teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]

スレッド一覧

  1. ぽろりっ(1)
  2. ぽろりっ(0)
  3. 返信ありがとう(0)
  4. 返信ありがとう(0)
  5. ぽろりっ(0)
  6. 返信ありがとう(0)
  7. ぽろりっ(0)
  8. 全力全開(0)
スレッド一覧(全8)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


卜部四郎太郎兼好

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年11月25日(土)19時11分26秒
  小太郎さん
ご紹介の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』を第二章まで読んでみました。何かを云々できる知識はありませんが、以下の記述などは、今後の兼好像の基準になるのでしょうか。
-----------------
 卜部兼好は仮名を四郎太郎という。前章で一家は祭主大中臣氏に仕えた在京の侍と推定したが、そこから伊勢国守護であった金沢流北条氏のもとに赴いた。亡父は関東で活動し、称名寺長老となる以前の明忍房釼阿とも親しく交流し、正安元年(1299)に没して同寺に葬られた。父の没後、母は鎌倉を離れ上洛したか。しかし姉は留まり、鎌倉の小町に住んだ。倉栖兼雄の室となった可能性がある。兼好は母に従ったものの、嘉元三年(1305)夏以前、恐らくこの姉を頼って再び下向した。そして母の指示を受け、施主として父の七回忌を称名寺で修した。さらに延慶元年(1308)十月にも鎌倉・金沢に滞在し、翌月上洛し釼阿から貞顕への書状を託された。また同じ頃、恐らくは貞顕の意を奉じて、京都から釼阿への書状を執筆し発送した。(53頁~)
-----------------

明日から小旅行に出るので、次回の投稿は一週間後です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E4%BA%94%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
https://www.youtube.com/watch?v=68UpSPzdBZY
これはスターリン賞を受賞したとのことですが、佳い曲ですね。
 
 

小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月25日(土)11時05分58秒
編集済
  暫く止める、みたいに書いた後もロシア・ソ連ものをズルズルと引きずり、工藤精一郎・鈴木康雄訳『ゴルバチョフ回想録 上巻』(新潮社、1996)を読み始めていたところ、これが上下二段組みで765ページもあるためなかなか進まず、気分転換に小川剛生氏の話題の近刊、『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』(中公新書)を読んでみました。

------
兼好は鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれた。六位蔵人・左兵衛佐となり朝廷に仕えた後、出家して「徒然草」を著す――。この、現在広く知られる彼の出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものである。著者は同時代史料をつぶさに調べ、鎌倉、京都、伊勢に残る足跡を辿りながら、「徒然草」の再解釈を試みる。無位無官のまま、自らの才知で中世社会を渡り歩いた「都市の隠者」の正体を明らかにする。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/11/102463.html

小川剛生氏の著書・論文についてはこの掲示板でも何回か取り上げたことがあり、2014年3月、「卜部兼好伝批判―「兼好法師」から「吉田兼好」へ―」が話題になったときには、何としても入手しなければ、みたいに興奮したのですが、暫くして熱が冷め、そのうち本になるだろう、みたいに思って、結局読まず仕舞いでした。

http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/69c1b4fe0cedad95f41ad2e44f775c94

あれから三年半経って出版された『兼好法師』の参考文献を見ると(p223)、

「徒然草と金沢北条氏」荒木浩編『中世の随筆─成立・展開と文体』<中世文学と隣接諸学10>竹林舎、平26
「卜部兼好の実像─金沢文庫古文書の再検討」明月記研究14、平28・1
「徒然草をどう読むか─「作者問題」と併せて考える」日本女子大学国語国文学会研究ノート44、平28・2
「兼好法師の伊勢参宮─祭主大中臣氏との関係を考証し出自の推定に及ぶ」日本文学研究ジャーナル1、平29・3
「勅撰集入集を辞退すること─新千載集と冷泉家の門弟たち」『中世和歌史の研究 撰歌と歌人社会』塙書房、平29
「「河東」の地に住む人々─佐々木導誉と是法法師」藝文研究113、平29・12

という具合に、小川氏は徒然草関係について着々と論文を積み重ねて来たのですね。
小川氏は「はしがき」で、

------
 現在、徒然草ないし兼好に関する論文は三〇〇〇篇をはるかに超え、昭和四十二年度以降の半世紀に限れば約二三〇〇篇に上る(単著を除く)。実に一年に四〇篇以上が発表された計算となる。研究は隆盛を極めているが、細分化も不可避である。著名な作品は、それ自体を論じてしまえば足りてしまう懐の深さがあるにしても、通説を無批判に踏襲し作品に自閉する安易な姿勢がなかったとは言えまい。現代人にとって兼好はまず徒然草作者であるとはいっても、作品から帰納された作者像を兼好の実人生として記述してきたことが異様な偏りを生んだ。作品とは一定の距離を保ちつつ、できるだけ外部の史料を活用して、兼好の伝記を記述するのが最上であろう。
------

と書かれていますが、私も一時期、徒然草にかなり興味を抱き、さすがに千の単位にはならないものの、相当数の論文を読んだことがあります。
ここ十年くらいは中世文学から離れていたので最近の研究水準は把握していなかったのですが、小川氏の今回の著書を読む限りでは、小川氏自身の論文を除くと、「通説を無批判に踏襲し作品に自閉する」のではなく、実証的な歴史学ときちんとした接点を持つ論文はそれほど出ていなかったようですね。
昨日、一気に読み終えた時点では本当に素晴らしい本だと思ったのですが、一日経ってみると若干の疑問も湧いてきます。
読まなければならない本は沢山あるのですが、久しぶりにちょこっとだけ徒然草の世界に戻ってみようかな、という誘惑も感じ、少し悩んでいるところです。
 

青木春雄『現代の出版業』(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月23日(木)11時14分14秒
編集済
  前々回の投稿で、

-----------
さて、以前、猪瀬直樹氏がどこかで書いていたのですが、青木書店の創業社長は別に左翼思想に凝り固まった人ではなく、会社の経理面だけをしっかり握っていて、後はゴリゴリ左翼で仕事中毒の役員・従業員に全て任せ、豪邸に暮らして平日の真昼間からゴルフ場に行ったりして、優雅なブルジョワ生活を満喫していたそうですね。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9135

と書いてしまったのですが、これは青木冨貴子氏が少し自虐的に冗談っぽく語った言葉を元左翼学生の猪瀬直樹氏が生真面目に受け止め、それをゴルフ嫌いの私が更に大袈裟に記憶していた結果なのかもしれないですね。
『現代の出版業』を読む限り、青木春雄氏には共産党やそのシンパの人にありがちな傲岸さや独善性はなく、淡々と数字を挙げて理詰めで説明するストイックな姿勢は一流企業の財務担当重役みたいな感じです。
ただ、そうはいっても、機械的な合理主義者では終戦直後の荒々しい出版界で生き残れるはずもなく、第Ⅱ部「第三章 現代の出版人」の「2 出版人の意識革命」あたりには青木氏の熱血ぶりが少し伺えますね。(p186以下)

-------
 私事になるが、四十九年四月から、自分が創業し三十年近く育ててきた出版社の社長を退いたが、今のところまだ会長職にあるので"私人"といっても一出版業者であることに変りはない。私の社会人生活は三十五年間の出版界ぐらしがすべてである。他の産業界のことは何も知らないといっていい。そして戦前の編集者経験七年だけで、いきなり出版社経営に入った。二十九歳の時である。それからの二十八年間は編集出身者の出版社経営がいかに難しいか、という定説を身をもって体験したつもりである。
 私の学生生活は戦前の高等商業が最後で、それも在籍中に主婦の友社の入社試験を受けて編集者になった。嫌々学んだ経営学の初歩知識が、十年近いブランクを経て出版経営の原始段階に役立つとは予想外だった。文字通り浅学菲才で、しかも赤手空拳のスタートだったが、私をふくめた数人のスタッフを支えていたものは、若さと出版への情熱にほかならない。世の中のためになる仕事をしよう、そのためには個人的生活を犠牲にしてもやむをえない─ということが、疑いや不満もなく通用する時代だった。
 敗戦後の混乱が一応、落着きをみせ、出版界の再建も軌道に乗るようになった創業十年後になると、社内の事情は多少かわってきいた。自分たちの生活をとりまく近代化社会の豊かさが目にみえてくるにつれて、自分たちの個人生活のみじめさが耐えがたくなってきた。良い本を造ろうという目標だけでなく、自分たちの、そして家族たちの生活をいくらかでも向上させたい、という願いがともなってきたのである。
 いま振り返ってみると、この間の私たちの仕事には、これら二つの執念がこめられた意欲的な成果が残されている。わが社ばかりではない。岩波書店であれ、筑摩書房であれ、歴史的に立派な業績を持つ出版社の草創期を見れば、このことは誰の目にもあきらかに映るにちがいない。つまり出版という事業は、いうなればハングリー企業であるべきだ。いや、ハングリー企業の状態でなければ創造的出版や、賭けをともなう野心的企画は生まれないということである。
-------

青木冨貴子氏の「富貴子」という命名はずいぶんな成金趣味だなあ、みたいなことを以前チラッと思ったことがあるのですが、これも1948年という「ハングリー」な時期の「家族たちの生活をいくらかでも向上させたい、という願い」の現れだったようですね。

青木冨貴子(1948-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%86%A8%E8%B2%B4%E5%AD%90
青木冨貴子オフィシャルウェブサイト
http://www.aokifukiko.com/index.html

ところで、ウィキペディアで「青木春男」になっているのはともかくとして、「一般財団法人日本出版クラブ」サイトでも「青木春男」なのはいかなる事情によるのですかね。
「一般財団法人日本出版クラブ」には「出版平和堂」という施設があって、

-------
出版平和堂は風光明媚な箱根・芦ノ湖を望む高台に、本を開いて伏せた形で建立されている、いわば出版文化の殿堂です。出版関連13維持団体等によって維持・運営がなされ、お堂内には、日本の出版界を築き上げ、繁栄に導いた物故功労者のお名前と功績が刻まれた銅の記銘板が掲げられています。
毎年秋には、(財)日本出版クラブが主催する「出版功労者顕彰会」が無宗教・無宗派の形式によって執り行われ、この場に集った出版関係者及び顕彰者のご家族は、先達の功績を讃え、感謝すると共に、業界の繁栄を誓い、世界の平和を祈願します。
皆様も、ぜひこの地を訪れ、出版界の先達のお名前を胸に刻み、その歴史や思いに触れてみませんか。

http://www.shuppan-club.jp/?page_id=17#about

という具合に紹介されているのですが、この「日本の出版界を築き上げ、繁栄に導いた物故功労者のお名前と功績が刻まれた銅の記銘板」の「顕彰者名簿」を見ると、「回数39」の8名中に、

------
青木春男
青木書店社長(創業者)
日本書籍出版協会副理事長 東京出版協同組合常任理事 日本出版クラブ常任理事
T6.10.5
H18.4.28

http://www.shuppan-club.jp/?page_id=79

とあります。
『歴史学研究』のバックナンバーを見ても「発行人」は全て「青木春雄」となっていて、これが本名であることは間違いないと思いますが、新聞の死亡記事や友人のホームページ、ウィキペディア記事のみならず、「一般財団法人日本出版クラブ」の「顕彰者名簿」ですら「春男」となっているのはどうしてなのか。
もしかしたら晩年に正式に改名したような事情があったのですかね。
ちょっと妙な感じですね。
 

青木春雄『現代の出版業』(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月22日(水)10時17分48秒
編集済
  新聞の死亡記事と古くからの友人だという財界人のエッセイに「青木春男」となっていたので、私もこれが本名だろうと思ったのですが、正しくは「青木春雄」ですね。
国会図書館サイトで『現代の出版業』(日本エディタースクール出版部、1975)という本を見つけ、実際に同書を確認してみたところ、奥付に、

-------
青木春雄(あおきはるお)
1917年神奈川県に生まれる.1939年横浜専門学校商学部在学中に主婦之友社編集局入社.美術主任,満洲版編集主任を経て,1946年退社.この間,1年半応召.同年生活研究社を友人と創立.1947年同社を離れ,青木書店を創業.現在同社代表取締役会長.日本書籍出版協会設立発起人に加わり,以後同会副会長・副理事長を歴任.現在理事.他に出版クラブ,出版健保組合,日本出版学会等の理事を兼ねる.ユネスコ東京出版センター主催「アジア出版研修コース」講師.
-------

