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「巻六 おりゐる雲」(その6)─土御門顕定と三条公親

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月18日(木)12時16分9秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p36以下)

-------
 後土御門内大臣定通の御子顕定の大納言、大将のぞみ給ひしを、院もさりぬべく仰せられければ、除目の夜、殿の内のものどもも心づかひして侍るを、心もとなく思ひあへるに、ひきたがへて、先に聞えつる公基のおとどにぞおはせしやらん、なり給へりしかば、怨みにたへえず、頭おろしてこの高野にこもりゐ給へるを、いとほしくあへなしと思されければ、今日の御幸のついでに、かの室をたづねさせ給ひて、御対面あるべく仰せられ遣したるに、昨日までおはしけるが、夜の間に、かの庵をかき払ひ、跡もなくしなして、いと清げに、白き砂ばかりを、ことさらに散らしたりと見えて人もなし。わが身は桂の葉室の山庄へ逃げ上り給ひにけり。
 そのよし奏すれば、「今更に見えじとなり。いとからい心かな」とぞのたまはせける。
-------

四条天皇の頓死後、後嵯峨践祚に貢献した土御門定通(1288-1247)の息子の顕定(1215-83)が近衛大将になるのを望んでいたところ、後嵯峨院も承諾の内意を示されていたので、除目の夜、顕定の身内の者も待ち遠しく思っていたところ、予想に反して、先に申し上げた西園寺公基の大臣だったか、大将になられたので、顕定は恨めしく思って出家し、この高野に籠もっていらっしゃったのを、後嵯峨院も気の毒に思われて、今回の御幸のついでに顕定の庵を訪ね、対面しようと思われてその旨の連絡をしておいたところ、昨日までいた顕定が、夜の間にその庵を引き払い、跡もすっかり片付けて、さっぱりと白い砂ばかりを綺麗に撒き散らしたような様子で人もいない。自身は桂の葉室の山荘へ逃げ上っていたのであった。その旨を後嵯峨院に奏上したところ、後嵯峨院は「今更私に会うまいと言うのだな。なかなかきつい性格だ」とおっしゃった。

ということで、顕定の出家が何時のことかと言うと、『公卿補任』建長七年(1255)に、

権大納言正二位 <土御門>源顕定 四十一 淳和奨学両院別当。四月十二日出家。即参籠高野山。

とあります。
また、西園寺公基に「四月十二日転左大将。十二月四日大将上表」、三条公親に「四月十二日兼右大将」とあります。
同日のことなので、顕定の出家は西園寺公基が右大将から左大将に転じ、三条公親が右大将となったことへの抗議であることは間違いなさそうですね。
さて、先に『五代帝王物語』で兄弟が左右近衛大将に並ぶ例の話を検討した際に、

-----
なお、『公卿補任』で公相が右大将となった建長二年(1250)を見ると、左大将だった二条道良(十七歳)が十二月二十三日にこれを辞し、翌二十四日、花山院定雅(三十三歳)が左大将となっています。
また、右大将だった久我通忠(1216-50)が十二月(『百錬抄』では十一月)二十四日に三十五歳の若さで死んでしまい、同日、公相が右大将となっています。
右大将の久我通忠が死んだその日に公相が右大将となるのは些か不審なので、通忠の死は『百錬抄』の言うように前月二十四日が正しいのかもしれません。
ま、それはともかく、公相が二条道良(良実男、1234-59)に代って左大将になるという話を聞いた「上臈」の花山院定雅(1218-94)が「家も文書も焼払ひて出家」すると騒いだので、定雅を左大将に、公相を右大将とすることになり、徳大寺実基の場合のような「超越の儀」はなくて、円満に治まった訳ですね。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9261

と書きましたが、建長七年の土御門顕定は建長二年の花山院定雅の立場とよく似ていますね。
ただ、西園寺公基は右大将から左大将に転じているので、『五代帝王物語』の話の流れから見ても、むしろ円満な人事異動であり、土御門顕定は三条公親に「超越」されたような感じがします。
そこで土御門顕定(1215-83)と三条公親(1222-92)の経歴を照らし合わせてみると、年齢は土御門顕定が七歳上で、叙爵はそれぞれ五歳、四歳のときですから、ほぼ同レベルのスタートですね。
もちろん七歳違いなので土御門顕定の方が官位官職とも上の時期が続きますが、従三位となって公卿の仲間入りするのは共に嘉禎三年(1237)であり、ここで二人は並びます。
年齢を考えれば、実質的に三条公親が上と言ってもよいと思います。
そして延応元年(1239年)に二人は共に権中納言となりますが、土御門定通が後嵯峨践祚に貢献したことから、仁治三年(1242)に土御門顕定は躍進して権大納言となります。
他方、三条公親が権大納言となったのは建長二年(1250)であり、土御門顕定から見れば、後嵯峨践祚後は三条公親を大きく引き離していたと思えたはずです。
とすると、やはり土御門顕定が「超越の儀」に怒って出家した原因は西園寺公基ではなく、三条公親ですね。

土御門顕定(1215-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E9%A1%95%E5%AE%9A
三条公親(1222-92)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E8%A6%AA

こう考えてくると、『五代帝王物語』に載っていた兄弟で左右の近衛大将に並び立つ例の話が『増鏡』に採用されなかった理由は、単に煩雑すぎる話だったからではなく、それを出すと土御門顕定が後嵯峨院との対面をきっぱりと拒絶して京都に逃げ戻ったという非常に面白いエピソードの印象を弱めてしまうからではないかと思います。
『増鏡』にしか記録されていないこのエピソードは面白すぎて、私はかねてから創作ではないかと疑っています。
『増鏡』作者は『五代帝王物語』をヒントにしてこの話を思いつき、反面、『五代帝王物語』の煩雑な考証、特に徳大寺実基や花山院定雅の「超越の儀」の話は新しいエピソードの印象を弱めるので、綺麗さっぱりと削除してしまったのではないかと思います。
なお、『増鏡』作者は『弁内侍日記』に三条公親が「中納言」とあるのを「大納言」に修正していて、三条公親の経歴にはずいぶん詳しいですね。

「巻五 内野の雪」(その10)─三条公親
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9246
 
 

「巻六 おりゐる雲」(その5)─後嵯峨院、高野御幸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月18日(木)09時56分26秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p35以下)

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 明くる年八月七日二の御子坊にゐ給ひぬ。御年十なり。よろづ定まりぬる世の中、めでたく心のどかに思さるべし。
-------

承明門院が他界した次の年、正嘉二年(1258)八月七日に後深草天皇の同母弟・恒仁親王、後の亀山天皇が皇太子となります。
ちなみに正嘉二年は『とはずがたり』の後深草院二条が生まれた年でもあります。

-------
 そのまたの三月廿日なりしにや、高野御幸こそ、またこしかた行末もためしあらじと見ゆるまで、世のいとなみ、天の下のさわぎには侍りしか。関白殿、前右大臣、内大臣、左右の大将、検非違使の別当をはじめ残るは少なし。馬・鞍・随身・舎人・雑色・童の、髪・かたち・たけ・姿まで、かたほなるなくえりととのへ、心を尽くしたる装ひども、かずかずは筆にも及びがたし。かかる色もありけりと、珍しくおどろかるる程になん。
-------

「そのまたの三月廿日なりしにや」という書き方だと正嘉三年の出来事のようですが、実際には正嘉二年三月、恒仁親王立坊より前の話です。
ちなみに『五代帝王物語』にも高野御幸の記事がありますが、何故か「正嘉元年三月廿日高野へ御幸あり」となっています。
さて、正嘉二年の『公卿補任』を見ると、関白は鷹司兼平(1228-94)、「前右大臣」は西園寺公相(1223-37)、内大臣は洞院実雄(1219-73)、左大将は近衛基平(1246-68)、右大将は三条公親(1222-92)、検非違使別当は四条隆行(1220-?)です。
四条隆行は四条隆親(1203-79)の十四歳上の異母兄、隆衡(1189-?)の息子で、『尊卑分脈』によれば母が「源惟義女」、即ち大内惟義の娘ですから、関東と特別な縁のある人ですね。
ただ、惟義を継いだ惟信が承久の乱で朝廷方に付いてしまったため、この関東との縁が隆行にとってそれほど役に立ったとも思えません。

大内惟義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9

ま、それはともかく、続けます。

-------
 銀・黄金をのべ、二重三重の織物・うち物、唐・大和の綾錦、紅梅の直衣、桜の唐の綺の紋、こ裾濃、浮線綾、色々さまざまの直衣、うへのきぬ、狩衣に、思ひ思ひの衣を出せり。いかなる龍田姫の錦も、かかるたぐひはありがたくこそ見え侍りけれ。かたみに語らふ人はあらざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞ、不思議なる。余りに染め尽くして、なにがしの中将とかや、紺むら濃の指貫をさへ着たりける。それしも珍かにて、いやしくも見え侍らざりけるとかや。院の御さまかたち、所がらはいとど光を添へてめでたく見え給ふ。
-------

「かたみに語らふ人はあらざりけめど……」は「互いに相談した訳ではなかったろうが、同じ模様も色合いもなかったのは不思議なことだ」という意味ですね。
この後、土御門顕定についての奇妙な話が出てくるのですが、いったんここで切ります。
 

「巻六 おりゐる雲」(その4)─承明門院、他界

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月17日(水)22時01分53秒
編集済
  さて、『増鏡』に戻って続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p34以下)

-------
 正嘉元年の春のころより、承明門院御なやみ重らせ給へば、院もいみじうおどろかせ給ひて、御修法なにかと聞こえつれど、つひに七月五日御年八十七にてかくれさせ給ひぬ。ことわりの御年の程なれど、昔の御名残と、あはれにいとほしう、いたづき奉らせ給へるに、あへなくて、御法事などねんごろにおきてのたまはする、いとめでたき御身なりかし。
-------

承明門院(1171-1257)は土御門院(1195-1231)の母、後嵯峨院(1220-72)の祖母ですね。
『増鏡』には既に土御門院誕生・同崩御の場面などに何度も登場し、逼塞していた若き日の後嵯峨を庇護する様子なども描かれています。

「巻一 おどろのした」(その2)─源通親
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9200
「巻三 藤衣」(その3)─九条道家と法助
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9222
「巻四 三神山」(その1)─阿波院の宮
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9228

ところで、承明門院の実父が能円(1140-99)という僧であることは土御門天皇践祚の際にかなりの問題となり、源通親に敵対する九条兼実側からは厳しい批判を浴びています。
『増鏡』は実父が能円であることを隠しはしないものの、そのような批判があったことには触れていません。
この点、『五代帝王物語』には、<「巻四 三神山」(その2)─承明門院>において既に紹介済みの、

-------
後鳥羽院御位すべらんと思食たりける此、七日御精進ありて、毎夜石灰の壇にて神宮の御拝ありて、土御門院と光台院の御室<道助法親王>俗名長仁親王とて御座す、継体いづれにてかおはしますべきと、くじをとらせ給たりければ、土御門院なるべしととらせ給ぬ。さて夕の御膳まいりけるが、まいりもやらず、物を案たる御気色にて、あちからなし/\と仰ありければ、何事なるらんと人々も思まいらせけるに、承明門院の宰相殿とて、御膳の御加用してさふらひ給けるに、今宮<土御門>の御膳などびんなからぬ様にせよと大納言<通親>に云べしと仰有ければ、承明門院は極て御心はやくて、聖覚法印説法をばそらに聞おぼえ給ほどの上根の人にておはしませば、あはれこの事よなど心えて、あまりの嬉しさにつぼねへはしりおるるままに、うす衣ばかり打かづきて人もぐせず、物をだにもはかでおはしまして、事のやうかうかうと仰せられければ、子細なき事にこそとて大納言なのめならず悦ばれけり。さて案のごとく御位ゆずりまいらせられぬ。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9229

という文章の後に、次のように出てきます。(『群書類従・第三輯』、p434)

-------
承明門院は能円法印が女なれば、法師の女の国母なること先例もなければ、大納言の女の儀にて、院号よりもさきに先准后の宣下ありし時も、源氏の人々職事に補して、振舞あはれけり。女院の御母は刑部卿の三位とて、刑部卿範兼卿の女也。能円が後、大納言の北方にて大相国<通光公>の母なれば、旁子細あるゆへなり。さはあれども、正しき法師の女のうみまいらせたる宮の位に即給たる事、すべて一代も例なければ、道助法親王は御腹も坊門内府の女坊門殿の生まいらせたれば、七条院養まいらせられて、一定儲の君と思食えるに引かへて、かくならせ給ぬるは、併神宮の御計ひなるうへ、君も聖慮賢明にわたらせ給によりて、神慮に任てくじをとらんと思食よりける成べし。
-------

九条兼実の弟の慈円(1155-1225)など、承明門院は実は養父の源通親と密通していたなどと悪口を書いており(『愚管抄』)、仮に『増鏡』の作者が摂関家関係者で、摂関家の宿敵・源通親の養女である承明門院を悪く描こうと思えば「法師の女」以外にも材料は豊富に残されていた訳ですが、実際には承明門院の悪口は皆無ですね。

能円(1140-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%86%86
 

『五代帝王物語』に描かれた西園寺公相・公基(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月17日(水)15時02分47秒
編集済
  続きです。
正直、私も兄弟で左右の近衛大将に並び立つことの考証について、どーでもいいだろ、的な気持ちがない訳ではないのですが、『五代帝王物語』の性格を考える上で多少の参考になれば、と思ってやっています。
さて、後半部分は少々難解です。

-------
仁治二年の比、大将の闕ありしに、只今さして成べき仁もなかりしにて、拝任は難題なりけるを、始終の大臣まではおもひよらず、只一日名をかくべき由申請ければ、なされし時は右大将にて、徳大寺太政大臣実基公のおはせしは、左に転ずべかりしかども、わざと転ぜで、只直になされ候へと申ければ左大将に成ぬ。さて右大将は出仕はしあはれざりけり。いく程なくて実有卿大臣にもならで大将辞退せられにき。大臣を申けれども、始より沙汰事ふりぬとて許されねば、つゐにならでやみにしに、これは兄弟任ずるのみならず、左右同時に相並たり。是も凡人にとりては重盛宗盛の外は例なく侍るにや。後に公相公右大臣にて兵仗給て、公基公内大臣の左大将、公親公右大将にて、春日の行幸供奉せられたりしこそゆゆしく侍りしか。公相の大将になりし時は、左右とも闕有しかば、上臈にて花山院の入道右府定雅公のありしををき、直に左に成べき由申されければ、花山院は家も文書も焼払ひて出家すべき由申けるに因て、超越の儀なくて、花山院は左に成て、ともにゆゆしき大将にてぞ有し。
-------

