勝手じいさんのつぶやき



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


313件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[331] 町屋との繋がり

投稿者: masami 投稿日:2020年 2月26日(水)06時32分53秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 出来町東之切の山車は文化2年上町より名も無い山車を購入したものだが、戦火で焼失し、戦後に山車と人形を新しく製作している。前熊の山車は文化2年、東区出来町で所有していた山車を譲り受けたと伝わっている。とすると東之切が上町の山車を購入するまで持っていた山車が前熊に渡ったことになる。前熊の山車と岩藤の山車が似たところがあり呼び名も「ちょうちんぐるま」としていることより、前熊の山車を参考に明治24年岩藤が地元の大工により山車を新造したものと思われる。
また、大森は明治9年駿河町より購入した山車を曳いていたが明治中頃再購入したとも、新しく製作したとも伝わる。今ある山車には車輪の一つに天明5歳四月(1785)の銘があり、他にも江戸期の部材があり、少なくともすべてを新調したものではないようである。もしも再購入したものとすれば、筒井町が神皇車を広井村新屋敷から明治20年再購入した際、それまで曳いていた山車を大森が譲り受けたものではないかと考えられる。その際山車で演じられる囃子と神楽も一緒に伝わったのではないかと考えられる。

 江戸時代の後期、熱田神宮には神楽座があり、宮神楽(雅楽)と里神楽が伝わっており、市中の神社にも頻繁に演奏に出かけていたが、神仏分離令により里神楽が排斥されることとなり、担当者は職を失った。彼らは職業として神楽を演奏したり教えたりするようになり、高針や猪子石でも教えを受け、高針では一時廃れかけたが保存会結成により再興されている。大森八釼神社の宮神楽は明治の初め他の村から取り入れ伝承したのが始まりで、その後次第に廃れかけたが、昭和58年大森宮神楽保存会を設立し再興している。味鋺と同様、恐らくは猪子石から伝わったのではないかと思われる。高針の隣、下社の神楽はその演奏内容から高針の影響を受けている。




[330] 臨時隔離病舎の場所

投稿者: masami 投稿日:2020年 2月16日(日)05時32分10秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 大廻間奥地の猪根にあったとされる臨時隔離病舎と火葬場の場所を想定した。
穢物処理所がある位置の近傍で空き地となっているところを探した。穢物処理所脇を奥へ登って池を超えたところに火葬場と思しき場所が、そこから下って左手の方に行ったところに広めの空き地があり、ここを臨時隔離病舎跡地とした。開かれた地であるにもかかわらず畑にも利用されていないことより判断した。更に隔離病舎の方へ降りずに石積みされた切通しの通路を抜けて一つ北側の迫間に移り西の池を降りるとそこが越前で、後に火葬場が造られることになる山がある。又、大廻間南の山の東端のでっちょう池の北の丘の上には神丘の火葬場が造られることになる。この猪根の火葬場で死体の焼き方を学んだ門徒たちが、本来火葬を奨励されていたことから、自分たちで火葬場を造り葬儀を行っていったと思われる。大正二年のことである。



[329] 猪子石村の「島」と「切」について

投稿者: masami 投稿日:2020年 2月 8日(土)17時51分48秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

愛知県図書館絵図検索にある近世の村絵図、愛知郡絵図、尾張国明細図に書き込まれた猪子石村の「島」、「切」の名を書き出す。

寛政期村絵図    :引山島、向島、新屋敷島、中島(本地)、東服島、前山島、八枚島、新田島
江戸後期尾張国明細図:引山島、向島、新屋敷島、中島、猪子石、前島、 八枚島、新田
江戸後期愛知郡絵図 :引山島、(向嶋、新屋敷嶋、中嶋、)北屋敷、東島、東ノ切、中ノ切、西ノ切、新田
明治十五年愛知県郡町村字名調:東島、中島、前山、八前、引山、新屋敷、その他

