勝手じいさんのつぶやき



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


218件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[226] 近似曲線

投稿者: masami 投稿日:2018年 7月16日(月)15時42分52秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

エクセルを使って馬力神の年代分布を近似したものを挙げておきます。青色プロットがヒストグラムのデータとなります。立ち上がりの近似は2次関数に立ち下がりは指数関数に近似されました。




[225] 茨城の馬頭観音

投稿者: masami 投稿日:2018年 7月15日(日)05時38分47秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

地図上緑色に塗られた市町村の馬の供養に関する石仏をまとめた。黄色のエリアは石仏に関する出版物が存在しているが今回は扱っていない。分類は石仏の形態から像碑と文字碑に分け、文字碑は主銘文により分類し、馬頭観世音碑、馬頭尊碑、馬力神碑(○○神とあるものはすべてこれに含める)、軍馬碑(他に馬頭観世音、馬頭尊、馬力神等の銘文のないもの、つまり馬頭観音と征馬祈念があるものは馬頭観音碑)の4項目とし供養塔、駒形神社、東堂山等は数も少ないことからデータに含めなかった。データ入力は一人で行い市町村単位でグラフ化し飛び抜けたデータは見直して確認訂正した。像碑、馬力神碑、馬頭尊碑、観世音碑、軍馬碑のまとめのグラフを示す。像碑の建立数は少なく1860年代以降は殆ど作られなくなっており、馬頭尊碑は各年代に渡ってほぼ一割弱の割合で1940年代迄建立があり、馬力神碑は像碑と代わるように急に建立されるようになり1930年代にピークを迎え急激に増加したと同じかそれ以上の勢いで減少している。まるでパルス応答のような増加減少曲線を示す。パルスの立ち上がりは1860年代で明治維新に当たる。それは馬を操る人々にとって衝撃であった。神仏分離令後の廃仏毀釈と富国強兵政策。パルスの立ち下がりは1930年代で、戦争と物流の変化である。馬を取られた人々がこぞって建立したが補充されること無く農民は人力になり生産力も落ちた。そのうち物流も馬から列車や車に移行し馬の生産も低下した。馬力神碑の年代建立データがこれほど綺麗に出ていたことに驚いた。たちあがりの近似曲線は2次関数で立ち下がりの近似曲線は指数関数であった。ということは立ち上がりのインパクトよりも立ち下がりのインパクトの方がより強烈であったことになる。

 また、纏めてみて分かったことがあった。それは見落としていたものであったのだが、馬力神の石碑の最古のものが見つかっていた。道標として建てられてはいるが馬力神と刻まれており寛政9(1797)年の建立である。場所は川尻町電線工場東、国道から川尻駅へ行く旧道橋場町倉庫前となっている。近くの人は確認してみて下さい。但し、日立市郷土博物館の綿引はあまりに古いため明治期に古い年代を刻んだのではないかと疑問を抱いている。文献はひたちの野仏第2集北部地区p37。

データ取得は以下の文献から行った。
江戸崎の石仏、大子の石仏、水戸の石仏、潮来の石仏石塔、下館の石佛石塔、ひたちの野仏、しもつまの野仏、山方の石仏石塔、里美の石仏、土浦の石仏、土浦の石仏ー新治地区編ー、おおみやの野仏とその祈り、石岡市史中巻2、鹿島町史第2巻



[224] 馬櫪尊神

投稿者: masami 投稿日:2018年 7月11日(水)13時15分26秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

