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駄レス

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2018年 5月24日(木)01時38分12秒
  小太郎さん
ご丁寧な回答ありがとうございます。

>>参議は厳密には公卿ではないけれども公卿並みに扱う
黒板伸夫氏の『摂関時代氏論集』には参議の範囲について
1 参議の官にあるもの(一般的な用法の「参議」)
2 「1」+大納言+中納言
3 「2」+大臣
の三種類の用例があったようです。

>>平安中期にはその定員を一六人としたので「十六之員」
ということは、当時、内大臣は文字通り「数の外の大臣」だったということですね
 
 

公卿について

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月22日(火)21時57分48秒
編集済
  >キラーカーンさん
確認するまでもないことでしたが、おっしゃる通り、参議になった時点で公卿ですね。
参考までに『日本史大事典』(橋本義彦氏執筆)を引用しておきます。

-------
公卿
 摂政・関白以下、参議以上の現官および三位以上の有位者(前官を含む)の総称。中国の三公九卿に由来し、大臣を公に、大納言・中納言・参議を卿に充てたという。狭くは大臣以下参議以上の議政官をいい、平安中期にはその定員を一六人としたので「十六之員」とか「二八之臣」とも称されたことが記録にみえるが、三位以上の前官および非参議をも含めて公卿と称することがしだいに一般化し、「公卿補任」に記載される範囲全体に及ぶようになった。鎌倉時代以降、公卿の員数はますます増大したが、一方、家格の形成にともない、公卿に昇る上流廷臣の家柄もしだいに固定し、江戸時代には、その家柄に属する廷臣の総称として、公家とほぼ同じ意味にも用いられた。上達部、卿相、月卿、棘路などの異称もある。【参】和田英松『官職要解』講談社学術文庫
-------

ご指摘を受けて直ぐに変なことを書いてしまったと思ったのですが、たまたま5月15日の投稿<「弘安の御願」論争(その9)─「弘安の御願」はそもそも存在したのか?>で引用した『国史大辞典』の「公卿勅使」の項に、

-------
伊勢神宮に朝廷から差遣される使には恒例祭典の例幣使(四姓使)と皇室・国家・神宮に事があった場合の臨時奉幣使があり、後者のうち格別の大事に際しては三位以上の公卿または参議が充てられた。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9511

とあったので、参議は厳密には公卿ではないけれども公卿並みに扱う、といった用法もあるのかな、などと考えたのですが、これも公卿の普通の定義で理解できる記述でした。
 

『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月21日(月)13時10分37秒
編集済
  他人への批判はともかく、『増鏡』にしか存在しない記事の解釈について、オマエはどう考えるのか、莫迦のひとつ覚えで登場人物と後深草院二条の人間関係を追って行くだけなのか、と問われると、さすがにそれではまずいだろうなと思っています。
では何を基準とすべきか。
この点、現在の私は『増鏡』執筆の目的が基準となるだろうと考えています。
旧サイトでは『増鏡』の作者と成立年代についてはそれなりに検討しましたが、作者については、昨年末以来の『増鏡』の読み直しを踏まえて、やはり後深草院二条で間違いないと思います。
従来の通説であった二条良基説は曾祖父・二条師忠の描かれ方だけで失格、小川剛生氏の修正説(丹波忠守作、二条良基監修)は、丹波一族の医師が無能で幼い世仁親王の病状診断を誤り、親王を殺しかけたという春宮灸治の場面だけで失格です。

「巻八 あすか川」(その18)─春宮の灸治と土御門定実
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9407

そもそも『増鏡』作者が序文において語り手を「八十(やそぢ)にもや余りぬらんと見ゆる尼」と設定していること、『とはずがたり』が他の史料を遥かに凌ぐ膨大な分量で引用されていることの二点だけで『増鏡』作者が『とはずがたり』作者と同一人物ではなかろうかと疑うのに十分であり、そのように仮定すると、従来、作者の意図が分からなかった多くの奇妙な記述について合理的な説明が可能となります。
「男もすなる歴史物語といふものを、女もしてみむとてするなり」と考えた女性が中世に存在していたとしても全然不思議ではありません。
『とはずがたり』が知られていなかった時代はともかく、その出現以降も後深草院二条が『増鏡』作者候補にあがらなかったのは、女に歴史物語が書けるはずがない、という国文学者・歴史学者たちの頑迷な思い込みに過ぎません。
さて、旧サイトでは『増鏡』の成立年代についてリンク先のように考えてみたのですが、『舞御覧記』との関係は再検討を要するものの、それ以外は現在でも妥当だと思っています。

第四章 『増鏡』の成立年代
http://web.archive.org/web/20150831083007/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei04.htm

『増鏡』の作者・成立年代をそれなりに熱心に検討した旧サイトで欠落していたのは、『増鏡』作者が何の目的でこの歴史物語を書いたかについての考察でした。
『増鏡』は、

(1)後鳥羽院の物語
(2)中間部分(前半:後嵯峨院の物語、後半:後深草・亀山院の物語)
(3)後醍醐天皇の物語

の三部に分かれますが、正嘉二年(1258)生れの後深草院二条を作者と考えると、(1)は作者が生まれる前の遠い過去、(2)の前半は作者の幼年・少女時代に少し掛かり、後半は作者が四十代までの期間で、華やかな宮廷生活と出家後の全国各地へ旅行を行なった期間が含まれます。
『増鏡』執筆時には(1)(2)は過去の記録ですが、最も分量の多い(3)は鎌倉幕府滅亡へ向かう時代の変化をほぼ同時代史として叙述しており、特に最末期は歴史の劇的な変動を活写するルポルタージュのような趣きもあります。
旧サイトでは私は『増鏡』作者の執筆目的を確定することができなかったのですが、今回、金沢貞顕の周辺を少し丁寧に調べたことにより、後深草院二条は時代の傍観者だったのではなく、(3)の時期にそれなりの政治的役割を果たした「行動する歴史家」であり、『増鏡』は政治的目的を持つ文書なのではなかろうか考えるようになりました。
 

片山杜秀氏のことなど

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月21日(月)10時44分42秒
  >筆綾丸さん
>『プライムニュース』
髪がきれいにセットされていて、黒縁の眼鏡をかけているので、何だか写真で見るトッドとは別人のような雰囲気ですね。
冒頭だけ聞いてみましたが、内容は近著で書いていることの要約みたいですね。

>『平成史』
片山杜秀氏には以前ちょっと嵌ったのですが、竹内洋・佐藤卓己編『日本主義的教養の時代』(柏書房、2006)所収の「写生・随順・拝誦 三井甲之の思想圏」等、片山氏お得意のファシズム・右翼モノに少し期待して自分で実際に関連史料を読んでみたら、片山氏は実りのない畑で農作業をしている方のような印象を受けました。
それで暫く御無沙汰していたのですが、ご紹介の本は後で読んでみます。

「シールズ」 or 「スィールズ」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8046
『アカネ』における三井甲之と土屋文明の交錯
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8047

>キラーカーンさん
>参議任官(宰相中将)となった時点で公卿ではないでしょうか。
基礎の基礎について変なことを書いてしまったようですが、念のため、『国史大辞典』あたりを少し見てみます。
 

ちょっとした疑問

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2018年 5月21日(月)01時28分46秒
編集済
  お久しぶりです

>>その年の十二月に従三位となって公卿の仲間入りです
とありますが、
>>正月十三日任(元蔵人頭)。右中将如元。
とあるので、参議任官(宰相中将)となった時点で公卿ではないでしょうか。

追伸
五段昇段パーティーを七段昇段パーティーに無理やり変えた人がいるそうですが、
この昇段ペースでも、一〇〇〇段がやっとで一二三九段には到達できないようです。
 

閑話ばかりで

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 5月20日(日)17時03分26秒
  このところ、閑話ばかりで恐縮ですが。

http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/day/d180518_0.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%91%A0%E9%BA%97
金曜日の『プライムニュース』に、トッドが出演していました。
同時通訳者二人のうち一人の「通訳」がひどすぎ、理解不能な日本語でした。もう少しまともな通訳者を使ってほしいものです。ゲストの三浦瑠麗氏は、『国家の矛盾』を読んだことがありますが、頭の良い人ですね。

https://www.shogakukan.co.jp/books/09389776
『平成史』を読み終えましたが、勉強になったような、ならなかったような感じです。
 

「母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇」(by 兵藤裕己)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月19日(土)20時52分50秒
編集済
  昨日、<「関東伺候廷臣」の処遇について後嵯峨院が「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」と言ったという話は『増鏡』にしか出てきません>と断定的に書いてしまいましたが、私も別に史料を遍く渉猟した上で、このような結論に達した訳ではありません。
それどころか、怠慢にも一般向けの歴史書をパラパラ見ているだけなのですが、例えば遠藤珠紀氏(東大史料編纂所助教)は『現代語訳 吾妻鏡 別巻 鎌倉時代を探る』(吉川弘文館、2016)所収の「京下りの人々 1 官人」において、

-------
 さらに京からの下向が増えるのは、六代将軍宗尊親王の時代である。建長四年(一二五二)、時の治天後嵯峨院の皇子宗尊親王が下向した。下向に当り、後嵯峨院は供奉の人々に「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官(つかさ)、かうぶりなどはさはりあるまじ」(『増鏡』「内野の雪」)と仰せたという。すなわち鎌倉での奉公も、京都での奉公同様に評価し昇進にも差支えない、ということである。これ以前には、関東にいて伺候していないことを理由に昇殿を止められた人物もおり(『明月記』寛喜三年七月三日条など)、いささか雰囲気も変化したのだろうか。宗尊親王には、藤原(花山院)長雅・源(土御門)顕方・源(土御門)顕雅以下、多数の公卿・殿上人たちも随行した。その子孫たちも鎌倉での活動が確認される。
-------

と書かれています(p146)。
私の狭い知見の範囲でも遠藤氏は非常に緻密な論文を書かれる人なので、仮に後嵯峨院の「関東伺候廷臣」に対する人事方針に関して『増鏡』以外に史料があるならば、必ずここで言及されるでしょうね。
ところで建長四年(1252)、宗尊親王と一緒に関東に下り、以後は廷臣の筆頭格として『吾妻鏡』に頻出する土御門顕方という人物がいますが、『公卿補任』でこの人の経歴を辿ると、最初に登場するのが建長四年(1252)で、

参議正四位下 <土御門>源顕方
正月十三日任(元蔵人頭)。右中将如元。十二月四日叙従三位。故内大臣定通公男(実故大納言通方卿四男)。母家女房。
〔建長三年正月廿二日補蔵人頭。元正四位下右近衛中将。〕

となっています。
『公卿補任』には土御門顕方の年齢が書かれていませんが、中院通方(1189-1239)の子に北畠雅家(1215-74)・中院通成(1222-1286)がいて、顕方はその弟なので、おそらく後深草院二条の父、中院雅忠(1228-72)と同年輩と思われます。
土御門顕方と中院雅忠の祖父は源通親(1149-1202)であり、二人は従兄弟の関係ですね。
土御門顕方は建長四年、鎌倉に行った時点では殿上人ですが、その年の十二月に従三位となって公卿の仲間入りです。
この後も建長六年(1254)に権中納言、正嘉二年(1258)に従二位、兼右衛門督、正元二年(1260)に正二位、文応二年(1261)に中納言、弘長二年(1262)に権大納言と官職・官位とも順調に昇進しています。
そして弘長三年(1263)に権大納言を辞し、以後は散位ですが、文永三年(1266)に鎌倉を追放された宗尊親王に従って京に戻ると同年十二月五日「聴本座」とのことで、これは後嵯峨院による慰労の意味が籠められているのかもしれません。
この後、土御門顕方は文永五年(1268)十二月十七日「出家(籠居山科辺)」とのことで、廷臣としての人生を殆ど宗尊親王に捧げた感がありますが、鎌倉滞在中の昇進ぶりを見ると、確かに京都での奉公に劣ってはいないようですね。
劣っていないどころか、極官の権大納言に昇進した際には『公卿補任』にわざわざ「其身在関東」と記されており、関東にいる者を権大納言にするなんて、という周囲の羨望や嫉妬、非難の声が聞こえてきそうな雰囲気です。
こうした異例な処遇を認めたのは後嵯峨院以外に考えられませんから、『増鏡』の「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」という人事方針は確かに存在したのでしょうね。
ということで、僅か一例を見ただけですが、『増鏡』のこの記述は信頼できそうです。
おそらく遠藤氏や他の研究者も、『増鏡』の記述が実例に反していないことを確認した上で『増鏡』を引用されているのでしょうね。
さて、『増鏡』は『源氏物語』のような優雅な文体で描かれ、およそ歴史的重要性の感じられない煩瑣な儀式の描写や「愛欲エピソード」に満ち溢れている歴史物語であり、現代の歴史研究者にとっては非常に扱いづらい史料です。
厳密な史料批判の訓練を受けた研究者にとって、『増鏡』だけに依拠して歴史叙述を行なうのは落ち着かない気持ちがするはずで、おそらく多くの研究者は『増鏡』以外の確実な史料を探し求め、『増鏡』はあくまで補助的な史料として扱いたいと考えているはずです。
しかし、『吾妻鏡』が宗尊親王追放劇で終わって以降、武家社会には一定の歴史観に基づく編纂史料は存在せず、他方、公家側の日記類もいたずらに細部のみ詳しく、それも時期によって残された史料の量と質に偏りがあり、結局のところ鎌倉時代後期の歴史の流れをそれなりに分かりやすく説明してくれる史料は『増鏡』以外に存在しません。
ということで、どんなに他の史料を探し求めても入手できず、『増鏡』以外に手がかりとなる史料を得られない場合が多々あるのですが、その際に『増鏡』をどのように解釈すべきかは非常に悩ましい問題となります。
その点、例えば世間では堅実な実証的研究者と思われている森茂暁氏は、意外なことに『増鏡』の取扱いについては異様なほど大胆です。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8095
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8097

