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武藤章とゾルゲ

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月20日(水)09時22分46秒
編集済
  >ザゲィムプレィアさん
>「恥も外聞もなく権力者に阿る人間」

先の投稿で私は、

------
富永の経歴を見ると、富永には指揮官としても参謀としても特別な才能はなさそうなのに陸軍軍人として高位高官を極めており、官僚に不可欠な何らかの傑出した才能があったのは間違いないですね。
それが高度なコミュニケーション能力、そして時と場合によっては相手が喜びそうな作り話を瞬時に創作する能力ではなかろうかというのが私の推測なのですが、ま、要するに富永は信用できない人間だな、ということです。
------

と書いており、「官僚に不可欠な何らかの傑出した才能」はアイロニカルな意味を含むことは明確にしていたつもりです。
ご指摘のように富永が東條に密着して出世したことは明らかですが、東條は非常に厳格な人間で、東條に気に入られるためにはそれなりの才能と努力が必要です。
東條のような極端に難しい上司に円滑に対応できたことは、富永に「官僚に不可欠な何らかの傑出した才能」「高度なコミュニケーション能力」があったことの例証だと私は思います。
もちろんそれは価値中立的な知的能力の問題であり、富永の人格に関する倫理的評価とは全く別です。
従って、「恥も外聞もなく権力者に阿る人間」という、おそらく陸軍内部でも当時から存在したであろう富永への評価と矛盾するものではありません。

>Wikipediaの武藤章の項に武藤とゾルゲに関係があった旨の記述がありました。

武藤章とゾルゲの関係については、例えば加藤哲郎氏の『ゾルゲ事件 覆された神話』(平凡社新書、2014)に次のような記述があります。(p21)

------
 事件の全貌も、解明されたとは言えなかった。一九三九年のノモンハン事件(ハルハ河戦争)の頃、日本軍内部にゾルゲと親しい軍エリートたちがいた。武藤章少将、馬奈木敬信大佐、山県有光少佐、西郷従吾少佐ら親独派将校は、ゾルゲに日本の軍事情報を流していた可能性が高いが、内務省に属する特高警察は、彼らを密かにリストアップできても、軍部にまで捜査を及ぼすことはできなかった(松崎昭一「ゾルゲと尾崎のはざま」、NHK取材班・下斗米伸夫『国際スパイ・ゾルゲの真実』角川書店、一九九二年)。
------

ウィキペディアの武藤章の項にある「リヒャルト・ゾルゲにかねてから軍務局長の名で全面的な情報提供を命じてた」という記述の注を見ると、

Jurius Mader Dr.-Sorge Report.1984

とありますが、これは未読、というか著者の名前も知らなかったのですが、東独で活動した人なんですね。
普通の研究者・著述家とはかなり異なる立場にいた人のようですね。

Julius Mader(1928-2000)
https://en.wikipedia.org/wiki/Julius_Mader
 
 

富永恭次に対する感想

 投稿者:ザゲィムプレィア  投稿日:2017年 9月20日(水)01時28分15秒
  >>小太郎さん
「陸軍軍人として高位高官を極めており、官僚に不可欠な何らかの傑出した才能があったのは間違いないですね。」
これに異議があります。富永の経歴を追いながらコメントしていきます。

1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。
 この時期東條が陸大教官を務めていて、コネができたと思われます。

この後、参謀本部系列のコースを進みます。
 いわゆるエリートコースで、詳細は省きますが駐ソ連大使館付武官補佐官、ジュネーブ海軍軍縮会議全権の随員も務めます。

1939年9月、参謀本部第1部長に就任。
 第1部長は少将のポストとして陸軍省軍務局長と並ぶ栄職ですが、この就任は前任の橋本群がノモンハン事件の責任を取ったことに起因するもので
 第4部長だった富永が急遽横滑りした可能性があります。

1940年9月、第1部長を停職
 北部仏印進駐に際して現地に出張し、参謀本部の威光で現地指揮官を唆し必要のない武力侵攻を行わせ日仏双方に犠牲を出したためです。

1941年4月、陸軍省人事局長。
 東條大臣の意向であることは明らかで、その腹は「不遇なやつに蜘蛛の糸を垂らしてやれば、恩人のためによく働くだろう」でしょうか。
 翌年武藤軍務局長が南方の占領地を視察中に更迭され、帰国時に通告されるという異常な事件がありました。東條の意向と思われますが、
 富永人事局長でなければ起きなかったのではないでしょうか。

1943年(昭和18年)3月、陸軍次官となり人事局長事務取扱を兼任する。
 東條の発案でしょうが、大戦争の最中に要職の次官と人事局長を兼任するとは無責任や恥知らずでも言葉が足りない気がします。
 次官を務めた時期は枢軸国の頽勢と連合国の攻勢が明らかになり、日本は抜本的な戦略の転換が必要だったはずですがそれは行われていません。
 東條にイエスマンであることを期待され次官にされたのかと疑いたくなります。

1944年(昭和19年)7月、東條内閣総辞職。

1944年8月、第4航空軍司令官。
 高級官僚の上の方は、失脚しても何かやらかさない限りあからさまな左遷はされません。
 これも陸軍中将である次官の転出先として恥ずかしくないものして選ばれたものでしょう。
 しかし、富永にとって未経験の航空は有難くなかったでしょうし、普通の師団長でよかったのでないかと思います。
 結果的に第4航空軍はアメリカと激戦を行うことになり、本人にとっても部下の将兵にとっても不幸なことでした。

上記記述を読み返した上での富永に対する感想は、「恥も外聞もなく権力者に阿る人間」です。
大佐までは順調な経歴ですが、傑出した才能は見出せません。

参考にしたサイト
http://kitabatake.world.coocan.jp/rikukaigun7.html#参謀本部第一部長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%81%AD%E6%AC%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F


本題から逸れるのですが、Wikipediaの武藤章の項に武藤とゾルゲに関係があった旨の記述がありました。
眉唾なのですが、念のため週末に引用されている資料を調べるつもりです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
 

プチ結論・富永恭次のエピソードについて

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月19日(火)11時44分37秒
編集済
  レオポルド・トレッペルの自伝『ヒトラーが恐れた男』(堀内一郎訳、三笠書房、1978)は読者をグイグイ惹きつけてページをめくらせる魅力的な本ですが、アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(坂内知子訳、平凡社、1992)は更に面白い、と言うと扱っているテーマの残酷さから若干の不謹慎な感じは否めないものの、とにかくこの女性がストーリーテラーとして抜群の才能を持っていることは明らかですね。
ただ、それは彼女の記述の正確性とは別の話であり、コミンテルンの裏話の中で、例えば片山潜の娘をめぐる出来事(p100以下)は極めて生き生きと描写されていて、これだけ見れば真実と思わざるをえない書き方になっていますが、加藤哲郎氏の『モスクワで粛清された日本人─30年代共産党と国崎定洞・山本懸蔵の悲劇』(青木書店、1994)を読むと、やはり日本側の記録ときちんと照らし合わせなけば正確な事実は出て来ないなと思わされます。
さて、石堂清倫の「リヒアルト・ゾルゲについて」(『異端の視点─変革と人間と』所収)には、トレッペル自伝に出てくるゾルゲと日本側捕虜との身柄交換云々の話にはアイノ・クーシネン自伝という全く別ルートでの裏付けがあるように書いてありますが、実際にアイノ・クーシネン自伝を確認してみたら、アイノ・クーシネンがゾルゲの気持ちを推測しただけで、日ソ間の身柄交換に関する具体的交渉の存在を伺わせる事実の指摘は全くありませんでした。
となると、本当にこの身柄交換の話が存在したかについては、今のところトレッペルの記述以外に手掛りはありませんが、そうなると、まず最初に富永が正確な事実をトレッペルに語ったかが問題となり、次いでトレッペルが富永の言動を正確に再現しているかが問題となります。
二番目の問題については、私はトレッペル自伝を全部読んでみた感想として、トレッペルが自分の経験を100%包み隠さず述べた訳ではなく、若干の意図的な改変はあると思いますが、それは諸々の事情で正確に書けないことを曖昧にした程度であって、全くの捏造、それも自分の活動とは全然関係のない獄中エピソード程度の軽い話題でそうした捏造を行うことは有り得ないと思います。
では、富永がトレッペルに正確な事実を語ったかというと、これは相当疑わしい感じがしますね。
改めてトレッペルの記述を確認すると、