馬力神は廃仏毀釈の影響で明治になって造られた文字碑で馬の供養塔であるとしましたが、その元は馬櫪神が訛ったものであるとのことで、馬櫪尊神なる神が大元であり、その神は北斎漫画に、手には剣とセキレイと猿を持ち馬に跨がる姿として、描かれており実態を有するものでありました。しかし国内にはその像を石に刻んだものは今のところはありません。馬の守護神で、中国では唐時代に信仰されたようです。馬と猿の関わりは平安時代に遡り厩の中に実際猿が飼われていたようで、馬の安定効果があったとのことです。宮城県松島町にはその名のままの馬櫪神社があり神明社に合祀されていますし、宮城県加美郡色麻町高根には保食神を主祭とし出羽、馬頭、羽黒の3社を合祀する馬櫪神社が神社庁に登録されています。茨城の馬力神は宮城の馬櫪神からきて広がっていったものと思われます。栃木との境近くの下館や下妻などでは馬力神は見られず茨城の北、大子、美里、日立、山方、大宮では多くの馬力神が見受けられ、南に行くほど建立数は減少していき、潮来、鹿島では消失します。馬櫪神、馬歴神と刻まれ年代の確定した石碑は茨城では日立に19基(30)、大子に16基(19)、大宮に1基(1)あり栃木では那須、黒磯に10基確認されています。その建立年代分布は1870年代に突然始まるものでその後次第に減少していくものでした。



[223] 石碑制作費

投稿者: masami 投稿日:2018年 7月 9日(月)12時05分56秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

土浦新治地区の馬頭観音碑の建立時に集められた寄付金額が刻印されて残されていました。1899年、17人の人から34円20銭と5坪の土地の寄付で建てられています。自然石で190×102×24cmの大きさで敷石の上に立っているものです。当時の米の値段が60キロで4円96銭としますと413.7キロ分の米に相当し、一般的にキロ400円の米を食べていれば制作費は寄付金凡て使ったとして16万5千円程度となります。今では文字を刻んだ石碑はこの三分の一程度でも同じくらいの値段になるようで明治時代は今よりは随分安かったようです。ただ、明治30年頃の貨幣価値を公務員の給与で比較し1円が20000円とする人もありそうすると68万円となり今と同じ程度となります。貨幣価値の計算はよくわかりません。



[222] 馬力神

投稿者: masami 投稿日:2018年 6月25日(月)20時01分25秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

馬力神、馬刀神、馬太神、馬打神などの碑は栃木県や宮城県、茨城県で見掛けられる馬の供養塔とされます。先の栃木県の馬頭観音においては2198基中67基認められており1869年から建立が始まっていました。別の文献では栃木県下都賀郡壬生町南犬飼北坪の1851年の例が現在知られる最古のものとされ神仏分離令以前より建立され初めていたようです。今回狭いエリアですが「山方村の石仏」を取り上げ建立年代分布を解析します。馬頭観音塔は239基掲載されていて内、年代が確定されている碑が183基有りました。像碑は42基中、年代確定出来たものは11基で他の碑より年代確定率が悪くなっていました。馬頭像碑、馬力神等碑、馬頭文字碑の3種に分け建立年代分布を見たものがこの積み上げヒストグラムになります。1860年代像碑の建立が無くなった後、1870年代から○○神と刻まれた碑が建立されるようになっています。これには明治初めの神仏分離令から起こった廃仏毀釈の影響があると考えられます。つまり文字碑の建立には変化が無く、像碑から○○神碑への遷移が認められることで、建立する願主に廃仏毀釈の風潮が伝わっていたと考えられます。



[221] 地域差?

投稿者: masami 投稿日:2018年 6月23日(土)08時06分20秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