また、兵藤裕己氏の最新刊『後醍醐天皇』(岩波新書、2018)の「第1章 後醍醐天皇の誕生」における後醍醐天皇の母に関する叙述を見ると、

-------
 後宇多天皇は、正応元年(一二八八)一一月、後宇多天皇(上皇)の第二皇子として生まれた。諱を尊治という。
 母は、談天門院の院号を贈られた五辻忠子。参議五辻忠継の娘であり、内大臣花山院師継の養女として入内した。忠子は、尊治のほかに二男一女をもうけたが、やがて亀山法皇の寵愛を受け、尊治は幼少期を法皇御所の亀山殿で過ごすことになる。
 亀山殿の地には、のちに足利尊氏によって、後醍醐天皇の鎮魂を意図して天龍寺が創建された。天龍寺は、幼少期の尊治が母(および祖父法皇)と過したゆかりの地に建立されたのだが、母忠子をめぐる父後宇多上皇と祖父亀山法皇との複雑な愛憎劇が、尊治(親王宣下は正安四年<一三〇二>)を皇位継承者として浮上させる一つの伏線となったことは、村松剛氏による評伝にくわしい。
-------

といった具合で(p14)、兵藤氏は村松剛氏の『帝王後醍醐─「中世」の光と影』(中央公論社、1978)に全面的に依拠しているのですが、この村松著は『増鏡』(と『とはずがたり』)に全面的に依拠しています。
ということで、鎌倉後期の歴史叙述は未だに『増鏡』への依存度が極めて高いのが現状ですね。

村松剛「忠子の『恋』」
http://web.archive.org/web/20150918011501/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/muramatutakeshi.htm
 

『増鏡』にしか存在しない記事の取扱い─「愛欲エピソード」の場合

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月18日(金)10時48分7秒
編集済
  「弘安の御願」論争からひとまず離れて、『増鏡』にしか存在しない記事の信憑性をどのように判断するか、という一般論を少し検討してみます。
先に私は、『増鏡』にしか存在しない記事で、その内容が面白いものは基本的に『増鏡』作者の創作と考えるべきだと書きましたが、これを文字通り適用すると、私は現代の「抹殺博士」になってしまいます。
例えば「関東伺候廷臣」の処遇について後嵯峨院が「院中の奉公にひとしかるべし。かしこにさぶらふとも、限りあらん官、かうぶりなどはさはりあるまじ」と言ったという話は『増鏡』にしか出てきませんが、多くの歴史研究者がこの『増鏡』の記述を信頼し、その土台の上に様々な議論をしています。
従って『増鏡』に描かれた後嵯峨院の発言が創作であれば、多くの研究者の議論は砂上の楼閣となってしまいます。

「巻五 内野の雪」(その12)─宗尊親王
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9248

ま、重要なのは「関東伺候廷臣」の処遇のような政治的な話ですが、検討の順番として、先に「愛欲エピソード」の取扱いについて考えてみます。
『増鏡』には(『とはずがたり』を除く)『増鏡』以外の史料で基礎づけることができない多数の「愛欲エピソード」が存在しますが、何故か後嵯峨院の皇女については、例えば「弘安の御願」の直前に出てくる名前も分からない後嵯峨院姫宮と四条隆康の密通、そして流産による姫宮の急死のエピソードなど、「愛欲エピソード」が目立ちます。
このうち、名前なき後嵯峨院皇女の場合、肝心の姫宮の名前は分からないとしても、四条隆行・隆康父子の名前には相当のリアリティが感じられます。
後深草院二条なら四条家、それも隆親とは別系統の家の不祥事には特別な関心を持つはずで、秘密情報の入手も可能と思われるので、まあ、これは事実を反映しているのではないかと私は思います。

「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9494

また、月花門院の場合、二十三歳の若さで亡くなっていることは事実であるので、堕胎の失敗による急死という話もそれなりにリアリティが感じられます。

「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9314

ついで五条院の場合、亀山院の女性関係が多彩で大変な子沢山だったことは『増鏡』以外の、例えば「本朝皇胤紹運録」のような系図からも伺えるので、異母妹との間に姫宮が生まれたこと自体は、まあ、ありそうな感じがします。
ただ、姫宮が「宮の御母君をば誰とか申す」と聞かれると「いはぬ事」とのみ返事をしたという話は些か出来すぎで、創作っぽい匂いも感じられます。

「巻十 老の波」(その4)─五条院
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9465

一番問題となるのは後深草院と前斎宮の密通ですが、私はこれは後深草院のイメージを貶めるための作り話ではないかと考えています。
『とはずがたり』では自身を御所から追放した東二条院への憤りは伺われるものの、それを容認した後深草院への非難が存在しないばかりか、最後まで後深草院を慕って、その葬列を裸足で追いました、みたいな綺麗ごとに終始しているのですが、実際には後深草院二条は後深草院に恨みを抱いていたと考えるのが自然です。
そこで復讐の意味もあって、『増鏡』作者は亀山院を称揚するエピソードを創作する一方で、後深草院を貶めるための工夫もしており、その一例が前斎宮エピソードではなかろうかと私は考えているのですが、この点は『増鏡』作成の目的に関係するので、別途検討する予定です。

「巻九 草枕」(その6)~(その12)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9439
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9441
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9442
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9443
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9444
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9445
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9446

このように、『増鏡』にしか存在しない記事で「愛欲エピソード」タイプの面白い話はそれぞれの個別事情、特に登場人物と後深草院二条との人間関係を見て行く必要があると思います。
 

「弘安の御願」論争(その11)─『増鏡』作者が想定する読者層との関係

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月17日(木)22時22分4秒
編集済
  後深草院二条の祖父・四条隆親(1203-79)も確か公卿勅使になっていたはずだなと思って少し検索してみたら、阿哈馬江(Ahmadjan)氏の『日本の親王・諸王 』というサイト内に「伊勢使王表」がありますね。
これを見ると寛喜三年(1231)十月に「權中納言藤原朝臣隆親」が「止雨祈願」のために発遣されていますが、時期から考えてこれは「寛喜の飢饉」への対応ですね。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6188/tukahi/tukahif121.html

さて、私は平泉澄の第一命題、即ち「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」の存在自体を疑う立場ですが、仮に私のこの考え方が正しいとしても、『増鏡』作者が読者に対して、亀山上皇と後宇多天皇のどちらが「身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられた」ものと読んでくれるように期待したのかは別問題です。
この点、私はやはり亀山上皇なのだろうと思います。
『増鏡』作者がいかなる読者を想定して『増鏡』を執筆したかは別途検討する予定ですが、武家社会の動向について相当な分量の記述があることから見て、公卿勅使という制度を知悉しているような京都の貴族層だけを対象としているのではなく、もう少し広い範囲、少なくとも上級武士層は含まれるものと考えてよいと思います。
そうした読者を念頭に置いた場合、平泉澄がいうように「只虚心に読み下すときには自ら新院を受けると解せられる。古来上皇説のみ多く伝へられたといふ事実が実に之を証する」と思われます。
また、大宮院との関係についての龍粛の考察は説得的です。

龍粛「弘安の御願について」
http://web.archive.org/web/20150429002156/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan.htm

そして、私は「かの異国の御門」の「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」という誓いが「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」に対応するものと考えますが、「かの異国の御門」に対応する「日本の帝王」は誰かというと、これは「治天の君」である亀山上皇ですね。
この時期の後宇多天皇(十五歳)は亀山上皇の保護と指導の下に、将来は優れた「治天の君」となれるように修行中の「治天の君」見習いのような存在です。
この点は今谷明氏の、

-------
 殉国捨命の祈主が天皇か上皇かなどは、戦後のマルクス主義史家にとってはどうでもよい問題なのであろう。しかしながら、国家的祈願の主催者が上皇か天皇かは、王権や国制史にとっては重大問題である。
 先述のように摂関や時宗も独自の祈祷体系を保持しており、当時はどの権門も自ら願主として各寺社に祈祷を行うことができた。院や天皇の祈祷もその限りでは相対的なものであったことが知られる。
 しかし弘安四年六月、来襲報知直後の各寺社の祈祷は仙洞議定による院宣を以て発令されている事実(『弘安四年日記抄』)から判るように、国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇であって、関白兼平や執権時宗は決して願主にはなれないのである。ここに宗廟の大神宮への捨命殉国の祈願が上皇によりなされたことは、この祈祷体系のメカニズムを象徴する意義があるといえよう。
 俗に言われる如く、中世の天皇は神主(司察)として生き残ったのでは決してない。神官司祭を動員し、祈祷を行わせる願主の頂点として、執政上皇の王権が発揮されたのである。

http://web.archive.org/web/20150429140826/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-imatani-junkokuno-gokigan.htm

という見解も参考になります。
旧サイトで検討したように今谷説にはいくつかの疑問がありますが、「国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇」という今谷説の基本部分は重要だと思います。
このように『増鏡』作者が想定する読者層との関係を考えて行くと、『増鏡』作者は公卿勅使という制度に詳しい上級レベルの読者に対しては、「まことにやありけん」がどこに掛かっているのか考えてみなさいよ、と謎かけする一方で、通常レベルの読者に対しては、亀山院が立派な人だったという印象を与えたいと思って「弘安の御願」エピソードを書いたのではないかと思われます。
『増鏡』を「只虚心に読み下すときには」、後深草院は幼い頃から身体は虚弱で性格は陰湿そうな感じがするのに対し、亀山院は身体は壮健、性格は剛毅で、実に「日本の帝王」たるにふさわしい人物であるように描かれています。
こうした観点からは、「弘安の御願」エピソードは「巻八 あすか川」の春宮灸治や内裏火災のエピソードと共通のグループに分類できそうです。

「巻八 あすか川」(その18)─春宮の灸治と土御門定実
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9407
「巻八 あすか川」(その19)─内裏の火災と円助法親王
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9408
 

「弘安の御願」論争(その10)─結論

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月16日(水)11時27分56秒
編集済
  東大の「国際総合日本学ネットワーク」サイト内のインタビュー記事で、松方冬子氏(史料編纂所准教授)は、

-------
私の先生の先生は岩生成一という台北帝大にいたオランダ語を読む先生です。平泉澄は戦争中に国史学科、今の日本史学科を牛耳っていた先生で、その先生はドイツに留学して帰ってきてから皇国史観になったらしい。昔は普通の人だったのに、帰ってきておかしくなったと。だから留学なんかするものじゃないのだよ、留学はするのはよくないことだよ、と、私は学生の時に先輩に言われました。先生にも言われたし。

http://gjs.ioc.u-tokyo.ac.jp/ja/interviews/post/20170303_matsukata/

と言われていますが、1895年生まれの平泉澄が24歳の時に書いた「亀山上皇殉国の御祈願」を読むと、平泉が留学前に既に十分変な人だったことは明らかですね。

http://web.archive.org/web/20150702191658/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-hiraizumi-kiyoshi-kameyamajokou-junkokunogokigan.htm

「弘安の御願」論争は平泉が八代国治を批判した後、八代が反論しないまま間もなく死去したので、平泉らの上皇説が勝利したかのような漠然とした印象を残して事実上終息してしまったのですが、歴史学者としてはそれなりに有能な平泉澄の八代説批判には鋭い点があるものの、自説の積極的根拠はというと、

-------
 この上皇の御性格を以て、弘安四年の未曾有の国難に遭遇せさせ給ふては、必ずや「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべきよし御手づから書かせ給」ふて、大神宮に祈らせるゝに相違ない。そは個人心理の考察よりして何人も是認すべき所である。かくて予の上皇説はこゝに深き心理的根拠を得たのである。この一項は実に予の上皇説の骨髄である。
 或は言ふかも知れない。右に挙げた「世のために」の御歌は弘安元年のものであつて弘安四年には何等の関係もないと。予は答へる、弘安元年にさへ既にこの御精神でないか、それが国家の運命の危急存亡に迫つた弘安四年にどうして捨命殉国の御祈願とならないで已まうかと。この関係を認めないならば、予の上皇説は著しく其力を失つてくる。或は半崩壊するかも知れない。しかしながら、もしこの必然の理路をしも認めないならば、そは明かに人格の否定であり道徳の瓦解であり、ひいて歴史研究の意義の大半を喪失せしむるものである事を覚悟しなければならない。
-------

といった具合で、「予の上皇説」の「深き心理的根拠」、「予の上皇説の骨髄」はもともと文学的感性に乏しい平泉の硬直的な和歌解釈であり、説得力はありません。
また、『続門葉和歌集』に載る通海の和歌の詞書について、

-------
 この詞書は年代を明記せず、また御願の趣をはばかって書いていないために甚だ不徹底であるが、「その御祈が命に関係したもの」であり、この歌は「通海が公家の捨命殉国の御祈願を読み奉つた後に於て、自ら感慨に堪へずして私に国運の隆昌と、玉算の長久とを祈り奉つたもの」と解せられるから、もし「この通海の歌の詞書に見ゆる公家の御祈が捨命殉国の御祈願であり、而して公家が上皇を指し得る事となれば、全体を綜合して、これは弘安四年に通海が院宣を奉じて伊勢に参向した折の事と解せられ」るであろうことは、平泉博士が詳細に考察を加えられたところである。

http://web.archive.org/web/20061006194023/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm

