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次に紹介するのは、白倉克文氏「『桜の園』の世界─チェーホフ最晩年の眼差し─」から、先に引用した部分の20行ほど後に出てくる一節です。
言われてみればなるほどなと思いますが、こういう指摘をする人は意外と少ないように感じます。
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『桜の園』で貴族制度は批判されても、それは個々の貴族の批判に直結するものではなかった。ラネーフスカヤは旧領地を離れて、新しい人生に潔く立ち向かうであろうし、ガーエフも彼なりに労働に勤しむだろう。『手帖』では最後まで借金を返さないピーシチクは、一部ではあっても返金したし、今生の別れを熱く述べてもいる。貴族もまた愛すべき存在として描かれているのである。農奴の家系に生まれたチェーホフは、優れた貴族が具有する高い精神性に近づくために、必死に努力する体験を、自分自身が持っていた。彼は1889年に書いた手紙に、次のように記している。「貴族階級の作家ならば生まれながらにして手に入れているものを、貴族階級でない作家は青春を犠牲にして贖うのです。」「自分の身体から一滴一滴奴隷の血を絞り出し、ある朝目覚めてふっと、自分の血管を流れる血がもはや奴隷の血ではなく、本当の、人間の血であることを感じるのです。」チェーホフのこの自画像は、ロパーヒンの姿を彷彿させる。ロパーヒンの形象を通してチェーホフは、全ての人が貴族の文化的高みに到達することの必要性を説いたと考えることができる。貴族が育てた優れた文化は継承すべきものであって、破壊されるべきものではない。歴史の変動で駆逐される運命にある貴族ではあるが、彼らの偉大な文化には敬意を払うべきである。この点が主張されたことにより、『桜の園』はロシアの貴族を悼む挽歌となりえた。(後略)
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今日は白倉克文氏の『近代ロシア文学の成立と西欧』(成文社、2001)を購入して少し読み始めましたが、全く素養がない分野なので、なかなか難しいですね。
http://www.seibunsha.net/books/ISBN4-915730-28-X.htm
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