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法華宗の自己免疫

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月28日(日)13時56分57秒
編集済
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98%E8%A9%95%E5%88%A4%E7%A7%98%E4%BC%9D%E7%90%86%E5%B0%BD%E9%88%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E5%AE%89%E5%9B%BD%E8%AB%96
若尾政希氏『「太平記読み」の時代─近世政治思想史の構想』を拾読みしてみました。
----------
・・・陽翁は、法華法印日翁(日応)とも呼ばれる法華宗(日蓮宗)の僧侶であり、『理尽鈔』の講釈を始めた人物として知られる。(30頁)
----------
ですが、川平敏文氏の以下の解説に興味を惹かれました。
-------------
・・・大運院陽翁をはじめとする日蓮門徒と「太平記読み」との関わりである。従来、仏教の僧侶が説教の合間に、聴聞者への娯楽的サービスとして『太平記』講釈を取り入れていたことが指摘されているが、それとは別に、近世初期の日蓮教学と『理尽鈔』の思想的対照、および、『理尽鈔』のなかに見られる仏教批判的言説ーあらゆる宗派が批判されており、日蓮宗もまた例外ではなかったーをどのように位置付けるかという点が、解明されなくてはならないだろう。(413頁)
-------------
『太平記評判秘伝理尽鈔』は、宗祖日蓮の攻撃的批判精神(『立正安国論』)を継承した法華宗の僧侶ならではの産物とみるべきなのか、あるいは、法華宗の僧侶が講釈を始めたのは唯の偶然であって他宗派の僧侶でもできたと考えるべきなのか。他宗派の僧侶が『太平記』のような軍記物に傾倒する姿は、教義上、なかなか想像しにくいものがありますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%85%8D%E7%96%AB%E7%96%BE%E6%82%A3
日蓮宗自体も批判されるというのは、自己免疫(autoimmunization)を思わせるものがあり、それはそれで面白いものがありますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88
公家社会の古今伝授と武家社会の太平記評判秘伝は、パラレルというか、糾える縄の如くに見えなくもないですね。
 
 

『帝室制度史』を読む(その8)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月27日(土)21時29分12秒
編集済
  続きです。(p728以下)

-------
光格天皇以後諡号の制再興せられ、院号を以て追号とすること亦随つて止みたり。明治天皇崩じたまふに至り、大正天皇は先帝御在位中の元号を以て先帝の追号に勅定したまへり。元号を以て天皇を称し奉ることは、平安時代以後其の例少からざれども、公に元号を追号として定められしは、之を以て最初と為す。蓋し明治の初に一世一元の制を定めたまひしに因る。大正天皇の追号も亦此の例に拠り勅定せられたり。
-------

「光格天皇以後諡号の制再興せられ、院号を以て追号とすること亦随つて止みたり」とサラッと書いてありますが、「光格」という生前の事績等を考慮して案出した美称としての「諡号」の復活、即ち長く続いた価値中立的な「追号」の停止という側面と、これも長く続いた「院号」を止めて古代の「天皇号」を復活させるという側面と、二つの側面が合体していますね。
これがちょっと誤解しやすいポイントですが、後で改めて検討します。

さて、この後は追号の分類です。
全部で四種類ありますね。(p729以下)

-------
平城天皇より後桃園天皇に至る歴代天皇の追号に就き其の典拠を案ずるに、第一御在所に因るもの、第二山陵に因るもの、第三前の天皇の追号に後の字を冠するもの、第四前の二天皇の諡号の文字を併せたるものゝの四種に分つことを得べし。

第一、御在所に因る追号には、更に地名に因るもの、宮名に因るもの、寺名に因るものゝの三あり。地名に因る追号は平城天皇の一例あるのみ。其の縁由に付きては既に述べたり。宮名に因る追号は二十四例に及び、就中、一条、堀河、近衛、二条の四天皇は在位中の皇居の宮名に因り、嵯峨、淳和、清和、陽成、宇多、朱雀、冷泉、三条、白河、鳥羽、六条、高倉、土御門、亀山、伏見、花園、桜町の諸天皇は譲位後の御在所の宮名に因るものなり。四条天皇は御葬家西園寺実氏の三条西洞院第を御在所に擬し特に四条院と称したるに因り、正親町天皇は御在所二条殿の面せる町名(正親町)に因り、中御門天皇は御在所に近き内裏の宮門待賢門の別称(中御門)に因る。寺名に因る追号には、円融、花山天皇の二例あり。円融天皇は譲位の後円融寺に御したまひしに因り、花山天皇は遜位の時元興寺(花山寺)に於いて出家したまひ、後京都の御在所を花山院と称したるに因る。此の外、長慶天皇は典拠不明なれども亦寺名に因るものゝ如し。但し長慶院の所在は明らかならず。
-------

いったんここで切ります。
「四条天皇は御葬家西園寺実氏の三条西洞院第を御在所に擬し特に四条院と称したるに因り」とありますが、やはりちょっと変則的な感じがしますね。
前回投稿で四条天皇の悪口を言ってしまいましたが、まあ、数えで12歳、今なら小学校高学年の児童ですから、悪戯が過ぎての事故死も仕方ないといえば仕方ない感じもします。
ただ、周辺はまさかその若さで死ぬとは全然予想していませんからびっくり仰天、対応に苦慮する訳です。
そして、当時権勢を振るっていた九条道家は後継には佐渡に流されていた順徳院の皇子が良いと判断し、幕府側の了解を待っていたところ、幕府は順徳院の皇子ではなく策士・土御門定通が庇護していた土御門院の皇子、即ち後の後嵯峨天皇を選択するという大逆転劇が起こってしまった訳ですね。
これをきっかけに九条道家の系統は急坂を転げ落ちるように没落し、その配下の貴族たちの人生も暗転します。
実は「徳」諡号の問題の背景にある「怨霊」騒ぎにはこうした事情も影響していて、「怨霊」がどーたらこーたらと熱心に記録に残している貴族たちは、自身に不利な政治的局面の打開のために「怨霊」に活躍して欲しい人たちでもあります。
川合康氏の「武家の天皇観」(『講座 前近代の天皇 第四巻』、青木書店、1995)などを読むと、まるで川合氏自身が何かに憑りつかれたかのように「怨霊」を熱く語っていてちょっと莫迦っぽいのですが、この種の記録は多少、というか、かなり割り引いて考えなければならないと私は思っています。

後嵯峨天皇(1220-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
 

『帝室制度史』を読む(その7)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月27日(土)07時48分28秒
編集済
  あまり先走らず、「第二款 追号」の紹介を続けたいと思います。
「院号」の登場とその段階的増殖、そして大正時代に入ってからの消滅ですね。(p727以下)

------
天皇の追号に院号を以てすることは、宇多天皇を最初とし、在位に於いては是より先なれども其の後に崩じたまひし陽成天皇も亦其の例に拠れり。院は本来上皇の殿舎の称にして、転じて其の殿舎に在ます上皇をも某院と称し奉り、延きて崩後の追号にも院の字を附することゝなれるなり。宇多天皇の後、醍醐天皇は譲位の後数日にして崩御あり、村上天皇は譲位なかりしを以て、共に山陵に因る名を以て追号と為し、院号を以てせざりしが、冷泉天皇以後は、譲位ありしと否とを問はず、常に某院と称し奉る例となり、追号は即ち院号となるに至れり。是より以後は、啻に殿舎の称に拠る追号のみならず、殿舎に関係なき追号にも常に院の字を附することゝなり、崇徳、顕徳(後鳥羽)、順徳の三天皇に至りては、諡号にして尚追号に準じ、院の字を附せり。後世の文献には、冷泉天皇以後に在りても、某院と称せずして、某天皇又は某院天皇と記し、又は此等を混用して一定せざるものあれども、安徳天皇及び後醍醐天皇を除くの外、何れも某院と追号せられしことは資料に徴し之を窺ふを得べし。安徳に院の字を附せざるは諡号なるに因り、後醍醐天皇には、神皇正統記に「後の号をば、仰のまゝにて後醍醐の天皇と申す」とあるに拠れば、院の字を附せざりしが如しと雖も、他の諸書には後醍醐院と記せるものも少からず。大正十四年に至り従来某院天皇と称する例ありしを改めて爾後院の字を除くことに勅定せられたり。
------

漢風諡号が廃れて追号になってしまった原因について、『帝室制度史』では特に触れるところがありませんが、いくら美称とはいえ、天皇への評価はけっこう難しい問題で、廷臣たちにとってあれこれ考えるのが重荷になってしまった、という事情もありそうですね。
宮中殺人事件の容疑者である陽成天皇など、群臣協議の上、諡号を決定する必要に迫られたら議論が紛糾して大変な事態になったかもしれませんが、追号ならそのような難しい状況を簡単に回避できます。
歴代天皇の中には鎌倉時代の四条天皇のように、床に蝋石を塗って近臣を転倒させて笑おうと思っていたら自分が滑って頭を打ち、そのまま死んでしまいましたとさ、というような前代未聞のお莫迦で、誉めようにも誉める部分がひとつもない天皇もいた訳で、もしも諡号が必須だったら廷臣は頭を抱えてしまったはずです。
その点、追号は実に便利で、実際的ですね。
ま、それはともかく、「本来上皇の殿舎の称」であった「院」が上皇の追号となり、ついで在位中に死去した天皇の追号にもなり、更には崇徳・顕徳(後鳥羽)・順徳のように諡号にも付けられてしまうことになる訳ですが、しかし安徳に限っては、何故か「安徳院」ではなく「安徳天皇」とされています。
「安徳に院の字を附せざるは諡号なるに因り」とありますが、諡号である点は崇徳・顕徳(後鳥羽)・順徳も同じですから、何故に安徳だけ「安徳院」ではないのか、良く分からないですね。
ま、理由はともかく、事実として「安徳院」と称されたことはないようで、この点は光格天皇の諡号を定める議論の際にも重要な先例として参照されることになります。
なお、後醍醐については北畠親房が屁理屈を言っていますが、史料上、「後醍醐院」と呼ばれている例は山ほどありますね。
また、「大正十四年に至り従来某院天皇と称する例ありしを改めて爾後院の字を除くことに勅定せられたり」とありますが、この結果、一番気の毒な事態となってしまったのは後西院です。
後西院の追号は淳和天皇の異称「西院帝」にちなんだもので、「西」と「院」を切り離したら意味がなく、この人に限っては「後西院天皇」でもよかったはずですが、バッサリ切られて「後西天皇」になってしまいました。