と平泉澄に賛成してしまう小島鉦作も、和歌の解釈があまりに硬直的であり、文学的感性に乏しい点は平泉と共通です。
結局、論争の過程で登場した『弘安四年日記抄』・『通海参詣記』、そして亀山院の御製と通海の和歌も全て決め手にはなりません。
上皇説・天皇説のいずれが正しいのか、更にそもそも平泉澄が「然らば予輩はいかにして上皇説を確立するか。予は茲に三氏の論文と予の研究とによつて得たる命題数個を捉へ来つて、之を一つの論理的系列に配したいと思ふ」と前置きして設定したところの第一命題、即ち「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」が存在したのか否かの判断材料は『増鏡』以外にありません。
「弘安の御願」論争に現代的意味は乏しいとしても、『増鏡』にしか存在しない記事の信憑性をどのように判断するか、という一般論に引き直せば、これは十分検討に値する問題ですね。
ま、私は、『増鏡』にしか存在しない記事で、その内容が面白いものは基本的に『増鏡』作者の創作と考えるべきだと思っています。
前斎宮エピソードなどの『とはずがたり』との関係をひとまず置くとしても、『増鏡』作者が記事の素材となる史料を勝手に面白く改変した例は沢山あります。
例えば、古来、『増鏡』有数の名場面とされている承久の乱に際しての北条義時・泰時父子の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードは、『五代帝王物語』における別の時点での北条泰時・安達義景の「かしこくも問へるをのこかな」エピソードの焼き直しです。

『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9232
「巻二 新島守」(その6)─北条泰時
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9214

また、『増鏡』は『弁内侍日記』という後深草天皇に仕えた女房の記録を何度か引用しているのですが、幼帝を中心とする親密な関係者しか登場せず、他に参照すべき史料があり得ないようなエピソードを引用するに際して、『増鏡』作者は『弁内侍日記』に存在しない「津の国の葦の下根の乱れわび心も浪にうきてふるかな」という歌を勝手に追加しています。

「巻五 内野の雪」(その9)─弁内侍(藤原信実女)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9245

こうした『増鏡』作者の基本的態度に照らすと、「弘安四年蒙古襲来の際に、亀山上皇か後宇多天皇かいづれか御一方が、身を以て国難に殉ぜん事を大神宮へ祈らせられたといふ御逸事」の存在自体が疑わしいと考えるべきです。
そして、「弘安の御願」の場合、一番最後に置かれていて、全ての論争参加者が無視している、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9497

という記述の存在が決定的だと思います。
旧サイトで検討した際、私は「まことにやありけん」を、公卿勅使が「経任大納言」であるのに「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」となっている点に掛けたものと考えてみました。
しかし、「日本の帝王」による「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」と「かの異国の帝」による「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」という誓いは、その語彙に共通・類似する部分が多いだけでなく、一国の「帝王」が、かたや「日本」が滅びることを防ぐために自分の命を神に捧げると決意し、かたや「日本」を滅ぼすために「日本の帝王」に生まれ変わることを決意して実際に死んでしまったという具合に、極めて明瞭な対応関係があります。
従って、「まことにやありけん」は、

-------
大神宮へ御願に、「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」となほ諫め聞えさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9495

に掛かっていて、「かの異国の帝」の話が「まことにやありけん」なのだから、「日本の帝王」の話も本当なのかどうか、よく考えてごらんなさいね、と読者に謎を掛けているのではないかと思います。
 

「弘安の御願」論争(その9)─「弘安の御願」はそもそも存在したのか?

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月15日(火)14時59分26秒
編集済
  旧サイトでの私の関心は「弘安の御願」場面における中御門経任の描かれ方に集中しており、この場面を含め、経任は『とはずがたり』と『増鏡』の両書にまたがって奇妙な描かれ方をされているから、これは『とはずがたり』と『増鏡』の作者が同一人物であることの証拠だ、と結論づけて、それで満足していました。

私の考え方(2002年暫定版)「第二章 『増鏡』の作者」
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei02.htm

要するに私は八代国治が提起した「弘安の御願」論争の核心部分を回避していたのですが、今回、改めてこの問題を考えてみたいと思います。
そこで、まず基礎の基礎、即ち「公卿勅使」とはそもそも何なのか、というと、『国史大辞典』によれば、

-------
 伊勢神宮に朝廷から差遣される使には恒例祭典の例幣使(四姓使)と皇室・国家・神宮に事があった場合の臨時奉幣使があり、後者のうち格別の大事に際しては三位以上の公卿または参議が充てられた。これを公卿勅使といい、王・中臣・忌部・卜部の四姓も副従した。初見は聖武天皇天平十年(七三八)五月遣唐使の平安を祈って右大臣正三位橘諸兄らを派遣したときで、孝明天皇文久元年(一八六一)五月までに疑わしい二回を含めて百二十五回を数える。勅使発遣の儀や奉幣式はほぼ例幣の儀と同様であるが、勅使は単独参内し、天皇に拝謁、白紙の宣命を拝受、勅語を賜わる。神前にては宣命の奏申は幣物奉納後に行い、のち勅命によって焼却するなどを異にする。宣命の草案は中世以来高辻家より作進されたが、正保四年(一六四七)と天和二年(一六八二)の両度は宸作。宸筆宣命は一条天皇寛弘二年(一〇〇五)十二月を初見として明治まで七十九回に及んでいる。→伊勢例幣使(いせれいへいし)
【参考文献『江家次第』一二(『(新訂増補)故実叢書』二、『治承元年公卿勅使記』、『正応六年七月十三日公卿勅使御参宮次第』、『二所太神宮例文』、神宮司庁編『神宮要綱』】(鈴木義一)
-------

というものです。
また、龍粛の「弘安の御願について」「六.公卿勅使」によれば、

-------
 弘安四年閏七月ニ日、天皇が親しく神祗官で公卿勅使経任を神宮に差遣せられたことは、諸記録に見えていて一点の疑いはないのであるが、当時、経任が捧げた宣命が伝わらず、且つその宣命の成立した曲折も明らかでなく、ただ発遣の儀式ばかりが勘仲記に載せられているに過ぎないので、その宣命に如何なる意味があったかは、全く不明である。
 伊勢公卿勅使の捧げる願文は、いわゆる宸筆宣命である。これは内記が起草して宸筆をもって清書されることが通例であるが、また勅草の場合もあって、その際は起草も清書もともに宸筆である。弘安の場合にはそのいずれであったかは徴すべくもないが、この後、正応六年に同じく蒙古来襲に対する御祈りとして、伊勢公卿勅使に籐原為兼が任命されたことがある。【中略】弘安のおりでは僅かに勘仲記ばかりで、しかも宣命の成立についてはただ次の数字に現わされているに過ぎない。
 朝間有御浴殿事、宸筆宣命御清書程也、勅草御侍讀無祗候之儀
〔朝の間に御浴殿の事あり、宸筆の宣命御清書の程なり、勅草に御侍読は祗侯の儀なし、〕
 この文章には多少解釈の困難なところがあるけれど、「勅草御侍讀無祗候之儀」とあるより見れば、この宣命は勅草であり、且つその時には侍読が祗候しなかったのである。もし増鏡の御願がこの宣命であったならば、大宮院との関係がここに見えそうにも思われる。また公卿勅使の捧げるものは宣命であるが、宣命の外に願文と呼ばれる形式のものもあって、増鏡にいう御願は宣命であるか願文であるかは明らかでないが、もし願文の形式のものとすれば、経任の捧げたものとは別のものとなる。

http://web.archive.org/web/20150429140838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan-2.htm

とのことです。
まあ、弘安四年の場合、『勘仲記』の僅かな記述以外に史料がないので詳しい事情は分かりませんが、公卿勅使は古くからのしきたりで厳格に手順が定められている制度であって、宣命ないし願文の内容は、仮に十五歳の後宇多天皇に何らかの特別な意向があったとしても、天皇個人の判断で自由に作文できるようなものではなさそうです。
また、「弘安の御願」の内容については、八代国治が『弘安四年日記抄』の「希代之御願」という表現と密接に関連のあるものと主張したのですが、龍粛が「希代」は単なる形容詞であると反論した後、小島鉦作は、

-------
 前掲の『日記抄』の文において「希代之御願」という語は、これだけで独立しては解せられない。「公卿勅使有臨幸被発遣之、希代之御願也」と連続して一つの文を構成するものである。しかしてこれは神祗官に臨幸あらせられて、御願を奉告せしむべき公卿勅使を発遣せられたという、勅使発遣の形式、換言すれば、その儀式の次第が希代であったという意味であって、決して御願の主旨を暗示するものではない。すなわち希代は儀式にかかわるもので、御願にかかわるものではないのである。故に『一代要記』にはこのことを記して「自官庁行幸于神祗官、此儀希代之例也」云々といっているのである。
 先規を重んじ先例に則ることは、当時の公家の儀式の原則であって、いやしくも新儀をひらき、あるいは異例によろうならば、宮廷の公卿等がこぞって特筆大書するのは、一般の風習であって、多くの記録に明証がある。この場合は『日記抄』七月二日の条にも記されているごとく、延久元年及び建久六年の先例によって、特に神祗官に行幸されて、公卿勅使を発遣せられたことを指すものに外ならない。

http://web.archive.org/web/20061006194023/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm

と主張し、私はこれは正しいと思います。
要するに「希代」は宣命ないし願文の内容とは全く関係がないということになります。
さて、上記のように公卿勅使は古くからのしきたりに縛られた非常に厳格な制度ですから、仮に亀山上皇説に立ったとしても、上皇が公卿勅使に自己独自の願文を持たせて、ついでにこれも神宮に奉納してくれ、などと頼める性格のものではないことは明らかです。
そこで、上皇説の場合、公卿勅使とは別個独立に上皇が使者を送ったと考えることになります。
この点、栢原昌三が紹介した『通海参詣記』という史料があって、醍醐寺の通海という僧侶が院宣を賜って院使となったことが記されています。
この『通海参詣記』については八代が軽率に偽書説を唱えてしまいましたが、平泉澄と小島鉦作が反駁し、この論点に限っては八代の敗北は明らかです。
しかし、通海という僧侶が院宣を賜って院使となったことが正しいとしても、通海が賜った願文の内容が『増鏡』の「弘安の御願」と結びつくかは別問題です。
平泉澄は『続門葉和歌集』に、

-------
「公家の御祈の為に太神宮へ詣うでゝ、宸筆の御告文を読み奉るとて、伊勢の国は常世の浪の敷浪寄する国なり、人の命も長かるべしと御託宣ありける事を思ひ出でゝ、
 やそちまで祈る心は伊勢の海や常世の浪の数にまかせて、」

http://web.archive.org/web/20150702191658/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-hiraizumi-kiyoshi-kameyamajokou-junkokunogokigan.htm

という通海の歌があることから、この歌の詞書の「命」と「弘安の御願」の「誠にこの日本のそこなはるべくは、御命をめすべきよし」が結びつくと主張するのですが、まあ、牽強付会としか言いようがありません。
また、小島鉦作は『通海参詣記』の緻密な、あるいは緻密すぎる読解から、亀山院は通海の他に「院公卿勅使」も発遣していたとして、通海は「院公卿勅使に対して、内法より御祈を修すべき御使として大神宮に参向したもの」とし、結局、後宇多天皇の発遣した公卿勅使(中御門経任)の他に、亀山院が「院公卿勅使」を発遣し、更に通海も発遣して、結局、この時期の伊勢への朝廷からの使者は三本立てだった、という説を唱えています。
まあ、この説は使者の人数の点ではそれなりに論理的なのですが、肝心の願文の内容については論理的な説明は一切なく、安易に平泉澄に追随しており、これまた牽強付会と言わざるをえません。
従って『通海参詣記』が偽書ではないとしても、また、伊勢神宮への使者が何人であろうとも、「弘安の御願」の内容とは結びつきません。
結局、「弘安の御願」の内容については『弘安四年日記抄』・『通海参詣記』・『続門葉和歌集』いずれも参考にならず、『増鏡』以外に史料は存在しないと言わざるをえません。
ということで、「弘安の御願」の存在それ自体も、唯一の史料である『増鏡』を信頼できるかどうかにかかってきてしまいます。
 