那須馬の生産地とされる那須町と黒磯市を取り上げ、木曽馬の産地である開田村の馬頭観音建立とを比較検討します。栃木県の馬頭観音は「栃木県民俗資料調査報告書 第9集」にまとめられています。之に因ると那須町と黒磯市をまとめた建立数は968基あり、その内建立年代が確定できるのが710基で年代不明率は26.7%となっています。開田村のデータは「開田村の石造文化財」を使用します。開田村の建立数は1241基あり建立年代が確定できるのが252基で年代不明率は79.7%となり大きな違いがあります。開田村の場合は年代銘が読めなくなったわけでは無く初めから刻まれていないようです。木曽馬は体格が小ぶりであることから明治期に南部、陸奧、外来種などの交配により改良が強制されたことで村人の反感を買っていたようで、そのことが影響しているのかも知れません。那須馬の場合は明治になってからは馬力神、馬太神、馬打神と刻まれた碑が67基挙げられていましたが少数のため分布に大きな影響をすることは無いとし、省略してあります。両エリアの調べも報告書には碑の形態は記載されていませんでした。建立年代の分布を1750年代から1980年代まで10年代ごとにヒストグラムを作ったのがこのグラフになります。赤が那須馬、青が木曽馬です。1860年代までと1930年代以降の建立数の年代分布は大きな違いはありませんでしたが、1870年代から1920年代の間が極端な差異が認められました。馬頭観音の建立数は生産段階で死んだ馬の数を表しますので、どちらの産地も同じ程度の死亡率であったと考えれば馬頭観音の建立数が生産数を反映したものとなります。「栃木県民俗資料調査報告書 第9集」のなかで明治期から昭和初めまでの生産数増加は明治期の富国強兵政策の影響を挙げています。木曽馬も同じ時期に7000頭もの馬が飼われていたという記述がありますのでこの時期の建立では年代を刻むことが少なかったと考えられます。その為ヒストグラムのような地域差が認められると思われます。後の人のことを考え折角像を石に刻むのであれば年代銘だけは入れておいて欲しいものです。



[220] 牧の存在

投稿者: masami 投稿日:2018年 6月21日(木)11時39分48秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

これはグーグルマップ上に千葉県の馬頭観音をプロットした地図に鎌ケ谷市教育委員会が作成した国史跡下総小金中の牧跡保存管理計画書に掲載された千葉県内の牧分布図を重ね書きしたものです。赤のエリアが小金牧、青のエリアが佐倉牧、緑のエリアが嶺岡牧となっています。これらのエリアには当然ながら馬頭観音碑は造られていません。牧の中には野馬が囲われており農閑期に野馬捕りが行われ、捕らえられた野馬は幕府役人の乗馬、役馬として用いられ、さらに農耕馬として農民に払い下げが行われていたということです。(佐倉牧の牧士史料より)野馬であるからには馬が死んだとしても感知されず供養もされずに放置されていたと思われます。従ってこれらの馬に対しては馬頭観音は造られてはいないためこのエリアには存在しないものと考えられます。東総の一面多臂馬乗り馬頭観音は、この佐倉牧と七里法華に囲われているように見えます。



[219] 勝手な解釈

投稿者: masami 投稿日:2018年 6月19日(火)06時44分21秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

袖ケ浦市内の石造物の石工を調べた研究が袖ケ浦市史研究5号に「袖ケ浦の石工」萱野章宏として載っています。それによると、石工銘の確認できた石造物は57点でその多くが木更津村の石工の手になるものであり、また同氏の別の文献「近世木更津周辺の石工の動向」も参照しその多くが木更津村、桜井村の造立であるとしています。馬乗り馬頭観音は所謂馬の墓標であり人も含めて弔いの石仏には石工銘は刻まないことになっているようでして、唯一基を除いて馬乗り馬頭観音にも石工銘が刻まれているものはありません。その刻まれた馬頭観音は馬頭観音と刻まれてはいるもののとても馬頭観音とは言いがたいものでおそらくは墓標の意味合いとは別のものであると思われます。その為、直接馬乗り馬頭観音の造立者名を調べることは出来ず他の石造物から類推するしかありません。そう考えると木更津港から広がる三面多臂の馬乗り馬頭観音も木更津村の石工の手になるものがかなりの割合を占めるものと推測できます。先の馬乗り馬頭観音も下総石工松之助と刻まれており、その地域下総の石工が使われています。江戸の石問屋から木更津港へ運ばれ更に、そのままか船を換え川を上り依頼された場所へ石を運び作像をしたものと考えられます。又、高田河岸から広がる一面多臂の馬乗り馬頭観音についても同じ事が類推され、河岸近くに居住する石工達の手による造立と考えることが出来るのではと考えます。馬方の利用といい、石工の利用といい、港中心の地域文化の広がりが認められます。千葉県は江戸川と利根川と海により囲われた大きな島と考えられ、水運とは切り離せない地域と思われます。

