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不思議な出来事

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月28日(土)21時24分40秒
編集済
  私は「学問空間」というブログを持っているのですが、今はこの掲示板への投稿の保管庫にしているだけで、鄙びたブログです。
ところが、11月25日(水)、突然そのブログの閲覧数が11311、訪問者数(IP)が 9063、そして閲覧者数ランキングでGooブログ中11位になってしまいました。
何事が起きたのだろうと思って少し調べたのですが、「アルバニアの変成男子」という記事の閲覧者が急増したことは分かったものの、理由は全く不明です。
当該部分を読み直してみても、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンの記事を抄訳しているだけで、独自の見解がある訳ではなく、まあ、TBSの『世界・ふしぎ発見!』と同レベルの内容ですね。
今は従来通りの閲覧数に戻りつつあり、何だか狐につままれたような気分です。

「アルバニアの変成男子」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/770f627c0219beed96c9a74d7a2832fb

>筆綾丸さん
私は偏諱の知識が乏しいのですが、時代が下ると筆綾丸さんの考え方と同じ方向に変わって行くようですね。
偏諱については、まだまだ揺籃期だったということでしょうか。
 

偏諱の怪

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月27日(金)13時42分1秒
編集済
  時頼と時宗は、つくづく変な諱だと、前々から思っています。
将軍頼経の偏諱を賜って、北条経時のように名乗るのが尋常で、これはごく自然な感じが
します。ところが、時頼のように、北条氏の通字である時の字の下に、将軍頼経の偏諱を
いわば尻に敷くのは、偏諱を賜る方が威張っているような、非常に不自然な感じがします。
まして、頼の字は頼朝以来、鎌倉殿の通字で、本来なら、大変格式の高いもののはずです。
同じようなことは、時宗についても言え、これは将軍宗尊親王の偏諱と思いますが、主君
の偏諱を尻に敷いて、ふんぞり返っているような趣があります。
鎌倉時代のように徹底した身分制社会において、なぜこういう偏諱がありえたのか、非常
に奇異な感じがします。
私のような北条氏嫌いの者からすると、こいつら何様のつもりだ、という義憤すら覚え
ますね(笑)。
 

逮捕する人、される人

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月26日(木)23時04分10秒
編集済
  「吾妻鏡データベース」から『吾妻鏡』の関連部分を引用すると、建長3年(1251)12月26日は、

「今日未尅之及一點、而世上物怱也。近江大夫判官氏信、武藏左衛門尉景頼、生虜了行法師矢作左衛門尉〈千葉介近親〉長次郎左衛門尉久連等。件之輩。有謀叛之企〈云云〉。仍諏方兵衛入道、爲蓮佛之承推問子細。大田七郎康有、而記詞、逆心悉顯露〈云云〉。其後鎌倉中、彌騒動、諸人競集〈云云〉。」

そして翌12月27日は、

「被誅謀叛之衆。又有配流之者〈云云〉。近國御家人群參如雲霞。皆以可歸國之由、被仰出也。」

ということで、佐々木氏信・武藤景頼は「了行法師矢作左衛門尉〈千葉介近親〉長次郎左衛門尉久連等」を生け捕りにした側ですね。
そして、逮捕された「謀叛之衆」は、翌日、殺害ないし配流されています。
電光石火の処置ですね。
村井章介氏はこの事件に足利氏が関与したと推定されており、私もその見解が正しいと思いますが、だからこそ、事をあまり荒立てないで迅速に処理してしまったんでしょうね。

また、建長6年(1254)6月25日は、

「了行法師、所造置京都之持佛堂、并宿所等、被寄進於如意寺榮作也。今日有評定、被仰出之〈云云〉。清左衛門尉滿定、爲奉行〈云云〉」

ということで、謀反人了行法師の財産を幕府が没収し、それを幕府が如意寺に寄進した訳ですね。


村井章介氏「執権政治の変質」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/murai-shousuke-sikkenseiji.htm
 

了行

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月26日(木)12時54分36秒
  うーむ。
この部分は誤解でしょうね。
『吾妻鏡』の読み方もおかしいと思います。

--------------
建長5年(1253)10月2日、隆弁は上洛し、如意寺の復興を行なった(『吾妻鏡』建長5年10月2日条)。さらに同年12月28日に隆弁は京都から如意寺の鎮守諸社を勧請するため再度上洛した(『吾妻鏡』建長5年12月28日条)。建長6年(1254)2月28日に、隆弁が行なった如意寺造営勧進において、北条時頼らが寄進しているが、3月7日に評定にて沙汰されている(『吾妻鏡』建長6年3月7日条)。このことから、隆弁と北条時頼の個人的信認を基に如意寺再興事業が鎌倉幕府の公的認可のもとに行なわれていたことが知られる。それを示すように建長6年(1254)6月25日に了行法師は自身が造立した京都の持仏堂・宿所などを如意寺の造営に寄進しているが(『吾妻鏡』建長6年6月25日条)、この了行法師という人物は勧請に長けた人物であったものの、建長3年(1251)12月に佐々木氏信(1220〜95)・城景頼(1204〜67)らとともに幕府の顛覆を図り、勧進に託して同志を募っていたという嫌疑により逮捕されている(『鎌倉年代記』裏書)。この事件により処刑されたものがいなかったことから冤罪であったとみられるが、了行法師が自身が得意とするところの勧請をもって如意寺再興事業に関与し、それによって隆弁や北条時頼の覚えを良くする意図があったのかもしれない。

