまず「鎌倉幕府の滅亡は必然だった」という暗黙の前提を取り払ってみてはどうだろうか」(by 呉座勇一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10384
呉座説も「結局、人々の専制支配への怒りが体制を崩壊させた式の議論」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10386
ちょっと仕切り直しします。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10388

そして、これらの問題は『太平記』に即して具体的にやった方がよさそうだという漠然とした見込みから『太平記』の土岐頼遠のエピソードなどを少し検討してみたところ、予想通りというか、歴史研究者による『太平記』研究があまりにストイックに思えたので、山口昌男が中沢新一と行った対談「『太平記』の世界」(『國文學 : 解釈と教材の研究』36巻2号、學燈社、1991)などをヒントに何か新しい議論ができないだろうか、などと思っていました。

「こういうタイプがまったく突然変異的に生まれたものでないことは注意しておく必要がある」(by 佐藤進一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10389
「つまり外的な条件が人間的な特徴を決定づけたといえるだろう」(by 佐藤進一氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10390
「笑い話仕立ての話」(by 新田一郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10391
『太平記』第二十三巻「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」(その1)~(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10392
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10393
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10394
小秋元段氏「特別インタビュー 文学か歴史書か?『太平記』の読み方」(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10395
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10396
「小秋元段君は、初めから大器だったのではないか、と今でも時々思う」(by 長谷川端氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10397
「ストイック」ではない『太平記』研究の可能性
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10398
遠藤基郎氏によるストイックな『太平記』研究の一例
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10399
「「院」 と「犬」 とを引っかけて、光厳院に対して、犬追物よろしく射懸けたあの諧謔の精神」(by 遠藤基郎氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10400

ただ、山口・中沢対談は三十年前、「網野史観」全盛期の頃の話ですから、以後の歴史学研究の進展を考えるとあまりに古臭い部分も多く、どうしようかな、などと思っていたところに出会ったのが兵藤裕己氏と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)でした。
まあ、私はもともと兵藤裕己氏の『太平記』論にはかなり懐疑的で、あまり賛同できる部分はなかったのですが、とにかく歴史学と国文学の対話としては最新のものなので検討の素材としては理想的でした。
そこで全十七回に渡って、二人の議論を検討してみました。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10401
【中略】
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10423

そして兵藤説に対する国文学界での最近の評価や、兵藤氏が歴史研究者に与えている影響についても少し見てみました。

「『太平記』研究はこの二十年、何を明らかにしたか」(by 小秋元段氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10425
兵藤説の歴史学研究者への影響─清水克行氏の場合(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10426
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10427
 

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その11)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月31日(水)10時00分9秒
編集済
  ということで、石川論文に戻ります。

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 だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10637

に続く部分です。(p16)

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     世中さわがしく侍りけるころ、三草の山をとほりて大蔵
     谷といふ所にて
                     前大納言尊氏
 今むかふ方は明石の浦ながらまだはれやらぬわが思ひかな
                       (風雅九三三)

 「大蔵谷」は明石の北東の地。二月十・十一日の西宮打出浜や豊島河原での戦に敗れ、大蔵谷から明石の浦に向かう、敗走の道中での詠という事になる。「明石」に「明し」を響かせるのは常套的手法。「明し」を連想させる「明石」に向かいながらも、「明し」とは程遠い暗澹たる気分だ、とその時の心境を詠んだ歌だが、詞書に大蔵谷の地名が明記されている事から察するに、大蔵谷の「くら」の音が「暗し」に通じる事に発想を得たものではなかったかと想像したい。
 官軍に敗れ敗走する朝敵の将、これがこの時の尊氏の立場である。『太平記』が伝えるようにこれ以前に持明院統の錦の御旗を得るための使いを出立させていたとしても、まだ思惑通りに事態が進む確証もない。九州まで西下しても、今の己の立場ではどれだけの軍勢を召集できるか不安もあっただろう。さぞや沈痛な思いであったろうと推測されるのだが、この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気がするのは稿者だけだろうか。内容はさておき、詠み振りにどこか飄々としたものを感じてしまう。尊氏はカリスマ性を備え武士達の信望を集めた人物であったのだろうが、他方、鎌倉で天皇からの追討令を受けたショックで隠棲しようとする気弱さ、繊細さも持ち合わせていたらしい。その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが、しかし絶望的状況の中で読まれたこの和歌の飄逸ぶりに、そうした精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように思われる。こうした傾向が彼の和歌乃至和歌活動に多く看取されるとは言い難いが、尊氏にとっての和歌というものの意味を考える際に稿者には気になってならないのである。
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「大蔵谷の「くら」の音が「暗し」に通じる事に発想を得たものではなかったかと想像したい」に付された注(7)には、

