投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
  ファイル1
  ファイル2
  ファイル3
アップロード可能な形式(各1MB以内):
画像(gif,png,jpg,bmp) 音楽(mmf,mld) 動画(amc,3gp,3g2)

 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ ]

投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

[PR]  不動産投資 岐阜の求人・転職 インプラント 名古屋 物流費
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]

全2000件の内、新着の記事から30件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 

歴史手帳

 投稿者:職人太郎  投稿日:2009年11月22日(日)11時10分45秒
  おお、小太郎さんも独学なんですか・・ 新人物往来社のあのシリーズは何冊か読んだことがあります。たしか先年、どこかの版元さんの傘下に入ったんですよね・・・

残念ながら、歴史書はあまり売れませんね。読者が限られているのでしょうか? 私も吉川弘文館から一冊上梓していますが、2刷止まりです(笑) ただ、律儀な会社で、毎年末には翌年用の「歴史手帳」を献呈してくれます。あれは歴史に興味がある者には大変便利です。オススメですよ。
 

いえいえ。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月21日(土)21時28分53秒
  >職人太郎さん
私は普通の会社員で、きちんとした歴史学の教育は受けておらず、30代半ばになって、突然、鎌倉時代の宮廷女性が書いた『とはずがたり』という作品に興味を持ち、独学で中世文学と中世史の勉強をしてきました。
本郷和人氏編『別冊歴史読本 歴史の争点 武士と天皇』(2005年9月)に、ほんのちょっとだけ書かせていただいたことはありますが、著書は特になく、ネットで書いているだけです。
筆綾丸さんは謎の知識人で、私は一度もお会いしたことはなく、ご経歴も知りません。
 

自己流

 投稿者:原田改め「職人太郎」  投稿日:2009年11月21日(土)17時58分34秒
  私だけが本名というのも、こっぱずかしいので、これからはHNにしますね(笑)

それにしても、小太郎さんも筆綾丸さんも博識ですねえ。ほとんど独学の私としましては、驚くことばかりです。後世に発掘できる瓦などと違い、檜皮など植物性の屋根材は腐ってしまいますから、往時の様子を知るには絵巻物や公家の日記が欠かせません。ここに「日本中世史」との接点ができるのですね。

おふたりとも大学の先生など専門家の方だと思うのですが、もし、ご著書等があればお教えください。現在、新著を執筆中ですので、私も勉強したいのです。よろしくお願いします。
 

いらっしゃいませ。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月21日(土)12時54分33秒
  >原田さん
ご投稿、ありがとうございます。
『屋根の日本史』は本当に面白くて、勉強になります。
中世では以前から『春日権現験記』に興味があったのですが、64ページの建築の場面を丁寧に見たことはありませんでした。
実に情報量が豊富な場面ですね。
また、薄檜皮の伝播については、建築史にとどまらない重要性があると思いますので、研究の進展がありましたら、是非教えてください。
 

こちらでしたかw

 投稿者:原田多加司  投稿日:2009年11月21日(土)10時52分10秒
  はじめまして。檜皮葺職人の原田です。
別の調べ物をしていましたら、「学問空間」を見つけまして、本家?はこちらだということでやってきました。拙書『屋根の日本史』等を丁寧にお読みいただいているようで、ありがとうございます。こういう反応をすぐにお送りできるのも、web2.0時代ならではでしょうね。
また、時々は遊びに寄せていただきますね。
 

『吾妻鏡』という殆ど読まれぬ書

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月20日(金)19時28分46秒
編集済
  小太郎さん
http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901073029887441
専門が日本中世史であれば、『吾妻鏡』など、ほぼ全部暗記しているのだろうな、と買い
かぶっていましたが、論文を執筆するとき、『吾妻鏡』をチェックすらしてないようで、
まことに怠慢ですね。
論文の査読とは言いませぬが、「京都の六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸であるという
刺激的な主張さえ唱えられているのである」(『平清盛 福原の夢』156頁)などという
言説は、もう論外ですね。
語弊のある言い方になりますが、これが、(どこにあるのか知れぬ学界の)現在に於ける
日本中世史研究のレベルなのでしょうか。
 

『容疑者Mの献身』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月20日(金)00時30分1秒
編集済
  『増鏡』巻七「北野の雪」の関係場面を改めて確認してみます。

---------------
 又の年、東に心よからぬこといできて、中務のみこ都へ上らせ給ふ。何となくあはたたしきやうなり。御後見はなほ時頼の朝臣なれば、例のいと心かしこうしたためなほしてければ、聞えしほどの恐ろしきことなどはなければ、宮は御子の惟康の親王に将軍をゆづりて、文永三年七月八日上らせ給ひぬ。
 御下りの折、六波羅に建てたりし檜皮屋一つあり。そこにぞはじめは渡らせ給ふ。いとしめやかに、ひきかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしうもの心細う思されけるにや、

   虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中

 院にも東の聞えをつつませ給ひて、やがては御対面もなく、いと心苦しく思ひ聞えさせ給ひけり。経任の大納言、いまだ下臈なりし程、御つかひに下されて、何事にか仰せられなどして後ぞ、苦しからぬことになりて、宮も土御門殿承明門院の御あとへいらせ給ひける。院へも常に御参りなどありて、人々も仕うまつる。御遊びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝あけに、右近の馬場のかた御覧じにおはして御心の内に、

   猶たのむ北野の雪の朝ぼらけあとなきことにうづもるる身も
---------------

ここも巻名は宗尊親王の和歌から取られていて、歌人としての自負があったであろう作者が力を込めて描いている場面ですね。
さて、『吾妻鏡』は文永3年(1266)7月20日、「戌の刻前の将軍家御入洛。左近大夫将監朝茂朝臣の六波羅亭に着御す。」で終わっていますが、ここで六波羅北方に入った人は「前将軍家」であって、将軍ではありません。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126607.html