-------
「あなたはリヒャルト・ゾルゲについて何かご存じですか?」とわたしは彼に尋ねた。
「もちろんです、ゾルゲ事件が起きたとき、わたしは陸軍省の次官だったんです」
「それならうかがいますが、なぜ、ゾルゲは一九四一年の終わりに死刑を宣告され、一九四四年の十一月七日になってついに銃殺されたのですか? 日本とソ連はまだ交戦状態になかったのに」
 彼はすばやく、わたしの言葉をさえぎった。
「それはまったく間違いです。われわれは再三再四、東京のソ連大使館にゾルゲと日本人捕虜の交換を要求しました。そのたびにわれわれは同じ答えに遭いました。『リヒャルト・ゾルゲという名前は知らない』と」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/9066

ということで、トレッペルが最初にゾルゲに言及し、なぜ死刑にしたかを質問しています。
「なぜ、ゾルゲは一九四一年の終わりに死刑を宣告され、一九四四年の十一月七日になってついに銃殺されたのですか?」という表現は、あるいは読者の読みやすさへの配慮として若干の説明を付加したのかもしれせんが、ロシア革命の記念日を選んで死刑にしていることは周知の事実ですから、トレッペルがこう聞いたとしても不思議ではないですね。
さて、この問いに「すばやく、わたしの言葉をさえぎった」富永の回答ですが、富永は多言語に通じ、コミュニケーション能力が極めて高い人間ですから、トレッペルからゾルゲの名前が出た瞬間、相手が関心を持ちそうな方向を察知し、上手に話を作った可能性はありそうな感じがします。
富永の経歴を見ると、富永には指揮官としても参謀としても特別な才能はなさそうなのに陸軍軍人として高位高官を極めており、官僚に不可欠な何らかの傑出した才能があったのは間違いないですね。
それが高度なコミュニケーション能力、そして時と場合によっては相手が喜びそうな作り話を瞬時に創作する能力ではなかろうかというのが私の推測なのですが、ま、要するに富永は信用できない人間だな、ということです。
トレッペルが引用する富永の発言以外に日ソ間の身柄交換に関する具体的交渉の存在を伺わせる記録なり証言なりが存在しないのであれば、この話は駄目だな、というのが現時点での私のプチ結論です。
 

アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月17日(日)08時29分51秒
編集済
  続きです。(p176以下)

------
 もし彼がその時召還命令に従っていれば、きっと処刑されたであろうし、ソヴィエト連邦は第二次大戦のさ中にはかりしれない価値を持つ情報源を失っていたことだろう。ゾルゲは、日本政府の最深部にまでそのスパイ網をはりめぐらしていた。彼の報告のお蔭で、ソヴィエト連邦は日本の当面の中立政策に信を置き、その軍事力を西ヨーロッパに集中し、一九四一年のドイツ軍の攻撃を迎え撃つことができたのだ。さらに、ゾルゲはドイツが攻撃してくる日時やパール・ハーバー襲撃の情報を時を得て流している。しかし忘恩が、この世の習いである。ゾルゲがモスクワに流した情報の多くは信用されず、彼の生命は日本の絞首台に散った。ゾルゲは、スターリンがソヴィエト国内で捕まった日本人スパイと交換に、彼をその悲惨な最期から救ってくれることを期待していたに違いない。そうだとしたら、彼の期待は報われなかった。彼は運命のままに放っておかれたのである。
 ようやく一九六四年になって、ソヴィエト政府は故人となったゾルゲに栄誉を捧げることを決定した。彼は死後、ソヴィエト連邦の英雄となった。彼の栄誉を記念して映画が製作され、モスクワの通りに彼の名が冠され、彼を追悼する切手まで発行された。だが、今となってわたしは自問する。結局本当に利口だったのはゾルゲなのかわたしなのか、と。
 モスクワへの帰還命令は、わたしをディレンマに陥れた。わたしはモスクワに緊密なつながりを持っていなかったけれども、吹きすさぶ粛清の嵐のことは新聞で読んでいた。そして、もし帰国したら粛清の嵐に巻き込まれてしまうことも、充分予期することができた。だが、仮に拒否しても、ソ連政府の報復からどうやって逃れることができようか。どこで生きてゆけばよいのだろうか。偽名を使っていたこと以外、何も違法行為をしていない。わたしのしてきた行動のすべては日本の側に立ったものだったので、わたしは、恐れることなく当局に自分の正体を明かすことができると考えた。しかし、わたしは即座にその考えを打ち消した。もしそんなことをすれば、わたしのせいでゾルゲをはじめとする、わたしの秘密を知るスパイたちが危くなってしまうのだから。アメリカに逃れることはどうだろう。わたしのパスポートは表向きはちゃんとしたものだし、お金も十分にある。しかし、偽造パスポートで二度もアメリカへ入国すると、どういうことになるのだろう。反共主義者であると宣誓しなくてはならないかもしれないし、前回の訪米の際、親切にしてくれた人たちを危険にさらすことになるかもしれない。
 出口が見つからなかった。わたしは、「こちらは沼地、あちらはぬかるみ」の心地だった。誰かに相談できればよかったのだが。だが、一人で決心しなくてはならなかった。そしてついに、自分の曇りのない良心を頼りに、罪で告発されるはずなどないという期待にすがって、命令に従う決心をした。
-------

ということで、アイノ・クーシネンはウラジオストックでシベリア横断鉄道の切符を受け取り、1937年12月にモスクワに戻るのですが、翌1338年元旦に逮捕されて、15か月間モスクワで拘置された後、法廷での裁判を受けることもなく、1939年4月、ヴォルクタという北極圏の極寒の地にある収容所に向けて送り出され、1946年末まで服役します。
そして1949年に再逮捕され、本当に自由の身になるのはやっと1955年になってからですね。

アイノ・クーシネン(1886-1970)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3

アイノ・クーシネンはそれでも懲役刑で済みましたが、ゾルゲはベルジンとの関係がより密接でしたから、仮に帰国していれば死刑は確実だったでしょうね。
さて、ゾルゲが置かれていた状況の参考とするために少し長く引用しましたが、捕虜交換云々に関する部分は「ゾルゲは、スターリンがソヴィエト国内で捕まった日本人スパイと交換に、彼をその悲惨な最期から救ってくれることを期待していたに違いない」だけで、捕虜交換に関する何らかの交渉の事実の指摘は全くなく、またゾルゲ自身の期待でもなく、あくまでアイノ・クーシネンがゾルゲの心中を想像して言っているに過ぎません。
石堂清倫は、<彼女は「ゾルゲは捕まったけれども、当然、日本政府とソ連政府の間で身柄交換によって釈放されるだろうと思っていた」><「ゾルゲは、自分は殺されないで、身柄交換でロシアには戻れるだろうと楽観している」と、彼女は書いている>として、ゾルゲ自身が捕虜交換を期待していたように書いていますが、不正確ですね。
 

アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月16日(土)11時43分31秒
編集済
  先に紹介したように、石堂清倫は1985年の講演で、アイノ・クーシネンの自伝を参照して、

------
【前略】そんなこともわかって面白いのですが、しかしゾルゲとの交渉については、彼女の言っていることは重要なことです。書いているのは戦後ですが、彼女は「ゾルゲは捕まったけれども、当然、日本政府とソ連政府の間で身柄交換によって釈放されるだろうと思っていた」と書いています。
 ソ連側にも日本の捕虜がたくさんおります。ノモンハンで相当高級将校が捕まっておりますから、それとゾルゲを交換しようとソ連が言えば、可能になります。「ゾルゲは、自分は殺されないで、身柄交換でロシアには戻れるだろうと楽観している」と、彼女は書いているわけです。
-------