 この図は萱野章宏氏文献にある木更津村、桜井村石工の手になる石造物の分布図に、馬乗り馬頭観音の建立分布を重ねたもので、大きな黒丸は三面馬乗り、大きい白抜き丸は一面馬乗りを表します。木更津村石工の造立分布と馬乗り馬頭観音の分布がぴったり一致していますので、この地域の馬乗り馬頭観音は木更津村の石工の手になるものと言えると考えます。



[218] 千葉県の馬頭観音分布の特殊性

投稿者: masami 投稿日:2018年 6月 9日(土)07時36分36秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

馬頭観音像の形態は頭の上に馬の頭が乗っていることで判別されますが、顔面は憤怒像を呈するものと柔和像を呈するものがあり、面数も一面のものから三面のものまで希には四面や十一面観音風のものまで有ります。像の手は二本の二臂から八臂まで認められ、その手は印を結びそれ以外の手は法輪剣斧法棒などの武器を持ちます。体位は立像座像馬像があり、座像は半跏趺坐と結跏趺坐を、馬像は馬の上で跨座趺坐するものから立つものまで果てには観音像の無い馬だけのものまで認められます。この内、圧倒的に多いのが一面二臂立像になります。(馬と石造馬頭観音・栗田直次郎より)
 地域に局在するものに馬乗り馬頭観音が有ります。下総国東総にある一面二臂(含多臂)の馬乗り馬頭観音163基と上総国南部にある三面多臂の馬乗り馬頭観音61基です。それぞれの地域で殆ど混ざり合うこと無く局在しています。千葉県以外にも認められますが長野に10基、群馬に2基、福島に5基、埼玉に2基、山梨東京神奈川静岡新潟に6基認められているだけです。(房総の馬乗り馬頭観音・町田茂より)
 千葉県には馬乗りの他に馬頭観音碑も存在しています。それらを含めて千葉県として建立年代が分かっているものの年代分布を埼玉、群馬、山梨の建立年代分布と比較するためグラフ化しました。(中村有希「埼玉県における馬頭観音の変遷と地域性」、畑大介「石造馬頭観音の歴史資料性」、津金澤吉茂「馬頭観音塔と馬の埋葬」より各県のデータを起こした)埼玉、群馬、山梨はほぼ同様の年代分布をしていますが千葉だけは異なっていました。三県の建立の広がりとは別の影響があるものと思われます。馬乗り馬頭観音の局在といい、建立年代分布の特殊性といい面白い地域です。先の町田氏の文献では七里法華の存在と日蓮宗の影響を挙げています。局在の地域は二カ所共にそれぞれ河と海の港から広がっているように見えますので船輸送の犠牲馬供養と関連づけられると考えます。次の画像は町田氏の文献に掲載されていた馬乗り馬頭観音の分布図に、加来利一氏がネット上に掲載されているデータから馬乗り観音と記載されているデータを除いてグーグルマップ上にプロットした画像を重ねたものです。緑が像形態、紫が文字形態です。馬乗り観音の分布と違って道に沿ったものとなっており陸上輸送の犠牲馬供養と関連づけられると考えます。
 この仮説を元に文献を当たると丹治健蔵「関東水陸交通史の研究」に高田河岸の荷出しに使われた馬方の出身村落が記載されており、それによればこの河岸の近在の村々である事が分かり、運送の途中に馬が死んだときには墓標として出身村に馬頭観音を建立するのに、陸路で下総に来た余所馬(中馬)と区別をする意味で馬乗り馬頭観音を建てたのだと考えられます。それと同じ事が木更津港の海運の荷出しでも行われたと推察することが出来、その近在の村々に又別の馬乗り馬頭観音が建てられたと考えます。そう考えれば納得がいきます。

下のアドレスはグーグルマップ上に千葉県の馬頭観音を緯度経度でプロットしたものです。
黒は一面馬乗り、グレーは三面馬乗り、緑は文字碑、紫は馬乗り以外の像、赤は上半身欠けにより不明 の馬頭観音です。ただ、今では其の場所にはないものが幾つかあります。

https://www.google.com/maps/d/embed?mid=1YaPJ0Ok8inlbHVohWuvIT4P6hBqwUwjc&hl=ja



[217] 軍馬碑?