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(7) 次田香澄氏・岩佐美代子氏校注『風雅和歌集』(三弥井書店、昭和四九・七)、岩佐美代子氏『風雅和歌集全評釈』(笠間書院、平成一四・一二~同一六・三)ともに「大蔵谷」の名称との関わりは指摘していないが、試みにそう解した。
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とあります。
また、「その両面性、気分や行動の振幅の大きさから彼の躁鬱的気質が指摘されたりもするのだが」に付された注(8)には、

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(7) 佐藤進一氏『日本の歴史九 南北朝の動乱』(中央公論社、昭和四〇)が尊氏の性格の多様性をそう指摘し、例えば近年の峰岸純夫氏『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、平成二一・六)もそれに従っている。
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とあります。
さて、私は実にこの部分を引用したくて、今まで長々と石川論文を検討してきました。
私も石川氏と同じく「この一首に思い詰めた深刻さが欠如する気が」しますし、「内容はさておき、詠み振りにどこか飄々としたものを感じてしま」います。
また、佐藤進一の乱暴な素人精神分析に対しては、私も「絶望的状況の中で読まれたこの和歌の飄逸ぶりに、そうした精神的分析ではなかなか説明しにくい、また別の尊氏像が垣間見えるように」思います。
更に、夢窓疎石が語ったという、合戦で命の危険に際しても尊氏の顔には笑みが浮かんでいたというエピソードも連想されます。
近年では清水克行氏が尊氏の「死をおそれない不思議な性分」について「精神分析」を行なっていますが、果たして清水氏の「精神分析」は妥当なのか。
このあたり、もう少し検討を続けたいと思います。

緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10571
 

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月31日(水)09時00分40秒
編集済
  「建武二年内裏千首」が行なわれた時期と尊氏の動向の関係を探るため、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』を読み、併せて『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点を検討してみましたが、細部を除き、井上氏の叙述は本当に水準が高いですね。
井上著は初版が1965年で、これは佐藤進一『南北朝の動乱』と同年です。
「改訂新版」は1987年ですが、このとき新規に追加された部分は「補注篇」(p881~925)としてまとめられており、大半の記述は1965年時点のものですね。
今までの投稿で、私も、井上氏は佐藤進一説に立脚している、みたいなことを書いてしまったかもしれませんが、「八月一日、天皇は、恐らく尊氏に征夷大将軍を与えたくないからであろう、成良親王を補し、二日、尊氏は勅命を待たず東下(この辺の事情は高柳光寿氏の『足利尊氏』に詳しい)」(p371)という記述からすると、井上氏が主に参照しているのは高柳光寿の『足利尊氏』初版(1955、なお『改稿 足利尊氏』は1966年で、いずれも春秋社)ですね。
高柳光寿(1892-1969)は佐藤進一(1916-2017)より更に前の世代の歴史学者で、さすがに最近の論文で高柳著に言及する研究者は少ないですね。
ま、高柳も佐藤進一と同様に「『太平記』史観」に囚われていた訳で、『太平記』に頼らず、ひたすら歌壇の視点から尊氏を見ていた井上氏の到達点に、歴史研究者は今頃やっと追いついているような感じもします。
さて、「建武二年内裏千首」に寄せられた二つの尊氏詠、

  流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
  今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば

を見ると、特に後者では尊氏が心理的に極めて安定した状態にあることが伺えます。
後者は後醍醐への忠誠心が堅固であることを示した政治的メッセージだ、などと読めない訳ではないでしょうが、これらはあくまで所与の題に受動的に対応した題詠なので、過剰な読み込みをすることには慎重であるべきです。
ただ、それでもこのときの尊氏の精神状態が極めて安定した、清澄とでもいうべき心境にあったことを伺うことはできそうなので、多くの歴史研究者の認識とのズレが非常に気になります。
例えば、細川重男氏は、

