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東山千栄子『新劇女優』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 5月15日(金)01時20分47秒
編集済
  今日は『桜の園』つながりで、築地小劇場以来、ラネーフスカヤを200回以上も演じたという東山千栄子(1890〜1980)の随筆、『新劇女優』(1958、学風書院)を少し読んでみたのですが、なかなか面白いですね。
東山千栄子について、私は小津安二郎の『東京物語』で笠智衆と共演していた人、程度の知識しか持っていなかったのですが、彼女は下総佐倉藩の家老の家に生まれ、親戚筋の寺尾亨の養女となり、二十歳で原合名のモスクワ支店長夫人となって、ロシア革命直前の8年間をモスクワで過ごしたという面白い経験の持ち主です。
寺尾亨は国際法学者で東京帝国大学教授、対露強硬論の「七博士建白書」で著名な人であり、原合名は横浜三渓園の原一族の会社で、当時の超一流繊維商社ですから、知的な面でも経済的にも非常に恵まれた環境に育った人ですが、モスクワ時代に一人でパリに遊びに行ったときには、あまりの浪費のすごさに夫が驚愕してモスクワに連れ帰ったというエピソードの持ち主であり、有閑マダムの生活に飽き飽きして36歳にして初めて舞台に立ったという経歴も、いかにもラネーフスカヤにふさわしいですね。
『新劇女優』から抜書きしようと思ったら、すでに私が興味を持ったいくつかの箇所を紹介している人がいたので、そのブログへのリンクにとどめます。

http://www.c.kumagaku.ac.jp/blogs/ohta/archives/2009/02/vderhq.html

『東京物語』
http://www.geocities.jp/yurikoariki/tokyostory.html
 

それなりにも役立たない映画批評

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 5月13日(水)01時33分57秒
編集済
  それなりに役立つ情報を提供していると言った直後に誰の役にも立たなそうな情報を提供して恐縮ですが、2008年版『桜の園』が興行的に失敗した理由を知りたいと思った私は、少し調査してみました。
『週刊新潮』08年第48号には、北川れい子という映画評論家の分析を引用した次のような記事があります。

---------
「18年前のオリジナルは、瑞々しくも儚い少女たちの群像劇として、本当に素晴らしい映画でした。厳格な名門女子高で、抑圧的な生活を送る少女たちが、チェーホフ『桜の園』の上演をめぐって大人の世界に踏み出していく、その瞬間が切り取られている。中島ひろ子やつみきみほなど出演者も、うぶで純粋で不安定な役柄そのものだった。」
 その11年後、この学校に転校してきた主人公が、封印されていた『桜の園』の台本を見つけ同級生たちと上演をめざす、というのが今回のストーリーだが・・・。
「本当につまらない内容で、5段階評価なら『1』。後日譚という中途半端な設定のため、前作を見ていない人には理解できないことが多いでしょうね。逆に私などからすると、ちんけなガールズムービーを作るために、素晴らしい前作の要素を無理やり引っ張ってきていて許せません」
----------

実は2008年版は1990年版の「後日譚」ではないので、北川れい子氏の認識能力には若干の疑問を感じない訳でもないのですが、ま、それはともかく、1990年版の熱狂的ファンが2008年版の商業的堕落は許せん、と怒るバターンはかなり多いようです。
で、私は1990年版をビデオショップで借りてきて、久しぶりに見た上に、『映画写真集 櫻の園』(サン出版、1991年)の古書をアマゾンで2500円払って購入し、「吉田秋生ロングインタビュー 伝統やしきたりのストイックさに憧れたのよ」、製作・岡田裕「日常の中に隠れてあるサスペンス性を表現するのが"映画的"。観るたびに面白い」、脚本・じんのひろあき「理想空間というのは場所ではない、それは時間の中に存在する『櫻の園2・3』」、プロデューサー・笹岡幸三郎「たかだか2時間たらずの映画に、切ない永久の時が流れている。主人公は部室」、監督・中原俊「ちゃんとやればちゃんとわかってもらえる。マニュアル化されて作るもんじゃない」といった記事や「櫻の園 完成台本」などを読んでみました。
確かに演劇の上演直前のわずかな時間という設定の中で、さほど劇的でもない事象を淡々と描きながら濃密な演劇的空間を創造する手腕は大変なもので、当時はものすごく斬新に思えたし、今見ても傑作だとは思いますが、「群像劇」というのはけっこう疲れるもので、何度も繰り返し見たいとは思わないですね。(つみきみほがヤーシャの舞台衣装を身につけた場面をのぞく。)
映像は構図については見事ですが、色彩的にはずいぶん地味だし、音楽(「ショパンの主題による変奏曲」、もしくは『太田胃酸』のテーマソング)は若干単調です。
また、当時の中島ひろ子は妙な存在感と迫力があって、ラスト近く、中島ひろ子と白島靖代が一緒に写真を取る有名な場面は、田中真紀子とデビ夫人が一緒ににじり寄ってくるようで、恐怖すら感じますね。
ま、濃密で閉鎖的な1990年版に比べ、桜が芽吹き、満開となり、散り、若葉になる経過を、東北地方の桜の名所に追いかけてロケを行った2008年版は非常に開放的で、映像は完璧と言っていいほど美しく音楽は軽快で、私はこちらの方が好きですね。


