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若松池址

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 7日(土)23時11分8秒
編集済
  ここで高橋慎一朗氏の注記に従って竹村俊則氏の『昭和京都名所圖會 1洛東-上』(駸々堂、1980)を見ると、次のように記されています。(p135)

--------------
 若松池址は小松谷正林寺の東、渋谷通より南とつたえ、江戸中期まではなお池の一部を残していたが、今は埋没して跡形もない。現在この地を清閑寺池田町とよんでいるのは若松池によるものであろう。
 若松池とは平家一族と深い関係にあった大納言藤原邦綱が、この地に構えた山荘若松亭(東山亭)の苑池をいったもので、邸内の規模については明らかにしないが、治承四年(一一八〇)十一月二十六日、南都攻撃に当って三万余騎の平家の軍勢が、平重衡を総大将としてここに集合したというから、かなりの広さを有していたのであろう。翌五年(一一八一)二月、邦綱は病を得て年六十を以て没した。寛元二年(一二四四)鎌倉将軍頼経が辞任し、出家入道して帰洛の折、「六波羅若松殿」に入居したという若松殿とは、この邦綱の若松亭であったと思われる。その後の推移は明らかにしないが、中世は池のみが残り、野盗の出没地として人々から怖れられる地となった。
--------------

竹村俊則氏は同書奥付によれば「大正4年(1915)京都市に生まれ、学生時代から京都の史跡・伝説に関心をもち、京都の名所旧跡を探訪すること40余年、京都国立博物館に奉職するかたわら郷土史研究につとめる。」との経歴の方で、画才豊かな人ですね。

http://fukuhen.lammfromm.jp/2007/06/_100.html
 

若松殿=藤原邦綱邸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 7日(土)22時31分27秒
編集済
  >筆綾丸さん
>惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。
これはその通りですね。
熊谷説に即して考えると、一度も征夷大将軍の「本邸」に入らないまま征夷大将軍になった人ということですね。
藤原頼嗣も、久明親王の子の守邦親王も同様です。

『中世の都市と武士』(高橋慎一朗著、吉川弘文館、1996)の「第二章 『武家地』六波羅の成立」に次のような記述がありました。
(p45以下)

--------------
 頼経は、将軍を子息頼嗣に譲った後、寛元四年(一二四六)に「宮騒動」と呼ばれる幕府内紛に関与したとして京都へ送還される。『葉黄記』同年七月二十八日条は、次のように記す。

  今日寅刻、入道将軍(頼経)自関東令渡給、重時朝臣若松宅<被(彼)朝臣開放(閑居)之地也>、

 当時、北条重時は探題在任中である。「若松宅」は「六波羅若松殿」とも称されており、六波羅にあったことは確かで、重時の別荘と思われる。竹村俊則氏によれば、小松谷正林寺の東、渋谷通りの南に「若松池址」があり、藤原邦綱の若松亭の跡という。邦綱の若松亭は『源平盛衰記』に「邦綱卿山荘東山若松亭」と見え、頼朝宿所の候補となった「東山六条末別業」と同じものであろう。竹村氏は六波羅若松殿が邦綱の若松亭であったと推定している。邦綱は平氏と親密な関係にあったから、平氏滅亡後は没官され幕府の所有に帰した可能性は高い。若松殿はおそらく代々の探題の管轄するところであったろう。
 頼経の子息頼嗣も、陰謀との関与を疑われ京都へ送還される。この時頼嗣が入洛後まず入ったのが若松殿であった。また、『勘仲記』弘安五年(一二八二)八月九日条には「今日東使相触之間、当寺相副下所司於大隈庄氏(民)令出対若松之由示之」とあり、この「若松」も若松殿であろう。若松殿は東使の宿所にも利用されていたのである。
 

若松殿

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 7日(土)00時12分4秒
編集済
  >筆綾丸さん
若松殿については高橋慎一朗氏の論文に何か言及があったような気がするのですが、今は確認できません。
明日、少し調べてみたいと思います。

太田静六氏(九州大学名誉教授)は先月亡くなられましたね。
新聞で見た時、正直、まだご存命だったのかと驚いたのですが、98歳とのことなので、100歳で亡くなったレヴィ・ストロース並みのご長寿ですね。
 

六波羅若松殿

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月 6日(金)19時35分52秒
編集済
  小太郎さん
論文の前半は、六波羅に潜む塙保己一の亡霊を炙り出す手際など、なかなか良いですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124608.html
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125204.html
頼経は、鎌倉追放後の入洛時、六波羅若松殿に渡り(吾妻鏡)、頼嗣は、同様な状況下で、若松殿に入る(北条九代記)、とあるのですね。
六波羅御所と六波羅若松殿は、別の建物なのでしょうが、前者を将軍の檜皮葺の本邸とするならば、後者は前将軍の板屋葺の陋屋なのかもしれませんね。

「太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた。一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。むしろ象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核はやはり鎌倉殿の御所にあったと評価すべきだろう」(熊谷氏『六波羅探題考』89頁)

あるいは、北条氏はもっと残酷で、六波羅御所と六波羅若松殿は全く同じ建物、将軍宣下を受けて下向するときは「御所」と称し、前将軍として追放されて入洛するときは「若松殿」と称する、というようなことだったのかもしれないですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124607.html
この若松殿は、もともとは、重時の若松宅のようですが(『葉黄記』)、これは、按ずるに、諱の一字が重複するゆえ、平重盛の小松殿を乗っ取ったものにちがいなく、平家滅亡後、小松が成長して若松になった、という厭味なのかもしれませんね。
重時は、連署として鎌倉へ栄転するとき、この松の苗を持ち帰って庭に植え、極楽寺一族の繁栄を祈ったのでしょうね、きっと。
『葉黄記』にある「閑放の地」というのは、要するに、空き地ということでしょうか。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126607.html
宗尊親王は、追放後の入洛時、六波羅北方時茂の亭(館)に着御、とありますが、これは六波羅御所のことか六波羅若松殿のことか、わからないですね。前者と後者は別の建物とすれば、宗尊親王はもはや前将軍にすぎないから、本邸の御所には入れてもらえず、陋屋の若松殿に入るしかないのでしょうね。そして、関東に下向する新将軍を遠くの方から眺める、という構図になるのでしょうか。惟康君(誰の発案か知らぬが、変な諱だ)、鎌倉は魑魅魍魎の魔所だぞ、うんと気をつけてお行き、などと呟きながら。・・・と書いてきて、疑問を感じたのですが、惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。


方違えに大将軍という方位神がありますが、征夷大将軍の下向や上洛には、陰陽道の影響があるような気もしますね。
 

六波羅御所の歴史

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 6日(金)19時06分43秒
  まず、熊谷氏の説明を確認してみます。