と述べているのですが、『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(坂内知子訳、平凡社、1992)を見ると、カギ括弧の内容に直接対応する表現はありません。
関係部分を検討する前に、前提としてアイノが来日する経緯を少し見ておきます。
アイノ・クーシネン(1886-1970)はコミンテルンで働いていたときにゾルゲ(1895-1944)と面識があったのですが、1934年11月、赤軍参謀本部第四局長ヤン・ベルジン(1889-1938)の指示でスウェーデン国籍の「エリザベト・ハンソン」名で来日して以降は、直接にゾルゲの配下として活動することはなく、ただ、参謀本部第四局との連絡はすべてゾルゲを通して行っており、活動資金もゾルゲから渡されていたそうですね。
「東京では豪奢な暮らし振りをして、日本の最有力政治家たちと交際すべきことを強調した」(p150)ベルジンの方針に従って東京で一年間楽しく暮らしていたら、翌1935年11月、突然にモスクワに戻るように命令され、戻ってみるとベルジンが失脚し、第四局長はセミョーン・ウリツキー(1895-1938)に交替しています。
モスクワへの帰還命令の背景には離婚を絶対に認めようとしないオットー・クーシネン(1881-1964)の画策などもあったようですが、結局、ウリツキーはアイノ・クーシネンが再度日本へ向かうことを承認し、「日本におけるわたしの社会的地位を高めるために、日本に関して、その国と人々について称揚する本を出版するのがよいと提案」(p168)したので、アイノはストックホルムで『微笑するニッポン』を執筆・出版して、それをお土産に1936年9月、再来日します。
そして、再来日後のゾルゲとの関係について、次のように述べます。(p175以下)

------
 日本に戻ってほどなく、わたしはウリツキイの警告を思い起こした。日独間の防共協定(一九三六年十一月)は、これら両国とソヴィエトの間に緊張が高まっている明らかな兆候であった。一方、中ソ不可侵条約は、日本に対抗するものだった。
 一九三七年のほとんどを、わたしは自由に過ごすことができた。しかし、十一月の末、二年前にモスクワに帰還せよという命令を伝えに来たドイツ語を話す女性から、電話を受けた。彼女は、その晩、三菱レストランで夕食を共にしようと言ったが、その招待はわたしには不吉な予感がした。そのレストランへ行くと、彼女は、ゾルゲの指示により、翌日の晩八時に六本木商店街の花屋へ行き、二年前にそうしたように、彼の助手に会うようにと言った。食事には、彼女が夫と紹介したきちんとした身なりの男性が同席した。ゾルゲがのちに語ったところによれば、彼の職業は化学者でソヴィエト大使館に関係しているということであった。彼は、オーストリア訛りのドイツ語をしゃべった。
 次の日、わたしはかっきりその時間にゾルゲの助手に会い、彼はわたしをゾルゲのアパートに連れて行った。飲み残しのウィスキー瓶を脇のテーブルに置き、泥酔してソファに横になっているゾルゲを見て、わたしは困惑した。明らかに彼はグラスを使ってなかった。彼は、彼も含めたわれわれ「すべて」がモスクワに行く命令を受けたこと、わたしは次の指令を受けるためウラジオストックへ行くべきことを語った。彼には、その命令の根拠がわからなかった。だが、モスクワの空気が「不健康」であるにしても、わたし自身には恐れるべきことは何もなかった。ゾルゲとしては、その命令が絶対に必要なものなら従う気だろうが、わたしは、もし彼が東京を去るようなことになれば─どっちみちそれは四月以前にできることではなかったが─、この地で彼が作り上げた特別な人脈が完全に潰滅するだろうと第四課に報告するつもりだった。それからゾルゲは、わたしが熟考すべきことを口にしたが、それはのちに何度となく思い返すことになる言葉であった。「きみは、とても聡明な女性だ。わたしが会った中で一番明晰な女性だ。だが、きみよりもわたしの方が利口だよ。」
 彼の言わんとすることを理解した時には、あとの祭りでしかなかった。もう手遅れになっていたのだ。ゾルゲは、わたしが悟る前に、モスクワでわれわれ二人を待ち受けていた危険を知っていたゆえにわたしより利口だったのだ。彼がわたしにもっとはっきり警告しなかった理由は、彼がわたしと接触することをもはや望んでいなかったということではない。それは彼にとって、決して厄介な仕事ではなかったのだから。むしろ、それは、彼が誰も信じていなかったからであり、もし彼があからさまに語ってしまうと、あとでいつかわたしが彼を攻撃するために彼の言葉を持ち出すかもしれないと考えてのことであり、それは当然のことだった。
-------

長くなったので、いったん切ります。
 

白井久也『ゾルゲ事件の謎を解く─国際諜報団の内幕』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月15日(金)12時20分30秒
編集済
  石堂清倫による『ヒトラーが恐れた男』(堀内一郎訳、三笠書房、1978)の原書、

Léopold Trepper, Le grand jeu : Mémoires du chef de l'orchestre rouge, Paris, Albin Michel, 1975, 417 p.

https://www.amazon.fr/GRAND-JEU-M%C3%A9moires-lorchestre-rouge/dp/222600176X

の要約が何故にこれほどまでに出鱈目なのかをつらつら考えてみたのですが、おそらく石堂は実際には同書を全部読んでおらず、何か簡単な紹介記事をちょこっと読み、ゾルゲ関係の部分だけは一応目を通した程度で講演に臨んだからなんでしょうね。
白井久也『ゾルゲ事件の謎を解く─国際諜報団の内幕』(社会評論社、2008)はもっといい加減で、

-------
 ゾルゲは不意をつかれた形で、一九四一年十月十八日、日本の特高にスパイ容疑で逮捕された。だが、当初は自分の諜報活動が死刑に相当する行為とは思っておらず、ゾルゲはやがて身柄を釈放されるにちがいないとの期待を持っていた。現に、日本政府は軍の要請によりソ連政府とのあいだでソ連軍に捕まった日本捕虜とゾルゲの身柄交換について、交渉を行ったことが知られている。ゾルゲ並びにゾルゲ事件研究の大家として知られる石室清倫【ママ】によると、レオポルド・トレッパーの『大きな賭け 赤いオーケストラの首領の回顧』(一九七五年、パリ刊)に、この話が載っているという。
 トレッパーは欧州で、「赤い合唱団」の名で恐れられた数百人規模のソ連人諜報団のリーダー。ゾルゲ諜報団の活動資金の面倒も見ていた。もちろんゾルゲもよく知っていた人物である。ところが、トレッパーはユダヤ人のため、戦争中の諜報活動をスターリンに感謝されるどころか、戦後は逆にモスクワのブトゥイルカ監獄に投獄される憂き目を見た。
 このとき同じ監房にいたのが戦時中の陸軍大臣で、戦後、ソ連に抑留された富永恭次中将である。富永は日本のフランス大使館付駐在武官のとき習い覚えたフランス語で、トレッパーと話した。たまたまゾルゲの話になって、トレッパーが、「なぜ日本人捕虜とゾルゲとの身柄交換をしなかったのだ」と聞いた。富永は「ノモンハン事件でソ連に捕らわれた日本捕虜引き取りのため、ゾルゲとの身柄交換を外交ルートで行なったが、ソ連側はそんな人物は知らないと三回とも断わったので、日本側がとうとう身柄交換をあきらめた」ことを打ち明けた。
-------

などと書いています。(p211)
「石室清倫」の要約が既に相当いい加減なのに、朝日新聞元モスクワ支局長・東海大学平和戦略国際研究所元教授で「日露歴史研究センター代表」を勤めているという石井久也は、「数百人規模のソ連人諜報団のリーダー」などと石堂が言ってもいないことを追加していますね。
石堂は「そこへ何百人かの諜報員を配置」としているだけで、「赤いオーケストラ」と呼ばれているグループはドイツだけで百人以上ですから、確かに欧州各国の諸グループをすべて単純合計すれば「何百人か」になるかもしれませんが、それが全部ソ連人のはずがありません。
こういうのを見ると、莫迦から莫迦への伝言ゲームの趣がありますね。
さて、上記に続けて石井は、