-------
 では、足利尊氏はなぜ反旗を翻したのか。一般的には、尊氏に天下取りの野望があったからと言われている。【中略】
 尊氏は「私にあらず、天下の御為」と言っているが、この様子からすると尊氏出陣の第一の理由は、直義救援であったようである。
 次に、後醍醐の帰京命令に従わなかったことについては、勅使(天皇の使者)の中院具光に対し尊氏は「すぐ京都に参上します」と答えている。ところが、直義に「運良く大敵の中から逃れてきたのだから、関東にいるべきです」、つまり「京都に帰ったら殺されますよ」と諫められると、あっさり帰洛をやめている。
 そして、後醍醐の命を受けた新田義貞が鎌倉に迫ると、尊氏は「もうナニもかもイヤだ!」とばかりに、浄光明寺に籠ってしまった。だが、兄に代わって出陣した直義の苦戦を知らされると、「直義が死んだら、自分が生きている意味は無い!」と叫んで出陣し、義貞を撃破したのである。
 支離滅裂である。弟思いは美徳であろうが、どのような結果をもたらすかを深く考えずに行動し、これまた深く考えずに周囲の意見に流されている。清水克行氏は尊氏を「八方美人で投げ出し屋」と評している(清水:二〇一三)が、まったくそのとおりである。こうなると、尊氏の離反は、尊氏自身の決断なのか、はなはだ疑わしい。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10541

と言われていますが、「建武二年内裏千首」に寄せられた二首を見ると尊氏の精神状態が「支離滅裂」とは見えません。
そして、もう一つ、この時期の尊氏の精神状態を伺わせる極めて興味深い歌があります。
これはもちろん井上著にも出ていますが、石川泰水氏の論文の方が丁寧に分析しているので、次の投稿で石川論文に戻り、その歌を紹介します。
 

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月30日(火)23時05分4秒
編集済
  結局、『大日本史料』建武二年十月十五日条に載せられている三つの史料のうち、「三浦文書」は勅使派遣とは全く関係なく、『梅松論』は勅使派遣が御所への移徙(十月十五日)より前であることを示唆するものの具体的時期は不明、『保暦間記』は記事内容そのものが胡散臭い感じですね。
そこで、いったん『梅松論』『保暦間記』を離れて、この時期の後醍醐と尊氏の関係を示す客観的事実を探ると、尊氏が八月三〇日に従二位に叙せられたこと(『公卿補任』)に注目すべきではないかと思います。
尊氏は元弘三年(1333)八月五日に従三位に叙せられて公卿の仲間入りをした後、五ヶ月後の建武元年(1334)正月五日に正三位に昇進し、ここで更に従二位に昇進します。
中先代の乱鎮圧の知らせが京都に届いたであろう直後の時期ですから、これが鎮圧への恩賞の一形態であることは明らかですが、以後の展開を考えると、同時に後醍醐による尊氏の離反防止のための懐柔策と思われます。
そうであれば、後醍醐は従二位昇進を直ちに尊氏に伝える必要がありますが、ここで『梅松論』の「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下著し、今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三也、但軍兵の賞にをいては、京都にをいて、綸旨を以宛行へきなり、先早々に帰洛あるへしとなり」という記述を考慮すると、中院具光の派遣は九月初旬と考えるのが自然ではないかと思います。
後醍醐としては、後に現実化するように、尊氏が独自の判断で配下の武士に恩賞を与えるようなことを防止するため、早急に手を打つ必要があったはずです。
整理すると、中院具光は九月初旬、「今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三」の具体化として尊氏が八月三十日に従二位に叙せられたことを伝え、同時に恩賞を勝手に与えるな、早々に帰洛せよ、という指示も伝えたと思われますが、更に「建武二年内裏千首」の題も具光が伝えたと考えてよいと思います。
こうした行事についての連絡はそれなりの身分の者が行なうはずであり、具光自身には歌人としての格別な業績はなかったようですが、六条有房の孫ですから、尊氏と和歌をめぐる優雅な応答をする程度の教養も当然あったでしょうね。
また、「建武二年内裏千首」の時期を後ろにずらせばずらすほど、十一月に訪れる後醍醐・尊氏の破局とそれに伴う政治的・軍事的混乱に巻き込まれることになってしまうので、九月くらいが順当と思われます。
なお、『続史愚抄』も九月の記事の最後に、