-----------
二 六波羅探題の歴史的位置

 さらに、六波羅探題の呼称と実態をめぐる問題をこのように整理しなおすことで、鎌倉幕府機関としての六波羅やその首班である六波羅探題のみならず、鎌倉幕府自体の位置づけにもかかわる新たな論点を提示することが可能になる。
 それに際して注目されるのは、六波羅北方に立地した鎌倉殿の邸宅の存在である。建久元年(一一九〇)、源頼朝は平家一門の一大拠点であった六波羅に邸宅を建設する。(中略)
 高橋慎一朗によれば、六波羅御所は「武家の空間」である六波羅の象徴性を高めたものの、あくまでもその一部にすぎず、六波羅の中核は北条氏の私邸にあったという。事実、鎌倉殿が六波羅御所を使用するのは在京中のみであった。六波羅御所が象徴的な存在にすぎなかったとの指摘はそれ自体、正鵠をえたものであろう。
 しかしながら、逆に象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核は北方に存した六波羅御所にあったと評価することも可能なのではないかと思う。太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた。一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。むしろ象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核はやはり鎌倉殿の御所にあったと評価すべきだろう。
 そこで想起されるのが、鎌倉殿が関東へ下向する際に、六波羅御所へいったん移徙する慣例の存在である。鎌倉殿が京都から下向するに際しては、まず六波羅北方の御所に移徙したうえで関東へ下向するのが慣例であった。たとえば、承久元年(一二一九)七月、のちに四代将軍となる三寅(九条頼経)は一条亭から六波羅へ渡御し、鎌倉へ下向している。そして、建長四年(一二五二)三月、六代宗尊親王は仙洞から六波羅へ移徙して即日鎌倉へ出発しており、正応二年(一二八九)十月、八代久明親王もやはり仙洞から六波羅へ入り、その日のうちに鎌倉へむけ下向している。
 また、鎌倉殿が上洛したおりには六波羅御所が新造ないしは修造され、これを宿所とするのが慣例であった。先述のごとく、頼朝と頼経の上洛に際しては六波羅御所が新造、修造され、実際には在京中には宿所として利用されている。そして、正嘉二年(一二五八)五月に宗尊親王の上洛が計画された際にも、六波羅御所の新造が準備されている。
 それでは、上洛時の御所使用はともかく、なぜ鎌倉殿は下向時に六波羅御所への移徙をわざわざおこなう必要があったのであろうか。いずれの事例においても、摂関家や王家の邸宅から六波羅御所へ立ち寄ったうえで、即日鎌倉へむけ下向しており、きわめて儀礼的なものを感じさせる。
--------------

ここで、「つまるところ、この問題を解決する糸口は、鎌倉殿のおかれた地位にあるのではなかろうか。」という具合に、筆綾丸さんが既に引用されている部分につながります。
 

頭の体操

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 6日(金)18時24分27秒
  熊谷氏の論文には「六波羅御所は征夷大将軍の本邸である」ことを根拠づけるために多くの事例があげられているのですが、注を見ると、その事例の中に『増鏡』が多数含まれています。
しかし、実は『増鏡』には「六波羅御所は征夷大将軍の本邸でない」ことを決定的に明らかにしている箇所があります。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu7-munetaka-shikkyaku.htm
 

越後の守時盛の佐介の第

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 6日(金)09時27分17秒
編集済
  初例は頼経でした。
このときは「越後の守時盛の佐介の第」ですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124606.html

頼嗣も同じですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125203.html
 

越後入道勝圓の佐介の第

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 6日(金)08時52分19秒
  >筆綾丸さん
熊谷隆之氏の「六波羅探題考」は不思議な論文ですね。
構成を見ると、

-------------
はじめに
第一章 「六波羅探題」考
 一 史料上にみる六波羅探題
 二 研究上にみる六波羅探題
第二章 「六波羅守護」考
 一 六波羅探題の確立過程
 二 六波羅探題の歴史的位置
むすびにかえて
-------------

となっていて、第二章の一までは実に見事な論文だと思うのですが、「二 六波羅探題の歴史的位置」以降は多くの疑問を感じます。
それは後で述べるとして、六波羅北方に存在した「六波羅御所」に着目した点は面白いですね。
実は鎌倉下向時の「六波羅御所」の裏返しのような存在として、「越後入道勝圓の佐介の第」があります。
宗尊親王は鎌倉から京都に戻されるとき、いったん御所から「越後入道勝圓の佐介の第」に移されます。

吾妻鏡
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126607.html

また、惟康親王も鎌倉から京都に戻されるとき、御所から「佐介の谷といふところ」に移されることが『とはずがたり』に出てきます。

-------------
 佐介(さすけ)の谷(やつ)といふところへまづおはしまして、五日ばかりにて、京へ御上りなれば、御出での有様も見参らせたくて、その御あたり近きところに、押手(おしで)の聖天(しやうでん)と申す霊仏おはしますへ参りて、聞き参らすれば、御立ち、丑(うし)の時と時をとられたるとて、すでに立たせおはします折ふし、宵(よひ)より降る雨、ことさらその程となりては、おびたたしく風吹き添へて、物など渡るにやとおぼゆるさまなるに、時たがへじとて出(い)だし参らするに、御輿を筵(むしろ)といふものにて包みたり。あさましく目もあてられぬ御様(やう)なり。
 御輿寄せて召しぬとおぼゆれども、何かとてまた庭にかき据ゑ参らせて、ほどふれば御洟(はな)かみ給ふ。いと忍びたるものから、たびたび聞ゆるにぞ、御袖(そで)の涙もおしはかられ侍りし。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

この佐介邸をどのように考えるべきなのか。
熊谷氏にならえば、物理学の反物質ならぬ、征夷大将軍の「反本邸」というべきでしょうか。
 

仮宅

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月 5日(木)20時21分50秒
  小太郎さん
熊谷隆之氏の論文を読んでみました。

「なぜ鎌倉殿は下向時に六波羅御所への移徙をわざわざおこなう必要があったのであろうか。(中略)この問題を解決する糸口は、鎌倉殿のおかれた地位にあるのではなかろうか。思えば、鎌倉殿は朝廷の官制上、公卿もしくは親王であるとともに、征夷大将軍としての地位にある。つまり、あくまで朝廷側の秩序に照らせば、鎌倉殿はもともと京都に住する摂関家や王家出身の貴種でありながら、東国を制圧する征夷大将軍として京都から鎌倉へ一時的に下向しているというにすぎないのである。「幕府」ということば自体、出征中の幕営を意味する近衛大将や将軍の唐名に由来する呼称であることも考えあわせる必要があるだろう。
 このようにみてみると、六波羅移徙の慣例は、もともと摂関家や王家など他家に属した貴種が、征夷大将軍として武家の長たる鎌倉殿の地位につくのにあたり、まずは京都における歴代の征夷大将軍邸へ移徙し、そのうえで鎌倉へ下向する儀礼であったと解釈することができる。当該期のこうした儀礼を形式的なものとして軽視できないことについては、いまさら言を費やすまでもないだろう。
 そして、鎌倉下向時の慣例を以上のように解釈しうるとすれば、六波羅御所についてはこれまでとは異なる角度から、つぎのように理解することができる。ー六波羅御所は征夷大将軍の本邸である、と」(『史学雑誌』113編7号90頁 2004年)。

とすると、鎌倉の御所は仮宅という訳ですね。
滅多に本宅に帰らない放蕩者というか、江戸吉原の仮宅営業などを思い出します。

「元弘三年(一三三三)五月の足利高氏らによる六波羅の滅亡は、鎌倉幕府の出先機関を、まずは手はじめに陥落させたというほどに、生半な事態ではなかったのである」(同書94頁)