陽成天皇(869-949)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
四条天皇(1231-42)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E5%A4%A9%E7%9A%87
後西天皇(1638-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%A5%BF%E5%A4%A9%E7%9A%87
 

『帝室制度史』を読む(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月27日(土)06時20分39秒
編集済
  諡号についての解説がp657で終わった後、史料紹介が延々と続き、p725から追号の解説となります。

-------
第二款 追号

天皇崩後の称号に諡号と追号とを分つは、諡号は崩後聖徳を頌する美称を撰上するものなるに対し、追号は讃美の意を含まず、御在所名、陵名又は其の他天皇に縁故ある名辞を以て、天皇を称し奉るの別あるに因る。但し此の区別は公に定められたるものに非ず、両者を汎称して等しく諡号又は追号と謂へる例も少なからず。

御在所等の名を以て天皇を称し奉ることは、上古以来我が固有の慣習なりしが如く、称徳(高野)天皇以後は山陵名を以て天皇を称し奉る例をも生ぜりと雖も、漢風諡号の制起る以前に在りては、公に之を追号として定められしに非ず。諡号の制起るに及び、平安時代の初期に於いて、在位中に崩じたまひし桓武、仁明、文徳、光孝の四天皇には、何れも漢風の諡号を上りたれども、平城天皇は譲位の後、平城(奈良)を御在所と為したまひしに因り、平城天皇(又は奈良天皇)と称し奉り、漢風の諡号を上らず、後世之を以て公式の追号と為すに至れり。是より以後、譲位ありし天皇は譲位の後御在所の名を以て称し奉り、崩後も引続き其の称を用ふるの例を為し、遂に光孝天皇を最後として諡号撰上の事止み、一般に譲位後の御在所名を以て追号と為し、譲位の事なく在位中に崩じたまひし天皇は、皇居の宮名を以て追号と為すを定例とするに至れり。譲位なかりし天皇には、或は山陵名を以て追号と為せるもあり。更に後一条天皇以後は、前の天皇と御在所を同じくしたまひしこと又は其の他の縁由に因り、前の天皇の追号に後の字を冠して追号と為すの例を生じ、又称光天皇を最初として、二天皇の諡号の各一字を採り之を併せて追号と為すの例をも生ぜり。
-------

諡号は「聖徳を頌する美称」であり、追号は「讃美の意を含まず、御在所名、陵名又は其の他天皇に縁故ある名辞を以て、天皇を称し奉る」価値中立的な称号ですが、実際にはそのように明確に区別して用いられている訳ではありません。
後で改めて検討しますが、この二つの用語の混乱に加えて「天皇号」と「院号」の区別が加わって混乱が増幅されます。
光格天皇に諡号を贈る決定がなされた経緯を見る場合には、個別の史料において、関係者がいかなる意味で「諡号」という用語を用いているのかを慎重に検討する必要があります。
東京大学名誉教授・渡辺浩氏の誤解の原因はこのあたりにありますね。
他方、藤田覚氏にはそのような概念の混乱はありませんが、残念ながら同氏には公家社会を理解する基本的なセンスが乏しいので頓珍漢な方向への暴走が見受けられます。
 

山口昌男と後深草院二条

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月26日(金)23時14分37秒
編集済
  24日の投稿で書いたように、私は藤田覚氏の「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」という見解は単なる勘違いだと思っています。
そこで、近世において『太平記』の読者層は具体的にどのようなものだったのかを知りたくて若尾政希氏の『「太平記読み」の時代─近世政治思想史の構想』(平凡社ライブラリー、2012、初版は1999)読み始めたのですが、この本は異常に面白いですね。
若尾氏が着目する『太平記評判秘伝理尽鈔』は、日本の「宗教的空白」がいかにして生まれ、変容して行ったか、という私自身の問題意識に照らしても、参考にできる箇所が極めて多いように感じられます。
読み終わった後で少し感想を書きたいと思います。

『「太平記読み」の時代』
http://www.heibonsha.co.jp/book/b160966.html
若尾政希氏
http://www.soc.hit-u.ac.jp/teaching_staff/wakao.html

>筆綾丸さん
>あの労作
ありがとうございます。
熱心に更新していたのは最初の数年だけで、後は時々補充した程度、2005年あたりからは単に閲覧できるだけの状態だったのですが、それでも時には質問をもらったりしていました。
約20年の間、誰からも指摘されなかったのですが、私としては『後深草院二条』は山口昌男のアルレッキーノ論の応用問題という位置づけでした。
1990年頃、それなりの危機感をもって様々な本を読んでいた中で、私には山口昌男の著作が特別に光り輝くものに見えました。
そしてその数年後、『問はず語り』に出会い、次いで『増鏡』を読んで、この二つの作品の間にもの凄く頭が良くて冗談好きなアルレッキーノが隠れている、ここに山口理論を全面展開できる舞台がある、と確信して、憑りつかれたように中世文学・中世史の世界に分け入って行ったのですが、これは一生の間でもめったに味わうことのできない楽しい日々でした。
今年の二月、本当に久しぶりに山口昌男の読み直しを行なったところ、昔のように山口ワールドに楽しく没入することはできず、その限界をいろいろ考えさせられたのですが、それでも山口昌男は私にとってのかけがえのない先生ですね。
山口昌男は東大国文出身で、卒論も中世を扱っていますから、『問はず語り』を読んでいないはずがないのですが、不思議なことに山口が『問はず語り』に言及した文章を見つけることができません。
あるいは山口が理解できる「笑い」の質と、後深草院二条の「笑い」の質が違うのかな、などと考えたことがあるのですが、本人にお聞きする機会は永遠に失われてしまいました。

>オマール君
ウサギの世界にもネコ界のオマール君に匹敵する存在がいるようですね。

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2609183/The-Easter-Bunny-monster-appetite-Meet-three-half-stone-Darius-munches-way-360-carrots-30-apples-15-cabbages-month.html
 

Edo ergo sum

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月26日(金)19時11分47秒
編集済
  小太郎さん
『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について─』がインターネットから削除された理由は知りませんが、あの労作の消失はほんとに勿体ないことです。

http://www.bbc.com/news/world-australia-39931050
あのサイトには猫のイラストがいろいろ登場しましたね。世の中には大きな猫(体長120㎝、体重14㎏)がいるもので、Cogito ergo sum が似合いそうな風格がありますが、オマール君は、むしろ、Edo ergo sum というべきかもしれません。
http://mymemory.translated.net/ja/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E8%AA%9E/%E8%8B%B1%E8%AA%9E/edo-ergo-sum

-------------
"We buy human-grade kangaroo meat at the supermarket," Ms Hirst said. "It's the only meat we could find that he actually wants to eat."
-------------
スーパーで human-grade kangaroo meat を買うというのは、お国柄ですね。
 

諡号「顕徳院」が追号「後鳥羽院」になった理由

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月26日(金)07時54分43秒
編集済
  >筆綾丸さん
>「『徳』諡号と怨霊」は、懐かしい議論ですね。

私が『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について─』を開設したのは1996年で、歴史関係のそれなりに充実した分量の個人サイトとしてはかなり早い時期だったと自負しているのですが、野村朋弘氏は私よりも更に前に『鎌倉時代』を開設され、「諡法解」の元となる論稿も掲載されていましたね。
あれから二十年経ち、野村氏も今や「准教授」の称号の持ち主なので、昔のように「野村くん」などと気安く呼ぶことも躊躇われます。

久しぶりに野村氏の「『徳』諡号の示すもの」を読んでみると、後鳥羽が延応元年(1239)2月に隠岐で死去し、いったんは同年5月に「顕徳院」との諡号が贈られていたにも拘らず、仁治三年(1242)正月の四条天皇の頓死に伴なう政治的混乱の中で後嵯峨が皇位を継いだ後、同年6月に「後鳥羽院」との追号に改められてしまった経緯について、野村氏が、

