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小太郎さん
論文の前半は、六波羅に潜む塙保己一の亡霊を炙り出す手際など、なかなか良いですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124608.html
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125204.html
頼経は、鎌倉追放後の入洛時、六波羅若松殿に渡り(吾妻鏡)、頼嗣は、同様な状況下で、若松殿に入る(北条九代記)、とあるのですね。
六波羅御所と六波羅若松殿は、別の建物なのでしょうが、前者を将軍の檜皮葺の本邸とするならば、後者は前将軍の板屋葺の陋屋なのかもしれませんね。
「太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた。一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。むしろ象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核はやはり鎌倉殿の御所にあったと評価すべきだろう」(熊谷氏『六波羅探題考』89頁)
あるいは、北条氏はもっと残酷で、六波羅御所と六波羅若松殿は全く同じ建物、将軍宣下を受けて下向するときは「御所」と称し、前将軍として追放されて入洛するときは「若松殿」と称する、というようなことだったのかもしれないですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124607.html
この若松殿は、もともとは、重時の若松宅のようですが(『葉黄記』)、これは、按ずるに、諱の一字が重複するゆえ、平重盛の小松殿を乗っ取ったものにちがいなく、平家滅亡後、小松が成長して若松になった、という厭味なのかもしれませんね。
重時は、連署として鎌倉へ栄転するとき、この松の苗を持ち帰って庭に植え、極楽寺一族の繁栄を祈ったのでしょうね、きっと。
『葉黄記』にある「閑放の地」というのは、要するに、空き地ということでしょうか。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126607.html
宗尊親王は、追放後の入洛時、六波羅北方時茂の亭(館)に着御、とありますが、これは六波羅御所のことか六波羅若松殿のことか、わからないですね。前者と後者は別の建物とすれば、宗尊親王はもはや前将軍にすぎないから、本邸の御所には入れてもらえず、陋屋の若松殿に入るしかないのでしょうね。そして、関東に下向する新将軍を遠くの方から眺める、という構図になるのでしょうか。惟康君(誰の発案か知らぬが、変な諱だ)、鎌倉は魑魅魍魎の魔所だぞ、うんと気をつけてお行き、などと呟きながら。・・・と書いてきて、疑問を感じたのですが、惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。
方違えに大将軍という方位神がありますが、征夷大将軍の下向や上洛には、陰陽道の影響があるような気もしますね。
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