>筆綾丸さん
>ブルガリアの古い教会
青い壁の家がこれだけ集まっている地域も珍しいのでしょうね。
 

水無瀬神宮

 投稿者:好事家  投稿日:2009年 5月12日(火)20時31分42秒
  筆綾丸さま解説有難うございます。
鶴林寺、拝観料300円払って入場するとパンフレットに25000石と書いていました。
案内人も鎌倉時代の25000石を信じていたようです。

私の250ccバイク、GW1000円で高速乗れないので近隣に社寺を廻りました。

順徳天皇、後鳥羽上皇、土御門上皇を合祀した水無瀬神宮も日帰り圏。
1240年藤原信成の子孫、水無瀬忠成氏が健在でした。
近隣の人々が無料の地下水を持帰り。
この森の向こう側は東海道新幹線がガンガン走っています。
 

石高

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年 5月12日(火)19時38分5秒
  小太郎さん
ブルガリアの古い教会は、いつか、ぜひ訪ねてみたいと思っています。
思い出したのですが、太宰の『斜陽』にチェーホフの名が出てきましたね。
MC=マイ・チェホフ=マイ・コメディアン=マイ・チャイルド、とかなんとか・・・。


好事家さん
鶴林寺は、鳥羽天皇の命名ですか。
http://www.kakurinji.or.jp/mainpage/top-kakurinji.htm
鶴林寺のホームページに寺領25,000石とありますが、最盛時の東叡山寛永寺の石高ですら
約10,000石ですから、中世と近世の相違はあるものの、25,000石というのは、多すぎま
いか。1/10の2,500石でも多すぎるくらいで、もっと少ないのではないかしら。
信長が、ずんと削った由ですが、近世初期、200石のお寺となれば、かなりなものでは
ありますまいか。寺領25,000石が、どのような古文書に基づく数字なのか、それが知り
たいところですね。一重を百石とすれば、三重塔なので、都合三百石、くらいでいいの
ではないでしょうか(笑)。
中世の寺院の規模を石高で表示するのは、なんだか変で、ここは、荘園の規模で表示す
べきなのではないでしょうか。中世において、一歩あたりの生産高がどれくらいなのか、
わからぬながら、寺領は拾町歩であった・・・というように。
 

広隆寺桂宮院

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 5月12日(火)01時59分2秒
編集済
  >筆綾丸さん
「ヴィシュニャ」で検索するとクロアチアやウクライナ・ブルガリアあたりのサイトが出てきますが、リンク先のブルガリアの風景は本当に美しいです。

http://homepage2.nifty.com/aozorakissa/bulgaria4.htm

>広隆寺の桂宮院
中観上人澄禅は舎利信仰に関係する人でしたね。

--------
広隆寺桂宮院の澄禅が、法華寺聞勝のもとに出現した舎利一粒を、その現物をみて自分が感得したものに相違ないと鑑定したように、また、喜光寺性海が、藤原秀能相伝の舎利は三方に分かれて分布したが、みな一色にして小異はないと述べたように、舎利は米粒に形状の似た、白色でかすかに光を放つものでありながら、その大きさや形状、微妙な色の違いによって、相互に違いがわかるものであったらしい。事実、弘安二年の相伝記で澄禅は、自分が相伝所持している舎利を大きい舎利、細長い舎利などと、その大きさや形状によって書き分けていた。(細川涼一「王権と尼寺」)

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-hosokawa-oukento-amadera.htm

>黄色いさくらんぼさん
意見を書かれるのは結構ですが、その前提として多くの人に役立つ情報を提供してくれるとありがたいですね。
私もかなりはっきりと、場合によっては極端な意見を述べますが、賛成できない人にもそれなりに役立つ情報は提供しているつもりです。

>好事家さん
こんにちは。
いろんな人がいますので、できれば昔の話は避けていただきたいですね。
編集してもらえるとたすかります。
 

久しぶりですね

 投稿者:好事家  投稿日:2009年 5月11日(月)20時57分52秒
  鈴木様、久しぶりですね!
2005年、鎌倉時代の知識が無い為、”釈由美子が好き”さんからケチョンケチョンにこき下ろされ書き込み出来なくなりました。
もう掲示板には、居なく成ってますね。
鎌倉時代に25000石の寺領が有ったと言う加古川鶴林寺の画像です。
信長の為200石にされたとか。
 

待賢門院桜

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年 5月11日(月)19時01分0秒
  小太郎さん
ヴィシュニャという言葉には、サンスクリットのような響きがありますね。

週末、京都に行ってきました。
広隆寺の桂宮院は、たしか、亀菊と関係があるような気がしたので、訪ねてみました。
まことに美しい建築ですね。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~housi/kouryuuji.htm

次いで、法金剛院を訪ねました。
写真中央の枝垂桜は、待賢門院桜と云うらしいのですが、苑池の周りを逍遙していると、
春の羽化にしては大きすぎる黒揚羽が一羽、優雅に舞い来たり、ふふん、タマ子の魂だ
な、と思いながら、裏山のお墓に行ってみました。
清楚な御陵の前で、呟く言葉は、
「はじめまして、おおおばあさま、尊成(後鳥羽)です」
http://kyoto.cool.ne.jp/kyotocity/niwa/hokongoin.htm
http://www.from-yamato.com/kofun/tennou/sonota_hanazono_nishi/hanazono_nishi.html
 