仁治二年(1241)は四条天皇が頓死する前年で、翌年正月に後嵯峨天皇践祚となります。
最初の方は誰の話をしているのかも分かりにくいですが、主語は「実有卿」で、西園寺公経(1171-1244)の息子、一条実有(1203-60)のことですね。
実有は公経の息子とはいえ、西園寺実氏(1194-1269)と洞院実雄(1219-73)の間に挟まれて、あまりパッとしない存在です。
ただ、この人の正室は北条義時女で、公持(1228-68)・公藤(1235-81)という二人の息子も生んでおり、幕府との特別に強い縁があった人ではありますね。

一条実有(1203-60)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%9C%89

ここで『公卿補任』仁治二年を見ると、

権大納言正二位 藤実有(三十八)十一月十日兼左大将。同十一日左馬寮御監宣下。

とあります。
また、これに関連しそうな記述として、右大臣・一条実経(十九歳)に「十一月八日辞左大将」、内大臣・鷹司兼平(十四歳)に「四月十七日任。同十八日(代日)右大将如元。十月十日辞大将」、大納言・徳大寺実基(年齢不記載)に「四月十七日還任。十月十三日兼右大将」とあります。
時系列で整理すると、十月十日に摂関家の鷹司兼平が右大将を辞して、三日後の同月十三日に徳大寺実基が右大将となり、十一月八日に摂関家の一条実経が左大将を辞して、二日後の同月十日に実有が左大将となった訳ですね。
『五代帝王物語』には「大将の闕ありしに」とありますが、実際には実有の強い希望を受けて、一条実経に無理を言って左大将を辞めてもらったようですね。
「始終の大臣まではおもひよらず、只一日名をかくべき由申請ければ」とあるので、実有は「ずっと大臣を続けたい訳ではなく、一日だけでよいのです」と言って、任大臣の前提となる大将を望んだものの、普通であれば右大将の徳大寺実基に左大将に移ってもらって自身は右大将になるのが穏当なのに、実有は直接に左大将になることを望んだようです。
そこで、一条実経に空けてもらった左大将の席に滑り込んだものの、右大将の徳大寺実基が不貞腐れて、抗議のために出仕を止めた、ということでしょうね。

徳大寺実基(1201-73)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%9F%BA

さて、『公卿補任』の仁治三年(1242)を見ると、

権大納言正二位 藤実有(三十九)左大将。四月九日辞両職。以男三位中将公持卿被任権中納言。

とあります。
実有は息子の公持を権中納言にするために権大納言と左大将を辞めてしまった訳ですが、この後、実有は大臣にはなれず、ずっと散位のままで正元二年(1260)二月に出家、ついで四月に死去していますね。
ま、大騒ぎした割にはしょぼい結果だったようです。
ところで、『五代帝王物語』には何の説明もありませんが、実有の九歳上の兄の西園寺実氏は貞応元年(1222)から貞永元年(1232)まで右大将なので、実氏・実有も兄弟で左右大将になった例ではあります。
しかし、『五代帝王物語』の作者にしてみれば、実氏・実有の例はあまり芳しいものではなく、それに比べたら公相・公基は本当に素晴らしく、「最勝講五巻の日」即ち建長五年(1253)五月六日以降、公相は右大臣・左大臣・太政大臣となり、公基も内大臣・右大臣となりました、ということですね。
なお、『公卿補任』で公相が右大将となった建長二年(1250)を見ると、左大将だった二条道良(十七歳)が十二月二十三日にこれを辞し、翌二十四日、花山院定雅(三十三歳)が左大将となっています。
また、右大将だった久我通忠(1216-50)が十二月(『百錬抄』では十一月)二十四日に三十五歳の若さで死んでしまい、同日、公相が右大将となっています。
右大将の久我通忠が死んだその日に公相が右大将となるのは些か不審なので、通忠の死は『百錬抄』の言うように前月二十四日が正しいのかもしれません。
ま、それはともかく、公相が二条道良(良実男、1234-59)に代って左大将になるという話を聞いた「上臈」の花山院定雅(1218-94)が「家も文書も焼払ひて出家」すると騒いだので、定雅を左大将に、公相を右大将とすることになり、徳大寺実基の場合のような「超越の儀」はなくて、円満に治まった訳ですね。
以上、『五代帝王物語』の記述内容は一応理解できましたが、現代人にはあまり関心の抱けない話で、ふーん、という感想以外特にありません。
ま、さすがに細かすぎる話なので、『増鏡』ではあっさり済ませたのでしょうね。

久我通忠(1216-50)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E9%80%9A%E5%BF%A0
花山院定雅(1218-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%9A%E9%9B%85
 

『五代帝王物語』に描かれた西園寺公相・公基(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月17日(水)10時56分10秒
編集済
  『五代帝王物語』にも西園寺公相・公基兄弟が左右近衛大将として並び立ったことが描かれているのですが、若干意味が取りにくい部分もあります。
少しずつ紹介してみます。(『群書類従・第三輯』、p438以下)

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 大宮院の御せうとたち、公相公基は左右の大将に並て珍らしき例にて侍りしに、父の前相国<実氏公>院の最勝講五巻の日、左右の大将共に具して参せられたりしかば、一家の公卿座を立て礼節ありき。ゆゆしとも申もをろか也。
-------

『増鏡』には「最勝講なりしかとよ」(最勝講であったか)とぼかした書き方になっていましたが、『五代帝王物語』では「院の最勝講五巻の日」と明確です。
最勝講とは「平安時代以降、清涼殿で、毎年5月中の吉日を選んで5日間、東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺の高僧を召して、『金光明最勝王経』全一〇巻を、朝夕二座、一巻ずつ講じさせて国家安泰を祈った法会」(『大辞林』)のことで、『百錬抄』によると、これは建長五年(1253)五月六日のことです。
この年、前太政大臣・西園寺実氏(1194-1269)は六十歳、公相(1223-67)は三十一歳、公基(1220-75)は三十四歳ですね。
『公卿補任』を見ると、公相は内大臣で、この年の四月八日に右大将から左大将に転じています。
また、権大納言の公基は同日付で右大将に任じられており、確かに「公相公基は左右の大将に並」んでいます。

-------
近衛大将兄弟任ずる事、帝王摂録などの御子たちは申に及ばず、延喜の比より後、凡人の中には勧修寺の先祖泉の大将定国、三条の右大臣定方、元治には堀川左大臣<俊房公>六条右大臣<顕房公>平家には小松内府<重盛公>屋嶋内府<宗盛公>の外は例なく侍りしを、
-------

途中ですが、ここでいったん切ります。
近衛大将に兄弟が任ずる例として、「帝王摂録などの御子たち」ではない「凡人」、『増鏡』にいう「ただ人」の場合として、三例が挙げられています。
まず、「勧修寺内大臣」藤原高藤(838-900)の息子、「泉大将」定国(866-906)が右大将となり、「三条右大臣」定方(873-932)が右大将、ついで左大将になっていますね。
ただ、任官の時期は定国が昌泰四年(901)、定方は定国没後の延喜十九年(919)に右大将、延長八年(931)に左大将ですから、かなりずれていて、二人が左右大将として並び立っていた訳ではありません。

藤原定国(866-906)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%9B%BD
藤原定方(873-932)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E6%96%B9

次に「土御門右大臣」源師房(1008-77)の息子、「堀川左大臣」俊房は寛治七年(1093)に左大将となり、「六条右大臣」顕房は承暦四年(1080)に右大将となっているので、寛治七年には二人が左右大将として並び立っているようですね。

源俊房(1035-1121)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E4%BF%8A%E6%88%BF
源顕房(1037-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A1%95%E6%88%BF

そして平家の場合、平清盛(1118-81)の息子の重盛(1138-79)が承安四年(1174)に右大将、安元三年(1177)正月二十四日に左大将に転じて同年六月五日に辞任、宗盛(1147-85)が同じく安元三年正月二十四日、右大将となっていますから、安元三年に二人が左右大将として並び立っていますね。

平重盛(1138-79)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8D%E7%9B%9B
平宗盛(1147-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%9B%9B

なお、私は『公卿補任』を第二編(順徳~後円融院)しか持っておらず、以上は基本的にウィキペディア頼りでしたが、さすがにそれもまずいので、後で確認します。
『五代帝王物語』の西園寺公相・公基エピソードはまだ続きますが、長くなったので、ここでいったん切ります。
 

「巻六 おりゐる雲」(その3)─西園寺公相・公基

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月16日(火)19時12分28秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p30以下)

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 かくて今年は暮れぬ。正月いつしか后にたち給ふ。ただ人の御むすめの、かく后・国母にてたち続きさぶらひ給へる、ためしまれにやあらん。大臣の御栄えなめり。御子ふたり大臣にておはす。公相・公基とて大将にも左右に並びておはせしぞかし。これもためしいとあまたは聞えぬ事なるべし。
 我が御身、太政大臣にて二人の大将を引き具して、最勝講なりしかとよ、参り給へりし勢ひのめでたさは、珍らかなる程にぞ侍りし。后・国母の御親、御門の御祖父にて、まことにその器物に足りぬと見え給へり。昔、後鳥羽院にさぶらひし下野の君は、さる世の古き人にて、大臣に聞えける。

  藤波の影かげさしならぶ三笠山人にこえたる木ずゑとぞ見る

返し、大臣、

  思ひやれ三笠の山の藤の花咲き並べつつ見つる心は

かかる御家の栄えを、みづからも、やんごとなしと思し続けて詠み給ひける。

  春雨は四方の草木をわかねどもしげき恵みは我が身なりけり
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こうして今年(康元元年、1256)は暮れた。正月、早くも公子は中宮になられた。「ただ人」、即ち摂関家ではない人の娘で、このように后(中宮公子)・国母(大宮院)として続いて立たれる例は少ないだろう。これも実氏公の御好運であろう。公相・公基のご子息二人はともに大臣で、左大将・右大将としても並び立っておられる。これも例をあまり聞かない。御自身は太政大臣として、二人の大将を連れて後嵯峨院の最勝講に参内されたときの御威勢は世に珍しいほどであった。后・国母の親、後深草天皇の祖父として、本当に器量十分とお見受けした。

ということで、西園寺実氏への絶賛が続きます。
「昔、後鳥羽院にさぶらひし下野の君」の歌にある「藤波」は藤原氏、「三笠山」は「藤原氏の氏神春日神社の神域にある山で、かつ近衛府の大・中・少将の異名」(井上氏、p33)とのことで、兄弟で左右の大将として並び立っていることを讃えている訳ですね。
下野の君の歌と実氏の返歌は『続古今集』巻二十に出ているそうですが、その後の「春雨の……」の歌は、これだけ見ると藤原道長の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠かけたる事もなしと思へば」を連想させる、栄耀栄華を極めた自分を讃える傲岸不遜な歌のような感じがしないでもありませんが、実際には実氏が二十三歳のときに詠んだ後鳥羽院百首中の歌で、『続千載集』巻十六に「建保四年百首の歌奉りける時 西園寺入道前太政大臣」との詞書とともに載っているそうです。(井上氏、同)
建保四年(1216)というと康元元年の四十年前、西園寺実氏はまだ正三位、参議・左中将程度の時期ですから、この歌を三番目に持ってくるのは、まあ、編集の妙と言うか、一種のトリックのような感じがしないでもありません。
さて、ここまで「ただ人」西園寺実氏への絶賛が続くと、果たしてこんな文章を摂関家の関係者が書くものだろうかという疑問が改めて浮かび上がってきます。
なお、『五代帝王物語』にも公相・公基兄弟に関するかなり長い記事があるので、次の投稿で紹介します。

西園寺公相(1223-67)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%9B%B8
西園寺公基(1220-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%9F%BA
 

「巻六 おりゐる雲」(その2)─鷹司兼平

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月16日(火)11時32分3秒
編集済
  西園寺公子の女御入内の場面の続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p27以下)

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 二十三日、又御消息参る。御使ひ、頭中将通世、こたみも殿、書かせ給ふめり。このころ殿と聞ゆるは太政大臣兼平の大臣、岡屋殿の御弟ぞかし。後には照念院殿と申しけり。御手すぐれてめでたく書かせ給ひしよ。鷹司殿の御家のはじめなるべし。

  朝日影今日よりしるき雲の上の空にぞ千代の色もみえける

御返し、太政大臣聞え給ふ。

  朝日影あらはれそむる雲の上に行末遠き契りをぞしる

女の装束、細長そへてかづけ給ふ。
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再び天皇から女御へ手紙が贈られて、その使いは頭中将・中院通世(村上源氏、中院通方の子)です。
天皇に代って手紙を書いたのは関白・鷹司兼平(1228-94)で、建長四年(1252)に十八歳年上の異母兄、岡屋関白・近衛兼経(1210-59)の譲りを受けて後深草天皇の摂政となり、建長六年(1254)に関白に転じています。
「鷹司殿の御家のはじめ」、即ち五摂家のひとつ、鷹司家の家祖ですね。
また、国文学者によって『とはずがたり』の「近衛の大殿」に比定されている人物でもあります。

鷹司兼平(1228-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E5%B9%B3

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 今日はじめて、内の上、女御の御方に渡らせ給ふ。御供に、関白殿、右大臣<公相>、内大臣<公基>、四条大納言隆親、権大納言実雄、良教、通成、左大将基平など、おしなべたらぬ人々参り給ふ。餅の使ひ、頭中将隆顕つかうまつる。太政大臣、夜の御殿よりとり入れ給ふ。御心の中のいはひ、いかばかりかはとおしはからる。人々の禄、紅梅の匂ひ、萌黄の表着、葡萄染めの唐衣、袿、細長、こしざしなど、しなじなにしたがひてけぢめあるべし。
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手紙を二度贈り、その後やっと後深草天皇が女御の御方へ行きます。
その供の筆頭は関白・鷹司兼平で、続く右大臣の西園寺公相(1223-67)、内大臣の西園寺公基(1220-75)はともに太政大臣・西園寺実氏(1194-1269)の子息です。
そして大納言・四条隆親(1203-79)は実氏室・四条貞子(北山准后、1196-1302)の弟で、権大納言・洞院実雄(1217-73)は西園寺公経男、実氏の二十三歳下の異母弟ですね。
権大納言・粟田口良教(1224-87)は近衛家庶流、権大納言・中院通成(1222-86)は源通親の孫で、天皇からの手紙の使いとなった頭中将・中院通世の兄です。
右大将・近衛基平(1246-68)は近衛兼経男で、康元元年(1256)にはまだ十一歳ですね。
「餅の使ひ」役の頭中将・四条隆顕(1243-?)は隆親男で、隆親とともに『とはずがたり』に頻出する人物でもありますが、四条隆親・隆顕父子が『増鏡』に登場するのはこの場面が最初ですね。
四条家は院政期以来富裕で有名で、隆親は後堀河院の近臣であり、幼帝・四条天皇の「乳父」でもあった人です。
仁治三年(1242)、四条天皇が頓死して後嵯峨天皇に変ると、隆親は自分の邸宅・冷泉万里小路殿を天皇の御所(里内裏)に提供し、妻の能子(足利義氏女、隆顕母)は天皇の「乳母」となるという機敏な対応を見せ、後嵯峨院の宮廷でもそれなりの存在感を示したはずの人ですが、『増鏡』には康元元年(1256)、隆親五十四歳のこの場面まで登場してはいません。