とあります。
「まえがき」の後半部分から少し引用してみると、

-------
 私は編集者あがりの一出版経営者である。それも零細に近い中小出版企業に属する出版社を三十年近く懸命に経営していたにすぎない。取り柄といえば、出版界生活の過半を出版業者団体の役員としてすごしてきたので、各出版社の事情や業界の実情を比較的にくわしく見、聞きしてきた経験であろうか。そうした立場上、私は今から五年前に、日本出版学会の機関誌『出版研究』創刊号に「出版経営(試)論」と題する一文を発表させられたことがある。これはユネスコ東京出版センターが毎年、東南アジア諸国の研究生を招いて実施している出版研修コースの講義ノートを、日本人向けに補修したものであった。
 発表直後に、こうした経済的な面から出版にアプローチしたものが少ないとかで、このテーマを拡充して<エディター叢書>の一冊に入れるよう、吉田公彦氏からつよくすすめられた。とはいっても、私にとって簡単にできる仕事ではないし、またそのつもりも時間もあったわけではない。
 たまたま昨年の春、私は永い間の社長業から会長という半ば隠居役についたのを機会に、乞われるままに業界紙や機関誌などに出版に関する個人的考えを連載させてもらった。おかげで一年後には吉田氏との約束を果たせそうな分量になったので、同社編集部で整理してもらったところ、構成上どうしても書き足さなければならない部分が出てきた。
 そのために約一ヵ月間、この作業に没頭する羽目になったが、作業中に日頃から気にかけていた<出版界の新人研修用テキスト>になるようなものを、この際、本書へ盛り込もうと意図した。それが本書の総論にもあたる、第Ⅰ部第一章「出版業の職能と機構」である。
 この章は、企業としての出版のあらましを知ろうとする人たちのために書かれたが、一方で、経験者のために多少、立ち入った説明を<注>としてできるだけ加えることにより、第二章以下の各論とあわせて通読にたえるように工夫したつもりである。【後略】
-------

といった具合です。
また、全体の構成を見るために「目次」から大項目だけを抜粋してみると、

-------
まえがき
Ⅰ 出版業とは何か
 第一章 出版業の職能と機構
 第二章 戦後出版の発展と企業動向─出版体質のターニングポイント
 第三章
Ⅱ 今日の出版業
 第一章 出版企業の現代的課題
 第二章 出版生産と定価政策
 第三章 現代の出版人
Ⅲ 出版業と流通問題
 第一章 出版流通資本の生成と発展
 第二章 出版流通改革論
 付論  流通論を深める三つの論理
-------

となっていて、私もパラパラと眺めてみましたが、まあ、正直に言って、「企業としての出版のあらましを知ろうとする人たち」以外にとってはそれほど面白い内容ではなく、あくまで実務的なビジネス書ですね。
青木書店といえば世間的には大月書店と同種の共産党系出版社という印象が強いと思いますが、青木春雄氏の文体には思想の臭いが全く感じられないので、ちょっとびっくりです。
 

歴史学研究会と青木書店の「熟年離婚」(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月20日(月)12時32分2秒
編集済
  青木書店の出版点数に関して、単なる好奇心から、もう少しだけ数字を見てみます。
書籍総数2,691件は多すぎるので、キーワードに「歴史」を入れて、歴史関係だけの出版点数を見ると合計670件、全体の約25%ですね。
これを10年分ずつ比較すると(カッコ内は累計)、

2010~  ( 17) 17
2000~09(159)142
1990~99(292)133
1980~89(381) 89
1970~79(500)119
1960~69(569) 69
1950~59(666) 97
1945~49(670)  4

ということで、個人的には青木書店は昭和の出版社のようなイメージがあったのですが、1990年代が133点、2000年代が142点と、平成に入って出版活動はむしろ活発化していますね。
この時期をもう少し細かく5年毎に見ると、

2015~   (2)  2
2010~14(17) 15
2005~09(69) 52
2000~04(159)90
1995~99(232)73
1990~94(292)60

ということで、2000年代前半が創業以来の一番のピークですから、その後の凋落ぶりが余計目立ちます。
さて、以前、猪瀬直樹氏がどこかで書いていたのですが、青木書店の創業社長は別に左翼思想に凝り固まった人ではなく、会社の経理面だけをしっかり握っていて、後はゴリゴリ左翼で仕事中毒の役員・従業員に全て任せ、豪邸に暮らして平日の真昼間からゴルフ場に行ったりして、優雅なブルジョワ生活を満喫していたそうですね。
猪瀬氏はこの話を、同じノンフィクション作家仲間で、青木書店社長の娘でもある青木富貴子氏から聞いたそうなので、情報源としてこれほど確実な話はありません。
信州大学全共闘議長という左翼活動歴を持つ猪瀬直樹氏は、貧しい青年労働者や地方出身の勤労学生が乏しい生計費をやりくりして購入した左翼出版物の対価が左翼出版社社長の遊興費になっていることを知って、何とも複雑な気持ちになったそうですが、確かにゴルフ場云々は資本主義社会の構造を鮮やかに映し出す心温まるエピソードで、私も、成る程、世の中はそういう風に出来ているのか、とひどく感心した覚えがあります。
その青木書店の創業社長、青木春男氏の名前で少し検索してみたら、同氏は2006年に88歳で亡くなったそうですね。

-------
青木春男氏死去/青木書店創業者、同社相談役

 青木 春男氏(あおき・はるお=青木書店創業者、同社相談役)4月28日午後11時44分、心不全のため東京都青梅市の病院で死去、88歳。神奈川県出身。【中略】
 45年青木書店を創業。二女は、ジャーナリストの青木冨貴子さん。
http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20060501000211

鈴木弘という財界人(日刊工業新聞社元役員)のホームページに、

--------
 青木春男さん亡くなる

「青木さんが亡くなられました」、と先月30日にKCCに行ったら、倶楽部の人に告げられた。しばらくお目に掛からないとは思っていたが、私より年長であり、この冬の寒さに自重されているくらいに思っていたのだが、矢張りショックだった。
 青木さんは私と同じ昭和44年の入会だけれど、私はそれ以前から存知上げていた。私が東京商大を卒業した24年の春、出版の道に進みたいという希望を父に話しその就職先を相談したら、講談社、主婦の友社そしてホーム社の中から選べといわれ、私は一番小さいホーム社をお願いした。そこの社長は本郷保雄氏(故人)、この方は主婦の友の編集長を長く勤められ、戦後に独立されてこの社を創立されたのである。【中略】
 私の直属にあたる方が中尾是正氏(故人)であったが、この方は主婦の友社で先生のもとにおられ、ホーム社創業のとき先生に従って移られたと承知している。私はこの中尾氏の紹介で青木さんを存じ上げることになったのだが、青木さんも主婦の友社で本郷先生のもとにおられ、戦後独立されて青木書店を創業されたのである。有り難いことに私は本郷先生の教え子の一人に数えて頂き、青木さんとは仲間としてお付き合いさせて頂いた。だから私がホーム社に入ってから20年後に、KCCでお目に掛かったのは偶然ではあるが、嬉しいことであった。

http://www3.point.ne.jp/~kimura-t/essays/a/a_23.html
http://www3.point.ne.jp/~kimura-t/essays/mokuzi_2.html

とありますが、鈴木氏の他のページを見ると、この「KCC」は「霞ヶ関カンツリー倶楽部」のことで、つい先日、トランプ大統領と安倍首相がプレーしたことでも話題になった超一流名門ゴルフ場ですね。

「KCCの創立者」
http://www3.point.ne.jp/~kimura-t/essays/e/e_04.html

青木春男氏が鈴木弘氏と一緒に「霞ヶ関カンツリー倶楽部」の会員になった昭和44年(1969)といえば大学紛争真っ盛りの時期で、猪瀬直樹氏もゲバ棒を振ったりして活躍されていた頃でしょうが、日本有数の左翼出版社社長という地位は、別に超一流名門ゴルフ場の会員になることの妨げにはならなかったようですね。
ま、それはともかく、相談役の青木春男氏が亡くなった2006年はなかなか微妙な時期で、青木書店の出版活動の転機になっているような感じもします。

>筆綾丸さん
藤原彰氏と江口圭一氏は随分前に亡くなっているよなー、と思って検索してみたら、二人とも2003年に死去されていますね。
14年前に鬼籍に入っている人の著書が「話題」の書では、笑うに笑えません。

藤原彰(1922-2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0
江口圭一(1932-2003)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E5%9C%AD%E4%B8%80
 

交響曲第2番「十月革命に捧げる」

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年11月19日(日)17時20分16秒
編集済
  http://www.rfi.fr/europe/20171106-octobre-1917-heritage-controverse-revolution-russe
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
https://www.youtube.com/watch?v=sE5_109eh4M
前に引用した rfi の記事で、十月革命を寿ぐ音と光の祭典にマヤコフスキーの詩が放送されたとあるのですが(Des poèmes de Maïakovski, le poète de la révolution, sont diffusés sur la place)、音楽は何が使われたのか。ショスタコーヴィチの交響曲第2番「十月革命に捧げる」かな、という気もしますね。

補遺
sont diffusés sur la place とは、拡声器から詩の朗読が流れたことなのか、詩の文言が敷石の上に投影されたことなのか、詩を印刷したビラが配られたことなのか、恥ずかしながら、意味を特定できません。
 

武田薬品の慧眼

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年11月18日(土)16時58分26秒
編集済
  小太郎さん
出版社には失礼ながら、「いったい何時の「話題」なのか、と嫌味を言うのも気の毒な「鬼気迫る」状態です」のところで、思わず吹き出してしまいました。


キラーカーンさん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC7%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
https://www.youtube.com/watch?v=747hGK6pSpQ
https://www.youtube.com/watch?v=nH-iIYtrnVk
作曲の完成日(1941.12.17)は真珠湾攻撃の10日後で、大日本帝国の絶頂期、というか、下り坂を転げ落ち始めたときですね。
選曲の意図は不明ですが、「チーチン・プイプイ」がソ連邦崩壊後のプーチンの出現を予言していて(たんに発音が似ているというだけのことですが)、武田薬品の慧眼には「鬼気迫るもの」がありますね。
 

歴史学研究会と青木書店の「熟年離婚」(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月18日(土)10時39分28秒
編集済
  昨日はちょっと軽い調子で書いてしまいましたが、「会告」の下に載っている編集長・鈴木茂氏の「編集室から」を読むと、事態はけっこう深刻なようですね。

-------
 会告でお知らせしてある通り,本号より発行元が青木書店から績文堂出版に変更されることになった。会員の皆さんには,先月号の『月報』(No.687)で小沢弘明委員長よりお伝えしてあるので,お読みいただいた方も多いと思う。また,詳しい経緯については,本年5月の総会で報告される予定である。
 歴研編『戦後歴史学と歴研のあゆみ 創立60周年記念』(1993年5月)所収の座談会には,1959年3月号をもって岩波書店からの発行が停止し,青木書店の協力で再刊されるまで2カ月の空白があり,2号が休刊となった経緯が語られている。そこでは30年以上も前の出来事として,ある種懐旧的な雰囲気が漂っているが,当時の休刊を告げる会告には,本会の財政が危機的状況に陥り,再刊の見通しも立たないまま休刊に追い込まれた窮状が吐露され,鬼気迫るものがある。
 今回は前回とは異なり,発行元の変更は十分な準備期間をおき,円滑に実現した。また,青木書店も出版社としての営業を続けることになっている。歴研の課題は,出版不況が深刻化する中で,歴史研究の成果をどのように広く社会に伝えるかについて真剣に考えることであろう。皆様の忌憚のないご意見をお願いする次第である。
-------

ということで、「青木書店も出版社としての営業を続けることになっている」は穏やかではない表現です。
これを読んで、青木書店の経営はそんなに悪いのか、とチラッと思ったものの、別に私には特定の出版社の経営状態を知る手がかりはないので、ま、とりあえずということで、またまた国会図書館サイトで検索してみました。
青木書店の書籍総数は2,691件で、岩波書店の37,417件あたりと比べると見劣りはしますが、それでも相当な件数です。
しかし、近年は出版点数が激減していて、