ここではない何処か 今ではないいつか

 投稿者:黄色いさくらんぼ  投稿日:2009年 5月11日(月)16時29分9秒
  スタニスラフスキーが『桜の園』を最初の演出のときに悲劇にしてしまったのは、彼の人生が皮肉に満ち溢れた退屈なものではなかったからに違いない。  

「樹上から睨む目」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 5月 9日(土)01時07分47秒
編集済
  >筆綾丸さん
>神西清の訳
私も昔、新潮文庫の『桜の園』を買ったのですが、当時は全然面白いとは思えず、途中でやめてしまいました。
それにしても作者本人がわざわざ『桜の園 四幕の喜劇』とタイトルに明記しているのに、スタニスラフスキイによる最初の演出のときから悲劇にされてしまった、というのは、ずいぶん奇妙な話です。

>サクランボ
第2幕のおわりに、「いいですか、アーニャさん、あなたのおじいさん、ひいおじいさん、代々の御先祖は皆、生きた人間を所有してきた農奴主でした。園の桜の実の一つ一つ、葉の一枚一枚、幹の一本一本から、人間の目があなたを見てはいませんか、声が聞こえはしませんか?」というせりふがあります。
小野理子氏の注によると、

----------
この有名なトロフィーモフの台詞の《・・・(※ロシア語略)・・・》は、私の知る限りすべての既訳が「桜の木一つ一つから、葉の一枚一枚から、幹の一本一本から・・・」の意にとってきたが、この「ヴィシュニャ」は桜の木ではなく実、すなわちサクランボのこと。第二幕の時は七月、サクランボは二つずつ並んで濃い赤色に熟し、樹上から睨む目のイメージにふさわしく、またそれでこそ三つめの「幹」とは重複しない。同じ言葉「ヴィシュニャ」は三一ページのフィールスの台詞でもサクランボを意味して使われている。(p75)
----------

のだそうで、ま、正しい解釈なのでしょうが、果樹園のサクランボがすべて人間の目玉というのは相当ブキミな光景ですね。
ただ、若干気になるのは、Julius Westという人の1916年時点の英訳を見ると、

-----------
TROFIMOV. All Russia is our orchard. The land is great and beautiful, there are many marvellous places in it. [Pause] Think, Anya, your grandfather, your great-grandfather, and all your ancestors were serf-owners, they owned living souls; and now, doesn't something human look at you from every cherry in the orchard, every leaf and every stalk? Don't you hear voices . . . ? Oh, it's awful, your orchard is terrible; and when in the evening or at night you walk through the orchard, then the old bark on the trees sheds a dim light and the old cherry-trees seem to be dreaming of all that was a hundred, two hundred years ago, and are oppressed by their heavy visions.
-----------

となっていて、cherry-treeではなく、"every cherry"と訳していますね。
他の英訳はどうなっているのか、また、英訳例は日本語訳に影響を与えなかったのか。
ま、些細なことですが。

http://www.ibiblio.org/eldritch/ac/chorch.htm
 

サクランボの園

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年 5月 8日(金)13時35分2秒
  小太郎さん
『桜の園』は、昔、神西清の訳で読んだものの、よく覚えていません。
連休中、山形県をぶらぶらしてきましたが、サクランボはまだでした。
鳥海山や月山を眺めながら、石原莞爾は鶴岡の出身だったのか、とあらためて
思いました。
 

The Cherry Orchard

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 5月 7日(木)00時15分55秒
編集済
  アマゾンで岩波文庫『桜の園』を注文したら、古書店側の手違いで古い湯浅芳子訳のものが来てしまったので、別に購入した小野理子氏の新訳と比べてみました。
小野理子氏は「解説」で、

-----------
 ではなぜ私ごときがさらに一つを加えようとするかというと、それは、この芝居のせりふのやりとりの面白さ──時にはほろ苦く、時に軽く、時に深刻に、しかし一貫して滑稽味を失わない会話の味わい──を、どうにかしてそれらしいリズムのある日本語にうつすことはできないか、と考えたためである。
 大正時代にはじめて築地小劇場の「桜の園」を見た人は、「芸術的感銘を受けた。・・・それはこの舞台には"澄んだ憂愁の空気"がつねにただよっていたからだ」と述べている(菅井幸雄「日本におけるチェーホフ劇」前掲『チェーホフ』所収)。そもそもモスクワ芸術座自体が、初演以来これを悲劇的に演じ、チェーホフをして「ドラマじゃない、コメディだと、何度言ったらわかってもらえるんだ」と嘆かせたのだから(クニッペル宛一九〇四年四月一〇日付手紙ほか)無理もないが、生まれ育った屋敷と領地を失う美しい貴族女性、という筋書きに気をとられて、ト書きの「涙声で」の反復にのせられてしまうと、舞台は過度にセンチメンタルなものになる。
 逆にソビエト時代の本国では、アーニャとトロフィーモフの「未来志向」を強調するあまり、無理やり明るい芝居に仕立てあげて失敗した例もある。
 基調をなすほろ苦いユーモア──「涙声」がそのまま滑稽に移行する、たがいにすれちがうおかしな会話──が、本当に日本語に活かせたかどうかは読者の審判に待つほかないが、(後略)
------------