将軍でないどころか、幕府に謀反を起した嫌疑をかけられて鎌倉を追放され、処分が定まるまでの期間、厳重な監視の下に拘禁されている容疑者M(25歳)ですね。
容疑者Mの父親G(47歳)は、同種の嫌疑で鎌倉から追放された容疑者Y(子)、同Y(親)、そしてKM(祖父)一族の運命を熟知していたので、恐怖にかられ、わが子Mを義絶しています。
このような人物を拘禁する場所が、同時に「征夷大将軍の本邸」であるということが果たしてありうるのか。
「征夷大将軍の本邸」である六波羅御所は、反逆罪の容疑者を拘禁する拘置所を兼ねているのか。
ま、それはありえないだろうと私は思います。
ついでですが、「御後見はなほ時頼の朝臣なれば」というのは面白いですね。
北条時頼は3年前に亡くなっており、時宗の時代になっているのですが、『増鏡』の作者は和歌には興味があっても、幕府の支配者にはそれほど関心がないようです。
『増鏡』だけを根拠に「南方の探題居所は板屋葺であった」と言うのは、『増鏡』だけを根拠に北条時頼が宗尊親王を鎌倉から追放した、と言うようなものですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu7-munetaka-shikkyaku.htm
 

板屋の軒のむら時雨

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月19日(木)01時15分3秒
編集済
  次に「一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。」についてですが、注を見ると、「(18)『増鏡』第七、北野の雪、ならびに巻一五、むら時雨」となっていて、熊谷氏が論文執筆時に根拠として利用できたのは『増鏡』だけのようです。
ここに限らず、熊谷氏が出典や文献の該当箇所をきちんと特定しないのは、ちょっと困りますね。
さて、「第七、北野の雪」は既に紹介した部分です。
そして、「巻一五、むら時雨」は、高橋慎一朗氏が『中世の都市と武士』で引用している部分以外に、もう一箇所、関係する部分があります。
まず、倒幕計画が発覚し、後醍醐が京都を脱出した後の持明院統側の様子を描く場面です。(井上宗雄氏『増鏡(下)』p219)

---------------
持明院殿には春宮おはしませば、思ひのほかにめでたかるべきことなれど、今日明日はいくさのまぎれにて、何の沙汰もなし。御宿直の者の、むべむべしきもなくて、離れおはしますも、あぶなき心地すればにや、せめても六波羅近くとて、六条殿へ本院・新院・春宮ひき続き移らせ給ひぬれど、日にそへて天の下騒ぎみち、恐ろしきことのみ聞ゆれば、なほこれもあやうしとて、六波羅の北に、代々の将軍の御料とて造りおける檜皮屋ひとつあるに、両院・春宮入らせ給ふ。大方はいとものしきやうなれど、よろしき時こそあれ、かばかりの際には何の儀式もなかるべし。
---------------

ついで後醍醐が捕縛されて京都に護送されてきた場面。
こちらも丁寧に引用してみます。(同p229)

---------------
十月三日都へ入らせ給ふも、思ひしにかはりて、いとすさまじげなる武士ども、衛府のすけの心地して、御輿近くうち囲みたり。鳳輦にはあらぬ網代輿のあやしきにぞ奉れる。六波羅の北なる檜皮屋には、もとより両院・春宮おはしませば、南の板屋のいとあやしきに、御しつらひなどしておはしまさするに、いとほしうかたじけなし。間近き程によろづ聞しめし御覧じ触るる事ごとにつけても、いかでか御心動かぬやうはあらん、口惜しう思し乱る。習はぬ御宿りに時雨の音さへはしたなくて、

  まだなれぬ板屋の軒のむら時雨音を聞くにもぬるる袖かな
---------------

巻十五の巻名はこの歌によるものであって、作者はかなり力を込めて描写していますね。
「板屋」は『新葉集』にも掲載されている後醍醐御製に基づくとはいえ、「南の板屋のいとあやしきに」となると、後醍醐の哀れさを強調するための文学的脚色の可能性も考えられますね。
この部分だけを根拠として「南方の探題居所」が全面的に「板屋葺であった」と言い切れるのか、檜皮葺の建物がひとつもなかったと言えるのか、若干の疑問があります。
 

「一般御家人の板屋葺」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月18日(水)01時40分34秒
編集済
  少し整理しておくと、熊谷隆之氏が「太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた」と言われているのは明らかに誤りですね。
執権亭・連署亭については、『吾妻鏡』をざっと眺めただけでも、簡単に反証が出てきます。
そして、『吾妻鏡』正嘉二年(1258)5月8日条、「尾張の前司の山荘、檜皮葺屋已下数宇を新造せらる。五月営作の例無しと雖も、将軍家入御有るべきに依ってその功を終うと。」も、時期を問題にしているだけで、尾張前司(名越時章)が檜皮葺の邸宅を建てること自体は当たり前のような書きぶりなので、北条氏一門は檜皮葺で建てることが認められていたのではないか、という感じがします。
北条氏一門以外の上層御家人、例えば足利氏あたりはどうなんだろうと思うのですが、これは保留しておきます。
少し時代が下って『とはずがたり』には、平頼綱邸の様子が「相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。」と出てきますが、これだけインテリアが豪華な建物であれば、檜皮葺だったか否かは別として、エクステリアも相当に立派だったんでしょうね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

なお、熊谷隆之氏は「一般御家人の板屋葺」と簡単に一括りしていますが、これも問題ですね。
原田多加司氏は次のように書かれています。(『屋根の日本史』p155)

------------------
大学の建築史などの先生と話していると、「中世以前の城館の屋根は杮葺だから・・・」といった表現にときどき出会う。そのたびにオヤオヤと思う。多くの研究者にとっては、板葺、杮葺、木賊葺(厚み三-四ミリと、杮葺と栩(とち)葺の中間の板厚で、書院・持仏堂・殿舎などに使われる)、栩葺、土居葺(本瓦葺の下地として、杉や椹の割板で葺く工法)なども十把一絡げのようなのだ。たしかに、屋根の現物はとうになく、屋根仕様を詳細に記した古文献もいたって少ないから、しかたのない面もあるが、今少しわが国の木質系屋根にも関心をもってほしいものである。
 

