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小太郎さん
定通は、どんな意趣かわかりませぬが、鳥羽院への意趣返しのつもりだったのかもしれませんね。
『以隠岐院、可奉號顕徳院者、依治承崇徳院例、無勅書、只外記承存許也、件諡號字、式部大輔為長卿勘申』(百練抄)
私はずっと、隠岐院という名はただの通称で朝廷は全く関与していない、と考えていました。ところが、「崇徳・顕徳・順徳の三帝は当初、讃岐院・隠岐院・佐渡院と云ったように国名を以て追号とされていました」とするならば、朝廷は少なくとも「国名を以て追号」なる行為はした、ということになりますね。顕徳院という名ですら勘申を外記が承知しているだけで勅書はない、というほどだから、どのような形式を踏んで「国名を以て追号」したのか、よくわからない。隠岐院という名も、勘申を外記が承知しているだけで勅書はない、という形式で追号した、つまり、隠岐院とは、曲がりなりにも、朝廷が追号した正式な名称である、ということなのか。
延応元年(1239)二月二十二日の崩御まで、さらに、同年五月二十九日に顕徳という諡號を贈られるまで、後鳥羽はずっと「隠岐の法皇」であり、正式に隠岐院になったことはない、と考えるべきではないか。 同年五月十六日、能茂法師が後鳥羽の御骨を首に懸けて入京したので、いくらなんでも隠岐の法皇のままでは不味い、というようなことで諡號を贈られたのではないか。『以隠岐院、可奉號顕徳院者』における隠岐院は、所謂隠岐院というくらいの意味なのではないか。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/4/4312120.html
今日は、高橋昌明氏『平家の群像』を、すこし読んでみました。
「右京大夫をはじめ人びとが維盛の舞に感嘆したのは、彼の舞が見事だったからに違いないだろう。加えて『源氏物語』の紅葉賀をなぞっていることを、みながあらかじめ承知していたからこそ、その感興、効果はいやました。
光源氏の青海波舞は、朱雀院への行幸時に演じられるのが予定されていた。桐壷帝は藤壺が懐妊中で見られないのを残念がって、試楽としてこれを催す。だから現実の院の五〇の賀宴の試楽も単なる予行演習ではない。藤壷の懐妊は、いうまでもなく源氏と密会の結果である。源氏は良心の呵責に耐える彼女の視線を感じ、帝への挑戦とやましさ、藤壷への思慕の心で思い乱れながら、たとえようもない見事さで舞い終えた。その薄氷を踏むがごとき緊迫感こそが、紅葉賀巻の青海波舞を、『源氏物語』全巻中のクライマックスシーンにしているわけである。
デジャヴュというフランス語があり、既視感と訳される。初めての体験を、以前にも経験したように感じるあの感覚をいう。観客は維盛の舞に触発され、自分は以前光源氏の舞姿を見たことがあるのではないかという気分に襲われ、王家内の密事を暗示させる不吉さにおののきながら、しかも物語の舞台になった王朝盛時への哀惜と、繰り広げられる眼前の光景の見事さへの感嘆がないまぜになり、危険で甘美な陶酔に酔い痴れていたのであろう。
王朝儀礼の中にはめこまれた青海波舞のもつ意味は、几帳の内で『源氏物語』を読む悦びとはまったく次元を異にする。それは、政治権力者が、倫理を超越して自己を主張し、我が力を誇示する手段として用いられた。それを自らのために利用した権力者には、鎌倉時代以降も、後嵯峨上皇、後醍醐天皇、足利義満、足利義教、徳川秀忠・家光など極めたるビッグネームが続く。が、ここではそれらにふれる余裕はない。政治世界での青海波舞上演の意味については、三田村雅子氏の『記憶の中の源氏物語』という刺激に満ちた大著を参照されたい」(同書47頁〜)
維盛が時の中宮と密通して「危険で甘美な陶酔」にしびれているのならともかく、時の中宮が維盛の胤を宿して震えおののいているのならともかく、こういう文章は、私には理解できません。なんだかなあ、という感じですね。
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