-------
〇ゝゝ〇ゝゝ。蔵人左少将具光。<作中将者謬歟。>為勅使下向関東。召左兵衛督<尊氏。征東将軍。>固辞不参洛云<〇梅松論、保暦間記>
-------

としており、『梅松論』を素直に読めば、やはりどんなに遅くとも九月中の出来事と解することになると思います。
また、小松茂美『足利尊氏文書の研究Ⅰ研究篇』(旺文社、1997)には「やがて十月十五日、京都から勅使蔵人頭中将中院具光が鎌倉に下着した」(p14)とあって、十月十五日が中院具光の鎌倉到着日になってしまっていますが、これは『大日本史料』建武二年十月十五日条に独自の想像を加味したものですね。
まるで伝言ゲームを見ているような感じがして、田中義成も罪作りだな、と思います。
 

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月30日(火)14時02分12秒
編集済
  井上宗雄氏は「十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか」(p372)とされていますが、中院具光の勅使云々は『太平記』には出てこない話です。
『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣」が登場しますが、その派遣時期は不明です。
ちょっと不思議に思って『大日本史料 第六編之二』を見たら、関係記事が十月十五日にありましたが、これは相当問題がありますね。
同日の第二条の綱文は「中院具光ヲ鎌倉ニ遣リテ、足利尊氏ノ上京ヲ促ス、尊氏応ゼズ、第ヲ幕府ノ旧址ニ造リ、是日之ニ徙ル」とあって、この後に「三浦文書」『梅松論』『保暦間記』が引用されています。
まず、「三浦文書」は、

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 著到
   三浦和田四郎兵衛尉茂実
 一 十月八日御方違ニ、二階堂の東のらう(廊)を警固仕畢、
 一 十月十五日御所の御わたましに、南総門を警固仕畢、<〇中略、全文ハ三日ノ条ニ収ム、>
 右著到如件、
     建武二年十月廿日
             (高師泰)
           承候(花押)
-------

というもので、ここから分かることは十月十五日に御所の移徙があって、三浦茂実が南総門を警固したということだけです。
勅使派遣とは何の関係もない記事ですね。
ついで『梅松論』が引用されていますが、

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<〇前文八月十八日ノ条ニ収ム、> 又勅使中院蔵人頭中将具光朝臣関東に下著し、今度東国の逆浪速にせいひつする事叡感再三也、但軍兵の賞にをいては、京都にをいて、綸旨を以宛行へきなり、先早々に帰洛あるへしとなり、勅答には、大御所<〇尊氏>急き参るへきよし御申有ける所に、下御所<〇直義>仰られけるは、御上洛然るへからす候、其故は、相摸守高時滅亡して、天下一統になる事は、併御武威によれり、しかれは、頻年京都に御座有し時、公家并義貞隠謀度々に及といへとも、御運によつて今に安全なり、たまたま大敵の中をのかれて、関東に御座可然旨を以、堅いさめ御申有けるによつて、御上洛をとゝめられて、若宮小路の代々将軍家の旧跡に、御所を造られしかは、師直<〇高>以下の諸大名、屋形軒をならへける程に、鎌倉の体を誠に目出度う覚へし、<〇下文十一月十八日ノ条ニ収ム>。
-------

ということで、中院具光の関東下着と尊氏への帰洛要請と、それに対する尊氏・直義の対応が語られ、更に御所造営の話となっています。
ただ、この記事の順番から見て中院具光の派遣が御所完成より早そうなことは分かりますが、具体的な時期は全く記されていません。
そして『保暦間記』の方でも、中院具光の派遣時期は不明です。
片仮名は読みづらいので平仮名に代えて引用すると、

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<〇前文八月十八日の条に収む、>然る所に、故兵部卿親王<〇護良>の御方臣下の中にや有けん、尊氏謀反の志有る由讒し申て、新田右衛門佐義貞を招て、種々の語ひをなして、左中将に申也て、<〇貞義の左中将に任ずるは、明年二月八日にあり、>上野国は尊氏分国也、義貞に申充けり、何なる明主も、讒臣の計申事は、昔も
今も叶ぬ事にて、尊氏上洛せは、道にて可打由を義貞に仰す、仍、尊氏を京都より召る、勅使蔵人中将源具光也、関東勢をは尊氏に付置、一身急馳参すへしと云々、尊氏勅定に応して上洛する所に、京都より内々此事を申ける人も有けるにや、又直義も、東国の侍も、不審に思て留めけれは、尊氏上洛せす、<〇下文十一月十九日の条に収む>
-------