>筆綾丸さん
>『源氏物語』など、全部、頭の中に入っている感じがします。
そうですね。
若い頃に『源氏物語』を何度も読み耽って、その語彙・文体が頭脳に染みわたり、自然に溢れ出てくるような境地かもしれないですね。
漢学の素養も相当ありそうで、たいしたものですね。
 

作者

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 1月15日(月)13時07分57秒
  小太郎さん
『増鏡』の作者は、所々読み返してみると、該博な知識があって、達意の文章をスラスラ書ける人で、しかも非常に理知的な人だ、とあためて感じますね。
『源氏物語』など、全部、頭の中に入っている感じがします。
 

もしも西園寺公子(東二条院)が『五代帝王物語』を読んだなら。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月15日(月)12時19分24秒
編集済
  今まで『五代帝王物語』について特に説明しないまま引用してきましたが、私はこの「御姨にて入内し給事」の記述は同書の作者を考える上でかなり重要な部分ではないかと思っています。
私は『増鏡』の作者を『とはずがたり』の作者と同一人物、即ち後深草院二条ではないかと考えていて、私の立場からすれば、『増鏡』の「巻六 おりゐる雲」の冒頭、西園寺公子の女御入内の場面で、公子と後深草天皇の年齢差について執拗な記述がなされていることは、自分を後深草院の宮廷から追放した公子(東二条院)に対する『増鏡』作者の悪意の現われとなります。
表面的には綺麗な言葉を連ねながら、十一も年上のババアの分際で、無理して入内しちゃってさ、とネチネチ嫌味を言っていると私は解釈しています。
ちなみに後深草院二条は正嘉二年(1258)生まれで、後深草院(1243-1304)より十五歳若く、公子(東二条院、1232-1304)より二十六歳若いですから、二条からみれば東二条院は本当に遥か年上の人ですね。
さて、私の立場からすると、『増鏡』の記述以上に『五代帝王物語』の「御姨にて入内し給事」の記述は妙なものとなります。
仮に東二条院が『五代帝王物語』の「御姨にて入内し給事」を見て、叔母で入内する先例が第二代・綏靖天皇の后、五十鈴依媛命まで遡って縷々記述されているのを眺めたとしたら、彼女はどんな気持ちになったのか。
果たして「代々の佳例」と思ったのか。
私としては、「御姨にて入内し給事」の「先例」を求めて神武天皇・綏靖天皇の時代にまで史料を探し求める『五代帝王物語』作者の情熱にストーカー的なブキミさを感じるとともに、これは悪意に満ちた冗談であって、自分はからかわれていると思ったのではないかと空想します。
そして、そこまで自分に悪意を持ったであろう人物を捜すと、やはり思い当たる候補が一人いたはずです。
ま、私は『五代帝王物語』の作者も後深草院二条であって、自らが構想する歴史物語の叙述方法について思案を重ねていた時期の後深草院二条が、ひとつの試作品として書いてみたのが『五代帝王物語』ではないかと思っているのですが、『五代帝王物語』の作者論についての本格的な検討はもう少し先になります。

ところで最近、国会図書館サイトで「五代帝王物語」を検索してみたところ、新しい論文は全くありませんでした。
実質的に樋口大祐氏の「『五代帝王物語』の成立背景--王権的秩序と外部の間で」(『国語と国文学』、1996)という論文が最後で、二十年以上研究の進展がないようです。
樋口氏は「中世軍記・歴史物語の形成基盤と歴史叙述」において、

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第一章は鎌倉後期成立の歴史物語『五代帝王物語』の作者を考察したのもである。この作品には怪異譚・飢餓・火事等、王権の不安定性を喚起するような記述が圧倒的に多い。私見ではこの作品の作者として、後鳥羽院御霊信仰の生成・管理圏に極めて近い位置にいた人物・春日仲基が最もふさわしいと思われる。後白河院時代以降、仲基に至る宇多源氏の系譜は、芸能者・宗教者の統括を通じて、王権的秩序の側から見た「異界」との媒介者の役割を果たしており、王権を補完する一方、常にその正当性を揺るがすような複眼的な認識の契機をも得ていた。そのような認識が、読者を王権をめぐるダブル・バインドに追い込むような記述を生んだものと思われる。ただ、その記述は結果的に王権/御霊という閉じた世界の中での境界侵犯にとどまっており、その意味でこれを、来たるべき動乱前夜の作品と位置づけることができよう。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/1998/114.html

と言われているのですが、怨霊話をあまりに生真面目に受け止めすぎている点で、私は賛成できません。
ただ、『五代帝王物語』の作者を久我家家人の春日仲基とする結論自体は非常に興味深いと思っています。
 

後深草天皇と西園寺公子の年齢差(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月15日(月)10時51分6秒
編集済
  さて、『五代帝王物語』の「御姨にて入内し給事」の「先例」を具体的に見て行きます。
参照の便宜のため当該部分を再掲すると、

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御姨にて入内し給事、先例多く侍るにや。神武天皇の后蹈鞴五十鈴姫は事代主神の大女、綏靖天皇の御母也。綏靖天皇の后も同く事代神の乙女五十鈴依姫即ち安寧天皇の御母也。又文武天皇の后夫人藤原の宮子は淡海公の御女、聖武天皇の御母也。聖武の后は光明皇后。これも淡海公の御女、孝謙天皇の御母也。是等を始として一条院の后上東門院は御堂関白の御女、後一条御朱雀二代の母后也。後一条后中宮威子は御堂の御女、御朱雀院の女御尚侍嬉子も同御堂の御女、後冷泉院の御母なり。かやうの例に至までためし多く侍る。代々の佳例に任て参り給ふ。
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ということですが、私も古代史には疎く、また個別にあまり深く追求しても仕方ない問題のような感じもするので、とりあえずウィキペディアを参考にさせてもらいます。
まず、「神武天皇の后蹈鞴五十鈴姫」(ひめたたらいすずひめ)については、

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『日本書紀』第6の一書では「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」とあり事代主神が八尋鰐と化し三嶋溝樴姫あるいは玉櫛姫のもとに通い、媛蹈鞴五十鈴媛命が生まれたという記述がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%83%92%E3%83%A1

のだそうで、「ひめたたらいすずひめ」が「事代主神の大女」という説は確かにあるようですね。
「大女」は長女ないし姉という意味でしょうか。
ま、それはともかく、「ひめたたらいすずひめ」が神武天皇との間に産んだ第二代・綏靖天皇の后は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)で、やはり事代主の娘だそうですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%88%B4%E4%BE%9D%E5%AA%9B%E5%91%BD

ということで、「綏靖天皇の后も同く事代神の乙女五十鈴依姫即ち安寧天皇の御母也」は正しくて、綏靖天皇の后は「御姨にて入内し給事」の初例ですね。
次に第四十二代・文武天皇(683-707)の后、藤原宮子は「淡海公」藤原不比等(659-720)の娘で、第四十五代・聖武天皇(701-56)の母です。

藤原宮子(?-754)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%AE%E5%AD%90

そして聖武天皇の后、光明皇后も藤原不比等の娘なので、光明皇后も「御姨にて入内し給事」の例になりますね。

光明皇后(701-60)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

更に第六十六代・一条天皇(980-1011)の后、藤原彰子(上東門院)は「御堂関白」藤原道長(966-1028)の娘で、第六十八代・後一条天皇と第六十九代・後朱雀天皇の母です。

藤原彰子(上東門院、988-1074)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E5%AD%90

第六十八代・後一条天皇(1008-36)の后、藤原威子も藤原道長の娘ですから、威子は「御姨にて入内し給事」の例ですね。

藤原威子(1000-36)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A8%81%E5%AD%90

しかし、藤原道長の六女で、第六十九代・後朱雀天皇(1009-45)がまだ東宮であった時期に妃となり、後に第七十代・後冷泉天皇となる男子を産んだものの十九歳の若さで死んでしまった藤原嬉子は、厳密には「御姨にて入内し給事」の例ではありません。
ただ、後に後冷泉天皇が即位して生母の藤原嬉子にも皇太后が追贈されたので、これも「御姨にて入内し給事」の例に入れることが全くの間違いとも言えないようです。

藤原嬉子(1007-25)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AC%89%E5%AD%90

以上、『五代帝王物語』の作者が挙げている具体例は、確かに「御姨にて入内し給事」の先例ではありますが、これ以上の例がどれだけあるのか、「かやうの例に至までためし多く侍る」とまで言えるのかには若干の疑問もあり、また、若死にしてしまった藤原嬉子など「代々の佳例」とは言い難い感じがします。
なお、叔母を妻とすることはやはり世代的に若干の無理が生ずることは否めず、如上の例でも藤原威子は後一条天皇より八歳上ですね。
 

後深草天皇と西園寺公子の年齢差(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月14日(日)17時39分28秒
編集済
  「巻六 おりゐる雲」の冒頭、西園寺公子(東二条院、1232-1304)が後深草天皇(1243-1304)に女御として入内する場面は、天皇の婚姻という非常に目出度い行事であるにもかかわらず、最初に「女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、かかるためしは数多侍るべし」と冷ややかな指摘があります。
そして、「女御はいとはづかしく、似げなき事に思いたれば」と公子が年齢差を非常に気にしていたらしいことを紹介した上で、「上は十四になり給ふに、女御は廿五にぞおはしける」と具体的な年齢差が十一であることを示し、その後も言葉は丁寧ですが、『増鏡』作者が両者の年齢差に執拗に拘っていることを感じさせる記述が続きます。
そして『増鏡』が資料として用いていることが明らかな『五代帝王物語』を見ると、『増鏡』には反映されていない若干の情報があります。(『群書類従・第三輯』、p442以下)

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 さて主上は建長五年正月三日御元服あり。女御は大宮院の御妹まいらせ給ふ。もとは大宮院に候はせ給て御熊野詣の時も御参ありしを、円明寺殿を婿にとるべしとて、日限まで定りたりけるを、院の御計ひにて俄にまいらせ給へば、引かへ目出度事にてぞ有ける。康元元年十一月に女御にまいりて、同二年二月に立后あり。御年ははるかの御姉にてぞおはします。
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『五代帝王物語』には後嵯峨院が熊野に建長二年(1250)と建長七年(1255)の二度行ったことが書かれていて、『増鏡』には具体的な年次は欠くものの、二度目には大宮院も参加したことが書かれています。

「巻五 内野の雪」(その14)─後嵯峨院、熊野御幸
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9251

公子はもともと姉の大宮院の御所に伺候していて、建長七年(1255)の熊野御幸にも一緒に行った訳ですね。
そしてその後に「円明寺殿を婿にとるべしとて、日限まで定りたりける」と続きます。
「円明寺殿」とは九条道家(1193-1252)の息子の一条実経(1223-84)のことで、西園寺公子より九歳上ですが、まあ、家柄といい年齢といい、普通なら確かにお似合いの組み合わせと言えそうです。
しかし、この時期の九条家関係者はなかなか厳しい状況に置かれています。
即ち、寛元四年(1246)の宮騒動の影響で、翌寛元五年一月、一条実経は摂政辞職を強要され、以降、九条道家と幕府の関係は悪化の一途を辿り、建長三年(1251)十二月、鎌倉で了行法師らの謀叛計画が露顕し、翌年二月、五代将軍・九条頼嗣(1239-56)の更迭を知らせる使者が入京すると、その翌日に九条道家は急死してしまいます。
このような九条家の事情を考えると、仮に一条実経と西園寺公子と結婚話があったとしても、それは一条実経が摂政を辞する寛元五年(1247)一月十九日以前、一条実経が二十五歳、西園寺公子が十六歳以前の出来事だったのではなかろうかと思われます。
ただ、西園寺公子が「円明寺殿を婿にとる」とあるので、あるいは鎌倉との関係が悪化して弱体化した一条実経の立場を西園寺家が保護するような関係だったとすると、建長七年(1255)以降の可能性も皆無とは言えないのかもしれません。
いずれにせよ、「院の御計ひにて俄にまいらせ給へば」ということで、日時まで決まっていたという西園寺公子と一条実経との婚姻は後嵯峨院の意向で止めさせられ、公子は急遽、十一歳差の後深草天皇に入内することが決まった、というのが『五代帝王物語』の説明ですね。

「巻五 内野の雪」(その8)─一条実経
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9243

さて、更なる問題は次の部分です。

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御姨にて入内し給事、先例多く侍るにや。神武天皇の后蹈鞴五十鈴姫は事代主神の大女、綏靖天皇の御母也。綏靖天皇の后も同く事代神の乙女五十鈴依姫即ち安寧天皇の御母也。又文武天皇の后夫人藤原の宮子は淡海公の御女、聖武天皇の御母也。聖武の后は光明皇后。これも淡海公の御女、孝謙天皇の御母也。是等を始として一条院の后上東門院は御堂関白の御女、後一条御朱雀二代の母后也。後一条后中宮威子は御堂の御女、御朱雀院の女御尚侍嬉子も同御堂の御女、後冷泉院の御母なり。かやうの例に至までためし多く侍る。代々の佳例に任て参り給ふ。
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『増鏡』に「かかるためしは数多侍るべし」とあった具体例が『五代帝王物語』に出てくるのですが、それは何と神武天皇まで遡る話なんですね。
これをどう考えるべきなのか。
長くなったので、いったんここで切ります。
 

「巻六 おりゐる雲」(その1)─女御入内(西園寺公子)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月14日(日)12時32分42秒
編集済
  それでは「巻六 おりゐる雲」に入ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p19以下)

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 春過ぎ夏たけて、年去り年来たれば、康元元年にもなりにけり。太政大臣の第二の御むすめ、御参り給ふ。女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、かかるためしは数多侍るべし。十二月十七日豊のあかりの頃なれば、内わたり花やかなるに、いとどうち添へて今めかしうめでたく、その日御消息を聞え給ふ。

  夕暮をまつぞ久しきちとせまで変らぬ色の今日のためしを

関白書かせ給ひけり。紅の匂ひの箔もなき、八重に重ねたるを、結びて包まれたり。
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春が過ぎ、夏も深まり、年が去って新しい年がやってくると康元二年(1256)です。
太政大臣・西園寺実氏(1194-1267)と四条貞子(北山准后、1196-1302)の間に生まれた二人の姉妹のうち、長女・姞子(大宮院、1225-92)は既に仁治三年(1242)、十八歳で践祚したばかりの後嵯峨天皇に女御として入内し、直ぐに中宮となっています。
その十四年後の康元二年、今度は妹の公子(東二条院、1332-1304)が後深草天皇(1243-1304)に女御として入内します。
「過ぐし給へる程なれど」について、井上氏は「ふけた御年配だが」と冷たく訳されていますが、この後で更に具体的な年齢差が出てきます。
なお、関白は鷹司兼平(1228-94)で、建長四年(1252)に兄・近衛兼経(1210-59)の譲りを受けて摂政となり、建長六年(1254)に関白となっています。