http://www.kagemarukun.fromc.jp/page100.html
 

「かげまるくん行状集記」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月26日(木)07時43分54秒
  出典をきちんと書いてくれているので、信頼性が高いサイトですね。
「本朝寺塔記」は渋いけど面白そうな寺社を集めています。

http://www.kagemarukun.fromc.jp/page002.html

>Aki さん
絵図から想像されるより遥かに広い範囲に広がっているんですね。

>筆綾丸さん
強引な比喩でしたが、後で少し補足します。
 

散逸構造

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月25日(水)18時30分36秒
編集済
  小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E9%80%B8%E6%A7%8B%E9%80%A0
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0909.html
権門体制論というと、私は何となく、イリヤ・プリゴジンの散逸構造を思い出します。


http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/091120/imp0911201113001-n1.htm
過日、両陛下が訪ねた霊鑑寺は、如意寺幅にある鹿ヶ谷近辺になるのですね。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page100.html
「江戸時代になると、如意寺の名跡を惜しんだ霊鑑寺の尼公が如意寺を再興したが(『拾
遺都名所図絵』巻之2、如意寺)、これも明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となった。なお
江戸時代に再興された如意寺は、霊鑑寺の東南にあった寺院で、現在のノートルダム女学
院の地に位置していた」
 

Re: 如意寺

 投稿者:Aki  投稿日:2009年11月23日(月)23時23分23秒
  >小太郎さん
 うわあ、如意寺の絵図があるんですね。たまに大文字山に登るんですが、大文字山から如意ガ嶽に登ったあと、南から山を下って、霊巌寺の脇(絵図の一番下の、鹿ヶ谷門のあたり)に出るコースを歩くことがあります。絵図で言うと、絵図の左手から寳厳院の鐘堂のあたりに入り、そこから熊野三山の中を下って、月輪門を通って鹿ヶ谷に出るコースを通っていたようです。

 「楼門の瀧」の写真があったので貼り付けます。絵図で、月輪門の下の石段脇に描かれている瀧です。
 

聲桶

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月23日(月)21時33分48秒
編集済
  職人太郎さん
若い頃、言語への不信から、言語の地獄に堕ち、何も読めなくなったとき、ヴィトゲン
シュタインを知りました。甚だ僭越ながら、自分と同じことを考える奴がいたのか、と
驚きました。人生は死ぬまでの言語ゲームにすぎない、というような・・・若い頃の考え
から何も進歩していません。


さきほど金沢から帰りました。
http://kimama-go.rdy.jp/kanazawa/nomurake.html
聲桶(こうけい)という用語、はじめて知りました。

小太郎さん
金沢で風邪をひきました。また後で書きます。
 

如意寺

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月23日(月)19時36分21秒
編集済
  今日、久しぶりに野口実氏の「了行とその周辺」(『東方学報』、京都大学人文科学研究所、2001)を読み直してみたのですが、渋くて良い論文ですね。
野口氏は先行研究として石井進氏の論文を紹介した後、「石井氏は、建長三年の謀反事件の背後に九条家があり、了行が九条堂の住僧であったことや、建長六年に至って『了行法印の造り置く京都の寺仏堂ならびに宿所等』が如意寺の営作のために寄進された事実などから、『れうきやう』を謀反事件の首謀者である了行と同一人物であると判断されたのである。」と書かれていますが、建長六年云々の出典が気になって注を見たら『吾妻鏡』建長6年6月25日条でした。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125406.html

如意寺だから、隆弁に寄進されたのと同じようなものですね。
以前、如意寺について少し調べようとした時はちょっと苦労したのですが、今はネットでも如意寺の絵図を見ることができますね。

「日本の塔婆」
http://hikaritokage.hp.infoseek.co.jp/syogo/mii_nyoiji.jpg
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/iti_miitera.htm

更に、「かげまるくん行状集記」というサイトでは、山中を踏破して、如意寺の現状を写真で紹介してくれています。
一度行ってみたいと思っていたので、実にありがたいですね。

----------
西方院の創建について詳細はわかっていないが、如意寺中興の祖隆弁(1208〜83)は弘安6年(1283)8月15日、関東の長福寺で示寂した後、遺言により如意ヶ峰の西方院に葬られ、塔を築いて供養が行なわれており(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈隆弁伝)、この頃までには建立されていたらしい。なお平安時代初期の瓦が出土していること、地勢的な点から、桧尾寺との関連を推測する説があるが、これは後述する。「如意寺幅」によると、西方院には建造物は2棟しかなく、如意寺における子院のなかでは最も規模が小さい。しかしながら、如意寺の本堂は本瓦葺入母屋造の桁行5間、梁間4間、1間向拝付で、縁に高欄がめぐる建物であり、「如意寺幅」に描かれる60近い建造物のうち、本瓦葺であるのは本堂エリアの三重塔と、西方院の本堂のみであるから、西方院の本堂が如意寺のなかでも特別な位置づけを有していたのであろう。

http://www.kagemarukun.fromc.jp/index.html
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page098.html
 