投稿者: masami 投稿日:2018年 6月 5日(火)12時40分25秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

森田敏彦「戦争に征った馬たち」によれば全国で950基の碑が確認され、その建立時期はアジア・太平洋戦争終結後のものは131基にすぎず、日露戦争開戦から第一次世界大戦開戦までと、日中全面戦争開戦からアジア・太平洋戦争開戦までの期間に集中しているとされる。書中の4・1表を元に可視化をするとグラフのようになります。国家総動員法が出されて招集が始まり、其れが別れとなることを思い、碑や馬頭観音像を建てたのでしょう。上社村の馬頭観音像もそのようなものの一つであるのかも知れません。農耕馬ですので輓馬や駄馬としての招集であったと考えます。



[216] 馬捨場

投稿者: masami 投稿日:2018年 5月30日(水)09時15分25秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

馬頭観音については調べれば調べるほどに色々面白いことが出てきます。中馬や伝馬、農耕馬など使役に使われた馬が死んだりするとその場所に埋めて墓標代わりに馬頭観音を建てるものだとばかり思っていましたが、江戸時代には持ち馬が死んでも勝手に処分できず、決められた馬捨場に置くことで所有権を放棄し、後を専門業者に託することになっていたようです。専門業者は死牛馬取得權を持っており死体を回収していき解体に回し皮革を取ったり出来ていましたので、その権利も売買の対象になっていたようで、今月の前半は誰で後半は誰と決めていたこともあったようです。従ってそのことを心苦しく思い、そのような馬捨場にか、或いは死に場所に墓標代わりに馬頭観音像を建てた訳です。
ネットで検索しても地名に馬捨場と付いているところがかなり挙がってきます。おそらくその場所が使われていた場所と思われます。ただ明治4年に斃牛馬勝手処置令が出され馬の持ち主に処分が任されて馬捨場は使われなくなっていき、その任にあった専門業者も権利を失いましたが、そのことでは身分解放ととらえることも出来たようです。ただ、馬の産地では埋め墓を作って埋葬していたようで柔和な菩薩像となっており馬捨場の慣習は町の中や精々その周辺だけのようです。
上社村付近では馬捨て場は何処にあったのでしょうか。



[215] 別の文献との比較

投稿者: masami 投稿日:2018年 5月28日(月)19時26分22秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

中村有希「埼玉県における馬頭観世音の変遷と地域性」によれば埼玉県域の近世年代確定建立数は1074基を認め先の馬場俊介氏文献で取り上げられている建立数は235基で約1/4以下となっており、又長野県須坂市の文化財調査報告第4集のデータでは26基が認められるが先のデータでは1基のみが掲載されていただけであり、各地域での欠損データ数は均等ではないので、あまり細かい解析は出来ないと思われますが、ここに挙げた大雑把な解析程度は出来るものと考えます。是れまでの調べでは江戸期の流通と関連させた研究は検索に掛かっていませんのでどこかの大学の研究室で取り上げてもらえるとうれしく思います。又、中村有希氏の文献に掲載されている年代ごとの建立数を形態別に分けずにグラフ化させたものを作りましたが、これによると1850年代に建立のピークを迎え次第に減少していくところ1890年代から再び増加に転じ1920年代にピークを形成しているものとなっています。この文献にはピークの意味合いは考察されていませんが、明治維新と日清日露による流通の落ち込みがあって1920年代には回復したがその後は外の流通手段に置き換わっていったものと考えられます。



[214] 関東一円

投稿者: masami 投稿日:2018年 5月20日(日)09時41分16秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