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 時なりぬとて人々まう上り集まる。女御の君、裏濃き蘇芳七、濃き一重、蘇芳の表着、赤色の唐衣、濃き袴たてまつれり。准后添ひて参り給ふ。みな紅の八、萌黄の表着、赤色の唐衣着給ふ。出車十両、みな二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿<大きおとどのむすめ>、右に二条殿<公俊の大納言女>、二の左按察の君<准后の妹>、右に中納言<実任のむすめ>、三の左に、民部卿殿、右別当殿、その次々くだくだしければとどめつ。御童、下仕へ、御はした、御雑仕、御ひすましなどいふものまで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所あるべし。
-------

「准后」は母親の四条貞子(北山准后)で、この年、既に六十一歳です。
「二条殿」は「公俊の大納言女」だそうですが、井上氏は「公俊大納言という人はこのころいない。建長三年(一二五一)五十八歳で出家した従二位非参議三条公俊の娘か。詳細は不明」と言われています(p24)。
大納言と「非参議」ではあまりに差がありすぎますし、太政大臣実氏の娘という「一条殿」に続く存在ですので、「二条殿」も相当高い身分の女性でなければなりません。
従って、この部分は不明と言う以外ないようですね。
「その次々くだくだしければとどめつ」(以下はわずらわしいから省略する)は例によって語り手の老尼がちょっと顔を出している部分です。

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 御せうとの殿ばら、右大臣公相、内大臣公基参り給ふ。限りなくよそほしげなり。院の御子にさへし奉らせ給へれば、いよいよいつかれ給ふさま、言はんかたなし。侍賢門院の、白河の院の御子とて、鳥羽院に参り給へりしためしにやとぞ、心あてには覚え侍りし。
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公子の「御せうと」(兄)のうち、西園寺公相(1223-67)は後に太政大臣となりますが、年上の公基(1220-75)は内大臣から右大臣に転じたのち、正嘉二年(1258)に右大臣を辞して以降、散位で晩年を過ごします。
この兄弟の関係には若干の複雑な事情があったようです。
「院の御子にさへし奉らせ給へれば」は後嵯峨院が公子を猶子とした、という意味ですね。
「心あてには覚え侍りし」は再び語り手の老尼が顔を出した部分で、「当て推量にはそう思った」という意味です。

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 御門のひとつ御腹の姫宮、このごろ皇后宮とて、その御方の内侍ぞ御使ひに参る。まうのぼり給ふ程も、女御はいとはづかしく、似げなき事に思いたれば、とみにえ動かれ給はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀一条殿、御几帳按察殿、御火とり中納言持たれたりけり。上は十四になり給ふに、女御は廿五にぞおはしける。御門きびはなる御程を、中々あなづらはしきかたに思ひなし聞こえ給ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞こえかかり給ふを、准后はうつくしと見奉らせ給ふ。御ふすまは、紅のうち八つ四方なるに、上にうはざしの組あり。糸の色などきよらにめでたし。例の事なれば、准后奉り給ふ。太政大臣も、三日が程はさぶらひ給ふ。上達部勧盃あり。
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「御門のひとつ御腹の姫宮」(後嵯峨院の同母妹の姫宮)は土御門院皇女の曦子内親王(1224-62、仙華門院)で、実際には同母ではないですね。
「皇后」といっても天皇との配偶関係はなく、内親王などの高貴な女性を処遇する地位のことですが、その皇后に仕える内侍が天皇の使いとして女御(公子)のもとに来ます。
「女御はいとはづかしく、似げなき事に思いたれば」とは、公子が天皇との年齢差を似つかわしくないことと思って、という意味ですが、先に「過ぐし給へる程なれど」(ふけた御年配だが)と言った点にここで再び注意を向けた上で、「上は十四になり給ふに、女御は廿五にぞおはしける」と具体的な年齢差が十一であることを明示しています。
この後は若干意味の取りにくい部分がありますが、井上氏によれば「天皇(後深草)が幼少の御年ごろなのを、(女御が、まだ御子供ではないかと)軽くお思い申しなされそうであるのに、かえって天皇が、(年ごろよりも)たいそうあだめいて、恥かしそうでもなくお話しかけなさるのを、准后はかわいらいとお見上げなさる」ということで、言葉は丁寧ですが、年齢差への執拗なこだわりが伺えます。
 

『源氏物語』「紅葉賀」との関係

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月14日(日)10時32分1秒
  >筆綾丸さん
時枝誠記・木藤才蔵校注の『日本古典文学体系 神皇正統記・増鏡』(岩波書店、1965)を確認するのに手間取ってレスが遅れてしまい、申し訳ありません。
結果的に同書にも源氏への言及はありませんでした。

『増鏡』の宇治御幸と源氏のご指摘の部分と比較すると、語彙・表現が重なるのは「ばかりうちしぐれて」「そぞろ寒く」程度しかないようですが、直前の134の部分、

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木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの 深山おろしと聞こえて吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉いたう 散り過ぎて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、 左大将さし替へたまふ。
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined07.1.html

まで広げると、「吹き立てたる物の音ども」「色々に散り交ふ木の葉」も語順を変えているだけでそっくりですね。
やはり、ご指摘のように『増鏡』は源氏の「紅葉賀」を踏まえているのでしょうね。
諸注釈書にこの点の指摘がないのは些か不審ですが、これは『増鏡』作者が本当に源氏を自家薬籠中のものとしていて、あまりに自然に再構成されているからかもしれません。
後嵯峨院の宇治御幸は増補本系には十七巻本より詳しい記述があるのですが(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p315以下)、源氏との類似を思わせる部分は少なく、あまり格調も高くないような感じがします。
増補系本の増補部分は、やはりいったん完成した『増鏡』を作者以外の誰かが勝手に補充したもので、しかし、その人は『増鏡』作者ほど源氏を骨肉化していないので、どうしてもゴツゴツした、野暮ったい雰囲気になってしまうのかもしれません。
増補本系についてはまだまだ考え中で、掲示板には暫く反映できそうもないのですが。
 

「巻五 内野の雪」(その14)─後嵯峨院、熊野御幸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月13日(土)14時31分1秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p283以下)

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 そのころほひ、熊野の御幸侍りしにもよき上達部あまたつかうまつらる。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心ことにいどみかはすべし。車はたてぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出し車はなくて、ただ一輌にて見奉り給ひしこそ、やんごとなさもおもしろく侍りけれ。弁の内侍、

  をりかざすなぎの葉風のかしこさにひとり道あるを車のあと

御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川ぶねに奉りてさしわたすほど、川のおもて所せきまで続きたるも、御覧じなれぬさまなれば、院のうへ、

  くまの川瀬切りに渡す杉舟のへ波に袖のぬれにけるかな

その後も又ほどへてく御幸ありしかば、女院も参り給ひけり。みな人しろしめしたらん。中々にこそ。
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後嵯峨院は熊野に建長二年(1250)と建長七年(1255)の二度行っています。
『五代帝王物語』には、

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さて院は建長二年三月に熊野へ御幸ありしが、同七年三月にかさねて参らせおはします。御先達は三山検校にて、桜井宮<後鳥羽皇子覚仁法親王>参り給。親王にて御先達、是がはじめなるべし。
-------

とあります。(『群書類従・第三輯』、p441)
『増鏡』に戻ると、都を出発する日、物見車を立てるのは禁止されていたが、大宮院だけが、女房の出し車はなく、ただ一両で御見物申されたのは尊く趣深いことであった、とのことですね。
弁内侍の歌が紹介されていますが、この場面は『弁内侍日記』の建長二年三月前後にはありません。
この歌は井上訳によると、

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「梛〔なぎ〕の葉を折って挿頭〔かざし〕にする熊野路の、その葉風、すなわち神威〔みいつ〕のおそれおおきに─物見車はみな禁止されて、女院の車一両のみだが、道にはただ一筋の小車〔おぐるま〕の跡しかついていないのは、なんとも尊いことである。
-------

という意味だそうですが、井上氏が特に何も書かれていないので、『増鏡』にしか見られない歌のようですね。
後嵯峨院の歌は『続古今集』巻七・神祇歌に出ているそうです。(p286)
なお、「みな人しろしめしたらん。中々にこそ」は、例によって語り手の老尼がちょっと顔を出している場面です。
その後も暫くして(五年後に)熊野御幸があったので、その時には大宮院も一緒に行かれた。「それは皆さんご存知の通りなので、お話するのもわずらわしいから省略します」、という意味ですね。
老尼が嵯峨清凉寺で語っているのは後醍醐天皇が隠岐から戻った元弘三年(1333)以降のある日、という設定ですから、建長七年(1255)に後嵯峨院が大宮院を伴って二度目の熊野御幸をしたというような、他の歴史的事象と比較して特に重要とも思われない出来事について、みなさん御存知の通り、というのはちょっと変な感じもします。
さて、これでやっと「巻五 内野の雪」は終りです。
 

河北騰『増鏡全注釈』(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月13日(土)12時58分4秒
編集済
  少し脱線しますが、前回投稿で紹介した、

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 あくる年は建長五年なり。正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏焼けけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。
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という記述に関し、河北騰氏は次のように言われています。(『増鏡全注釈』、p180以下)

-------
 ここでは、後深草帝がひどく小柄な異様な程の猫背の帝であったが、それが内裏焼亡の折、幸いにも殆ど良くなり、立てる程には直ったという幸せと、帝元服後の朝覲行幸のめでたさが述べられている。前者については、「増鏡」の後出の巻「草枕」でも触れられ、又「とはずがたり」でも述べられて居り、史実の面からは極めて重要な、原因となる様の事の指摘なのである。即ち、後深草帝には、右の様な身体的欠陥が幼年期少年期を通じて、強く心を悩まし続けて、それは帝自身に強い不幸感と劣等意識を募らせたようである。特に、すべてに優秀な六歳年下の弟亀山帝に対しては、烈しく強い対抗感・排他意識が、この少年期ごろから、彼の心内に、一層増大して行った事は容易に想像できる所である。この様な意識の強い、そして体貌もすぐれない一種内向的な、執拗な所のある皇子は、父後嵯峨からも母后からも、どうしても「かわいい子供」と思われない様な皇子であった。この事が、ずっと後の帝位継承・遺産授与の重大原因ともなり、ひいては持明院・大覚寺両統の永い確執の源ともなって行くのである。
 後者、即ち朝覲行幸については、その時の帝と随臣たちの華麗豪華な行装のさまや、幸福感に浸り切る大宮院や実氏大臣の有様が、例によって、言葉を尽くして語り上げられる。中でも、実氏、即ち西園寺家の至福は、これから展開するのだと言いたい作者の意図が、伺えるような含みのある文章表現である。
-------

確かに『増鏡』巻九「草枕」には、後深草院は「いとささやかにおはする人」と描かれています。

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 明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9187

また、「天子摂関御影」という絵巻には後深草院が他の天皇と比較して小さく描かれているので、後深草院が小柄であったことはおそらく事実だろうと思います。

天子摂関御影
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%90%E6%91%82%E9%96%A2%E5%BE%A1%E5%BD%B1

しかし、腰が悪かった云々は『増鏡』にしか出て来ない話ですね。
河北騰氏は身体障害者は精神的にも歪んだ人間になるという人間観をお持ちのようですが、私は賛成できません。
なお、このような見方は河北氏のみのものではなく、いちいち名前を上げるのは控えますが、相当多くの国文学者・歴史学者の認識のようです。
河北氏の『増鏡全注釈』は大部で高価ではあるものの、学問的価値があまり感じられない本であることは以前にも書きましたが、『増鏡』に関する国文学者の共通認識ないし共通の誤解、共通の偏見を知るには便利な本ですね。

河北騰『増鏡全注釈』
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9217
 

「巻五 内野の雪」(その13)─後深草天皇元服・朝覲行幸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月13日(土)11時35分15秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p280以下)

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 あくる年は建長五年なり。正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏焼けけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。
-------

前々回の投稿で「閑院焼亡と京都大火はこの時期の大事件ですが、『増鏡』の十七巻本においては、華やかな後嵯峨院御幸と西園寺家の繁栄を傷つけることを懸念してか、一切言及せず、その無視の徹底ぶりは清々しいほどです」と書いたばかりですが、閑院の火事についてはここで一応触れてはいましたね。

「巻五 内野の雪」(その11)─後嵯峨院、住吉御幸
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9247

ただ、後深草天皇には腰に障害があって、幼いころはもっとひどかったけれど閑院内裏の火事のときに立派に立てるようになりました、という話が本当なのか、私はかなり疑問に思っています。
『弁内侍日記』には、まさにこの閑院内裏焼亡に関する詳細な記事がありますが、『増鏡』の記述を根拠づけるような箇所はありません。
また、閑院内裏の火事があった宝治三年(建長元、1249)には後深草天皇は数えで七歳ですが、『弁内侍日記』を通読すると、閑院内裏の火事以前に「記録所の行幸」として幼帝が後嵯峨院の御所にある記録所を訪問し、後嵯峨院も息子を喜ばせるために趣向を凝らす、といった記事が複数あります。
また、歩行不能なほどの障害があれば、後嵯峨院に敵対的な廷臣の誰かが日記にその旨を記していてもおかしくないのに、その種の記録の存在を聞きません。
更に、そもそも天皇には正月一日の四方拝のような、自ら行なわなければならない多数の儀礼行事がありますが、歩行不能なほど身体障害の程度が重いのであれば、そんな人には天皇の資格がないとして四歳での践祚自体がありえなかったはずです。
以上から、閑院の火事で後深草天皇が立てるようになったという不自然なエピソードは、ドラマチックな展開を好む『増鏡』作者の作り話だと私は考えます。
さて、次は鳥羽殿への朝覲行幸の場面です。

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 院の上、鳥羽殿におはします頃、神無月の十日頃、朝覲の行幸し給ふ。世にあるかぎりの上達部、殿上人つかうまつる。色々の菊、紅葉をこきまぜて、いみじうおもしろし。女院もおはしませば、拝し奉り給ふを、大き大臣、見奉り給ふに、悦びの涙ぞ人わろき程なる。

  ためしなき我身よいかに年たけてかかるみゆきにけふつかへぬる

げに大方の世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、わが御末と見給ふ大臣の心地、いかばかりなりけん。こし方もためしなきまで、高麗・唐土の錦綾をたちかさねたり。大き大臣ばかりぞねび給へれば、うらおもて白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたくなまめかし。池にはうるはしく唐のよそひしたる御舟二さう漕ぎ寄せて、御遊びさまざまの事ども、めでたくののしりてかへらせ給ふ響きのゆゆしきを、女院も御心行きて聞しめす。
-------