東と西

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月23日(月)19時15分46秒
  >筆綾丸さん
今回、熊谷氏の論文を丁寧に読んでみて、前半部分の水準の高さと後半の粗っぽさの落差があまりに大きいのに驚きました。
熊谷氏の見解は、「かつて黒田俊雄の提起した、いわゆる権門体制論をいまかりに援用するならば」(p93)という表現に伺われるように、単純な権門体制論ではないと主張したいようですが、その発想には京都、というか権門体制論者が陥りがちな共通な歪みがあるようですね。
批判の前に、少し丁寧に熊谷氏の見解を引用してみます。

-------------
 そこで、かつて黒田俊雄の提起した、いわゆる権門体制論をいまかりに援用するならば、「武家」六波羅をとりまくかたちで形成されたこのような枠組みについて、ひとまずつぎのように理解することができる。
 治承・寿永の内乱を経て、源頼朝の麾下に各地の武士をはじめとする種々の勢力が結集し、新たな武家権門が成立する。鎌倉幕府の首長はその勢威を基盤とすることで、一方で鎌倉を本拠とする武家権門の長である鎌倉殿として、他方で「武家」六波羅に本邸をおき東国へ下向した征夷大将軍として、公家や寺社など西国の有力権門とならび、東国にいながらにして国政へ口入する権能を獲得することになる。
 もちろん、鎌倉殿のそうした国政に対する権能は時期をくだるにつれて北条氏一門、なかでも得宗の手中に帰していくことになる。だが、反面そのような理解もまた巨視的かつ一面的すぎるだろう。鎌倉殿という貴種を奉ずることなくして得宗の地位は存立しえず、その一門や他門もまた一枚岩ではありえなかったからである。いずれにしても、当該期の国家は東西にかなり分極した、いびつな内部構造を有していたのである。
 そうしたなか、鎌倉後期までに、各権門内部の体制やそれらを連結する制度が漸次整備される。それは、とりわけ伸長著しい武家権門の機能をほぼ完全に包摂し、やや先行しつつあった実態に対応するようなかたちで進められるのである。その結果、院政期以来のいわゆる権門体制が、鎌倉期の国家形態に対応しうる制度をともなう体制として、つまりは名実ともに確立することになる。
 思うに黒田俊雄の権門体制論は、天皇を「国王」とし、諸権門が並立して相補的に支配を支える中世の国家体制を一種の雛形として提示し、それが時期によって内部構造の変形を繰り返すものと理解することで、中世国家の通時的かつ総体的な把握を企図した点に最大の意義を有する。もとより、これに対しては、たとえば佐藤進一の「朝廷側の論理でありむしろ願望である。」、あるいは上横手雅敬の「あまりに原則論的」といった批判も提出されている。しかし、黒田の構築した国家論という以前に、当該期において権門体制的な国家観が「朝廷側の論理」をこえて、実際にひとつの主要な潮流として存在していたことは否定すべくもないだろう。そして、有力権門が鼎立する権門体制論的な制度の枠組みが、鎌倉後期の政治的社会的状況に対応しながら、現にそのような国家観に対応したかたちで確立したことは注目に値する。
 そうしたなか、有力権門の間を取りもつ結節点として、もっとも実質的な職能を帯びる重要な役割を担ったのが、ほかならぬ「武家」六波羅であった。(後略)
-------------

「時期によって内部構造の変形を繰り返す」という、ずるずるべったりした感覚が京都の人には合うのですかね。
私は諸勢力間の対立が、ある時点で衝突して、全く違った局面をダイナミックに作り出して行くのが歴史の発展だと思っていて、治承・寿永の内乱や承久の乱は物理学で言う「相転移」のような現象ではないかと漠然と感じているのですが、権門体制論者の発想にはダイナミックさが全然ないですね。
私の発想は、もしかしたら「矛盾の止揚」とか「弁証法的発展」と同じなんでしょうか。
ボクって、もしかして「史的唯物論者」なのかな、と悩んでしまう今日この頃です。
 

歴史系出版社

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月23日(月)19時10分53秒
  >職人太郎さん
>新人物往来社
中経出版に買収された後、今度はその中経出版が角川に買収されてしまって、今は角川グループホールディングスの孫会社だそうですね。
出版界をとりまく環境も厳しいですね。

http://www.kadokawa-hd.co.jp/company/group.php

>吉川弘文館
『古建築修復に生きる 』ですね。
これは未読なので、早速注文してみます。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33790.html
 

歴史手帳

 投稿者:職人太郎  投稿日:2009年11月22日(日)11時10分45秒
  おお、小太郎さんも独学なんですか・・ 新人物往来社のあのシリーズは何冊か読んだことがあります。たしか先年、どこかの版元さんの傘下に入ったんですよね・・・

残念ながら、歴史書はあまり売れませんね。読者が限られているのでしょうか? 私も吉川弘文館から一冊上梓していますが、2刷止まりです(笑) ただ、律儀な会社で、毎年末には翌年用の「歴史手帳」を献呈してくれます。あれは歴史に興味がある者には大変便利です。オススメですよ。
 