「弘安の御願」論争(その8)─「勅として…」の歌の作者

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月14日(月)13時30分15秒
編集済
  公卿勅使が「経任大納言」なのに「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」だ、というのは『増鏡』を通読した人なら誰でも不審に思う奇妙な記述ですが、この記述が何かを示唆しているのではないかと疑って、改めてこの時の公卿勅使について諸記録を調べてみると、公卿勅使に選ばれたのは間違いなく中御門経任であって、二条為氏ではありません。
ただ、公卿勅使の中御門経任が伊勢に向かって出発したのは弘安四年(1281)閏七月二日です。
ところが、「七月一日(閏脱カ)おびたゞしき大風吹きて、異国の船六万艘、兵のりて筑紫へよりたる、みな吹き破られぬれば、あるは水にしづみ、おのづから残れるもなくなく本国へ帰りにけり」ということで、中御門経任が伊勢に出発する前日に、既に客観的には決着が付いてしまっていました。
もちろん情報伝達のタイムラグがあって、大風により敵軍が相当な打撃を受けたという鎮西からの知らせは閏七月九日に最初に京都に到達し、ついで十一日に続報があって大勝確実となり、諸人が大喜びしたのだそうです(『弘安四年日記抄』)。
他方、中御門経任は初報と続報の間、十日という微妙な時点で京都に戻って来ます(『勘仲記』)。
とすると、戦勝に興奮冷めやらぬ期間はともかくとして、少し時間が経過して諸人が落ち着きを取り戻した後になると、中御門経任が公卿勅使として果たした役割について若干の疑問を抱く人も出てきたはずです。
なにより中御門経任自身が、古くからの公卿勅使の慣例に従って天皇に拝謁して宣命を拝受し、勅語を賜り、諸人の期待を背負って勇躍伊勢に向い、神前で宣命を奏申する大役を恙なく果たした後、京都に戻ってみたら、既に自分が出発する前日に勝負が決まっていたというニュースを知って、ハラホロヒレハレという脱力感を味わったかもしれません。
まあ、中御門経任には気の毒ですが、結果的に些かコミカルな展開になったことは否めません。
そうだとすると、前回投稿で書いたような事情でもともと中御門経任に好意を持っていなかった『増鏡』作者は、「勅としていのるしるしの神風によせくる浪ぞかつくだけつる」という歌の作者を、公卿勅使でも何でもなかった二条為氏に代えることによって、経任ってホントに役立たずだったよね、経任が行く前に「神風」は吹いてしまっていたのだからね、というシニカルな評価を下したのではないかと私は考えます。
また、そもそもこの歌は『増鏡』以外にどこにも記録されていないので、私はこの歌の作者は中御門経任でも二条為氏でもなく、『増鏡』作者が勝手に作った歌だろうと考えます。
なお、中御門経任が公卿勅使として出発する前に既に「神風」が吹いてしまっていることは「弘安の御願」論争に参加した全ての人が分かっていたはずですが、誰も触れていません。
唯一、「愛国百人一首」の関係で「弘安の御願」論争の周辺にいた川田順のみが、

-------
○勘仲記によれば中御門經任等公卿勅使は弘安四年閏七月二日京都を出發し、同十一日に帰京せられたのであつた。すなはち勅使發向の前日すでに豪古勢は神風によつて覆滅してゐたのであるが、當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつたのである、公卿勅使も伊勢への旅行の往還いづれかで初めて聞知されたものなることは、明らかだ。依而、為氏の一首も「のぼる道より」帰洛の途中よりとしてある。

http://web.archive.org/web/20151001010914/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawata-jun-aikoku-hyakunin-isshu.htm

と書いていますが、まあ、誰でも気づくことであって、論争参加者は議論の格調が下がるのを避けるために敢えて触れなかったのだろうと思います。
細かいことを言うと、川田順の「當時の通信方法迅速ならざりし為め朝廷には二日か三日か、しばらくの間は大捷利を御承知なかつた」という記述のうち、「二日か三日か」は性急に過ぎて、閏七月一日の大風の翌二日に使者が鎮西を出たとしても、京都への到着は九日ですから一週間かかっていますね。
また、更に細かい話ですが、公卿勅使の中御門経任が帰京したのは十一日ではなく十日です。
『勘仲記』の閏七月十一日条に「晴、公卿勅使昨夕帰路、今日参内、殿下御参内、仙洞評定」とあり、経任は十日に帰って十一日に参内しています。

さて、以上の私見は旧サイトでも概ね同内容で書いていたのですが、論争の中心である「弘安の御願」の主体が誰か、後宇多天皇なのか亀山上皇なのかについては特に検討していませんでした。
この点は今回改めて考えたことがありますので、次の投稿で書きたいと思います。

私の考え方(2002年暫定版)「第二章 『増鏡』の作者」
http://web.archive.org/web/20150831071838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei02.htm
 

「弘安の御願」論争(その7)─老尼が登場する意味

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月13日(日)13時26分3秒
編集済
  それでは『とはずがたり』と『増鏡』の作者を同一人物、即ち後深草院二条と考える私の立場から「弘安の御願」の場面を検討したいと思います。
後深草院二条(1258-?)が亀山院(1249-1305)と直接の面識があることは『とはずがたり』に詳しく、『増鏡』の「持明院殿蹴鞠」の場面でも「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」として登場する後深草院二条と亀山院の交流が『とはずがたり』より少し上品に描かれています。

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御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀の御杯、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9469

また、後深草院二条は大宮院(1225-92)とも直接の面識があり、『とはずがたり』の前斎宮エピソードでは、

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「まことにいかが御覽じはなち候ふべき。宮仕ひはまた、しなれたる人こそしばしも候はぬは、たよりなきことにてこそ」など申させ給ひて、「何ごとも心おかず、われにこそ」など情あるさまに承るも、いつまで草のとのみおぼゆ。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9425

という具合に、三十三歳上の大宮院が暖かく声をかけてくれた言葉に、十七歳の後深草院二条は「いつまで草の」などとシニカルな感想を述べたりしています。
更に中御門経任(1233-97)は、

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 さるほどに、四月の祭の御桟敷の事、兵部卿用意して、両院御幸なすなどひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、同じ四月の頃にや、内・春宮の御元服に、大納言の年のたけたるがいるべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を、一日借りわたして参るべきよし申す。神妙なりとて、参りて振舞ひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ経任になされぬ。さるほどに善勝寺の大納言、故なくはがれぬること、さながら父の大納言がしごとやと思ひて、深く恨む。当腹隆良の中将に、宰相を申すころなれば、この大納言を参らせ上げて、われを超越せさせんとすると思ひて、同宿も詮なしとて、北の方が父九条中納言家に、籠居しぬるよしを聞く。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9349

という具合に、耄碌した四条隆親(1203-79)を使嗾して四条隆顕(1243-?)の大納言の職を奪い、ちゃっかりその後釜を占めた悪辣な陰謀家として『とはずがたり』に登場します。
従って、後深草院二条が『増鏡』の作者であれば、『増鏡』作者は弘安の役当時の公家社会の動向を自らの経験として知っているのみならず、「弘安の御願」場面の主要登場人物も個人的に熟知していることになります。
そうであれば、この場面において、『増鏡』作者に記憶の混乱だとか、まして「経任」をうっかり「為氏」と書き間違えたなどというケアレスミスは一切なく、『増鏡』作者は、その曖昧な記述に読者が混乱するであろうことを承知の上で、完全に意図的にこの場面を構成していることになります。
そして、『増鏡』作者は決して自己の意図を隠しているのではなく、むしろ読者に非常に親切なヒントを与えて、私がこの場面で本当に言いたいことを想像してごらんなさいよ、と謎かけをして楽しんでいるのではないかと思います。
そのヒントがこの場面の最後に出てくる、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。
-------

という一文ですね。
「弘安の御願」論争の参加者は全員がこの一文を無視していますが、確かに「かの異国の御門」、即ち元の皇帝フビライ(1215-94)が「日本の帝王」に生まれ変わって日本を滅ぼす身となりたいと願って自ら食事を断ち、死んでしまいました、などという話はあまりに荒唐無稽、あまりに莫迦莫迦しく、真面目に受け取ることはできません。
「まことにやありけん」(本当なのでしょうか)と聞かれたら、「ホントのはずがないでしょう」としか答えようがありません。
では何故、この奇妙なエピソードが「まことにやありけん」という老尼の感想とともにここに置かれているのか。
そもそも『増鏡』の「序」に登場する語り手の老尼が現われる場面は、「巻十一 さしぐし」で「久我大納言雅忠の女」が「三条」という名前で登場する場面を始めとして、非常に奇妙な記述が多く、私はこれを『増鏡』作者が、表面的な記述の背後にある何かを読者に伝えたいと考えていることのサインだと思っています。

『増鏡』序
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9197
『増鏡』序─補遺
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9198

「弘安の御願」の場面でも、『増鏡』作者は形式的には「かの異国の御門」のエピソードのみを対象としている「まことにやありけん」を、別の話題にも掛けているように思います。
その第一は公卿勅使となったのは「経任大納言」であるのに、「伊勢の勅使のぼるみち」から歌を送ってきたのが「為氏大納言」となっている点です。
果たしてこれは「まことにやありけん」。
 

「弘安の御願」論争(その6)─「まことにやありけん」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月12日(土)15時07分38秒
編集済
  長々と「弘安の御願」論争を紹介してきましたが、発端の八代国治から龍粛・栢原昌三・平泉澄・小島鉦作、そして辻善之助を含む「愛国百人一首」周辺の学者たちを経て、戦後では恐らく唯一の参加者である今谷明氏まで、全ての論争関与者が『増鏡』にしか存在しない記事に基づき、その曖昧模糊たる土台の上に議論を積み重ねてきたことは理解していただけたと思います。
さて、私はこの論争の土台である『増鏡』の記事自体を根本的に疑うべきであろうと考えます。
『増鏡』は後鳥羽院の物語と後醍醐天皇の物語を二つの大きな山場とし、その中間部分を加えて全体が大きく三つの部分から構成されていますが、中間部分は後嵯峨院の物語と、その息子である後深草院・亀山院兄弟の物語の二つに分けることができます。
そして第一部(後鳥羽院の物語)と第三部(後醍醐天皇の物語)は概ねドラマチックで格調が高く、第二部も前半(後嵯峨院の物語)は、現代人から見れば若干退屈な場面もありますが、それなりに優美な格調の高い物語といえます。
しかし、第二部の後半(後深草院・亀山院兄弟の物語)には「巻九 草枕」の前斎宮エピソードを始め夥しい数の「愛欲エピソード」が登場し、その多くは『とはずがたり』を引用しています。
しかも『増鏡』が一方的に『とはずがたり』を資料として引用するのではなく、『とはずがたり』のエピソードに『増鏡』独自のエピソードを付加するなど、両者は複雑に交錯しています。
加えて、とりわけ元寇の時期は『とはずがたり』の時間の流れが史実とずれている上に、『増鏡』と『とはずがたり』の時間の流れも数年単位で大幅にずれており、『増鏡』に描かれている場面が何時の出来事なのか確定できない例が多数あります。
このように『増鏡』の「弘安の御願」の場面は、『増鏡』の中でも特に史実との整合性が取りにくい部分に置かれていることに、まず注意する必要があります。
ついで、学者たちが「弘安の御願」論争で論じている場面の前後にも注目する必要があります。
論争の発端となった八代論文では、

-------
弘安も四年になりぬ、夏頃後嵯峨院の姫宮かくれ給ぬ、○中略 その頃蒙古起るとかやいひて世中さはぎたちぬ、いろいろさまざまに恐しう聞ゆれば、本院新院はあづまへ御下あるべし、内、春宮は、京にわたらせ給ひて、東の武士ども上り候べしなど沙汰ありて、山々寺々御いのりかずしらず、伊勢の勅使に経任大納言まいる、新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、真読の大般若経供養せらる、大神宮へ御願に、我御代にしもかゝる乱出できて、誠にこの日本のそこなはるべくは、御命をめすべきよし、御手づからかゝせ給ひける、大宮院いとあさましき事なりと、猶聞えさせ給ふぞことはりにあはれなる、されども七月一日(閏脱カ)おびたゞしき大風吹きて、異国の船六万艘、兵のりて筑紫へよりたる、みな吹き破られぬれば、あるは水にしづみ、おのづから残れるもなくなく本国へ帰りにけり、○中略 さて為氏の大納言、伊勢の勅使にてのぼる道より申しおくりける、
 勅としていのるしるしの神風によせくる浪ぞかつくだけつる
かくしづまりぬれば、京にもあづまにも、御心どもおちゐてめでたさかぎりなし、

http://web.archive.org/web/20150429140843/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-yashiro-kuniji-hottanno-ronbun.htm

という具合に、『増鏡』の引用に際して「中略」としている箇所が二つありますが、最初の「中略」には、

-------
後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちもたぐひなくうつくしうおはしまして、「人の国より女の本をたづねんには、この宮の似絵をやらん」などぞ、父みかども仰せられける。御乳母隆行の家におはしましける程に、御乳母子隆康、忍びて参りける故に、あさましき御事さへいできて、これも御うみながし、にはかに失せさせ給ひにけるとぞ聞えし。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9494

という四条隆行・隆康父子が関係する「愛欲エピソード」が存在しています。
また、二番目の「中略」には、

-------
石清水の社にて大般若供養のいみじかりける刻限に、晴れたる空に黒雲一村にはかに見えてたなびく。かの雲の中より白き羽にてはげたる鏑矢の大きなる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたたしかりければ、かしこには、大風の吹き来ると兵の耳には聞えて、浪荒く立ち、海の上あさましくなりて、みな沈みにけるとぞ。なほ我が国に神のおはします事あらたに侍りけるにこそ。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9497

という石清水八幡の霊験譚が存在しています。
八代は、前者については「弘安の御願」に全く関係しない上に著しく品位を欠くものとして、後者については宗教的権威への祈願として「弘安の御願」と共通するものの、その内容があまりに荒唐無稽であるために引用を避けたものと思われますが、八代は更に、元寇に関係する後続の記述も省略しています。
即ち、八代が引用した部分の直後には、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9497

という記述がありますが、八代はこれを全く無視しています。
八代としては、この部分は「弘安の御願」とは関係なく、また内容も荒唐無稽であるとして省略したものと思われます。
しかし、「日本の帝王」による「我御代にしもかゝる乱出できて、誠にこの日本のそこなはるべくは、御命をめすべきよし」と「かの異国の帝」による「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」という誓いは、その語彙に共通・類似する部分が多いだけでなく、一国の「帝王」が、かたや「日本」が滅びることを防ぐために自分の命を神に捧げると決意し、かたや「日本」を滅ぼすために「日本の帝王」に生まれ変わることを決意して実際に死んでしまったという具合に、極めて明瞭な対応関係があります。
そして、後者には「まことにやありけん」という感想が付されているのですが、これは誰が語っているかというと、『増鏡』の冒頭に登場し、『増鏡』本文にも時々顔を出してくる語り手の老尼です。
 