ということで、『保暦間記』では後醍醐が義貞に、尊氏が上洛する途中で殺害せよ、と命じていて、中院具光は尊氏を誘い出すために鎌倉に派遣された、というストーリーになっています。
さて、この後に編者(田中義成)が次のように記します。
これも片仮名は読みづらいので平仮名に代えます。

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〇是より先き、尊氏鎌倉に入りて、二階堂別当坊に居りしが、<八月十八ニ日の条、>是に至りて、新第成るを以て之に徙りしなり、勅使発遣の月日詳かならざるを以て、姑く梅松論に拠りて、此に合叙す、尊氏鎌倉に入りてより、或は神社仏寺に領地を寄せ、<八月二十七日、九月二十日、二十四日、二十八日、>或は八幡宮の座不冷行法を興し、<八月二十七日の条、>又部下の賞を行ひ<八月々末、九月二十七日の条、>奥州管領を補し、<八月々末の条、>自ら征夷将軍と称し、<八月十八日の条、>幕府の旧址に徙り、遂に奏状を上りて、新田義貞を伐たんことを請ふに至る、<十一月十八日の条、>各、本条あり、参看すべし、
-------

うーむ。
「勅使発遣の月日詳かならざるを以て、姑く梅松論に拠りて、此に合叙す」とありますが、『梅松論』を見ても、別に「勅使発遣の月日」を詳らかにするための根拠はないのですから、「梅松論に拠りて」はおかしいですね。
結局、田中義成は「勅使発遣の月日詳かならざる」ことを知悉しつつ、「三浦文書」に十月十五日の御所移徙があり、『梅松論』に勅使発遣と御所造営の記事があることから、この二つを「合叙」してしまった訳で、何とも雑な作業です。
何じゃこれ、以外の感想が浮かんできません。
 

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その12)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月29日(月)11時58分25秒
編集済
  続きです。(p372以下)

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建武二年内裏千首  風雅(六六二のみ。以下の集に多くみえる)・新千載・新拾遺・新葉・藤葉の各撰集、光吉・草庵・兼好の各家集にこの詞書を持った歌がみえる。作者は天皇・覚助・尊道<慈道か>・尊良・恒守・尊円・慈道・邦省・道煕・雲禅・覚円・雲雅・良聖・後醍醐天皇典侍・公秀・為世・為親・為定・為明・実教・公脩・尊氏・光之・光吉・雅朝・隆淵・頓阿・兼好・浄弁・国夏・盛徳らである。
 ところで、新千載六二六・一七八三によると「建武二年内裏の千首の歌の折しも東に侍りけるに題を給はりて詠みて奉ける歌に、氷 等持院贈左大臣〔尊氏〕」とあり、この千首歌の折に尊氏は関東にいたのである。建武二年前半の尊氏の動向ははっきりわからないが、仮にこの東下を八月二日以降のものとしたら、この千首もそれ以後に行われた事になる。十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか。
 多くの詞書には「建武二年内裏にて人々題をさぐりて千首つかうまつりける時」とあり、千首歌を探題によって詠じたものである。ところが、上掲の人数の内、頓阿以下は「題を賜はりてよみて奉りける」と詞書に記されている。即ち殿上人以上は内裏において探題で、地下は題を下賜されて詠進したのである。そして殿上人は、花とか橘とかいうような一般の題と、春天象の如き題と両方あったが、地下の場合はすべて「春天象」……「恋雑物」の如き題のみであった。なお藤葉集は詞書の書き方が不完全で、巻三の隆淵の歌に「建武二年内裏にて講ぜられける千首歌に秋植物」とあるが、これも題を下賜された方(地下)ではなかったかと思われる。兼好は家集によると七首を進めているが、地下は各々その程度の歌数を詠じたのであろう。なお増補和歌明題部類には、
  千首<建武頃内第二度 出題御子左中納言(為定)> 春<二百首> 夏<百首> 秋<二百首> 冬<百首> 恋<二百首> 雑<二百首>
  天象 地儀 植物 動物 雑物<各有之>
とある。「第二度」とあり、二度行われたのであろうか。
 この千首歌が二条家の人々のリードで行われた事は明らかであるが、特に地下法体歌人まで加えられている事は注意される。為世や為定の推挙によるのであろうが、地下の法体歌人や国夏のような祠官を公宴に参加せしめるという事は、持明院統や京極派のそれにはみる事が出来ないのである。
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「建武二年内裏千首」の尊氏の詠歌は既に紹介済みですが、参照の便宜のために再掲すると、