鎌倉の陥落は仮宅を壊されただけ、とは言わないけれども、新田義貞の手柄が、ボンヤリしてしまいますね。
 

「六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 5日(木)01時40分38秒
編集済
  筆綾丸さんが引用された文章に、「しかも、近年の研究で、鎌倉には一部を除いて御家人は常住しておらず、軍事力はプールされていないとか、京都の六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸であるという刺激的な主張さえ唱えられているのである」とありますが、ここで高橋氏の注記に書かれた論文タイトルを見ると、前半が秋山哲雄氏の「都市鎌倉の東国御家人」(『ヒストリア』195号、2005年)、後半は熊谷隆之氏「六波羅探題考」(『史学雑誌』113編7号、2004年)ですね。
この箇所に関して、上横手氏は、「秋山哲雄・熊谷隆之氏の説を引いているが、それがいかなる意味で著者の主張を助けるのかも十分に理解できない」とされていますが、高橋氏の回答はありません。
で、実際に秋山哲雄氏の論文を読んで、それがいかなる意味で著者の主張を助けるのかを考えてみると、まあ、いかなる意味でも著者の主張を助けないのだろうなと思います。
ついで、熊谷隆之氏の論文を読んでみると、確かに「京都の六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸であるという刺激的な主張」がなされているんですね。
私は昔読んでいたので、それほど驚きはしなかったのですが、それでも、権門体制論を極めるとこのような境地にまで到達できるのだなあ、という感慨に耽ることはできました。
そして、こちらは多少は著者の主張を助けることになりそうなので、時間があれば後で紹介してみたいと思います。
 

幕府の水浸し

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 5日(木)00時10分39秒
編集済
  >筆綾丸さん
通常の歴史用語としては、幕府は鎌倉・室町・江戸の三つだけで、織田幕府・豊臣幕府などとは言いませんから、要するに幕府とは「征夷大将軍を首長とする武家政権」程度の概念なんでしょうね。
そしてこれが形式的な概念であって、実質的にはそれぞれの幕府ごとにかなり違いがあることは、通常の知性がある人ならば誰でも理解しているはずです。
それを高橋氏のように実質的な概念とすると、六波羅幕府に加えて奥州藤原氏幕府(平泉幕府)も確かにオッケーなのでしょう。
また、先にリンク先としたペンネーム、Wallerstein氏のブログによれば、

-------------
私自身、むかし高麗の武人政権と鎌倉幕府の「差分」について考えたことがあったし、室町幕府のもとでの関東公方権力も一種の「鎌倉幕府」と言い得るだろうと思っているし、さらには懐良親王の「征西将軍府」もいわば「九州幕府」と呼称して差し支えないだろうと考えている。私自身は「六波羅幕府」という提起に魅力を感じている。

http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20090719/1247998197


とのことなので、関東公方幕府や征西将軍幕府ないし九州幕府の成立可能性も濃厚です。
更に、「江戸幕府を幕府と呼ぶのなら織豊政権を幕府と称してどこがおかしい」という論理も成り立ちそうですから、織田幕府や豊臣幕府もよさそうです。
形式論を徹底して、天皇から認められている軍政機構は幕府なのだ、となると、昭和天皇と並んで写真を撮ったマッカーサー将軍を首長とする連合国軍総司令部も幕府の範疇に入るかもしれません。
しかし、「皇帝や王から軍事の大権を委ねられ、官衙を開き一般行政にも参与、自ら幕僚をリクルートするなどを共通項とする歴史的実体」という具合に幕府概念を実質化すると、逆に江戸幕府は幕府なのか、という疑問も生じるはずです。
即ち、江戸幕府となれば、現実の力関係としては幕府の方が天皇より圧倒的に強く、天皇から「軍事の大権を委ねられ」るといっても本当に形式だけだから、江戸幕府は真の意味での幕府から排除すべきだ、という議論も成り立ち得ると思います。
つまり、概念を実質化することによって、対象の拡大も起こり得るし、縮小も起こり得ますね。
概念の柔軟化というと肯定的な語感がありますが、概念のズルズル・ダラダラ化、ベッタリ・マッタリ化、ヌルヌル・ベチョベチョ化でもある訳で、そんなくだらない概念遊びをやるくらいだったら、めんどくさいから全部「政権」にして、実質的な相違だけを分析する方がよっぽど学問的には実りがありそうです。
 

平泉幕府?

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月 4日(水)19時32分31秒
  小太郎さん
「両者の形態上の最大の違いは、軍事権門としての平家の本拠は、形式・実質ともに六波羅で、福原は最高実力者が退隠しているとしても、あくまでヒンターランドに過ぎず、そこには鎌倉のような、しかるべき政庁も行政吏僚集団も見あたらない。しかし、それは鎌倉幕府が、平治の乱の敗者が流刑地で反乱軍を立ち上げ、やがてそのまま東国を実効支配し、支配領域として王朝に追認させたという、内乱期の特殊な政治過程に起因する点が大きいことを忘れてはならない。しかも、近年の研究で、鎌倉には一部を除いて御家人は常住しておらず、軍事力はプールされていないとか、京都の六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸であるという刺激的な主張さえ唱えられているのである。鎌倉幕府論自体が、旧来の枠をつき破って新たな展開を見せつつある現在、平家から源氏への幕府の連続と断絶を、とらわれない眼で追求してゆく姿勢が肝要であろう。本書では鎌倉幕府に歴史的に先行する六波羅幕府の存在という問題提起にとどめ、より詳しい展開については他日を期したい」(2007年11月発行『平清盛 福原の夢』156頁)

「清盛の福原居住が、京都不在のマイナスを差し引いても、平家の威信や自立を保持するのに、有効な方法だった事実は疑えない。筆者はこの六波羅の二拠点で構成された平家の権力を六波羅幕府と呼んでいる。鎌倉幕府に先行する史上初の武家政権である。詳しくは拙著『平清盛 福原の夢』をご参照いただければ幸いである」(2009年10月発行『平家の群像 物語から史実へ』16頁)

「より詳しい展開については他日を期したい」(2007年11月)、「詳しくは拙著『平清盛 福原の夢』をご参照いただければ幸いである」(2009年10月)とあるので、著者にとって、六波羅幕府の問題はすでに終わり、円環を閉じているような印象を受けますが、六波羅幕府とは何なのか、わからぬままです。

「この意味用法に照らせば、奥六郡の支配権と陸奥・出羽押領使としての軍事・警察権を有していた院政期の奥州藤原氏も、立派に一箇の幕府といえる」
平泉幕府でしょうか・・・これも、なんだか、凄いですね。

上横手氏の再反論は、もう期待できないでしょうね。
 

「幕府」概念の柔軟化

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 3日(火)17時42分33秒
編集済
  上横手氏の書評(『日本史研究』556号、2008年12月号)と、それに対する高橋氏の反論、「六波羅幕府という提起は不当か−上横手雅敬氏の拙著評に応える−」(『日本史研究』563号、2009年7月号)を読んでみました。
『平清盛 福原の夢』には、私が10月29日の投稿で引用した部分に続いて、次のような記述があります。(p155)

--------------
 そもそも、もとをたどれば王権を守護するというのは衛府の任務であった。そして、平安期に幕府といえば近衛府の唐名で、転じて近衛大将の居館、または、左右の大将その人を指していた。「近衛大将は、■(こん、宮中の門)を分かつの重任、席を絶つの崇班(高位)なり、帷帳に籌(戦略)無くして、何ぞ枕を幕府に高かうせんや」などといわれた。重盛は承安四(一一七四)年七月以来右近衛大将であり、三年後には重盛・宗盛の兄弟が左右の大将を占める。前代までの幕府は容儀にすぐれた高位の宮廷貴族の地位の形容で、平家のそれは全国の精悍な武士を率いる軍事貴族の権力という内容上の大きな違いがあるとはいえ、前者を幕府と呼ぶのなら後者を幕府と称してどこがおかしい。
 また中国では、天子を補佐する者や天子の委任を受けた者が、府を開き自らスタッフをリクルートした。野戦軍司令官の場合は府を帷幕で設営するので、幕府という。そこから転じて一般官署の意味にも用いられる。そのような幕府は、近代以前の中国には、全土に数多く存在した。この意味用法に照らせば、奥六郡の支配権と陸奥・出羽押領使としての軍事・警察権を有していた院政期の奥州藤原氏も、立派に一箇の幕府といえる。
--------------