「弘安の御願」論争(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月11日(金)11時39分34秒
編集済
  「弘安の御願」論争については川添昭二氏のまとめ(『蒙古襲来研究史論』、雄山閣、1977)を途中まで紹介しましたが、これは旧サイトに全文載せています。

川添昭二「『弘安の御願』をめぐる論争」
http://web.archive.org/web/20120929020305/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawazoe-shoji-moukoshurai-kenkyushiron.htm

繰り返しになりますが、大正七年(1918)に八代国治が後宇多天皇説を提唱すると、直ぐに龍粛が反論します。
『増鏡』の記事に照らし、御願の主体は大宮院と格別に親しい存在でなければならないが、それは亀山院だ、というのが龍の反論の中心です。
また龍粛は八代国治が自説の根拠とした『弘安四年日記抄』の「希代(之御願)」も単なる形容詞であって、格別に深い意味がある訳ではないと主張します。

龍粛「弘安の御願について」(前半)(後半)
http://web.archive.org/web/20150429002156/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan.htm
http://web.archive.org/web/20150429140838/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-ryou-susumu-kouannogogan-2.htm

ついで栢原昌三が亀山上皇説に有利な『通海参詣記』という史料を紹介します。

栢原昌三「弘安の御祈願と通海権僧正」
http://web.archive.org/web/20110728113121/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kayahara-shozo-kouanno-gokigan.htm

この二人の批判に接した八代は、大正八年(1919)に再び自説の正しさを論証するのですが、率直に言って龍粛への反論は説得力がなく、また、栢原昌三が提示した『通海参詣記』の法楽社の記事を不用意に疑ったため、平泉澄に介入の材料を与えてしまいます。

八代国治「弘安の御祈願に就て」
http://web.archive.org/web/20110728110037/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-yashiro-kuniji-hanron.htm

平泉澄は「八代、龍、栢原三氏の傑れた研究にかなり満足してゐる予輩は、三氏によつて提供せられた史料以外に別に新史料を漁らうともせず、それどころか三氏提供の史料も多くは三氏の論文で拝見するに止めて、一々其原本を査検するに至らなかつた」などと偉そうにしゃしゃり出てきて八代説を批判するのですが、『通海参詣記』偽書説への反論を除き、その批判の大半は的外れです。

平泉澄「亀山上皇殉国の御祈願」
http://web.archive.org/web/20150702191658/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-hiraizumi-kiyoshi-kameyamajokou-junkokunogokigan.htm

八代は平泉に再々反論はしないまま大正十三年(1924)に死んでしまったのですが、その後、昭和三年(1928)に小島鉦作の「通海権僧正事蹟考」が出て、八代の『通海参詣記』偽書説は完全に否定されます。
ただ、『増鏡』の曖昧な土台の上に緻密な形式論理を重ねた小島鉦作は、後宇多天皇の公卿勅使に加えて亀山院が院公卿勅使として二条為氏を発遣し、更に通海権僧正も発遣、都合三人が伊勢神宮に発遣されたと結論付け、議論はずいぶん複雑なものになってしまいます。

小島鉦作 「大神宮法楽寺及び大神宮法楽舎の研究-権僧正通海の事蹟を通じての考察-」
http://web.archive.org/web/20061006194023/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kojima-shosaku-kouannogogan.htm

ところで、以上の論争とは別に、昭和十七年(1242)に「愛国百人一首」なるものが企画され、その一首として『増鏡』の「勅として祈るしるしの神風に寄せくる浪はかつ砕けつつ」が採用されます。

愛国百人一首
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96

ただ、『増鏡』の記述の曖昧さは関係者を悩ませ、「日本文學報國會」の委嘱によって選定委員の一人となった川田順は、

-------
 勅使は經任大納言と書き、次に、何のことわりもなしに為氏の大納言伊勢の勅使にて云々とあるゆゑ、この為氏は經任の誤りにあらずやと、筆者なども従來迷つてゐたのであつた。それで今囘「百首」選定の節、皆で辻博士の説を質したところ、後宇多天皇の勅使として經任、亀山上皇の御使として為氏が遣はされたといふ史實を教へられ、疑問は氷釋した。(筆者はさう了解したが、聴き誤りであつたならば、辻博士にすまない。)とにかく増鏡の叙述ぶりは不精確である。

http://web.archive.org/web/20151001010914/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-kawata-jun-aikoku-hyakunin-isshu.htm

などと悩んだそうです。
さて、戦後になると、「弘安の御願」の主体が誰であるか、などという問題は歴史学者の関心から離れてしまうのですが、今谷明はあっさりと亀山上皇説に立った上で、

-------
 殉国捨命の祈主が天皇か上皇かなどは、戦後のマルクス主義史家にとってはどうでもよい問題なのであろう。しかしながら、国家的祈願の主催者が上皇か天皇かは、王権や国制史にとっては重大問題である。【中略】
 しかし弘安四年六月、来襲報知直後の各寺社の祈祷は仙洞議定による院宣を以て発令されている事実(『弘安四年日記抄』)から判るように、国家的祈祷体系の頂点に立つのはあくまで国王たる亀山上皇であって、関白兼平や執権時宗は決して願主にはなれないのである。ここに宗廟の大神宮への捨命殉国の祈願が上皇によりなされたことは、この祈祷体系のメカニズムを象徴する意義があるといえよう。
 俗に言われる如く、中世の天皇は神主(司察)として生き残ったのでは決してない。神官司祭を動員し、祈祷を行わせる願主の頂点として、執政上皇の王権が発揮されたのである。

http://web.archive.org/web/20150429140826/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-imatani-junkokuno-gokigan.htm

などと主張しています。
しかし、今谷説も『増鏡』の曖昧な土台の上に独自の論理を積み重ねたもので、戦前の議論と「砂上の楼閣」的な虚弱さを共有しています。
 

GW明けのご挨拶

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月 7日(月)10時21分20秒
編集済
  掲示板もいったん休むと休みグセがついてしまって、暫く投稿しませんでしたが、そろそろ再開したいと思います。
去年の12月から『増鏡』の読み直しを始めて、最初は今年の3月くらいまでに終らせるつもりだったのですが、途中から原文全てに私訳を入れることとし、更に『とはずがたり』についても部分的ながら相当詳しく紹介しているので、現時点での進捗状況はちょうど『増鏡』の半分くらいです。
これでもそんなに悪いペースではないと思いますが、細かい考証を日々続けていると、少し大きな議論をしたい気持ちもフツフツと湧いてきます。
そんな折、1997年6月に開設し、2015年12月末に消滅したと思っていた旧サイトが幸いにも「インターネットアーカイブ」に保管されていることが分かり、今から見ると内容に多々不満を覚えるものの、「私の考え方(2002年暫定版)」その他で私見は基本的に公開済みであるので、『増鏡』の読み直しもあまり急ぐ必要もないかな、という感じがしてきました。
そこで、「弘安の御願」について現時点での自分の考え方を簡単に纏めた後、気分転換も兼ねて、2016年正月、ちょうど旧サイトが消滅した(と思っていた)直後に始めた「グローバル神道の夢物語」以下のシリーズを再開しようかなと考えています。

「後深草院二条-中世の最も知的で魅力的な悪女について-」
http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/

カテゴリー「 グローバル神道の夢物語」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/8289629ba9e8078a5bc2a95e2694852a
カテゴリー「 ライシテと国家神道」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/9b7b92fa25a6021d47196eb85ce0fcb2
カテゴリー「トッド『家族システムの起源』」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/992309500593072611f06f9832949f3c
カテゴリー「古代オリンピックと近代オリンピック」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/a4ae4133f33690d9b955b1a99d967a92
カテゴリー「 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/c44a503663fae48079c879463acf0a26
 

「弘安の御願」論争(その4)─「身を以て国難に代らせ給ふ」 (by八代国治)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 5月 1日(火)22時30分47秒
編集済
  「弘安の御願」論争については、龍粛の「弘安の御願に就いて」を少し丁寧に紹介し、それ以外の論文は簡単に内容を紹介した上で私見を述べようと思っていたのですが、旧サイトを改めて読んでみると、大正時代の歴史学者の論争というのは妙に面白いところがありますね。
大正デモクラシーの時代が終わって昭和に入ると、マルクス主義が時代の最先端の思想として流入し、歴史学の世界でも史的唯物論が急速に知的権威を確立する一方、その反動として「皇国史観」の膨張も生ずる訳ですが、敗戦によって後者が潰滅するや、歴史学の世界は左翼一色となります。
網野善彦氏(1928-2004)に二年遅れて東大国史学科に入った犬丸義一氏(1928-2015)によれば、「私たち国史学科の四九年入学組十六人のうち実に九人までが共産党に入党」したそうですが、史的唯物論全盛の時代には、確かに歴史学が厳密な社会科学となったものの、聊か生真面目になりすぎ、また論争には殺伐とした雰囲気も漂うようになってしまいます。
こうした戦後の論争に比べると、大正時代の論争はまだまだのんびりしていて、「大正ロマン」的な香りがない訳でもないですね。

「運動も結構だが勉強もして下さい」(by坂本太郎)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4951

ちょうど百年前、大正七年(1918)の『史学雑誌』に出て、熱い論争の発端となった八代国治の論文「蒙古襲来についての研究」(『國史叢説』所収、吉川弘文館、1925)については、八代に敬意を表するとともに、その古風な文体の紹介も兼ねて、こちらにも載せておきませう。

-------
※追記(5月2日)
旧サイトとの関係をどうしようか考えていて、昨日はこの掲示板だけ見ても必要な情報が得られるようにすべきかなと思って旧サイトの内容を転載してみたのですが、無駄にこちらの情報量が増えて分かりづらくなってしまいますね。
再考の上、やはり重複は避け、必要に応じて「インターネットアーカイブ」に保管されている旧サイトの記事にリンクを張ることにしました。

八代國治「蒙古襲来に就ての研究」(『國史叢説』.吉川弘文館.大正14年)
http://web.archive.org/web/20101109015455/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-yashiro-kuniji-hottanno-ronbun.htm


>筆綾丸さん
>魚を抱えた猫
いったん捕まえた魚は絶対に手放さない、という決意のあらわれです。わはは。
 

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 5月 1日(火)16時58分24秒
  魚を抱えた猫、懐かしいなあ。
私はこの絵が好きでした。
 

ありがとうございます。

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月30日(月)23時03分3秒
編集済
  >ザゲィムプレィアさん
お久しぶりです。
そして「インターネットアーカイブ」のご教示、ありがとうございます。
久しぶりに自分のサイトを見たら、「参考文献」の「弘安の御願」関係だけでも18項目あって、我ながらよくやったなあと思う反面、多方面に拡散しすぎてしまって、重点がつかみにくいサイトになっていたな、とも思います。

http://web.archive.org/web/20150921105248/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/just-as-you-are.htm

やっぱりサイトの核となるものがしっかり存在していることが肝心で、それは『とはずがたり』と『増鏡』の原文だったのですが、旧サイトではその部分は貧弱でした。
まあ、欠点も多々ありましたが、再会できて本当に幸せです。
 

旧サイトはここで見れます

 投稿者:ザゲィムプレィア  投稿日:2018年 4月30日(月)21時48分5秒
  http://web.archive.org/web/20150830085744/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/

お久しぶりです。『増鏡』と『とはずがたり』の比較は全く歯が立たないので、ROMを続けていました。

上のサイトですが、ざっと見た範囲でサイト内のリンクは表示されます。
このサイトを運営しているarchive.orgについて、以下の情報があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%96
 

「弘安の御願」論争(その3)─八代説への批判

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月30日(月)18時15分51秒
編集済
  旧サイトのデータは何台か前に使っていたパソコンのハードディスクの中にあり、バックアップ用のフロッピーディスク(!)も手元にないので、図書館で『国史叢説』を見た方が早いのですが、未だに確認できていません。
ただ、昨日の投稿で、

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(二)に<「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである>というのは、岩波古典文学大系の引用部分に「君が御代にも」という表現がないので、ちょっと妙な感じですね。
おそらく八代論文で参照されている『増鏡』の写本には「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」の冒頭に相当する部分に「君が御代にも」とあったのでしょうが、今は『国史叢書』が手元にないので、ちょっと確認できません。
-------

と書いた点、どうも八代の論文でも「我御代にも」となっていて、川添昭二氏が「君が御代にも」と間違ったようですね。
これは改めて確認することとし、『蒙古襲来研究史論』(雄山閣、1977)から続きを引用します。(p160以下)