武家住宅

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月17日(火)08時58分36秒
編集済
  >筆綾丸さん
建築史においても、鎌倉時代の武家住宅については研究が遅れているようですね。
ネットでは藤田盟児氏(東大建築学科卒)の「鎌倉の執権及び連署の本邸の沿革」「鎌倉における赤橋邸と西殿の沿革」といった論文が読めますが、檜皮葺に関する叙述は見当たらないようです。

http://ci.nii.ac.jp/search?author=FUJITA+Meiji

>ナッシュ
ラッセル・クロウ主演で映画化されましたね。
統合失調症について理解を深めたという評価もありましたが、実際に観てみたら、ちょっと違うのではないか、むしろ誤解を広めた面もあるのではないか、と思いました。
古き良き時代の大学キャンパスの雰囲気は良かったですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/A_Beautiful_Mind_(film)
 

いぬわらべ ひとごころ

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月16日(月)20時21分6秒
編集済
  http://www.nhk.or.jp/special/onair/091115.html
論理と非論理の間を往き来する内に精神に変調をきたしたのでしょう、と自己分析する
ナッシュ氏の淡々とした語り口に感動しました。ナッシュ氏の精神異常の原因がリーマン
予想だったとは、知りませんでした。
世界の最高の頭脳が、150年間、挑戦し続けても解けないリーマン予想について、絵入り
の説明がありましたが、あらためて、信じられぬほど美しい hypothesis だと思いました。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4791764870_1.html
この本を読みましたが、面白いですね。

http://www.zero-focus.jp/index.html
生誕百年記念の映画だそうですが、松本清張はクロード・レヴィ=ストロースとほぼ同じ
歳なのですね。監督は、いぬわらべ・ひとごころ、と読むのだと思ってました。原作は、
高校生のころ読んだだけなので、全く忘れていましたが、みているうちに、だんだん思い
出しました。
 

衣通姫と枕草子

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月15日(日)13時59分48秒
編集済
  小太郎さん
http://orange.zero.jp/teru.oak/makuranosousi/huru/top.html
原田多加司氏『屋根の日本史』に、『枕草子』の引用があり、また、『松崎天神縁起』の
一部の絵が載っていますが(90頁〜)、檜皮姫には伝説の美女「衣通姫」のイメージが、
襲色目のように、重層化されているのかもしれませんね。艶やかな肌の色が衣を透かして
匂い立ってくる、というような。
http://www9.ocn.ne.jp/~paru3/irome-t.htm
パリコレの最新モードのような感じもしますが、薄檜皮には、数年後に夭折する薄幸の
姫君の俤も重ねられているのかもしれませんね。


http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124710.html
秋山哲雄氏『北条氏権力と都市鎌倉』の「第一章 都市鎌倉における北条氏の邸宅と
寺院」を再読してみました。宝治元年10月18日「左親衛の寝殿傍地に曳き移さる」と
21日「左親衛の御第上棟」は何を意味するのか、どうも理解できません。「図3 小町
周辺概念図 4 宝治元年(1247)前後」(同書23頁)の「B 時頼亭」で、何が起こったのか・・・。
 

江間殿新造花亭

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)19時13分55秒
  嘉禎三年(1237)3月9日以外にない、などと書いてしまいましたが、建久四年(1193)10月1日に、「家督若公、渡御江間殿新造花亭。被献御馬御劔等〈云云〉」とありますね。
調べ方が雑でした。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/119310.html
 

薄皮葺

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)11時45分33秒
編集済
  原田多加司氏は「大学卒業後、地方銀行勤務を経て、1982年、家業の桧皮葺師・柿葺師(創業1771年(明和8年))の10代目原田真光を襲名」という方で、研究者ではありませんが、文章は明晰ですね。

http://www.yomiuri.co.jp/book/author/20050118bk02.htm

『屋根の日本史』には次の記述があります(p120)。

---------------
 ここでは技術伝播の様子が明らかになりつつある、中世の檜皮葺の例を取り上げてみたい。たしかに建築文化の発信基地としても、京都の果たしてきた役割には大きなものがあった。中世における檜皮葺は、古代に広く使われていた剥いだ皮をそのままブツ切りにして使う厚皮葺から一枚一枚を区分精選して削りそいだ薄皮葺に変わっていった。その様子は、『東大寺文書』や『東寺(教王護国寺)百合文書』の記録のなかにある「榑板くれいた)」「釘縄(くぎなわ)」「於桟(うえつくり)」などの部材の数量変化などと、各社寺の修復記録を照らし合わせると見えてくる。
 薄皮葺といっても重ねて葺かれた厚みそのものを指すのではなく、檜皮そのものが洗皮(あらいかわ)、綴皮(つづりかわ)といった皮拵(かわごしらえ)の工程を経て、薄くとも丈夫で見た目もよくなってきたことを意味するものと思われる。この時期の地方の檜皮屋根、特に東日本では相変わらず厚皮を用いており、衰えたとはいっても都を中心としたおよその「西高東低」の地方間格差と、畿内でも都を中心に同心円を描きながら広がっていったことがわかる。
 諸文献などから、薄皮葺の発祥は一二〇〇年代の前半と考えられるが、京都を中心に半径約二五キロ圏内には、同時期にいっせいに広まっている。もっとも古い東寺(一二〇四年)をはじめ、宇治上神社(一二三三年)、法界寺(一二八五年)、石清水八幡宮(一二九五年)へと続く。五〇キロ圏内では天理の永久寺(一二七〇)や、奈良の諸伽藍(一二八〇年代)は早いほうで、滋賀の御上神社などは同じ五〇キロ圏内でも、一三五〇年と推定されることから、伝播は遅い。
 これが一〇〇キロ圏ともなると、京都を中心として東西方向で伝播のスピードや到達した年代もかなり違ってくる。
(中略)
 十四世紀後半に著されたといわれる『太平記』には、「都にては、さしも気高かりし薄檜皮の屋形の、三葉四葉に作り双べて奇麗なるに・・・」とあり、『家屋雑考』や『古事類苑』などにも、同様の記述が見られることから、室町前期の京都ではすでに社寺のみならず、貴族や武家の高級住宅にも薄檜皮の屋根が普及していたようである。
---------------