と言われていますが、ロシア文学に全然知識のない私ごときから見ても、小野氏の試みは見事に成功しているように思えます。
映画の2008年版は、1990年版と異なり、チェーホフの「原作」から大量にせりふを引用していますが、全面的に小野新訳に依拠していますね。

>「小太郎大ファン」さん
私には国会図書館に納本するような纏まった著作はありません。
 

かかあ天下考

 投稿者:小太郎大ファン  投稿日:2009年 5月 2日(土)21時33分25秒
  御返信ありがとうございます。ネット探索の素早さに敬服します。
余談ですが、著作は国立国会図書館へは納本されていらっしゃいますか?以外な「穴場」です。亡父は、平成9年1月20日に満83歳で黄泉へ旅たちましたが、本年2月頃初めて検索したら117件もありビックリしました。著書は115冊+編書68冊、撰文(揮毫)碑57点と、遺著「爪跡一路」の巻末にありますが、それでも多くて感動物です。
ところが、遺著が未納本だと没後12年目にして初めて分かり、急いで納本(2部)した次第です。亡父が県議会図書室長時代に同室の整備・拡充に際し、初代館長金森徳次郎先生に親しく御指導を頂き、数回来県して御指導を頂いたと何かで見た記憶がありますので、納本には特に留意していた結果かもしれません。WIKIに既掲載の岐阜県の吉岡勲先生でも30冊位です。
あと、「酔雲庵」さんのHPやブログ・「加沢記」の本年1月開設のブログ(管理人さん女性)も、
亡父の著作を紹介してくれていて嬉しいです。
小生も64歳で禁煙できない初老の老犬です。過日貴重な御指導を頂いたように、亡父代表作のウェブサイトの開設でも自分で出来れば良いのですが、現時点ではWIKIへの新規掲載で終わりにしたいとの極めて消極的な認識です。奇しくも引き受けて下さったWIKI初参加の方が、本日の午前3時過ぎまでやってくれています。申し訳なくて涙もでません。頑張ります。
こうして投稿をさせて頂く事で元気が出ます。有難うございました。
たくさん書ける投稿欄なので、嬉しいです^^。
 

真光寺

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 5月 2日(土)18時04分16秒
編集済
  >「小太郎大ファン」さん

「正林堂店長への雑記帖」
http://blogs.yahoo.co.jp/hosinopp

検索していて、何度か訪問したことがあります。
地図を見たらJR渋川駅から真光寺に向かう途中ですので、実際にもすぐ近くを歩いてますね。
真光寺は中世には関東天台の渋川談義所と呼ばれた古刹ですが、花が多くて良いお寺さんですね。

http://shibukawa.plablo.jp/sakura/2009/04/post-9aad.html

>筆綾丸さん
>吉田秋生
『櫻の園』は私の探究心をいたく刺激する要素に満ちているので、メイキング等の特典映像が付いたDVDを購入してしまいました。
ついでに吉田秋生の「原作」も読んでみましたが、正直、それほど面白いとも思えません。
また、1990年版と異なり、2008年版では吉田秋生の作品の引用はごく僅かであり、実態としては「原作」ではないですね。

私は芸能界やファッションの世界に極端に疎いので、杏というラネーフスカヤ役のファッションモデルの名前すら知りませんでしたが、渡辺謙の娘なんですね。
彼女が演劇部の教師からダメ出しをくらって演技にとまどう場面が非常に面白く、中原監督の詳細な演技指導があったのかと思ったら、同監督らによる副音声での解説によると、「えっ、これ演出じゃないの」「全然。杏ちゃんの演出ですね」だそうです。
頭の良い女性ですね。

>『尼門跡寺院の世界』
私もズワイガニ像ではなく、こちらを見に行きたいと思っています。
 

かかあ天下考

 投稿者:小太郎大ファン  投稿日:2009年 5月 1日(金)19時56分32秒
  余談ですが、「正林堂店長への雑記帖」なるブログ(Yahoo!)への御訪問を推薦します^^。  

毛蟹と尼門跡

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年 5月 1日(金)09時23分3秒
編集済
  小太郎さん
『櫻の園』の原作は、吉田秋生の漫画ですね。むかし、読んだ記憶がありますが、
ほとんど覚えていません。

昨日は、東博で『阿修羅展』を見ようとしたのですが、大変な混雑なので、やめました。
国宝の阿修羅像は、よくみると、ズワイガニに似てますね。かわりに、芸大美術館の
『尼門跡寺院の世界』をみました。
無外如大の詠草和歌(紙本墨書・大聖寺所蔵)というのがあって、なるほど、無外尼さん
は、こういう字を書く人か、と思いました。重文の「譲状」は後期の出展で、見られず、
残念でした。

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2009/amamonzeki/amamonzeki_ja.htm
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=6113

追記
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/090410/imp0904101514015-n1.htm
カタログの英訳がずいぶん立派だな、と思いながらも、購入しませんでしたが、
バーバラ・ルーシュ女史のお蔭でしょうか。
 