これを見て、上横手氏は、

--------------
 現在「鎌倉幕府」「室町幕府」などと呼ばれているものと、「幕府」という言葉の本来の意味とは当然別個のものである。かつて鎌倉幕府の成立時期が議論されたとき、「幕府」とは近衛府であるとし、頼朝が右近衛大将に任じられた建久元年(一一九〇)を鎌倉幕府の成立とする説があったが、この説は「幕府」という言葉の語義に基づくものであり、政権としての幕府の性格を顧慮していないとして、今日では退けられている。従ってこの議論は、もう済んでいると思っていたが、いまさらこれが持ち出されたのには驚いた。
--------------

と書かれています。
これに対し、高橋氏は、自分は「古色蒼然の説を蒸し返したいわけではない」とし、著書で「天子を補佐する者や天子の委任を受けた者が、府を開き自らスタッフをリクルートした。(中略)そこから転じて一般官署の意味にも用いられる」と指摘した部分が「肝心」で、「拙著で詳しくは述べなかったため注意を惹かなかったらしい。少し補足しておきたい。幕府という語を考えるにあたっては、・・・・」とのことで、中国・朝鮮の事例を多数引用した上で、次のように書かれています。

--------------
 以上中国、高麗における幕府をざっと見てきた。それらは皇帝や王から軍事の大権を委ねられ、官衙を開き一般行政にも参与、自ら幕僚をリクルートするなどを共通項とする歴史的実体である。一方存在形態は多様で、教定都監のように既成の国家権力に吸着し王朝の一部分であるケース、節度使のような独立性の強い地方政権であるケース、さらに中央集権が強力な場合は、隋・唐期の州県や宋朝の地方行政機関として生き残るなどさまざまな形をとったことがわかる。
 これまでの日本史学では、如上の一般官庁としての幕府の存在には、注意が払われてこなかった。これら東アジアの各時代に登場する多様な幕府の存在に注目すれば、日本の幕府概念はもっと柔軟であってよいし、それらの研究と対話ができる形で論じ直されねばならないだろう。特殊日本史の歴史区分と深く関連して構築された鎌倉幕府の概念を前提にするのは、伝統的とはいえ一国史の視野にとらわれた考えであり、今後克服されねばならない点である。
 上横手氏の批判内容に即していえば、独立性の強い地域政権である点のみを強調し、それを幕府であるか無いかの実質的な判定基準にするなら、汎東アジア的な意味で、平家政権を幕府と位置づけうる途があるのに、そこから眼をそむける結果になる。平家研究に大きな成果をあげてきた先達に生意気な口をきくようであるが、この点が大いに不満である。
--------------

よく分からないのは高麗の「教定都監」についての説明で、朝鮮の史料には「幕府」という語は全然出てこなくて、「この教定都監は、韓国歴史学会の多数意見によれば『幕府的』なものである」のだそうです。
「韓国歴史学会の多数意見」を誰がどう判断したのかも不思議ですが、「韓国歴史学会の多数」の人たちが「幕府的」なものであると判断したから「教定都監」は幕府なのだ、というのは論理が渦を巻いていて訳が分かりません。
また、「一般官庁としての幕府」も分かりにくい表現です。
「一般官庁」と聞けばごく普通の軍事的色彩のない行政機関を連想しますが、高橋氏によれば軍事の要素は必要らしく、「帝や王から軍事の大権を委ねられ、官衙を開き一般行政にも参与、自ら幕僚をリクルートするなどを共通項とする歴史的実体」だそうです。
しかし、「自ら幕僚をリクルート」することが特別重要とも思えず、要するに「軍」と「行政」の両要素があればよいようにも思えます。
更に、仮に「幕府」という同じ語を用いていても(朝鮮の場合は同じ語すら用いていないそうですが)、その存在形態が「汎東アジア的」に多種多様なら、日本史で「幕府」概念を柔軟化することに、いったいどのような学問的意義があるのかが分かりません。
「汎東アジア的な意味で、平家政権を幕府と位置づけ」た結果、どのような学問的効用が生まれるのか。
ま、私は、幕府概念を柔軟化したからといって「一国史の視野にとらわれた考え」の克服には結びつかないと思います。
 

ドイッチャーの文体

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 1日(日)15時15分59秒
  参考までに『スターリン―政治的伝記』(上原和夫訳、みすず書房、1984)からドイッチャーの第二版「まえがき」を引用しておきます。
翻訳ではありますが、ドイッチャーの文体の雰囲気は感じ取れると思います。
なお、初版の翻訳は同じ上原和夫氏訳で、みすず書房から1963年に出ていますが、実は山路健という人の翻訳が先行していて、こちらは1952・53年に「文芸春秋新社」から上下二巻本で出てますね。

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第二版(増訂版)まえがき

 この「スターリン」第二版は、「スターリン」が書かれてから、ほぼ二〇年後に刊行される。一九四八年夏、筆者が「スターリン」を書き上げていたときには、スターリンは依然、彼の権力の最頂点にあって、全世界を通じて称賛され、畏怖され、また彼自身の国では、目まぐるしい“崇拝”に取り囲まれていた。当時の世界は今とは、大いに異なってみえた。ソ連邦は、まだ核保有国ではなかった。中国革命の勝利にはまだ、若干の距離があった。チトーとスターリンの決裂は、新聞紙上で見出しとなりはじめたばかりであった。筆者は「スターリン」の最後のページで、スターリンの経歴を評価するとき、次の言葉を前書きとした。
 「ここで筆者は、スターリンの生涯と活動についての叙述に筆をおく。この叙述から最終的結論を引き出すことができるとか、またはこれを元として、人間としてのスターリン、彼の業績と失敗に自信ある判断を下すことができるとかいう幻想は抱いていない。多くの浮沈を経てきた彼のドラマは、いまやその最高の頂を登りつめているだけのようにみえる。だが彼の最後の行動が、それまでの彼の行動をどんな新しい視野に置き換えるかは不明である。」
 いま筆者が、この本の新しい一章「追記─スターリンの晩年」のなかで述べるのは、この“最後の行動”についてである。一九四八年後、筆者の主人公のドラマは、最終的な頂点を迎え、それに続くスターリン崇拝の崩壊をもたらした。筆者がスターリンの役割を評価するまえに行った断り書きは、現在では恐らく、やや慎重にすぎたと思われよう。晩年におけるスターリンの活動と行状は、彼のそれまでの記録を新しい視野に置き換えるどころではなかった。それはただ、私が「スターリン」の結論的箇所で、いわゆる非スターリン化を予測しながら素描した視野に、より鋭い輪郭を与えたにすぎなかった。
 一九五六年の第二〇回党大会において、またはそれ以後、フルシチョフ、ミコヤンその他が行った“暴露的発表”に照らし合わせて、筆者が自己の見解を訂正すべき理由があると考えているかどうかについて、質問を受けることが、しばしばである。だがフルシチョフらの発言は、スターリンの権力掌握、レーニンその他のボリシェヴィキ指導者との彼の関係、両大戦間の時期のおける彼の政策、彼の指導下で行われた大粛正、第二次世界大戦およびその余波の残存する時期における彼の役割について、筆者がこの本のなかで記述したことに、なに一つ重要なことを付け加えなかった。スターリンの生涯における、すべてこれらの決定的段階について、筆者の伝記は、現在のソ連の読者が入手できる情報と比べてみても、はるかにそれを上回る多くの情報を取り入れている。序でながらいえば、筆者の「スターリン」は、ソ連、中国その他東欧諸国で、依然、禁書とされている。
(後略)