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     建武二年内裏千首の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、氷
                    等持院贈左大臣
  流れ行く落葉ながらや氷るらむ風より後の冬のやま河
                   (新千載六二六)
     建武二年内裏千首歌の折しも東に侍りけるに、題を賜はり
     てよみて奉りける歌に、月を
                    等持院贈左大臣
  今ははや心にかかる雲もなし月を都の空と思へば
                    (同一七八三)

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10636

というものです。
さて、井上氏は「建武二年前半の尊氏の動向ははっきりわからないが」とされていますが、これはその通りで、尊氏が継続して京都にいたことを史料的に裏付けることは困難だと思います。
ただ、『中世歌壇史の研究 南北朝期』の初版(1965)、改訂新版(1987)が出された頃と比べると、建武政権下の尊氏の位置付けについては歴史学の方でかなりの進展があります。
即ち、通説であった佐藤進一説の枠組みは相当に揺らいでおり、吉原弘道氏が「建武政権における足利尊氏の立場─元弘の乱での動向と戦後処理を中心として」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)で示した認識が比較的多くの研究者に支持されているように思われます。
吉原氏の結論は、

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 建武政権下で後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた。とはいっても、最終的な軍事指揮権と任免権は後醍醐が握っており、一定の軍事的権限が付与されていた奥州府・鎌倉府の所轄地域に尊氏が公的に関与する必要もなかった(勿論、弟足利直義が中核となって運営されていた鎌倉府に対して尊氏が個人的に影響力を及ぼしたことは否定しない)。尊氏の権限行使は、実際には奥州府・鎌倉府が所轄していない地域(例えば鎮西)が対象になったと考えられる。しかし、奥州府・鎌倉府の権限は、広域行政府とはいえ特定の地域に限定されるものである。全国規模で権限を行使できるのは、後醍醐本人と尊氏の二人だけだった。このため尊氏が離反すると後醍醐は、各国の国人層に対して直接軍勢催促しなければならなくなっている。このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公式に付与された権限に由来していたのである。

https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10522

というもので、私自身は必ずしも全て吉原氏に賛同している訳ではありませんが、尊氏の建武政権下での位置づけは従来考えられていたよりも相当高く、「全国規模で権限を行使できる」治安維持の責任者と言ってよいと思います。
その尊氏が京都を離れるというのは大変な事態ですから、仮に尊氏が建武二年の前半にも東下していたならばそれなりの記録が残っていたはずであり、やはり尊氏の東下は中先代の乱に対応しての一回だけと考えるのが自然です。
 

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その11)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月28日(日)10時39分9秒
編集済
  続きです。(p370)

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 建武二年正月十三日晴儀に準ずる内裏両席会、まず歌会で、題は竹有佳色、次に御遊(御遊抄・貞治六年中殿御会記・続史愚抄等)。尊氏の詠が風雅二一八〇、新千載二二八六にみえる(同一の詠歌)。前者詞書には元年、後者は二年、続史愚抄に「作元年謬歟」とある如くである。
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この尊氏詠は『新千載和歌集』では巻第廿の「慶賀歌」に載っていますが、前後の詠とともに紹介すると、

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       平重時朝臣子をうませて侍りける七夜によみてつかはしける
                               前大僧正隆弁
二二八四 ちとせまで行末とほき鶴の子をそだてても猶君ぞみるべき

       返し                      平重時朝臣
二二八五 千年ともかぎらぬものを鶴の子の猶つるの子の数をしらねば

       建武二年正月十三日内裏にて、竹有佳色といへることを講ぜられ
       けるに                   等持院贈左大臣
二二八六 百敷や生ひそふ竹の藪ごとにかはらぬ千世の色ぞ見えける