建長五年(1253)の後深草天皇元服の記事の後になっていますが、この鳥羽殿への朝覲行幸は、実際には建長二年(1250)十月十三日の出来事ですね。
『弁内侍日記』には、

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十月十三日、鳥羽殿へ朝覲の行幸なり。宵の程は、時雨もやなど思ひ侍りしに、朝、ことに晴れていとめでたくぞ侍りし。鳥羽殿の御所の景気の面白さ、ことわりにも過ぎたり。色々の紅葉も、折を得たる心地す。龍頭鷁首浮べる池の汀の紅葉など、たてへむ方なし。髪上の内侍、匂当内侍・少将内侍なり。日暮し髪上げて、さまざま面白くめでたき事ども見出だして、「老の後の物語はいくらも侍るべし」など言ひて、少将内侍、
  語り出でん行末までの嬉しさは今日の行幸のけしきなりけり
これを聞きて、弁、
  世々を経て語り伝えん言の葉や今日[   ]の紅葉なるらん
 還御の後、めでたかりしその日の事ども申し出でて、染下襲、誰がしは何色、何色と、少将萩の戸にて記し侍りしに、太政大臣殿の裏表白き御下襲、ことにいみじく覚えて、弁内侍、
  白妙の鶴の毛衣何として染めぬを染むる色といふらん
-------

とあります。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p228以下)
詳しい解説は省略しますが、『増鏡』の「大き大臣ばかりぞねび給へれば、うらおもて白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたくなまめかし」は『弁内侍日記』の記述に基づいているようですね。
そにしても、『増鏡』作者は明らかに『弁内侍日記』を読んでいるのに、何で建長二年(1250)の出来事を建長五年(1253)の後深草天皇元服の記事の後ろに持ってくるのか。
まあ、考えられる理由としては、建長元年(1249)に腰が直ったばかりの幼帝が、その翌年に鳥羽あたりにまで元気一杯行幸するのはまずかろう、という編集上の都合によるのでしょうね。
なお、ここでも多くの陪臣の中から西園寺実氏の歌だけを取り上げていて、西園寺家賛美の色合いを感じさせます。
 

「巻五 内野の雪」(その12)─宗尊親王

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月12日(金)15時42分2秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p274以下)

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 さても院の第一の御子は、右中弁平棟範のぬしの娘、四条院に兵衛内侍とてさぶらひしが、剣璽につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、その御腹に出で物し給へりしかど、当代生まれさせ給ひにし後は、おし消たれておはしますに、また建長元年后腹に二の宮さへさしつづき光り出で給へれば、いよいよ今は思ひ絶えぬる御契りの程を、私物にいと哀れと思ひ聞えさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなど思すも、猶あかねば、ただ皇子にて東のあるじになし聞えてんと思して、建長四年正月八日院の御前にて御冠し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣らず、内蔵寮なにくれ、清らを尽し給ふ。やがて三品の加階賜はり給ふ。御年十一なるべし。中務の卿宗尊の親王と申すめり。
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平棟子(後の京極准后、?-1308)は「平棟範」の娘とありますが、正しくは「平棟基」です。
後深草天皇誕生の場面に「内には更衣腹に若宮おはしませど」と登場していますが、このときは名前すら明らかにされていません。
棟子は皇室領荘園の伝領に絡んで重要な役割を果たす人物なのですが、それはかなり先の話です。

「巻五 内野の雪」(その3)─皇子(後深草)誕生
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9237

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 同じ二月十九日都を出で給ふ。その日将軍の宣旨かうぶり給ふ。かかる例はいまだ侍らぬにや。上下めづらしくおもしろき事にいひさわぐべし。御迎へに東の武士どもあまたのぼる。六波羅よりも名ある者十人、御送りに下る。上達部、殿上人、女房など、あまた参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」とぞ仰せられける。何事もただ人柄によると見えたり。きはことによそほしげなり。まことにおほやけと成り給はずは、是よりまさる事、なに事かあらん、と、にぎははしく花やかさは並ぶかたなし。院の上も忍びて粟田口のほとりに御車をたてて御覧じ送りけるこそ、あはれにかたじけなく侍れ。きびはにうつくしげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍も、あはれにかたじけなしと思ひ聞ゆべし。
-------

「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」は、関東でしっかり奉公すれば、官位・官職の査定において後嵯峨院への奉公と同様に扱いますよ、という関東伺候廷臣への身分保障ですね。
「まことにおほやけと成り給はずは、是よりまさる事、なに事かあらん」とは、要するに天皇になれないのだったら将軍より良いものはない、という意味です。

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 かかればもとの将軍頼嗣三位中将は、その四月に都へ上り給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて、今くだり給へるを、もてあがめ奉るさま、いはんかたなし。宮の内のしつらひ、御まうけの事など、限りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。かやうにて今年は暮れぬ。
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宗尊親王の人生が明るく開けたのに対し、第五代将軍・九条頼嗣は建長四年(1252)に寂しく帰京した四年後、十八歳で病死してしまいます。

宗尊親王(1242-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%B0%8A%E8%A6%AA%E7%8E%8B
九条頼嗣(1239-56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E5%97%A3
 

「巻五 内野の雪」(その11)─後嵯峨院、住吉御幸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月12日(金)13時04分2秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p271以下)

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 又その頃、天王寺に院の詣でさせ給ふついでに、住吉へも御幸あり。「神はうれし」と後三条院仰せられけんためし、思ひ出でられ侍りき。大宮院も御参りなれば、出し車ども色々の袖口ども、春秋の花紅葉を一度に並べて見る心地していとうつくしく、目もかかやくばかりいどみ尽くされたり。上達部、若き殿上人などは、例の狩襖、裾濃の袴など、めづらしき姿どもを心々にうちまぜたり。釣殿のすのこに人々さぶらひて、あまた聞えしかど、さのみはいかでか。太政大臣実氏、

  今日や又さらにちとせをちぎるらん昔にかへる住吉の松
-------

これは建長五年(1253)三月の出来事です。
解説は省略しますが、「供奉の廷臣は釣殿の簀子に伺候して、多くの歌を詠んだが、そればかりいちいちお話しすることもできない」(井上訳)として西園寺実氏の歌だけ紹介するところに西園寺家賛美の色合いが出ていますね。

さて、石清水・宇治・鳥羽殿・吹田・住吉と後嵯峨院御幸の話が連続し、また間に挟まれた後深草天皇の宮廷の様子ものどかな話題ばかりでしたが、『増鏡』が資料として用いているのが明らかな『五代帝王物語』を見ると、

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 さて、主上は寛元四年正月廿九日位を春宮に譲まいらせらる。御年四也。四歳にてつがせ給事、後鳥羽・土御門院、此佳例なるべし。関白は御譲位の前日に改て、弟の左大臣<実経公、円明寺殿>成給。御譲位有しかば、やがて摂政の詔下されてありし程に、いく程なくて次の年<寛元五>正月十九日に又摂政を改めて岡屋殿なりかへり給て、建長四年までおはしまししが、十月三日摂政を辞て、弟の左大臣<兼平公、鷹司殿>に譲て、弘長元年四月まで十年摂録にておはしましき。猪隈殿より後は是ぞ久しく保ち給たりし。さて中宮は宝治二年六月十八日に院号有て、大宮院と申。院は御位さらせ給て後は、いとど世上治て吹風も枝をならさぬ御世にてありし。
-------

となっていて(『群書類従・第三輯』、p436以下)、御幸の記事は全くありません。
この後、鎌倉情勢の話になり、既に紹介済みの部分も含めて引用すると、

-------
鎌倉に三浦若狭前司泰村、舎弟能登守光村謀叛の事ありて、宝治元年六月五日合戦あり。其間事委くかきつくしがたし。泰村以下三浦の者ども、故頼朝の大将の法花堂にたてこもりて、一類四百七十余人自害したりければ、鎌倉は別のことなく静まりぬ。もし泰村本意を遂たらば、都はいかがあらんずらむと申あひたりしかば、御祈ども有しに、誅せられにしかば聖運もいとど目出かりき。関東かかるひしめきのまぎれに思食様や有けん、順徳院の宮御元服ありしをば、人も何とやらん思たりき。さてつゐに親王の宣旨だにもなくて、其御子三郎宮とておはしまししは、源姓給りて彦仁とて、正徳永仁の比、中将に成て上階などせられしかども、三位中将にてうせ給ぬ。その御子ぞ当時つかさなどなり給ぬる。
-------

ということで、「関東かかるひしめきのまぎれに思食様や有けん、順徳院の宮御元服ありしをば、人も何とやらん思たりき」は、これを読んだだけでは何のことか全然分かりませんが、九条道家の失脚に関わる相当微妙な話であり、『五代帝王物語』の作者が事情に精通しつつも、敢えて書かない方針であることが感じられます。
ついでにもう少し引用してみると、

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まことや将軍頼経卿は関東に何とやらん子細ありて、寛元四年七月に京へのぼりて、その子頼嗣将軍になりて、閑院造営の賞に上階して、三位中将と申。閑院は宝治三年<建長元>二月一日炎上ありしかば、富小路殿<冷泉富小路>内裏になる。この御所は小川の右衛門入道親兼が家にてありしを、北山大相国の殿に成て今皇居とはなれり。さて閑院をば関東の沙汰にてほどなく造て、同三六月廿七日に遷幸ありて、将軍並に相模守時頼賞を蒙る。又建長元年三月廿三日大焼亡有て京中半に過て焼たり。北は押小路、南は八条、西は洞院、東は河原に至る。結句は河原を吹こして、火焔飛来て蓮華王院の塔に付て、やがて御堂に移る。云ばかりなき事也。中尊は出しまいらせて、千体の御仏もわづかに二百余体とかやぞ取出しまいらせける。されども燈明の消けるを正しくかきたてさせ給ひたりける。千手をば取出まいらせたりけるを、御供養の時、此仏をも薄ををして紛らかし参らせたる。正体なき事也。物の千になりぬれば必精霊ありと申せば、生身の千手にて御座しけるにや。さて此火又新熊野・鐘楼宝蔵などに吹付て焼ぬ。すべて公卿の家だにも十余所、雲客以下は数を知らず。大略安元三年の大焼亡の如し。天災の至にや侍らん。
-------

とうことで、宝治三年(建長元年、1249)二月に閑院が焼けてしまいます。
これを受けて翌三月十八日、建長に改元となるのですが、その五日後、今度は安元三年(1177)以来の京都大火が起きて蓮華王院も焼けてしまいます。
閑院焼亡と京都大火はこの時期の大事件ですが、『増鏡』の十七巻本においては、華やかな後嵯峨院御幸と西園寺家の繁栄を傷つけることを懸念してか、一切言及せず、その無視の徹底ぶりは清々しいほどです。
なお、増補本系には閑院焼亡と京都大火の両方が描かれていますが、閑院焼亡は『弁内侍日記』を素材としていますね。
 

「巻五 内野の雪」(その10)─三条公親

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月12日(金)10時56分34秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p266以下)

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 五月五日所々より御かぶとの花、薬玉など、色々に多く参れり。朝餉にて人々これかれひきまさぐりなどするに、三条大納言公親の奉れる、根に露おきたる蓬の中に、「ふかき」といふ文字をむすびたる、糸のさまもなよびかに、いと艶ありて見ゆるを、上も御目とどめて、「何とまれ、いへかし」とのたまふを、人々もおよすけて見奉る。弁内侍、

  あやめ草底しら沼の長きねに深きといふやよもぎふの露

ありつる使ひは、はや帰りにければ、蔵人を召して殿上より遣はしつ。返し、公親、

  あやめ草底しら沼の長きねを深き心にいかがくらべん
-------

井上氏の解説を見ると、「かぶと花」は「紙でかぶとを作り、花をいろいろに飾ったもの」、「薬玉」は「五月五日、香料の類を玉とし、造花をつけ、五色の糸をたらし、簾や柱にかけて邪気を払うものとした」とのことです(p270)。
端午の節句のとき、あちこちから「かぶと花」や「薬玉」を献上してきたのを、朝餉の間で人々があれこれ引っ張ったりいじったりしていると、三条「大納言」公親が献上した薬玉は、根に露を置いた蓬の中に「ふかき」という文字を結んである。その糸の様子が優美なのを天皇も御目にとめて、「何でもよいから歌にせよ」とおっしゃるのを、人々も天皇は大人びなさっていると見申し上げる。
弁内侍が一首詠むが、公親の使いは既に帰ってしまっていたので、蔵人を呼んで殿上の間から遣わすと、公親が返歌を送ってきた、という話ですね。
『増鏡』では何年の五月五日なのか分かりませんが、この場面も『弁内侍日記』を借用したもので、建長三年(1251)の出来事です。
『弁内侍日記』では、

-------
五月五日、三条の中納言のもとより、例の美しき薬玉参らせて、糸乱れて粗相なる由申されたれども、いと美し。結びたる蓬の露に、「ふかき」という文字見えしを、兵衛督殿、「この心言はばや」とありしかば、弁内侍、
  菖蒲草底知らぬまの長き根に深きといふや蓬生の露
返し、中納言
  菖蒲草底知らぬまの長き根を深き心にいかがくらべむ
-------

となっています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p239)
岩佐美代子氏の訳を見ると、

-------
五月五日、三条中納言の所から、いつものとおり美しい薬玉を献上して、「糸もきれいに整わなくて粗末なものでございます」と御口上があったけれど、それどころか大変美しい。蓬の造り花を結びつけ、その余り糸の飾り結びに「ふかき」という文字を表してあったのを、兵衛督殿が、「何のつもりかしら、たずねてみましょう」とおっしゃったので、弁内侍、
  菖蒲草……(底の知れない沼から引き抜いてきた菖蒲草の
  長い根のように、「深き」とおっしゃいますが、せいぜい
  蓬生の露ほどのお気持ちなのではないでしょうか)
返し、中納言、
  菖蒲草……(底の知れない沼から引き抜いてきた長い菖蒲
  草の根も、私の深い心にはどうして比べられましょう。そ
  れほど深い真心で差し上げたものですのに)
-------

ということで、『増鏡』と比較すると歌は全く同一ですね。
しかし、状況設定はずいぶん違っていて、『弁内侍日記』には天皇も蔵人も登場せず、三条「中納言」公親に歌を贈るように促したのは女房仲間の「兵衛督殿」です。
『増鏡』作者は『弁内侍日記』を素材にして、かなり自由に場面を創作していますね。
ただ、私は最初、三条「中納言」が正しいのだろうと思ったのですが、ウィキペディアに『公卿補任』に基づく細かい経歴が載っていて、公親は建長二年(1250)五月十七日に権大納言になっているそうなので、この点は『増鏡』作者が『弁内侍日記』の誤りを修正しているようです。
今は手元に『公卿補任』がないので、後で念のために確認してみますが、「中納言」が誤りであれば、これは「日次記の形をとってはいるが、構成上の統一をはっきり意識して執筆した、後年の回想記である」という岩佐美代子氏の見解(p145)を裏付ける根拠のひとつになりそうですね。