2011年 1件
2012年 7件
2013年 1件
2014年 4件
2015年 2件
2016年 0件
2017年 0件

となっていて、ちょっとびっくりですね。
実際、同社サイトを見ても、トップページの「話題」に載っている6点は、

保立道久『黄金国家』、2004年
時津裕子他『認知考古学とは何か』、2003年
西口清勝『現代東アジア経済の展開』、2004年
宮澤誠一『明治維新の再創造』、2005年
藤原彰『餓死した英霊たち』、2001年
江口圭一『十五年戦争小史〔新版〕』、1991年

http://rr2.aokishoten.co.jp/index.php

という具合で、いったい何時の「話題」なのか、と嫌味を言うのも気の毒な「鬼気迫る」状態です。
まあ、これでは定期刊行物の出版元を続けるのも実際上無理で、過去の栄華を偲びつつ、細々と余生を送る以外はないのでしょうね。
 

駄レス

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2017年11月18日(土)02時21分36秒
  >ショスタコーヴィチの音楽

なぜか、「チーチン・プイプイ」の掛け声とともに
レニングラードの町を背景に屹立する
アーノルド・シュワルツェネッガーの姿が目に浮かびます
 

歴史学研究会と青木書店の「熟年離婚」(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月17日(金)11時30分19秒
編集済
  学問的関心からではなく、純度100%の俗物根性に基づき『歴史学研究』956号(2017年4月)を確認してみたら、「会告」として一応の事情説明が出ていました。(p66)

--------
『歴史学研究』発行元変更について

 本号より『歴史学研究』の発行元を,従来の(株)青木書店から績文堂出版(株)へと変更することになりました。
 青木書店には,本誌の発行元が岩波書店から変更されるにあたって再刊にご協力いただき,同書店から発行された本誌は,230号(1959年6月)から955号(2017年3月)まで,計726号にのぼります。
また,会誌の発行だけでなく,数々の講座をはじめとした企画出版活動にもご尽力いただいており,本会は青木書店と50年以上にわたって,文字通り二人三脚で歩みをともにしてきたといえます。このたび,青木書店の今後の出版活動についての方針もあって,同書店からの本誌の発行を終えることとなりましたが,これまで同書店から出版されていた本会編集の書籍,会員が執筆した書籍等については,継続して版元となっていただきます。青木社長をはじめ,これまで本会にご助力いただいた,歴代の編集,営業の方々に心から謝意を表するとともに,引き続きご協力をお願いいたします。
 新たな発行元となる績文堂出版は,およそ70年にわたる出版活動の実績を有する出版社です。これまで歴史学関連の書籍を多く手がけてきたわけではありませんが,本会との関係では,2011年より毎年,『歴史学研究』増刊号の制作を引き受けていただいており,ここ数年は,本会が編集した単行本の制作もお願いしてきました。会誌発行にかかわる専門的な知識や経験は蓄積されており,引き続き印刷・製本をお引き受けいただく奥村印刷(株)とともに,本会としては,この上ないパートナーと確信しています。
 出版不況が喧伝される厳しい状況ではありますが,新しい態勢のもとで本誌の発行に全力を尽くしてまいる所存です。会員・読者はじめすべての関係者のみなさまのご理解とご協力をお願い申し上げます。

  2017年3月 歴史学研究会委員会
--------

ということで、金婚式を超え、実に58年に及ぶ歴史学研究会と青木書店の結婚生活は、青木書店側からの「性格の不一致」を理由とする離婚の申し入れを受けて話合いを重ねた結果、両者の間に生まれた子供たちの養育費負担割合についても合意が出来て、この度、無事に協議離婚が成立した訳ですね。
1932年生まれの歴史学研究会は85歳、1945年生まれの青木書店は72歳で、「文字通り二人三脚で歩みをともにしてきた」二人の間にもいつしかスキマ風が吹き、とうとう熟年離婚に至った訳ですが、歴史学研究会は離婚の協議を進める一方で、6年前から交際している績文堂出版(70歳前後)との間で再婚の準備も行なっており、績文堂出版は世間に隠れての愛人の身から、晴れて正式の妻になったということですね。
「これまで歴史学関連の書籍を多く手がけてきたわけではありませんが」に若干引っかかったので、国会図書館サイトで「績文堂」を検索してみたら、書籍は320件あって、一番古いのは山宮允『詩文研究』(大正7)ですね。
ただ、これは「績文堂出版」ではなく「績文堂」で、大正7年(1918)というと99年前ですから「およそ70年にわたる出版活動の実績」と整合性が取れません。
「績文堂」の出版物は、

大山茂昭編『ノイツアイトリツヘル』(Neuzeitlicher Lesestoff fur Mittelklassen)、1933
土方辰三編註『ワンアクトプレイズ』(Sekibundo new English texts)、1934
片岡彦一郎『最新北アルプス登山』、昭和9
吉岡呂峰編書『通俗書道入門. 漢字之部 上巻』、昭和10
本内達蔵『帝国潜水艦』、昭和18

など33冊ありますが、旧制中学や旧制高校の参考書みたいな本が多いですね。
「績文堂出版」になってからの最初の書物は、

櫻井武平『やさしい科学:ラジオ放送 』、1950

で、これを出発点とすると、確かに「およそ70年」となりますね。
以後は受験参考書みたいなものを多く出す傍ら、衛生学・生理学の教科書、『鍼灸経絡治療』『訓注銅人腧穴鍼灸図経』のような東洋医学系(?)、『琉球古武道』上中下三巻など雑多な本を出し、1980年代以降は法律書・文学書もチラホラありますね。
1985年の森滝市郎他『非核未来にむけて : 反核運動40年史』、翌86年の反核1000人委員会編『太平洋を非核の海に』以降、左翼っぽい本も多少はありますが、青木書店のように左翼思想を鮮明にしている訳でもなく、『アクチュアリーの書いた生命保険入門』(2003)『マーケティング・ノート : マーケティングをこえたマーケティングの本』(2005)『保険代理店ITハンドブック』(2005)みたいなビジネス実用書もあって、正直、何をやっているのかよく分からない出版社ですね。
歴史学研究会との蜜月関係は、果たしてどのくらい続くのでしょうか。

>筆綾丸さん
>ショスタコーヴィチの音楽
1920年代までは演劇・絵画などでもそれなりに新鮮な活動が展開されますが、スターリンの支配が強化されるにつれて、全部潰されてしまいますね。
スターリンはミュージカルが大好きで、ハリウッドに対抗すべく、金に糸目をつけずにミュージカル映画を製作させ、今でも一部のソ連ミュージカルファンから高く評価されているそうですが、個人的にはあまり見たいとは思いません。
 

ロシア風刺画

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年11月17日(金)00時33分22秒
  小太郎さん
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO23503600V11C17A1BC8000/
日経文化欄(11月16日)に、レーニンを対象にした面白い風刺画が掲載されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81
暗いソ連時代の唯一の救いは、ショスタコーヴィチの音楽ではあるまいか、と思っています。
 

岩波・青木・績文堂

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月16日(木)10時12分36秒
  ここ暫く、チマチマとソ連関係の本を読んできて、初歩的な知識は一応入手でき、漠然と感じていたいくつかの疑問も解消したのですが、まあ、世界史の中でも極端に陰気な出来事の多い分野なので、そろそろ少し方向を変えようかなと思っています。
ロシア・東欧への興味は持続しており、少し時間を置いてから、もう一度深めて行きたいですね。

>筆綾丸さん
「訪問販売等に関する法律」が大幅に改正されて名称も「特定商取引に関する法律」に変わったのが2000年(平成12)なので、青木書店は少なくとも17年ほど時代に遅れていますが、績文堂出版は更に時代から取り残された存在のようですね。
『歴史学研究』の発行元が岩波書店から青木書店になったのは1959年で、このときは金銭トラブル(累積赤字の処理)と、それをめぐる感情のこじれ(歴研側の一部の傲慢な発言に岩波の重役・小林勇が激怒)が原因だったそうですが、今回は何があったのか。
ま、大きなお世話でしょうが。

「渡邉一族の四季」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f8d0c5fd0553676314eeda24a467294
 

綱領

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年11月15日(水)17時07分9秒
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A
歴史学研究会綱領の第一条に、「われわれは、科学的真理以外のどのような権威をも認めない・・・」とあるので、特定商取引法は「科学的真理以外」の「権威」なのでこれは認めない、ということになるのでしょうか。かなりヤバい会社のようですが、会員は誰も疑問を抱かないのかな、と疑問を抱きますね。
 

績文堂出版と特定商取引法

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月15日(水)10時50分30秒
編集済
  ツイッターで『歴史学研究会編集 現代歴史学の成果と課題 第2巻 世界史像の再構成』(績文堂出版、2017)という本を見かけて購入しようかなと思ったのですが、私は績文堂出版という出版社を全く知らなかったので検索してみたら、この会社は今年4月から青木書店に代って歴史学研究会の機関誌『歴史学研究』の発行元になっているんですね。
私は歴史学研究会の会員ではなく、近所の大学図書館で時々『歴史学研究』をパラパラめくっている程度の読者なのですが、迂闊なことに発行元が変わったことに気づいていませんでした。

http://www.sekibundo.net/index.html

どんな会社なのかなと思って、同社サイトを少し見てみたのですが、代表者の氏名も書いてありません。
しかし、同社が通信販売を行なっていることからすると、これはちょっと異常なことです。
というのは、特定商取引法という法律があって、訪問販売・通信販売・電話勧誘販売等の消費者トラブルが発生しやすい取引形態について、業者が守るべきルールを定めているのですが、通信販売の場合は広告に表示すべき事項として13項目が定められているんですね。

消費者庁・特定商取引法ガイド
http://www.no-trouble.go.jp/
通信販売
http://www.no-trouble.go.jp/what/mailorder/

こういう規制があるので、通信販売業者のサイトには必ず「特定表取引法に基づく表記」があります。
例えば青木書店の場合、リンク先のような記載があって、まあ、「訪問販売法に基づく表示」という古い法律名になっているのはご愛嬌ですが、法定事項はすべて具備されていますね。

http://rr2.aokishoten.co.jp/page/purchaseguide#NO_A7

これに対し、績文堂出版の場合は、「購入方法」を見ても代表者または業務責任者の氏名がなく、返品方法等に関する定めもなくて、全然ダメですね。

http://www.sekibundo.net/kounyu.html

ということで、私は四日前に、

-------
特定商取引法に基づく表示について

こんにちは。
貴社の出版物の購入を検討しているのですが、私にとってなじみのない出版社なので、
特定商取引法に基づく表示を確認してみようと思ったところ、貴社サイトには特に
表示がないようです。
貴社は青木書店に代わって「歴史学研究」の発行元になったとのことなので、もちろん
信用のある会社とは思いますが、特定商取引法に基づく表示がないのは何故でしょうか。
あるいは私が見逃しているのでしょうか。
ご連絡願いたく。
--------

というメールを送ったのですが、未だに返事が来ません。
正直、この会社は大丈夫なのかな、という不安が生じますね。
なお、つい先日、

------
 オウム真理教から改称した「アレフ」が、別の仏教関係の勉強会を名乗って女性を勧誘した際、必要な書面を交わさなかったとして、北海道警は13日、特定商取引法違反の疑いで札幌市白石区と福岡市博多区の施設など5カ所を家宅捜索した。
http://www.sankei.com/affairs/news/171113/afr1711130007-n1.html

などというニュースがあり、まあ、これはオウム取締りのために警察があらゆる法律を使っているという側面があるのでしょうが、特定商取引法違反は決して軽い話ではないですね。
 

レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月14日(火)10時59分28秒
編集済
  エレーヌ・カレール=ダンコースの『レーニンとは何だったか』を通読すると、『ワイドカラー版少年少女世界の名作』シリーズの「レーニン」には決して登場しないレーニンの傲岸・粗暴・不寛容・冷酷、また労働者・農民に対する蔑視の深さに、まあ、ある程度の予備知識はあったとはいえ、改めて驚かされます。
暖かい家庭に育ったお坊ちゃまなのに、何故こんなに歪んだ人間になってしまったのだろうか、という謎は残ったままなのですが、女性関係については、家庭環境の影響が比較的ストレートに残ったようですね。
レーニンとイネッサ・アルマンドの関係について、次のような記述があります。(p212以下)

-------
 手紙の断片から明らかとなる二人の関係は、レーニンに深刻な問題を課していた。ナジェージダ・クループスカヤの問題である。確かな歴史家たちの行なった研究によれば、クループスカヤは早い時期にこの状況を悟り─彼女はレーニンと離れることが決してなかったのだから、彼の気持ちのいささかの変化にも気付くのだった─苦しみ、反発し、それから毅然として地位を明け渡すと申し出た。しかしレーニンにはそのつもりはなかった。イネッサ・アルマンドとの関係は内密の関係なのだ。イネッサはレーニンを彼女に返し、クループスカヤは敬われる妻であり続け、イネッサに友情を感じるようになった。夫と妻と愛人の三角関係ということだろうか。もちろん違う。レーニン夫妻とイネッサはよく会い、時には一緒に旅行していたが、この三人の行く所、瞠目すべき品位と相互の深い尊敬の念が明らかにうかがえた。彼女にとってクラクフは退屈な町であり、そこに住むのが嫌でならなかったが、おそらくは困難な感情的状況に困惑したためでもあろう。一九一三年に彼女はしばらくレーニンの許を離れ、パリに居を構えた。しかしイネッサと別れる決心をしたのはレーニンの方である。もっとも従来通りの親密な関係は続いた。一九一三年十二月、彼女はレーニンに「彼のそばに残ることさえできるのならば、キスしてくれなくてもかまわない」と手紙を書いている。一九一四年五月の手紙でレーニンは彼女にこう懇願している。「私のことを怒らないでくれ給え。君の大きな苦しみの原因は、私のせいだということは良く分かっている」。一ヵ月後、レーニンは彼女にこう頼んでいる。「こちらに来る時には、二人の手紙をすべて持って来てくれ給え」。二人の書簡は、保存されているものを見た限りでは、信頼に溢れると同時に悲痛で、レーニンが自分自身と彼女とにいかに犠牲を強いたかを露に示している。その理由はレーニンの性格を考えれば理解できる。彼は恋愛に関しては、多くのボリシェヴィキが抱いた自由な考え方を持つことは決してなかった。アレクサンドラ・コロンタイが自由恋愛を擁護し、さらにはより一般的にセックスの自由を擁護したのに対して、彼は厳しく批判した。謹厳実直な秩序の人であるレーニンは、仲睦まじい家庭で受けた教育、そして十九世紀末のロシア社会の倫理規範の命ずる行動様式に常に忠実であった。
--------

<彼女はレーニンに「彼のそばに残ることさえできるのならば、キスしてくれなくてもかまわない」と手紙を書いている>とありますが、これは直接話法で書くのであれば「あなたのそばに」でないと意味が通じないですね。
ま、正直、理屈っぽすぎてなかなか理解しにくいレーニン・クループスカヤ・イレッサの「三角関係」は、少なくとも精神的な関係としては相当長く続いたようで、

-------
彼女が他界した時、打ちのめされ悲嘆に暮れたレーニンの姿は、居合わせた者すべてに深い印象を与えた。それでも彼は彼女を終の棲家まで送る葬列に加わるのであった。心に距離を強いたにもかかわらず、あらゆることが証明しているように、彼女に対して抱く愛は無傷のまま残ったのである。
-------

のだそうです。(p213)

ウィキペディアのイネッサ・アルマンドの記事は日本語版もそれなりにしっかり書かれていますが、写真が多いのは英語版なので、英語版にリンクを張っておきます。

Inessa Armand(1874-1920)
https://en.wikipedia.org/wiki/Inessa_Armand
 

「少年少女世界の名作 レーニン」(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月12日(日)10時56分51秒
編集済
  国会図書館サイトで「深田良」を検索すると「個人著者標目」に「飯野彰, 1914-1977」と出てくるのですが、これが本名なのですかね。
この人は飯野彰の名前で『牛一匹の広場』(現代社、1959)を出した後、深田良の名前で、

『鏡の中の顔』(創思社、1969)
『断層回路:共産党背面史』(都市問題・出版部、1971)
『法燈を掲げる人々:本願寺の苦悩と栄光』(医事薬業新報社、1973)
『小説久保勘一』(創思社出版、1974)

の四冊を出していますが、テーマにあまり一貫性が感じられません。
『断層回路:共産党背面史』というタイトルからは、日本共産党を除名された人なのかな、と想像(妄想?)したくなりますが、これも実物を見ないと何ともいえないですね。
ま、それはともかく、もう少し引用を続けます。(p152以下)

-------
 ところでこのシルビンスクの町は、三つの区に分かれていました。山の手の丘はベネツ(かんむりという意味)とよばれ、金持ちや貴族が住み、町を見おろしていました。そしてその下のだらだら坂の途中が、商人の住むところで、商業の中心地となっていました。
 麦やさかな、羊毛、石炭などの市場が開かれ、名物の馬市では、近くの村から農民がおおぜい集まり、一週間仕事を休んで、お祭りさわぎをするのです。
 一番下の谷底のような低いところは、貧しい人たちの住まいでした。倒れそうな小屋やバラックからは、いやなにおいが鼻をつき、ぼろをきた子どもだちが、地面でどろだらけになり、やせおとろえたぶたや、毛のぬけた犬などが、うろうろと食べ物を捜しもとめていました。
-------

川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)には、シルビンスクに住む「ナターシャ叔母さん」について、

-------
 ナターシャ叔母さんは父の妹にあたる人だった。家はシルビンスクの大通りに面していて、ピカピカに磨かれた硝子窓がはまっていた。町でいちばん早く電気を引いたのは叔母さんの家で、その夜は見物人が山のように押し寄せたそうだ。叔母さんは小さなチョコレート工場をもっていて、町一番の高級チョコレートを売っている。ワレンティンの家もチェレンガ一の雑貨商だが、とても叔母さんのところの比ではない。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9110

とありましたが、時期はレーニンの子ども時代から少しずれるとしても、たぶんナターシャ叔母さんの「小さなチョコレート工場」も「だらだら坂の途中」の商業地区にあったのでしょうね。

Ulyanovsk
https://en.wikipedia.org/wiki/Ulyanovsk

※追記1
「切手と文学」というブログに、川端康成から飯野彰宛てに出された昭和28年の年賀状が載っていて、ブログ主は、

------
宛名人である飯野彰氏は、日本文芸家協会会員、日本美術教育会員、東京作家クラブ会員であった小説家飯野一雄氏のことと思われます。飯野氏は、深田良の筆名で執筆を行っていましたが、昭和34年には飯野彰の筆名にて『牛一匹の広場』なる本を出版しています。
http://ikezawa.at.webry.info/200905/article_2.html

と書かれていますね。

※追記2
九州大学の「スカラベ人名事典」によると、深田良は、

-------
1914(大正3)年、東京の生まれ。小説家・出版業。本名・飯野一雄。早稲田大学卒。「日本文化財」の編集長を経て、無形文化財の専門書の出版にたずさわり、以後執筆に専念する。日本文芸家協会会員、日本美術教育会員、東京作家クラブ会員。昭和52年6月27日死去。経営していた創思社出版からは『麻生百年史』『定本嘉穂劇場物語』など、福岡・筑豊に関する著作を刊行し、また福岡県筑紫野市に九州編集部を置き、周辺地域の出版に貢献した。〈著書〉『牛一匹の広場』(飯野彰の筆名・現代社、昭34)『鏡の中の顔』(創思社, 昭44・6)『断層回路―共産党背面史』(都市問題出版部、昭46・9)『小説久保勘一』(創思社出版、昭49・5)『遠賀川 筑豊三代』(創思社出版、昭50・8)『小説三木武夫』(創思社出版、昭50・11)『日本の美術』(飯尾一雄著・岩崎書店、昭36、中学生の美術科全集7)『法燈を掲げる人びと―本郷寺の苦悩と栄光』(医事薬業新報社、昭48)〔参考〕「卍」第5号(1978.7.5)追悼号 【坂口 博】
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/recordID/442204?hit=-1&caller=xc-search

という人物だそうですね。
国会図書館サイトで検索した著書を見て、どうにもテーマに一貫性がないように感じましたが、これは小さな出版社の経営者として、自己の好みとは関係なく、経営を維持するために確実に利益が出る出版物を社長自ら執筆していた、といった事情があったのでしょうね。
 

「少年少女世界の名作 レーニン」(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月11日(土)10時59分42秒
編集済
  下斗米伸夫氏がどこかで「渓内先生」と書いていたので、下斗米氏は渓内謙氏の弟子筋にあたるのでしょうが、私は遥か昔の学生時代、渓内謙氏の講義を聴講したことがあります。

渓内謙(1923-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E5%86%85%E8%AC%99

といっても、別にソ連に特別な興味があった訳ではなく、割と簡単に単位を取れそう、くらいの軽い気持ちで、階段教室の後ろの方で時々居眠りしながら聞いていただけなのですが、当時、私が渓内氏の講義から漠然と受けた印象は、レーニンは立派だったけどスターリンがソ連の方向を歪めてしまった、みたいな感じでした。
ま、そこまで乱暴に要約すると今は亡き渓内先生も怒るかもしれませんが、ソ連崩壊前はレーニンの活動の実態について史料的な制約が大きくて、レーニンとスターリンの関係は専門家でも明確には把握できていなかったはずですね。
フルシチョフによるスターリン批判の後でも、レーニンまで否定するとソ連の体制が最初から全然ダメだったという話になってしまいますから、レーニンのあまり芳しくない行動についての史料はずっと隠されていた訳ですね。
そうした史料がソ連崩壊後、公開されるようになって、結局、スターリンはレーニンを否定してソ連を誤った方向に導いたのではなく、仮借なき政治的暴力の行使においても、スターリンこそがレーニンの最も正統的な後継者であることが、少なくとも学者の世界では争えなくなってしまった、というのが現状なんでしょうね。
ま、結論は既に出ているのですが、そのあたりの事情を具体的に見てみたいと思って、今はダンコース女史の『レーニンとは何だったか』を読んでいるところです。

---------
エレーヌ・カレール=ダンコース『レーニンとは何だったか』

『崩壊した帝国』で、ソ連崩壊を世界に先駆け十余年前に予言した著者が、崩壊後の新資料を駆使して〈レーニン〉という最後の神話を暴き、「革命」の幻想に翻弄された20世紀を問い直す。ロシア革命を“簒奪”し、革命を“継続”する「ソ連」というシステムを考案したレーニンの政治的天才とは何だったのか?
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=765

さて、息抜きも兼ねて読み始めた深田良「レーニン」ですが、これは意外に面白いですね。
もう少し引用してみます。(p151以下)

--------
(二)レーニンのおいたち

 レーニンの本名は、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフという長い名まえで、ウォロージャは愛称です。
 また、ロシア革命を起こしたレーニンですから、純粋なロシア人と思われるかもしれませんが、レーニンにはロシア人の血すじはまざっていないようです。
 それは、レーニンの父方の祖母が、ボルガ川のほとりを遊牧していた部族チュバシ人の血を受けていたからのようです。
 そして母方の祖父はドイツ系で、祖母はスウェーデン系の血すじを、ひいているといわれています。
 これらのことは、レーニンがロシアの革命家というより、いまでは世界の大革命家とされているのに、なんらかの意味があるように思われます。
 このように、異民族の血すじをもつ偉大な革命家レーニンは、いまから百年ほどまえの一八七〇年四月二十二日(旧暦四月十日)に、ボルガ沿岸のシルビンスクで生まれました。─現在では、この地方はレーニンの功績をたたえる意味で、かれの名まえをとり、ウリヤーノフ州の主都、ウリヤーノフスクとなっています。
 シルビンスクは、人口三万人ほどの小さな都市でしたが、静かでおだやかなボルガ沿岸地方の、商業の中心地でした。レーニンが生まれたころは、鉄道はまだ敷かれていません。乗り物は馬車を利用するだけで、いちばん近い駅まで、百六十キロもはなれていたのですから、ずいぶん不便なところでした
 そのころの首都、ペテルブルク(今のレニングラード)からは千五百キロ、モスクワからは、九百キロもはなれていました。
 しかし、ゆるやかなボルガ川の流れに沿って、右の岸は高い山やまが連らなり、その山の斜面は、緑の木ぎと、甘いかおりをはこぶ果樹園におおわれ、左の岸は、かぎりなく広がる平野が見わたせました。
 シルビンスクの人びとは、ロシアでいちばん美しい町だと、誇りに思っていました。
 冬のあいだ氷にとざされていたボルガ川も、氷が割れる音とともに春が近づき、汽船が通れるようになります。すると町のはとばは、息をふきかえし活気をおび、汽笛が鳴り響きます。
-------