 寛政期の絵図への島名の書き込まれ方を見ると、家並が描かれ、それに対して島名が書添えられている。この中で中島には本地と但し書きが添えられている。猪子石の本の地の意味であるというのか。国明細図は本村が東服島から猪子石に改められている。愛知郡図は島名と切名が混在したものとなっている。しかし、郡絵図には一部落ち(向島、新屋敷島、中嶋)があるように思える。江戸後期に近い明治24年の国土地理院地図を見てみると東島、前島、八枚島の集落が繋がっていて本村猪子石が出来ているため、島とは呼べなくなり、道路などで境界を定めて東・中・西に分け、出来町で行われた分け方を真似て東ノ切・中ノ切・西ノ切としたと思われる。江戸後期愛知郡絵図の元になった愛知郡猪子石村絵図面』(年代不明)には、「引山嶋」「向嶋」「新屋敷嶋」「東嶋」「北屋敷嶋」「中嶋」「東ノ切嶋」「西ノ切嶋」「中ノ切」「新田」と記されている。一体となったとはいえ東嶋だけは元のままの島名を使い前島と八枚島が三つの切島に分かれたようである。明治十五年愛知県郡町村字名調には既に切名の字はなくなって東島、前山、八前が使われている。しかし、一宮村に牛野南の切が名古屋区に矢場町(一の切~五の切)、新出来町(西の切、中の切、古出来町筋など)などが残っている。

ネットで「東之切」を検索しても
岡崎市正名町東之切
中川区下之一色町東之切
海部郡蟹江町西之森字東之切
海部郡蟹江町大字須成字北刎畑東之切
一宮市木曽川町黒田酉新田東ノ切
一宮市萩原町高松字東郷裏東ノ切
一宮市萩原町花井方東天神東の切
一宮市木曽川町黒田往還東東ノ切
等、今でも多くの地名が挙がってくる。

 ある一体となった集落のエリアの区切りとして東西南北上中下漢数字の「切」が使われている。そこが町場でも村落でも同様である。ただ、村落は田畑が主であるので集落が小さい当初は「島」が集落の名称として使われる。猪子石村の本村のように集落が広がり幾つかの「島」が一体となった時に初めて「切」が使われるが、猪子石村では「切」の後に「島」がついた集落名となっている。
 他地域では明治以降の字名に「切」が残っている所がある。祭事に関しては「島」単位で独自のものが行なわれているので、民間信仰の祠や常夜灯などもそれぞれの「島」で祀られている。集落がくっ付いたとは言え祭事を継続するため「切」を使い分けたのであろう。

明治24年の地図は今昔マップより取ってある。



[328] 猪高村の火葬場

投稿者: masami 投稿日:2020年 1月25日(土)11時47分2秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

猪高村誌の猪高村五十年の歩みの中に、明治四十年の記述として
「二、伝染病隔離病舎に関する件
  敷地問題にて困難を生じ、位置に中央地域と決したが受入部落が無く、次期を待つ事として着工出来ず。」
とあり、国から言われても部落から反対されて先延ばしにしていたが、
「大正二年赤痢が南部地区に大発生したため高針大廻間(通称、猪根)に臨時隔離病舎を建て、鋭意予防に努力した。伝染経路は他町村病人見舞からのようであった。」
とある。

大正二年赤痢病流行記事(愛知県出版)に依れば
「郡内初発は6月18日、日進村の1名から始まり漸次蔓延し猪高村に及び最も流行を極めたり」
とある。その統計は
愛知郡
患者総数   70名 死亡数14名 全治56名
隔離病舎収容数56名 死亡数13名 全治43名
自宅治療数  14名 死亡数  1名 全治13名
であり、高針だけの統計は無い。高針初発は見舞いに連れて行かれた幼児であった。単なる下痢と思われ蔓延した。高針の臨時隔離病舎に5人以上入院していれば少なくとも1人以上が死亡しており火葬場も使われたことがあると思われる。唯、入所は強制収容では無く自宅治療も許されており、しかもその方が死亡率は低かったようだ。比較的軽症の病者は自宅治療に任せたからと思われる。

死亡者は火葬が義務づけられたため、隔離病舎の300m以内に火葬場を建てる必要があった。しかし、いわゆる迷惑施設であったため、流行が収まると速やかに破却されることが前提であったので、臨時隔離病舎は燃やされた。しかし、もともと火葬が奨励されていた浄土真宗の村であったことから、火葬場は神丘の山に移され西山、北島の火葬場として使われ、又、同じ浄土真宗の下社の火葬場として越前にも建てられ戦後まで使われた。古老の話では風向きによっては、何とも言えない臭いが上社まで漂っていたとのことである。どちらの火葬場とも昭和30年迄は使われており区画整理事業により村落から町場に移行する過程で撤去された。

写真は空中写真画像データ1947年UR517No1コース番号CA写真番号81から当該箇所を印す。上は神丘火葬場、下は越前火葬場。



[327] ホッサイ考

投稿者: masami 投稿日:2020年 1月20日(月)08時36分26秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