       式部卿久明親王家にて、竹不改色といふことを読み侍りける
                          平貞時朝臣
二二八七 万代も色はかはらじこの君とあふげばたかきそののくれ竹
-------

ということで、四条家出身で『徒然草』第216段に北条時頼・足利義氏とともに登場する「前大僧正隆弁」の後に北条重時・「等持院贈左大臣」尊氏・北条貞時と武家歌人が三人続いていますね。
尊氏が尊氏によって滅ぼされた鎌倉幕府の重鎮に挟まれていますが、何だか面白い配列です。
尊氏詠の「百敷や生ひそふ竹の藪ごとにかはらぬ千世の色ぞ見えける」は、いかにも慶賀の場にふさわしい目出度い歌で、尊氏の洗練された社交感覚を窺わせますね。
さて、井上著に戻ると、井上氏は二月四日に没した二条道平(良基の父)について少し論じられますが、省略して七夕の「内裏七首会」に進みます。(p371以下)

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 七夕には内裏七首会が行なわれた(題は七夕舟─光吉集。明題和歌全集等の年時不記「内御会」七夕舟=作者は為定・為親・為明・公時・行房=もこの時か)。しかしこの頃から新政府に対する不満はいよいよ嵩じ、七月には北条時行の挙兵があり、成良親王を奉じて鎌倉にいた足利直義はこれと戦って敗れ、幽閉の護良親王を殺して三河に退去した。時行は鎌倉に入った。京都ではこれより先に北条氏の残党と連絡して謀叛の挙兵を行なおうとした計画が漏れ、西園寺公宗・日野氏光・三善文衡らが捕えられていたが、八月二日に殺された。公宗と日野名子の間には建武元年に実俊が生まれていたが、名子は実俊とともに隠れ、西園寺の名跡は弟公重が嗣いだ。
 八月一日、天皇は、恐らく尊氏に征夷大将軍を与えたくないからであろう、成良親王を補し、二日、尊氏は勅命を待たず東下(この辺の事情は高柳光寿氏の『足利尊氏』に詳しい)、十九日早くも鎌倉を回復、その功によって三十日従二位に叙せられ、九月召還の命が下ったが尊氏はそれに応じなかった。
 この騒乱によってであろうが、十五夜・十三夜の記録はない。この年内裏千首が行なわれた。
-------

「八月一日、天皇は、恐らく尊氏に征夷大将軍を与えたくないからであろう、成良親王を補し」とありますが、成良親王が征夷大将軍となった時期については、私は田中義成以降の定説(八月一日説)は誤りだろうと考えています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10521
帰京後の成良親王
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10523
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10524
峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10528
 

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その10)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月28日(日)08時22分44秒
編集済
  ということで、「建武二年内裏千首」が行なわれた時期と尊氏の動向の関係を探るために、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』を繙いてみることにします。
下記リンクのうち、一番上が事実上の(その1)で、ここに同書の全体の構成が分かるように目次を引用しています。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10546
「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10547
「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10548
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10549
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10550

(その5)で「第二編 南北朝初期の歌壇」「第五章 建武新政期の歌壇」の途中(p370)まで進みましたが、この後、「鎮西探題歌壇」と『臨永集』を検討するために時代を遡っています。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その6)~(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10572
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10573
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10574
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10575

そして、これから検討する部分は(その5)で引用した箇所の少し後になります。
井上氏は、

-------
 かくして尊氏も直義も、関東で育ったとは言い条、頗る文化的な雰囲気に包まれていたと思われる。既に続千載の時に、尊氏の詠草が為世の許に送られていた形跡のある事は前章に述べた。続後拾遺に尊氏は一首入集、臨永の作者にもなった。建武新政下に公卿となり、京に滞在して多忙ではあったが、暇をぬすんで歌会を行なったのも当然である。武士の中で最も実力・声望ある尊氏の会に、歌道家の人々や法体歌人を含めた文化人が参集したであろう事は想像に難くない。
-------