-------
 しかし崇徳・安徳・顕徳・順徳の四帝のうち、顕徳は後嵯峨の登極と共に後鳥羽と称号を変更されてしまいます。この当時、承久の乱の勝利者である幕府側の重鎮は次々と死去し顕徳の恨み・怒りに因るものだとの風説が起きています。
 「徳」と云う美称を奉ると云うことは即ち、怨霊となる可能性が非常に高いとも云えます。それが故に顕徳から後鳥羽への「変更」は顕徳怨霊化を否定すると考えられます。
 鎌倉時代後期になると後鳥羽は朝廷内でも承久の乱をおこした悪王であるとの認識が出てくる事も怨霊ではないと云う捉え方が浸透したと表われでしょう。

http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/sigo02-3.html

とされているのは、ちょっと問題を一般化しすぎているような感じがしないでもありません。
諡号「顕徳院」から追号「後鳥羽院」への変更については川合康氏が「武家の天皇観」(『講座 前近代の天皇 第四巻』、青木書店、1995)において土御門定通の役割を強調され、また、川合説を受けて森幸夫氏も「あるいは定通に対し、幕府から改名への働きかけがあったのかも知れない。とすれば、その中心となったのは定通の義兄弟重時であったろう」などと言われているのですが(『人物叢書 北条重時』、吉川弘文館、2009)、私は森氏の見解には賛成できません。
後嵯峨践祚に貢献した土御門定通は屁理屈で周りを困らせる才能に恵まれた変人なので、仁治三年(1242)にはこの変人の不穏当な見解がまかり通ってしまったけれど、変人が宝治元年(1247)に死んでくれたおかげで、順徳院が佐渡で死去した建長元年(1249)には、やはり配流地で亡くなった天皇には「徳」諡号を贈りましょうという穏当な見解に戻った、それを主導したのは後嵯峨天皇だった、というのが私の考え方です。

「土御門定通は変な人」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5145
「後嵯峨院」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5147
 

建礼門院のこと

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月25日(木)12時41分43秒
編集済
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E7%AC%A5%E8%B3%80%E5%AD%90
「延享元年甲子□月□日生于倉吉、宝暦二年従父入京師、同四年□月出テ仕櫛笥隆望朝臣家、同五年□月為御使番生駒左門<大江>守意養女於新崇賢門院御局針女出仕」
新崇賢門院は櫛笥家の出身で、磐代の父君と櫛笥家にはどんな関係があったのか、興味を惹かれますが、今となってはわからないのでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E6%A9%8B%E4%BB%B2%E5%AD%90
さらに、新崇賢門院(櫛笥賀子)の院号がなぜ崇賢門院(広橋仲子)を踏まえたものなのか、これも興味を惹かれます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BE%B3%E5%AD%90
「『徳』諡号と怨霊」は、懐かしい議論ですね。
平徳子は諱とは云え、なぜ『徳』なのか、という疑問は依然として不明のままです。入内の時には諱がなければならず(おそらく)、徳子の諱は、崇徳の諡号以後で安徳の諡号以前、という一種不気味な時期に決められているわけですね。
 

『帝室制度史』を読む(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月25日(木)11時10分41秒
編集済
  続きです。
平安初期に山鳥の尾のように長い長い和風諡号も消え、漢風諡号の全盛時代が到来するかと思いきや、実際には漢風諡号も間もなく絶えて価値中立的な追号の時代になってしまいます。(p652以下)

------
光仁、桓武、仁明、文徳、光孝の漢風諡号に付いては、光仁天皇の諡号告文が西宮記に見え、光孝天皇の諡号が寛平元年八月に定められしことが日本紀略に見えたる外には徴すべき資料の伝はれるものなし。

是より以後は諡号の制絶え、之に代へて専ら追号を定められしが、崇徳天皇の保元の変に拠り讃岐国に崩じたまふや、治承元年七月二十九日特に追尊して崇徳院の諡号を上り、爾来遠国に遷幸の後崩じたまひし天皇には特に諡号を上るの例を為し、長門国に崩じたまひし安徳天皇の諡号は文治三年四月に、隠岐国に崩じたまひし後鳥羽天皇の最初の諡号顕徳院は延応元年五月に、佐渡国に崩じたまひし順徳天皇の諡号は建長元年七月にそれぞれ定められたり。
------

その追号の大きな流れの中で、「崇徳」「安徳」「順徳」、そして後鳥羽院の最初の諡号である「顕徳」の四つの諡号が奇妙な小波を立てるのですが、これが「怨霊」と関係することは前々回の投稿「『徳』諡号と怨霊」で述べました。

「『徳』諡号と怨霊」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8907

そして、「順徳」以後、改めて続く追号の大きな流れに逆らって、19世紀に突如として登場するのが「光格」という諡号ですね。(p653以下)

-----
此等の諸例を除くの外、一般には歴代専ら追号を上るの例なりしが、光格天皇崩じたまふに及び、御子仁孝天皇は先帝御在位中故典旧儀を復興したまひし聖績に付き叡慮あり、久しく中絶したる諡号奉上の儀を再興したまひ、東坊城聡長等の勧進に依り天保十二年閏正月二十七日に陣儀を行はしめ、光格天皇の諡号を宣命を以て山陵に告げ、詔書を以て天下に宣示したまへり。之に依り諡号の制は再び開かれ、仁孝天皇及び孝明天皇の諡号はこの例に拠り相次いで勅定せられたり。明治維新の後に及び、明治三年七月二十四日従来諡号又は追号の沙汰なかりし大友帝に弘文天皇、廃帝大炊王に淳仁天皇、九条廃帝に仲恭天皇の諡号を定めたまへり。
------

弘文・淳仁・仲恭天皇の諡号は実に明治に入ってから贈られたものなんですね。
ま、これも面白い話がいろいろありますが、パスします。
次いで諡号を選ぶ手続きです。(p654以下)

------
光仁天皇以後に於ける此等の漢風諡号撰定の儀に付きては、西宮記所載の光仁天皇諡号告文に「考諸六籍、諮于百寮」と見え、又崇徳天皇の諡号は通典に拠り撰進せられたること玉葉に見え、光格天皇以後も同じく支那の古典より文字を撰び、公卿に勅問ありて定められたるを以て見れば、他の御歴代諡号に付いても同じく、支那の古典を典拠とし、公卿の儀に依り撰進せられたることを推し得べし。諡号定まれるときは、之を祭文を以て先帝の山陵に告げ、勅書を以て諸司に施行すること西宮記に見え、光格天皇の例も亦同様なれども、崇徳、顕徳の両諡号には勅書なかりしこと百錬抄に見えたり。
-------

この後、もう少し解説が続くのですが、省略します。
 

『帝室制度史』を読む(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月25日(木)10時38分7秒
編集済
  「第一款 諡号」の続きです。(p650以下)

------
漢風の諡号は神武、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行、成務、仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、安康、雄略、清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳、光仁、桓武、仁明、文徳、光孝、崇徳、安徳、順徳、仲恭、光格、仁孝、孝明は是なり。
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最後の三つだけが江戸時代で、これだけ見てもかなり異質な感じはしますね。
また、奈良時代の聖武・孝謙・称徳については、そもそもこれらが諡号なのか、という面倒な問題があり、若干の説明が出てきますが、古代史に深入りするのは避けます。

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此等の中、聖武、孝謙、称徳の号は、初めは尊号として上りしものにして、淳仁天皇の天平宝字二年八月百官及び僧綱上表して孝謙天皇に宝字称徳孝謙皇帝の号を上らんことを請ひ、勅してこれを許したまひ、次いで同月勅旨を以て聖武天皇に勝宝感神聖武皇帝の尊号を追贈したまひしに基づくものなり。天皇に漢風の称号を上れることの史に見えたるは、蓋し之を以て最初とす。称徳孝謙の号は天皇御在世中に上りたる尊号なれども、続日本紀に之に註して「出家帰仏、更不奉諡、因取宝字二年百官所上尊号称之」とあるに拠れば、尊号を以て後に諡号と定められしものゝ如し。聖武の号も亦当時は諡号は国風に拠るとの例なりしを以て、之を諡と為さず、尊号として追贈せられしものなれども、後に漢風の諡号行はるゝに至り、之をも諡号と定められたるが如し。
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また、神武以下の大昔の天皇の諡号は、実際には奈良時代に淡海三船が創作したものですね。

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神武以下漢風諡号の撰定せられし事情に付いては、釈日本紀に「私記曰、師説、神武等諡名者、淡海御船奉勅撰也」と見えたるに因り、淡海三船が勅を奉じて撰進したることを知るを得べく、其の時期は明らかならざれども、淡海三船は延暦四年に卒去したること及び垂仁、応神、仁徳、敏達等の諡号は続日本紀天応元年及び延暦九年の記事に見えたることに因り、奈良時代の末期に於いて撰進せられしものなることを推定し得べし。
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「徳」諡号と怨霊

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月25日(木)10時03分29秒
編集済
  >キラーカーンさん
>承久の乱で配流になった三上皇のうち、土御門天皇だけはなぜ「徳」がつかなかったのか。

土御門院は討幕計画には当初から全く関係していなくて、京から離れたのは幕府による強制的な追放ではなく、父が遠国に流されているのに京で安穏としているのは畏れ多い、という気持ちからの自発的な引っ越しですね。
私のサイト『後深草院二条』が閉鎖される前は『増鏡』を直ぐに引用できたのですが、ちょっと検索してみたらsantalab氏の『Santa Lab's Blog』に、

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中の院は初めより知ろし召さぬ事なれば、東〔あづま〕にも咎め申さねど、父の院、遙かに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと畏れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多〔はた〕と言ふ所に渡らせ給ひぬ。
【中略】
せめて近きほどにと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。

http://santalab.exblog.jp/19946325/

とありました。
もちろん内心の問題ですから土御門院の真意がどこにあったのかは分かりませんが、少なくとも幕府を恨んで「怨霊」になるような人ではなかったことは明らかです。
保元の乱に敗れ、讃岐に流されて憤死した崇徳院以来、諡号の「徳」は「怨霊」と関係づけられていて、祟りを恐れて良い名前をつけて慰めるという意図があったそうですが、土御門院は怨霊候補ではないので「徳」を贈ろうという発想は全く出なかったようですね。
このあたりも野村朋弘氏の「諡法解」が参考になります。