「檜皮姫」という言葉は現代人にはずいぶん奇妙な感じがしますが、当時の人々には気高い女性との印象を与えたんでしょうね。
そして、京都で最新流行の薄檜皮だったら、いっそう若々しい女性にふさわしい名前と思われたのかもしれません。
 

花亭祝言

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)10時47分32秒
編集済
  私も「花亭」という言葉が不思議に思えて、国文学研究資料館の『吾妻鏡』データベースで検索してみたのですが、他には嘉禎三年(1237)3月9日に、「今夜新御所に始めて和歌御会有り。庚申を守らるるなり。題は桜花盛久、花亭祝言」とあるだけのようですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/123703.html

ただ、これは和歌の題であり、建築とは関係ありません。
単なる美称なのかもしれませんが、原田多加司氏の『屋根の日本史』(中公新書、2004)によると、13世紀初頭に京都で新しい桧皮葺の技法(薄皮葺)が生まれ、各地に伝播したとのことで、もしかしたら新様式の檜皮葺の建物が非常に新鮮な印象であったので、「花亭」にしたのかな、などと想像してしまいます。
おそらく建築史関係で論じている人がいるでしょうから、何か文献をご存知の方は教えてほしいですね。

ちなみに早歌には「花亭祝言」という曲があります。

外村南都子氏「歌謡の流れ」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tonomura-natuko-kayononagare.htm
 

空間論

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月14日(土)10時11分36秒
編集済
  >筆綾丸さん
秋山氏の「都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」には次のように書かれています。(p30)

---------------
(前略)本章では便宜上、経時が泰時から譲られた若宮大路小町亭内北側を「小町北亭」、泰時の御所北方新造亭を「小町南亭」とそれぞれ記す。
このうち小町北亭には先述のように重時が入るが、その四ヵ月後の宝治元年(一二四七)十一月十四日条に

 相州新造花亭、有移徙之儀、評定所并訴訟人等着座屋・東小侍等、今度始所造加也

とあるように、重時亭は新造され、そこに評定所が初めて造られている。従来「相州」は時頼と誤解されてきたが、当時の「相州」は重時であり、評定所が新造されたのも彼の邸宅であった。評定の機能だけでなく、その建物自体もついに北条氏亭内に吸収されたと言えよう。とはいえ、幕府の機関である評定所が御所から離れて建てられたとも考えにくいので、重時亭内でも御所に近い所に新造されたと考えられる。したがって、重時は御所に近い小町南亭をも吸収し、そこに評定所を持つ邸宅を新造したと考えるのが妥当であろう。この重時亭は幕府に隣接してそこを押える役割も果たしていた。(後略)
---------------

この論文と、これに先行する松尾剛次氏の「武家の『首都』鎌倉の成立」(石井進編『都と鄙の中世史』所収、1992)を見ると、政治史の流れと空間論が見事に結びついていますね。
なお、「従来『相州』は時頼と誤解されてきた」云々の注に、「貫前掲論文などでもこの『相州』を時頼と考え、時頼亭に評定所が造られたと誤解している」とありますが、この時期の『吾妻鏡』を素直に読む限り、重時と時頼の区別は明確ですね。
従来の研究者には、評定所が造られるとしたら執権である時頼亭以外考えられないという思い込みがあったということなのか。
後で「前掲論文」である貫達人氏「北条氏亭址考」(『金沢文庫研究紀要』八、1971)も確認してみたいと思います。

>重陽の節句
「仰せに依って諸人菊を献ず。各々一首の和歌を副える所なり。悉く幕府北面の小庭に植えらると。」ですが、これは将軍家(頼嗣)の「仰せ」なんでしょうね。
ただ、将軍といっても1238年生まれ、数えで10歳の子供ですから、実質的な判断者はもちろん別にいて、それは若年の時頼ではなく、重時なんでしょうね。
宝治合戦で荒んだ人心を、このような文化的活動で静めようという発想は、和歌の嗜みもあった重時のものだと思います。
 

菊と花亭

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月13日(金)19時09分59秒
編集済
  小太郎さん
「給」の字に惑わされて、将軍かと思いました。

「相州新造の花亭に移徙の儀有り。評定所並びに訴訟人等の着座屋・東小侍等、今度始めて造り加う所なり」(11月14日)
このことについて、森幸夫氏の『北条重時』には、次のようにあるのですね。

「重時亭内に評定所や小侍所などが置かれたのである。いうまでもないが、評定所は幕府評定衆による政務・裁判の合議裁決が行われる場であり、小侍所は将軍近習たちの詰所である。幕政運営や将軍儀礼などに関わる重要な空間が、幕府や執権時頼亭ではなく、重時亭内に設けられたのである。重時が幕府北方に位置した得宗亭を継承したことともに、この事実は、評定などの幕府政治の主宰者が、執権時頼ではなく、連署重時であったことを示しているであろう。後述する評定衆のメンバーからみても、重時がリーダーシップを発揮しなければ、幕政が円滑に運営されたとは考えにくいのである」(111頁)