-------
「仮に身柄交換の取引が成立したとしても、モスクワに帰れば、レーニン派のゾルゲはスターリンによって粛清されたことに、まず間違いあるまい。だが、ゾルゲが日本で殺されずにソ連に帰ったら、尾崎も殺されずにすんだかもしれない。尾崎やゾルゲが何らかの名目で生き残っていて、われわれ人民の側に戻っていれば、彼らが戦後どんな良い働きをしたか分からない。まあ、ゾルゲにしてみれば革命家として日本の反動権力に殺される方が、同志のはずのスターリンに殺されるより、よっぽど幸せだっただろうが─」とは、トレッパーの回顧録を原書で読んだ石室清倫【ママ】の偽らざる感想である。
 トレッパーは生き残って、スターリン獄から身柄を釈放され、天寿をまっとうした。ゾルゲは「ソ連共産党万歳」「ソ連赤軍万歳」「コミンテルン万歳」と叫んで、絞首台の露と消えた。毎日、死と向き合いながら、言うに言われぬ努力の末に収集した貴重な情報のかずかず……。にもかかわらず、それらは正当な評価を受けることがなかった。あまつさえ、弊履のごとく捨てられる運命……。トレッパーにせよ、ゾルゲにせよ、役目が終わった諜報員の末路は、あまりに惨めではないだろうか? つくづくそう、思わざるを得ない。
-------

などと書いていますが、別にフランス語の原書を読む能力がなくても、ちょっと調べればトレッパー自伝は1978年に邦訳が出ていると簡単に知ることができる訳で、これが朝日新聞元モスクワ支局長で、日本を代表するゾルゲ事件研究者の一人の情報収集力かと思うと、つくづく暗澹たる気持ちにならざるを得ないですね。
そもそも朝日新聞モスクワ支社長だったらフランス語くらい読めて当然じゃなかろかと思うのですが、そうでもないんですかね。

-------
『ゾルゲ事件の謎を解く─国際諜報団の内幕』

1944年11月7日、東京拘置所で二人の男が「赤色スパイ」として絞首刑にされた。「ゾルゲ事件」の主犯、リヒアルト・ゾルゲと尾崎秀実である。
かれらは、1930年代の「危機の時代」、自らの理想に生命を賭した。
戦争と革命の時代の国際情報戦。ゾルゲ諜報団の全容はいかに解明されたか。ジャーナリストによるその迫真のドキュメント。

白井久也
1933年,東京に生まれる。58年,早稲田大学第1商学部卒業後,朝日新聞社に入社。広島支局を振り出しに,大阪・東京本社経済部,同外報部を経て,75年から79年まで,モスクワ支局長。帰国後,編集委員(共産圏担当)。93年,定年退職。94年から99年まで,東海大学平和戦略国際研究所教授。現在は日露歴史研究センター代表,杉野服飾大学客員教授。
著書に『危機の中の財界』『新しいシベリア』(以上,サイマル出版会),『現代ソビエト考』(朝日イブニングニュース社),『モスクワ食べ物風土記』『未完のゾルゲ事件』(以上,恒文社),『ドキュメント シベリア抑留-斎藤六郎の軌跡』(岩波書店),『明治国家と日清戦争』(社会評論社)など。また,共著に『シベリア開発と北洋漁業』(北海道新聞社)『松前重義-わが昭和史』(朝日新聞社)『体制転換のロシア』(新評論)『日本の大難題』(平凡社)など。
編著書に『ゾルゲはなぜ死刑にされたのか』(小林峻一と共編)『国際スパイ・ゾルゲの世界戦争と革命』(以上,社会評論社)

http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/man_history/ISBN978-4-7845-0582-1.php
 

石堂清倫『異端の視点─変革と人間と』

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月14日(木)13時49分3秒
編集済
  富永恭次のエピソードについてはゾルゲ事件研究者が何か言っているのではないかなと思って、白井久也『ゾルゲ事件の謎を解く─国際諜報団の内幕』(社会評論社、2008)をパラパラめくってみたら、「ゾルゲ並びにゾルゲ事件研究の大家として知られる石室清倫」が何か書いているらしかったので(p211)、まあ「石室」ではなく「石堂」だろうなと思いつつ、巻末の「参考文献」に出ていた石堂清倫『異端の視点─変革と人間と』(勁草書房、1987)を読んでみました。
すると、石堂は「リヒアルト・ゾルゲについて」という講演記録(1985年3月31日、運動史研究会 会員懇談会報告)において、アイノ・クーシネンの自伝を紹介して、

------
【前略】そんなこともわかって面白いのですが、しかしゾルゲとの交渉については、彼女の言っていることは重要なことです。書いているのは戦後ですが、彼女は「ゾルゲは捕まったけれども、当然、日本政府とソ連政府の間で身柄交換によって釈放されるだろうと思っていた」と書いています。
 ソ連側にも日本の捕虜がたくさんおります。ノモンハンで相当高級将校が捕まっておりますから、それとゾルゲを交換しようとソ連が言えば、可能になります。「ゾルゲは、自分は殺されないで、身柄交換でロシアには戻れるだろうと楽観している」と、彼女は書いているわけです。
-------

と述べています。(p165)

アイノ・クーシネン(1886-1970)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%8D%E3%83%B3

石堂は1972年に出たドイツ語版を紹介しているのですが、『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(坂内知子訳、平凡社、1992)を見ると、その正確性に若干の疑問が生じます。
ま、それは後で書くとして、石堂は続いてトレッペル自伝に触れて、

------
   捕虜交換をソ連が拒否した

 もう一つの本によると、ベルジンが指導したヨーロッパの大諜報組織があり、その指導者はレオポルド・トレッパーというユダヤ人で、この人はヨーロッパ全土に大きな商会(三井物産のようなもの)をつくった人ですが、たいへん経営の才があり、事業は成功しております。そこへ何百人かの諜報員を配置して、非常に重要な情報をあつめるわけです。独ソ開戦の情報も、ゾルゲと同じ日に手に入れます。このトレッパー組織の人は、百人近い人が消されているそうです。拷問で殺されたり、生死不明になった人が多いわけです。
 しかしヒトラーはこのトレッパー組織のことを「赤いオーケストラ」と称してたいへん恐れていて、なんとかしてこの「赤いオーケストラ」を根絶しようと努力をします。そういう大組織なんですが、このトレッパーが戦後ソ連へ行きますと、スターリンは戦争中の努力に感謝する代わりに、ユダヤ人だということでもういっぺん監獄へ入れます。ブートゥィルカという帝政時代から政治犯を入れる監獄がありますが、ある日、日本の陸軍次官をしていて関東軍の師団長をつとめていた富永恭次という中将が、何かの証人に捕虜収容所から連れて来られ、トレッパーと同じ監房に入れられるわけです。
 富永はフランスの駐在武官をしたことがありますので、トレッパーとフランス語で話をしたようですが、軍の高級幹部がいかに腐敗堕落していたかがよくわかるんです。監獄におりながら、しかも敵国であったソ連の監獄におりながら、富永は中将にふさわしい特別食を要求するわけです。「自分は満州にいたときには、毎朝バナナを何本か食べた。ここでもバナナを食わせろ」と言って、そこにいるソ連人のみんなからバカにされます。「あなた、北極圏へ来てオレンジを買いたいと言ったって、買えませんよ」と。
 その富永中将にトレッパーが、「なぜお国ではゾルゲとソ連に抑留されている日本の高級将校との身柄交換を提起しませんでしたか」と質問したら、富永は「とんでもない。日本陸軍は東京のソ連大使館に、身柄を交換してくれという申し入れを三回やった。ソ連政府の回答は三回とも、リヒアルト・ゾルゲなんて人間は、当方は知らないと言って突き放された。だから日本が提起しなかったわけではない」ということがその本には書いてあります。
 それから、ゾルゲ組織にどこから金を送ったのか私は疑問に思っていたのです。後になると大使館が手を回してゾルゲ集団に金をわたしたこともありますが、トレッパーの組織が、これは全世界的な商社を持っていますから、その商社経由で東京へも金を送っていたことがわかりました。
-------