いえいえ。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月21日(土)21時28分53秒
  >職人太郎さん
私は普通の会社員で、きちんとした歴史学の教育は受けておらず、30代半ばになって、突然、鎌倉時代の宮廷女性が書いた『とはずがたり』という作品に興味を持ち、独学で中世文学と中世史の勉強をしてきました。
本郷和人氏編『別冊歴史読本 歴史の争点 武士と天皇』(2005年9月)に、ほんのちょっとだけ書かせていただいたことはありますが、著書は特になく、ネットで書いているだけです。
筆綾丸さんは謎の知識人で、私は一度もお会いしたことはなく、ご経歴も知りません。
 

自己流

 投稿者:原田改め「職人太郎」  投稿日:2009年11月21日(土)17時58分34秒
  私だけが本名というのも、こっぱずかしいので、これからはHNにしますね(笑)

それにしても、小太郎さんも筆綾丸さんも博識ですねえ。ほとんど独学の私としましては、驚くことばかりです。後世に発掘できる瓦などと違い、檜皮など植物性の屋根材は腐ってしまいますから、往時の様子を知るには絵巻物や公家の日記が欠かせません。ここに「日本中世史」との接点ができるのですね。

おふたりとも大学の先生など専門家の方だと思うのですが、もし、ご著書等があればお教えください。現在、新著を執筆中ですので、私も勉強したいのです。よろしくお願いします。
 

いらっしゃいませ。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月21日(土)12時54分33秒
  >原田さん
ご投稿、ありがとうございます。
『屋根の日本史』は本当に面白くて、勉強になります。
中世では以前から『春日権現験記』に興味があったのですが、64ページの建築の場面を丁寧に見たことはありませんでした。
実に情報量が豊富な場面ですね。
また、薄檜皮の伝播については、建築史にとどまらない重要性があると思いますので、研究の進展がありましたら、是非教えてください。
 

こちらでしたかw

 投稿者:原田多加司  投稿日:2009年11月21日(土)10時52分10秒
  はじめまして。檜皮葺職人の原田です。
別の調べ物をしていましたら、「学問空間」を見つけまして、本家?はこちらだということでやってきました。拙書『屋根の日本史』等を丁寧にお読みいただいているようで、ありがとうございます。こういう反応をすぐにお送りできるのも、web2.0時代ならではでしょうね。
また、時々は遊びに寄せていただきますね。
 

『吾妻鏡』という殆ど読まれぬ書

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月20日(金)19時28分46秒
編集済
  小太郎さん
http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901073029887441
専門が日本中世史であれば、『吾妻鏡』など、ほぼ全部暗記しているのだろうな、と買い
かぶっていましたが、論文を執筆するとき、『吾妻鏡』をチェックすらしてないようで、
まことに怠慢ですね。
論文の査読とは言いませぬが、「京都の六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸であるという
刺激的な主張さえ唱えられているのである」(『平清盛 福原の夢』156頁)などという
言説は、もう論外ですね。
語弊のある言い方になりますが、これが、(どこにあるのか知れぬ学界の)現在に於ける
日本中世史研究のレベルなのでしょうか。
 

『容疑者Mの献身』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月20日(金)00時30分1秒
編集済
  『増鏡』巻七「北野の雪」の関係場面を改めて確認してみます。

---------------
 又の年、東に心よからぬこといできて、中務のみこ都へ上らせ給ふ。何となくあはたたしきやうなり。御後見はなほ時頼の朝臣なれば、例のいと心かしこうしたためなほしてければ、聞えしほどの恐ろしきことなどはなければ、宮は御子の惟康の親王に将軍をゆづりて、文永三年七月八日上らせ給ひぬ。
 御下りの折、六波羅に建てたりし檜皮屋一つあり。そこにぞはじめは渡らせ給ふ。いとしめやかに、ひきかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしうもの心細う思されけるにや、

   虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中

 院にも東の聞えをつつませ給ひて、やがては御対面もなく、いと心苦しく思ひ聞えさせ給ひけり。経任の大納言、いまだ下臈なりし程、御つかひに下されて、何事にか仰せられなどして後ぞ、苦しからぬことになりて、宮も土御門殿承明門院の御あとへいらせ給ひける。院へも常に御参りなどありて、人々も仕うまつる。御遊びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝あけに、右近の馬場のかた御覧じにおはして御心の内に、

   猶たのむ北野の雪の朝ぼらけあとなきことにうづもるる身も
---------------

ここも巻名は宗尊親王の和歌から取られていて、歌人としての自負があったであろう作者が力を込めて描いている場面ですね。
さて、『吾妻鏡』は文永3年(1266)7月20日、「戌の刻前の将軍家御入洛。左近大夫将監朝茂朝臣の六波羅亭に着御す。」で終わっていますが、ここで六波羅北方に入った人は「前将軍家」であって、将軍ではありません。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126607.html