「『徳』諡号の示すもの」(『鎌倉時代』サイト内)
http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/sigo02-3.html
 

素朴な疑問

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2017年 5月25日(木)00時50分53秒
  >>「第四節 諡号及び追号」

承久の乱で配流になった三上皇のうち、土御門天皇だけはなぜ「徳」がつかなかったのか。
 

『帝室制度史』を読む(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月24日(水)22時51分18秒
編集済
  「第二節 敬語及び書式」「第三節 御名」は当面の問題には関係ないのでパスして、「第四節 諡号及び追号」に進みます。
天皇が死去した後の称号の問題ですね。(p648以下)

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第四節 諡号及び追号
 第一款 諡号

天皇崩御の後聖徳を頌して諡号を上ることが、上古に於いて我が固有の習俗として行はれたりしや否やは、確証の伝はれるものなし。少くとも諡号が公の制度として認めらるゝに至りしは、支那の制度の影響に因るものゝ如く、大宝令公式令に平出すべきものの一として天皇諡を挙げたるは、蓋し我が国に於いて制度上に諡号の事を認めたる最初なり。令義解には諡に註して「諡者、累生時之行迹、為死後之称号。即経緯天地為文、撥乱反正為武之類也」と曰へり。現に諡号を上りしことの史に伝はれるは、文武天皇の大宝二年十二月持統天皇崩じたまひ、翌三年十二月諸王諸臣先帝を誄し、大倭根子天之広野日女〔オホヤマトネコアメノヒロノヒメ〕尊の諡号を上りしこと続日本紀に見えたるを初見とす。蓋し大宝令の制に拠りしものなるべく、爾来諡号を上ること相次いで行はるゝに至れり。

諡号には我が固有の国語を以てせる国風の諡と支那の諡法に出でたる漢風の諡との二種あり。

上代に於いては諡号は専ら国風に拠りたり。前に挙げたる持統天皇の諡号を初め、文武天皇の倭根子豊祖父〔ヤマトネコトヨオホヂ〕天皇、元明天皇の日本根子天津御代豊国成姫〔ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ〕天皇、元正天皇の日本根子高瑞浄足姫〔ヤマトネコタカミヅキヨタラシヒメ〕天皇、聖武天皇の天璽国押開豊桜彦〔アメシルシクニオシハルキトヨサクラヒコ〕尊、光仁天皇の天宗高紹〔アメムネタカツギ〕天皇、桓武天皇の日本根子皇統弥照〔ヤマトネコアマツヒツギイヤテラス〕尊、平城天皇の日本根子天推国高彦〔ヤマトネコアメオシクニタカヒコ〕尊、淳和天皇の日本根子天高譲弥遠〔ヤマトネコアメタカユヅルイヤトホノ〕尊は何れも其の例なり。此等の中、元明天皇、元正天皇の諡号奉上に付いては所伝なしと雖も、持統天皇を初め文武天皇、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、淳和天皇は何れも崩御の後斂葬に先ち誄を奏するに当り諡号を上れること史に見えたり。又御出家ありし天皇には諡号を上らざるを例とし、聖武天皇は御出家ありしを以て、孝謙天皇の天平勝宝八歳五月崩じたまふに当り、勅して諡を上らざる旨を宣したまひしが、後淳仁天皇の天平宝字二年八月勅旨を以て国風の諡を上りたまひしは異例と為すべく、称徳天皇も御出家ありしを以て国風の諡を上ることなかりき。平安時代の初期に至るまでは、斯く国風の諡を上ることが行はれたれども、其の頃より専ら漢風の諡号又は追号を上るの例を為し、国風の諡の制は全く行はれざるに至れり。
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いったんここで切ります。
死去した天皇に対し、その人柄や業績などを褒め称えて立派な名前を贈るのが諡号であり、特に褒め称えたりせず、在所名その他の当該天皇にゆかりのある価値中立的な名前を贈るのが追号ですね。
諡号にはやたらと長い和風諡号と漢字二文字が通例の漢風諡号の二種類があり、和風諡号は平安初期には廃れてしまう訳ですね。

『帝室制度史』はそんなに難しい内容ではないのですが、表現が古風なので、この種の文章に馴染みのない方には読み進めるのがけっこう大変かもしれません。
諡号・追号については京都造形芸術大学准教授・野村朋弘氏のサイト「鎌倉時代」内に「諡法解-皇位継承権内に於ける諡号制の位置-」という充実したコーナーがあり、初心者にも、また理解を深めたい人にもお奨めです。

http://www.toride.com/~sansui/
http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/mokuji05.html
 

大江神社の御祭神

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月24日(水)22時30分22秒
  (※前回投稿が長すぎたので、二つに分けて、後半を改めて投稿します。)

>筆綾丸さん
『光格天皇実録』巻一の冒頭は、

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光格天皇

天皇、諱ハ兼仁、初名ヲ師仁ト曰フ、閑院宮典仁親王ノ第六王子、母ハ贈従一位岩室磐代ナリ、後、妃成子内親王ヲ養母ト為ラル

〔閑院宮系譜〕
  【中略】

〔御系譜〕
  【中略】

〔岩室家系譜〕
<初名常衛門宣休> <初名千代子>留子 号阿鶴又阿賀久
     宗賢----------女子   母林子某氏女、

延享元年甲子□月□日生于倉吉、宝暦二年従父入京師、同四年□月出テ仕櫛笥隆望朝臣家、同五年□月為御使番生駒左門<大江>守意養女於新崇賢門院御局針女出仕、同年侍成子内親王入閑院宮、爾後閑院二品親王殿下乞御息所内親王殿下為侍妾、称号磐代、明和八年辛卯八月十五日分娩若宮、奉称祐宮、後継大統、<○中略>明治十一年三月十六日贈正四位、

〔閑院宮日記〕
  【中略】

〔官報〕 明治三十五年六月三日
叙任及辞令 明治三十五年六月二日
贈従一位      贈正四位 大江磐代
------

となっています。
藤田覚氏の記述と比較すると「鳥取池田家の家老の家臣でその後浪人となった家」を除いて、むしろ「岩室家系譜」の方が詳しいですね。
「倉吉観光情報」サイトによれば、大江磐代君(おおえいわしろのきみ、1744-1813)は贈従一位の栄誉を受けたばかりか、大江神社の御祭神になられているそうですね。

http://www.apionet.or.jp/kankou/html/history1.htm
http://www.apionet.or.jp/kankou/html/midokoro2.htm#ooe
 

「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」(by 藤田覚氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月24日(水)15時32分54秒
編集済
  『幕末の天皇』では、筆綾丸さんが18日の投稿「天皇の号が此度世に出て」で引用された部分の後、諡号と追号についての説明を挟んで、次のような記述があります。(講談社学術文庫版p141)

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 ちなみに、我々はたとえば「後醍醐天皇」などと呼ぶが、江戸時代の人はそうは呼ばずに「後醍醐院」と呼んでいた。院号なのである。院号であることが気になったのか、明治時代に入ると、政府は「……院天皇」と称したりしたが、なお「……院」を引きずっていた。このような「……院」と院号をおくられた歴代天皇について、「院」を省いて「……天皇」と称するようになったのは、大正十四(一九二五)年に時の政府が決めたからである。「後醍醐天皇」などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない。
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江戸時代には『太平記』の人気が極めて高く、多数の刊本が流通し、また「太平記読み」などと称して講談師のような商売をしていた人が沢山いたことは近世に疎い私でも知っていたのですが、そういえば『太平記』の巻一は後醍醐で始まるけど、あれも「後醍醐院」と書かれていたのかなあ、と思って『岩波古典文学体系34 太平記一』(岩波書店、1960)を見てみたら、

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太平記巻第一

 序
  【5行略】
 ○後醍醐天皇御治世事 付 武家繁昌事
爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。
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ということで、いきなり「後醍醐天皇」で始まっていますね。
(※読みやすさを考慮してカタカナをひらがなに変更)

参考:ウィキソース(原本の明示なし)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E4%B8%80

岩波古典文学大系本の底本となったのは「慶長八年古活字本」だそうですから(凡例)、慶長8年(1603)当時の人々は普通に「後醍醐天皇」と呼んでいたんじゃないですかね。
そうだとすれば、藤田覚氏の説明とは異なり、人々が「後醍醐天皇」などと呼びはじめたのは、たかだか四百年ほど前からに過ぎないかもしれないですし、あるいは『太平記』が最初に書かれた14世紀まで遡るのかもしれないですね。
ま、それでもたかだか六百数十年ほど前の話ですが。
 