一九六六年一〇月一一日      I・D
 

アイザック・ドイッチャー

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 1日(日)00時39分5秒
編集済
  調べてみたところ、Isaac Deutscherの『Stalin: a Political Biography』の初版が出たのは1949年で、高橋昌明氏の記すところと12年のズレがありますね。
普通なら単なる勘違いですむでしょうが、この本の場合、若干特殊な事情があります。
というのは、ドイッチャーがこの本を出したのはスターリンが最高度に神格化されていた時代で、もちろん1953年のスターリン死去、1956年のフルシチョフによるスターリン批判の前の時期です。
そういう時期にドイッチャーがスターリンに関する事実を詳細に明らかにし、かつ冷静に分析したこの本を出したので、一方で大変な反響を呼び、他方で特定の政治的立場に立つ人からはもちろん、ソ連にシンパシーを感じていたマスコミ・世論一般からも大変な反発を買った訳です。
そして、スターリン批判を経て、この本の価値が真に理解されるようになった、という事情があります。
ドイッチャーを尊敬しているはずの高橋昌明氏は、「原著初版の出版は一九六一年」と記すことによって、ドイッチャーに関する基礎的知識を持たないことを明らかにしているんですね。

参考までにウィキペディアの記述を引用しておきます。
ただ、ドイッチャーは評価が難しいところもあるので、これもあくまでひとつの見方ですね。

Deutscher published his first major work, Stalin, A Political Biography in 1949. This controversial work is more polemical than academic. Deutscher was still a committed Trotskyist, but in the book Deutscher gave Stalin what he saw as his due for building a form of socialism in the Soviet Union, even if it was, in Deutscher's view, a perversion of the vision of Marx, Lenin and Trotsky.The Stalin biography made Deutscher a leading authority on Soviet affairs and the Russian Revolution.

http://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_Deutscher
 

ヘンリー六世

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 1日(日)00時08分5秒
  今日は夕方以降、急に時間が空いたので、ふと思い立って新国立劇場でやっている『ヘンリー六世』の第3部を見てきました。
当日券がなければ近くを散歩して帰ろうと思って電話もせずに行ったら、あっさり席が取れてしまい、逆に驚きました。
作品はというと、浦井健治(ヘンリー六世)はとぼけた味わいがあり、 中嶋朋子( マーガレット)や岡本健一(リチャード)等は熱演していましたが、美術や衣装が私の趣味には合わず、全体的に物足りない感じが残りました。
第1部から通してみた人は合計9時間なので、『コースと・オブ・ユートピア』並みのカーテン・コールがあるのかなと思っていましたが、あっさり2回だけでした。

http://www.atre.jp/henry/index.html

私が見たのは3部だけなので、通してみれば違った印象を受けたのかもしれません。
参考までに高野しのぶ氏のレビューをリンクしておきます。

http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2009/1028003311.html
 

「知的惰性」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月31日(土)09時20分18秒
編集済
  >筆綾丸さん
司馬遼太郎の『花神』も唐突でしたが、「あとがき」のアイザック・ドイッチャーへの言及も奇妙な感じがしました。
高橋昌明氏は「あとがき」で次のように書かれています。

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 『以前』を書いたから、清盛を出すのは自然な延長と思われるかもしれないけれど、少し大げさにいえば、私にはアイザック・ドイッチャーが『スターリン─政治的伝記』(上原和夫訳、みすず書房、一九八四年。原著初版の出版は一九六一年)を書いたような決意と力量に欠けている、という自覚があった。
 よく知られているように、ドイッチャーは、「スターリンの手で無残に打ち破られた人々の一人」であり、反スターリニズムの著名な研究者・著述家である。彼は同書の序論で「この本を知的惰性から書かない」と宣言する。いわんとすることは、党派的感情を交えず、以前の仕事にも安住せず、スターリン勝利の不可避性の原因・結果を冷徹・清新に究明し、しかも非スターリン化に向けての闘いも不可避であることを明らかにする点にある。その巌のような信念が、党組織と同一化した、個人的な彩りに乏しい、たぐい希な政治的人間像を、深く印象的に描き出すことに成功したのである。
 私はドイッチャーほどには、対象への感情を抑制することができない予感があり、なにより父忠盛クラスならともかく、歴史と王家への果敢な挑戦者であり、時代を創造的に切り開いた政治的巨人の像をとらえる視覚と方法、いや叙述の具体的材料さえ当時はほとんど手許にもっていなかった。が、何時ものことだが、なんとかなるという根拠のない楽観、矛盾するようだがドイッチャーのように自らを厳しく追い詰めてみたいというモノ書きに憧れる気分、それで日ならずして、鷲尾さんに承諾の手紙を書いた。

※『以前』は『清盛以前-伊勢平氏の興隆-』(平凡社選書、1984)、「鷲尾さん」は「講談社の学術局長だった鷲尾賢也氏」。
-------------

高橋氏には「ドイッチャーほどには、対象への感情を抑制することができない予感」があったそうですが、実際に『平清盛 福原の夢』を通読してみると、対象への感情を抑制できないどころか、対象への感情を抑制しなければならない、という姿勢も感じられないですね。
ドイッチャーを目指して、なぜこんな本ができるのか。
それと、細かいことですが、『スターリン─政治的伝記』の「原著初版の出版は一九六一年」とあります。
しかし、これでは1956年のスターリン批判の後になってしまいますね。
 

花神

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年10月30日(金)22時48分32秒
  小太郎さん
「頼朝は娘大姫の入内などのブレもあったが、結果としては、すでに述べたように清盛の跳躍ー挫折から教訓を引き出し、最終的には平家によってひな型が提示されていた手法を、より厳格、より本格的に追求する慎重路線を選択した。それからすると新王朝と新都建設に猛進した清盛は、やはり「人のありさま、伝うけ給るこそ、心も詞もおよばれね」(『平家物語』巻一祗園精舎)と評されるべき人物だった。司馬遼太郎の『花神』での喩えを借りれば、清盛は革命の思想家、頼朝はそれを引き継ぐ戦略家である。著作を持たない清盛を思想家というのは奇異かもしれないが、少なくともその発想のレベルからいえば間違いなく思想家の資質といえる。北条義時は革命を完成させる最後世代、実務家にあたるのであろうか」(同書260頁〜)

『花神』の内容はあらかた忘れましたが、司馬遼太郎の考え方は、たしか、吉田松陰は思想家、高杉晋作は革命家、大村益次郎(村田蔵六)は実務家なので、高橋氏の比喩を強引に敷衍すると、平清盛≒吉田松陰、源頼朝≒高杉晋作、北条義時≒大村益次郎(村田蔵六)というようなことになるのでしょうね、きっと。長州嫌いの私には(笑)、よくわからぬアナロジーです。のみならず、ここで、なぜ、だしぬけに、司馬遼太郎『花神』が出てくるのか、よくわかりません。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0910/sin_k497.html
艶福家の重衡は、平家の花神(花咲爺)にはなれなかったが、花神(牡丹)になった、というわけですね。