将軍でないどころか、幕府に謀反を起した嫌疑をかけられて鎌倉を追放され、処分が定まるまでの期間、厳重な監視の下に拘禁されている容疑者M(25歳)ですね。
容疑者Mの父親G(47歳)は、同種の嫌疑で鎌倉から追放された容疑者Y(子)、同Y(親)、そしてKM(祖父)一族の運命を熟知していたので、恐怖にかられ、わが子Mを義絶しています。
このような人物を拘禁する場所が、同時に「征夷大将軍の本邸」であるということが果たしてありうるのか。
「征夷大将軍の本邸」である六波羅御所は、反逆罪の容疑者を拘禁する拘置所を兼ねているのか。
ま、それはありえないだろうと私は思います。
ついでですが、「御後見はなほ時頼の朝臣なれば」というのは面白いですね。
北条時頼は3年前に亡くなっており、時宗の時代になっているのですが、『増鏡』の作者は和歌には興味があっても、幕府の支配者にはそれほど関心がないようです。
『増鏡』だけを根拠に「南方の探題居所は板屋葺であった」と言うのは、『増鏡』だけを根拠に北条時頼が宗尊親王を鎌倉から追放した、と言うようなものですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu7-munetaka-shikkyaku.htm
 

板屋の軒のむら時雨

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月19日(木)01時15分3秒
編集済
  次に「一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。」についてですが、注を見ると、「(18)『増鏡』第七、北野の雪、ならびに巻一五、むら時雨」となっていて、熊谷氏が論文執筆時に根拠として利用できたのは『増鏡』だけのようです。
ここに限らず、熊谷氏が出典や文献の該当箇所をきちんと特定しないのは、ちょっと困りますね。
さて、「第七、北野の雪」は既に紹介した部分です。
そして、「巻一五、むら時雨」は、高橋慎一朗氏が『中世の都市と武士』で引用している部分以外に、もう一箇所、関係する部分があります。
まず、倒幕計画が発覚し、後醍醐が京都を脱出した後の持明院統側の様子を描く場面です。(井上宗雄氏『増鏡(下)』p219)

---------------
持明院殿には春宮おはしませば、思ひのほかにめでたかるべきことなれど、今日明日はいくさのまぎれにて、何の沙汰もなし。御宿直の者の、むべむべしきもなくて、離れおはしますも、あぶなき心地すればにや、せめても六波羅近くとて、六条殿へ本院・新院・春宮ひき続き移らせ給ひぬれど、日にそへて天の下騒ぎみち、恐ろしきことのみ聞ゆれば、なほこれもあやうしとて、六波羅の北に、代々の将軍の御料とて造りおける檜皮屋ひとつあるに、両院・春宮入らせ給ふ。大方はいとものしきやうなれど、よろしき時こそあれ、かばかりの際には何の儀式もなかるべし。
---------------

ついで後醍醐が捕縛されて京都に護送されてきた場面。
こちらも丁寧に引用してみます。(同p229)

---------------
十月三日都へ入らせ給ふも、思ひしにかはりて、いとすさまじげなる武士ども、衛府のすけの心地して、御輿近くうち囲みたり。鳳輦にはあらぬ網代輿のあやしきにぞ奉れる。六波羅の北なる檜皮屋には、もとより両院・春宮おはしませば、南の板屋のいとあやしきに、御しつらひなどしておはしまさするに、いとほしうかたじけなし。間近き程によろづ聞しめし御覧じ触るる事ごとにつけても、いかでか御心動かぬやうはあらん、口惜しう思し乱る。習はぬ御宿りに時雨の音さへはしたなくて、

  まだなれぬ板屋の軒のむら時雨音を聞くにもぬるる袖かな
---------------

巻十五の巻名はこの歌によるものであって、作者はかなり力を込めて描写していますね。
「板屋」は『新葉集』にも掲載されている後醍醐御製に基づくとはいえ、「南の板屋のいとあやしきに」となると、後醍醐の哀れさを強調するための文学的脚色の可能性も考えられますね。
この部分だけを根拠として「南方の探題居所」が全面的に「板屋葺であった」と言い切れるのか、檜皮葺の建物がひとつもなかったと言えるのか、若干の疑問があります。
 

「一般御家人の板屋葺」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月18日(水)01時40分34秒
編集済
  少し整理しておくと、熊谷隆之氏が「太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた」と言われているのは明らかに誤りですね。
執権亭・連署亭については、『吾妻鏡』をざっと眺めただけでも、簡単に反証が出てきます。
そして、『吾妻鏡』正嘉二年(1258)5月8日条、「尾張の前司の山荘、檜皮葺屋已下数宇を新造せらる。五月営作の例無しと雖も、将軍家入御有るべきに依ってその功を終うと。」も、時期を問題にしているだけで、尾張前司(名越時章)が檜皮葺の邸宅を建てること自体は当たり前のような書きぶりなので、北条氏一門は檜皮葺で建てることが認められていたのではないか、という感じがします。
北条氏一門以外の上層御家人、例えば足利氏あたりはどうなんだろうと思うのですが、これは保留しておきます。
少し時代が下って『とはずがたり』には、平頼綱邸の様子が「相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。」と出てきますが、これだけインテリアが豪華な建物であれば、檜皮葺だったか否かは別として、エクステリアも相当に立派だったんでしょうね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