文献にある「おまんと」の掛け声を集めてみた。
長久手  「エイサイ,ホッサイ」
菱野   「ホッサイ、ホッサイ」
高針   「ホッサイ、ホッサイ」
猪子石  「ホッサイ、ホッサイ」
尾張旭  「ホッサイ、ホッサイ」
大森   「ホッサイ、ホッサイ」
文献内にはその謂われを書いているものは無かった。
同じ大森合宿に参加していた村の中でも長久手だけは掛け声が別のものになっている。一緒に掛け声を出すときも独自のものを使っていたのか迄は分からない。長久手の人のブログには「エイサイ、ホッサイ(栄作、豊作)」と書かれているものを見掛けている。別の人も「ホッサイ(豊作)」と書いている。菱野文化財調査保存会の人は「奉齊」と聞いているとしている。はたしてどうであろうか。長久手の「エイサイ,ホッサイ」から類推すると「エイサイ」は栄歳で「ホッサイ」は豊歳であると考えることが出来る。農民の掛け声で、豊作の年に「おまんと」が出されていたことを考えると「ホッサイ」は(豊(作の)歳)で良いように思われるが、蓬左文庫の井上は「ほうさい」が「ほっさい」となったとし、その漢字表記は「奉祭」、「奉賽」、「奉斎」など神仏に対して感謝を込めてお参りすることとしている。漢字表記として「豊歳」も追加しておく。野原の中で鉄砲隊が「ホッサイ、ホッサイ」と掛け声を出して一斉に空砲を撃つ様は真に豊作感謝の花火である。
 猿投の「おまんと」の掛け声は歩いて行進するときは「ホッサイ、ホッサイ」と言っており、馬と共に走り回るときは「ホイサ、ホイサ」と言っているように聞こえる。天王森建速神社の天王祭、七度参りの時には「エイサ、ホイサ」と掛け声を掛けながら神前に進みお参りをし戻るときも同じ掛け声で戻る。長久手の掛け声に近いものがある。

 愛知県棒の手保存連合会が編集発行した「愛知の馬の塔と棒の手沿革誌」の中に「『ホッサイ』、『ホッサイ』と掛声勇ましく威風堂々と進む。伝えによれば、空砲は悪魔を払い除ける意味を持つものであり、掛け声の『ホッサイ』は豊年を意味するという。」と記述されている。そうすると「豊歳」で良いように思えてくる。しかし古には別の掛け声であったことが「尾張年中行事絵抄」に記述されている。米野木村行列の項に「競子(けいご)異口同音にヤサ々々とはやしてかしましき程なり」とあり、猿投馬之頭米野木出合の項にも「天を焦す数万人のヤサヤサとさながら鯨波(ときのこへ)かと疑う程にいさましく」とあり、文政から天保年間には「ヤサ・ヤサ」の掛け声であったことが分かる。同じ尾張年中行事絵抄五月の部に「やさやさと囃子事は昔弥三郎(名古屋塩町之人)といふ者、馬を献ぜしより、言い初むる由」と謂われが書かれている。それが何処かの時点で「ホッサイ、ホッサイ」に変わったことになる。
 また、猪子石山の手福部組天王祭の「ホッサイ」の掛け声が馬の塔から来ているものだとすれば、人が担いで域内を回る猪子石の山車(だし)は馬の鞍に乗せた「標具(だし)」から来ていると思われ、「山車」と表記するのではなく「標具」とした方が適当と思われる。