御所移転計画の中止については、こうあるのですね。

「なお七月二十四日に、十月十四日から御所(幕府)移転のため営作を開始することが計画されたが、「有識の人傾き申」したため、十月十四日当日になってこの計画は中止された(『吾妻鏡』)。担当奉行の一人が安達一族の大曽根長泰であることからみて、計画推進者は執権時頼であったようである。また工事の開始日まで決定していたから、新御所の移転先もほぼ決まっていたと思われる。しかしこの計画は潰えた。その根本的理由は重時が御所移転に消極的であったからではなかろうか。
重時はすでに御所北方に邸宅を構えつつあり、御所移転に積極的に賛同する理由がない。また新御所予定地はおそらく、重時の鎌倉下着以前に決定しており、重時が元来この計画に参画していなかったと考えられるからである。重時は敬愛する兄泰時ゆかりの若宮大路御所を移転することに反対した可能性がたかい。御所移転計画の突然の中止理由は重時の協力が得られなかったからではなかろうか。とすれば重時は時頼の政策を拒否したことになる。当時の幕政の主導権は連署重時が握っており、執権時頼はナンバー・ツーの在にすぎなかったといえるだろう」(112頁〜)


http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124701.html
「越後入道勝圓の佐介亭の後山に光物飛行す」(1月30日)
頼経追放後の、佐介亭の光物というのも、なにか意味ありげですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124709.html
宝治合戦後の重陽の節句、この仰せとは花亭の相州のことでしょうか。菊の数と敗者の首の数はピタリと一致して・・・都帰りの優雅な凄味というべきなのでしょうね。
 

宝治元年(1247)の「相州」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月13日(金)06時21分34秒
  >筆綾丸さん
8月9日の「左親衛桧皮寝殿に移住せしめ給う。」は、素直に時頼が引っ越したと考えてよいのではないですか。
また、11月14日、「相州新造の花亭に移徙の儀有り」の「相州」は重時ですね。
この点は秋山氏の「都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」に説明があり、また、森幸夫氏の『北条重時』p111にも関係する記述があります。
後でまた書きます。
 

檜皮姫

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月12日(木)19時31分32秒
編集済
  小太郎さん
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124507.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%9C%E7%9A%AE%E5%A7%AB
「今夜武州の御妹(檜皮姫公と号す。年十六)将軍家の御台所として御所に参り給う」(7月26日)
この姫君の名には、どんな深い意味が秘められているのでしょうね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124708.html
「左親衛桧皮寝殿に移住せしめ給う。本御居所を以て修理を加えらるべきに依ってなり」(8月9日)
宝治合戦が片付き、御所を別の地に移すべき(7月24日)という話のあとに、この話がき
ますが、これは、左親衛(時頼)の桧皮寝殿に将軍を移す、ということなのでしょうね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124710.html
「今日左親衛の寝殿傍地に曳き移さる。大略新造の如しと」(10月18日)
御所を別の地に移すことは止めたので、左親衛の寝殿を曳き家工法で移転して御所とし
たが、まるで新築のようだった、という訳ですね。

数日後、左親衛第の上棟式が行われる。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124711.html
「相州新造の花亭に移徙の儀有り。評定所並びに訴訟人等の着座屋・東小侍等、今度始め
て造り加う所なり」(11月14日)
新造の花亭は、当然、檜皮寝殿造で、附属の建物は相州(道崇)がドスをきかして造らせ
たのでしょうね。
 

「深秘御沙汰」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月12日(木)00時03分38秒
編集済
  >筆綾丸さん
>相模の太郎
これは時宗ですね。
秋山哲雄氏『北条氏権力と都市鎌倉』の「第一章 都市鎌倉における北条氏の邸宅と寺院」には次の記述があります。(p35)

---------------
時頼の子である時宗の邸宅は、文応元年(一二六〇)三月廿一日条に

  御息所入御、先寄御輿於東御亭<相模太郎御亭>檜皮寝殿妻戸(中略)町大路南行、入御所東門

とあるように「東御亭」と記されている。ここを出た御息所が小町大路を南に行って若宮大路御所の東門から入っているので、その位置は御所の北西、つまり時頼の宝戒寺小町亭と同じ郭内と考えられる。時宗の弟の宗政は「西殿」と呼ばれ、その子の師時や孫の貞規も「西殿」と呼ばれていたから、あるいは宝戒寺小町亭の東側に「東御亭」があり、西側には宗政から師時、貞規と継承された邸宅があったのかもしれない。この「東御亭」では、文永三年(一二六六)六月二十日に「深秘御沙汰」があった。時宗は当時まだ連署であったから、得宗としてこの会議を催したことになる。評定は執権の邸宅で行われていたが、寄合の原形と言われる「深秘御沙汰」は得宗の邸宅で開催されていたのである。
---------------

この「深秘御沙汰」では、時宗・政村・実時、そして安達泰盛の四人が征夷大将軍・宗尊親王の鎌倉追放の是非を議論した訳ですが、この会合は檜皮葺の邸宅内で行われたのですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126606.html
 

檜皮寝殿

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月11日(水)19時44分19秒
編集済
  小太郎さん
『吾妻鏡』正元二年(1260)を、眺めてみました。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126002.html
2月14日「将軍家最明寺の御亭に入御す」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126003.html
3月21日「戌の刻御息所入御す。先ず御輿を東御亭(相模の太郎の御亭)檜皮寝殿の妻戸に寄す」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126012.html
12月26日「今夜将軍家相模の太郎殿の御亭に御方違え」

相模の太郎の御亭には、板屋葺ではなく、檜皮の寝殿があるのですね。
 

檜皮葺

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月11日(水)07時29分50秒
編集済
  >筆綾丸さん
>initiation
高橋昌明氏の言葉を借りれば、六波羅御所と佐介第はメタモルフォーゼのための空間となりそうですね。

熊谷氏の論文に「正嘉二年(一二五八)五月に宗尊親王の上洛が計画された際にも、六波羅御所の新造が準備されている」とあったので、『吾妻鏡』を見てみたら、同年3月20日に、

評定有り。将軍家明年御上洛有るべきに依って、供奉人以下の事群議を経らる。且つは用意を致し、且つは子細を御家人等に相触れしめんが為、御教書を諸国守護人に下さるる所なり。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125803.html

と書かれていて、5月9日に、

将軍家御上洛有るべきに依って、先規に任せ、六波羅に御所を建てらるべきの由治定す。諸国の地頭・御家人等に宛てらる。今日これを施行せらる。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125805.html

