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>筆綾丸さん
私も一時期、高橋氏の『武士の成立 武士像の創出』等の著作を熱心に読み、権門体制論についてもある程度調べてみたつもりなのですが、結局のところ、建前論には従えない、というのが今の気持ちです。
154ページで筆綾丸さんが引用された部分の続きは、
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鎌倉幕府は万能の中央政権ではなく、京都ではいぜん朝廷が活動し、すくなくとも鎌倉前期には、そこで王朝貴族集団により日本国全体にかかわる政治が行われており、また国家を支える宗教・イデオロギー部門は、主に京都・奈良の諸権門寺院が握っていた。王権は鎌倉将軍家にはなく、京都の王家が、院・天皇の分業関係を維持しながら、これを掌握行使していた。現実には京・鎌倉間にはさまざまな疎隔、矛盾・対立があり、しかも両者の力関係は年を逐って鎌倉に有利に傾いていったが、それにもかかわらず幕府の本質・役割は、中世国家の一翼、その軍事・警察担当部門として日本国の平穏を実現するところにあり、それを象徴的に示すのが京都大番──天皇の住まいする閑院内裏の周辺に、諸国の御家人たちを交替で勤番させ、天皇を守護する姿勢を顕示する──であった。その意味では、平家はすでに見たように後白河院政のもとで、間違いなくその任にあたっていたのである。
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となっていますが、「両者の力関係は年を逐って鎌倉に有利に傾いていった」というのは変で、鎌倉幕府と朝廷の力関係はズルズル・ダラダラと変化して行ったのではなく、承久の乱で幕府が朝廷を圧倒したことにより劇的に変容したのは明らかです。
清盛の時代と頼朝の時代も、京都周辺のちんまりした戦闘で勝利しただけの清盛と、全国レベルの数年にわたる動乱を実力で収束させた頼朝の存在感は全く異なり、武家と朝廷との力関係において著しい差があることは明らかだと思います。
私は高橋氏の所謂「頼朝の幕府の画期性を信じて疑わない人々」(p155)の一員であり、更に承久の乱の画期性を信じて疑わない人々の一員なので、権門体制論者特有のズルズル・ダラダラ・ベッタリ・マッタリ感に満ちた「六波羅幕府」には抵抗感がありますね。
「六波羅幕府」論は形式論理としての一貫性はあるので、上横手雅敬氏との京都周辺での局地戦には勝利できるのかもしれませんが、全国制覇する可能性は「六波羅団地」という素晴らしいネーミングが広く定着する可能性と同程度なんじゃないですかね。
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