[326] 囃子考

投稿者: masami 投稿日:2020年 1月 4日(土)08時48分18秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 上社天王祭で演奏されている囃子の名称は「しょうなか」、「しんしぐれ」、「ぜんご」、「おかんばやし」とされている。西一社貴船社の天王祭で演奏する「打囃子」の曲目は笙中、道行、前後、神馬とされる。「しょうなか」は笙中に「ぜんご」は前後に「おかんばやし」は神馬に対応するものと思われる。お神馬ばやしが詰まって「おかんばやし」となったもので、名称としては同じと考えて良いと思われる。近在の囃子の名称を調べても「神馬」、「おかんばやし」、「ぜんご」を使っているところは見当たらない。曲調に関しては音痴であるため、少しでも似ていれば同じに聞こえてしまうため、調べられないので分からないが、名称だけでも上社と一色はルーツが同じであるように思われる。唯、曲名が同じでも其の地での変容を経ているため、曲の内容が同じとは限らないが、400年の繫がりである。
 下社の十王堂で奏でられる笛の演題は「貴船太鼓(旧名岩崎太鼓)・いち」「早打ち祇園囃子(旧名たかばり)」「祇園囃子」「掛け持ち」「新囃子」「新時雨」「三本絡み」「腹くだり」となっており、この地も曾ては伝統が途絶えたことがあるとのことではあるが、演題名での繋がりは「新時雨」だけである。曾て三つの部落の囃子を一堂で演奏し合った結果では、よく似た曲が演奏されていたと伝わっている。曲調まで比べれば上社・一色と同じ系列の囃子が演奏されているようだ。一方、貴船社の秋の大祭では「神楽」「太鼓囃子」「月櫓」「神明神楽」「三人舞」が演奏されている。直ぐ南には高針があり、ここでは熱田神楽が継承されている。その演題名はおかめ、佐京神楽(サッキョウ)、岡崎神楽(おかざき)、お天道、神明神楽、月矢車(ツキヤカグラ)、神明神楽の裏とされている(熱田神楽・宮流神楽ホームページ参照)。「月櫓」が月矢車に、「神明神楽」が神明神楽に、「三人舞」が佐京神楽に対応しているものと思われる。下社の神楽は高針の影響を受けているようだ。
尾張旭市ホームページ無形民俗文化財の項に
印場北島地区:瀬戸ばやし、時雨ばやし、田楽ばやし、新居ばやし、北ばやし、夕陽ばやし、神楽道行ばやし
庄中地区  ;瀬戸ばやし、時雨ばやし、田楽ばやし、庄中ばやし、鳥居ばやし、新時雨ばやし
井田地区  :瀬戸ばやし、時雨ばやし、庄中ばやし、祇園ばやし
とある。
「尾張の山車囃子」によれば出来町、筒井町の山車で演奏されている囃子は
王羲之車:車切、人形囃子、そそり(早神楽)、神楽、帰り囃子
河水車 :車切、人形囃子、神楽、帰り囃子
鹿子神車:車切、人形囃子、そそり(早神楽)、木遣り、下がり端、帰り囃子
神皇車 :車切、人形囃子、早神楽、どんてん、開花
湯取車 :   人形囃子、あめふり囃子
とされる。
また、熱田神楽・宮流神楽ホームページには各地の神楽、お囃子が纏められている。
岩藤天王祭で演奏される囃子は「二」「しゃぎり」「しぐれ」とされる。「二」は熱田神楽・宮流神楽ホームページによれば神楽二本目(おかめ)と思われる。他に神楽一本目(さんみつ下がり)も演奏されていたようである。車切は山車囃子で王羲之車、河水車、鹿子神車、神皇車などでも演奏されている。能管の曲「鳴海囃子(車切)」として熱田神楽・宮流神楽ホームページに紹介されているものと同じように聞こえる。「しぐれ」は尾張旭の「時雨ばやし」に相当するものと思われる。
 大森天王車の道行きに演奏されている囃子は出来町にも近い故か車切の様に聞こえる。明治の半ばに再購入したと伝わる山車のこともあり、そうすると此処で演奏されている神楽も出来町で演奏されている神楽が伝わっているのかも知れない。



[325] 分村の訳

投稿者: masami 投稿日:2019年12月26日(木)12時54分26秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 今、この地域と周辺の天王祭について調べるお手伝いをしていますが、その中で、曾て社村であった地域の上社、下社、一色の天王祭の様式が殆ど同じであることに思い至りました。社村が分村したのは、織田信雄検地から備前検地の間であったことは以前指摘しましたが、分村後の地に伝わった天王祭の様式が変容はあるものの似通っていることは、曾ては一つであったことを思わせます。竹に提灯をぶら下げて、竹竿に太鼓を括り付け囃子(笙中、前後、神馬等)を演奏する様式であるわけで、上社と一色は社村の侭天王祭が受け継がれ、下社は十王信仰に結びついた祭として継続されてきています。分村の理由は分かりようもないのですが、その理由の一つに下社の宗教の影響があったように思えてきます。メインの信仰である寺の宗教が民間信仰に影響を与え、分村にも幾ばくかの影響を及ぼしたのかも知れません。社村に貴船大明神があったにも関わらず、山王権現をお祀りして貴船大明神を疎かにした上社地区と、真宗の檀家が殆どとなっていた下社地区の間で争論が起こり、土地の帰属もからんで分村に至ったのではないかと想像しています。



[324] 乞食野

投稿者: masami 投稿日:2019年12月17日(火)05時58分0秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 絵図上で、未だに非人集落「本山」、「東山」、「下山」を探す旅をしている。寛政期の村絵図御器所村には村の外れに村西三昧と無常堂を伴って乞食野が描かれている。玄海のある地より南で熱田にも近い位置に当たる。辞書に、無常堂とは「無常院、涅槃堂などともいう。病人など死期の迫った者を収容する施設で、収容された者はここで看病を受けつつ臨終を迎えた」とある。或いは「火葬場」を指す。このような地であるからにはキヨメに携わる者達も居たであろうから、非人の集落も在ったと考えられる。この地が「下山」の地に当たると今のところ考えている。

