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下の投稿で「建長元年の時点では常識的な結論が出て、みんなほっとしたんじゃないですかね」などと書いてしまいましたが、民主的な社会ではないのだから、ちょっと勇み足でしたね。
建長元年の時点で「順徳」とすることを決定したのは後嵯峨院だと私は思います。
7年前、土御門定通は自分が権力を握っていることを周囲に見せつけるために、強引に「顕徳」から「後鳥羽」へ称号を変更させた。
それを即位したばかりの後嵯峨天皇は苦々しく見ていたが、止めることはできなかった。
7年後、自分が全ての決定権を握っていることを廷臣に確認させるために、後嵯峨は前回との連続性を絶って「順徳」と決定したのではないか。
こう考えることは、後嵯峨院が土御門定通の子孫に冷酷だったこととも整合すると思います。
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