とあります。
ただ、5月8日にも、「尾張の前司の山荘、檜皮葺屋已下数宇を新造せらる。五月営作の例無しと雖も、将軍家入御有るべきに依ってその功を終うと。」とあり、これは5月5日の「御方違えの事沙汰を経らる。陰陽道兼日方角を取り勘じ申すの間、来二十九日尾張の前司の名越山荘(新善光寺の辺)に入御有るべきの由これを定めらる。則ちその旨を 前の尾州に触れ仰せらると。」を受けてのもので、実際に5月29日には「将軍家尾張の前司の山荘に御方違え。」とありますね。
名越山荘にも「檜皮葺屋已下数宇」が存在し、それもずいぶん短期間に建造されているようです。

頼経上洛のときも、行路の各所に「御所」が建てられていますが、もしかしたら、みんな檜皮葺の可能性もあるんじゃないですかね。
『吾妻鏡』のこの部分では六波羅の御所について檜皮葺と明記していませんが、それは将軍の御所は檜皮葺が当たり前だったから書かなかったと考えることもできそうです。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/123802.html

「六波羅御所は征夷大将軍の本邸である」という考え方には権門体制論の問題点が凝縮されているように思えるので、私はその点を検討したいと思っていたのですが、それ以前に、鎌倉時代の武家社会で檜皮葺の建物がどのような意味をもっていたのか、そもそも檜皮葺の建物がどこにいくつくらい存在していたのか、についても調べる必要がありそうです。
 

渋谷越

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月10日(火)19時33分5秒
編集済
  小太郎さん
御丁寧な引用、ありがとうございます。
高橋慎一朗氏『中世の都市と武士』を、ざっと眺めてみました。
大正四年刊行『京都坊目誌』に基づく「中世の六波羅周辺概念図」(41頁)をみますと、
渋谷越を挟んで、北に小松殿、南に若松殿、という位置関係のようですね。
渋谷越(104頁〜)は、粟田口などと並んで軍事的な要所で、六波羅滅亡時、北条氏や
被官は、ここから近江の番場宿へ落ちて行ったのですね。

鎌倉殿は下向時になぜ六波羅御所へ移徙したのか、という問に対して、御指摘のとおり、
いくつかの可能性があるのに、将軍の本邸だからという理由に限定してしまう熊谷氏の
非実証的な度胸には、物凄いものがありますね。
「六波羅を含む河東は、「武家の河東」として、「公家の洛中」とは一線を画されていた
ということになる」(『中世の都市と武士』112頁)
この説を踏まえれば、摂家(親王)将軍は、鎌倉下向時、洛中から河東へ移徙することで
公家から武家への変容というinitiation(通過儀礼)を必要としたのだ、と言えるかもし
れないですね。これを強引に反転させれば、鎌倉の佐介第とは武家から公家にもう一度
戻るために必要なトポスであった、というようなことになりますか。


http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200911020079.html
『源氏物語』にも、外伝があるのですね。
 

「武家の空間」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 8日(日)09時22分28秒
編集済
  『中世の都市と武士』、先に引用した部分の続きです。(p46)

--------------
 建長四年(一二五二)三月、宗尊親王は将軍として関東に迎えられるにあたり、まず六波羅探題北方の北条長時の館に入っている。その宗尊親王も文永三年(一二六六)七月、反逆の嫌疑を受け京都へ送られる。入洛した宗尊親王は、『吾妻鏡』同二十日条によれば探題北方の「左近大夫将監時茂朝臣六波羅亭」に入ったという。また、『増鏡』は「御下りのおり、六波羅に建てたりし桧皮屋一あり。そこにぞ初めはわたらせ給ふ」としており、下向の際に建てた桧皮屋に入ったことになっている。『吾妻鏡』の記事と総合すると、この桧皮屋は探題北方の内にあったと考えられる。
 正応二年(一二八九)十月、久明親王が将軍として下向するが、『増鏡』は「院よりやがて六波羅の北、さきざきも宮のわたり給ひし所へおはして、それよりぞ東に赴かせ給ふ」とする。これは宗尊が利用した北方の桧皮屋と同一であろう。
 元弘元年(一三三一)八月、世情の緊迫により、後伏見上皇、花園上皇、量仁親王が揃って六波羅に移る。この時の三人の居所について、『続史愚抄』同二十七日条は「以北方為御所、<兼為将軍幕府、造桧皮屋一宇、奉入件所云>」とする。『増鏡』は「六波羅の北に、代々将軍の御料とて造りをける桧皮屋一つあるに、両院・春宮入らせ給ふ」とする。これらより、北方にあった桧皮屋は代々将軍の御所であったことがわかろう。基本的には、頼経の六波羅御所につながるものではなかろうか。さて、同年十月、笠置で捕われた後醍醐天皇は「六波羅南方」に入れられる。『増鏡』は次のように記す。

  六波羅の北なる桧皮屋には、もと両院のおはしませば、南の板屋のいとあやしきに、
  御しつらひなどしておはしまさするに、いとをしうかたじけなし、

 持明院統の人々は北方の将軍御所に、後醍醐天皇は南方の「いとあやしき」板屋に。六波羅では当時の政治状況が象徴的に現れていたのである。
 六波羅には将軍の御所が設けられていたが、しばしば探題宿所と同一視されたようにあくまでも探題府の御所であり、「北条氏の六波羅」の一部を構成するにすぎなかった。六波羅探題府の景観は、鎌倉幕府のあり方の反映でもあったのである。
--------------

『続史愚抄』の割注に「将軍幕府」とあるのが気になりますが、『続史愚抄』は江戸時代の編纂で、該当部分は『増鏡』と同内容ですから、『増鏡』の表現を一部変更しただけかもしれませんね、断定は避けますが。