是れは関東圏の市町村区画の地図に市町村単位の馬頭観音建立の有る無しを色別に塗り分けたものです。黄色は1基以上の建立がある市町村で緑はその県域で建立数上位5カ所の市町村を示します。埼玉県熊谷市が一番多く建立されていましたのでその地点を基点に緑の区域を中心に適当に青色の線で結びましたが、そこに実際の街道があるかはまだ調べてはいません。それでもそこに熊谷市から関東一円に広がる流通網が浮かび上がっているように見えます。
 市川健夫「日本の馬と牛」によれば、中馬運送は武州八王子の農民が農閑期に副業として生産物を江戸へ販売したことより始まり、各地に伝搬し寛文以降専業化をし、規制のない脇街道を使い宿場での中継ぎもなく、宿駅口銭を取られることなく、既成の運送業に比べ安価で速い輸送手段として主要街道沿いに広がっていったが、そのことで宿駅関係者との間で争論となるも、明和元年中馬慣行が公認となって更に広がり、ことに内陸水運の発達していない信州・甲州・奥三河では其れに代わる所謂”岡船”として発展したとされる。しかし、同地域での馬頭観世音の道標は、関東地区と比べきわめて少なく、民間信仰に地域差があるのでしょうか、それとも元データに欠損が多くあるのでしょうか、あるいは流通量に格段の差があるのでしょうか分かりません。



[213] 今回は馬頭観世音

投稿者: masami 投稿日:2018年 5月18日(金)05時56分48秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

上社村の馬頭観音は祠の中に安置され大切にされていますがその建立の謂われは定かではありません。恐らくは馬の供養のため建てられたものと推察しています。猪子石の馬頭観音も急死した馬の供養のため建てられているようです。しかし、全国的には道標として街角に建てられ謂わば交通安全を祈願したものであるようです。先の秋葉山常夜燈全国調査のデータとして取り上げた岡山大学名誉教授馬場俊介氏のWeb公開された「近世以前の道路遺産」の中から馬頭観音の石碑を取り上げて同じように解析してみました。どの地方にいつ頃から建てられどのような種類があるのかを見てみました。地図上に都道府県単位で建立数を示します。その殆どは関東に有り一部中部地域や東北南部に広がっていますが、其の外の地域では殆どか全く見られない分布となっています。年代のはっきりしたもので何時から建てられたのかを見たものでは茨城の万治3年の道標を除けば概ね1600年代終わりに埼玉で建立が始まり1700年代初めから近県の関東一円に広がり東北南部や東海に伝わっていったようです。当該データに挙げられているものは全部で667基あり、観音像が刻まれているものが209基、馬乗り像として刻まれいるものが15基(内14基は千葉県に有り)、馬頭観音の文字だけのものは443基となっていました。これは民間信仰の一つではありますがどこかに本山があるようなものではなくその名の通り馬と結びついて流通業の展開と関連していると思われ、埼玉は、昔流には武蔵国の埼玉領域は、江戸の流通拠点であったのかも知れません。それ故、武蔵国の隣接国に次第に広がっていったのではないでしょうか。



[212] 秋葉山常夜燈から見た秋葉信仰の拡散

投稿者: masami 投稿日:2018年 5月 6日(日)17時43分48秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

「近世以前の道路遺産(道標・町石・常夜燈)の本質的価値判断に関わる評価基準」の中に常夜燈の建立年代のグラフが掲載されていましたがその中には秋葉山常夜燈以外の常夜燈がかなりの数含まれていましたので元のデータとして岡山大学名誉教授馬場俊介氏がweb上で公開されている道路遺産のデータの中から名称中に秋葉山常夜燈が認められるものを抜き出して全国調査としましたがこの中には上社村、猪子石村のデータが入って居らず外にも抜けているデータが沢山あるものと思われますがそれでも一定の傾向は出るものと考えまとめを行いました。一つには都道府県別建立数を纏めました。一つには建立年代のデータですが年代がはっきりしているものだけを更に抜き出していつ頃から秋葉山常夜燈が建てられるようになったのかを纏めました。建立年代の10年ごとのヒストグラムを示します。1750年代から建立が始まり1820年代がピークとなりその後次第に減少して行きますが1870年代以降データは掲載されていません。一番古いものは1756年愛知県新城市豊岡のものでした。次に都道府県別の建立数ですが一番多く認められたのは愛知県の301件で次に静岡県の134件、東京の23件、岐阜の8件でした。市町村別には愛知県では豊田市74、岡崎市47、新城市45、西尾市40でした。静岡では浜松市87、森町7、静岡市7でした。愛知が多いと言っても殆どは三河地域となります。江戸期の国別に見たヒストグラムを作りました。東京から四国にまで分布していますがその殆どは三河国と遠江国です。遠江から建立が始まっていますが寛政期からの建立は三河地域の方が主流になっています。遠江といってもその殆どは浜松となります。全体のヒストグラムからは1750年代から30年ほどの第一次建立ブームと其れが終わった頃からの第二次ビッグブームから形成されています。後のビッグブームの主体は三河地域であったようです。農村における秋葉信仰として、稲作の害虫であるウンカを退散させる虫送りや、日照り続きの時の雨乞い、と結びついて、秋葉山からもらい受けた火を儀式に使っていたこともあるようです。