なお、熊谷隆之氏は「一般御家人の板屋葺」と簡単に一括りしていますが、これも問題ですね。
原田多加司氏は次のように書かれています。(『屋根の日本史』p155)

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大学の建築史などの先生と話していると、「中世以前の城館の屋根は杮葺だから・・・」といった表現にときどき出会う。そのたびにオヤオヤと思う。多くの研究者にとっては、板葺、杮葺、木賊葺(厚み三-四ミリと、杮葺と栩(とち)葺の中間の板厚で、書院・持仏堂・殿舎などに使われる)、栩葺、土居葺(本瓦葺の下地として、杉や椹の割板で葺く工法)なども十把一絡げのようなのだ。たしかに、屋根の現物はとうになく、屋根仕様を詳細に記した古文献もいたって少ないから、しかたのない面もあるが、今少しわが国の木質系屋根にも関心をもってほしいものである。
 

武家住宅

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月17日(火)08時58分36秒
編集済
  >筆綾丸さん
建築史においても、鎌倉時代の武家住宅については研究が遅れているようですね。
ネットでは藤田盟児氏(東大建築学科卒)の「鎌倉の執権及び連署の本邸の沿革」「鎌倉における赤橋邸と西殿の沿革」といった論文が読めますが、檜皮葺に関する叙述は見当たらないようです。

http://ci.nii.ac.jp/search?author=FUJITA+Meiji

>ナッシュ
ラッセル・クロウ主演で映画化されましたね。
統合失調症について理解を深めたという評価もありましたが、実際に観てみたら、ちょっと違うのではないか、むしろ誤解を広めた面もあるのではないか、と思いました。
古き良き時代の大学キャンパスの雰囲気は良かったですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/A_Beautiful_Mind_(film)
 

いぬわらべ ひとごころ

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月16日(月)20時21分6秒
編集済
  http://www.nhk.or.jp/special/onair/091115.html
論理と非論理の間を往き来する内に精神に変調をきたしたのでしょう、と自己分析する
ナッシュ氏の淡々とした語り口に感動しました。ナッシュ氏の精神異常の原因がリーマン
予想だったとは、知りませんでした。
世界の最高の頭脳が、150年間、挑戦し続けても解けないリーマン予想について、絵入り
の説明がありましたが、あらためて、信じられぬほど美しい hypothesis だと思いました。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4791764870_1.html
この本を読みましたが、面白いですね。

http://www.zero-focus.jp/index.html
生誕百年記念の映画だそうですが、松本清張はクロード・レヴィ=ストロースとほぼ同じ
歳なのですね。監督は、いぬわらべ・ひとごころ、と読むのだと思ってました。原作は、
高校生のころ読んだだけなので、全く忘れていましたが、みているうちに、だんだん思い
出しました。
 

衣通姫と枕草子

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月15日(日)13時59分48秒
編集済
  小太郎さん
http://orange.zero.jp/teru.oak/makuranosousi/huru/top.html
原田多加司氏『屋根の日本史』に、『枕草子』の引用があり、また、『松崎天神縁起』の
一部の絵が載っていますが(90頁〜)、檜皮姫には伝説の美女「衣通姫」のイメージが、
襲色目のように、重層化されているのかもしれませんね。艶やかな肌の色が衣を透かして
匂い立ってくる、というような。
http://www9.ocn.ne.jp/~paru3/irome-t.htm
パリコレの最新モードのような感じもしますが、薄檜皮には、数年後に夭折する薄幸の
姫君の俤も重ねられているのかもしれませんね。


http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124710.html
秋山哲雄氏『北条氏権力と都市鎌倉』の「第一章 都市鎌倉における北条氏の邸宅と
寺院」を再読してみました。宝治元年10月18日「左親衛の寝殿傍地に曳き移さる」と
21日「左親衛の御第上棟」は何を意味するのか、どうも理解できません。「図3 小町
周辺概念図 4 宝治元年(1247)前後」(同書23頁)の「B 時頼亭」で、何が起こったのか・・・。
 

江間殿新造花亭

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)19時13分55秒
  嘉禎三年(1237)3月9日以外にない、などと書いてしまいましたが、建久四年(1193)10月1日に、「家督若公、渡御江間殿新造花亭。被献御馬御劔等〈云云〉」とありますね。
調べ方が雑でした。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/119310.html
 

薄皮葺

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)11時45分33秒
編集済
  原田多加司氏は「大学卒業後、地方銀行勤務を経て、1982年、家業の桧皮葺師・柿葺師(創業1771年(明和8年))の10代目原田真光を襲名」という方で、研究者ではありませんが、文章は明晰ですね。