「レーニンの父方の祖母が、ボルガ川のほとりを遊牧していた部族チュバシ人の血を受けていた」としても、父方の祖父はロシア人ですから、「レーニンにはロシア人の血すじはまざっていないようです」は明らかな誤りですね。
ま、それはともかく、この後、シルビンスクの紹介がもう少し続きますが、いったん切ります。
 

「少年少女世界の名作 レーニン」(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月11日(土)09時54分51秒
編集済
  ウォロージャが「三頭立ての張り子の馬のついた、そりのおもちゃ」を持ってどこかへ行った後、「頭が、人一倍大きく、いつもかけだしては頭からひっくりかえり、そのたびに大声で泣き叫」び、「ことに無器用で、満三歳になるまで、満足に歩くことのできなかったウォロージャ」がやっと歩けるようになったときの感動的な話が続きます。
そして、いつまでもウォロージャが戻って来ないので大騒ぎになり、

------
 そのうち、兄のアレクサンドルの、
「なんだ、こんなところにいるよ。」
という声で、みなが集まっていきますと、とびらのうしろにかくれるようにして、ウォロージャがなにかしきりにやっています。
 それは、いまうばから贈られたばかりの三頭立ての馬の足を、全部もぎとっているのです。
「まあ、この子は・・・。」
 母のマリアは、大きな目をあきれたようにあけて、ウォロージャをじっと見つめました。かの女は、子どもをしかるとき、けっして大声を出したり、感情的になったりしません。しずかにじぶん自身で悪いことをしたことを、悟るように、何度もいい聞かせていました。
 けれども、物をこわすことに、興味を持っているウォロージャの、いたずらとらんぼうをとめることは、なかなかできませんでした。子供たちのうちで、一番手のやけるむすこでした。
 このようにレーニンの幼児期は、やんちゃで、いたずらっ子だったのです。
------

という展開になります。(p150以下)
スターリンの場合、靴職人の父親がアルコール依存症になって理由もなく息子を殴りつける崩壊家庭に育ち、また地域の環境もサイモン・セバーグ・モンテフィオーリがマフィアを産んだシシリー島に喩えるような暴力的風土だったので、まあ、血に飢えた陰謀家に成長するのも不思議ではないのですが、レーニンはスターリンとは対照的に、経済的にも知的にも恵まれた良家に育ったお坊ちゃんで、周囲も温和な風土なのに、何であんなに狂暴な人間になってしまったのか、本当に謎です。
深田良氏は全く出典を示さないので、この優しい乳母からプレゼントされたばかりの馬のおもちゃをバラバラに解体するという事件が事実なのかもわかりませんが、レーニンの将来を暗示するような、けっこう不吉な、禍々しいエピソードではありますね。
栴檀は双葉より芳しいというか何というか。
 

「少年少女世界の名作 レーニン」(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月10日(金)22時21分42秒
編集済
  何気なくレーニンの母方の祖父が購入した領地だという「コクシキノ」を検索してみたら、「古本斑猫軒」というサイトで小学館の『ワイドカラー版 少年少女世界の名作35巻 ソビエト編2』が紹介されていて、そこに、

------
レーニン(文:深田良 挿絵:霜野二一彦)
 {一 誕生日/二 レーニンのおいたち/三 いたずらっ子ウォロージャ/四 果樹園のある家/五 コクシキノ村の夏休み/六 中学校と友人たち/七 父の死/八 兄の処刑/九 その後のレーニン/年表/読書ノート}

https://hanmyouken.net/?pid=61908287

とありました。
何じゃこれ、と思って近くの図書館で探してみたら、小学館が1972年(昭和47)に出した児童書なんですね。
B5版で上下二段組み、全部で360ページの立派な本で、その内、「レーニン」は約50ページ程の結構な分量です。
ちょっと不思議なのは、「レーニン」以外は「トルストイ童話」、ビアンキ作「森の動物新聞」、「クルイロフ童話」、バイコフ作「偉大なる王」、「チェーホフ短編」という具合にロシア・ソ連の作家の翻訳なのに対し、「レーニン」だけ日本人が書いた実在の人物の伝記である点ですね。
作者の深田良氏の名前は聞いたことがありませんでしたが、「原稿と絵をかいてくださった先生がた」の中に「深田良(ふかだりょう)大正3年東京に生まれる。日本文芸家協会会員」とあります。(p358)
内容を少し紹介してみると、最初のページ(p147)にタイトルと禿頭のレーニンの写真があって、その下に、

-------
 レーニンの少年のころは、暖かい家族にかこまれた、元気のいいわんぱく小僧でした。
 しかし、その後、兄の死刑をさかいに、貧しい農民や労働者たちのために、血のにじむような苦労と努力を重ね、ついに革命の主人公になっていったのです。
 これは、そのレーニンの少年のころをまとめたものですが、平和で楽しい社会をつくるには、人びとが力を合わせ、手を握っていかねばならない、ということを、知ることでしょう。
-------

という一文があり、次のページから本文となって、

-------
(一)誕生日

 きょうはウリヤーノフ家の、三番めの子どものウォロージャのお誕生日です。
 食堂であたたかい料理の湯気をかこんで、父と母、そして六つちがいの姉のアンナ、四つちがいの兄のアレクサンドル、それにやっといすにすわれるようになった妹のオーリャたちが、この日の主役のウォロージャを、え顔でつつんでいました。
 ウォロージャは、まるまるふとったからだを、さらさ模様のルバシカ(ロシア風のつめえりの男性用うわぎ)につつみ、ひろい額に赤いまき毛が、かわいくたれさがった顔を、母のほうにむけて、小さい口をひらき、
「ワルワーラ、おそいね」
と、いすの下で、足をばたつかせながら、子どもに似合わない、大きな声でいいました。かれはすこしもじっとしていられない、元気にあふれた、いたずらっ子でした。
 ワルワーラは、ウォロージャが生まれたときにきたうばです。そのうばが買い物にでかけて、まだ帰ってこないのを、みんなで待っていたのです。
 よいにおいのライラックの白い花が食卓をかざり、卵や肉、ソーセージのごちそうが、おいしそうな湯気をたてています。
「おにいちゃま、おたんじょび、おめでと。」
 オーリャのたどたどしい片言がおかしくて、家族の笑いがとまりません。
 父イリヤは、教育者らしい、ゆったりとしたおだやかなまなざしで、満足そうに家族たちをながめまわしています。
「まあ、まあ、おそくなってすみません。」
 うばのワルワーラが、もめんの大きなスカートをゆさぶるようにして、へやにはいってきました。よほどいそいできたのでしょう。赤い顔に汗をかき、大きな箱をかかえて息をきらしています。
「はい、ぼっちゃま。これは、わたしからのお誕生日のプレゼントですよ。」
といって、その包みをウォロージャの両手におしこむようにして、手わたしました。
「わーい、なんだろう。まえのときのように、ねずみとりのおもちゃでないといいがな・・・。」
「ウォロージャ、そのいい方はいけません。ちゃんとお礼をいうものですよ。」
 母マリアは、しずかに少しきびしく、ウォロージャをたしなめました。
 ウォロージャは、首をすくめ、ひょうきんな顔をして、ぺろっと舌をだしました。それでもすなおに、
「ばあや、ありがとう。」
というなり、包み紙をびりびりと、やぶいていきました。
「わあー、馬だ、馬だ。」
 ウォロージャは、喜びの声をあげ、いすからとびおりました。それは三頭立ての張り子の馬のついた、そりのおもちゃでした。かれはそれを頭の上に高く持ちあげ、テーブルのまわりをとびはねるようにして、ぐるぐるとまわっていましたが、やがてとびらの外へかけだしていきました。
「ぼっちゃま、ぼっちゃま、ころびますよ。」
 大きな頭を前のめりに、ころびそうな足どりでかけていくウォロージャのあとを、うばのワルワーラが追おうとしました。
-------

といった具合に、まあ、児童書ですから、ほのぼのとした文体で続きます。
ただ、このおもちゃの馬のエピソードも結末はあまりほのぼのとはしていないのですが、長くなるので、いったん切ります。
 

H・カレーヌ=ダンコース『レーニンとは何だったのか』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月 9日(木)10時41分28秒
編集済
  >筆綾丸さん
ご紹介の記事、グーグル翻訳で英語で読んでみましたが、私は最近のロシアではソ連礼賛、スターリン礼賛の勢力がもう少し強くなっているような印象を受けていたので、ちょっと意外でした。

『スターリン 青春と革命の時代』 は面白すぎて、本文だけで六百ページを軽く超える厚さなのに、あっさり読めてしまいました。
これでスターリンは一応押さえたので、後はレーニンとトロツキーかなと思って、とりあえずエレーヌ・カレーヌ=ダンコースの『レーニンとは何だったのか』(石崎晴己・東松秀雄訳、藤原書店、2006、原著は1998刊)を読み始めたのですが、最初の方に筆綾丸さんが言及されたレーニンの家系がかなり詳しく出ていますね。(p22以下)

------
 伝説の語るところとは逆に、若きウリヤーノフの家は貧しくもなければ労働者階級に属してもいない。彼が育つ家は広々とした立派な家で、二階建であり、これは相対的繁栄の印である。何人もの召使が奉公していた。これはまさしく、数学の教師を経て、シンビルスク地方の公立学校の視学という、人も羨むポストに任命された一家の長としては当たり前の暮らし向きである。未来のレーニンの父親、イリヤ・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフは、長い間、十月革命の英雄を農奴出身とするための根拠とされてきた。確かに曾祖父にヴァシーリー・ウリヤノフという農奴はいたが、彼は一八六一年の改革〔農奴解放〕よりもずっと早い時期に解放されていた。【中略】彼は町に住むことになり、こうして始まった社会的地位の上昇を彼の子孫はさらに継承したのである。息子ニコライ・ヴァシーリエヴィチはアストラハンで仕立屋を営んだ。孫のイリヤ・ニコラーエヴィチはレーニンの父であるが、カザン大学で数学を勉強し、前述のごとく教授となり、総視学となり、とうとう国務院参事官の地位にまで昇りつめ、これにより世襲貴族の地位に到達した。農奴から勲章に身を飾る貴族へと、わずか三世代で昇りつめたのだから、まことに急速な上昇であった。
------

アストラハンはヴォルガ川沿いの街ですが、ウラル海に近い場所で、シンビルスク(現ウリヤノフスク)とは直線距離でも千キロメートルくらい離れてますね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Astrakhan

------
 このイリヤ・ニコラーエヴィチ・ウリヤーノフという人物は、ロシア帝国を代表するような顕著な特質を備えていた。つまりこの上なく異なる文明と民族の坩堝たりうるという特質である。彼はもちろんロシア人だが、その母親はカルムイク人であった。彼女はモンゴルの血を引き、アストラハンで結婚した。エカチェリーナ二世によって自治権が制限された後、ロシアに留まったカルムイク人の大部分は、仏教を捨てて、アストラハンに居住していた。レーニンが父親と同じく、かなり目立ったアジア系の風貌をしており、特に切れ長の目をしていたのは、この祖母の血によるものである。カルムイクの血を引くことは、父親が貴族に列せられる妨げにはいささかもならなかったのである。
------