[211] 九頭竜湖

投稿者: masami 投稿日:2018年 4月24日(火)11時45分36秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

これは九頭竜湖に沈んだ村々の村社が纏められて祀られた穴馬総社です。今の時期桜が満開となっています。朝日の方に降りていくともう散っていました。今年も雪が多くこの日も日影にはかなり残っていましたが日の当たるところはすっかり溶けてコゴミも開いてしまっていました。でも道ばたの蕗の薹は丁度良い状態で見受けられました。雪の上を歩くのは疲れます。時にはずぼっと落とし穴になります。



[210] 馬頭観音

投稿者: masami 投稿日:2018年 4月19日(木)17時47分39秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

三面八臂の馬頭観世音で頭は赤く塗られた跡が残っています。像容は憤怒相で、手の二本は前で合掌し、下に下ろした手には宝珠を持ち印を結び、右手に斧と剣索を左には法輪と水瓶を持っています。観音像台座の背面には馬鉄と肩書きされ10名の名前が名字と共に彫られ、左右側面には起意の肩書きがされ左右それぞれ7名ずつ彫られていました。その中で生年月日が分かっている人の一人は明治32年生で37歳で家督相続していますので昭和11年以降の建立ではないかと思われます。全員で24名の馬持ちが居たことに成ります。この頃は”おまんと”の馬も十分居たことに成ります。しかしこの頃から軍馬として供出が始まっていましたので或いはそのことと関連したものであるのかも知れません。軍馬の供出は日本中にわたり根こそぎであったようで1頭も帰ってはきていませんので供出時点で彼らの供養のために建てたものかも知れません。昭和版猪高村誌には軍馬の供出の記述はありませんでしたが、軍馬用の大麦保有調査が昭和12年8月に行われていますし、翌13年には国家総動員法が出されています。



[209] 最後の石碑

投稿者: masami 投稿日:2018年 4月18日(水)16時49分23秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

嘗ては火の見櫓脇にあった馬頭観音が今は観音寺参道階段の登り口に移動されています。この像を調べることをつい忘れていましたので今日見てみました。砂岩によるもので台座前面には 大字上社馬持連中 とあり側面にはおそらく建立当時馬を持っていた人の名前が彫られていました。両側面と背面にびっしりと30-40名が彫られています。間が狭くきちんと確認が出来ませんでしたが年代は何処にもありませんでした。姓名から判断するとそれほど古いものではないようです。何とか工夫して全員の名前を確認しようと考えています。



[208] 只今勉強中

投稿者: masami 投稿日:2018年 4月16日(月)16時23分49秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