http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20050118bk02.htm

『屋根の日本史』には次の記述があります(p120)。

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 ここでは技術伝播の様子が明らかになりつつある、中世の檜皮葺の例を取り上げてみたい。たしかに建築文化の発信基地としても、京都の果たしてきた役割には大きなものがあった。中世における檜皮葺は、古代に広く使われていた剥いだ皮をそのままブツ切りにして使う厚皮葺から一枚一枚を区分精選して削りそいだ薄皮葺に変わっていった。その様子は、『東大寺文書』や『東寺(教王護国寺)百合文書』の記録のなかにある「榑板くれいた)」「釘縄(くぎなわ)」「於桟(うえつくり)」などの部材の数量変化などと、各社寺の修復記録を照らし合わせると見えてくる。
 薄皮葺といっても重ねて葺かれた厚みそのものを指すのではなく、檜皮そのものが洗皮(あらいかわ)、綴皮(つづりかわ)といった皮拵(かわごしらえ)の工程を経て、薄くとも丈夫で見た目もよくなってきたことを意味するものと思われる。この時期の地方の檜皮屋根、特に東日本では相変わらず厚皮を用いており、衰えたとはいっても都を中心としたおよその「西高東低」の地方間格差と、畿内でも都を中心に同心円を描きながら広がっていったことがわかる。
 諸文献などから、薄皮葺の発祥は一二〇〇年代の前半と考えられるが、京都を中心に半径約二五キロ圏内には、同時期にいっせいに広まっている。もっとも古い東寺(一二〇四年)をはじめ、宇治上神社(一二三三年)、法界寺(一二八五年)、石清水八幡宮(一二九五年)へと続く。五〇キロ圏内では天理の永久寺(一二七〇)や、奈良の諸伽藍(一二八〇年代)は早いほうで、滋賀の御上神社などは同じ五〇キロ圏内でも、一三五〇年と推定されることから、伝播は遅い。
 これが一〇〇キロ圏ともなると、京都を中心として東西方向で伝播のスピードや到達した年代もかなり違ってくる。
(中略)
 十四世紀後半に著されたといわれる『太平記』には、「都にては、さしも気高かりし薄檜皮の屋形の、三葉四葉に作り双べて奇麗なるに・・・」とあり、『家屋雑考』や『古事類苑』などにも、同様の記述が見られることから、室町前期の京都ではすでに社寺のみならず、貴族や武家の高級住宅にも薄檜皮の屋根が普及していたようである。
---------------

「檜皮姫」という言葉は現代人にはずいぶん奇妙な感じがしますが、当時の人々には気高い女性との印象を与えたんでしょうね。
そして、京都で最新流行の薄檜皮だったら、いっそう若々しい女性にふさわしい名前と思われたのかもしれません。
 

花亭祝言

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)10時47分32秒
編集済
  私も「花亭」という言葉が不思議に思えて、国文学研究資料館の『吾妻鏡』データベースで検索してみたのですが、他には嘉禎三年(1237)3月9日に、「今夜新御所に始めて和歌御会有り。庚申を守らるるなり。題は桜花盛久、花亭祝言」とあるだけのようですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/123703.html

ただ、これは和歌の題であり、建築とは関係ありません。
単なる美称なのかもしれませんが、原田多加司氏の『屋根の日本史』(中公新書、2004)によると、13世紀初頭に京都で新しい桧皮葺の技法(薄皮葺)が生まれ、各地に伝播したとのことで、もしかしたら新様式の檜皮葺の建物が非常に新鮮な印象であったので、「花亭」にしたのかな、などと想像してしまいます。
おそらく建築史関係で論じている人がいるでしょうから、何か文献をご存知の方は教えてほしいですね。

ちなみに早歌には「花亭祝言」という曲があります。

外村南都子氏「歌謡の流れ」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-natuko-kayononagare.htm
 

空間論

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)10時11分36秒
編集済
  >筆綾丸さん
秋山氏の「都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」には次のように書かれています。(p30)

---------------
(前略)本章では便宜上、経時が泰時から譲られた若宮大路小町亭内北側を「小町北亭」、泰時の御所北方新造亭を「小町南亭」とそれぞれ記す。
このうち小町北亭には先述のように重時が入るが、その四ヵ月後の宝治元年(一二四七)十一月十四日条に

 相州新造花亭、有移徙之儀、評定所并訴訟人等着座屋・東小侍等、今度始所造加也

とあるように、重時亭は新造され、そこに評定所が初めて造られている。従来「相州」は時頼と誤解されてきたが、当時の「相州」は重時であり、評定所が新造されたのも彼の邸宅であった。評定の機能だけでなく、その建物自体もついに北条氏亭内に吸収されたと言えよう。とはいえ、幕府の機関である評定所が御所から離れて建てられたとも考えにくいので、重時亭内でも御所に近い所に新造されたと考えられる。したがって、重時は御所に近い小町南亭をも吸収し、そこに評定所を持つ邸宅を新造したと考えるのが妥当であろう。この重時亭は幕府に隣接してそこを押える役割も果たしていた。(後略)
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この論文と、これに先行する松尾剛次氏の「武家の『首都』鎌倉の成立」(石井進編『都と鄙の中世史』所収、1992)を見ると、政治史の流れと空間論が見事に結びついていますね。
なお、「従来『相州』は時頼と誤解されてきた」云々の注に、「貫前掲論文などでもこの『相州』を時頼と考え、時頼亭に評定所が造られたと誤解している」とありますが、この時期の『吾妻鏡』を素直に読む限り、重時と時頼の区別は明確ですね。
従来の研究者には、評定所が造られるとしたら執権である時頼亭以外考えられないという思い込みがあったということなのか。
後で「前掲論文」である貫達人氏「北条氏亭址考」(『金沢文庫研究紀要』八、1971)も確認してみたいと思います。