-------
(二)八代説への批判
 大正七年(一九一八)四月、龍粛は『史学雑誌』二九編四号に「弘安の御願に就いて」(昭和三二年一二月、春秋社刊『鎌倉時代』下に再録)を発表し、『増鏡』の記事から、この御願は大宮院(後嵯峨天皇の皇后・姞子。西園寺実氏の第一女。後深草・亀山天皇の生母)とことに親密な関係の人物でなければならぬとして種々考証し、それは後宇多天皇ではなくやはり亀山上皇であるとした。また八代説の根拠の一つは、『増鏡』以外の諸史料に、院から大神宮への使いの発遣のことがまったく見えず、『弘安四年日記抄』の記事から、この御願が公卿勅使経任が大神宮に捧げたものに違いないとするところにあった。龍は、これに対して、院使発遣の蓋然性がまったくないとはいえないとし、『弘安四年日記抄』の「希代之御願也、叡慮異他之子細」という表現も単なる形容詞にすぎず、八代説=後宇多天皇説のいうように身を以て国難に代らんとする御願を指すものとは限らないとした。弘安の御願に関して、八代説を批判した龍粛の前掲論文のあと、ひきつづいて、慎重な行論ではあるが、亀山説を支持して新史料を提示し八代説を批判した栢原昌三の論文「弘安御祈願と通海権僧正」(『歴史と地理』二巻一号、大正七年八月)が発表された。八代はその後再びこの問題を大正八年五月の史学会講演で論じた(『史学雑誌』三〇編六号、前掲『国史叢説』に収む)。
-------

八代国治の論文は『史学雑誌』の大正七年(1918)一月号に載りましたが、同誌の同年四月号で龍粛が八代説を批判し、ついで栢原昌三も八代説を批判します。

八代国治(やしろ・くにじ、1873-1224)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E6%B2%BB
龍粛(りょう・すすむ、1890-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%B2%9B

以前調べたときは、栢原昌三については『旗本と町奴』(国史講習会、1922)という著書があることしか分からなかったのですが、朝鮮史編修会に関係していた人のようですね。
検索してみたところ、古川祐貴氏に「朝鮮史編纂委員・栢原昌三の「宗家文庫」調査」(『アジア遊学』177号、2014)という論文があるそうです。

さて、上記論文の中では龍粛のそれが一番分かりやすいので、次の投稿で紹介します。
川添著の上記引用に続く部分は、龍粛の論文を知らないと意味が分かりにくいところがありますが、論点をざっと眺めるには便利なので、先に引用しておきます。

-------
 八代は、栢原が亀山上皇祈願の証として挙げた通海の『伊勢大神宮参詣記』の法楽社の記事を疑わしいとして退けた。また栢原があげた『続門葉集』中の通海の歌の詞書にみえる「公家」というのは、天皇しか指さないと論じ、さらに栢原があげた『弘安百首』中の亀山上皇の御製は『新後撰和歌集』によって弘安元年のものと認められるから、弘安四年の祈願に関係はないと断じた。最後に従前からの自説をまとめ、後宇多天皇説が成立する理由として次の三カ条をあげている。

第一、増鏡の文章のみでも、天皇の御願と解すれば、文章も調ひ、脈絡も貫通して、意味が徹底する様であります、之に反して上皇の御願と解すれば、或は石清水に御祈願、或は伊勢に御祈願、或は御在位中の御祈願と三様に解せられる上に、文章に連絡もなくなりて、難解なものとなるのであります。
第二、勘仲記、弘安四年日記抄等によれば、後宇多天皇が公卿勅使を発遣せられ、且其の御祈願は委しく記されて、之に希代の御願とさへあって、立派な傍証とすることが出来る様に思はれる、然るに亀山上皇が太神宮に御祈願になられたことは、弘安九年太神宮参詣記に、通海法印が院宣を奉じて法楽社に祈ったとあるが、同書は後世のもので信拠すべき史料ではない。従うて上皇太神宮御祈願の証拠は見当たらぬこととなるのであります。
第三、弘安四年閏七月一日の大風雨は、当時の人々は、天皇の御祈願に基づく神風と信じ、弘安四年日記抄に「今出神力給、雖末代猶感涙難押事也」、勘仲記に「今度事神鑒炳焉之至也」と書いてあるのを見ても、天皇の御願であったことの傍証とすることが出来ませう。
-------

「弘安四年日記抄」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%AE%89%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E6%97%A5%E8%A8%98%E6%8A%84
 

「弘安の御願」論争(その2)─八代説の根拠

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月29日(日)17時11分28秒
編集済
  前回投稿で岩波古典文学大系の関係部分も省略せずに引用しましたが、これは細かい字句の異同を除き、既に紹介済みの井上宗雄氏の『増鏡(中)全訳注』と同一内容です。

「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9494
「巻十 老の波」(その16)─蒙古襲来(弘安の役)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9495
「巻十 老の波」(その17)─「勅として祈るしるしの神風に」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9497

ただ、両者を比べると、川添昭二氏は後嵯峨院姫宮の他界と蒙古の帝王のエピソードを、弘安の御願とは無関係なものとして「中略」で済ませています。
前者は良いのですが、後者、即ち、

-------
かの異国の御門、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。
-------

という奇妙な、『増鏡』にしか存在せず、内容から見ても作り話であることが明らかなエピソードの扱いについては慎重に考察する必要があると私は考えています。
その点は後で述べるとして、八代説の根拠について引用を続けます。(p159以下)

-------
 八代は、『続本朝通鑑』や『大日本史』亀山天皇の本記に、すでに亀山上皇御祈願と解していることをあげ、そのように解されてきた理由と、その当たらないことを四点に分けて説明している。(一)「太神宮への御願に」という文句が、新院の次にあるから、文章が連続して、亀山上皇の御願と認めたのであろうが、この文章は「供養せらる」で一段落付いたので、太神宮の御願は公卿勅使を受けたものと認めるのが穏当で、太神宮の上にさてという字をいれてみると、よく意味が通ずるように思う。(二)この時は亀山上皇の院政であるから、上皇の御願と考えたのであろうが、国家重大の事柄に関しては、すべて詔勅宣旨でおこなう例であるから、この御願も天皇の御願と認むべきである。ことに「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである。(三)大宮院は亀山上皇の母で、上皇を寵愛していたから諫めたものと認められたのであろうが、後宇多天皇も大宮院の孫で寵愛深かったことが『増鏡』に見えているから、後宇多天皇とみてさしつかえない。(四)「為氏の大納言、伊勢の勅使にて上る」とあるので、亀山上皇より院公卿勅使が別に立てられて御願があったと認められたものであろう。しかし、院公卿勅使は院司の中の公卿が勤むる例であるが、為氏は院司ではなく、和田英松・佐藤球『増鏡詳解』のいうように、為氏は中御門経任を誤ったものであろう。かつ、『勘仲記』や『弘安四年日記抄』には公卿勅使発遣のことは委しく記されているが、院公卿勅使発遣のことはみえない。以上が八代の新説の内容である。
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ということですが、(二)に<「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである>というのは、岩波古典文学大系の引用部分に「君が御代にも」という表現がないので、ちょっと妙な感じですね。
おそらく八代論文で参照されている『増鏡』の写本には「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」の冒頭に相当する部分に「君が御代にも」とあったのでしょうが、今は『国史叢説』が手元にないので、ちょっと確認できません。
さて、八代の提案に従って「太神宮の上にさてという字をいれてみると」、

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伊勢の勅使に、経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、真読の大般若供養せらる。【さて】太神宮へ御願に、「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし、御手づから書かせ給けるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」と、なほ諫めきこえさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。
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となって、このように実際には存在しない字句を付加するという改竄を経れば、八代説も理解できない訳ではありません。
ところで、私にとって一番の関心は中御門経任と二条為氏の関係なのですが、八代説は「為氏は中御門経任を誤ったものであろう」ですから、ずいぶんあっさりとした答えです。
まあ、これは『増鏡』の写本に関係した過去の全ての人が、何でここで為氏が出てくるのだろう、と不思議に思って、その疑問を解決する案として最初に思いつくであろう答えかと思いますが、安直な感じは否めません。
明らかに奇妙な記述でありながら、連綿として写本に残ってきたということは、やはり原本に、疑いようもないくらい明確に「為氏の大納言」と書かれていたからではないかと思います。
私見では、それは作者の意図的なものと考えるのが自然であって、「為氏は中御門経任を誤ったものであろう」で済ましてよい話ではありません。
 

「弘安の御願」論争(その1)─八代国治の新説

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月29日(日)15時55分45秒
編集済
  「弘安の御願」論争を取り上げる現代的意味が全くないかというとそんなことはなくて、この論争を振り返ることを通して、『増鏡』の性格を改めて考えることができそうです。
さて、旧サイト『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について』でやっていたように、「弘安の御願」論争を全部再現することはできませんが、川添昭二氏が『蒙古襲来研究史論』(雄山閣、1977)において、この論争を簡明に整理されているので、これを紹介したいと思います。(p158以下)

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各論 第三章 大正時代における蒙古襲来研究
三 「弘安の御願」をめぐる論争

(一)八代国治の新説
 八代国治「蒙古襲来についての研究」(大正七年一月『史学雑誌』二九編一号、大正一四年五月・吉川弘文館『国史叢説』に再録)は『伏敵編』に洩れた蒙古襲来関係の新史料を駆使した研究で、大正時代の蒙古襲来研究中すぐれたものの一つである。本論によってはじめて明らかにされた事実は多いが、『勘仲記』『弘安四年日記抄』や図書寮・関戸守彦氏所蔵文書などによって、公家側の祈祷関係の事蹟が一層具体的に解明されたことは特筆されねばならぬ。その論証の過程で、弘安四年閏七月の伊勢大神宮への亀山上皇の祈願と伝えられていた事実を、後宇多天皇の勅願であると論断した。亀山上皇の祈願は古来から人口に膾炙していたため、八代の新説は世の注目をあび、諸新聞・雑誌に転載報導され、その後この問題をめぐって研究者の間に論難がかわされた。
 この、いわゆる弘安の御願についての基礎史料は『増鏡』第十老のなみで、その解釈いかんによって亀山上皇説ともなり、後宇多天皇説ともなる。関係個所を岩波古典文学大系87(三六六-七)によって示しておこう。

弘安も四年になりぬ。夏比、後嵯峨院の姫宮、かくれさせ給ぬ。<〇中略>其比、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎたちぬ。色さまざまに恐ろしう聞こゆれば、「本院〔後深草〕・新院〔亀山〕は東へ御下りあるべし。内〔後宇多〕・春宮〔伏見〕は京にわたらせ給て、東の武士ども上りてさぶらふべし」など沙汰ありて、山々寺々に御祈り、数知らず。伊勢の勅使に、経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老〔思円〕召されて、真読の大般若供養せらる。太神宮へ御願に、「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし、御手づから書かせ給けるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」と、なほ諫めきこえさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。東にも、いひしらぬ祈りどもこちたくののしる。故院〔後嵯峨〕の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、この度はいとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人など有て、わづらはしうきこゆれば、上下思ひまどふ事かぎりなし。されども、七月一日〔閏七月一日〕、おびたたしき大風吹て、異国の舟六万艘、つは物乗りて筑紫へよりたる、みな吹破られぬれば、或は水に沈み、をのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰にけり。<〇中略>さて為氏の大納言、伊勢の勅使のぼるみち、申をくりける。
  勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ
かくて静まりぬれば、京にも東にも、御心ども落ちゐて、めでたさかぎりなし。
-------

いったんここで切ります。
現代人から見ると、「亀山上皇の祈願は古来から人口に膾炙していたため、八代の新説は世の注目をあび、諸新聞・雑誌に転載報導され」云々が既に奇妙な感じがしますが、これにはそれなりの背景があります。
即ち、明治に入り、列強の脅威の中で近代国家を建設して行くにあたり、蒙古襲来を撃破したという過去の栄光の記憶が国民統合のための新たな意義を持つようになり、民間人の中からも、その意義を顕彰しようとする動きが出てきます。
その最も分かりやすい例が、今も福岡市博多区東公園に残る亀山上皇殉国の御祈願の銅像です。
ま、この銅像が日蓮像と並んで建立された背景には、一般的な説明とは違う裏事情も若干あるようですが、この銅像はあくまで亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と言われたことを前提とするものであることは間違いありません。
そこで、『増鏡』の「弘安の御願」は実は後宇多天皇によるものだった、という話が歴史的事実として確定してしまえば、では、銅像を建て直さなければならないのか、というような話にも発展しかねません。
こうした社会的背景があって、八代説は世間の注目を浴びた訳です。

◇参考
「亀山上皇銅像」(福岡市公式シティガイド「よかなび」内)
この銅像は、十三世紀後半の元寇の際に亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を折願された故事を記念して、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄等の十七年有余の尽力により、明治三十七年、元寇ゆかりのこの地に建立された。
衣冠束帯の直立像の高さはおよそ4.8メートルある。原型の制作者は、当時高村光雲下で活躍していた福岡出身で博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎、朝雲で、亀山上皇像はその代表作のひとつである。
また、台座に書かれた「敵国降伏」の文字は、初代福岡県知事有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆によるものである。
https://yokanavi.com/spot/27045/

「東公園にある亀山上皇銅像はなぜ北条時宗にならなかったのか」(山田孝之氏「福岡穴場観光」サイト内)
http://y-ta.net/kameyama-jyokou/
「なぜ亀山上皇像なのか」(『旧聞since2009』サイト内)
http://koikoi2011.blog.fc2.com/blog-entry-205.html
 

内田啓一氏の功績

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月29日(日)10時24分54秒
編集済
  兵藤氏は、なぜ金沢貞顕が「中宮御懐妊」を祝わなければならないのか、その背景と理由を説明していないので、このままでは歴史研究者の賛同は得られそうもない感じですね。
ただ、その点は些か逆方向に振れ過ぎてしまったとしても、「異形の王権」論批判の部分は歴史研究者にとっても参考になりそうです。
少し引用してみると、