さて、ここで一番重要なのは、六波羅には確かに将軍御所があったけれども、それは探題北方の邸内に包摂されており、しばしば探題宿所と同一視される程度の存在であったこと、即ち、「北条氏の六波羅」のごく一部であったことですね。
熊谷氏は「象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核は北方に存した六波羅御所にあったと評価することも可能なのではないか」と言われるのですが、その理由としてあげているのは唯一、御所が檜皮葺だったということだけです。
しかし、六波羅が「公家政権の本拠地京都にありながら異質かつ独立した『武家の空間』」(p51)を構成していたこと、そしてそこが実質的に「北条氏の空間」であったことを考えると、「なぜ鎌倉殿は下向時に六波羅御所への移徙をわざわざおこなう必要があったのであろうか」との問いに対しては、将軍が北条氏に守られている存在であったこと、将軍は北条氏に取り込まれた存在であったことを象徴する意味があったのだ、という答えも可能でしょうね。
ま、それとは別に、一番最初の三寅(藤原頼経)下向時(1219年)に六波羅に寄ったから、以後は単に前例を踏襲しただけ、という答えもあるでしょうし、また、厳密な意味での「京」から関東に下向するルート上に六波羅があるのだから、さすがに無視して通れないだろう、挨拶しない訳にはいかんだろう、という答えもありそうです。
なお、三寅(藤原頼経)下向時には六波羅に寄ったという記録はありますが、このときに檜皮屋の御所があったのかは、はっきりしないみたいですね。
承久の乱の前後で、六波羅の空間は劇的に変化していますので、藤原頼経の場合、下向時と上京時は厳格に区別して考える必要がありそうです。


『増鏡』、久明親王下向
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-hisaakirashinno.htm
 

若松池址

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 7日(土)23時11分8秒
編集済
  ここで高橋慎一朗氏の注記に従って竹村俊則氏の『昭和京都名所圖會 1洛東-上』(駸々堂、1980)を見ると、次のように記されています。(p135)

--------------
 若松池址は小松谷正林寺の東、渋谷通より南とつたえ、江戸中期まではなお池の一部を残していたが、今は埋没して跡形もない。現在この地を清閑寺池田町とよんでいるのは若松池によるものであろう。
 若松池とは平家一族と深い関係にあった大納言藤原邦綱が、この地に構えた山荘若松亭(東山亭)の苑池をいったもので、邸内の規模については明らかにしないが、治承四年(一一八〇)十一月二十六日、南都攻撃に当って三万余騎の平家の軍勢が、平重衡を総大将としてここに集合したというから、かなりの広さを有していたのであろう。翌五年(一一八一)二月、邦綱は病を得て年六十を以て没した。寛元二年(一二四四)鎌倉将軍頼経が辞任し、出家入道して帰洛の折、「六波羅若松殿」に入居したという若松殿とは、この邦綱の若松亭であったと思われる。その後の推移は明らかにしないが、中世は池のみが残り、野盗の出没地として人々から怖れられる地となった。
--------------

竹村俊則氏は同書奥付によれば「大正4年(1915)京都市に生まれ、学生時代から京都の史跡・伝説に関心をもち、京都の名所旧跡を探訪すること40余年、京都国立博物館に奉職するかたわら郷土史研究につとめる。」との経歴の方で、画才豊かな人ですね。

http://fukuhen.lammfromm.jp/2007/06/_100.html
 

若松殿=藤原邦綱邸

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 7日(土)22時31分27秒
編集済
  >筆綾丸さん
>惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。
これはその通りですね。
熊谷説に即して考えると、一度も征夷大将軍の「本邸」に入らないまま征夷大将軍になった人ということですね。
藤原頼嗣も、久明親王の子の守邦親王も同様です。

『中世の都市と武士』(高橋慎一朗著、吉川弘文館、1996)の「第二章 『武家地』六波羅の成立」に次のような記述がありました。
(p45以下)

--------------
 頼経は、将軍を子息頼嗣に譲った後、寛元四年(一二四六)に「宮騒動」と呼ばれる幕府内紛に関与したとして京都へ送還される。『葉黄記』同年七月二十八日条は、次のように記す。

  今日寅刻、入道将軍(頼経)自関東令渡給、重時朝臣若松宅<被(彼)朝臣開放(閑居)之地也>、

 当時、北条重時は探題在任中である。「若松宅」は「六波羅若松殿」とも称されており、六波羅にあったことは確かで、重時の別荘と思われる。竹村俊則氏によれば、小松谷正林寺の東、渋谷通りの南に「若松池址」があり、藤原邦綱の若松亭の跡という。邦綱の若松亭は『源平盛衰記』に「邦綱卿山荘東山若松亭」と見え、頼朝宿所の候補となった「東山六条末別業」と同じものであろう。竹村氏は六波羅若松殿が邦綱の若松亭であったと推定している。邦綱は平氏と親密な関係にあったから、平氏滅亡後は没官され幕府の所有に帰した可能性は高い。若松殿はおそらく代々の探題の管轄するところであったろう。
 頼経の子息頼嗣も、陰謀との関与を疑われ京都へ送還される。この時頼嗣が入洛後まず入ったのが若松殿であった。また、『勘仲記』弘安五年(一二八二)八月九日条には「今日東使相触之間、当寺相副下所司於大隈庄氏(民)令出対若松之由示之」とあり、この「若松」も若松殿であろう。若松殿は東使の宿所にも利用されていたのである。
 

若松殿

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 7日(土)00時12分4秒
編集済
  >筆綾丸さん
若松殿については高橋慎一朗氏の論文に何か言及があったような気がするのですが、今は確認できません。
明日、少し調べてみたいと思います。

太田静六氏(九州大学名誉教授)は先月亡くなられましたね。
新聞で見た時、正直、まだご存命だったのかと驚いたのですが、98歳とのことなので、100歳で亡くなったレヴィ・ストロース並みのご長寿ですね。
 

六波羅若松殿

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2009年11月 6日(金)19時35分52秒
編集済
  小太郎さん
論文の前半は、六波羅に潜む塙保己一の亡霊を炙り出す手際など、なかなか良いですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124608.html
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/125204.html
頼経は、鎌倉追放後の入洛時、六波羅若松殿に渡り(吾妻鏡)、頼嗣は、同様な状況下で、若松殿に入る(北条九代記)、とあるのですね。
六波羅御所と六波羅若松殿は、別の建物なのでしょうが、前者を将軍の檜皮葺の本邸とするならば、後者は前将軍の板屋葺の陋屋なのかもしれませんね。