大英帝国の書札礼

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月24日(水)13時37分53秒
編集済
  https://twitter.com/kensingtonroyal
マンチェスターのテロ事件に対するケンジントン宮殿の公式発表を見て、違和感を覚えるのは私だけなのかな。
末尾の「The Duke of Cambridge」は最初の行にある「I]が誰なのかを示すため必然ですが、 HRH(His Royal Highness)とわざわざ自称する感覚が理解できない。書面を作成した宮殿の奉仕者が王族に敬意を表するのはいいのですが、His Royal Highness という接頭語は、遙かな高みからテロの犠牲者に思いを垂れてやっているのだ、まるで散華のように、というような印象を受けます。
しかも、彼らに投げ与えるのは our thoughts(思いやり)であって our condolences(お悔やみ)ではないところも面白いですね。最終行にある「・・・community that is an example to the world」という表現も、臣民よ、不幸な時こそ、世界の範たれ、と諭しているようで、なんとも偉そうな言い草です(実際、偉いのでしょうが)。このようなメッセージをツイッターで発信するというのも、トランプ同様、吹けば飛ぶような軽さです。

https://www.royal.uk/message-her-majesty-queen-lord-lieutenant-greater-manchester
Her Majesty The Queen から the Lord-Lieutenant of Greater Manchester へのメッセージの末尾の署名は、ELIZABETH R. だけで、まるで私信のような感じです。表明されているのは、my deepest sympathy ではありますが。

https://www.royal.uk/message-her-majesty-queen-lord-lieutenant-greater-manchester
The Prince of Wales から the Lord-Lieutenant of Greater Manchester へのメッセージには condolence と our most heartfelt sympathy がありますが、末尾に署名はないのですね。
 

雪池忌

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月23日(火)12時34分16秒
編集済
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 「文明開化」という語は、福沢諭吉が前記の『西洋事情外編』(慶応三・一八六七年)において、civilisation を「世の文明開化」などと訳したことに始まるというのが定説である。そして、明治に入ると、「文明」「開化」それぞれ単独でも同義に用いられ、流行語となったことも周知の通りである。(『東アジアの王権と思想』244頁)

(81) 「開化」の語は、『仏説無量寿経』に「一切の諸天人民を開化す」等として用いられ(巻上)、親鸞『教行信証』教巻にも引用されている。星野元豊ほか校注『日本思想体系11 親鸞』(岩波書店、一九七一年)、一六頁。福沢諭吉の家は浄土真宗であるので、彼は仏教書においてこの語に接したことがあったかもしれない。なお、時に誤解されているが、「開化」は、enlightenment の翻訳ではありえない。一般的な意味ではなく、ドイツ語 Aufklärung の訳語として enlightenment の語が初めて用いられたのは、一八六五年のあるヘーゲル研究書においてだからである。Cf."enlightenment "in The Oxford English Dictionary,Second Edition(Oxford Clarendon Press,1989).また、実際の用法からみて、一般的意味での動詞 enlighten や、名詞 enlightenment の訳語でもありえない。(同書266頁)
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興味深い脚注ですが、「また、実際の用法からみて、一般的意味での動詞 enlighten や、名詞 enlightenment の訳語でもありえない。」という一文は、浅学にして理解できません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%B8%AF%E5%8C%BA)
むかし、麻布散歩の折、偶々立ち寄った善福寺で諭吉墓を発見したものの、親鸞と諭吉がなかなか結びつかず、戸惑ったことがあります。実家はお西ではなくお東の門徒だったのか。なお、境内の逆銀杏は鶴岡八幡宮の大銀杏の樹齢同様、善男善女を誑かす無根拠の戯言ですね。


付記
小太郎さん
投稿が前後してしまいました。ご引用の文を読みますと、「十三世紀初期から十八世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない。・・・」みたいな安直なことを、なぜ堂々と言えるのか、不思議ですね。
僭越ながら、「日本政治思想史研究」というのは傲慢な大風呂敷であって、もっと謙虚に「江戸政治思想史研究」くらいに限定すべきであるように思われます。

付記2
「一切の諸天人民を開化す」について。
『眞宗聖典』(真宗大谷派宗務所出版部 2010年)では(153頁)、「一切の諸天・人民を開化す」となっていて、人民に「にんみん」、開化に「かいけ」のふりがながあります。前後の文脈から開化の主語は如来で、如来が一切の諸天と人民を開化する、と読めます。渡辺氏の脚注では、一切の諸天が人民を開化する、とも読めてしまい、注としては不十分ですね。もっとも、ある程度、仏教に通じていれば、そのような読み方はできないのですが。如来の代わりに西欧が日本を開化してくれるとは情けない、と諭吉が思ったかどうか。
 

『帝室制度史』を読む(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月23日(火)11時56分22秒
編集済
  「第二款 帝号の用法」(p127以下)に進みます。
実質4ページ分ほどの短い解説です。

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    第二款 帝号の用法

天皇を称し奉る各種の称号の用法に付いては、上古に在りては、公の制規の定まれるものなく、又一定の慣習も存せざりしが如し。
律令の制定せらるゝに及びて、其の制始めて定められたり。大宝令儀制令に「天子、祭祀所称、天皇、詔書所称、皇帝、華夷所称、陛下、上表所称、太上天皇、譲位帝所称、乗輿、服御所称、車駕、行幸所称」とあるは是なり。令義解に拠れば、此等の称号は文書に用ふる所にして、皇御孫命、須明楽美御徳〔スメラミコト〕の如く古俗に称する所は、別に文字に依らずとあり。

儀制令に定むる所の外、大宝令公式令には、別に詔書式の定あり、各種の詔書に用ふる称号を定む。令義解には、明神御宇日本天皇詔旨云々は、大事を以て外国使に宣する辞、明神御宇天皇詔旨云々は、次事を以て外国使に宣する辞、明神大八洲天皇詔旨云々は、朝廷の大事即ち立后、立太子、元日朝賀等に用ふる辞、天皇詔旨云々は、朝廷の中事即ち左右大臣以上を任ずるの類に用ふる辞なりと見えたり。
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天皇は律令制の定める国家機構の頂点に位置するので、国家の重要行事や重要人事に関わる文書には、どう表現するかはともかく、天皇の存在自体は不可欠ですし、外交の場面でも不可欠の存在ですね。
律令制は、その法令の条項の多くは空文化するとはいえ、観念的には江戸時代になっても存続しているので、国家的な重要文書には、やはり天皇の存在自体は不可欠となるはずです。
だから、「故征夷大将軍右大臣正二位源朝臣家治」に「太政大臣正一位」を贈る「贈官位」の宣命みたいなものに「天皇」の表現が必要となる訳ですね。

さて、上記の律令の定めは当初から実態とはかなりずれていたそうです。(p129以下)

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然れども此等の令の定は当初より必ずしも厳格には遵由せられざりしが如く、其の実際に用ひられたる例に就いて見れば、神、仏、山陵への宣命には、皇御孫命、天皇、神祇への祝詞には、皇御孫命、儒教及び陰陽道に関する願文、祭文には、嗣天子、天子等、仏事に関する敬白文、願文には、皇帝、国主皇帝と記したまふを例とし、即位、改元、譲位、其の他の大事を宣誥する詔書には、明神御宇日本倭根子天皇、現御神<止>大八嶋国所知天皇、現神<止>大八洲国所知倭根子天皇、天皇等、外国使に宣する詔書には、明神御宇日本天皇、天皇、任大臣等の宣命には、天皇と記したまへり。外国に対しては、推古天皇の隋に遣はしたまひし国書に、日出処天子、東天皇と記したまひ、文部天皇以後新羅、渤海等の諸国に遣はしたまひし勅書には、天皇と記したまふを例とせり。外国よりの国書には、唐の国書に日本国王主明楽美御徳〔スメラミコト〕と国風の称号を記せる外は、概ね、天皇、日本国天皇、倭皇、日本国王と記し、百済、新羅、高麗等の服属国は、特に可畏天皇、日本照臨天皇、日本照臨八方聖明皇帝と記したるもあり。
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ということで、この後、明治時代に入ってからの部分は省略します。
 

『帝室制度史』を読む(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月23日(火)11時54分39秒
編集済
  それでは東京大学名誉教授・渡辺浩君にもガッテンしていただけますように、『帝室制度史』をベースとして分かりやすく解説してみたいと思います。
さて、そもそも『帝室制度史』とは何かについてはウィキペディアなどを参照してもらうとして、まずはその文体紹介を兼ね、第六巻の冒頭を少し引用してみます。(p1以下)
読みやすさを考えて、段落毎に一行スペースを開けます。

-------
 第一編 天皇
  第四章 称号
   第一節 帝号
    第一款 帝号の種類

天皇を称し奉る称号には、古来種々の成語あり。上代には専ら我が固有の国語を以て称し奉り、スメミマノミコト、スメラギ、オホキミ、アキツミカミ、ミカド等の称号行はれたりしが、後支那の文物の我が国に伝はるに及び、此等の固有の国語を書するに漢字を以てすると共に、天皇、天子、皇帝等種々の漢風の称号も亦我が国に用ひられ、国風及び漢風の両様の称号が並び行はるゝに至れり。

此等の多数の称号は、其の語義より謂へば、或は天皇が皇祖以来一系の皇統を承けたまへる御子孫なることを示すものあり、或は天皇が国を統治したまふ君主なることを示すものあり、或は天皇の御一身の神聖尊貴なることを示すものあり、或は又天皇の御一身を憚り、皇居其の他の事物を仮りて天皇を称し奉るものもあり。

天皇が皇祖の御子孫なることを示す称号には、スメミマノミコト、ヒノミコの古語あり。スメミマノミコトはミマノミコトとも称せられ、天照大神の御孫の義なり。後に皇孫命、皇御孫命等の文字を以て記せり。ヒノミコは日神の御子孫の義にして、後に日之皇子の文字を以て記せり。タカヒカルヒノミコの成語あり。