と述べるのですが、『ヒトラーが恐れた男』(堀内一郎訳、三笠書房、1978)と読み比べると、あまりに雑な紹介で、ちょっとびっくりしますね。
「ヨーロッパ全土に大きな商会(三井物産のようなもの)」とありますが、トレッペルが隠れ蓑として利用した事業はそれほどの規模ではなく、また、運営の中心となったのはトレッペルの古い友人で、トレッペル自身に「たいへん経営の才」があった訳ではないですね。
また、スパイ組織の実態を知っていたのはごく少数の幹部で、「そこへ何百人かの諜報員を配置」した訳でもないですね。
富永恭次関係の部分も、いちいち指摘するのが面倒なほど誤りばかりです。
1985年の講演ですから石堂清倫は八十歳を超えているので、老化がかなり進んでいたのか、それとも身内の講演会で受けを狙って大げさな言い方をしたのか。

石堂清倫(1904-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%A0%82%E6%B8%85%E5%80%AB

>キラーカーンさん
バナナ云々があまりに突拍子もない話なので、逆に妙なリアリティはありますね。
細かい内容はともかく、富永が東京裁判の証人候補としてモスクワに呼ばれたことだけは信じてよいように思います。
ただ、結局は使えない奴だな、ということで捕虜収容所に戻されてしまったんじゃないですかね。
 

RE:富永

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2017年 9月14日(木)00時32分48秒
  >>富永自身が自分を偉く見せるために偽ったか、トレッペルの単なる記憶違い

確かに、私もその点が気になったのですが
「大将」については、陸軍の将官は階級に関わらず「General○○」という習慣があるので、
翻訳者が勘違いしたという可能性もあります。

しかし、「満州における日本軍の参謀長」は明らかに「盛っています」
富永は関東軍第二課長の経験のみです。
「課長」を「関東軍参謀長」と「誤解」したのでしょう。

その他、
大佐昇進(昭和11年8月)後、予備役編入(昭和20年5月)の富永は、部隊勤務が
関東軍第二課長(約1年)
近衛歩兵2連隊長(約一年)
第四航空軍司令官(約半年)
のみなので、「軍官僚」向きと思われていたのでしょう。

で、歩兵出身であるのにもかかわらず。戦車学校長と航空軍司令官をやっていることは、
「歩兵」としては「嫌われていた」と見受けられます。

それに、戦争たけなわなのに、戦争中に予備役編入されるということは、
「いわく言いがたい」何かがあったのでしょう。
 

富永恭次のエピソードについて

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月13日(水)07時48分17秒
編集済
  >ザゲィムプレィアさん
富永恭次がモスクワに連行されたか否かについて、こういう文献にはこのように書かれている、といった投稿ならば歓迎できるのですが、私が引用した僅かな部分だけを見て推測に推測を重ねた意見を言われても、正直、対応に困ります。
富永の話は「スターリンの牢獄での不思議な出会い」とのタイトルの下で紹介されているいくつかの話題の中のひとつなのですが、『ヒトラーが恐れた男』全体を読まれて、こうした軽めのエピソードについてトレッペルがわざわざ全くの作り話を捏造する必要があると思われたなら、その理由とともに改めて投稿してください。

(追記)
富永が何語でバナナを要求したのかといえば、当然にロシア語だったはずです。
富永がロシア語ができることは自明で、そうでなければ東京裁判の証人候補にもならなかったでしょう。
また、英語・フランス語を使ったのは看守に聞かれたくなかったという単純な理由で説明できます。
「刑務所の幹部は、トミナガが彼の訊問の内容を喋るのを恐れた」というのもトレッペルの推定ですが、富永は東京裁判云々という若干特殊な事情があったとはいえ、トレッペルともう一人は、刑務所幹部側から見れば、どうせ死刑になる人程度に思われていたはずで、別に富永のお喋りを全然気にしなかったかもしれないですね。
富永が実際には陸軍中将なのに「トミナガ陸軍大将」とある点や「パリの大使館付陸軍武官」という経歴の食い違いも、富永自身が自分を偉く見せるために偽ったか、トレッペルの単なる記憶違い(実際に刑務所に入っていた時期から約25~30年後の回想)の可能性もあり、いずれにせよ重要な間違いではないですね。
 

Re:トレッペルと富永恭次

 投稿者:ザゲィムプレィア  投稿日:2017年 9月12日(火)01時13分37秒
  富永絡みの記述は疑問が多いですね。

1.富永は東京裁判で証人になるためにモスクワに連れてこられたとしていますが、「富永恭次 東京裁判」でググっても出廷した情報は見つかりません。
2.ソ連の証人として出廷した軍人に瀬島龍三がいますが、彼は証言前にモスクワに連れて行かれたとは言っていません
3.刑務所の幹部がコミュニケーションができないと判断して同房にしたと解釈できますが、おかしな文があります。
 「わたしたちはもちろん、日本語はわからなかった」を文字通りに解釈すれば、富永は日本語が分からないことになります。
 原文は「私たちは日本語でコミュニケートできない」なのでしょうか。そうだとすれば「わたしたちが英語を知らない」は「富永は英語を話さない」と
解釈するべきなのでしょうか。 いずれにしても確認せずに話せないと決めつけるのは無能すぎます。
スターリンとベリヤが君臨していた時代にそんな無能が刑務所の幹部になることはなかったでしょう。
4.Wikipediaによれば富永は熊本陸軍地方幼年学校出身で駐ソ連大使館付武官補佐官を経ています。彼の第一外国語はロシア語だったでしょう。
会話能力は不明ですが、トレッペルとロシア語で意思疎通できたでしょう。
しかし引用された文章から判断する限り、トレッペルは富永のロシア語能力を知りません。

これらを合わせると、富永がモスクワに連行されたか甚だ疑問で、トレッペルと面識があったとは思えません。
トレッペルが陸軍次官の経歴がある富永将軍がソ連に抑留されていることを知って、ゾルゲと絡めて創作したお話しと解釈するのが妥当でしょうか。
 

トレッペルと富永恭次

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月11日(月)12時20分23秒
編集済
  暫く掲示板投稿を休んでいましたが、またボチボチと始めることにします。
雑事に追われてあまり読書は進まなかったのですが、トレッペルの自伝『ヒトラーが恐れた男』(堀内一郎訳、三笠書房、1978)は一応全部読んでみました。
同書にはゾルゲに言及している箇所がいくつかありますが、戦争直後、ルビヤンカに投獄されている時期の話として、次のような記述があります。(p318以下)

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 朝の五時近くだった……ドアが開き、薄暗がりのために中国人か日本人か見分けがつかなかったが、きちんとした身なりの軍人を、看守たちが入れてよこした。彼は自己紹介した、「トミナガ陸軍大将です」
 満州における日本軍の参謀長であった彼は、戦争終結時に囚われの身となった。彼は東京で開催されることになっている日本の戦争裁判で証人になるために、収容所に連れてこられたのである。運びこまれる食事を第一日目から手をつけずに眺めていた彼は、刑務所長に会わせろと要求した……。
「わたしはひどく胃を病んでいるのだ」彼は述べたてた、「こんな食べ物は食べられない」(わたしはこれほどよい食事をこれまで見たことがなかった。というのは、将校たちは他の囚人たちより配給を余分にうけていたのだ)。
 それなのに、トミナガは不平を言った。
「わたしはこんなにたくさんは要らない。たいしたものは要らないんだ。ただ毎日、バナナがいくらかあれば!」
 わたしたちを大笑いさせたのがなんなのか、彼にはわからなかった。戦争直後に、モスクワでバナナだって?! しかも、牢獄の中で! 北極でオレンジを探すようなものではないか……。
 トミナガはバナナの食餌療法を断念しなくてはならなかったが、特別の食事を用意してもらった。わたしたちはもちろん、日本語はわからなかった。刑務所の幹部は、トミナガが彼の訊問の内容を喋るのを恐れたが、わたしたちが英語を知らないと思って、彼をわたしたちの房に入れたのだった。
 獄吏の計算は間違いだった。そのとき、わたしと同じ房にいた将校も、わたし自身も、上手とは言えないが、シェイクスピアの国の言葉を知っていた。数日が過ぎたのち、わたしはトミナガがフランス語で話をするのを聞き、彼がパリの大使館付陸軍武官であったと知って驚いた。そのとき以来、わたしたちの間には、コミュニケーションの不都合はまったくなくなった……。
------