三条公親(1222-92)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E8%A6%AA

さて、『増鏡』の「太政天皇など聞ゆるは、思ひやりこそ、おとなびさだ過ぎ給へる心地すれど…」以下、『弁内侍日記』から取り込んだ公事の真似の話、そして薬玉の話までは、ひとつながりの話のように自然に流れていますが、実際には一条実経が摂政だった寛元四年(1246)から建長三年(1251)まで五年経っており、四歳で践祚した後深草天皇も九歳に成長していますね。
公事の真似、薬玉の話の時点では、摂政は近衛兼経(1210-59)です。
『増鏡』作者は『弁内侍日記』の記事を素材としつつも、それらを自在に改変して、独自の世界に組み立て直しているようですね。
 

「巻五 内野の雪」(その9)─弁内侍(藤原信実女)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月11日(木)17時21分37秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p265以下)

-------
 節会、臨時の祭り、なにくれと公事どもを女房にまねばせて御覧ずれば、大き大臣興じ申し給ひて、ことさら小さき笏など作らせてあまた奉り給へば、上も喜び思す。入道大き大臣の女、大納言三位殿といふを関白になさる。按察の典侍隆衡の女、大納言典侍、中納言内侍、勾当の内侍、弁の内侍、少将の内侍、かやうの人々、みな男のつかさにあててその役を勤む。「いとからいこと」とてわびあへるもをかし。中納言の典侍を権大納言実雄の君になさるるに、「したうづはく事、いかにもかなふまじ」とて曹司に下るるに、上もいみじう笑はせ給ふ。弁の内侍、葦の葉にかきて、かの局にさしおかせける。
  津の国の葦の下根のいかなれば波にしをれてみだれがほなる
かへし、
  津の国の葦の下根の乱れわび心も浪にうきてふるかな
-------

井上氏は「大納言典侍」を「前出」としているので(p270)、後嵯峨院の鳥羽殿御幸で後嵯峨院の歌に返歌した「為家の民部卿のむすめ」で「後嵯峨院女房。歌人。家集に『秋夢集』がある。左大臣道良の妻」(p263)と考えておられるようです。

「巻五 内野の雪」(その7)─後嵯峨院、鳥羽殿・吹田御幸
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9242

また、河北騰氏の『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)でも「前出。為家民部卿の娘」(p170)となっていますが、これらは明らかな誤りですね。
この場面も『弁内侍日記』を引用したもので、同書の建長二年(1250)九月頃の記事に、

-------
 節会・臨時の祭の次第など御覧ぜさせおはしまして、そのまねを、女房たちにせさせて御覧ぜしを、太政大臣殿、「この御遊はまことに面白く侍りなん」とて、興ぜさせ給ひて、笏ども作らせて参らせさせ給ふ。頭中将為氏、節会の次第など書きて参らす。人数は大納言三位殿<太政入道殿女>、按察典侍殿<隆衡卿女>、大納言典侍殿<隆親卿女>、中納言典侍殿<実家卿女>、宮内卿殿<顕氏卿女>、兵衛督殿<家通卿孫>、匂当内侍殿<孝時入道が女>、少将、弁、伊予内侍。笏どもに皆名を書きてぞ持ち侍りし。
 中納言典侍殿、「襪をえはかぬ所労」とて、故障申して局におはせしに、蘆の葉に書きつけて局の簾にさす。弁内侍、
  津の国の蘆の下根のいかなれば波にしほれて乱れ顔なる
-------

とあります。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p225以下)
岩佐美代子氏の訳を見ると、

-------
幼帝が、節会や臨時祭の手順の書付などを御覧になって、そのまねを女房たちにさせてご見物なさったのを、太政大臣殿が、「このお遊びはなるほど面白うございましょう」と面白がられて、笏などを作らせて献上なさる。頭中将為氏が、節会の行い方など書いて奉る。参加した人々は、大納言三位殿<太政入道殿の女>、按察典侍殿<隆衡卿の女>、大納言典侍殿<隆親卿の女>、中納言典侍殿<実家卿の女>、宮内卿殿<顕氏卿の女>、兵衛督殿<家通卿の孫>、匂当内侍殿<孝時入道の女>、少将内侍、弁内侍、伊予内侍。笏にそれぞれ自分の扮する廷臣の名を書いて持った。
 中納言典侍殿は権大納言殿になって、節会の時に内弁を勤めよと催促されて、「いや、実は、襪(しとうず)をはけないような足の故障がありまして」と言って、お断りして局に逃げこんでおられたので、歌を書いて蘆の葉に結び付けて、局の簾にさした。弁内侍、
  津の国の……(摂津の国の蘆の根が波に濡れて乱れているように、
  あなたのおみ足は、どうしてそんなにお具合が悪くて困っていらっ
  しゃるのでしょうね。おかしいこと)
-------

ということで、「大納言典侍殿」は「隆親卿女」、即ち四条隆親(1203-79)の娘で、後に中院雅忠(1228-72)との間に後深草院二条(1258-?)を生む女性ですね。
岩佐氏も<『とはずがたり』作者の母、「すけだい」>と注記されています。

さて、以上の点はともかく、『増鏡』と『弁内侍日記』を読み比べると、一番奇妙なのは、『弁内侍日記』には弁内侍が「中納言典侍殿」に贈った歌があるだけなのに、『増鏡』では「津の国の葦の下根の乱れわび心も浪にうきてふるかな」という返歌が存在している点です。
これはいったいどういうことなのか。
井上氏は、

-------
節会・臨時の祭、公事などのまねについては『弁内侍日記』にみえる。日記と若干の違いがあり、日記には返歌などもないので、かならずしも日記から材をとったとはいえないが、愛らしい話である。建長二年秋の記事である。
-------

と書かれていますが(p271)、別に公的行事でもなく、幼い後深草天皇周辺の女房たちだけが関係する小さなエピソードですから、『弁内侍日記』以外の記録が残されたとも思えません。
私は、この歌は弁内侍の機転に即座に対応できない「中納言典侍殿」に代って、『増鏡』作者が勝手に、時代を超えて弁内侍に送り返した創作返歌なのではないかと思います。

>筆綾丸さん
>『源氏物語』の「紅葉賀」を踏まえているように思われますね
井上氏と河北氏は特に『源氏物語』には言及されていないですね。
もう少し調べてみます。
 

紅葉賀

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 1月11日(木)15時00分48秒
  小太郎さん
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined07.1.html
「内野の雪」(その6)における御引用の後段の文は、語彙と言い、文体と言い、『源氏物語』の「紅葉賀」を踏まえているように思われますね(引用サイトの135)。
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日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる 入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと、岩隠れ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落としけり。
--------------------
「紅葉賀」は桐壺帝が前帝の朱雀院へ行幸する話、「内野の雪」は退位した後嵯峨があちこち御幸する話で、位相は若干違いますが。
 

「巻五 内野の雪」(その8)─一条実経

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月11日(木)14時31分11秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p265以下)

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 太上天皇など聞ゆるは、思ひやりこそ、おとなびさだ過ぎ給へる心地すれど、いまだ三十にだに満たせ給はねば、よろづ若う愛敬づき、めでたくおはするに、時のおとなにて重々しかるべき大き大臣さへ、なにわざをせんと、御心にかなふべき事をのみ思ひまはしつつ、いかでめづらしからんともてさわぎ聞え給へば、いみじうはえばえしき頃なり。
 御門、まして幼くおはしませば、はかなき御遊びわざよりほかの営みなし。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼さぶらひ給ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁・貝おほひ・手まり・へんつきなどやうの事どもを、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、さぶらふ人々もうちとけにくく、心づかひすめり。
-------

後嵯峨院が四歳の後深草天皇に譲位して上皇となったのは寛元四年(1246)、二十七歳の時です。
「摂政殿さへ若く物し給へば」とあるので、ここにいう「摂政殿」は父の九条道家から鍾愛された一条実経(1223-84)ですね。
実経の七歳上の同母兄、二条良実(1216-70)は仁治三年(1242)正月、後嵯峨天皇践祚と同時に関白となりますが、寛元四年 (1246) 正月二十八日、後嵯峨天皇在位の最後の日に父・九条道家の意向で一条実経に交替させられ、翌日の後深草天皇践祚とともに実経が摂政に転じます。
しかし、実経も在任僅か一年だけで、鎌倉の宮騒動の影響を受けて近衛兼経(1210-59)に代わられてしまいます。
『増鏡』には摂政実経が夜昼伺候されて、女房に交じって乱碁・貝おおい・手まり・へんつきなどの遊戯を思い思いにして日を過ごされるので、お側の人々も気を緩めがたく、気遣いをするようだ、とありますが、『弁内侍日記』に描かれている実経の様子は年齢相応に大人びた感じですね。
例えば践祚の年、端午の節句の出来事として、

-------
五月五日、朝餉にかつみをまゐらせられたるを、「歌を添へて取りて参らせよ」と仰事ありしに、あやめと思ひて侍れば、引き違へたるも面白くて、弁内侍、
  かつみ生ふる浅香の沼もまだ知らでふかくあやめと思ひつるかな
-------

とあります。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、小学館、1994、p147)
岩佐美代子氏の訳では、

-------
五月五日、朝餉間〔あさがれいのま〕にかつみ草を献上したのを、摂政殿が「取り入れるときに歌を添えて主上にお目にかけよ」とおっしゃったので、歌を詠んだのはいいが間違ってあやめの歌を作ってしまったので、その思い違いが我ながらおかしくて、弁内侍、
  かつみ生ふる……(かつみが生えているという浅香の沼もまだ
  見たことがないので、不覚にもすっかりあやめだとばかり思い
  込んでおりましたよ、ああはずかしいこと)
-------

ということで、「深く」と「不覚」をかけている弁内侍の歌はともかく、実経は摂政らしく落ち着いた雰囲気を感じさせます。
また、次の記事では実経の「御直廬にて御連歌ありしこそ、いと優しく侍りしか」とあります。
ちょっと興味深い記事として、寛元五年(1247)正月、実経から近衛兼経への摂政交替に際して、

-------
十九日、摂政かはらせ給ふとて、僉議せらる。上卿二位中納言<良教>、職事頭弁<顕朝>。奏奉る程、折しも月曇りがちにて、何となくものあはれなれば、弁内侍、
  晴るる夜の月とは誰か眺むらんかたへ霞める春の空かな
 奏奉るを、御湯殿の上にて少将内侍見て、着到せられたる紙屋紙の草子の端を破りて書きつけける、少将内侍、
  色かはる折もありけり春日山松を常磐となに思ひけん
これを見て返事、弁内侍、
  春日山松は常磐の色ながら風こそ下に吹きかはるらめ
-------

とあります。(p166)
岩佐氏の訳を見ると、

-------
十九日、摂政が交替なさるとのことで、会議が行なわれる。上卿は二位中納言<良教>、職事は頭弁<顕朝>。議決文奏上の取次に立った折しも、月が曇りがちで何となく悲しげに思われたので、弁内侍、
  晴るる夜の……(晴れた夜の月と、今夜誰が眺めているでしょう、
  半ば霞んでいる春の空なのに)
 奏上の様子を御湯殿の上で少将内侍が見て、着到名簿に使った紙屋紙の草紙子の端を破って書いた歌、
  色かはる……(色が変る時もあったのですね。春日山の
  松を、常に変らぬ緑であると、何で信じ込んでいたので
  しょう。
 これを見ての返歌、弁内侍、
  春日山……(春日山の松はいつも緑色なのですよ。下を
  吹く風がちょっと変ったにすぎませんわ)
-------

ということで、弁内侍・少将内侍姉妹は一条実経に同情的ですね。
この種の記事を材料にすれば『増鏡』作者も実経についてそれなりの記事が書けたはずですが、『増鏡』作者は実経にはあまり関心がなかったようです。
なお、岩佐美代子氏は「摂政かはらせ給ふとて」の注に、

-------
一条実経(二十五歳)から近衛兼経(三十八歳)への更迭。実経の弟、前将軍頼経が、北条時頼失脚を図ったとして出家せしめられた事件の余波で、鎌倉幕府の要求による。
-------

としていますが(p166)、頼経(1218-56)は五歳上の兄ですね。
また、頼経の出家は宮騒動の前年、寛元三年(1245)七月の出来事で、「北条時頼失脚を図ったとして出家せしめられた」訳ではありません。

一条実経(1223-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%B5%8C
 

「巻五 内野の雪」(その7)─後嵯峨院、鳥羽殿・吹田御幸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月10日(水)18時03分2秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p260以下)
宇治に続き、改修した鳥羽殿への御幸の話になります。

-------
 鳥羽殿も近頃はいたう荒れて、池も水草がちに埋もれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸なりし時、「池の辺の松」といふこと講ぜられしに、大きおとど序かき給へりき。

  祝ひ置くはじめと今日をまつが枝の千年のかげにすめる池水

院の御製、

  影映す松にも千代の色みえて今日すみそむる宿の池水

大納言の典侍と聞えしは、為家の民部卿の娘なりしにや。

  色かへぬ常盤の松のかげそへて千代に八千代にすめる池水

ずん流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、そり橋のもとに龍頭鷁首よせて、いとおもしろく吹きあはせたり。かやうの事、常の御遊び、いとしげかりき。
-------

「鳥羽殿」は白河院(1053-1129)が造った離宮ですね。
修造後「はじめて御幸なりし時」とは宝治二年(1248)八月二十九日です。(『百錬抄』)
「大きおとど」は太政大臣・西園寺実氏で、「大納言の典侍」は藤原為家(1198-1275)の娘で、定家(1162-1241)の孫の歌人ですね。
「ずん流るめりしかど、例のうるさければなん」は例によって語り手の老尼がちょっと登場している場面で、「順々に歌が多くあったようだが、わずらわしいので例の如く省略する」という意味です。
さて、鳥羽殿に続いて、西園寺家の摂津「吹田の山荘」への御幸の話になります。

-------
 又、大きおとどの津の国吹田の山荘にもいとしばしばおはしまさせて、さまざまの御遊び数を尽し、いかにせんともてはやし申さる。河にのぞめる家なれば、秋ふかき月のさかりなどは、ことに艶ありて、門田の稲の風になびく気色、つまとふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、とり集めあはれそひたる所のさまに、鵜飼などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いとめづらしう、をかしと御覧ず。日頃おはしまして、人々に十首の歌召されしついでに、院の御製、

  川舟のさしていずくか我がならぬ旅とはいはじ宿と定めん

と講じあげたる程、あるじの大臣いみじう興じ給ふ。「この家の面目、今日に侍る」とぞのたまはする。げにさることと聞く人みなほこらしくなん思ひ給へる。
-------

ここも後嵯峨院の御製に西園寺実氏が「この家の面目は今日が一番です」と感激するということで、結局は西園寺家の栄華話のひとつです。
『百錬抄』によれば「吹田の山荘」に最初の後嵯峨院御幸があったのは建長三年(1251)閏九月十七日なので、実際には鳥羽殿御幸とは時間的な隔たりがありますね。
 