統治の意義に基づく称号には、スメラギ、スメラミコト、ヤスミシル、ヤマトネコの古語の外に、万乗、御の漢語、仏典に基づく金輪の語あり。スメラギは古くはスメロギと云ひ、スメラ、スベラギの類語あり。スメラミコトと共に、何れも統ぶる君の義にして、後に天皇、天皇命の文字を以て充つるに至れり。ヤスミシルは蓋し八隅を知し食すの義なり。ヤマトネコは大倭を知し食すの義にして、大倭根子とも記す。何れも国風の称号なり。万乗は「万乗、兵車万乗、謂天子也」とある支那の典籍に出で、万乗の位、万乗の主等の成語あり。御は四海を統御するの義に出づ。共に漢風の称号なり。金輪は仏典に須弥山の四洲を統治する帝王の称なりとあるに出づ。金輪聖王、金輪聖主、金輪聖皇等の成語あり。

君主の意義を示す称号としては、古語にはオホキミ、漢風に出づるものには天皇、皇帝、帝王、元首等あり。オオキミは君主の尊称にして、王、大王、大君等の文字を以て充てたり。君、聖君等の類語あり。【後略】
------

という具合に冒頭から7ページまで「帝号の種類」についての説明があり、この後、種々の称号の用例が「日本書紀<六 垂仁天皇>」「古語拾遺」「日本書紀<二 神代下>」「日本紀竟宴和歌」等の出典とともに延々と127ページの途中まで続きます。
ということで、約九百ページに及ぶ浩瀚な『帝室制度史』第六巻は論文集ではなく、基本的には数多くの用例を集めた史料集ですね。
史料の大海原の中に、ところどころ解説の小島が浮かんでいる、といった風情です。

>筆綾丸さん
ちょっとレスが遅れてしまいましたが、大江磐代のことは『光格天皇実録』第一巻の冒頭に出てきますね。
藤田覚氏が「不明にしてよく知らなかった」と書かれている内容は、別に最近明かになったことではなく、全て『光格天皇実録』所収の「岩室家系譜」に出ていることです。
後で紹介します。
 

吾妻鏡を飲む

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月22日(月)13時12分46秒
  小太郎さん
ご引用の諸例をみますと、渡辺・藤田両氏の言説はどこまで信用できるのか、怪しくなってきましたね。
『東アジアの王権と思想』の「序 いくつかの日本史用語について」に、「幕府」「朝廷」「天皇」「藩」に関する説明がありますが、これらも果たして大丈夫なのか、と不安になります。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
以下は、両氏には無関係です。
ご引用の最後にある「陰陽頭土御門泰栄ノ里第」について、「里第」と云えば普通は「里内裏」を意味しますが、安永十年は天明の大火前で御所は健在だから、「里第」は単に邸宅を指すのでしょうね。陰陽頭如きの邸宅が、格式からして、里内裏になれる筈がないですよね。
また、天曹地府祭と言うと、以前、結構本気で読んでいた『吾妻鏡』の中の実朝臨席の記述を思い出し、ほかにも泰山府君祭とか色々あったなあ、と懐かしく思いました。

http://kamakura-syuhan.com/?pid=89699793
『吾妻鏡』の影響で、吾妻鏡を飲んだことがありますが、ごく普通のイモ焼酎でした。記念に瓶は保管してあるので、この夏は、梅酒でも入れて冷やして飲もうかな、と天啓のようにひらめきました。
 

藤田覚氏への素朴な疑問

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月22日(月)11時23分34秒
編集済
  渡辺浩氏、そして渡辺氏の認識の基礎となっている藤田覚氏の「天皇号」の話は、その一番基本的な前提の部分に多大な疑問があります。
藤田氏は1994年刊行の『幕末の天皇』において、「江戸時代、天皇のことを通常は『主上』『禁裏(裡)』などと称し、天皇という語は馴染みのない呼称だった」と述べ(講談社学術文庫版、p139)、1999年刊行の『近世政治史と天皇』の「第八章 天皇号の再興」の冒頭では、

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 江戸時代の天皇、厳密には天皇の位についている方は、通常は「禁裏」「主上」などと呼ばれ、「天皇」と呼ばれたり、文書や記録などに記されることはほとんどない。 だが、即位宣命や宸筆宣命などの宣命類では、「天皇」と書いて、「すめらみこと」などと読んでいる。
------

と書かれています。(p247)
しかし、近世公家社会には全く素人の私が、ゆまに書房による『天皇皇族実録』復刊シリーズの一冊、『光格天皇実録第一巻』(2006)を手に取ってパラパラめくってみたところ、数多くの宣命に「天皇」が頻出するばかりか、個人の日記類にも頻繁に「天皇」が登場していますね。
編年体の『光格天皇実録』全五巻のうち、第一巻は光格天皇(1771-1840)の誕生から僅か十歳での践祚を挟み、寛政元年(1789)までの幼年・若年期の記録であり、光格天皇自身による様々な古儀復興の影響など全く受けていない時期のものです。
宣命では即位宣命(p81)だけでなく、伊勢神宮への「御即位由奉幣」発遣の宣命(p73)、同じく伊勢神宮への「御元服由奉幣」発遣の宣命(p100)、「故征夷大将軍右大臣正二位源朝臣家治」に「太政大臣正一位」を贈る「贈官位」の宣命(p382)など、多くの種類の宣命の全てに「天皇」との表現があります。
また、「御即位次第一会」という即位式の記録にも「天皇著御礼服」(p90)、「天皇御高御座」(p91)、「天皇還御本殿」(p93)などとありますね。
個人の記録では、『柳原紀光日記』に「今日天皇<春秋十一、先帝御養子、実系一品太宰帥典仁親王男、去々年所有践祚也>冠礼日也」(p111)、『山科忠言卿記』に「抑此日天皇<兼仁>御冠礼日也」(p119)、『経煕公記』に「今日天皇御元服也」(p123)、『徳大寺公城手記』にも「御元服天皇ノ儀也」(p123)といった具合で、『定晴公記』の「此日皇帝加元服<御年十一>」という表現がむしろ例外なのではないかと思われるほどです。
ちなみに柳原紀光(1746~1800)は亀山天皇践祚の正元元年(1259年)から後桃園天皇が崩御した安永8年(1779年)までを扱った歴史書『続史愚抄』の著者としても有名ですが、『続史愚抄』は歴代天皇について「〇〇院」ではなく「〇〇天皇」と表記していますね。

うーむ。
こうなると藤田覚氏の<江戸時代の天皇、厳密には天皇の位についている方は、通常は「禁裏」「主上」などと呼ばれ、「天皇」と呼ばれたり、文書や記録などに記されることはほとんどない>という記述はどこか別の近世社会、パラレルワールドの記録なのかな、という感じさえしてきます。
また、渡辺浩氏の<天保十一年(一八四〇)に光格天皇(在位 安永八・一七七九年ー文化十四・一八一七年)の諡号が復活するまで、「天皇」の号は、生前にも死後にも正式には用いられなかった>については、宣命は「正式」ではないのかな、という素朴な疑問が生じますね。

ちなみに、『光格天皇実録第一巻』p150以下に、安永十年正月二十九日の記事として、

-------
二十九日、是日ヨリ五箇夜、陰陽頭土御門泰栄ノ里第ニ於テ天曹地府祭ヲ行ハル、都状ヲ奉ラル、

〔天曹地府祭都状〕二十二 光格天皇
謹上   天曹地府都状
 大日本国大王「兼仁」十一歳謹啓
【以下、16行略】
--------

とあり、陰陽道の世界では「天皇」ではなく「大日本国大王」なんですね。

『天皇皇族実録』(ゆまに書房)
http://www.yumani.co.jp/np/isbn/9784843319918

>筆綾丸さん
『天皇皇族実録』は約900頁あり、デジタル版で読むのはちょっときついですね。
後で関係する部分を抜き書きし、こちらに載せるつもりです。
 

ポナンザのあとさき

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月21日(日)16時09分40秒
  小太郎さん
ご引用の『帝室制度史』をデジタルで読むのはしんどいのでやめておきますが、『東アジアの王権と思想』の引用個所は、一読したとき、ひっかかるものがありました。
秀才には失礼ですが、外国語の習得に忙しく日本の中世や朝廷に詳しくないとするならば、「日本政治思想史」の研究は本末転倒なのではあるまいか、という気はしますね。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFG20H34_Q7A520C1000000/
二局とも名人の完敗でした。もう人間に勝ち目はないのでお仕舞いですが、山本一成氏をはじめ、ソフトの開発に人生を賭けてきた人たちは、これからどうするのだろう? 将棋に特化したソフトなど他分野への応用はなく、また、ソフト同士の対戦では商売にならないですね。
現在の将棋界で最強の棋士はおそらく藤井四段なので(羽生三冠や天彦名人ではなく)、彼とポナンザの対戦を期待していたのだけれど。
 

東京大学名誉教授・渡辺浩氏の勘違い

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月21日(日)09時10分53秒
編集済
  >筆綾丸さん
『帝室制度史』第六巻を確認してみました。
また、藤田覚氏が『近世制度史と天皇』(吉川弘文館、1999)の「第八章 天皇号の再興」において、『幕末の天皇』(講談社選書メチエ、1994)の「第三章 天皇権威の強化策」「6 天皇号の再興」の内容について若干の補充を行なっていることにも気づきました。
結論として、筆綾丸さんが14日の投稿「marigot としての宗教」で引用された『東アジアの王権と思想』の、