 (『平家』余聞――海峡からの展望 宮田 尚)によれば「無常堂とは、四隅にガラス製の鐘があり、祇園精舎で終末期を迎えた僧たちが、最後のひとときを過ごす場所いわばホスピスである。彼等が臨終を迎えると、建物の4隅に配されていたこの鐘が、ひとりでに鳴ったという。清涼と表現される妙なる音色で、余命幾ばくもない病僧の心は、この音で安らいだという。」所謂、諸行無常の響きなのだ。しかし、日本にあっては、近世の尾張国にあってはどのような施設であったのであろうか。池見澄隆によれば「日本では、平安末から鎌倉時代にかけて多くの寺院で設けられたことが、往生伝などから知ることができる。阿弥陀仏の来迎を得て往生するための臨終行儀が行われる施設であり、当時の往生思想や念仏の在り方などが、実際的に具現される場であったといえよう。」往生要集以降、日本の浄土信仰における臨終行儀は、死に際してその場に臨む全ての人々が念仏を行うことと同義となり、この流れはまずは平安時代の貴族社会において定着していったとある。それでは何処の寺の施設であったであろうか。近くの浄土宗か浄土真宗の寺を探すと東別院が候補に挙がる。一本道で無常堂まで来られるようになっている。しかし名古屋別院史を調べても無常堂に関する記述は見つからなかった。尾陽往生傳に無常堂で過ごしたという記述も出てこない。少し北の古井村との境飯田街道沿い(後の吹上)に火葬場(やきば)があったのと、東別院への道は登城街道と呼ばれ、御器所村内の門前には芝居小屋も置かれていたとのことで、人通りの多そうな街道には火葬場ではなく臨終行儀の場であったと考えた方が良さそうである。御器所村内には西福寺という浄土真宗の寺があるが、此の寺の由緒には詳しいことは書かれていないので調べようがないが、村西三昧の一角に無常堂は有り、ひょっとすると此の寺の施設であったのかも知れない。
 後の吹上の「やきば」は明治30年に竪三蔵の愛知監獄が移転するときに鍋屋上野村の焙烙街道沿いに三明火葬場として移り、そこは大正4に八事斎場が出来てからも戦後まで併用されていたとある。しかし村落の上社地域にあっては、十分な敷地があり、高価な火葬ではなく昭和37年迄土葬が行われていた。

 大日本帝国陸地測量部 名古屋東部 1891(明24)測図 発行年月日1893/07/29(明26)には、野原の一部に墓地があり道に囲われたところに集落を認めている。又、吹上火葬場も認められる。江戸期の痕跡が残っている。



[323] 馬捨て場

投稿者: masami 投稿日:2019年12月11日(水)10時03分57秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

 長久手村には近在では唯一馬捨て場が書き込まれている。道路で繋がった近在の村、長久手、大草、前熊、北熊、猪子石、藤森、上社、一色、下社、高針、岩崎、藤島を合わせると寛文時代には245頭、徇行記時代には64頭の馬がいた。この馬捨て場からそれほど遠くないところに処理をするための施設があったと思われる。



[322] 森庄蔵

投稿者: masami 投稿日:2019年12月10日(火)14時23分13秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

 昔から気になっていたことの一つに、森本家文書の森庄蔵は森庄蔵長可と関連があるのかということがあったが、此の二人は時代が大きく異なっていた。年表を記すと

応仁元年 (1467)森庄蔵次男三蔵忠之 生誕
文明十五年(1483)森庄蔵次男三蔵忠之 上社の地へ 森本三蔵と名乗り百姓として籠もる
天文十六年(1547)     三蔵忠之卒 80歳
永禄元年 (1558)森庄蔵長可 生誕
天正十二年(1584)森庄蔵長可 27歳卒

となり、上社の森庄蔵は森庄蔵長可からは百年以上前の人物である。居城は長久手街道池の近くで上社の集落からは離れている。時代も地域も異なっていることからは関連は無いと思われる。



[321] 児ノ宮

投稿者: masami 投稿日:2019年11月28日(木)12時43分27秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