>重陽の節句
「仰せに依って諸人菊を献ず。各々一首の和歌を副える所なり。悉く幕府北面の小庭に植えらると。」ですが、これは将軍家(頼嗣)の「仰せ」なんでしょうね。
ただ、将軍といっても1238年生まれ、数えで10歳の子供ですから、実質的な判断者はもちろん別にいて、それは若年の時頼ではなく、重時なんでしょうね。
宝治合戦で荒んだ人心を、このような文化的活動で静めようという発想は、和歌の嗜みもあった重時のものだと思います。
 

菊と花亭

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月13日(金)19時09分59秒
編集済
  小太郎さん
「給」の字に惑わされて、将軍かと思いました。

「相州新造の花亭に移徙の儀有り。評定所並びに訴訟人等の着座屋・東小侍等、今度始めて造り加う所なり」(11月14日)
このことについて、森幸夫氏の『北条重時』には、次のようにあるのですね。

「重時亭内に評定所や小侍所などが置かれたのである。いうまでもないが、評定所は幕府評定衆による政務・裁判の合議裁決が行われる場であり、小侍所は将軍近習たちの詰所である。幕政運営や将軍儀礼などに関わる重要な空間が、幕府や執権時頼亭ではなく、重時亭内に設けられたのである。重時が幕府北方に位置した得宗亭を継承したことともに、この事実は、評定などの幕府政治の主宰者が、執権時頼ではなく、連署重時であったことを示しているであろう。後述する評定衆のメンバーからみても、重時がリーダーシップを発揮しなければ、幕政が円滑に運営されたとは考えにくいのである」(111頁)

御所移転計画の中止については、こうあるのですね。

「なお七月二十四日に、十月十四日から御所(幕府)移転のため営作を開始することが計画されたが、「有識の人傾き申」したため、十月十四日当日になってこの計画は中止された(『吾妻鏡』)。担当奉行の一人が安達一族の大曽根長泰であることからみて、計画推進者は執権時頼であったようである。また工事の開始日まで決定していたから、新御所の移転先もほぼ決まっていたと思われる。しかしこの計画は潰えた。その根本的理由は重時が御所移転に消極的であったからではなかろうか。
重時はすでに御所北方に邸宅を構えつつあり、御所移転に積極的に賛同する理由がない。また新御所予定地はおそらく、重時の鎌倉下着以前に決定しており、重時が元来この計画に参画していなかったと考えられるからである。重時は敬愛する兄泰時ゆかりの若宮大路御所を移転することに反対した可能性がたかい。御所移転計画の突然の中止理由は重時の協力が得られなかったからではなかろうか。とすれば重時は時頼の政策を拒否したことになる。当時の幕政の主導権は連署重時が握っており、執権時頼はナンバー・ツーの在にすぎなかったといえるだろう」(112頁〜)


http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124701.html
「越後入道勝圓の佐介亭の後山に光物飛行す」(1月30日)
頼経追放後の、佐介亭の光物というのも、なにか意味ありげですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124709.html
宝治合戦後の重陽の節句、この仰せとは花亭の相州のことでしょうか。菊の数と敗者の首の数はピタリと一致して・・・都帰りの優雅な凄味というべきなのでしょうね。
 

宝治元年(1247)の「相州」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月13日(金)06時21分34秒
  >筆綾丸さん
8月9日の「左親衛桧皮寝殿に移住せしめ給う。」は、素直に時頼が引っ越したと考えてよいのではないですか。
また、11月14日、「相州新造の花亭に移徙の儀有り」の「相州」は重時ですね。
この点は秋山氏の「都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」に説明があり、また、森幸夫氏の『北条重時』p111にも関係する記述があります。
後でまた書きます。
 

檜皮姫

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月12日(木)19時31分32秒
編集済
  小太郎さん
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124507.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%9C%E7%9A%AE%E5%A7%AB
「今夜武州の御妹(檜皮姫公と号す。年十六)将軍家の御台所として御所に参り給う」(7月26日)
この姫君の名には、どんな深い意味が秘められているのでしょうね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124708.html
「左親衛桧皮寝殿に移住せしめ給う。本御居所を以て修理を加えらるべきに依ってなり」(8月9日)
宝治合戦が片付き、御所を別の地に移すべき(7月24日)という話のあとに、この話がき
ますが、これは、左親衛(時頼)の桧皮寝殿に将軍を移す、ということなのでしょうね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124710.html
「今日左親衛の寝殿傍地に曳き移さる。大略新造の如しと」(10月18日)
御所を別の地に移すことは止めたので、左親衛の寝殿を曳き家工法で移転して御所とし
たが、まるで新築のようだった、という訳ですね。

数日後、左親衛第の上棟式が行われる。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124711.html
「相州新造の花亭に移徙の儀有り。評定所並びに訴訟人等の着座屋・東小侍等、今度始め
て造り加う所なり」(11月14日)
新造の花亭は、当然、檜皮寝殿造で、附属の建物は相州(道崇)がドスをきかして造らせ
たのでしょうね。
 

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