「この後、語り本系『平家物語』では、建久二(一一九一)年、女院が寂光院阿弥陀三尊の中尊の手に五色の糸を結び、往生への仏の迎えを願いながら没したとする。しかし事実は女院は姉妹のつてで京に戻り、法勝寺あたりや東山の鷲尾に移住し、貞応二(一二二三)年に亡くなったらしい。大原の寂光院に隣接する大原西陵は女院の陵墓だが、彼女はここで死んだわけではなかった。
大原の地は、彼女のメタモルフォーゼのために用意された、つかの間の宿りにすぎない」(201頁)

『平家の群像』は、以上のような文で終わりますが、建礼門院のメタモルフォーゼとは何なのか、意味がわかりません。

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/joso.htm
 大原や 蝶の出て舞ふ 朧月
 

「頼朝の幕府の画期性を信じて疑わない人々」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月29日(木)19時16分33秒
編集済
  >筆綾丸さん
私も一時期、高橋氏の『武士の成立 武士像の創出』等の著作を熱心に読み、権門体制論についてもある程度調べてみたつもりなのですが、結局のところ、建前論には従えない、というのが今の気持ちです。
154ページで筆綾丸さんが引用された部分の続きは、

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鎌倉幕府は万能の中央政権ではなく、京都ではいぜん朝廷が活動し、すくなくとも鎌倉前期には、そこで王朝貴族集団により日本国全体にかかわる政治が行われており、また国家を支える宗教・イデオロギー部門は、主に京都・奈良の諸権門寺院が握っていた。王権は鎌倉将軍家にはなく、京都の王家が、院・天皇の分業関係を維持しながら、これを掌握行使していた。現実には京・鎌倉間にはさまざまな疎隔、矛盾・対立があり、しかも両者の力関係は年を逐って鎌倉に有利に傾いていったが、それにもかかわらず幕府の本質・役割は、中世国家の一翼、その軍事・警察担当部門として日本国の平穏を実現するところにあり、それを象徴的に示すのが京都大番──天皇の住まいする閑院内裏の周辺に、諸国の御家人たちを交替で勤番させ、天皇を守護する姿勢を顕示する──であった。その意味では、平家はすでに見たように後白河院政のもとで、間違いなくその任にあたっていたのである。
----------

となっていますが、「両者の力関係は年を逐って鎌倉に有利に傾いていった」というのは変で、鎌倉幕府と朝廷の力関係はズルズル・ダラダラと変化して行ったのではなく、承久の乱で幕府が朝廷を圧倒したことにより劇的に変容したのは明らかです。
清盛の時代と頼朝の時代も、京都周辺のちんまりした戦闘で勝利しただけの清盛と、全国レベルの数年にわたる動乱を実力で収束させた頼朝の存在感は全く異なり、武家と朝廷との力関係において著しい差があることは明らかだと思います。
私は高橋氏の所謂「頼朝の幕府の画期性を信じて疑わない人々」(p155)の一員であり、更に承久の乱の画期性を信じて疑わない人々の一員なので、権門体制論者特有のズルズル・ダラダラ・ベッタリ・マッタリ感に満ちた「六波羅幕府」には抵抗感がありますね。
「六波羅幕府」論は形式論理としての一貫性はあるので、上横手雅敬氏との京都周辺での局地戦には勝利できるのかもしれませんが、全国制覇する可能性は「六波羅団地」という素晴らしいネーミングが広く定着する可能性と同程度なんじゃないですかね。
 

六波羅幕府

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年10月28日(水)19時16分54秒
編集済
  小太郎さん
六波羅団地とは物凄いセンスですね。
六波羅団地に軍事貴族が住むというから、この団地の周囲に蝶の紋のある鯨幕を張れば、六波羅幕府になるのでしょうね、きっと。

「六波羅には中世国家の軍事警察部門の担い手としての重盛以下が陣取り、閑院内裏の大番に駆り出された諸国の平家御家人たちもそこに蝟集していた。そして、一門の公卿・殿上人は多数の知行国、荘園の領有で富を蓄積し、親平家の公卿たちに平家の意向を国家国政に反映させる。一方、明石入道ならぬ一門の司令塔は、後方の福原にあって摂津・播磨にまたがる広大な領域を押さえている。こうした京都(六波羅・西八条)と福原の二拠点に半独立的に構築された、院権力を相対化しうる権門勢力を、六波羅幕府と名づけたい。
 日本人の常識では、幕府といえば鎌倉幕府以降の武家権力しかない。そして鎌倉幕府の成立は武家中心の新時代の開始と同義語、と見なされている。たしかに源平の内乱(治承・寿永の内乱)と鎌倉幕府の成立は、院政期にはじまる初期中世社会を、より本格的な中世に向かって前進成熟させてゆく大きな契機だった。そのことの意義は疑いもなく大きいが、しかし国家論的にいえば、幕府は朝廷に取って代わった新国家ではなく、国家の軍事警察部門を担当する権門、単一の中世国家を構成する一重要機関(プラス東国にたいする広範な行政権限を掌握した地方政権)にとどまる。そうした理解(権門体制論)が現在の学界では有力である」(『平清盛 福原の夢』153頁〜)

「流通したのは日本政府が鋳造した銅貨ではなく」(同書108頁)とありますが、ここに出てくる日本政府とは、一体、何なのでしょうね。引用文中の六波羅幕府や鎌倉幕府(さらには朝廷や地方政権)と、どのような位相にあるのか、まるでわからない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E7%9A%84%E8%AA%9E
「一門の公卿・殿上人は・・・親平家の公卿たちに平家の意向を国家国政に反映させる」
いわゆる間接目的語が二個もあって、よく理解できない文ですが、編集者は、もう校閲なんかしてやんない・・・のでしょうね。
文中の「プラス東国」は、固有名詞のようで、冷戦下の東欧に、そんな国があったかな、と錯覚させるものがありますね。

「前代までの幕府は容儀にすぐれた高位の宮廷貴族の地位の形容で、平家のそれは全国の精悍な武士を率いる軍事貴族の権力という内容上の大きな違いがあるとはいえ、前者を幕府と呼ぶのなら後者を幕府と称してどこがおかしい」(同書155頁)
この文も、どこかおかしい、ですね。
 

解答と解説

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月28日(水)12時16分41秒
  用語で若干難しいのは(7)コンパウンド(compound)ですが、これは掩蔽された区画のことです。
イラク関連のニュースなどでは、「(壁に区切られて厳重に警備された)コンパウンド内に迫撃砲弾が打ち込まれた」、などという表現をしていますね。
さて、通常の言語感覚を有している人ならば、まず、「団地」と「遊園地」は冗談でしょ、と除外して、他から選ぶと思います。
「一大軍事集落」ですから「城」「要塞」も不自然ではなく、他の表現も問題ないと思いますが、正解は実に、

(4)団地

です。
決して冗談ではありません。
高橋昌明氏は玄妙な言語感覚の持ち主で、時々変てこな言葉が出てくるために、文章が読みづらいところがありますね。
私は東京駅地下街の喫茶店でモーニング・セットを食べながら『平家物語 福原の夢』を読んでいたとき、この「六波羅団地」に出会い、思わずコーヒーを噴き出しそうになり、はずみでゆで卵も落とすところでした。