富永恭次は旧陸軍の将軍の中でも格別に評判の悪い人ですね。
トレッペルは1904年生まれなので、年齢は富永が12歳上です。
富永に関するウィキペディアの記述はかなり雑ですが、一応の参考としてリンクしておきます。

富永恭次(1892-1960)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%B0%B8%E6%81%AD%E6%AC%A1

さて、続きです。

-------
「あなたはリヒャルト・ゾルゲについて何かご存じですか?」とわたしは彼に尋ねた。
「もちろんです、ゾルゲ事件が起きたとき、わたしは陸軍省の次官だったんです」
「それならうかがいますが、なぜ、ゾルゲは一九四一年の終わりに死刑を宣告され、一九四四年の十一月七日になってついに銃殺されたのですか? 日本とソ連はまだ交戦状態になかったのに」
 彼はすばやく、わたしの言葉をさえぎった。
「それはまったく間違いです。われわれは再三再四、東京のソ連大使館にゾルゲと日本人捕虜の交換を要求しました。そのたびにわれわれは同じ答えに遭いました。『リヒャルト・ゾルゲという名前は知らない』と」
 リヒャルト・ゾルゲの名を知らぬ? それならどうして、日本の諸新聞は彼とソ連の大使館付陸軍武官との接触を、さかんに書きたてたのか? ドイツの攻撃をソ連に予告した人、日本はソ連を攻撃しないだろうということを戦争のただなかでモスクワに知らせてよこし、そのお蔭で、ソ連の参謀本部は、シベリアから無傷の師団を撤退させることができたというのに、その人物のことを、知らないというのか?
 かれらは、戦後に足手まといになる証人を残しておくよりむしろ、リヒャルト・ゾルゲが銃殺されるがままにしておくほうを選んだのであった。その決定は東京のソ連大使館から出たものではなく、モスクワから直接くだされた。リヒャルト・ゾルゲは、ベルツィン将軍との親交との代価を払わされたのだ。後者の粛清以来嫌疑をかけられていた彼は、モスクワにとっては二重スパイでしかなかった、しかもトロツキストの! もたらされた情報の計り知れない軍事的価値がようやくわかる日まで、何か月もの間<本部>はゾルゲの電文を解読しようとさえしなかったのである。そして彼が日本で逮捕された後は、首脳部は彼を邪魔者扱いし、見棄てたのだ。新しい情報部の政策というのは、かくのごときものだった。
 一九四四年十一月七日、モスクワは<無名の人>リヒャルト・ゾルゲを、銃殺されるがままにした。今日その偽善をあばき、世界の眼前に告発することを、わたしはとくに嬉しく思う。リヒャルトはわたしたちのものだ。彼を殺されるに任せていた連中には、彼をわがものとする権利はない。
-------

「もたらされた情報の計り知れない軍事的価値がようやくわかる日まで」の「ようやく」と、「リヒャルトはわたしたちのものだ」には傍点が振ってあるので、原文では字体を変えているようです。
トレッペルもゾルゲと全く同様に「ベルツィン将軍との親交との代価を払わされた」訳で、「モスクワにとっては二重スパイでしかなかった、しかもトロツキストの!」も共通ですね。
『ヒトラーが恐れた男』の口絵に載っている「ベルツィン将軍」の写真は穏やかな紳士的雰囲気が漂っていますが、ウィキペディアでYan Karlovich Berzin の項を見ると、いかにもスパイの元締めらしい鋭い顔をしています。
内容はフランス語版が一番詳しいようですね。

ヤン・ベルジン(1889-1938)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%B3
Ian Berzine
https://fr.wikipedia.org/wiki/Ian_Berzine
 

忩劇

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 9月 5日(火)20時53分21秒
  小太郎さん
ありがとうございます。
日本も、いつまで安全か、心許なくなってきましたね。
明日、なんとか時間が取れそうなので、渋谷の映画館で観てから出発しようと思います。
 

取り急ぎ

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月 5日(火)13時41分43秒
編集済
  >ザゲィムプレィアさん
ちょっと余裕がなくて、取り急ぎ以下の点のみお返事します。
『ヒトラーに抗した女たち─その比類なき勇気と良心の記録』は個別エピソードをそれなりに沢山集めていて資料集としては意味があっても、論理展開はすっきりせず、あまり優れた本とは言い難いですね。
ご指摘の「彼らは皆ソ連と協力する必要があると確信していた」についても、同書にはその根拠となる事実の指摘は特にありません。
そもそも「ローテ・カペレ」はゲシュタポがそう名付けただけで、ドイツに限っても強固な組織としての実体があった訳ではなく、いくつかのそれぞれ性格が異なるグループの集まりだったようですね。
従ってソ連への態度はもちろん、それ以外でも全員に何らかの共通した「確信」があったとは思えません。

>筆綾丸さん
>『ハイドリヒを撃て!』
ご紹介、ありがとうございます。
群馬県でも上映館が一つあるようなので、観に行こうと思います。
時節柄、ご旅行中の安全には充分お気をつけください。
 

Operation Anthropoid

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 9月 4日(月)14時34分25秒
  http://shoot-heydrich.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%89%E4%BD%9C%E6%88%A6
『ハイドリヒを撃て!』を見に行こうかと考えていましたが、旅行に出掛けるので、残念ながらどうもダメのようです。Operation Anthropoid(類人猿作戦)というのですね。
 

Re:ローテ・カペレ(赤いオーケストラ)

 投稿者:ザゲィムプレィア  投稿日:2017年 9月 4日(月)00時46分40秒
  『ヒトラーに抗した女たち』は未読ですが、「彼らは皆ソ連と協力する必要があると確信していた。ヒトラーとその政権の排除は、
外からの支援によってのみ可能だと考えていたのである。」はかなり困惑させられます。

ドイツとソ連の協力は歴史があります。
ワイマール共和国はベルサイユ条約により空軍の保有を禁止されました。
共和国は秘密裏に小さな空軍を再編成すると、ソ連と秘密協定を結びソ連内の基地でその空軍の訓練を行いました。
もちろん、ソ連はその訓練を観察して得た情報を自身の空軍に導入したでしょう。

ナチスドイツは独ソ不可侵条約締結後に独ソ通商協定を締結して、ソ連は小麦、石炭、鉄鉱石などの戦争継続に必要な物資を輸出しました。
輸出は独ソ戦が始まる瞬間まで続いたそうです。

赤いオーケストラのメンバーは、本当にナチス政権打倒にソ連の協力が得られると考えていたのでしょうか。
 

ローテ・カペレ(赤いオーケストラ)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月 3日(日)13時46分25秒
編集済
  『ヒトラーに抗した女たち─その比類なき勇気と良心の記録』(マルタ・シャート著、田村万里・山本邦子訳、行路社、2008)はハルナック夫妻について詳しいことは詳しいのですが、夫妻の履歴に関する部分以外は必ずしも現時点での研究者の合意を纏めたものとは言えないようですね。
ま、それはともかく、「ミルドレッド・フィッシュ=ハルナック─共産主義者の抵抗運動」というタイトルの章(221~238頁)の冒頭部分を少し紹介してみます。

