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まず、熊谷氏の説明を確認してみます。
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二 六波羅探題の歴史的位置
さらに、六波羅探題の呼称と実態をめぐる問題をこのように整理しなおすことで、鎌倉幕府機関としての六波羅やその首班である六波羅探題のみならず、鎌倉幕府自体の位置づけにもかかわる新たな論点を提示することが可能になる。
それに際して注目されるのは、六波羅北方に立地した鎌倉殿の邸宅の存在である。建久元年(一一九〇)、源頼朝は平家一門の一大拠点であった六波羅に邸宅を建設する。(中略)
高橋慎一朗によれば、六波羅御所は「武家の空間」である六波羅の象徴性を高めたものの、あくまでもその一部にすぎず、六波羅の中核は北条氏の私邸にあったという。事実、鎌倉殿が六波羅御所を使用するのは在京中のみであった。六波羅御所が象徴的な存在にすぎなかったとの指摘はそれ自体、正鵠をえたものであろう。
しかしながら、逆に象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核は北方に存した六波羅御所にあったと評価することも可能なのではないかと思う。太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた。一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。むしろ象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核はやはり鎌倉殿の御所にあったと評価すべきだろう。
そこで想起されるのが、鎌倉殿が関東へ下向する際に、六波羅御所へいったん移徙する慣例の存在である。鎌倉殿が京都から下向するに際しては、まず六波羅北方の御所に移徙したうえで関東へ下向するのが慣例であった。たとえば、承久元年(一二一九)七月、のちに四代将軍となる三寅(九条頼経)は一条亭から六波羅へ渡御し、鎌倉へ下向している。そして、建長四年(一二五二)三月、六代宗尊親王は仙洞から六波羅へ移徙して即日鎌倉へ出発しており、正応二年(一二八九)十月、八代久明親王もやはり仙洞から六波羅へ入り、その日のうちに鎌倉へむけ下向している。
また、鎌倉殿が上洛したおりには六波羅御所が新造ないしは修造され、これを宿所とするのが慣例であった。先述のごとく、頼朝と頼経の上洛に際しては六波羅御所が新造、修造され、実際には在京中には宿所として利用されている。そして、正嘉二年(一二五八)五月に宗尊親王の上洛が計画された際にも、六波羅御所の新造が準備されている。
それでは、上洛時の御所使用はともかく、なぜ鎌倉殿は下向時に六波羅御所への移徙をわざわざおこなう必要があったのであろうか。いずれの事例においても、摂関家や王家の邸宅から六波羅御所へ立ち寄ったうえで、即日鎌倉へむけ下向しており、きわめて儀礼的なものを感じさせる。
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ここで、「つまるところ、この問題を解決する糸口は、鎌倉殿のおかれた地位にあるのではなかろうか。」という具合に、筆綾丸さんが既に引用されている部分につながります。
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