ウィキペディアの写真で見ると、レーニンの父親は確かに「かなり目立ったアジア系の風貌」をしていて、特に頭の形が独特ですね。
名前を隠して写真だけ見せられたら、何だか明治の元勲にこんな人がいたような感じもしてきそうです。

Ilya Nikolayevich Ulyanov(1831-86)
https://en.wikipedia.org/wiki/Ilya_Ulyanov

------
 このイリヤはマリヤ・アレクサンドロヴナ・ブランクと結婚したが、これによって家系はさらに複雑になった。将来レーニンとなる人物の母方の祖父、アレクサンドル・ディミトリエヴィチ・ブランクはジトーミルのユダヤ人で、ユダヤ商人とスウェーデン人女性との子供であった。彼は正教会に改宗し、それによって彼にはあらゆる門戸が開かれた。医学部、要職─彼は警察医、次いで病院医に任命された─、そしてとりわけ世襲貴族の門戸が開かれ、この地位に彼は一八四七年に到達した。彼はまた領地としてコクシキノ村を買うが、これは困難な時期にレーニンの母とその子供たちにとって収入源あるいは避難場所となる。ロシア帝国ではユダヤ人は原則として公職から遠ざけられ、土地の所有も不可能であったことを考えるなら、この驚くべき上昇は、ロシアの大歴史家、レオナルド・シャピーロが力強く主張していることの確証となる。つまりロシアの権力はユダヤ人がユダヤ人のアイデンティティーを主張すると直ちに敵意を持ったが、改宗するとなるとユダヤ人を対象とするあらゆる禁止が取り払われたのである。
------

ジトーミルはウクライナ西部、キエフの百キロメートルほど西にある街ですね。
ただ、ウィキペディアによれば、レーニンの母はウクライナのジトーミルではなく、セント・ペテルスブルクで生まれたそうですね。

------
Ulyanova was one of six children born in Saint Petersburg. Her father was Alexandr Blank (born Israel Blank), a well-to-do physician, who was a Jewish convert to Orthodox Christianity. Her mother, Anna Ivanovna Groschopf, was the daughter of a German father, Johann Groschopf, and a Swedish mother, Anna Östedt.
In 1838, Ulyanova's mother died and her father turned to his sister-in-law, Ekaterina von Essen, to help raise the children. Together they bought a country estate near Kazan and moved the family there.

https://en.wikipedia.org/wiki/Maria_Alexandrovna_Ulyanova

そして、レーニンの母方の祖父、アレクサンドル・ディミトリエヴィチ・ブランクが領地として買ったコクシキノ村は、ウィキペディアの記述を見るとカザン近郊のようで、カザンでレーニンの母と父の接点ができたようですね。

------
After marrying Ilya Nikolayevich Ulyanov, an upwardly mobile teacher of mathematics and physics, the couple lived in moderate prosperity in Penza. Later, they moved to Nizhny Novgorod and then Simbirsk, where Ulyanov took up a prestigious position as an inspector of primary schools.
------

結婚後、二人はペンザ、ニジニ・ノヴゴロド、シンビルスクとヴォルガ川沿いの地域で転居を重ね、シンビルスクでレーニンが生まれる訳ですね。
血統だけでなく、レーニンの祖父母の代からの居住地を見てもなかなか複雑かつ広汎で、ソ連の雄大さを感じさせます。
 

百年の孤独

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年11月 8日(水)12時46分28秒
編集済
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95
ナージャ・アリルーエワの写真を見て、ヴァージニア・ウルフに似ているな、と思ったのですが、比べると、そうでもないですね。

http://www.rfi.fr/europe/20171106-octobre-1917-heritage-controverse-revolution-russe
フランスの国営ラジオ放送局 rfi にしては珍しいのですが、十月革命について比較的長い記事を載せています。閑古鳥が鳴くような百年記念の祭典だったらしく、本文二行目に、

Une centaine de personnes assiste à un spectacle son et lumière consacré à la révolution,

革命を寿ぐ音と光の祭典の参加者は百人位、とあって、centenaire(百年祭)に une centaine(百人位)の参加者というのは、符節が合いすぎていて笑いを誘いますね。革命について、肯定者と否定者の意見がバランスよく紹介されていますが、なかには、

entre 1921 et 1954, il y a eu 3 millions de personnes arrêtées, c’est vrai, mais il n’y a eu que 600 000 condamnations à mort.・・・

1921~1954の間、三百万人が逮捕されたのは確かだが、しかし、死刑宣告を受けたのは六十万人にすぎない(それは負の側面であって、スターリンの政治はソ連に多大の利益をもたらしたのだ)、とスターリンを肯定する若者もいて、場所がサンクトペテルブルクの冬の宮殿前広場だけに、『罪と罰』のラスコーリニコフのような青年は、現在も、ロシアにうろうろしているんだな、と思いました。要するに、理解するのが難しい国ではありますね。

http://www.rfi.fr/europe/20171106-video-revolution-russe-1917-destin-etonnant-statues-lenine
これは世界各国にあるレーニン像の栄枯盛衰物語です。


http://eumag.jp/questions/f1014/
欧州逮捕状に関して、簡単な説明がありますね。
 

ナージャの母、若しくはボリシェビキの妖婦

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月 5日(日)09時22分54秒
編集済
  『スターリン 青春と革命の時代』 はピカレスク・ロマンの趣があって、けっこう面白いというか、ノンフィクションなのにこんなに面白くて良いのだろうか、みたいな感じもしてきますね。
例えばナージャ・アリルーエワの父母について、次のような記述があります。(p215以下)

------
第13章 ボリシェビキの妖婦

 アリルーエフ一家はやがてスターリンと身内同士になり、スターリンと共に、監獄と死と陰謀のこの世界から権力の絶頂へと旅をし、それからまた、スターリン自身の手により、監獄と死と陰謀の世界へと逆戻りさせられることになるだろう。
 セルゲイは「ジプシーの先祖に似て魅力的で冒険好きな男だった。彼はよく喧嘩をした。誰かが労働者たちにひどい扱いをすれば、その男を叩きのめした」。妻のオリガ(旧姓フェドレンコ)は「灰色がかった緑の目をした金髪の本当の美人」だったが、性的に奔放な、マルクス主義者の妖婦だった。オリガは「しょっちゅう男たちと恋に落ちた」と彼女の孫スヴェトラーナ〔スターリンの娘〕は書いている。
 オリガの両親はドイツ系で、大きな志を持ち、オリガに高い望みをかけて一生懸命働いていた。しかし、当時二十七歳のセルゲイ・アリルーエフが下宿人になった。セルゲイは農奴出身の整備工でジプシーのルーツを持ち、十二歳から働いていた。オリガは十三歳になったばかりで、地元のソーセージ製造職人に嫁ぐことが決まっていたが、この下宿人と恋に落ちた。二人は駆け落ちした。父親は鞭を手にしてセルゲイを追跡したが、間に合わなかった。セルゲイとオリガは革命運動に熱中し、その一方で娘二人、息子二人の家庭を築いた。
 アリルーエフ家の末娘ナジェージダ(ナージャ)はまだ赤ん坊だったが、年上の子供たちはこの落ち着かない淫乱な母親と大義に献身的な家族と共に成長した。この家は絶えず顔ぶれが入れ替わる若い陰謀家たちでにぎわっていた。とりわけそれは謎めいていて、神秘的で、一家の母親の趣味に合った陰謀家たちだった。グルジア人は彼女のタイプだった。「時折、彼女はポーランド人、ハンガリー人、ブルガリア人と、さらにはトルコ人とも浮気した」とスヴェトラーナは言っている。「彼女の好みは南方の男で、時々『ロシア人の男は田舎者だわ』と腹を立てることがあった」
 オリガ・アリルーエワのお好みは、レーニンの沈思熟考型の特使で目下シベリア流刑中のヴィクトル・クルナトフスキー、そしてスターリンだった。彼女の息子パーヴェル・アリルーエフは、母親が最初にスターリン、それからクルナトフスキーを追い回したとぼやいていたらしい。母親がその両方と寝たことを認めたと、ナージャが言ったという主張がある。孫のスヴェトラーナがはっきり書いているところによると、オリガは「常にスターリンに弱いところを持っていた」。しかし、「子供たちはこのことと折り合いをつけていた。情事は遅かれ早かれ終わり、家庭生活はそのまま続いた」
 情事は実際にあったように聞こえる。そうだとしても、それはこの時代にはよくあることだった。
-------

こういう家庭に育ったにしてはナージャ・アリルーエワはずいぶん生真面目な女性に成長したようですが、そうはいっても、ボルシェビキのような異常な人たちの集団の中では比較的マシだっただけ、という感じもします。
ボルシェビキはウラジミール・レーニン以下、問題が生じるのは「敵」が破壊工作をしているからだ、問題を解決するには「敵」を皆殺しにすればよい、という共通の確信を抱いていた人々で、要するに基本的に頭のおかしい狂暴な人たちの集団ですね。
ナージャも内乱期にはボルシェビキによる凄まじい殺戮を間近で見て、完全にそれに同調していた人ですが、農業集団化に際して無抵抗な農民を虐殺し、餓死に追い込んだ点は、親しい友人だったブハーリンの影響もあって、さすがにやりすぎだろうという懸念を持った程度だったようですね。

Nadezhda Alliluyeva(1901-32)
https://en.wikipedia.org/wiki/Nadezhda_Alliluyeva
 

『スターリン 青春と革命の時代』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月 4日(土)12時26分57秒
編集済
  『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』は、かねてから不思議に思っていたトハチェフスキー元帥以下の赤軍大粛清の経緯についてある程度理解できたのでいったん打ち切り、時代を遡って、同じ著者の『スターリン 青春と革命の時代』(松本幸重訳、白水社、2010)を読み始めてみました。
原著の発行は『Stalin: The Court of the Red Tsar』が2003年、『Young Stalin』が2007年ですが、翻訳は前者上下巻が2010年2月、後者が同年3月で、白水社はほぼ同時期に三冊、合計約二千ページの訳書を出したのですね。
白水社サイトの紹介はずいぶんあっさりしているので、アマゾンの商品説明を転記すると、

-------
《「若きスターリン」の実像》
 スターリンの後半生を描いた前作『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』に続き、謎に包まれた前半生を描いた、評伝二部作の第2弾。
 一八七八年、グルジアの貧しい靴職人の家庭に生まれ育ったスターリンは、神学校在学中にマルクス主義に目覚め、聖職者になる道を捨てる。同志たちとデモやストライキなど労働運動を始め、コーカサス地方一帯で頭角を現す。また、銀行強盗や強請り、殺人や放火などで活動資金を調達するようになる。
 その後、度重なる逮捕・投獄・脱走・流刑を経験し、数多の女性関係ももった。最初の結婚では家庭を顧みず、若妻カトは息子を遺して病死。流刑地では落とし子をもうけ、後には二十歳も年下の妻ナージャをめとることとなる。
 やがてスターリンは、亡命中のレーニンに活躍が認められ、地方の活動家からロシアの活動家へと転身し、ボリシェヴィキ中央委員に選出される。しかし一九一二年、二月革命後、酷寒のシベリアに四年間も流刑される。やがて帰国したレーニンの腹心となり、一九一七年、十月革命の成功後、レーニン首班の一員となる。
 グルジア公文書の最新公開資料が、「若きスターリン」の知られざる実像を明かしてくれた。故郷コーカサス人の派閥、強盗の頭目で幼馴染のカモー、二度の結婚と派手な女性遍歴、レーニンやトロツキーとの複雑な関係など、驚愕のエピソードが満載だ。まさに独裁者誕生の源流に迫った、画期的な伝記。映画化進行中。
-------

といった具合いですが、映画化は中止になったようですね。
若干重複しますが、「序論」から少し引用してみます。(p15以下)