残念ながら孤児の施設では無く「児ノ宮」と書かれており十二所権現の内、五所王子の宮(小守の宮(本地聖観音)・児の宮(本地如意輪観音)・聖の宮(本地龍樹)・禅師の宮(本地地蔵)・若王子(本地十一面観音))の一つでありました。小児の守護神である由。桃厳寺には信秀が所有していたと伝わる辯天画像や竹生島から勧請した十五童子像を守護神として祀っているが、桃厳寺の守護神は児の宮と言うことだと思われる。

寛文村々覚書1672 一宮
蓬州旧勝録 1779 一ノ宮
絵図    寛政 児ノ宮
尾張徇行記 1822 児宮社内松林五畝
尾張志   1844 一御前社
絵図    1846 一之御前 御除地 五畝歩
絵図    不明  一之御前 境内 五畝歩 御除地

江戸時代の初めには一宮と称し、中頃には児ノ宮と、後期には一ノ御前と称していたことになる。今は其の場所に名古屋大仏が建ち痕跡は無い。



[318] 小瀬新太郎と小瀬新右衛門と小瀬新左衛門

投稿者: masami 投稿日:2019年11月22日(金)08時34分16秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 森本家文書に記述されている御用人は「小瀬新左衛門」とある。観音寺文書中は「小瀬新右衛門」とある。士林泝洄によれば御用人から大番頭にまで為ったのは忠次で小瀬新右衛門と名乗り、その息子忠昭は「小瀬四郎三郎」と名乗っており御書院番頭まで為り延宝9年(1681)卒で父親より先に死亡している。次男は忠智で小瀬三五郎から小瀬新右衛門と名乗り寄合と為っている。忠智の子珠真は官職の記述が無く小瀬新左衛門と名乗っている。ひょっとしてこの珠真こと小瀬新左衛門が出家をして代々小瀬家が住持を出してきたものかも知れない。森本家文書はこの名と取り違えたものと思われる。

この頃「ひょっとして」が多くなっています。

 藩士名寄には安永年間から明治初めまで三人の小瀬新太郎が載っていた。中には官職の経緯があるだけで欲しいものは無かった。御目見よりは新右衛門を代々名乗っていたようだ。観音寺にあった古地図には弘化四年と殆ど同じ記載でそこに小瀬新太郎の領地が書き込まれていたが上社村一圓とは成っていなかった。大沢金十郎(天保二年から名乗り元治元年隠居)が七カ所と御蔵入が五カ所認められた。先の布袋の位置は弘化四年の絵図の位置では布袋と成っているところが布袋迫間とされ、大久手とあるところが「ほてい」と書き込まれてあった。布袋迫間東の台地が布袋の地であったようだ。年代は天保十二年六月。



[317] 東山は布袋非人所

投稿者: masami 投稿日:2019年11月20日(水)09時36分42秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

「近世尾張の部落史」によれば入江町の惣内を頂点とし、新屋敷、玄海、西に土器野、枇杷島、甚目寺、東に本山、下山、東山などに非人集落があったとされる。この内、東の下山、本山、東山は地図上の位置さえ分かってはいないが、下山だけは熱田辺りにあったと推定されている。布袋非人所なる場所は、ちょっと町から遠く離れてはいるが、ひょっとして東山の位置に当たるのかも知れない。何の根拠も無い話であるが。
「近世尾張の部落史」の付録にある杉浦弥八御用帳には、「五四オ」の項目に破牢をした探索に東山頭甚兵衛が出て清須宿にて捕まえたことが書かれている。他に「四三ウ」にも東山頭甚兵衛が書かれ、他に「四八ウ」には「山々」と書かれたところに甚兵衛があり、「山々」とは下山と合わせた呼び方と思われる。「五五ウ」には人が足りないので首切り役を頼まれたが下山、東山とも断ったと書かれ、都合四カ所に東山が出てくるだけで御用の殆どは入江町、新屋敷の人達が担当していた。山々の頭は首切りが出来るような技術は無いようである。この御用帳の中には本山の地名は現れてはいない。