かかあ天下考

 投稿者:小太郎大ファン  投稿日:2009年 5月 1日(金)08時00分27秒
  貴重な御返信を賜り、誠に有難う御座いました。今後共、宜しく御願い申し上げます。  

>かかあ天下考

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 5月 1日(金)01時20分23秒
  「小太郎大ファン」さんとお呼びするのも妙な感じですし、正直、「先生」と言われるガラではなく、お返事に困ってしまいます。
萩原進氏とは今まで関心の対象となる時代が違いましたので、私はごく少数の著作しか読んでおりません。
貴重な業績を図書館に眠らせておくのはもったいないので、ご家族ということであれば、ウィキ以外にも、例えば萩原進氏の代表作を公開するウェブサイトの開設なども検討されてはいかがでしょうか。
重複投稿を削除させていただきましたので、ご了解ください。
 

かかあ天下考

 投稿者:小太郎大ファン  投稿日:2009年 4月30日(木)13時44分20秒
  早々と小太郎先生より御返事のコメントを賜り、感謝・感激・雨あられです。御礼が大変遅くなりその失礼をば衷心より御詫び申し上げます。
小生は、メルアド(IT犯罪?被害防止等の観点からメールをしない)を持たないでインターネットを閲覧させて頂くだけの超々初心者・傍観者です。でも、先生へ投稿させて頂いた後、ある方(上州に舞い降りた神)が開始作業には漕ぎ着けて下さいました。しかも、亡父の御弟子さんでも何でもなく、WIKIへの参加が未体験の方にも拘わらずです。遥か以前より、亡父の名前で検索をすると、最初にヒットするサイトを御開設下さった小太郎先生に対しこの場をお借りして改めて衷心より御礼を申し上げますと共に、一日も早くWIKIへの新規掲載を具現し、その御恩に報いたいと存知上げます。先生も大いに賞賛をされる程WIKIは偉大ですが、その門戸は険しく・厳しいというのが、小生の現時点での認識であります。
 

『櫻の園』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月30日(木)01時15分26秒
編集済
  新しいサイトは別に私独自の見解を述べるものではなくて、勉強のための資料集になります。
当面は『昭和恐慌の研究』(岩田規久男編著、東洋経済新報社、2004)という本に引用されている文献をひたすらアップするだけなので、関心のない人にとっては何をやっているのか訳が分からない感じになるかと思います。
当初、私はブログでやるつもりだったのですが、サイトの構築をお願いした方がウィキでやってみたらどうかと言われているので、ウィキになりそうです。

『昭和恐慌の研究』
http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20071002/1191337684

>筆綾丸さん
このところ経済書ばかり読んでいたので、今日は少しなまけて、去年公開された中原俊監督作品『櫻の園』のDVDを見ていました。
この映画は1990年に映画賞を総ナメにした同名の旧作のリメイクということで、それなりに話題になったにもかかわらず、興行的には壮絶なほどの大コケだったそうです。
私はどこがそんなに駄目だったのだろうかという変な興味から見始めたのですが、意外なことに、非常に良い映画でした。
主演の女の子の人物造型は、美人のふてくされ女が決して嫌いではない私にとっては許容範囲ですが、多少評価は分かれると思います。
しかし、劇中劇でラネーフスカヤを演ずる杏(Anne)というモデルは才能に溢れており、ロパーヒン役の寺島咲も実に演技がうまく、老人役のおでこの広い小柄な女の子も芸達者で、中原監督は彼女ら三人を含む女優全員の魅力を最大限に引き出す見事な演出をしていますね。
何でこれほどの作品が興行的に失敗したのか、ちょっと不思議な感じがします。

http://www.sakuranosono-movie.jp/top.html
 

血洗島

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年 4月29日(水)21時39分19秒
  数日前、渋沢栄一の生家跡に行きましたが、「血洗島」という大字名は、やはり
迫力がありますね。村社諏訪神社には、穂積歌子さんお手植えの橘の木がありました。
周辺にはネギ畑があり、ああ、これが有名な深谷葱か、と思いました。
利根川の対岸は旧得河郷(現徳川町)で、栄一が慶喜の家来になったのは、この得河郷
の影響だろうか、などと考えました。
 

>かかあ天下考

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月27日(月)20時58分3秒
  どうぞご自身でおやりください。
なお、私はウィキペディアをよく利用しており、ウィキペディアのような独創的システムを構想した方に深い敬意を抱いていますが、自分では一度も投稿したことはありません。
 

かかあ天下考

 投稿者:小太郎大ファン  投稿日:2009年 4月27日(月)14時49分23秒
  小太郎先生のお力で、群馬県の郷土史家・萩原進をWIKIPEDIAに早急に新規掲載をし、ネット世界へデビューをさせて頂けないでしょうか?伏してお願い申し上げます。記事資料となる遺著「爪跡一路」の巻末付録によると、著書114冊・編書68冊・撰文(揮毫)碑57点を遺している逸材です。何卒よろしくお願い申し上げます。  

ご連絡

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月20日(月)23時22分20秒
  暫く前から新しいサイトの開設準備を行っているため、当面、こちらでの投稿が減少します。
経済史のサイトとなります。
 

奇妙な対立の図式

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月13日(月)00時25分48秒
編集済
  以下は中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』からの引用です。(p35以下)

