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    <title>Japanese Medieval History and Literature</title>
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    <description>日本中世史と中世文学に関する情報を少しずつ集積して行きます。信頼できる書籍・雑誌論文からの、出典を明記した引用を歓迎します。

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    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:date>2009-11-07T23:28:07+09:00</dc:date>
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    <title>若松池址</title>
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    <description>ここで高橋慎一朗氏の注記に従って竹村俊則氏の『昭和京都名所圖會　１洛東-上』（駸々堂、１９８０）を見ると、次のように記されています。（ｐ１３５）

--------------
　若松池址は小松谷正林寺の東、渋谷通より南とつたえ、江戸中期まではなお池の一部を残していたが、今は埋没して跡形もない。現在この地を清閑寺池田町とよんでいるのは若松池によるものであろう。
　若松池とは平家一族と深い関係にあった大納言藤原邦綱が、この地に構えた山荘若松亭（東山亭）の苑池をいったもので、邸内の規模については明らかにしないが、治承四年…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-07T23:28:07+09:00</dc:date>
  </item>
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    <title>若松殿＝藤原邦綱邸</title>
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    <description>＞筆綾丸さん
＞惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。
これはその通りですね。
熊谷説に即して考えると、一度も征夷大将軍の「本邸」に入らないまま征夷大将軍になった人ということですね。
藤原頼嗣も、久明親王の子の守邦親王も同様です。

『中世の都市と武士』（高橋慎一朗著、吉川弘文館、１９９６）の「第二章　『武家地』六波羅の成立」に次のような記述がありました。
（ｐ４５以下）

--------------
　頼経は、将軍を子息頼嗣に譲った後、寛元四年（一二四六）…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-07T23:34:58+09:00</dc:date>
  </item>
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    <title>若松殿</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5178</link>
    <description>＞筆綾丸さん
若松殿については高橋慎一朗氏の論文に何か言及があったような気がするのですが、今は確認できません。
明日、少し調べてみたいと思います。

太田静六氏（九州大学名誉教授）は先月亡くなられましたね。
新聞で見た時、正直、まだご存命だったのかと驚いたのですが、９８歳とのことなので、１００歳で亡くなったレヴィ・ストロース並みのご長寿ですね。</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-07T09:03:18+09:00</dc:date>
  </item>
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    <title>六波羅若松殿</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5177</link>
    <description>小太郎さん
論文の前半は、六波羅に潜む塙保己一の亡霊を炙り出す手際など、なかなか良いですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124608.html
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125204.html
頼経は、鎌倉追放後の入洛時、六波羅若松殿に渡り（吾妻鏡）、頼嗣は、同様な状況下で、若松殿に入る（北条九代記）、とあるのですね。
六波羅御所と六波羅若松殿は、別の建物なのでしょうが、前者を将軍の檜皮葺の本邸とするならば、後者は前将軍の板屋葺の陋屋なのかもしれませんね。

「太田静六が指…</description>
    <dc:creator>筆綾丸</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-06T22:51:37+09:00</dc:date>
  </item>
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    <title>六波羅御所の歴史</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5176</link>
    <description>まず、熊谷氏の説明を確認してみます。

-----------
二　六波羅探題の歴史的位置

　さらに、六波羅探題の呼称と実態をめぐる問題をこのように整理しなおすことで、鎌倉幕府機関としての六波羅やその首班である六波羅探題のみならず、鎌倉幕府自体の位置づけにもかかわる新たな論点を提示することが可能になる。
　それに際して注目されるのは、六波羅北方に立地した鎌倉殿の邸宅の存在である。建久元年（一一九〇）、源頼朝は平家一門の一大拠点であった六波羅に邸宅を建設する。（中略）
　高橋慎一朗によれば、六波羅御所は…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-06T19:06:43+09:00</dc:date>
  </item>
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    <title>頭の体操</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5175</link>
    <description>熊谷氏の論文には「六波羅御所は征夷大将軍の本邸である」ことを根拠づけるために多くの事例があげられているのですが、注を見ると、その事例の中に『増鏡』が多数含まれています。
しかし、実は『増鏡』には「六波羅御所は征夷大将軍の本邸でない」ことを決定的に明らかにしている箇所があります。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu7-munetaka-shikkyaku.htm</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-06T18:24:27+09:00</dc:date>
  </item>
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    <title>越後の守時盛の佐介の第</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5174</link>
    <description>初例は頼経でした。
このときは「越後の守時盛の佐介の第」ですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124606.html

頼嗣も同じですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125203.html</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-06T09:38:16+09:00</dc:date>
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    <title>越後入道勝圓の佐介の第</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5173</link>
    <description>＞筆綾丸さん
熊谷隆之氏の「六波羅探題考」は不思議な論文ですね。
構成を見ると、

-------------
はじめに
第一章　「六波羅探題」考
　一　史料上にみる六波羅探題
　二　研究上にみる六波羅探題
第二章　「六波羅守護」考
　一　六波羅探題の確立過程
　二　六波羅探題の歴史的位置
むすびにかえて
-------------

となっていて、第二章の一までは実に見事な論文だと思うのですが、「二　六波羅探題の歴史的位置」以降は多くの疑問を感じます。
それは後で述べるとして、六波羅北方に…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-06T08:52:19+09:00</dc:date>
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    <title>仮宅</title>
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    <description>小太郎さん
熊谷隆之氏の論文を読んでみました。