と書かれた後、若干の武家歌人について論じられます。
「建武二年内裏千首」に至るまでの情勢を知るため、少し引用してみると、

-------
 貞藤は勅撰歌人ではないが、優れた文化人であり、かつ歌も作ったらしい事は既に述べたが、十二月に至って謀叛の嫌疑を受けて子兼藤ら五人と二十八日六条河原で斬られた(金剛集第六巻裏書・六波羅南北過去帳・蓮華寺過去帳)。
 因みに、建武二年正月廿八日中宮珣子の平産を祈る事があり、またこの頃しばしば修法が行なわれたが、その為に美濃で続観音経偈三十三首歌が詠まれ、土岐頼貞がその内八首を詠じたという(『美濃国稲葉郡志』・『土岐頼貞公』<その三十三首歌の所在は不記>)。
-------

ということで(p370)、乱暴者の土岐頼遠の父・頼貞(1271-1339)はなかなかの文化人ですね。
同じく「優れた文化人」であった二階堂貞藤(道蘊)は、『太平記』には、

-------
 二階堂出羽入道道蘊は、朝敵の最頂〔さいちょう〕、武家の補佐たりしかども、賢才の誉れ、かねてより叡聞に達せしかば、召し仕はるべしとて、死罪一等を許され、懸命の地を安堵して居たりけるが、また陰謀の企てありとて、同年の秋の末に、つひに死刑に行われけり。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10437

と出てきますが、この「同年」は元弘三年(1333)のことです。
しかし、道蘊は実際には「同年の秋の末」ではなく、翌建武元年(1334)十二月に斬られている訳で、ここも『太平記』が「公武水火」の事例を前倒しに記述して、建武新政が最初から緊張を孕んでいたと印象づけている一例ですね。
また、中宮珣子の平産祈祷については、三浦龍昭氏に「新室町院珣子内親王の立后と出産」(『宇高良哲先生古稀記念論文集 歴史と仏教』、文化書院、2012)という論文があります。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10547
 

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その10)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2021年 3月27日(土)21時40分7秒
編集済
  「この問題をどう考えたらよいのだろうか」という問いへの石川氏の回答は次の通りです。(p15以下)

-------
 権力を巡って対立を見せ始めても未だ二人は風雅においては結び付いていたのだ、と見る事もできるかもしれないし、尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方も成り立つかもしれない。だがここでは、後醍醐天皇にとっての和歌活動が政治的意味合いを帯びていた事を考え併せたい。和歌活動に参加させる事で離反しつつある尊氏を自らの統制の中に組み込もうとした、或いは題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた、天皇のそんな意図を汲み取ってみたいと思う。
------

石川氏の見解は佐藤進一説、即ち「『太平記』史観」の枠組みの中での考察なので、私は基本的に賛成できませんが、今は議論しません。
ただ、「尊氏の風流心を繰った一種の懐柔策といった見方」までは良いとしても、「題を下賜する事に対する反応によって支配体制下にあるや否やを試みた」となると、ちょっと陰謀論めいた雰囲気も漂ってきますね。
さて、続きです。(p16)

-------
 だがこの後間もなく、結局両者は決裂した。尊氏の、合戦の功労者に勝手に恩賞を与えるといった行動が後醍醐天皇の堪忍袋の緒を切らせ、十一月、遂に尊氏討伐の命が下る。都から下された新田義貞・尊良親王らによる討伐軍を打破した尊氏・直義軍は西に向かって侵攻、翌一三三六年正月には入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山への退去を余儀なくされた。だが奥州から北畠顕家率いる援軍が到着したのを機に、戦局は一変する。楠木正成・新田義貞の軍にも敗れた足利軍は、西下して九州で軍勢の立て直しを図ることになる。
-------

中先代の乱をうけて尊氏が京を離れたのは建武二年(1335)八月二日です。
そして同月十九日には時行軍が最終的に敗北し、尊氏は鎌倉を奪還することになります。
この間の事情については今まで何度か触れてきました。

永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その2)~(その5)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10535
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10536
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10537
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10539
「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10541

中先代の乱の勃発以降、本当にめまぐるしく情勢が変化して行きますが、その中で「建武二年内裏千首」はあまりにのんびりした話のようで、本当に不思議な感じがします。
いったい尊氏は何時、後醍醐からの題を受け取り、そして何時、自分の歌を送ったのか。
この辺りの事情について、井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』に即して、もう少し考えてみたいと思います。
 

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