田村貞雄は「秋葉信仰の新研究」の「第一節東海道における貞享秋葉祭の流行」の中で次のように記述している。この節の結論をそのまま引用させてもらいます。

以上の十七点の史料をつなぎ合わせると、貞享秋葉祭は、掛川領の袋井北郊の山梨村・宇刈村(下村)を発祥地とし、村送りによって東は大井川を越えて島田・藤枝に至り、西は三河・尾張の東海道を通って、伊勢国に入って、鈴鹿峠の手前の関・坂下附近まで、東西二方面にわたって伝えられていったことが分かる。そして東は島田代官所および藤枝の田中城主、西は京都所司代によって禁止ないし制止されている。こうして貞享秋葉祭をきっかけに秋葉三尺坊大権現の名は、東海道各地のみならず、全国に知られるようになった。戦国時代末期に越後から遠江北部にもたらされていた秋葉信仰は、流行神となることによって、はじめて広域化、大衆化しえたのである。

貞享秋葉祭が起こった貞享二年は1685年となり上社村に秋葉山常夜燈が建てられた寛政九年(1797)までは100年以上の期間が空いている。末端の村々に秋葉信仰が実際浸透するのにはこれだけの期間が必要であったということである。馬場俊介らの「近世以前の道路遺産(道標・町石・常夜燈)の本質的価値判断に関わる評価基準」の中に常夜燈の建立年代のグラフが掲載されています。年代は20年ピッチとなっており、常夜燈の対象は秋葉山だけではないのですが、これによると1760年から増え始め1820年が建立のピークとなっています。増加の殆どは秋葉山常夜燈と考えても良いものと思われますが、寛政年間は1789~1801年で、ほぼ寛政の初めから常夜燈の建立が始まり寛政期の終わりにピークを迎えたと考えられます。別の文献では、岡崎伝馬町の杉山家文書には秋葉講は明治時代まで「寛政講」と呼ばれていたと記述されています。このことから、上社村では秋葉信仰はその流行のただ中に始まっていることが分かります。秋葉堂が観音寺境内に造られるのは翌寛政十年で、暮れ間近になると秋葉講として代参して授与された秋葉札を秋葉社に納め僧侶の祈祷を受けて各家庭に配布をしていたものと思われる。



[207] 西国三十三所巡礼和讃

投稿者: masami 投稿日:2018年 4月14日(土)17時55分51秒 i121-113-173-197.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

観音寺は城東西国三十三所巡礼の21番札所となっていましたが、その故なのか西国三十三所巡礼和讃の写本が残されていました。この西国三十三所巡礼は熊野の青岸渡寺に始まり和歌山、大阪、奈良、京都、兵庫を巡り岐阜は谷汲の華厳寺で結願となる日本で最も歴史がある巡礼行である。結願と言うからには何かの願をかけ満願の折には其れが実ることを求め自らに苦行を科すものです。御嶽の歴史の中で岩崎山に御嶽大権現を勧請する話として明寛、明心二人がこの霊場巡りに出て霊夢を得て実行したとされています。此の時、明寛37歳、明心23歳出立は2月の一番寒い頃とされています。おそらくは最後の華厳寺まで巡ったものと思われますので当時どれくらいの日数が掛かったのかを計算してみました。
 西国三十三所巡礼の全行程は1010kmあるそうで、現代の人が歩いて36日掛かって結願をされたとのことですが、江戸時代の健脚で祈願のある人ではもう少し短かったのかも知れません。この工程に名古屋熱田神宮から伊勢神宮を経て青岸渡寺までの273kmと結願の華厳寺から熱田神宮までの工程59kmを加えると1342kmとなり現代の人と同じ速度で歩いたとすると49日で全行程を終えたことになります。若い二人で急いでいたことも考えると45日程度ではなかったかと考えます。2月の初めに出立して閏3月半ばには戻ってきていることになります。そこから多くの煩雑な手続きを経て8月に勧請されて11月に鎭座祭を行い明心の父古伯が12月に亡くなっています。かなり差し迫ったものが感じられます。
 観音寺から離れてしまいましたがこの巡礼和讃の判読と合わせて御詠歌の表示をしてみましたので参考にして下さい。和讃は少し曲のある字でしたが何とか意味は通っていますので大きな間違いは無いと思います。因みに当観音寺の御詠歌は

     萬世に  松も栄えて
       観音寺
     佛の恵み
       深き山路と

http://www13.plala.or.jp/masamiyama/_src/sc280a/西国巡礼和讃.pdf


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