-------------
 いちばん早くマルクス主義の「洗礼」を受けることになったのは、父の弟にあたる護人さんだった。製鉄技術史の優れた研究者になったこの人は、自分の父親が『我が国体の生物学的基礎』を書いた頃から、その中の皇国史観的な部分の強力な反対者だった。それにひきかえ、政治的におくてであった父は、昭和天皇に祖父が駿河湾生物学についてのご進講をおこなったときなどは、ひどく感動して、その思いを日記に綴っているような人だった。しかしその父も、私がものごころつく頃には、すでに情熱的な左翼政治運動の活動家になっていた。
 六〇年代のなかば頃、父と護人さんは政治的見解を異にしていた。当時の国際情勢の中では、中国とソ連の対立が激しくなっていたが、それに引きずられるように、日本共産党の内部も中国派とソ連派と自主独立派に分かれて、激しい論争がくりひろげられていた。そして三人いた男の兄弟のうち(長男はすでに亡くなっていた)、二人が中国派となり、父だけがソ連派になった。政治のことよりも数学や音楽に夢中だった私には、その論争の中身は正確には理解できなかった。しかし、山梨の家に兄弟たちが集まり、父の手作りの密造葡萄酒を飲みながら、もうもうたる煙草の煙の中で朝まで続けられる激しい議論がはじまると、私もこたつの隅に座り込んで、夜遅くまでその議論に耳を傾けるのだった。
 そういうときに、私の隣にはいつも網野さんが座っていたのである。お酒に強い網野さんは、手酌でコップについだ葡萄酒をぐびぐびとあおりながら、大きな目玉をさらに大きくして、義兄弟たちの激しい議論に聞き入っていた。私の隣にいつも座らされていたことから察するに、網野さんはどうやらその議論では、中立の立場にいるように感じられた。それでもときどき、「網野君はどう考えるんだい」「とか「網野君は自分の立場をもっと鮮明にすべきではないのかい」かいう突っ込みをされて、網野さんは困ったような表情をしながら、議論に参加していっているのを見かけたことがある。
 それにしても、奇妙な対立の図式だった。ルードウィヒ・ベック著『鉄の歴史』の翻訳者であり、近代技術の果たした啓蒙的な役割を賛美していた護人さんが、農本主義的な毛沢東思想を支持する中国派の急先鋒となり、田舎に住んで民俗学の研究をしながら政治活動をしている父が、そういう中国の農本主義的マルクス主義を否定するソ連派の代弁者となって、口角泡を飛ばして議論し合っているのである。そして網野さんといえば、対立する両者のあいだでくりひろげられている、ねじれにねじれきった議論をじっくり聞きながら、問題の本質をつかみ出そうと努力している賢い牛のようだった。
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この文章を読んで私が一番奇妙に思うのは、製鉄の専門家である中澤護人氏は中国の「大躍進」について、いつの時点でどのような情報を得ていたのか、その情報は中澤護人氏の「中国派」としての立場に影響を与えることがなかったのか、という点です。
「大躍進」の詳しい実態を知らなくても、その概要をちょっと聞けば、製鉄の専門家である以上、そんなやり方は狂気の沙汰だと思ったのではないかと想像するのですが、どうも違うのかな、という感じもします。

大躍進
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96

なお、「のほほん共産主義」は別に「農本主義」にかけているわけではないので、念のため。
誰に弁解しているのかわからないですが。
 

のほほん共産主義

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月10日(金)01時24分53秒
編集済
  また脱線です。
今日は『材料開発ジャーナル バウンダリー』(2001年4月号)の「中澤護人氏追悼特集」から、中澤護人「題未定(自叙伝)」を読んでみました。
この雑誌は「バウンダリー:結晶粒界、界面、境界領域、フロンティア、すきま、吹き溜まり、出会いの場」というサブタイトルのついた理系でもかなりユニークな雑誌ですが、文系の私にとって、中澤護人氏に興味を抱かなければ一生手に取ることもなかった雑誌でしょうね。
「題未定(自叙伝)」の概要は八田政季氏の「水底の翳」で知っていましたが、実際に読んでみると、ちょっと印象が違いました。
中澤護人氏は波乱万丈の人生の割には、ずいぶんのんびりした性格の方ですね。

「水底の翳」
http://www.digi-ken.org/archives/minasoko/index.html

「題未定(自叙伝)」から、少し抜書きしてみます。

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まえがき
 「真に偉大な人物は死んで初めて胸の星を示すといわれるが、父は死んでも上衣のボタンを外す人ではなかった」.「第三帝国」初期のドイツ陸軍参謀総長で後に抵抗運動のブレーンとなり,ヒトラー暗殺に失敗して死んだベック将軍が、父の生誕100年の追悼の小冊子に書いている言葉である。「私たちの父が偉大な人物だというわけではないが、私たち子供にとっては、父はそうした人であった」と断り書きしながらそう書いている。将軍の父というのは19世紀後半期に大著『鉄の歴史』全5巻を書き、文化史と鉄の技術史の総合史をまとめた学者である。私が夢中になって、その翻訳をライフワークにした人である。(p43)

そしてこの検挙がきっかけとなって、私は戦後いち早く共産党に入党することになった。しかし、マルクス主義的ヒューマニズムとキリスト教的ヒューマニズムは重なり合うという私の信念は早合点のようであった。(p45)