「太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた。一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。むしろ象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核はやはり鎌倉殿の御所にあったと評価すべきだろう」(熊谷氏『六波羅探題考』89頁)

あるいは、北条氏はもっと残酷で、六波羅御所と六波羅若松殿は全く同じ建物、将軍宣下を受けて下向するときは「御所」と称し、前将軍として追放されて入洛するときは「若松殿」と称する、というようなことだったのかもしれないですね。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124607.html
この若松殿は、もともとは、重時の若松宅のようですが(『葉黄記』)、これは、按ずるに、諱の一字が重複するゆえ、平重盛の小松殿を乗っ取ったものにちがいなく、平家滅亡後、小松が成長して若松になった、という厭味なのかもしれませんね。
重時は、連署として鎌倉へ栄転するとき、この松の苗を持ち帰って庭に植え、極楽寺一族の繁栄を祈ったのでしょうね、きっと。
『葉黄記』にある「閑放の地」というのは、要するに、空き地ということでしょうか。

http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126607.html
宗尊親王は、追放後の入洛時、六波羅北方時茂の亭(館)に着御、とありますが、これは六波羅御所のことか六波羅若松殿のことか、わからないですね。前者と後者は別の建物とすれば、宗尊親王はもはや前将軍にすぎないから、本邸の御所には入れてもらえず、陋屋の若松殿に入るしかないのでしょうね。そして、関東に下向する新将軍を遠くの方から眺める、という構図になるのでしょうか。惟康君(誰の発案か知らぬが、変な諱だ)、鎌倉は魑魅魍魎の魔所だぞ、うんと気をつけてお行き、などと呟きながら。・・・と書いてきて、疑問を感じたのですが、惟康君はずっと鎌倉に住んでいて、居成りで将軍になった、ということでしょうか。


方違えに大将軍という方位神がありますが、征夷大将軍の下向や上洛には、陰陽道の影響があるような気もしますね。
 

六波羅御所の歴史

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 6日(金)19時06分43秒
  まず、熊谷氏の説明を確認してみます。

-----------
二 六波羅探題の歴史的位置

 さらに、六波羅探題の呼称と実態をめぐる問題をこのように整理しなおすことで、鎌倉幕府機関としての六波羅やその首班である六波羅探題のみならず、鎌倉幕府自体の位置づけにもかかわる新たな論点を提示することが可能になる。
 それに際して注目されるのは、六波羅北方に立地した鎌倉殿の邸宅の存在である。建久元年(一一九〇)、源頼朝は平家一門の一大拠点であった六波羅に邸宅を建設する。(中略)
 高橋慎一朗によれば、六波羅御所は「武家の空間」である六波羅の象徴性を高めたものの、あくまでもその一部にすぎず、六波羅の中核は北条氏の私邸にあったという。事実、鎌倉殿が六波羅御所を使用するのは在京中のみであった。六波羅御所が象徴的な存在にすぎなかったとの指摘はそれ自体、正鵠をえたものであろう。
 しかしながら、逆に象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核は北方に存した六波羅御所にあったと評価することも可能なのではないかと思う。太田静六が指摘するように、鎌倉殿の鎌倉御所は檜皮葺で、執権以下一般御家人の板屋葺の邸宅とは明確に区別されていた。一方、北方の六波羅御所は檜皮葺であったのに対し、南方の探題居所は板屋葺であった。この点、鎌倉殿の六波羅御所が他の邸宅にくらべて際やかな存在であったことに疑いはない。むしろ象徴的な存在であったからこそ、六波羅の中核はやはり鎌倉殿の御所にあったと評価すべきだろう。
 そこで想起されるのが、鎌倉殿が関東へ下向する際に、六波羅御所へいったん移徙する慣例の存在である。鎌倉殿が京都から下向するに際しては、まず六波羅北方の御所に移徙したうえで関東へ下向するのが慣例であった。たとえば、承久元年(一二一九)七月、のちに四代将軍となる三寅(九条頼経)は一条亭から六波羅へ渡御し、鎌倉へ下向している。そして、建長四年(一二五二)三月、六代宗尊親王は仙洞から六波羅へ移徙して即日鎌倉へ出発しており、正応二年(一二八九)十月、八代久明親王もやはり仙洞から六波羅へ入り、その日のうちに鎌倉へむけ下向している。
 また、鎌倉殿が上洛したおりには六波羅御所が新造ないしは修造され、これを宿所とするのが慣例であった。先述のごとく、頼朝と頼経の上洛に際しては六波羅御所が新造、修造され、実際には在京中には宿所として利用されている。そして、正嘉二年(一二五八)五月に宗尊親王の上洛が計画された際にも、六波羅御所の新造が準備されている。
 それでは、上洛時の御所使用はともかく、なぜ鎌倉殿は下向時に六波羅御所への移徙をわざわざおこなう必要があったのであろうか。いずれの事例においても、摂関家や王家の邸宅から六波羅御所へ立ち寄ったうえで、即日鎌倉へむけ下向しており、きわめて儀礼的なものを感じさせる。
--------------

ここで、「つまるところ、この問題を解決する糸口は、鎌倉殿のおかれた地位にあるのではなかろうか。」という具合に、筆綾丸さんが既に引用されている部分につながります。
 

頭の体操

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2009年11月 6日(金)18時24分27秒
  熊谷氏の論文には「六波羅御所は征夷大将軍の本邸である」ことを根拠づけるために多くの事例があげられているのですが、注を見ると、その事例の中に『増鏡』が多数含まれています。
しかし、実は『増鏡』には「六波羅御所は征夷大将軍の本邸でない」ことを決定的に明らかにしている箇所があります。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu7-munetaka-shikkyaku.htm
 

以上は、新着順1番目から30番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 
/67