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 「そして私はドイツをとても愛していたわ」
 死刑判決を受けたアメリカ人女性ミルドレッド・フィッシュ=ハルナックの最後の言葉

 一九四二年秋、ゲシュタポと諜報部は、ゲシュタポによって「ローテ・カペレ」〔「赤い楽団」の意〕と呼ばれたアルヴィド・ハルナックとハロ・シュルツェ=ボイゼンを中心とする抵抗運動組織を摘発した。四五年以後、ドイツ人による抵抗運動の領域でローテ・カペレの歴史ほど数々の論議を呼んだものはないといってよい。ローテ・カペレの男女は「報酬つきの国家反逆罪」を犯したとする、ナチの訴追担当部局の言い分の影響が戦後ずっと尾を引いた。冷戦とそれに起因する東西ドイツ間の対決とが、一方的な、人を中傷する見解を強めた。この抵抗グループに対しては、「第二次世界大戦における最大のソ連スパイ活動組織」というレッテルが貼られ始めた。四二年の逮捕に関連して、ドイツ抵抗運動史におけるローテ・カペレの位置づけをめぐる客観的で多岐にわたる議論が可能になるまでには、五〇年の歳月を要した(H・コッピ/J・ダニエル/J・トゥヘル)。
 ポーランドの共産党員レオ・トレッパー(一九〇四-一九八二)は、ソ連の委託を受けて一九三八年からスパイ活動と抵抗運動の組織を作った。彼はハーグ、マルセーユ、ニース、ジュネーヴ、ベルン、バーゼル、スウェーデンに支部を作り、空軍中尉ハロ・シュルツェ=ボイゼンと経済省の上級参事官アルヴィド・ハルナックを中心とするドイツ人の反ナチ政権グループに接触した。ドイツには互いに独立して広範な活動を行っている多くのグループがあった。後年のゲシュタポの報告では、メンバーの、二〇パーセントが職業軍人と役人、二一パーセントが芸術家、作家、ジャーナリスト、一三パーセントが労働者と中産階級の人たち、二九パーセントが学者と学生だった(G・フォン・ローン、一九九八年)。彼らは皆ソ連と協力する必要があると確信していた。ヒトラーとその政権の排除は、外からの支援によってのみ可能だと考えていたのである。
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日本では「レオポルド・トレッペル」と表記されることの多い Leopold Trepper(1904-82)は、リンク先サイトによれば、1904年、ポーランド最南部、オーストリアとの国境地帯にある町 Novy-Tang に生まれ、ロシア革命に刺激されてポーランド共産党に入り、1925年に違法なストライキを組織した罪で8か月の獄中生活。翌年にパレスティナに移住し、イギリスの支配に抵抗して28年に逮捕・追放され、フランスに移ってRabcors という非合法政治組織で活動するも、フランス情報機関により組織が破壊されるとモスクワに逃亡。モスクワで NKVD(内務人民委員部)にリクルートされ、以後、ヨーロッパでスパイ活動。1939年に「レッド・オーケストラ」を創設し、ドイツ・フランス・オランダ・スイスで地下活動を組織したとのことで、インテリジェンスの世界では、

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Peter Wright, a senior figure in MI5, explained in his book, Spycatcher (1987) that Trepper was one of a group of "great illegals" that included Ignaz Reiss, Walter Krivitsky, Theodore Maly, Arnold Deutsch, Richard Sorge, Dmitri Bystrolyotov, Henri Pieck, Hans Brusse and Alexander Radó. "They were often not Russians at all, although they held Russian citizenship. They were Trotskyist Communists who believed in international Communism and the Comintern. They worked undercover, often at great personal risk, and traveled throughout the world in search of potential recruits. They were the best recruiters and controllers the Russian Intelligence Service ever had."

http://spartacus-educational.com/RUStrepper.htm

という具合に、リヒャルト・ゾルゲなどと並ぶ極めて有能なスパイとして評価されているそうですね。
ただ、1945年1月、モスクワに戻ると、スパイ活動の功績を称賛されるどころか、スターリンの命令で逮捕・投獄されてしまいます。
1955年に解放されるとポーランドに戻り、ポーランドではユダヤ文化団体の長となり、イスラエルへ移住を希望するも当局に許されず、1973年にやっとイスラエルに移住して晩年を過ごしたとのことで、実に波瀾万丈な人生ですね。
トレッペルの自伝『ヒトラーが恐れた男』(原題「The Great Game」、堀内一郎訳、三笠書房、1978)をパラパラ眺めてみましたが、ハルナックとの関係はそれほど詳しくはないですね。
山下公子『ヒトラー暗殺計画と抵抗運動』(講談社選書メチエ、1997)にも「レッド・オーケストラ」に関する記述がありますが、ハルナックからはそれほど重要な情報が流れていないような書き方ですね。
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その10)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月 1日(金)11時14分17秒
編集済
  長々と引用してきた「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」も、これで最後です。(p167以下)

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 七

 政治的闘争は益々強烈となってくる。権力の樹立は一層そのけわしさを増してくるようである。味方にあらずんば敵であるの慨がある。昔し中学生時代に聖バーソロミューの大虐殺を歴史で教わって、それは近代にとっては遠い昔しの話と思っていたが、そうではない。それがニ十世紀の今日に再三再現されつつあるではないか。また三十年の政友も一挙に国を裏切るものとして、全くの秘密裁判裡に忽ち死刑となってゆく。人間と人間とは、政治の舞台においてはかくも、狼と狼との食い合いを再現せざるを得ないものであるか。かつてウィスコンシンの教室で、コンモンズ先生が学生を笑わしたことがあった。一国を裏切ったものを国外に放逐して国内が治まるというのなら、蓋し道は容易であろう、しかし世界を裏切ったものは一たい何処へ追放するのであるか、と。一しょに爆笑したハルナックは果して全人類を裏切ったものであるか。何のために何処へ追放せられたのであるか。おそるべき事柄である。アルウィッドの父、オットー・ハルナック教授は、一九一四年自らの生命をネッカーにおいて断ったということであるが、彼はその愛妻と同時に─そして恐らくは相互にその運命の終りを知らないで─その生を無残に断たれてしまったのである。
 かくてハルナック夫妻は、私にとってはどうしても忘れ難い人となってしまったようである。彼と自動車の旅をした時にとった数枚の小さい古びた写真が、今なお残っている。少し頭を傾けてややうつむき加減の顔、鼻下に小さなヒゲを蓄えている写真を、『タイム』を読んだあの夜静かに眺めたことであった。廿何年振りの対面であった。

     『心』昭和二十九年四月号
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「そして恐らくは相互にその運命の終りを知らないで」には傍点が振られていますが、既に述べた事情で二人は同時に死んだ訳ではなく、少なくともミルドレッドはアルウィッドの「運命の終り」を知っていた訳ですね。
また、「世界を裏切ったものは一たい何処へ追放するのであるか」で「爆笑」というのは、ちょっと分かりにくい話です。

さて、アルウィッドの父、文学史家のオットー・ハルナックは神学者、アドルフ・ハルナックの6歳下の弟ですね。
国会図書館で「ハルナック」を検索してみたら34件ヒットしたのですが、その大半は鴎外の「かのやうに」関係論文を含め、神学者のアドルフ・ハルナックに関するものでした。
しかし、中には「無限次元空間の単位球上の正則写像に関する研究」「最適制御・微分ゲ-ムの粘性解理論による研究」「ループ空間上の確率解析」「フラクタル上の確率過程についての研究」などという私には何のことだか全然分からない論文タイトルもあって、何じゃこれは、と思ったのですが、これらは「ハルナックの不等式」に関係するもので、この数学者のアクセル・ハルナックはアドルフ・ハルナックの双子の兄弟だそうですね。
オットー・ハルナックの写真はウィキペディアのドイツ語版にしか出ていないので、他の兄弟のリンク先もドイツ語版に揃えてみました。