「巻五 内野の雪」(その6)─後嵯峨院、石清水御幸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月10日(水)17時45分12秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p256以下)

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 上はいつしか所々に御幸しげう、御遊びなどめでたく、今めかしきさまに好ませ給ふ。中宮も位さり給ひて、大宮女院とぞ聞ゆる。やすらかに常は一つ御車などにて、ただ人のやうに花やかなる事どものみひまなく、よろづあらまほしき御有様なり。院の上、石清水の社に詣でさせ給へば、世の人残りなくつかうまつる。さるべき事とはいひながら、なほいみじ。御心にも一年の事おぼし出でられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。

  石清水こがくれたりしいにしへを思ひ出づればすむ心かな
-------

中宮は宝治二年(1248)六月、院号宣下があって大宮院となります。
後嵯峨院が「御心にも一年〔ひととせ〕の事おぼし出でられて」というのは、夢に「椿葉の影ふたたびあらたまる」と聞いたという話ですね。
歌は「岩間の清水が木隠れに流れて誰にも知られないような身だった昔、この石清水社に詣でて神託を賜ったことを思い出すと、有難さに我が心は清く澄んでくる」といった意味で、『続古今集』巻七・神祇に入集しています。

「巻四 三神山」(その2)─承明門院
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9229

さて、この先、後嵯峨院の華やかな遊宴御幸の話が続きます。

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 宝治の頃、神無月廿日余りなりしにや、紅葉御覧じに宇治に御幸し給ふ。上達部・殿上人思ひ思ひ色々の狩衣、菊・紅葉の濃き薄き、縫物・織物・綾錦、すべて世になききよらを尽し騒ぐ。いみじき見物なり。殿上人の舟に楽器まうけたり。橘の小島に御船さしとめて、物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、そぞろ寒き程なるに、折しり顔に空さへうち時雨れて、真木の山風あらましきに、木の葉どもの色々散りまがふ気色、いひ知らずおもしろし。女房の船に色々の袖口、わざとなくこぼれ出でたる、夕日にかかやきあひて、錦を洗ふ九の江かと見えたり。平等院に中一日渡らせ給ひて、さまざまのおもしろき事ども数しらず。網代に氷魚のよるも、さながらののしりあかして帰らせ給ふ。
-------

「物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、そぞろ寒き程なるに」のあたり、なかなかの名文ですね。
 

『弁内侍日記』と岩佐美代子氏

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月10日(水)11時33分0秒
編集済
  ここでちょっと脱線しますが、『弁内侍日記』は女房としての公的な職務を誇りと責任感を持って勤めていた宮廷女性の明るくユーモラスな日記です。
『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』で『弁内侍日記』を担当されている岩佐美代子氏の訳は実に生き生きとしていて、読んでいて本当に楽しいですね。
岩佐氏の解説から作者の部分を引用すると、

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後深草院の女房、弁内侍。歌人、画家として知られる藤原信実の女〔むすめ〕。祖父隆信は藤原定家の異母兄に当り、新古今歌人であると同時に、高雄神護寺像平重盛像等の筆者と伝えられる似絵の大家である。母は未詳であるが、同腹と思われる姉妹に藻璧門院少将・後深草院少将内侍があり、「みなよき歌よみ」と『井蛙抄』にたたえられている。生没年未詳。安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生か。寛元元年(一二四三)後深草天皇立太子の時「弁」の名で出仕し、同四年践祚により内侍となり、正元元年(一二五九)退位まで十七年間奉仕した。以後は宮仕えを退いたと思われ、文永二年(一二六五)妹少将内侍の死去により出家、続いて父信実、姉藻璧門院少将とも死別した。従二位法性寺雅平との間に女子(新陽明門院中納言)を生んでいるが、その時期は明らかでない。晩年は比叡山横川の北麓、仰木の山里にこもった。『実材母集』に建治三年(一二七七)の贈答歌が見えるので、その頃(五十歳ぐらい)までの生存は確認される。
 宝治二年(一二四八)百首を詠進、『続後撰集』以下の勅撰集に四十五首入集、本日記・諸歌合・私撰集類等の所載歌を合せ、約四百首が知られるほか、連歌の名手で『菟玖波集』に十三句入っている。
-------

ということで(p144)、「安貞元年~寛喜元年(一二二七-二九)頃出生」とすると、寛元元年に初出仕したときは十五から十七歳、前回投稿で紹介した「内野の雪」関連の歌を詠んだのは十八からニ十歳ということになります。
『弁内侍日記』はどこを読んでも面白いのですが、私が特に好きなのは前回投稿で引用した部分の直後、「吉田の使(つかひ)」の場面ですね。(p154)

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 十七日、雪なほいと深う積りしに、吉田の使に立ちて、帰さに、主基方の女工所の事がらゆかしくて、「そなたざまへやれ」と申し侍りしかば、公役<ためもち・かねとも>、六位の車の供の者なども、夜更けて遥かに廻らん事、かなふまじき由申し侍りしかども、せめて尋ねまほしさに、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち入る式にてあるぞ」と申し侍りしかば、「まことにさる先例ならば」とて、はるばると尋ね行きたりしに、衛士が門をおそく開け侍りしに、「今に初めたる事か。吉田使の帰さに内侍の入らせ給ふに、事新しく開けもまうけぬか」と、荒らかに諌め申し侍りしも、かやうの事や先例にもなり侍らんとをかしくて、弁内侍、
  とはましや積れる雪のふかき夜にこれも昔の跡と言はずは
-------

岩佐氏の訳は、

-------
 十七日、雪はまだ大変深く積もっていたのに、吉田神社の使に参って、帰りに主基方の女工所の様子が気になるので、「そちらへ行って下さい」と言ったら、公役ためもち・かねとも、車の供をする六位どもなども、夜更けに遠い回り道はできないと反対した。しかし、どうしても行きたかったので、「吉田の使の帰りには、必ず女工所へ立ち寄るきまりになっているのよ」と言ったものだから、「本当にそういう先例なら」と言って、はるばる訪ねて行ったのに、女工所の衛士が門を開けるのに手間取ったので、「今に始まったことか。吉田使の帰りには内侍がここに来られるに決っているのに、今更らしくまごついて。なぜちゃんと開けて待っていないのか」と荒々しく叱り飛ばしたのも、こんなことが先例になっていくのだろうとおかしくて、弁内侍、
  とはましや……(こんなに雪の積った真夜中に、勝手に
  女工所を訪ねるなんて、できるかしら。これも昔からの
  先例であると偉そうに言わなかったら)
-------

というもので、なるほど、確かにこうして出来た先例が結構あるのかも、と笑ってしまいますね。
岩佐美代子氏は父方の祖父が法学者・穂積陳重、父方の祖母が渋沢栄一の娘、母方の祖父が陸軍大将・児玉源太郎という近代日本有数の名門家庭、というか法律・経済・軍事の異質な知性が交わった知的環境に生まれた人で、御自身も昭和天皇の第一皇女・照宮成子内親王に「宮仕え」したという非常に珍しい経験の持ち主ですね。
幼いときの「宮仕え」で、時代は異なるとはいえ、宮中という特別な世界で人間観察をした経験が中世女流日記研究にも相当役立っておられるようです。

岩佐美代子(1926-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BD%90%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
 

「巻五 内野の雪」(その5)─少将内侍(藤原信実女)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月10日(水)10時08分41秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p253以下)
この場面に出てくる少将内侍の歌から巻名「内野の雪」が採られています。

-------
 かくて御即位、御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣といひし歌よみの娘、少将内侍、大内の女工所にさぶらふに、雪いみじう日頃降りて、いかめしう積もりたる暁、大きおとど実氏のたまひ遣しける。

  九重の大内山のいかならん限りもしらず積もる雪かな

御返し、少将内侍、

  九重の内野の雪に跡つけて遙かに千代の道を見るかな
-------

「女工所」(にょくどころ)とは大嘗会に用いる装束を調製するため、臨時に設けられる行事所で、悠紀方・主基方、それぞれ内侍が預(あずかり、主任)になります。
「信実の朝臣といひし歌よみ」は画家としても著名な藤原信実(1177-1265)のことで、『増鏡』には隠岐へ流される後鳥羽院が母の七条院へ贈る自分の肖像画を描かせた人として登場しています。

「巻二 新島守」(その7)─九条廃帝(仲恭天皇)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9215

さて、この場面は、妹の少将内侍とともに後深草天皇に女房として仕えた弁内侍の日記から引用したものですが、『弁内侍日記』では次のように記されています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、小学館、1994、p153以下)

-------
 十四日の夜、少将内侍、女工所へ渡り居て、心地なほわびしくて侍りければ、何事も知らで臥したるに、暁方、遥かより雪深きを分け入る沓の音の聞ゆるにおどろきて、心地をためらひて、やをら起き上がりて聞けば、「大宮大納言殿より」と言ふ。声につきて妻戸を押し開けたれば、いまだ夜は明けぬものから、雪に白みたる内野の景気、いつの世にも忘れがたく、面白しと言へばなべてなり。御文開けて見れば、
  九重や大内山のいかならん限りも知らず積る白雪
返し、少将内侍、
  九重の内野の雪にあとつけて遥かに千代の道を見るかな
 その雪の朝、少将内侍のもとより、
  九重に千代を重ねて見ゆるかな大内山の今朝の白雪
返事、弁内侍、
  道しあらん千代のみゆきを思ふにはふるとも野辺のあとは見えなん
-------

岩佐美代子氏の訳は、

-------
 その十四日夜、少将内侍は女工所に詰めていて、気分がまだ悪いので何もかも打ち捨てて寝ていると、明け方、遠くから雪深い中を踏み分けて来る沓の音が聞こえるので目をさまし、具合の悪いのを我慢してそっと起き上がって聞くと、「大宮大納言殿からのお手紙」と言う。声を頼りに妻戸を押し開けると、まだ夜は明けないが雪明りで白々と見える内野の風情が、いつまでも忘れられないだろうほどに面白いとも何とも言いようがない。お手紙を開けて見ると、
  九重や……(宮中の古い歴史を残す大内裏の様子はどんなでしょう。
  限りなく降り積もる白雪に、その神々しさが想像されます)
返し、少将内侍、
  九重の……(幾重にも積る内野の雪を踏み分けてお訪ね下さった御使
  の足跡によって、何千年も続く正しい政〔まつりごと〕の道を、目の
  前に見る思いがいたします)
 その雪の朝、少将内侍の所から、
  九重に……(ここ、古い宮廷の跡に、我が君の千代の御栄えを重ねる
  ように見えますよ、大内裏の今朝の白雪は)
返事、弁内侍、
  道しあらん……(正しい政道をもって千年も続くであろう御代初めの
  行幸と思えば、雪はいくら降っても内野に通う道の跡は明らかに見え
  ましょう)
-------

ということで、名訳ですね。
ここに出てくる「大宮大納言」は西園寺公相(1223-67)で、寛元四年(1246)には二十四歳ですね。
しかし、『増鏡』では公相を勝手に父親の実氏(1194-1269)に代えてしまっています。
公相の歌も、最後の「積る白雪」を「積もる雪かな」に変えていますね。
 

「巻五 内野の雪」(その4)─後深草天皇践祚

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月 9日(火)21時23分57秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p249以下)
西園寺家の栄華の場面が続いた後、摂家将軍・九条頼経が京に戻る話になります。

-------
 かくて又の年、東の大納言頼経の君、悩み給ふ由聞えて、御子の六つに成り給ふに譲りて都へ御かへりあれば、若君はその日やがて将軍の宣旨下され、少将になり給ふ。頼嗣と名乗り給ふべし。泰時朝臣も一昨年入道して、孫の時頼に世を譲りにしかば、この頃は天の下の御後見、この相模守時頼朝臣つかうまつる。いと心かしこくめでたき聞こえありて、つはものも靡きしたがひ、大方世もしづかにをさまりすましたり。
-------

後深草誕生の翌年なので寛元二年(1244)の出来事ですが、第四代将軍・九条頼経(1218-56)は確かに同年四月に将軍を息子の頼嗣(1239-56)に譲るものの、その後も「大殿」として鎌倉に留まります。
また、北条泰時(1183-1242)が「天の下の御後見」たる地位を孫の時頼(1227-63)に直接譲ったように述べていますが、実際には執権の地位は時頼の兄の経時(1224-46)が受け継ぎ、経時が寛元四年(1246)に二十三歳の若さで死去したため、弟の時頼が執権となった訳ですね。
この時期、鎌倉の政情は非常に不安定化し、「宮騒動」を経て、同年七月に頼経は京都に追放されることになります。
更に翌宝治元年(1247)六月には「宝治合戦」が起きて三浦一族が滅ぼされますが、『増鏡』はそのような幕府の混乱には一文字も費やさず、北条時頼は非常に賢く立派な人物との評判が高く、武士たちも靡き従い、世の中は静かでよく治まっています、と述べます。
このあたり、『増鏡』作者が参照していることが明らかな『五代帝王物語』を見ると、

-------
鎌倉に三浦若狭前司泰村、舎弟能登守光村謀叛の事ありて、宝治元年六月五日合戦あり。其間事委くかきつくしがたし。泰村以下三浦の者ども、故頼朝の大将の法花堂にたてこもりて、一類四百七十余人自害したりければ、鎌倉は別のことなく静まりぬ。もし泰村本意を遂たらば、都はいかがあらんずらむと申あひたりしかば、御祈ども有しに、誅せられにしかば聖運もいとど目出かりき。【中略】まことや将軍頼経卿は関東に何とやらん子細ありて、寛元四年七月に京へのぼりて、その子頼嗣将軍になりて、閑院造営の賞に上階して、三位中将と申。
-------

となっていて(『群書類従・第三輯』、p437)、『増鏡』作者は当時の鎌倉情勢を正確に認識しつつも、意図的にそれを一切記述しないという方針で執筆している訳ですね。

宮騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%A8%92%E5%8B%95
宝治合戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B2%BB%E5%90%88%E6%88%A6

さて、この後、寛元四年(1246)に後深草天皇が四歳で践祚したことが簡単に記された後、「巻五 内野の雪」では非常に珍しい摂関家関係の記事になります。

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 かくて寛元も四年になりぬ。正月廿八日春宮に御位譲り申させ給ふ。この御門も四つにぞならせ給ふ。めでたき御ためしどもなれば、行末もおしはかられ給ふ。光明峰寺殿の御三郎君、実経の大臣、御年廿四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御はらから三人まで摂録し給へるためし、古くは謙徳公、忠義公、東三条の大入道殿<兼家>、その又御こども、中の関白殿・粟田殿・法成寺入道殿、これふたたびなり。近くは法性寺殿の御こども、六条殿<基実>、松殿<基房>、月輪殿<兼実>、こぞやがて今の峰殿の御祖父よ。かやうの事、いとたまたまあれど、粟田殿も宣旨かうぶり給へりしばかりにて七日にて失せ給へりしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所、流れ絶えず、久しき藤波にてたち栄え給へるこそ、たぐひなきやんごとなさなめれ。末の世にもありがたくや侍らん。今の摂政をば後には円明寺殿と聞ゆめりし。一条殿の御家のはじめなり。
-------