六波羅団地・・・。
ロクハラ ダンチ・・・。
神曲はダンテ、南ちゃんはタッチ、そして六波羅はダンチ・・・。
うーむ。
「セクハラ団地」の方が、まだましな日本語のような感じがします。
ま、六波羅団地は学問的にはどうでもよいことですが、「六波羅幕府」はなかなか難しい問題ですね。
上横手雅敬氏の批判と、その批判への高橋氏の反論はまだ読んでいないので、後で確認してみるつもりです。

参考:「鎌倉幕府」を「幕府」たらしめる「差分」について
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20090719/1247998197
 

空欄補充問題

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月28日(水)00時46分11秒
  【設問】 次の文章の空欄にあてはまる最も適切な用語を選択肢の中から択びなさい。

 清盛倒れるの報で、人びとが清盛邸に詰めかけたから、遅まきながら六波羅についても紹介しておく。六波羅館は東山の西麓、後白河の法住寺殿の北方にある。時間順序からいえば六波羅館の建設が先行するから、その存在を意識して法住寺殿が造られた可能性がある。
 最盛期の六波羅館は、北は六波羅蜜寺のある五条末、つまり平安京五条(現松原通)を東に延長したライン、南は同六条延長のラインで、その間南北四町約五〇〇メートルに及び、東西は鴨川東岸約一〇〇メートルの地点から東に六〇〇メートル以上、積算して面積で「廿余町」、そして周囲は外塀によって囲まれていたらしい。この空間には一族親類から郎従眷属の家々が密集して建ち、精細に数えれば「屋数三千二百余宇」に達した(延慶本『平家物語』第三末平家都落ル事)。大番役勤仕の平家御家人中にもここに宿所を求めるものがあったに違いない。筆者はこの一大軍事集落を、六波羅〔   〕と呼んでいる。

【出典】高橋昌明『平家物語 福原の夢』(講談社選書メチエ、2007、P72)

【選択肢】
 (1)城
 (2)要塞
 (3)集落
 (4)団地
 (5)遊園地
 (6)エリア
 (7)コンパウンド
 

『記憶の中の源氏物語』 (その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月26日(月)23時42分53秒
編集済
  三田村雅子氏の名前で検索すると、地味な国文学の世界の人でありながら、熱烈なファンが大勢いるようですね。
こんなブログもありました。

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三田村先生のあの滔々と情熱が迸る源氏の講義を聴いていると、紫式部が三田村先生に姿を変えて甦って、自分の言葉を現代人にメッセージしているような響きを感じる。三田村先生自身が紫式部を自分に乗り移らせて、紫式部に代わって作品の神髄と真実を代弁しているように聞こえる。現代の人文科学の方法の上に立つ研究者の三田村雅子と古代の物語作者である紫式部の二人が、同じ人間が二つの人格に交互にスイッチバックして立ち現れているような、そういう錯覚をおぼえてしまう。

http://critic3.exblog.jp/7580845/

ほとんど神秘的な宗教体験ですが、三田村氏の、あの熱い語り口に魅力を感じる人は多いんでしょうね。
ま、私は細々と「女王様は何かに取り憑かれていらっしゃいます」とつぶやいていたいと思います。
三田村氏が歴史の中にやたらと渦巻きを発見されるのは、ご自身が何か変な渦巻きの中に巻き込まれていらっしゃるからではないかと私は愚考します。
そして、そういう不健康な渦に人を巻き込むのは良いことではないですね。
 

『蜷川家のお総菜』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月26日(月)23時29分43秒
  高橋昌明氏の『平清盛 福原の夢』を途中まで読んでみたところ、次のような記述がありました。

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平家の時代以降、一番の輸入品は唐・宋の銅銭だった。最初は銅の地金がめあてだったのかも知れないが、すぐに交換手段として使用されるようになる。よく知られているように、日本の古代国家は皇朝十二銭と呼ばれる各種銅銭を発行したが、やがて使用は途絶えた。一二世紀中期、再びその使用が始まるが、流通したのは日本政府が鋳造した銅貨ではなく、現に中国で使用されている銭、ことに北宋銭だった。つまり日本は、交換手段を自前で用意するのではなく、中国に頼ったのである。中世日本は、その後も中国銭を求め続ける。それは、二〇世紀第三四半期の世界が、アメリカの圧倒的な経済力を背景に、貿易や国際資本取引において、主にドルで通貨表示をしていたように、日本が宋や元・明といった経済圏に組み込まれたことを意味しているのだろう。清盛の時代は、そうした体制の始まりだったのである。(p108)
------------------

交換手段としてある国の通貨を使用することと、その国の経済圏に組み込まれることは別の問題だと私は理解していたのですが、高橋氏のように考える中世史学者は多いんですかね。

>筆綾丸さん
>蜷川幸雄
著作の大半をチェックしてみたのですが、文章も本当に鋭いですね。
ただ、蜷川幸雄氏の著作の中で私が一番良いと思ったのは、奥さんとの共著であるお料理本、『蜷川家のお総菜』(鎌倉書房)でした。
美しい写真を眺めているだけで幸せな気分になれますね。
冗談抜きで傑作です。
先日、国会図書館でE. H. Carrの『Michael Bakunin』と一緒にこの本を注文したら、受渡しの時、係りの人が、妙な人だなあ、といった顔でちらっと私を眺めていました。
『The Coast of Utopia 』のタネ本のひとつが『Michael Bakunin』なので、そのときの私としては必然性のある組み合わせだったのですが、アナーキストの評伝、しかも黴臭い英書と一緒にお料理本を頼めば、変わった人と思われても仕方ないですね。
 

花押

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年10月25日(日)22時40分47秒
編集済
  小太郎さん
「彩の国さいたま芸術劇場」で、かれこれ十年位前、蜷川幸雄演出で、三島由紀夫の『弱
法師』と『卒塔婆小町』をみたことがありますが、見事なもので、しびれました。
後者は、幕が下りた後で甲高い男の声が流れ、一瞬、何だろうと思いましたが、三島が
割腹する直前、市ヶ谷の陸上自衛隊のバルコニーでぶった演説の一部で、この演出には
ギョッとしましたね。

前田雅之氏や片山杜秀氏は、ちゃんと『源氏物語』を読んだことがあるのだろうか、という
気がしますね。

http://shizumanu-taiyo.jp/
今日は、この映画をみました。
経営危機が問題になっている某航空会社への挽歌のような映画だな、という感じがしました。
利根川総理(中曽根元総理がモデル?)が、閣議の後で書類に花押でサインするシーンが
出てきましたが、花押の形が明らかに徳川家康の花押の系譜上にあるもので、誰が指導した
のか不明ですが、徳川幕府の亡霊を見ているようで、とても面白く思いました。
 

『記憶の中の源氏物語』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月25日(日)16時57分54秒
編集済
  検索してみると、『記憶の中の源氏物語』は随所で絶賛されてますね。
まずは前田雅之氏(明星大学教授)。

----------
連載を通して、氏は、虚構とされる物語・神話・伝説類は排除し、実証された史実をもって歴史を構築すべしとする近代歴史学の陥穽を見事に衝いて反転させ、史実の前提に虚構があるということ、さらにいえば、歴史自体が虚構を准拠にしていることを『源氏物語』の享受の諸相からものの見事に明らかにした。日本の歴史=権力=文化にとって『源氏物語』がかくも抗い難い呪縛=構造としてあったことをここまで叙述したものは他にない。
 しかも、氏によれば、表層の華やかさの陰にある死・病といった暗部に目を向けざるを得ない抗いが『源氏物語』の根柢に渦巻いていたという。権力者の自己像や歴史イメージを作り出すばかりか、壊していく力をも『源氏物語』はもっていたということだろう。やはり、歴史の亀鑑というべきか。
 このたび、氏の連載は装いを新たにして単著として公刊された。空虚な騒ぎに堕してしまった源氏物語千年紀の掉尾を飾るには、最良の書物である。『源氏物語』の千年あるいは日本を少しでもまじめに振り返りたいのなら、まず本書を手にとることが思考の作法というものだろう。