-------
 若き日のスターリンに関する研究はわずかである(若い頃のヒトラーに関する多くの研究に比べれば)。しかし、これは資料がきわめて少ないように見えたからだ。だが、実際はそうではない。彼の子供時代、そして革命家、ギャング、詩人、神学生、夫、行く先々で女性と庶子を見捨てる女たらしとしての経歴をよみがえらせる大量の生々しい新資料が、新たに解放された各地の公文書館に、とりわけ、これまでとかく軽視されがちだったグルジアの公文書館に潜んでいた。
 スターリンの若年期は謎に包まれていたかもしれない。しかし、それはレーニンやトロツキーの若い時代とまったく同じように並外れていたし、あるいはもっと波乱に富んでいたとさえ言える。そしてそれが彼に数々の勝利と悲劇のための、最高権力獲得のための身支度を調えさせたのだ(そして同時にダメージをも残した)。
 スターリンの革命前の働きと犯罪は、知られていたよりもはるかに大きかった。銀行強盗、みかじめ料稼ぎ、ゆすり、放火、海賊行為、殺人(政治的ギャング行為)で彼が果たした役割を、初めて史料で証明することができる。これらの行為こそレーニンに感銘を与えたのであり、スターリンはソヴィエトの政治ジャングルの中ですこぶる有益な技術を仕込んだのである。しかしまた、彼が単なるギャングのゴッドファーザーをはるかに超えていたことも示すことができる。彼は政治的オルガナイザー、行動家であり、そして帝政側の治安機関に浸透する名人でもあった。大政治家としての名声が、皮肉なことに大テロルにおけるみずからの破滅に立脚しているジノヴィエフ、カーメネフ、あるいはブハーリンとは対照的に、スターリンは一身の危険を冒すことを恐れなかった。けれども彼がレーニンに感銘を与えたのはまた、年長のレーニンと対立し意見を異にすることを決して恐れない、独立の思慮深い政治家、精力的な編集者、ジャーナリストでもあったからだ。スターリンの成功の源となったのは、少なくとも一つには教育(神学校での)と街路での暴力行為の特異な結合である─彼はそのまれなる結合であって、「インテリ」と殺し屋が一身に同居していた。一九一七年にレーニンがその暴力的な、窮地に立たされた革命のための理想の副官としてスターリンを頼りにしたのは、不思議でもなんでもない。
------

スターリンが1907年6月にグルジアのチフリスで起こした「銀行強盗」は「プロローグ」で詳しく紹介されていますが、堅固な銀行支店にピストルを持った強盗団が乗り込むのかと思ったら、スターリン配下のギャング20人が、警官とコサック騎兵に囲まれた現金輸送中の馬車二台の下に手製の手榴弾(愛称は「りんご」)を10個以上投げ込み、同時に警官・コサック騎兵を周囲から銃撃して無辜の通行人を含め約40人を殺害したという荒っぽいもので、殆ど西部劇の世界ですね。

>筆綾丸さん
>カタルーニャ
カタルーニャの独立運動についてエマニュエル・トッドはかなり冷ややかな書き方をしていましたね。
法的問題については法律雑誌で特集が組まれるでしょうから、面白そうな記事や論文があれば紹介したいと思います。
 

亡命か送還か

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年11月 3日(金)13時24分17秒
編集済
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
Sebag と Jaffé がユダヤ系の姓なのでしょうね。Montefiore はイタリア語で「花の山」ですが、そういえば、花山院という風変わりな人もいました。月岡芳年の画は、不謹慎ながら、哀れっぽくて笑えます。

http://www.rfi.fr/europe/20171102-catalogne-huit-anciens-ministres-places-detention-provisoire-puigdemont
カタルーニャ州政府の元閣僚達が sédition, rébellion et détournement de fonds publics(暴動、内乱、公金横領)の疑いで中央政府の司法当局に拘束された、とありますが、とうとう、ここまでこじれてしまったのですね。Haute trahison(国家反逆)という言葉はまだ使われていませんが。ベルギーに逃亡(?)した Carles Puigdemont は、本国に強制送還されるのか、亡命が認められるのか、EU内における難しい国家間問題になりました。
法律の専門家には興味深い問題かもしれませんが、日本で法律論が話題になることはないでしょうね。  
 

「第1部 素晴らしかったあの頃─スターリンとナージャ」

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月 2日(木)10時53分39秒
編集済
  サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ氏の名前にはイタリア系っぽい響きがありますが、ウィキペディアを見ると、

--------
His father was Stephen Eric Sebag Montefiore and his brother is Hugh Sebag-Montefiore. They are descended from a line of wealthy Sephardi Jews who were diplomats and bankers all over Europe and who originated from Morocco and Italy. At the start of the 19th century, his great-great-uncle, Sir Moses Montefiore, was an international financier who worked with the Rothschild family and who became a philanthropist.

https://en.wikipedia.org/wiki/Simon_Sebag_Montefiore

ということで、父方の先祖はモロッコとイタリアに遡り、ロスチャイルドとも密接な関係を持つ富裕なユダヤ一族の人なんですね。
母方もユダヤ系ですが、

-------
His mother, Phyllis April Jaffé, comes from a Lithuanian Jewish family of scholars. Her parents fled the Russian Empire at the beginning of the 20th century. They bought tickets for New York City, but were cheated, being instead dropped off at Cork, Ireland. Due to the Limerick boycott in 1904 his grandfather Henry Jaffé left the country and moved to Newcastle, England.
-------

ということで、母親の両親はリトアニアに住んでいたんですね。
20世紀初頭、ロシア帝国の支配を逃れてニューヨークに行こうとしたものの、騙されてアイルランドのコークで降ろされてしまい、そこからイングランドのニューキャッスルに移動した訳ですね。
Limerick boycott は知りませんでしたが、Limerick は「五行詩」ではなくアイルランドの地名で、ここで一種のポグロムがあったということですね。

Limerick boycott
https://en.wikipedia.org/wiki/Limerick_boycott

さて、『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』は次のような文章で始まります。(p25以下)

--------
プロローグ
革命記念日の祝宴
一九三二年十一月八日

 一九三二年十一月八日、夕方の七時ごろ、ボリシェビキ党書記長スターリンの妻ナージャ・アリルーエワは、革命十五周年祝賀パーティーに備えて身づくろいをしていた。毎年の革命記念日の翌日、幹部たちは内輪のパーティーを開いて大騒ぎするのが恒例だった。面長の顔に茶色の目をした三十一歳のナージャは倫理観の強い真面目な女性だったが、繊細で傷つきやすい一面もあった。自分が「ボリシェビキにふさわしい質素な生活」をしていることが誇りで、普段は至って地味な装いだった。着古したスカート、無地のショール、四角い襟のブラウスという姿で、化粧はほとんどしなかった。しかし、今夜はさすがのナージャも装いを凝らしていた。スターリン夫婦の住まいは、十七世紀に建てられた二階建てのポテシュヌイ宮殿の中の陰気な一角にあったが、その一室で姉のアンナの方にくるりと向き直ったナージャは、赤いバラの刺繍をふんだんにあしらった黒のロングドレスを身にまとっていた。場違いなほどにファッショナブルなそのドレスはベルリン仕立てだった。いつもはさりげなく束ねて丸めただけの髪も、今夜は「最新流行の髪形」に仕上がっていた。遊び心からか、黒髪には真紅のティーローズの花が一輪挿してあった。
 パーティーには、首相のモロトフをはじめボリシェビキ党の有力者たちが妻を同伴して出席するのが恒例だった。モロトフの妻ポリーナは頭の切れる、すらっとした体つきの、なまめかしい女性でナージャとは親友の間柄だった。例年、パーティーの主催者を務めるのは国防人民委員のヴォロシーロフだったが、パーティーの会場となるヴォロシーロフの住所はポテシュヌイ宮殿とは小路をはさんでほんの数歩の距離にある細長い旧騎兵隊宿舎にあった。ボリシェビキのエリートたちは仲間内でたわいのないパーティーを開いてたのしむことがたびたびあったが、その種のパーティーでは有力者たちが女性をまじえてコサック風のダンスを踊り、最後には哀調をおびたグルジアの歌を歌って締めくくるのが決まりだった。しかし、この夜のパーティーはいつもと同じようには無事に終わらないであろう。
--------

「ナージャは倫理観の強い真面目な女性だったが、繊細で傷つきやすい一面もあった」とありますが、この後、約二百ページ続く「第1部 素晴らしかったあの頃─スターリンとナージャ」の随所に描かれたナージャ・アリルーエワの過去と当時の行動を見ると、精神的に少し病んでいたような印象を受けます。
死亡当時の描写の引用は省略しますが、やはり自殺だった可能性が高いようですね。
 

『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年11月 1日(水)10時19分32秒
  サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』(染谷徹訳、白水社、2010)は上巻だけで635ページという結構な分量で、やっと上巻の半分ほどを読んでみましたが、これは良い本ですね。
日経新聞2010年3月21日の書評で青山学院大学教授・袴田茂樹氏が、

-------
 スターリンについて、彼の広範な人間関係、家族関係や日常生活まで、ここまで掘り下げて生き生きと描いた本はない。その生々しさは、例えは悪いが、週刊誌のゴシップ記事並みで、読者の好奇心を大いに満たしてくれる。全巻、その場に居合わせたような具体的描写の連続で、エジョフ、ベリヤなどが陣頭指揮した血のしたたる政治的粛清、モロトフ、ジダーノフ、ミコヤンなどスターリンを取り巻くソ連の貴族たちの凄惨(せいさん)な権力闘争、彼らの奢(おご)った生活や淫(みだ)らな私生活などが極彩色で描かれている。その迫力ゆえに、上、下2巻千数百頁(ページ)を一気に読ませる力を持っている。
 著者は膨大な資料を漁り、新資料を発掘し、多くの関係者へのインタビューを行った。これを超えるスターリン伝は今後も出ないだろう。

https://www.nikkei.com/article/DGXDZO04373870Q0A320C1MZA000/

と書かれていますが、まるで映像を見るような詳細な描写は確かに大変な迫力です。
ロシア・ソ連史に全くの素人だった私がナージャ・アリルーエワに着目したのは我ながら良い選択でした。
スターリンの人生の中で、アリルーエワの死ほどスターリンの異常に強靭な精神に影響を与えた出来事は他に見当たらないですね。
「鋼鉄の男」スターリンがその75年の人生において茫然自失、情けない腑抜け男となったのはたった二回だけで、最初が1932年11月のナージャ・アリルーエワの死に際して、二回目は1941年6月、ヒトラーに騙されてドイツ国防軍の電撃侵攻を許した時ですが、後者の際は間もなく回復して、獅子奮迅の勢いで最高戦争指導者としての活動を開始しています。
しかし、アリルーエワの死がもたらした精神的衝撃は、革命と内乱の渦中で夥しい殺戮を行なった後でもスターリンに僅かに残されていた「人間性」を最終的に消滅させたようで、その影響は非常に長引きますね。
 

『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年10月30日(月)10時06分40秒
編集済
  「シンビルスク郊外にあるチェレンガという田舎町」のモロゾフ家の出自については次のような説明があります。(p19以下)

------
 ワレンティン一家は姓をモロゾフといった。先祖は農民の出であったが、フョードルの祖父の代に商人に転じた。フョードルの父の代はまだ蝋燭を造って教会に納めていた程度だが、フョードルの時代になると故郷のチェレンガで雑貨商をいとなむいっぽう、広く交易に手を染めた。
 いちばん大きな仕事は犂などの農耕具をドイツから輸入することだった。次いで繊維製品。こちらは大部分がモスクワ製だが、高級品は英国から輸入する。金持の地主向けにフランスから<クリコ>印シャンパンを取り寄せたりした。
 日露戦争が終わり一九一〇年代に入ると、ロシア経済はめざましい成長をとげ、穀物などは年毎に輸出高を伸ばしていた。野心家で次々と新しい仕事に手を伸ばしたフョードルは、この波に乗った。そして一九一四年、第一次世界大戦が始まると政府の委託を受け、軍馬の徴用や軍服製造などの兵站活動も始めるようになった。町で初めて自転車というものを輸入して乗りまわしたのもフョードルなら、学校のなかった近郊農村のために資金を捻出して学校創設にこぎつけたのもワレンティンの父フョードルであった。いまではチェレンガの町で、フョードルは神父、獣医、農業技師などとならんで押しも押されぬ名士となっていた。
 しかしこの名士一家も、いまは人の目をのがれるように町を離れ、東へ、シベリアへ向かっている。この年三月、ペテルブルグで勃発し、じりじりと不吉な烽火を広げている革命のためである。
-------