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 聖天(歓喜天とも)は、密教の守護神であり、ふつう象頭人身の男女二尊が和合するすがたで造形される。ヒンドゥー教に由来するその怪異な像容が、日本仏教には珍しいタントラ教の歓喜仏を連想させることから、網野氏は、「後醍醐はここで人間の深奥の自然─セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた」と述べている。
 網野氏はまた、このセックスと王権というテーマを、後醍醐天皇の密教の師、文観弘真が「邪教」真言立川流の中興の祖とされる通説に結びつけるのだが、網野氏のこの「異形の王権」論の前段階には、元徳年間の中宮懐妊について論じた百瀬今朝雄氏の論文があった(「元徳元年の「中宮御懐妊」」)。
 百瀬氏は、聖天供の修法が怨敵降伏に用いられた例をあげ、元徳年間に後醍醐の修した聖天供の修法も、中宮の安産祈禱を隠れみのとした関東調伏の祈禱であるとした。そのうえで、金沢貞顕の書状の記述をもとに、「護摩の煙の朦朧たる中、揺らめく焔を浴びて、不動の如く、悪魔の如く、幕府調伏を懇祈する天皇の姿を思い描いて、(幕府首脳部は)身の毛をよだたせたのではなかろうか」と述べている。
 百瀬論文のこの(やや文飾過多な)一節は、網野氏の著書にそのまま引用されて広く流布している。こうした後醍醐のイメージが、「妖僧」文観のイメージと結びついて、網野氏の異形の王権論の核心をなしていることはたしかである。
 だが、内田啓一氏によって指摘されたように、平安時代以来、しばしば貴族社会周辺で行われた聖天供の修法は、除災と招福、富貴や子宝(夫婦和合)を祈願するものであり、それ自体はけっして後醍醐の修法の特異性を示すものではない。
 かりにそれが、怨敵降伏を目的として行なわれたとしても、御産の祈祷は、ふつう安産を妨げるもののけ(怨霊)の調伏祈祷として行なわれるのであり、その具体例は、『紫式部日記』『栄花物語』『源氏物語』『平家物語』などに枚挙にいとまがない。すなわち、金沢貞顕の書状にいう「聖天供」の修法を、ただちに幕府調伏の祈禱に結びつける百瀬氏(および網野氏)の説には無理があるのだ。
 文観を「邪教」立川流の中興の祖とみなすことも、後述するように、江戸時代に広まった俗説でしかない。巷間に流布した「異形」「異類」のイメージからはいったん離れて、後醍醐天皇と密教、また後醍醐の付法の師である文観弘真について考える必要があるわけだ。
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ということで(p90)、「安産を妨げるもののけ(怨霊)の調伏祈祷」の例としては『増鏡』も追加できますね。

「巻五 内野の雪」(その2)─中宮(姞子)の懐妊
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9236
「巻七 北野の雪」(その13)─皇子(後宇多天皇)誕生
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9291

さて、兵藤氏も内田啓一氏のお名前に言及されているように、<巷間に流布した「異形」「異類」のイメージ>を根本的に疑い、その払拭の先駆けとなった内田啓一氏の功績は非常に大きいものです。
ただ、内田氏が美術史出身で、町田市立国際版画美術館という歴史とは全然関係なさそうな機関の学芸員を長く勤めておられたこともあって、内田氏の研究の重要性は一般の歴史愛好者はもちろん、専門的な中世史研究者の間でも、それほど意識されていなかったのではないかと思います。
兵藤氏の新著が、そうした認識を改めるきっかけになってくれれば嬉しいですね。

「内田啓一氏、ご逝去」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8772

網野善彦信者は未だに巷間に満ち満ちていますが、網野氏の頭でっかちで頓珍漢なエロ親父的側面を知れば、熱が冷める人も多少はいるのではないかと思います。
網野氏が甥の中沢新一氏と共有していた部分は、歴史学には全く役に立たないガラクタばかりですね。

相生山「生駒庵」の謎(その1)~(その3)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7644
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7645
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『血族』の世界
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注文の多い料理店
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アミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーション
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「巻十 老の波」(その17)─「勅として祈るしるしの神風に」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月28日(土)23時32分57秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p278以下)

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 されども七月一日おびたたしき大風吹きて、異国の舟六万艘、兵〔つはもの〕乗りて筑紫へ寄りたる、みな吹き破〔や〕られぬれば、あるは水に沈み、おのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰りにけり。石清水の社〔やしろ〕にて大般若供養のいみじかりける刻限に、晴れたる空に黒雲一村〔ひとむら〕にはかに見えてたなびく。かの雲の中より白き羽にてはげたる鏑矢の大きなる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたたしかりければ、かしこには、大風の吹き来ると兵の耳には聞えて、浪荒く立ち、海の上あさましくなりて、みな沈みにけるとぞ。なほ我が国に神のおはします事あらたに侍りけるにこそ。
 さて為氏〔ためうぢ〕の大納言、伊勢の勅使上る道より申しおくりける。
  勅として祈るしるしの神風に寄せ来る浪はかつくだけつつ
 静まりぬれば、京にも東にも、御心ども落ちゐて、めでたさ限りなし。かの異国の御門〔みかど〕、心うしと思して湯水をも召さず、「われ、いかがして、このたび日本の帝王に生〔む〕まれて、かの国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし。まことにやありけん。
-------

【私訳】しかし、(閏)七月一日、大変な大風が吹いて、異国の船六万艘、敵兵が乗って筑紫へ攻め寄せてきたのが、みな難破してしまったので、敵兵のある者は水に沈み、たまたま残った者も泣く泣く本国へ帰って行った。石清水八幡宮寺にて大般若経供養が盛大に行われていた刻限に、晴れた空に突然、黒雲が一かたまり現われてたなびいた。その雲の中から白い羽で矢羽をつけた大きな鏑矢が、西を指して飛び出し、その鳴る音がものすごかったので、筑紫の地では、大風が吹いてくると敵兵の耳には聞こえて、波が荒く立ち、海の上が恐ろしく荒れて、みな沈んだということである。やはり我が国に神のいらっしゃることは、あらたかなのである。
 さて、為氏の大納言は、伊勢の勅使として上京の途中から次の歌を送ってきた。
  勅として……(天皇の勅を奉じてお祈りした、その霊験の神風によって、攻めて来た
  敵兵は、みな寄せ来る波のように砕けてしまったことよ)
 蒙古の事件が静まったので、京でも関東でも、みな安心されて、このうえなくめでたいことである。かの異国の帝王は、非常に無念だとして湯水も召さず、「私はどうかして今度は日本の帝王に生まれ、あの国を滅ぼす身となろう」と誓って死なれたと聞いたが、本当であったのだろうか。

ということで、少し前に公卿勅使として伊勢に派遣されたのが「経任の大納言」だったと明確に書いているのに、ここで「伊勢の勅使上る道より」歌を送ってきたのは「為氏の大納言」とされており、極めて奇妙です。
そして、この奇妙な記述を巡り、大正時代に「弘安の御願」論争が勃発します。
私はこの論争にある種コミカルな面白さを感じ、旧サイトでは論争参加者の論文を全て転載して、論争の発端から一応の収束までの経緯を辿った上で、『増鏡』と『とはずがたり』の作者を同一人物と考える私の立場からの意見を纏めておきました。
さすがに今からそれらを全面的に再現する熱意はないのですが、大正時代の歴史学界の雰囲気を垣間見るだけでもなかなか面白い経験なので、少しだけ紹介しようと思います。

>筆綾丸さん
ご指摘の部分、確かに「中宮懐妊への祝意」とまで言われると奇異な感じがしますね。
その後の百瀬今朝雄氏の「元徳元年の『中宮御懐妊』」論文への批判、そして網野善彦氏の「異形の王権」批判は、私もかねてから思っていたことなので、殆ど全てに賛成できるのですが。

「普通の王権」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5357
「元徳元年の『中宮御懐妊』」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5580
「内田啓一氏、ご逝去」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8772
 

中宮懐妊をめぐる Much Ado About Nothing 

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2018年 4月28日(土)11時39分13秒
編集済
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 前掲の金沢貞顕の書状は、『太平記』第一巻の中宮禧子の物語に沿うようにして解釈されてきた。だが、いったん『太平記』的な読みの枠組み(コード)をはずして、書状の文面を虚心に読むなら、そこにいう「言語道断」も「比興」も、中宮御懐妊への祝意と読むのが自然である。(『後醍醐天皇』「第四章 文観弘真とは何者か」88頁)
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貞顕の二通の書状は以下の通りで、前者は元徳元年(1329)十月中旬のもの、後者は同年十二月中・下旬のもの、とそれぞれ推定されているとのこと(84頁~)。

一、中宮御懐妊の事、実ならざる間、御祈り等止められ候へども、禁裏一所御座の由、その聞こえ候ふ。実事に候ふか。承り存ずべく候ふなり。
一、禁裏、聖天供とて□□御祈り候ふの由承り候ふ、不審に候ふ。

一、中宮又御懐妊候ふとて、十一月二十六日、京極殿へ行啓の由承り候ひ了んぬ。比興申すばかりも無き事に候ふか。御祈りの事、言語道断に候ふか。
一、禁裏御自ら護摩を御勤むるの由承り候ひ了んぬ。

二通の書状を何度か虚心に読んでみたのですが、 「中宮御懐妊への祝意と読む」のは不自然な気がしてなりません。父・後宇多譲りの密教狂いとはいえ、至尊の主上ともあろうお方が、国家安康等他の祈禱ならともかく、中宮安産の為と称して部屋に籠り、おんみずから護摩を焚いて聖天供の修法を執り行うのは物狂の沙汰以外の何物でもなく、「不審に候ふ」、ついては、本当のところはどうなのか、事実を教えてほしい、と息子の貞将に尋ねている、と読むのが自然ではあるまいか。つまり、「比興」も「言語道断」も、中宮懐妊への祝意などではなく、風聞通りならば、常軌を逸した以ての外の振る舞いだ、と読めばいいのではないか。書状の文体からしても、中宮懐妊への祝意を表しているとは、とても思えない。
前者の十月の書状「中宮御懐妊の事、実ならざる間、御祈り等止められ候へども」と、翌々月十二月の後者の書状「中宮又御懐妊候ふとて」とを、よくよく読み比べてみれば、後者には、「やれやれ、また懐妊の空騒ぎかね、まるで沙翁の Much Ado About Nothing みたいだな、馬鹿々々しい」という気持ちが表れている、と読めるのではないか。そう読む方が、私には自然な気がします。
なお、前者の書状における二文字の欠落□□は、「出精」あるいは「懇請(懇誠)」などが相応しいのではあるまいか。
 

「巻十 老の波」(その16)─蒙古襲来(弘安の役)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月27日(金)23時18分8秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p277以下)

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 その頃、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎ立ちぬ。色々様々に恐ろしう聞ゆれば、「本院・新院は東〔あづま〕へ御下りあるべし。内・春宮は京にわたらせ給ひて、東武士〔あづまぶし〕ども上〔のぼ〕りてさぶらふべし」など定めありて、山々寺々の祈り数知らず。伊勢の勅使に経任〔つねたふ〕の大納言参る。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて真読の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、「我が御代にしもかかる乱れいで来て、まことにこの日本〔ひのもと〕のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあるまじき事なり」となほ諫め聞えさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。
 東にも、いひ知らぬ祈りどもこちたくののしる。故院の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、この度〔たび〕はいとにがにがしう、牒状〔てふじやう〕とかや持ちて参れる人などありて、わづらはしう聞ゆれば、上下思ひまどふこと限りなし。
-------

【私訳】その(弘安四年の)頃、蒙古が襲来するとかいって、世の中が騒ぎ立った。いろいろさまざまに恐ろしい風聞が立つので、
「本院・新院は関東に御下りになるであろう。今上と東宮は京においでになって、関東武士が上洛して警固するであろう」
などとうわさされて、山でも里でも寺院でのご祈禱は数知れないほどである。伊勢神宮への公卿勅使に経任の大納言が参る。新院も八幡へ御幸されて、西大寺の長老を召されて真読の大般若供養をなさる。伊勢大神宮への御願文には、
「私の御代にこのような乱れが起こって、本当にこの日本が滅亡するようなことになるのでしたら、(代わりに)我が命を取り上げてください」
との旨を御自身でお書きになったのを、大宮院が
「そんなことを言われてはなりません」
と御諫め申し上げたのは(母のお気持ちとしては)本当にもっともなことであった。
 関東でも、言葉にならないほどの祈祷を大騒ぎして大規模に行った。故後嵯峨院の御代にも、五十の御賀の試楽のころ、このようなことがあったものの、程なく静まったものであったが、今回は本当に苦々しい事態となり、蒙古からの牒状とかいうものを持って参った者もあって、たいそう面倒なように思われたので、上下の人々が限りなく思案に暮れたのであった。

ということで、文永十一年(1274)の蒙古襲来(文永の役)以降、再度の襲来に備えて幕府は継続的に対策を取っていた訳ですが、『増鏡』作者はそんなことに何の関心も示していません。
また、現代人から見て非常に奇妙なのは、「故院の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを」となっていて、比較の対象は後嵯峨院五十賀試楽が中止となった文永五年(1268)であり、現実に蒙古襲来のあった文永十一年ではないことです。
実際、『増鏡』の記述の分量も、前者の方が少し多くなっています。
といっても、前者も僅かに、

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 かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍といふこと起こりて御賀とどまりぬ。人々口惜しく本意なしと思すこと限りなし。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと公家・武家ただこの騒ぎなり。されども程なくしづまりていとめでたし。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9310

とあるのみで、後者に至っては、後宇多天皇の即位式に関連して、

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十一月十九日又官庁へ行幸、廿日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古起るとてとまりぬ。廿二日大嘗会、廻立殿の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂の御神楽もなし。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9417