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/311011.html

「思考の作法」が筆綾丸さんとは正反対のようです。
次に片山杜秀氏(慶応大学法学部准教授、国際日本文化研究センター客員准教授)。

----------
「源氏物語」は非政治的恋愛文学では決してない。主人公の光源氏が、天皇の女御(にょご)と密通し、不義の男子をもうける。その子はついに帝(みかど)となる。光源氏は表立って天皇の父と名乗れないが、何となく実力者となる。そんな物語に著者は、曖昧(あいまい)さと二重性を尊ぶ、日本人好みの政治美学の集約的表現を認める。「源氏物語」の筋立て自体が日本政治の聖典なのだ。そして以後の日本人は、その構図をなぞることでこそ、権威や権力の獲得と保持に努めたのだという。
 だからこそ、歴代天皇は「源氏物語」の学習に励み、足利義満も豊臣秀吉も柳沢吉保(よしやす)も「源氏物語」を愛したのだろう。天皇と上皇、将軍と執権、天皇と将軍、さらには天皇と元老、元老と首相のような楕円(だえん)型の権力構造が、上手に再生産され続けたのだろう。
 貴人が恋愛遊戯に耽(ふけ)るばかりの、最も非政治的にも見える文学が、日本人の政治的記憶の原型となって、千年以上もこの国を規定し続けている。驚くべき逆説だ。日本の政治・文化・思想の歴史を根本から書き換える構想力を内包した、爆裂弾的書物。

http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20090209bk04.htm

「爆裂弾的書物」という表現はすごいですね。
こうした絶賛の嵐の中で、小谷野敦氏は「『記憶の中の源氏物語』はトンデモ本」と冷ややかに言われていますが、これは稀有な例です。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090311

私は去年の9月から10月にかけて、高岸輝氏の『室町絵巻の魔力』に関連して、三田村雅子氏の見解を検討してみました。
この掲示板では13枚目以降に書かれており、また保管庫のブログでは『室町絵巻の魔力』とのカテゴリーでまとめています。

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/4ca6cde3ed4da52e78a85fd5bdf482ab

三田村雅子氏はものすごく熱心に資料を集める努力家だとは思いますが、しかし資料を整理・統合する論理的能力がないですね。
ご自身が集めた材料で合理的に推論できる範囲を常に軽々と飛び越えてしまう習性があり、爆裂弾的跳躍力の持ち主ではあると思います。
 

『真田風雲録』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月24日(土)22時48分46秒
編集済
  今日は「彩の国さいたま芸術劇場」で蜷川幸雄演出の『真田風雲録』を観て来ました。
3時間の舞台を50字以内にまとめると、「60年安保闘争に挫折した若者たちの苦悩を真田十勇士に重ね合わせ激動期の青年群像を描いた音楽劇」てな感じになるのですが、中途半端な思想劇のように思えて、私の好みには合いませんでした。

http://www.saf.or.jp/arthall/event/event_detail/2009/p1015.html

脚本以外は非常に優れた面がありましたが、私はそれを評価する適任者ではないので、興味ある方は以下のレヴューを参考にしてみてください。

http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2009/1018112357.html

>筆綾丸さん
高橋昌明氏の『平家の群像』は同氏が2年前に書かれた『平清盛 福原の夢』(講談社選書メチエ)を読まないと、肝心な部分が何も理解できない仕組みになっているんですね。
2冊とも読んでから感想を書きます。
 

朝臣

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年10月23日(金)20時24分0秒
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  森幸夫氏『北条重時』で、「六波羅裁許下知状」(42頁)の「相模守平朝臣(花押)」に
おける「朝臣」は、朝の字の偏と旁を真ん中で割り、間に簡略化した臣の字を書き入れた
もので、この書体が気になり、佐藤進一氏『古文書学入門』で確認すると、図版20「前
右大将家政所下文」における二人の「朝臣」と同じ書体になっていて、してみると、この
書体には、相当の格式があったのかな、と感じました。

中村直勝氏『日本古文書学上』に、称光天皇宣旨の図版があり、この書体がでてきます。

    従二位行権大納言藤原
    朝臣時房宣奉 勅以前
    大僧正満濟准三宮宜賜年官
    年爵者
     應永三十五年四月二十日大外記兼大隅守中原朝臣師勝奉

「もうひとつ注目すべきは、年月日の下の大史や外記の署名であって、これは数々の肩書
をずっと書き連ね、それを一行の中に書き収めねばならないので、文字を割って、無理を
して、字を嵌め込んでおるのであって、ほほえましい苦心がここにある」(206頁)
宣旨や口宣案にみられる書体なので、なにか特別な意味があるような気もしますが、中村
氏は「ほほえましい苦心」とあっさり片付けていますね。

佐藤進一氏『古文書学入門』の図版25は、永仁六年(1298)の関東下知状で、書き止め
文言が「依鎌倉殿仰下知如件」となっています。建長の宗尊親王から永仁の久明親王まで
半世紀ほどの隔たりがありますが、『北条重時』(139頁)との関連で、この「鎌倉殿」が
気になりました。
 

シュールな蓮如賞

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年10月22日(木)18時59分0秒
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  小太郎さん
「紅葉賀巻の青海波舞を、『源氏物語』全巻中のクライマックスシーンにしているわけである」
この説、私にはデジャ・ヴユならぬジャメ・ヴユ(未視感)です。
紅葉賀巻は五十四帖中で七番目という形式もさることながら、これが「全巻中のクライマッ
クスシーン」でないことぐらい、源氏を読むほどの人なら、自明のことなんですがね。
『記憶の中の源氏物語』など読む前に、まず『源氏物語』を読まねばなりません。
「政治権力者が、倫理を超越して自己を主張し・・・」
というのも、なんのことやら、意味不明。

http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2009100600167&genre=M1&area=K00
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82%E8%B3%9E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82
なぜ蓮如賞なのか、よくわからないので、過去の受賞作品を眺めてみましたが、よけい
わからなくなりました。蓮如さんが艶福家の子沢山だったからだろうか?

http://honganjifoundation.org/jouen/
蓮如賞の授賞式は東山浄苑で行われるそうですが、世界最大級の納骨堂での授賞式という
のは、『歎異抄』などとても及ばぬシュールな世界ですね。
http://www.tulip-k.co.jp/todotoku/0108ofumi.htm
授賞式の後、みんなで『白骨の御文章』を朗読するのだろうか?
 

既視感

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年10月22日(木)12時57分25秒
  >筆綾丸さん
>高橋昌明氏『平家の群像』
引用されている文章、五行目まで読んで私も既視感に襲われたのですが、三田村雅子氏の名前を見て、ああやっぱりと思いました。
『記憶の中の源氏物語』は足利義満に関する部分を去年検討しましたが、学問の名に値するものではないですね。
これを「刺激に満ちた大著」と評価するようでは、高橋氏の頭に詰まっているのはカニ味噌なのかな、と思います。
わずかこれだけの長さなのに、「極めたるビッグネーム」など莫迦な語彙が至るところで煌めいていて、実に見事な文章ですね。
 

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