-------------
 十三世紀初期から十八世紀末までの日本には、ある意味で、天皇は存在しない。順徳天皇(在位 承元四・一二一〇年ー承久三・一二二一年)以来、天保十一年(一八四〇)に光格天皇(在位 安永八・一七七九年ー文化十四・一八一七年)の諡号が復活するまで、「天皇」の号は、生前にも死後にも正式には用いられなかったからである。彼等は、在位中は「禁裏(様)」「禁中(様)」「天子(様)」「当今」「主上」等と、退位後は「仙洞」「新院」「本院」等と、そして、没後は例えば「後水尾院」「桜町院」「桃園院」と呼ばれた。前掲『大日本永代節用無尽蔵』(嘉永二年再刻)の「本朝年代要覧」も、光格・仁孝以前は(古代とそれ以降の順徳等少数の「天皇」を除き)、「何々院」と忠実に記載している。江戸時代人は、「後水尾天皇」などとは、言わなかったのである。(『東アジアの王権と思想』(1997年 初版 7頁)
----------------

は渡辺浩氏の単なる勘違い、それも複数の勘違いの詰め合わせですね。
丸山眞男の直弟子で、かつて東大法学部で日本政治思想史講座を担当されていて、何か国語できるのか分からないほどの秀才の方に対して私のような素人があれこれ言うのも気が引けるのですが、ま、要するに渡辺浩氏は『帝室制度史』の内容を正確に理解できなかったようです。
また、『近世政治史と天皇』の「あとがき」を読むと、藤田覚氏はもともと公家社会などには全然興味がなかった人なんですね。
しかし、そんな藤田氏が昭和天皇崩御の「Xデー」が話題になりつつあった時期に、歴史学研究会大会での発表準備を兼ねて公家社会の俄か勉強を始めたところ、予想外に面白い事実が次々に現れ、その成果を高揚した気分の中で一気に纏めたのが『幕末の天皇』だったみたいです。
そのため『幕末の天皇』の「天皇号の再興」には分析の粗い部分があり、それを少し頭を冷やして反省し、専門家向けの論文に仕立て直したのが「第八章 天皇号の再興」のようですね。
今日はこれから外出するので、続きはまた後で書きます。

帝室制度史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%AE%A4%E5%88%B6%E5%BA%A6%E5%8F%B2
『帝室制度史』第六巻(国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1444676
 

大江磐代

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月20日(土)11時47分21秒
編集済
  ------------
 光格天皇について最近かかわったことから紹介してみたい。それは、本書ではまったく触れていない生母のことである。
 生母は大江磐代君という。二〇一二年十月から十一月にかけて、鳥取県倉吉市の倉吉博物館が没後二百年を機に特別展覧会「大江磐代君顕彰碑」を開催した。見応えのある展覧会の講演会に招かれたのだが、生母について不明にしてよく知らなかった。
 光格天皇は、閑院宮家の王子から後桃園天皇の養子になり皇位を嗣いだ。江戸時代は天皇の子女が皇位についてきたのに対して、宮家の出自のため周囲から軽く見られ、自身も傍系・傍流をたえず意識せざるをえなかったことはわかっていた。母は閑院宮典仁親王の妃、養母は後桃園天皇女御とされていたので、生母について関心がなかった。
 ところが生母は、現在の倉吉市に生まれ、鳥取池田家の家老の家臣でその後浪人となった家の娘だった。さまざまあって閑院宮の女房となり、光格天皇を生んだ。しかし、天皇になるや、生母の存在は表面から消えた。(『幕末の天皇』学術文庫版あとがき 263頁)
------------
こんなことまで、ほんとにわかるものなのか? 仮にそうだとして、「顕彰」というのも、なんだかなあ、という感じがしますね。
 

上皇の側近と院の近臣

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月20日(土)10時37分21秒
編集済
  小太郎さん
仰る通り、『幕末の天皇』はあまり参考にならないですね。

キラーカーンさん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
村上の「天皇」は理解できるにしても、次代の冷泉がなぜ「院」になったのか、背景がわからないですね。
精神異常の冷泉を「天皇」と呼ぶには憚りがあって別称を必要とした、ということなのかな。とすれば、「院」という称号には一種不吉な影が付き纏うことになるから、次の圓融ではまた「天皇」に戻さねばならぬのが道理というものです。「天皇」から「院」への変更は、朝廷にとって重要な先例を破ることになるから、村上天皇と冷泉院の間には深い闇があったのでしょうね。冷泉のネガティヴな俤を揺曳した「院」が、以後、なぜ延々と続いたのか、よくわかりませんね。
光格が「天皇」になる背景は『幕末の天皇』に詳述されていますが、閑院宮家という傍系の出自が大きな理由のひとつではありますね。


本日の日経(朝刊4面)に、特例法案の全文が掲載されていて、第11条に以下のような条項があります。
----------------
上皇侍従長は、上皇の側近に奉仕し、命を受け、上皇職の事務を掌理する。
----------------
「側近に」は「側近くに」とした方がいいのでは、と思いました。引用の文では、上皇に「側近」がいて、その「側近」に仕えるのが上皇侍従長だ、と解釈することもできます。「側近くに」では王朝文学のようになってしまうので漢語調にしたかったのだ、とは思いますが。「側近」は仏語では entourage と云い、文字通り、周りを取り巻く者(物)、という意味ですね。
また、第1条(趣旨)における敬語の頻出は従来通りですが、「深く案じておられる」「精勤されておられる」は誤用だから、単に、「深く案じられている」「精勤されている」で(他の法律とのバランスはさておき)、充分ではなかろうか。
 

駄レス

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2017年 5月20日(土)01時09分5秒
  >>第六十二代村上天皇までは
延喜天暦の治の影響でしょうか

>>順徳天皇なのか
承久の乱のイメージが強くて土御門天皇と順徳天皇は「セット」と思い込んでいるせいか、
土御門天皇と順徳天皇とで扱いを変えるということ自体が理解しがたいです、
 

「院号であれば、天皇も将軍も、そして庶民も同列」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月19日(金)23時40分4秒
編集済
  >筆綾丸さん
私も『幕末の天皇』(講談社学術文庫、2013)を見てみました。
筆綾丸さんが14日の投稿「marigot としての宗教」で引用された『東アジアの王権と思想』の本文に対応する注(33)、即ち、

------
(33)天皇に関する以上の叙述については、帝国学士院編『帝室制度史』第六巻(帝国学士院、一九四五年)第四章第四節、児玉幸多編『日本史小百科八 天皇』(近藤出版社、一九七八年)、八二-八三頁、藤田覚『幕末の天皇』(講談社、一九九四年)、一二九-一三五頁参照。特に藤田氏は、中井竹山にも触れ、この事態とその変革の意味を的確に指摘している。
------

の最後の一文に対応する『幕末の天皇』の記述を見ると、復古への苛烈な意志や仏教への嫌悪などは特に伺われず、要するに院号がインフレ化してしまって安っぽくなったから高貴な感じがする「天皇」号に戻しましょう、程度のことなんですね。
念のため正確に引用してみると(p141以下)、

------
 諡号・天皇号の復活にはどのような意味があるのだろうか。十八世紀の著名な儒者である中井竹山の意見を聴いてみることにしよう。竹山はその代表作『草茅危言』のなかで、「天皇の文字を廃せらること嘆ずべき也」と慨嘆している(『日本経済大典』第二十三巻、三二五頁)。院号というものは、大名から庶民までが用いているものなので、「極尊」である天皇にはふさわしくない、というのである。
 神惟孝という人も、『草茅危言摘議』(同前第三十八巻、五〇二頁。天保十二<一八四一>年ころの著作)のなかで、院号は「上下貴賤の隔て」もなく恐れ多いことだと書いている。そこから竹山も神も、「極尊」にふさわしいのは「天皇」号なのだから、「天皇」号を復活させるべきだという結論になる。また、竹山と神は、いままで院号をおくられた天皇にも「天皇」号を追贈すべきだと主張し、竹山はその際は元号を諡号─「元号+天皇」─としておくることを提案している。ちなみに、竹山の「元号+天皇」案は、明治時代に入って実現し、明治天皇以来現在まで続いていることを付けくわえておこう。
 江戸時代は裕福であれば町人・百姓身分の者でも、戒名に院号をつけることができた。また、諸大名、さらにはたとえば八代将軍徳川吉宗が「有徳院」とおくられているように、将軍も院号をつけている。院号であれば、天皇も将軍も、そして庶民も同列ということになる。その状態から抜け出し、将軍よりも上位の、そして日本国の「極尊」であることを明示する称号こそ、「天皇」号であった。それ故、「天皇」号の復活は、天皇が日本国において「極尊」であり、特別な権威的存在であることを宣言したものといえよう。これにより天皇は、大政委任論により政治の正統性、政治権限の源泉という位置づけを与えられたが、さらにそれにふさわしい称号も復活させたことになる。
------

ということで、藤田覚氏の気合の入った文章にも拘らず、まあ、些か拍子抜けの感がなきにしもあらずです。
順徳天皇云々については帝国学士院編『帝室制度史』を見た方がよさそうですね。

中井竹山(1730-1804)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E7%AB%B9%E5%B1%B1
 

南無阿弥陀仏

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月19日(金)15時44分15秒
編集済
  -------------------
 君主意識と並んで、光格天皇は強い皇統意識の持ち主でもあった。天皇歴代に連なるという意識は、江戸時代の天皇に共通するものだろうが、光格天皇はひときわ強烈である。
 先の石清水八幡宮と賀茂社の臨時祭再興を願う「御趣意書」の最後に、