 ところで私の方もまたクリスチャンの家系であった。私の父毅一は、札幌農学校の第1回卒業生としてクラークの直接の薫陶を受けた大島正健が校長として赴任した山梨県甲府中学校の生徒であり、同級生の石橋湛山たちとともにクラーク精神で鍛えられた。(p49)

 その後私は広畑製鉄所から本社の総務課に移った。そしてそこで昭和19年2月、先に話した細川嘉六を先頭にして戦争中に起きた「横浜事件」の末端組織に連座して検挙された。(中略)
 私はそれまで長谷部文雄と高畠素之の訳によって『資本論』の全編を読んでいた。大内兵衛や矢内原忠雄や河合栄次郎が東大を逐われたとき、それに反対するために友人と力を合わせた。しかし、共産主義が何であるかを私が本当の意味で知ったのはこの検挙のおかげであった。「おまえは三二テーゼをどう思うか」といわれて「三二テーゼとは何ですか」と質問して「この野郎、フザケルな」とさんざんなぐられた。要するに共産党の運動ということについて何も知らないことを思い知らされたのである。先方もこいつ何も知らないと、しまいには呆れてしまった。そして私の方は俄然、共産党なるものに興味を向けるようになった。この時、私は担当の山根思想検事の一高時代の学問の師であったという私の叔父大島正徳の骨折りで、昭和19年7月召集令状がきたのを機会に起訴保留で釈放されて甲府連隊に入った。

共産党時代
 この事件は私をかえって共産党に近づけた。私は戦後すぐマルクス主義の友人たちと会合を持つようになり、さらに日本共産党に入党し、代々木の本部に勤めるようになった。そして入党するとすぐに、徳田球一とともに『獄中十八年』を経験して共産党を代表した志賀義雄の秘書となった。そして赤旗主筆の志賀の、毎日の赤旗の主張の口述筆記をすることになった。何とも不思議な、夢のような4〜5ヶ月であった。(p49)

 私にはいわゆる「秘書」の仕事をこなす能力は全くなく、志賀さんもそうしたことは自分でさっさとやって、私の手を煩わすようなことがなかった。私の仕事といえば、全国からくる手紙への返事が主な仕事であった。つまりは「ファンレター」への返事書きなのである。(p50)
 

佐藤進一氏

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月 9日(木)00時11分31秒
編集済
  書く内容は決まっているのですが、珍しく出張が続いたりして、なかなか時間がとれませぬ。
ま、別に急ぐ必要もないので、適度に休みながら書くつもりです。
ところで、今日は佐藤進一氏の「網野さんの思い出」(『網野善彦著作集第18巻』月報16)を読んでみたのですが、「私は」で始まる文章が途中から全て「ボク」に変わっていて、内容も個別エピソードを頭に浮かんだ順にとりとめもなく書き綴ったような感じで、若干の不安を覚えますね。
普通の人が書いたら編集者につき返されるのでしょうが、佐藤進一氏クラスの大物になると、そうもいかないでしょうね。
長生きして思い出話を書いてくれるだけも歴史学会の財産、ということでしょうか。
 

銀行

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月 7日(火)02時20分49秒
編集済
  さて、そろそろ網野銀行シリーズのまとめに入りたいと思います。
まず、戦前の「銀行」は現代の銀行とはずいぶん違いますので、例えば中沢新一氏の「網野さんの御実家は、網野銀行をやっていた銀行家でした」(中沢新一・赤坂憲雄『網野善彦を継ぐ。』p94)などという発言は、読者に誤ったイメージを与えますね。
網野銀行が実際にどのようなものであったかは『創業百年史』(山梨中央銀行、1981年)で紹介しましたが、戦前の山梨県には70くらいの「銀行」が乱立していて、中には当局の係官が検査に行くと店内には誰もおらず、暫くして野良着の「頭取」が裏の畑から鍬を抱えてやってきた、などという「銀行」もあったそうですね。
網野銀行はそこまでひどくはないですが、資本金5万円以下は零細銀行とされていたようで、まあ資本金15万円の網野銀行もたいしたものではないですね。
『昭和金融恐慌史』(高橋亀吉・森垣淑著、講談社学術文庫)の次の記述と『創業百年史』の網野銀行の記事を読み比べると、網野銀行が吸収合併されなければならなかった理由も見えてきます。