[316] 小瀬新右衛門忠次

投稿者: masami 投稿日:2019年11月11日(月)11時30分13秒 i58-94-177-51.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 尾張群書系図部集によれば、小瀬新右衛門忠次は下方氏の家系にあり小瀬伊織と称し尾張藩御用人、大番頭を務め元禄二(1689)年七月三日卒すとある。
 士林泝洄には「忠次 小瀬伊織 新右衛門 敬公の御代に御小姓として召し出され、俸を賜る。後、五十人頭及び長囲炉裏頭と為り後、舅石川甚四郎其の領六百石を頒かつ。万治二(1659)年亥六月廿一日御用人と為る。同年十一月十五日倍す四百石を加う。寛文五(1665)年巳十月十二日倍す百石を加う。十二年子五月十三日大番頭と為る。貞享二(1685)年丑二月十日致仕し是安と号す。元禄二年巳七月三日卒す。」とある。
 観音寺位牌には直指院心源浄安居士元録二年七月五日とある。微妙に日付がずれているが同一人物であると思われる。家紋は丸に三階菱で貞享二年に隠居し是安と名乗っている。南嶺和尚が死亡後、祥林瑞公首座が和尚となった時、蓬州旧勝録にあるように本当に観音寺の草庵に住んで隠居生活を4年間送ったのであろうか。祥林以降の和尚は小瀬の名字を名乗っているが。

 観音寺の年表と小瀬新右衛門の年表を重ねて表す。僧南嶺は住持としてではなく、法事がある度に本人か弟子が来寺の上勤めており、この間17年間は無住の寺であったと思われる。南嶺が担当していた時、新右衛門は既に御用人となっており、寺として重要な出来事である、海国寺末となること、檀那寺となること、が起こっている。しかし禅澤が死して後平僧地となり、利山志益の後二人の子供がいるが住職の資格は得られず再び無住となり、海国寺十二世水応祖賢にて中興開基され30年後、得翁祖枩が住持となり其の代に寺社奉行所に申請し元治元年法地回復している。しかし秀道峰卒後再々度無住となり現在に至っている。

得翁租枩和尚      明治六年五月五日卒           1873
                    法地回復        1864
水応祖賢大和尚     安政三年四月二日卒           1856
利山志益首座      文政九戌年六月二十四日卒        1826
放雲道開首座      安永九年六月二十日卒          1780
                    観音堂替地       1778
昌堂智槃首座禅師    延享三稔寅八月廿三日卒         1746
覚岩義圓知蔵禅師    享保十九稔寅十月廿二日卒        1734
                    平僧地
禅澤黒公首座      元録十六年三月五日卒          1703
祥林瑞公首座      元録五年二月六日卒           1692
                    小瀬新右衛門忠次 死去 1689
                    小瀬新右衛門忠次 隠居 1685
南嶺和尚海国寺六世   天和三年八月二十日卒          1683
                    小瀬四郎三郎(次男)死去1681
                    小瀬新右衛門忠次大番頭 1672
                    檀那寺         1669
                    海国寺末        1667
秋岩信公首座禅師    寛文六年九月二十四日卒         1666
                    小瀬新右衛門忠次御用人 1659
                    備前検地 御除地    1608



[315] 上之山

投稿者: masami 投稿日:2019年11月 9日(土)10時31分48秒 i219-167-88-152.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

 森本家文書の始まりに「森本氏之先祖尾州愛智郡山田庄上社村之内上之山と云ふ所者森之庄蔵之居城也」と書かれ、記述が始まっている。上之山の地名は古老に伺っても聞いたことがないと言われ、何処の山かは分からないが、小林元が猪高村物語の中で推定している所だとすれば、その屋敷跡は明治17年の地籍図で宅地となっている場所と思われ、その付近には宅地は無い。明治から大正の初め、この屋敷跡地と思われる地には森本安左衛門が居住していたが「森本家文書の森本家」の子孫に当たる方かどうかは分からない。と言うのも、その後その土地は他人(別姓)の所有となっており、今その家系は途絶えている。



[314] 念仏碑の場所の間違い

投稿者: masami 投稿日:2019年11月 4日(月)16時35分34秒 i219-167-222-127.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 他のことで昭和版猪高村誌を繰って見ていたところ、念仏碑が個人宅の庭先に立つ写真と共に「上社嶋屋敷若原○○○宅にあり長久手合戦の無名戦士の塚と伝う(又庚申塚ともいう)」の記述があるのに気付きました。少なくとも昭和30年頃にはこの場所にあった証拠となりますので、うとう坂を長久手側に降りた川沿いとしていたことから訂正を致します。大正の初めまではこの地は山で、近くの若原氏が独立して念仏碑の地に家を建てられています。それにしても随分離れたところに関連した地名が書かれているものです。本来、山之神の直ぐ隣の位置に当たる場所となるはずです。ひょっとすると弘化四年以降、洪水の影響で、山の反対側に移されたとすれば合点がいきます。