「なぜ鎌倉殿は下向時に六波羅御所への移徙をわざわざおこなう必要があったのであろうか。（中略）この問題を解決する糸口は、鎌倉殿のおかれた地位にあるのではなかろうか。思えば、鎌倉殿は朝廷の官制上、公卿もしくは親王であるとともに、征夷大将軍としての地位にある。つまり、あくまで朝廷側の秩序に照らせば、鎌倉殿はもともと京都に住する摂関家や王家出身の貴種でありながら、東国を制圧する征夷大将軍として京都から鎌倉へ一時的に下向しているというにすぎないのである。「幕府」とい…</description>
    <dc:creator>筆綾丸</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-05T20:21:50+09:00</dc:date>
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    <title>「六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸」</title>
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    <description>筆綾丸さんが引用された文章に、「しかも、近年の研究で、鎌倉には一部を除いて御家人は常住しておらず、軍事力はプールされていないとか、京都の六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸であるという刺激的な主張さえ唱えられているのである」とありますが、ここで高橋氏の注記に書かれた論文タイトルを見ると、前半が秋山哲雄氏の「都市鎌倉の東国御家人」（『ヒストリア』１９５号、２００５年）、後半は熊谷隆之氏「六波羅探題考」（『史学雑誌』１１３編７号、２００４年）ですね。
この箇所に関して、上横手氏は、「秋山哲雄・熊谷隆之氏の説を引いているが…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-05T08:16:28+09:00</dc:date>
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    <title>幕府の水浸し</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5170</link>
    <description>＞筆綾丸さん
通常の歴史用語としては、幕府は鎌倉・室町・江戸の三つだけで、織田幕府・豊臣幕府などとは言いませんから、要するに幕府とは「征夷大将軍を首長とする武家政権」程度の概念なんでしょうね。
そしてこれが形式的な概念であって、実質的にはそれぞれの幕府ごとにかなり違いがあることは、通常の知性がある人ならば誰でも理解しているはずです。
それを高橋氏のように実質的な概念とすると、六波羅幕府に加えて奥州藤原氏幕府（平泉幕府）も確かにオッケーなのでしょう。
また、先にリンク先としたペンネーム、Wallerstein氏のブ…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-05T02:06:59+09:00</dc:date>
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    <title>平泉幕府？</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5169</link>
    <description>小太郎さん
「両者の形態上の最大の違いは、軍事権門としての平家の本拠は、形式・実質ともに六波羅で、福原は最高実力者が退隠しているとしても、あくまでヒンターランドに過ぎず、そこには鎌倉のような、しかるべき政庁も行政吏僚集団も見あたらない。しかし、それは鎌倉幕府が、平治の乱の敗者が流刑地で反乱軍を立ち上げ、やがてそのまま東国を実効支配し、支配領域として王朝に追認させたという、内乱期の特殊な政治過程に起因する点が大きいことを忘れてはならない。しかも、近年の研究で、鎌倉には一部を除いて御家人は常住しておらず、軍事力はプ…</description>
    <dc:creator>筆綾丸</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-04T19:32:31+09:00</dc:date>
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    <title>「幕府」概念の柔軟化</title>
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    <description>上横手氏の書評（『日本史研究』５５６号、２００８年１２月号）と、それに対する高橋氏の反論、「六波羅幕府という提起は不当か－上横手雅敬氏の拙著評に応える－」（『日本史研究』５６３号、２００９年７月号）を読んでみました。
『平清盛　福原の夢』には、私が１０月２９日の投稿で引用した部分に続いて、次のような記述があります。（ｐ155）

--------------
　そもそも、もとをたどれば王権を守護するというのは衛府の任務であった。そして、平安期に幕府といえば近衛府の唐名で、転じて近衛大将の居館、または、左右の大将その人を…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-04T18:30:07+09:00</dc:date>
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    <title>ドイッチャーの文体</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5167</link>
    <description>参考までに『スターリン―政治的伝記』（上原和夫訳、みすず書房、１９８４）からドイッチャーの第二版「まえがき」を引用しておきます。
翻訳ではありますが、ドイッチャーの文体の雰囲気は感じ取れると思います。
なお、初版の翻訳は同じ上原和夫氏訳で、みすず書房から１９６３年に出ていますが、実は山路健という人の翻訳が先行していて、こちらは１９５２・５３年に「文芸春秋新社」から上下二巻本で出てますね。

-----------------
第二版（増訂版）まえがき

　この「スターリン」第二版は、「スターリン」が書かれてから…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-01T15:15:59+09:00</dc:date>
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    <title>アイザック・ドイッチャー</title>
    <link>http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5166</link>
    <description>調べてみたところ、Isaac Deutscherの『Stalin: a Political Biography』の初版が出たのは１９４９年で、高橋昌明氏の記すところと１２年のズレがありますね。
普通なら単なる勘違いですむでしょうが、この本の場合、若干特殊な事情があります。
というのは、ドイッチャーがこの本を出したのはスターリンが最高度に神格化されていた時代で、もちろん１９５３年のスターリン死去、１９５６年のフルシチョフによるスターリン批判の前の時期です。
そういう時期にドイッチャーがスターリンに関する事実を詳細に明らかにし、かつ冷静に分析したこの本…</description>
    <dc:creator>鈴木小太郎</dc:creator>
    <dc:date>2009-11-01T12:44:29+09:00</dc:date>
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