とあるのみで、どんぐりの背比べ程度の違いしかありません。
弘安の役関係の記事はもう少し続きますが、いったんここで切ります。
 

「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月27日(金)19時39分32秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p275以下)

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 弘安も四年になりぬ。夏頃、後嵯峨院の姫宮隠れさせ給ひぬ。後堀河院の御むすめにて、神仙門院と聞えし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちもたぐひなくうつくしうおはしまして、「人の国より女の本〔ほん〕をたづねんには、この宮の似絵〔にせゑ〕をやらん」などぞ、父みかども仰せられける。御乳母〔めのと〕隆行の家におはしましける程に、御乳母子〔めのとご〕隆康、忍びて参りける故に、あさましき御事さへいできて、これも御うみながし、にはかに失〔う〕せさせ給ひにけるとぞ聞えし。
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【私訳】弘安も四年(1281)になった。夏ごろ、後嵯峨院の姫宮が亡くなられた。後堀河院皇女で神仙門院と申された女院の御腹であったので、故院もほんとうにひと通りでなく大事に養育されておられたのである。御容姿も比類なく美しくいらっしゃって、「異国から美しい女性の典型を求めてきたら、この姫宮の肖像画を贈ろう」などと父院もおっしゃっておられた。御乳母の四条隆行の家におられた間に、御乳母子の隆康がこっそり参りなどしたため、(妊娠というような)浅ましい御事まで起こって、その結果、御流産で急に亡くなられたということであった。

ということで、「巻十 老の波」に入ってからは亀山院の後宮の場面以来、久しぶりの「愛欲エピソード」です。
この場面の関係者の生没年を整理すると、

後堀河院(1212-34)
後嵯峨院(1220-72)
神仙門院(1231-1301)
四条隆行(1224-85)
四条隆康(1249-91)

ということで、後嵯峨院が十一歳下の神仙門院と通じて姫宮が生まれたとして、それが仮に神仙門院が二十代の頃だとすると、姫宮は1250年代くらいの生まれです。
そして、その姫宮と四条隆康が通じて、弘安四年(1281)に姫宮が流産で死亡するということは、年齢だけを考えるならばそれほど無理な話でもありません。

体子内親王(神仙門院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

しかし、井上氏の「解説」によれば、

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 神仙門院と後嵯峨院の私通は諸書にみえず、その間の一皇女のことも同様である。『本朝皇胤紹運録』にもこの皇女はみえない。後深草院や亀山院が異母妹と通じたことなどから推測しても、院と女院との私通はありそうなことである(院と女院は再従兄妹)。ここに書かれている話も、いかにもリアリティがある。その結果、生まれた皇女が今度は乳母子と通じてお産で没したというようなことも、ありうるのであろう。
 この辺は、鎌倉期貴族社会の退廃相をよく示しているが、『増鏡』に記されている事例も、(『とはずがたり』を思い浮かべればなおさらだが)、まったく氷山の一角にすぎないのだろう。
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とのことで(p277)、『増鏡』以外に一切の記録がないのですから、結局のところ『増鏡』をどこまで信頼できるか、という話になります。
井上氏の思考パターンは、

「後深草院や亀山院が異母妹と通じたこと」は確定的な歴史的事実
  ↓
従って後嵯峨院と神仙門院の(再従兄妹の)私通は「ありそうなこと」
  ↓
この場面も「いかにもリアリティがある」
  ↓
「その結果、生まれた皇女が今度は乳母子と通じてお産で没したというようなことも、ありうる」
  ↓
「『とはずがたり』を思い浮かべればなおさら」、この事例は「まったく氷山の一角にすぎない」

というものですが、出発点の後深草院が異母妹の前斎宮と通じたことは『とはずがたり』と『増鏡』にしか記されておらず、また、亀山院が異母妹の五条院と通じたことも『増鏡』にしか記されていません。
とすると、井上氏の「鎌倉期貴族社会の退廃相」に関する認識は、特に論理的な裏づけはなく、『とはずがたり』と『増鏡』の周囲をグルグル廻っているうちにどんどんイメージが増幅され、次第に強固となって、とうとう巨大な「氷山」を仰ぎ見るような段階に達しただけのような感じもします。
ま、別に私もこの場面の記述が虚偽であると主張したい訳ではないのですが、他の史料に一切現れないこれほどの秘事を『増鏡』作者はどうして知ったのだろうか、という疑問は生じてきます。
そして、『とはずがたり』と『増鏡』の作者が同一人物ならば、母方の四条家一族の内情は容易に知ることができそうなので答えは簡単ですが、二条良基や丹波忠守を『増鏡』作者とする場合には、いかなる経緯でこの情報を知ったのかがそれなりの問題になりそうです。
なお、四条家といっても、もちろん一枚岩ではありません。
四条隆行(1224-85)は後深草院二条の祖父・四条隆親(1203-79)の兄である隆綱(1189-?)の子なので、隆親にとっては甥であり、二条と極めて親しい善勝寺大納言隆顕(1243-?)にとっては従兄弟となります。
四条一門では隆綱より十四歳も年下の隆親が本家筋となったために、隆綱流と隆親流の間で潜在的な対立が想定される上に、隆親によって四条家を追い出された隆顕にとって、隆行・隆康父子は好意的に見ることのできる存在でもなさそうです。
とすると、『増鏡』作者が『とはずがたり』と同一人物であれば、隆行・隆康父子の秘密を入手するルートも、それを暴露する動機も存在しそうです。

それにしても『増鏡』作者の後嵯峨院皇女に対する視線は本当に冷ややかですね。
まず、「巻八 あすか川」で月花門院に源彦仁と園基顕が通ってきて、堕胎の失敗で亡くなったことが記されます。

「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9314

その後、「巻九 草枕」の半分を費やして後深草院と前斎宮の密通、ついで西園寺実兼・二条師忠と前斎宮の奇妙な三角関係が描かれます。

「巻九 草枕」(その6)~(その12)
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ついで「巻十 老の波」にはいると、今度は亀山院と五条院の密通ですね。

「巻十 老の波」(その4)─五条院
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9465

そして今度は神仙門院腹とあるだけで名前も不明な姫君ですが、さすがに後嵯峨院皇女に関するこの種のエピソードはこれで最後です。
 

「巻十 老の波」(その14)─継仁親王の誕生と死

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月27日(金)12時56分54秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p273以下)

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 かくて年月変はりぬ。そのころ新陽明門院またただならずおはしますと聞えし、五月ばかり御気色〔けしき〕あれば、めづらしう思す。内々、殿にてせさせ給ふに、天下の人々参り集ふ。前の度〔たび〕生まれさせ給へる若宮は、隠れさせ給ひにしを、新院本意〔ほい〕なしと思されけるに、又かくものし給へば、めでたう思ふ様なる御事もあらばと、今より思しかしづくに、いとかひがひしう若宮生まれさせ給へれば、限りなく思さる。
 八月みこの御歩〔あり〕きぞめとて、万里小路殿に渡らせ給ふ。唐庇の御車に、後嵯峨の院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや、御母代〔ははしろ〕にてそひ奉り給ふ。
また三条内大臣公親の御女〔むすめ〕、内の上の御乳母〔めのと〕なりしも、めでたき御あえものとて、御車に二人乗り給ふ。女院は院の上一つ御車に、菊の網代の庇に奉る。宮の御車にやり続けて、よそほしくめでたき御事なり。
-------

【私訳】こうして年月が変った。そのころ、(亀山院妃の)新陽明門院がまた御懐妊であられるということであったが、(弘安二年の)五月頃、お産の御様子があるので、亀山院は嬉しく思われた。内々、女院の御所でなさるということであったが、天下の人々が参集した。以前にお生まれになった若宮(啓仁親王)はお亡くなりになったのを、亀山院は残念に思われていたが、またこのように御懐妊となったので、めでたくご希望通りの事があればと、今から女院を大切になさっていたところ、まことにその甲斐があって若宮(継仁親王)がお生まれになったので、この上なくお喜びになる。
 八月、皇子の御歩き初めということで、万里小路殿へお渡りになる。唐庇の御車に、後嵯峨院の更衣腹の姫宮で、聖護院覚助法親の御同腹とかいう方が、御母代りとして付き添い申し上げた。また、三条内大臣公親の御娘で、今上(後宇多)の御乳母であった方も、縁起の良いあやかり者として、御車に二人お乗りになった。女院は亀山院とご同車で、菊の紋をつけた網代車にお乗りになる。若宮の御車に続けて、美々しく立派な御事である。

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ということで、『増鏡』作者の新陽明門院(1262-96)に対する関心は非常に強く、その登場はこれで三度目です。
最初は「巻九 草枕」の末尾に、文永十二年(建治元年、1275)、十四歳で女御として入内した近衛基平の姫君が直ぐに新陽明門院の女院号宣下を受け、翌年、啓仁親王を産んだとあります。
ついで「巻十 老の波」に入ると、亀山院が亡き皇后宮を慕うあまり、新陽明門院とは疎遠になったことが(事実かどうかはともかく)記されます。

「巻九 草枕」(その13)─新陽明門院
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9447
「巻十 老の波」(その3)─亀山院の皇后追慕・二条内裏炎上
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9464

そして、ここで啓仁親王(1276-78)の夭逝と継仁親王の誕生となるのですが、「御歩きぞめ」のめでたい雰囲気も直ぐに消えてしまいます。

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 その頃、倹約行はるとかや聞えし程にて、下簾〔したすだれ〕短くなされ、小金物〔こかなもの〕抜かれける。物見る車どものも、召次〔めしつぎ〕寄りて切りなどしけるをぞ、「時しもや、かかるめでたき御事の折ふし」などつぶやく人もありけるとかや。この宮も親王の宣旨ありて、いとめでたく聞えし程に、あくる年九月また隠れさせ給ひにし、いと口惜しかりし御事なり。
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【私訳】その頃、倹約令が出されたとのことで、簾の下の布を短くされ、飾り金具を除かれたりした。拝観の車などのそれらも、召次が寄って来て切りなどしたのを、「他の機会もあろうに、こういうめでたい御事の折に切るなんて」などとつぶやく人もあったという。この宮も親王宣下があって、たいそうめでたく思い申しているうちに、翌年九月、また亡くなられてしまったのは、何とも残念な御事であった。

ということで、継仁親王(1279-80)も夭逝してしまう訳ですね。
二人の親王が亡くなった弘安三年の時点で、新陽明門院はまだ十九歳です。

新陽明門院(1262-96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BD%8D%E5%AD%90

なお、継仁親王の「御歩きぞめ」の場面で、「御母代」として登場する「後嵯峨の院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや」という女性は琵琶の名手の藤原孝時女・博子のことですね。
五条院の母であり、従って「いはぬ事」の姫君の祖母となります。

「刑部卿の君」考
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9285
「巻十 老の波」(その4)─五条院
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9465
 

「巻十 老の波」(その13)─続拾遺集の撰進

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2018年 4月27日(金)10時36分26秒
編集済
  続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p270以下)

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 この御代にも又勅撰の沙汰、一昨年〔をととし〕ばかりより侍りし、為氏大納言えらばれつる、この師走〔しはす〕にぞ奏せられける。続拾遺集と聞ゆ。「たましひあるさまにはいたく侍らざめれど、艶〔ゑん〕には見ゆる」と、時の人々申し侍りけり。続古今のひきうつし、おぼろけの事は、立ち並び難くぞ侍るべき。
-------

【私訳】この御代にもまた、勅撰集を撰ぶべき命が一昨年(建治二年)ころからあって、為氏の大納言の撰ばれた集が、この(弘安元年の)十二月に奏覧された。『続拾遺集』とのことである。「この集は力強い精神に満ちている訳ではなさそうだが、優美には見える」と、当時の人々は評した。『続古今集』を引きうつしたもので、なみなみのことでは、それには及ばないことであろう。

ということで、非常に厳しい批評ですね。
『尊卑分脈』を見ると、二条為氏に「建治二年七月廿二日、依亀山院々宣、撰新続拾遺集、弘安元年十二月廿七日奏覧之」とあり、下命者は治天の君たる亀山院です。
井上氏は、

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 為氏は父為家の独撰した『続後撰集』を手本にしたと思われ、父が撰者ではあったが、その意志があまり通らなかった『続古今集』に対しては冷たかったとも推測され、歌風も、『続後撰集』の平淡・優美なものを庶幾したと見られる。しかしここも歌壇史的な見方を踏まえた歌風論でいっているのではない。『続古今集』と比べると、本質的に歌風の相違はなく、しかも平弱である、と把握し、それが、後嵯峨院文壇の絢爛たる態勢の中から生まれたものではないから、やはり見劣りする、という評価である。
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と言われています(p272)。
正直、私は歌壇史も歌風の違いもよく分からないのですが、『増鏡』に関連する事実だけを指摘すると、『増鏡』作者は後嵯峨院政下での最初の勅撰集、即ち藤原定家の息子の為家が単独で撰進し、建長三年(1251)十二月に奏覧となった『続後撰集』を全く無視しています。
文字通り、一言も触れていません。
他方、当初は為家に撰集が命じられ、その後、御子左家に敵対的な真観らが撰者に追加された『続古今集』については好意的な記述をしており、その評価の態度はこの場面での記述と一貫していますね。
『増鏡』作者を御子左流の二条家関係者とする少数説がありますが、このあたりの記述を見ると、それはちょっと無理ではないかと思われます。

「巻七 北野の雪」(その10)─続古今集
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9286

二条為氏(1222-86)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E6%B0%8F
 

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