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(前略)当時のわが国銀行制度の欠陥をはっきりと要領よく指摘しているのは日銀の『世界大戦終了後における本邦財界動揺史』の次の一節である。
 「財界の動揺につれ各地の銀行がとみに信用を失墜して取付を受け、たちまちにして窮境
 に陥れるものはなはだ多かりしについては、種々なる原因あるべく、すなわち我国におけ
 る産業組織の弱点、銀行制度の欠陥等もまたその根本の原因たるべしといえども、これら
 はしばらくおき、この財界の大変動期における経験に徴し、もっとも痛切に感ぜられたる点は
 銀行の経営上における種々の欠点なりとす。今その主なるものを指摘すれば次のごとし。
 一、銀行重役が他の事業に直接の関係を有しまた自ら投機を行い、自然銀行をしてこれ
  ら重役の投機または事業の金融機関たらしむること。
 二、貸出の放漫なること。
  (イ)情実によりて貸出を行うこと多き結果、一会社、一個人もしくは同一事業に対して
   比較的多額の貸出をなすこと。
  (ロ)信用貸多きこと。
 三、重役の責任観念非常に薄きこと、また監査のごときも有名無実に過ぎざること、これ
  らの点は地方銀行において一層はなはだしきを見る。
 四、地方銀行にはその土地の資産家の片手間仕事として副業的に経営せらるるの風あり
  て、重役がほとんど実際に行務を見ざるものはなはだ多きこと。
  以上三と四の原因は破綻銀行の多くにその例を認む。
 五、銀行業者と取引先との関係密接ならざること。
   銀行業者と取引先との関係密接ならず、その間事情の疎通せざるため、一朝事あるに
  際し銀行は徹底的にその機能を発揮すること能わず、銀行取引先ともに非常なる不利益
  に陥りたるの事実はこの反動期において痛切に経験せしところなり。
 六、現金支払準備の割合少きこと。
   以上は今回の大反動期において経験したる銀行経営上の主たる欠点なるが、中にも一
  および二の(イ)、すなわち銀行を投機または事業の金融機関とすることおよび一会社一個
  人もしくは同一事業に多額の貸出を為すことの二点は、銀行の破綻もしくは窮状に陥り
  たる最大原因を為せるがごとし。元来過去におけるわが国銀行失敗の跡を探るにその原
  因もとより種々ありといえども、その十中八九まではこの原因に帰着せるを見る所なる
  が、さらに今回の動揺期において切実に実験したる所なり。」
 だが、わが国銀行の特性(後進性)は、以上でつきるものではなく、さらに一点是非ともつけ加えたいものがある。それは、とくに銀行制度のみに見出される特性ではなく、わが国の後進的資本主義経済全般について言えることであるが、わが国銀行(経営)が政治的関係によって容易に動かされた点である。すなわち、銀行は政争に巻込まれ、政治的配慮から経営が容易に左右される性格をもっていたのである。そして、その結果として、いたずらに銀行の信用が動揺をきたしたことはもちろん、他面では過大な政治的保護を受けたがため、かえって深刻なる苦境に陥り、経済全体の矛盾を激化することにもなっているのである。
(p25以下)
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ストリート・ビューで下総国八幡庄大野郷を歩く

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月 7日(火)01時58分1秒
編集済
  >筆綾丸さん
人麻呂作という「牛窓の 波の潮騒 島響き 寄さえし君に 逢わずかもあらむ」は良い歌ですね。
それに比べると、宗祇の「旅は憂し 窓で月見る 今宵かな」はグーグル川柳並みですね。

http://www.iokikai.or.jp/siomatinominato.usimado.html

『戦国仏教』で「本土寺過去帳の郷村」として紹介されている下総国八幡庄大野郷は千葉県市川市内なので、グーグルのストリート・ビューで見られるのではないかと思い、試してみました。
やはり都区内ほどではないにしても、かなり町の様子はわかりますね。
それにしても、道路の様子どころか、民家の洗濯物まで見えてしまうのは妙な気分です。
 

オージーと牛窓に・・・

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年 4月 4日(土)19時12分48秒
編集済
  小太郎さん
http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/IMEGI/picture249.jpg
http://www.welcomoo.net/miru/14monument/easy5course.html
定家の歌をみますと、身を牛窓に、として、牛を憂し、に掛けるのですね。


When the former Australian Prime Minister Paul Keating put his arm around
the queen in 1992, the tabloids dubbed him the "Lizard of Oz."

dub の原義は、国王が剣で人の肩を軽くたたいてナイトの爵位を与える、ということ
なので、女王の背中に触れることには、この dub という行為を連想させるものがある
のかもしれませんね。したがって、キーティング氏に「オージーのトカゲ野郎」なる
ナイトの爵位を与えた、という文における dub が、俄然、精彩を放ってくるのでしょうね。

『ワルキューレ』は、ゲッベルス役の俳優がいいかな、と思いました。
 

the Lizard of Oz

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年 4月 4日(土)15時27分30秒
編集済
  オバマ大統領夫人がエリザベス女王の背中に触れたことが、ちょっとした外交問題になりかけたそうですね。

http://sankei.jp.msn.com/world/america/090404/amr0904041152013-n1.htm

この産経新聞の記事には「1992年に女王がオーストラリアを訪問し、当時のポール・キーティング豪首相(65)が女王の肩に手を回すと、英紙は一斉に『オージー(豪州のこと)のトカゲ野郎』などとキーティング氏をこき下ろした」とありますが、「オージーのトカゲ野郎」って英語で何て言うのだろうと思って調べたら、"the Lizard of Oz" だそうですね。

http://www.msnbc.msn.com/id/30017148/

「オージーのトカゲ野郎」も笑えますが、英語の方は"the Wizard of Oz"(オズの魔法使い)にかけていて、なかなか洒落た表現です。
Paul Keating 氏はからかわれやすいキャラのようですね。

http://www.youtube.com/watch?v=2fmNwh7yvaM
http://www.news.com.au/dailytelegraph/story/0,22049,23869364-5013605,00.html
 

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