[313] 布袋非人所

投稿者: masami 投稿日:2019年11月 3日(日)07時04分11秒 i219-167-222-127.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 寛政期に尾張藩の農政を担当した役所で管理されていた絵図のうち、上社村の絵図に「ほていひにん所」と記載されている箇所があった。布袋の地名は弘化四年の絵図に寄れば藤森村と長久手村と上社村の境界に位置する。明治17年の地籍図では藤森村に属するが、この時には身分制度は既に無く施設も無くなっていたと思われる。寛政期の絵図で近在の村(藤森村、一色村、下社村、高針村、猪子石村、梅森村、長湫村、植田村、末盛村)には同様の記述は無く、又、弘化四年の絵図には地名だけで非人所の記載は無かった。布袋に非人所なる施設があったという文献があるかどうかも分からない。昭和版猪高村誌にも記載は無い。
 一般の非人は、非人頭が支配する非人小屋に属し、小屋主の配下に編成され、人別把握される。この時、非人の人別に当たるのは小屋頭で、人別改を手下非人に付実施しその小屋数、小屋別男女数を書き上げ管轄役所に提出したとされる。当然村ごとの名主、地主、檀那寺、家族の名前性別年齢なども書き込まれる。檀那寺は農民と同じ寺で扱われていて特別な寺があったわけではなく、墓は小屋近くの屋敷墓であったようだ。非人の日常生活は常に居住する宿・村および隣接無駐在の管轄宿・村の番役奉仕などに対する報酬で賄われ小屋の土地は村持ちである(荒井貢次郎著「天保農民一揆と非人の動向ーー甲斐国都留郡郡内領「非人人別帳」による」より)。
 非人所なる施設が何を指すのかは明確な記述は見つからなかったが、服部英雄著「河原ノ者・非人・秀吉」に非人所とは”ライ患者や喜捨を乞う障害者らの収容施設とみたい”とある。ネット検索で唯一出てきたのが蓮妙之非人所、入出非人所、入出山非人所であったが、「これらは同じ施設を指し、荒川保地頭河村氏のもとで葬送・死体処理等所謂「キヨメ」に従事する非人達の施設である」とむすびにかえての中で主張している(田村裕、丸山浄子著「蓮妙之非人所考」)。



[312] 満開のエンゼルトランペット

投稿者: masami 投稿日:2019年10月25日(金)17時33分35秒 i219-167-222-127.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

 今年は台風の影響も無くほぼ満開となりました。もともと夏の日差しよけのため一本仕立てにはしてありませんので冬になると皆枯れてしまいますが春には又芽を出して同じくらい大きくなって照り返しを防いでくれます。



[311] 明治と昭和の比較から分かること

投稿者: masami 投稿日:2019年10月20日(日)09時31分44秒 i219-167-222-127.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

明治43年の寺籍調査表と昭和23年譲與申請書に添付された境内図(昭和16年の境内図に同じ)を比較する。

この比較からは本堂、玄関、庫裡については明治期から変更は無いと考えられる。明治期では体面上玄関を申請しているが別の建物ではない。大きく異なっているのは弘法堂と門で、此の二軒だけは大正から昭和の初めにかけて建て直されていると考えられる。恐らく村内の石仏をまとめた為と思われる。昭和期には明治期の物置は取り壊され明治期の座敷が昭和期の物置として使用されていたと考えられる。つまり明治期から変更がない建物は本堂・庫裡・座敷(物置)・観音堂・秋葉堂・井戸となる。
 弘法堂が建て直されて大きくなっている時集められた石仏の内、丸彫りの地蔵は銘が台座にも何処にも無いのと、長久手の森の地蔵と形態がよく似ていることより、これがひょっとして盗まれたとしていたおんか山の麓の長久手境界にあった道祖神では無いかと考える。両手で宝珠か何かを持っている。長久手のものは合掌しているように見える。



[310] 大永寺鐘楼

投稿者: masami 投稿日:2019年10月16日(水)18時38分58秒 i219-167-222-127.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

 長年の思いの大永寺に出かけ和尚さんに少しだけお話を伺いました。今は使われていない鐘楼は以前は二階建てであったが地震により一階部分は倒れ二階部分が残って今は一階建てとなっているとのことでした。地震は何時のものか聞きそびれましたが、守山市史によれば、濃尾大地震で伽藍は倒壊し位牌堂のみ残ったとされていますので、恐らくはその時であったと思われます。突き鐘は古いものは戦時中に供出に遭い取られてしまって今山門上に挙がっているのは戦後に新しく作られたものであるとのことでした。曾ての鐘楼は江戸時代の初めからあるものかどうか分かりませんがかなり古いものではあるので上社村の痕跡がないかと探してみましたが何も有りませんでした。


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