「先祖は農民の出」とありますからユダヤ系ではないですね。
帝政ロシアではユダヤ人に農地経営を認めていませんから。
ま、要するに洋菓子のモロゾフ家の先祖は「田舎町」の小金持ちの商人であって、モスクワのモロゾフ財閥とは全く関係ない訳ですね。
チョコレートとの縁については、少し前にシルビンスクに住む「ナターシャ叔母さん」に関する記述があります。(p14以下)

-------
 ナターシャ叔母さんは父の妹にあたる人だった。家はシルビンスクの大通りに面していて、ピカピカに磨かれた硝子窓がはまっていた。町でいちばん早く電気を引いたのは叔母さんの家で、その夜は見物人が山のように押し寄せたそうだ。叔母さんは小さなチョコレート工場をもっていて、町一番の高級チョコレートを売っている。ワレンティンの家もチェレンガ一の雑貨商だが、とても叔母さんのところの比ではない。
-------

ただ、ワレンティン一家が洋菓子店をやろうと決めたのは、ハルビン、アメリカ・シアトルでの流浪の生活の後、やっと落ち着いた神戸で様々な商売の可能性を探り、洋菓子店がそれなりに有望そうだったからであって、「ナターシャ叔母さん」がチョコレート工場を持っていたこととの直接の関係はないですね。
ワレンティン一家とモロゾフ株式会社の関係については九年前にあれこれ書きましたが、少し検索してみたら現在はウィキペディアにもずいぶん詳しい記述がありますね。
ま、出典を見ると川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン』に全面的に依拠しているようですが。
ロシア語版も出来ていたので、リンクはそちらに張っておきます。

ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ(1911-99)
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%B7%D0%BE%D0%B2,_%D0%92%D0%B0%D0%BB%D0%B5%D0%BD%D1%82%D0%B8%D0%BD_%D0%A4%D1%91%D0%B4%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

川又一英氏についても九年前はウィキペディアの記事はなかったはずで、私はご著書の奥付やカバーの著者略歴から僅かな知識を得ていただけだったのですが、2004年に亡くなられていたのですね。

川又一英(1944-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8F%88%E4%B8%80%E8%8B%B1

>筆綾丸さん
>レーニンの血筋の複雑さ
ユダヤの血筋が入っている点については、レーニン没後、相当経ってからも政治的意味を持ち、公表すべきか否か問題になりましたね。
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち(上・下)』(染谷徹訳、白水社、2010)を読み始めたので、次の投稿が少し遅くなるかもしれません。

http://www.hakusuisha.co.jp/book/b205761.html
 

ウリヤノフ家

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年10月28日(土)15時43分30秒
編集済
  小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3
--------------
父方の祖父は解放農奴出身の仕立屋で民族的にはチュバシ系で、曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった(曾祖母はロシア人であったという)。この様に幾つもの民族や文化が混じるウリヤノフ家は帝政ロシアの慣習から見て「モルドヴィン人、カルムイク人、ユダヤ人、バルト・ドイツ人、スウェーデン人による混血」と定義された。
--------------
レーニンの血筋の複雑さには目が眩みますね。


https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784004316749
抵抗のある岩波新書ですが、高橋敏氏の『一茶の相続争い―北国街道柏原宿訴訟始末』は面白く読めました。一茶の場合、幕府の公的機関による公事(民事訴訟)ではないから、正確には「訴訟(始末)」とは言えないのでしょうが。

句碑の撰文末尾の五絶、
感神松下詠 知命暮鐘声
一自茶煙絶 科山月独明
を、
神を感ぜしむ松下の詠 命を知る暮の鐘声
一自茶煙絶え 科山の月独り明らかなり
と訓じていますが、これでは「一自茶煙絶」の意味が通じない(164~165頁)。「一自」はおそらく天保期の筆写の間違いで、「一度」であれば、「ひとたび茶煙絶え(一茶を火葬に附した煙が消えて)」となり、意味がわかります(あるいは「一目」か)。

http://www.sankei.com/life/news/171027/lif1710270034-n1.html
尊氏の肖像は、これでほぼ決まりでしょうね。
 

『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年10月27日(金)09時30分2秒
編集済
  『自壊する帝国』を読み終えてから、久しぶりに川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)を手に取ってみました。
「プロローグ」から少し引用してみます。

-------
 物語の主人公はワレンティンという名である。フル・ネームはワレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフと少々長い。名のとおりロシア人であるが、滞日すでに六十年になるから準日本人と呼んでもさしつかえあるまい。
 ワレンティンは英語読みではヴァレンタイン、今日の日本語表記ではバレンタインとすることが多い。そこで同人もみずからをバレンタイン・F・モロゾフと名乗っている。
 ひょっとして<バレンタイン・デー>に関係があるのではないか。勘のするどい読者は、ワレンティン(バレンタイン)の聖名〔クリスチャン・ネーム〕をもつ主人公に、そう思われるかもしれない。語り手〔わたし〕はここで結論を出すのは控えておく。
 ひとつだけ申し添えておくと、ワレンティンは日本におけるチョコレート菓子の創始者〔パイオニア〕として知られており、その手になる<コスモポリタンのチョコレート・キャンディ>といえば、今日高級洋菓子の代名詞ともなっている。それゆえ、チョコレートが飛び交う二月十四日〔バレンタイン・デー〕の珍現象もまんざら迷惑ではないことは容易に想像がつこう。
 さて、ワレンティンは大正十五年、父とともに洋菓子店を開業して以来、神戸に住んでいる。経営するコスモポリタン製菓の工場も本店も神戸にある。しかし毎年、バレンタイン・デーだけは上京して銀座支店の店頭に立つ。これはある新聞に<クラーク・ゲーブルとグレゴリー・ペックを足して二で割ったような>と書かれたワレンティンの恒例行事となっている。昭和四十九年のバレンタイン・デーすなわち二月十四日もそうであった。
-------

ということで、同日、投宿先の帝国ホテルでソルジェニーツィンがソ連政府によって西ドイツのフランクフルトに追放されたという新聞記事を見たワレンティンが、宛先も知らないままソルジェニーティンに無事の出国を祝福する電報を打とうとするエピソードが紹介されます。
次いで、

-------
 ワレンティンには国籍がない。いまは亡き父も母も同様である。一家は帝政ロシアに国籍を残したまま、二度と故国に戻らない亡命者〔エミグラント〕であった。亡命者にとって喪った故国の重みがどんなものか、島国で国家の保護下に生きてきた語り手〔わたし〕には想像の域を超える。
 われらの主人公がなぜ見ず知らずの作家ソルジェニーツィンに電報を打たずにはいられなかったか。語り手〔わたし〕はチョコレートとシャンパンの話をして以来、温厚な紳士に問いただしたことはない。
-------

との説明の後、ワレンティンの出生地について、

-------
〔カスピ海から〕この中部ロシアの大動脈ヴォルガ河を遡ること緯度にして十度弱、樺太の最北端に当たる地点にウリヤーノフスクという町がある。町出身の革命家レーニンの姓をとって現在はこう名づけられているが、革命前まではシンビルスクと呼ばれていたヴォルガ河畔有数の町である。
 物語の主人公ワレンティンが生まれたのは、このシンビルスク郊外にあるチェレンガという田舎町である。奇しくも愛の守護聖人ヴァレンティヌスと同じ聖名をなづけられたロシア少年がいかにしてチョコレート造りを始めるようになるか。またなぜ、地球を四分の一も東漸し、日本で暮らすようになるか。
 話はロシア革命が勃発した一九一七年、シンビルスクの町に遡る─。
-------

とあって、「プロローグ」が終わります。

ウリヤノフスク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF
 

『自壊する帝国』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年10月25日(水)22時41分4秒
編集済
  >筆綾丸さん
私は『自壊する帝国』(新潮社、2006)は未読だったのですが、今日、半分ほど読んでみました。

http://www.shinchosha.co.jp/book/475202/

モロゾフの話は佐藤氏が「モスクワ大学哲学部学生。沿バルト三国ラトビア共和国出身で金髪の美青年」であるサーシャに誘われて、リガ中心部から「車でニ十分程走った市の郊外」にある分離派の「白壁で囲まれた大きな修道院」を訪問した際の会話に出てきますね。(p166以下)

------
「サーシャ、スターリン時代にこの修道院はどうして閉じられなかったんだい」
「スターリンが教会を激しく弾圧したのは、一九二〇年代終わりから三〇年代初めまでだ。この時期にバルトはソ連に併合されていなかった。その後は教会には手をつけていない。スターリン自身が中退だけれども神学教育を受けているので、宗教の強さをよくわかっている。だから、弾圧すれば徹底的に抵抗する面倒な分離派には手をつけなかったんだ」
「フルシチョフ時代に相当数の教会が閉鎖されたけれど、あの嵐をどうやって乗り切ったんだい」
「モスクワのイデオロギー官僚は、リガに分離派の修道院があることを知らなかったのだと思う。知っていたら弾圧されていた。ラトビア共産党の官僚はこの修道院について、モスクワに告げ口をしなかったんだと思うよ」
「温情からかい」
「それも少しはあると思うが、分離派と構えると面倒なので、引いてしまったのだと思う」
「そうだろうな。ここの人たちは信念が強そうだからな。ところで分離派出身のインテリはいないのか」
「もちろんいるとは思うが、分離派はそもそも知性自体に悪魔性が潜んでいると考えるから、インテリとして社会的に認知されるとどうしても分離派の宗教共同体とは距離が出来る」
「この修道院の人々はどうやって食べているのだ」
「集団農場(コルホーズ)をもっているので、食糧はそこで自給し、それ以外の人々は工場で勤務している。帝政ロシア時代にも分離派出身の技師や労働者は結構いた。それから商人に多い。帝政ロシアのモロゾフ財閥も分離派だ」
「モロゾフ一族の一人が日本に亡命し、お菓子屋を作った。モロゾフという会社で、今もロシア風のチョコレート菓子(コンフェエート)を作っている」
「マサル、それは話の種になる。いちど土産にもってこい」
「わかった」
 私はモロゾフのチョコレート菓子を土産にし、日本の食文化にロシアが入っている例としてロシア人に説明すると、とても好評だった。北方領土を訪れるときもモロゾフのチョコレート菓子を必ず土産にもっていった。外交の世界で食に絡む話はよい小道具になる。
-------

時期は明確に特定されていませんが、1988年冬か翌89年春頃の話のようで、この当時から佐藤氏はモロゾフ財閥一族の亡命者が洋菓子のモロゾフを創業したと思い込み、社交の小ネタに使用していた訳ですね。
佐藤氏はこの修道院の名前を明示していませんが、

-------
 余談だが、後にこの修道院を訪問したことが、私の情報収集活動に思わぬ影響を与えることになる。前に述べたソ連維持運動の中心人物だった「黒い大佐」アルクスニスは、この修道院の関係者だったのである。
 政治犯として祖父が銃殺された後、中央アジアのカザフスタンに流刑になったアルクスニスの父親は、一九五六年、ソ連共産党第二十回大会のスターリン批判の結果、名誉回復がなされ、リガに戻った。このときこの修道院に住んでいた女性と知り合い、彼女がアルクスニスを産んだ。アルクスニスはこの修道院で洗礼を受けているのである。
-------

とのことで(p168)、特定は簡単にできそうです。

ヴィクトル・アルクスニス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%8B%E3%82%B9

佐藤氏は特に説明を加えていませんが、「黒い大佐」ヴィクトル・アルクスニスの祖父、ヤーコフ・アルクスニスは著名な将軍で、ソ連空軍の育成に大変な功績があったにも拘らず、大粛清に巻き込まれてしまった人ですね。
トハチェフスキー元帥の秘密裁判に審判団の一員として加わった後、自身もラトビアのファシスト組織を創設した疑いで逮捕され、銃殺されてしまったとか。

-------
In June 1937 Alknis sat on the board of the show trial against members of Trotskyist Anti-Soviet Military Organization; he himself was arrested on 23 November 1937, expelled from the Communist Party,charged with setting up a "Latvian fascist organization" and shot 28 July 1938.

https://en.wikipedia.org/wiki/Yakov_Alksnis
 

レンタル掲示板
/180