 百二十代(花押)
とある。光格は第百二十代の天皇である、という意識である。
 また、寛政六(一七九四)年十月、実父である閑院宮典仁親王が亡くなって百ヵ日の法要にさいし、その菩提を弔うため、「南無阿弥陀仏」の名号を千回書いた(宮内庁書陵部所蔵「光格天皇宸翰南無阿弥陀仏」)。その奥書に、

   右一千反之名号者、奉為
   自在院(典仁親王)尊儀菩提、浄身
   虚心謹而奉書者乎、
  寛政第六載冬十月中旬
    神武百二十世兼仁合掌三礼

と書いている。(『幕末の天皇』85頁~)
-------------------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%84%A1%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F
この「南無阿弥陀仏」は、諸宗派の内、徳川宗家が奉じた浄土宗で云う所の「南無阿弥陀仏」である、と解釈していいのでしょうね。江戸であれば増上寺、京都であれば知恩院。

法然の御忌に関しては、光格天皇より少し前の俳人になりますが、以下のものが秀逸ですね。
 なには女や京を寒がる御忌詣      蕪村
 八郡の空の霞や御忌の鐘        召波
 着だをれの京を見に出よ御忌まふで   几董

http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20170518-japon-princesse-imperiale-epouse-roturier-renonce-son-titre
はじめて知りましたが、英語の commoner(平民)に相当する仏語は roturier と言うのですね。
 

天皇の号が此度世に出て

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 5月18日(木)15時55分43秒
編集済
  --------------
 天保十一(一八四〇)年十一月十九日、天皇在位三十九年、引きつづき院政二十四という長期間にわたり朝廷のトップに君臨した光格上皇が、七十歳の生涯を終えた。この上皇は、翌年の閏正月に「光格天皇」とおくられた。このことに関わって、つぎような落書が出ている(『藤岡屋日記』第二巻、一七〇頁、一九八八年、三一書房)
      柳営御追善の連歌
   天皇の号が此度世に出て     仙院
   はっと驚く江戸も京都も     貴賤
   陵はいかがいかがと有職者    古儀
   泉はちいと不気受なもの     仏法
 上皇に「光格天皇」と、「天皇」号がおくられたので、江戸でも京都でもみな一様にびっくりし、朝廷の儀礼や制度に明るい有職者たちは、山陵(天皇陵)を追ってはどうですかどうですかと勧め、そのためか江戸時代の歴代天皇が葬られた泉湧寺はちょっと面白くない、という「天皇」号おくられたことが引きおこしたいくつかの波紋を連歌の形式に託して表現している。
 上皇に「光格天皇」とおくっただけなのに、人々はいまさらなぜ「天皇」号が出てびっくりしたのだろうか。
 その理由はふたつほどある。江戸時代、天皇のことを通常は「主上」「禁裏(裡)」などと称し、天皇という語は馴染みのない呼称だったことがひとつの理由である。
 また試みに、江戸時代の公家名簿、朝廷の職員録ともいうべき『雲上明覧』の安政四(一八五七)年版を開いてみると、はじめの方のページの上段の欄に歴代天皇が載せられている。初代神武天皇から第六十二代村上天皇までは「・・・天皇」と記されているが、第六十三代の冷泉院から第百十九代の後桃園院(光格天皇の先代)までは「・・・院」という院号で、第百二十代の光格天皇からまた「・・・天皇」となっている。すなわち、村上天皇(在位は天慶(九四六)年~康保四(九六七)年以来、五十七代約九百年のあいだ「天皇」号は中絶していたのである。八百七十四年ものあいだ眠りこんでいた古代の遺物のような「天皇」号の復活だったから、人々がびっくりしたのである。(『幕末の天皇』講談社学術文庫版138頁~)
--------------
『雲上明覧』には「順徳院」とあることになり、なぜ順徳天皇なのか、という問題は藤田氏の著書からはわからないですね。


http://www.bbc.com/news/world-asia-39957217
この記事の初出の標題は、
Japanese princess to swap status for love・・・①
という軽いもので、あえて軽く訳せば、「日本の内親王 位を捨てて恋を取る」くらいになりますが、時間の経過とともに、
Princess Mako to lose royal status by marrying commoner・・・②
Princess Mako, is to surrender her royal status by marrying a commoner・・・③
Japan's imperial law requires a princess to leave the royal family after marrying a commoner・・・④
というふうに、ニュートラルで客観的な文体に変わりました。宮内庁が駐英日本大使館経由でBBCに抗議したのかな。初出の標題には驚きましたが、swapという語は、女性皇族は婚姻により皇族を離脱しなければならないという皇室典範の窮屈な規定をちょっと揶揄してみた、というだけのことかもしれません。①②③④のニュアンスを正確に汲み取るのは、ネイティヴでもないかぎり無理だ、と感じました。
補遺
swapという語に、こだわりすぎているだけなのかもしれません。 
 

「夜学する奉公人の姿に驚かされる」(by 藤田覚氏)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 5月18日(木)12時44分10秒
編集済
  『幕末の天皇』は昔、確かに購入したのですが、私もここ数年引っ越しを繰り返して、古い書籍は未整理のまま段ボール箱に入れて積上げている状態で、どうも自宅で探すより図書館に行った方が早そうです。
代わりにという訳でもありませんが、藤田覚氏の『シリーズ日本近世史(5) 幕末から維新へ』(岩波新書、2015)をパラパラ眺めていたところ、「第3章 近代の芽生え」の「2 民衆の知の発達」に紹介されていた信濃国埴科郡森村の事例はなかなか興味深いなと思いました。(p112以下)

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 信濃国埴科郡森村(現、長野県千曲市森)の中条唯七郎(一七七三~一八四九)が、弘化年間(一八四四~四八)に、名主などを務めながらみずから暮らした地域社会の約五〇年(一八世紀末から一九世紀半ば近く)ほどのあいだの変化を、過去の日記などをもとにして、村人の生産や生活、そして物の考え方などについて『見聞集録』として書き留めた(柄木田文明氏の紹介・翻刻)。ほぼ同時期の世相の変化を活写した広い意味での随筆として、『寛天見聞記』(寛政から天保年間の見聞記)などがあり、江戸の世相の変化をよく伝えている。それが都市における変化をとらえているのに対して、この『見聞集録』は、信濃松代藩(真田家)領北信濃の農村部の変化を伝えるものである。なお、現在の森地区は「あんずの里」として知られている。

識字率の向上
 中条唯七郎は、地域社会の変化の大きさを「天地黒白」「天地隔絶」と随所に表現している。「天地黒白」の変化のいくつかを紹介してみよう。
 たとえば中条は、村人の識字についてつぎのように書いている。

昔は森村も無筆の人が多かった。いまそう言っても誰も信じてくれないほどだ。私が二二、三歳のころ(寛政六、七年<一七九四、五>)から素読が流行し、一季奉公人(一年契約の奉公人)までもが読むようになった。それ以来、さらに進んで俳諧、狂歌、和歌、そして現在では長歌を嗜む人も多いほどになった。まことにこの間に天地黒白の違いが生まれた。しかし、このような状況は森村だけのことではなく、世間一般にそのようになっている。

 弘化年間ころの森村には、ごく一部の老人を除いて読み書きのできない村人はいない状況だったらしい。隠居した和尚や医師らに入門し素読の手ほどきを受ける人があらわれ、そのころは物読〔ものよみ〕と言っていたが、文政一〇年(一八二七)から素読と言うようになり、「今川状」などを収めた古状揃(古い書状などを集めて手習いの教科書として用いられた)、庭訓往来(月毎の手紙の文例を集め日常生活の語彙を解説した寺子屋教科書)、実語教(教訓や道徳を説いた寺子屋教科書)、童子教(児童教訓書で寺子屋教科書)などから始め、四書五経(儒教の重要古典で、「大学」「中庸」「論語」「孟子」の四書と、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の五経)へと進んだらしい。一季奉公人たちは奉公先で夜間に勉強し、初めは古状揃・庭訓往来でも難しすぎると言っていたのが四書五経へと進み、素読稽古の夜は短いと嘆くほどになり、のちに素読はしなければならないものと言われたほど流行したという。素読は森村から流行し、それが各地へも広まったともいう。夜学する奉公人の姿に驚かされる。
-------

四書五経レベルは上層農民だけの話かと思っていましたが、森村では一般農民どころか奉公人まで勉強しているのですね。
また、「素読」が村の一部で流行し始めてから全村に普及するまでの期間があまりに短いことにも吃驚です。

>筆綾丸さん
>丸山教の信仰告白

この部分、私は割と素直に丸山眞男はたいしたものだな、と思いました。
歴史研究の細分化が極限まで進んだ現在では、早く専門的な論文を量産しなければ職に就けない、専門と直接関係のない語学などやっている暇はない、みたいな雰囲気がありそうですが、若い頃に語学をきちんとやっていない人は、研究生活のある段階で行き詰まりを感じるのではないですかね。
頻繁なテレビ出演のおかげで今や歴史学界有数の著名人となった磯田道史氏など、日本の歴史人口学のパイオニア・速水融氏に学んだ経歴がありますから、速水氏同様に国際的な活躍をする道もあったはずですが、エマニュエル・トッドとの対談を読むと、貧弱な語学力がその妨げになったようですね。

「エマニュエル・トッドと磯田道史氏のほのぼの対談」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8682
「わが敬愛する先輩の小川さん」(by 磯田道史氏)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8686
 

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