ま、それなりの分量ではありますが、内容的には単なる事実の羅列に過ぎず、誰でも書けそうな感じですね。
なお、増補本系の『増鏡』には「いとめでたし」と「御はらから三人まで」の間に「兄の福光園院殿もと関白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし」との一文が入ります。
この点、井上氏は、

-------
福光園院は良実で、新帝の摂政に続き任ぜられたかったが、弟実経が東宮傅であり、傅が新帝践祚とともに摂関になる例が多いので、道家・実経は良実に強い圧力をかけて、まったく「しぶしぶ」の状態で良実は関白を辞したのである。
-------

と書かれていますが(p253)、当該記述は、少なくとも増補本系の場合、『増鏡』の作者を二条家関係者とする説にはかなり不利な材料なのではないかと思います。
 

「巻五 内野の雪」(その3)─皇子(後深草)誕生

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月 9日(火)15時27分16秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p245以下)
皇子、即ち後の後深草天皇誕生の場面です。

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 内には更衣腹に若宮おはしませど、この御事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ平らかにし給へりとも、女宮にておはしまさばと、まがまがしきあらましを思ふだに、胸つぶれ口惜し。かつは御身の宿世みゆべき際ぞかし、と思せば、いみじう念じ給ふに、既にことなりぬ。まづ何にかと心騒ぐに、御兄の大納言公相、「皇子誕生ぞや」といと高らかにの給ふを、余りの事にみなあきれて、「まことか、まことか」と、大臣のたまふままに、喜びの御涙ぞ落ちぬる。あはれなる御気色、見る人もこと忌みしあへず。御修法の僧どもをはじめ、道々の禄たまはる。したり顔に汗おしのごひつつまかづる気色、今一きはめでたく、ののしりたちて、さらに物も聞えず。げにこの頃の響きに、女にておはしまさましかば、いかにほしほと口惜しからまし。きらきらしうもしいで給へるかし。されば大臣年たけ給ふまでも、「その折の嬉しうかたじけなかりしを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまるる」とぞ、後深草院をば常に申されける。
  御湯殿の儀式はさらにもいはず、人々の禄、なにくれ、例の作法に事をそへて、いみじう世のためしにもなるばかりとつくし給ふ。御はかし参る。心もとなかりつるままに、二十八日親王の宣旨ありて、八月十日すがやかに太子にたち給ひぬ。大臣御心おちゐて、すずしうめでたう思す事限りなし。
-------

少し微妙な表現があるので、井上氏の訳を紹介させてもらうと、

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 後嵯峨天皇には更衣腹に若宮(宗尊親王)がいらっしゃるが、この中宮からの皇子誕生を待ち申しなさるというので、(お誕生までは)まだ東宮がお決まりになっていない時期なのである。たとい御安産であっても、皇女でいらっしゃったら、と不吉な予想を思うだけでも、胸がつまって口惜しいことである。一方では実氏公は御自身の前世からの運の現われる機会であるとお思いになるので、一心にお祈りされているうちに、もはやお生まれになった。まず第一に、皇子か皇女か、と胸がどきどきしていると、中宮の御兄の大納言公相が、「皇子誕生です」とたいそう高らかにおっしゃるので、あまりのうれしさにみな呆然となって、「ほんとうか、ほんとうか」と実氏公がおっしゃると同時に、喜びの御涙が流れ落ちたのであった。感激されているその御様子に、見る人も、(こういう折に涙は不吉だと)忌むこともできず、ともに涙にむせぶのであった。御修法の僧たちをはじめ(医師以下)その道の物に祝儀をくださった。得意気に汗を拭いながら退出する様子も、またいちだんとめでたくにぎやかに騒ぎたてて、何にも聞こえないほどだ。ほんとうに最近世の騒ぎとなったこの御産について、もし皇女の御誕生だったら、どんなに悄然として残念だったことであろう。期待にこたえて見事になさったことであった。そこで、父実氏公は年をとられて後までも、「その時のうれしく有難かったことを想い出すと、(後深草天皇を)お見上げ申すたびに涙ぐまれることだ」と後深草院のことをいつも申されたのであった。
 御湯殿の儀式はいうまでもなく、人々へのお祝儀、何やかや、従来の習慣の上にさらに追加のものをくださって、ほんとうにこれからの先例になってしまいそうに十分になさった。お守り刀を差上げる。お生まれになるのを待ちかねておられたので、二十八日親王の宣旨があって、八月十日とどこおりなく立太子された。実氏公は御安心になって、このうえなくさわやかにすばらしいこととお思いになった。
-------

ということです。(p247)
冒頭の「更衣腹」とは平棟基女棟子のことで、棟子は後嵯峨践祚と同じ年の仁治三年(1242)十一月に「若宮」、即ち後の鎌倉幕府第六代将軍・宗尊親王を産んでいます。
なお、平安中期以降、実際には「更衣」は存在せず、ここも西園寺建立の場面の「北山」同様に『源氏物語』的な雰囲気を出すための文飾ですね。
さて、皇子誕生は確かに重要な事件かもしれませんが、『増鏡』において「巻一 おどろのした」からここまでに描かれた皇子誕生の場面は後鳥羽だけで、それもごくあっさりしたものです。

「巻一 おどろのした」(その1)─九条兼実
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9199

土御門・順徳・仲恭・後堀河・四条の場合、立坊ないし践祚の際に、既に何年か前に誕生しています、といった感じで少し触れるだけですね。
ところが後深草誕生の場面は極めて分量が多く、詳細を極め、臨場感に溢れており、何故にこの人の誕生だけがこれほどまでに大袈裟に語られるのか、ちょっと不思議な感じがします。
そしてこの場面は西園寺家関係者が読んだらすこぶる愉快でしょうが、摂関家にとっては些か微妙な記事で、「すずしうめでたう」思えそうもないですね。
 

「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月 8日(月)20時46分37秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p240以下)
最初は順徳院崩御の場面です。

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 仁治三年九月十二日佐渡院かくれさせ給ひぬ。世の中うつりかはりしきざみ、もしやなど思されしも空しくて、いよいよ隔たり果てぬる世を、心細う思し嘆きけるつもりにや、さしもとりたてたる御悩みなどはなくてうせ給ふに、折あはれなる御事どもなり。四十六にぞならせ給ひける。
-------

四条天皇崩御後、もしかしたら自分の皇子が天皇となり、自分が帰京できるきっかけになるかもしれないと期待したであろう順徳院は、その期待を裏切られ、同じ仁治三年(1242)の九月、佐渡で崩御となります。四十六歳。

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 あくる年は寛元元年なり。六月十日頃に、中宮、今出川の大殿にてその御気色あれば、殿の内たち騒ぐ。白き御装ひにあらためて、母屋にうつらせたまふ程、いとおもしろし。大臣・北の方・御兄の殿ばら達そ添ひかしづき聞え給へるさま、限りなくめでたし。御修法の壇ども数しらず。医師・陰陽師・かんなぎ、各々かしがましきまで響きあひたり。いと暑き程なれば、唯ある人だに汗におしひたしたるに、后の宮いと苦しげにし給ひて、色々の御物の怪ども名乗り出でつつ、わりなくまどひ給へば、大臣・北の方、いかさまにせんと御心を惑はし給ふさま、あはれにかなし。かやうのきざみ、高きも下れるも、おろかに思ふ人やはあらん。なべてみなかうのみこそあれど、げにさしあたりたる世の気色をとり具して、たぐひなく思さるらんかし。内よりも、「いかにいかに」と御使ひ雨のあしよりもしげう走りちがふ。内の御めのと大納言二位殿、おとなおとなしき内侍のすけなど、さべき限り参り給へり。今日もなほ心もとなくて暮れぬれば、いとおそろしう思す。伊勢の御てぐらつかひなどたてらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使ひ、四位五位数を尽して鞭をあぐるさま、いはずともおしはかるべし。大臣とりわき春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
-------

寛元元年(1243)六月十日頃、中宮の西園寺姞子(1225-92)が今出川の実氏邸で産気づきます。
たいへん暑い季節なので、普通の人でも汗びっしょりなのに、中宮は非常に苦しそうにしていて、そこに「色々の御物の怪ども」が名前を名乗って次々に登場するのだそうです。
この「色々の御物の怪ども」が誰なのかと思ってモノノケ話が好きな『五代帝王物語』を見たところ、意外なことに中宮懐妊・皇子誕生の場面は非常にあっさりしていて、モノノケは全く登場していません。
ということで、ここは『五代帝王物語』に頼っていない『増鏡』独自の叙述ですね。
さて、宮中からも「どうなのか、どうなのか」とお使いが頻繁に来ては帰って行く中で、「内の御めのとの大納言二位殿」や年輩の物なれた典侍など、然るべき者はみな参上されたとありますが、井上氏は天皇の御乳母である「大納言二位殿」について「伝不詳」とされており(p245)、河北騰氏の『増鏡全注釈』(笠間書院、2015)も「氏名不明」としています(p155)。
しかし、これは源通親の娘、親子ですね。
秋山喜代子氏の「養君にみる子どもの養育と貢献」(『史学雑誌』102-1号、1993)に次のような指摘があります。(p80)

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【前略】かくして後嵯峨の即位が実現したのである。その結果、大殿九条道家の勢力は後退し、代わって外戚定通の勢威が増した。定通は天皇の後見として内裏を管領したが、寛元四年院政開始後も嫡子顕定を院の執事別当の地位につけて、実際には彼が院中を統括した。
 さて、注目したいのは大納言二位こと乳母源親子(通親女で定通、通方の妹)である。親子は重要案件の取次役であって、摂関家や関東申次の西園寺家などの重臣と後嵯峨との交渉を殆ど申し次いだ。そして、そうした立場から貴族の最大の関心事である人事に深く介入した。
 この点で特筆すべきは、院宣と変らぬ女房奉書、「二品奉書」が重事、人事に関して数多く確認できることである。中世前期では、天皇(院)の乳母は天皇に密着し、その身辺の事柄、奥向きの事をとりしきる立場に位置付けられた。したがって必然的に乳母は内々の事、重事の取次役となった。とはいえ、親子のように女房奉書を多く出した者は稀である。このことは親子の政治的影響力が強大だったことを意味しているのである。こうした親子の権勢を考慮にいれるならば、後嵯峨の即位後は、政治の顧問として内裏、院の表向きのことを統括した外戚定通と、奥向きをとりしきった乳母親子の兄妹が、共に後嵯峨を支える後見だったと捉えられよう。
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上記引用部分中に注が五カ所あり、末尾の注記を見ると『平戸記』『葉黄記』『岡屋関白記』『明月記』など当時の諸記録が参照されています。
「乳母」「乳父」は当時の貴族社会を理解する上で相当に重要な制度なので、後で四条家と四条隆親についてまとめる際に詳しく検討します。
 

「巻五 内野の雪」(その1)─西園寺の建立

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 1月 8日(月)15時41分16秒
編集済
  それでは 「巻五 内野の雪」に入ります。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p235以下)

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 今后の御父はさきにも聞えつる右大臣実氏の大臣、その父故公経の太政大臣、そのかみ夢見給へる事ありて、源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂をたてて、名をば西園寺といふめり。この所は伯三位資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給ひてけり。もとは田・畠など多くて、ひたぶるにゐなかめきたりしを、さらにうち返しくづして、艶ある園につくりなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつ海をたたへ、峰より落つる滝の響きも、げに涙もよほしぬべく、心ばせふかき所のさまなり。
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西園寺公経(1171-1244)が仲資王と所領の交換をしたのは承久二年(1220)十一月だそうで、承久の乱の直前の時期ですね。

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 本堂は西園寺、本尊の如来まことに妙なる御姿、生身もかくやといつくしうあらはされ給へり。また善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊、この不動は津の国より生身の明王、簔笠うちたてまつりて、さし歩みておはしたりき。その簔笠は宝蔵にこめて、卅三年に一度出さるとぞ承る。石橋の上には五大堂。成就心院といふは愛染王の座さまさぬ秘法とか行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟、数珠の糸まで同じ色にて侍るめる。又、法水院、化水院、無量光院とかやとて、来迎の気色、弥陀如来、廿五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿にぞ大臣は住み給ふ。めぐれる山の常盤木ども、いとふりたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑわたすとて、大臣うそぶき給ひける。

  山桜峰にも尾にも植ゑおかん見ぬ世の春を人やしのぶと

 かの法成寺をのみこそいみじきためしに世継もいひためれど、これはなほ山のけしきさへおもしろく、都はなれて眺望そひたれば、いはん方なくめでたし。峰殿の御しうと、東の将軍の御祖父にて、よろづ世の中御心のままに、あかぬ事なくゆゆしくなんおはしける。今の右の大臣、をさをさ劣り給はず、世のおもしにて、いとやんごとなくおはすると聞ゆる、奥床しき御程なるべし。
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井上氏によれば、公経の歌は『新勅撰集』巻十六(1,042)に入集しているそうです。
さて、「かの法成寺をのみこそいみじきためしに世継もいひためれど」の「世継」とは『大鏡』に登場する大宅世継のことで、『大鏡』には藤原道長(966-1028)が建立した法成寺の立派さが詳しく描かれています。
そこで、この部分は、要するに西園寺公経の栄華は摂関家の象徴的存在である藤原道長の栄華に劣らないと言っていることになります。
『増鏡』作者が二条良基ないしその周辺だという説に対しては、私は摂関家の関係者がこのような表現を許容することがあり得るのか、疑問に思っています。

なお、既に十年近く前になりますが、私は高岸輝氏の『室町絵巻の魔力―再生と創造の中世―』(吉川弘文館、2008)において、

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北山は『源氏物語』若紫帖において光源氏が紫の上を見出した地であり、ここに邸宅を構えた西園寺家は閑院流祖藤原公季以来、文雅の家を演出するために『源氏物語』の聖地であることを喧伝し続けたという。(p10)

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4722

という奇妙な文章を見つけたのをきっかけに、「源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山のほとりに」に関する今西祐一郎氏の「若紫巻の背景-『源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山』-」(『国語国文』53-5、1984年)という論文を読んだことがあります。

今西論文その1、『源氏物語』注釈史
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4724
今西論文その2、「北山」の「なにがし寺」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4725
今西論文その3、仮説の九十九折
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4727

また、上記論文から派生して、足利義満と『源氏物語』に関する松岡心平・三田村雅子・小川剛生・桜井英治氏の論文・座談等を読んだことがあります。

「学問空間」カテゴリー: 高岸輝『室町絵巻の魔力』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/4ca6cde3ed4da52e78a85fd5bdf482ab
 

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