Otto Harnack(1857-1914)
https://de.wikipedia.org/wiki/Otto_Harnack
Adolf von Harnack(1851-1930)
https://de.wikipedia.org/wiki/Adolf_von_Harnack
Axel Harnack (Mathematiker)(1851-1888)
https://de.wikipedia.org/wiki/Axel_Harnack_(Mathematiker)
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その9)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 9月 1日(金)10時05分40秒
  続きです。(p166以下)

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 それから二年、たまたま戦後のアメリカに渡った。昔しなつかしく二十何年振りに、再びマヂソンの町を尋ねた。かつて宿をしていた歯医者マルロー夫妻は健在であり、昔しの子供たちは堂々たる医者となり、大学教授の細君となっている。マルロー夫人は私がハルナック夫妻と親しかったことを能く記憶していて、戦後そのニュースを聞いた時のマヂソンの興奮を語ること詳しかった。のみならずミルドレッドの母フィッシュ夫人が、娘との交渉が絶えて後に種々の噂さ話を聞きながらの永い間の苦しみを、私に伝えてあかぬものがあった。夫人も同じくマヂソンの市民である。子供の消息が不明なほど親を悩ますことはあるまい。大東亜戦争は実にその幾多の例をつくったのである。私は、母方の祖母が一人息子がかつて月島の高等商船学校の遠洋航海に出たまま船長一人の遺骸を海上に残して多数の同級生と舟とともに全然消息を絶ちて以来、およそ三十五年余り、必ず自分のふところに帰るとの信仰に送った日夜のお念仏の生活を知っている。永い間の娘の消息を念じ、最後に得た消息にその齢を急激に加えたフィッシュ夫人に会って慰めて来ませんかというマルロー夫人の言葉に、素直に従うことができなかった。
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『ヒトラーに抗した女たち─その比類なき勇気と良心の記録』(マルタ・シャート著、田村万里・山本邦子訳、行路社、2008)によると、ミルドレッドは1918年に父を失っていて、

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〔1929年後半の〕渡独後母に会ったのは、一九三〇年に母がギーセンに訪ねてきたときだった。三六年、退職後に母は再度ドイツを訪れ、娘とともにイギリスへ旅行した。しかしミルドレッドのホームシックはつのる一方で、翌年にはアメリカへも帰っている。だが旧友たちとの再会は生易しいといえるものではなかった。彼らは彼女に対する不信感をつのらせていた。ナチ政権下のドイツについて彼女と何を話せばいいのか?彼女は本当に抵抗運動に参加しているのか?
 しばらくしてミルドレッドはドイツに戻った。【後略】
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とのことで(p229)、その後も35歳で流産するなどの不幸があったそうですね。
ドイツ情勢が悪化する中で、アルヴィドは妻にアメリカに帰るように勧めたそうですが、ミルドレッドは自分の意志でドイツにとどまった訳ですね。
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その8)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月30日(水)10時49分31秒
編集済
  続きです。(p165以下)

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 六

 昭和二十三年の晩秋のことであったと思う。ウィスコンシン大学に共にいた佐島敬愛君から、近頃の『タイム』を読み給え、ハルナックのことが書いてあるよ、との注意を受けた。消息が絶えてから正に十カ年余、そこには驚くべき記事が簡単に載せられている。
 こうである。(残念ながら、その『タイム』を見直す余裕もないので、おぼろげな記憶によることとした。)
ドイツを破ったアメリカ軍が、あらゆる点からドイツのナチ政権時代の検討、検査をなした。その中でウィスコンシン大学の卒業生や関係者がどうなったかが調べられた。ハルナック夫妻も亦、調査の客体であったのは無理もない。彼等はもとより生存してはおらないで、大戦開始の遥か以前に、共に人間としての最大の不幸な運命を辿ったのである。
 夫妻はナチに対する地下反対運動の故を以て、コンセントレーション・キャンプに別々に投ぜられた。そしてハルナックは何時の間にやら虐殺されたのである。遺骨ももちろん何も残らなかった。詳しい事情は全く分からない。他方ミルドレッドも死刑を宣せられてなお獄にあること確か一週間、その間に彼女はその体重を三分の一ほど減じたという。その美髪は一夜にして全く白と変じたという。しかし彼女の遺骸か、遺骨だけはハルナックの弟に渡されたというのである。
 これがほぼ『タイム』の記事であったと思う。幸か不幸か、私はハルナックが如何なる地下運動をなしたのかを知らない。しかし十カ年余の途だえた消息の後のこの記事である。親しく夫妻を知らないものでも、息づまる思いをせざるを得ないであろう。
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東畑精一は「大戦開始の遥か以前に」と書いていますが、ハルナック夫妻が逮捕されたのは1942年9月、アルウィッドの死刑執行は12月22日、ミルドレッドの死刑執行は翌1943年2月16日で、東畑が得た『タイム』の情報はまだまだ不正確なものだったようですね。
現在、ハルナック夫妻に関する日本語の文献で比較的入手が容易なものとしては『ヒトラーに抗した女たち─その比類なき勇気と良心の記録』(マルタ・シャート著、田村万里・山本邦子訳、行路社、2008)があるので、後で少し紹介したいと思います。

南塚信吾・書評『ヒトラーに抗した女たち』
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2011071704422.html

東畑精一にハルナック夫妻情報を提供した実業家の佐島敬愛(1904-90)は今西錦司・西堀栄三郎らと一緒に旧制三高山岳部を作った人で、岡正雄を介しての民族学との関係なども興味深い人ですね。
あまりきちんと調べたことはないのですが。

佐島敬愛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B3%B6%E6%95%AC%E6%84%9B
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その7)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月29日(火)09時52分49秒
編集済
  ヒトラーへの抵抗運動に関する本を少し読んで、プロテスタント・カトリックとの関係で興味深い出来事がいくつかあり、少し調べてみようかなとも思ったのですが、今の自分にとっては若干負担が重そうなので、もう少し先の課題にしようと思います。
さて、続きです。(p164以下)

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 ニューヨークでの食事を最後として、彼とは再び会うことがない。便りはクリスマス・カードぐらいであった。彼はその後ドイツに帰って「経済省」の役人になった。その仕事が何であったかは知らない。間もなく一つの書を著わした。『マルクス主義以前のアメリカ労働運動』(Die vormarxistische Arbeiterbewegung in den Vereinigten Staaten: Eine Darstellung ihrer Geschichte, Jena 1931)である。例のグスタフ・フィッシャー社の黄色の紙表紙の一六七頁の本で、彼のアメリカ土産であるのはいうまでもない。国初から一八五七年まで、ドイツ移民ワイトリングの「独米労働者大会」に筆をおいている。特に特徴的とはいえぬが読みやすい書物である。一つの概論といえよう。もちろん前掲の佐藤昌介さんの本から多くの引用がある。
 しかし何時の間にやら、ハルナックとの間の交渉は無くなってしまった。彼とミルドレッドとはどうしているか、最初の頃は時々思い出すことはあっても、ドイツはナチ政権に変り、ヨーロッパの政情はけわしく、また日本も然りであった。あのままにすべてが平凡に過ぎてしまえば、ハルナック夫妻はもうそれ切りの人に終ったかも知れない。ドイツも日本も敗戦の国として、混乱の間にもう彼らのことも頭に浮ぶだけの余裕もなくして過ごした。
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ウィスコンシン大学図書館サイトにミルドレッドが、

Wisconsin born and educated, resistance fighter during World War II with the Red Orchestra Movement.

として紹介されていて、そこにアルウィッドの「例のグスタフ・フィッシャー社の黄色の紙表紙の一六七頁の本」の写真もありますね。

Honoring Mildred Fish Harnack
https://www.library.wisc.edu/archives/exhibits/campus-history-projects/honoring-mildred-fish-harnack/
https://www.library.wisc.edu/archives/wp-content/uploads/sites/23/2015/06/bookcover_ArbeitVerStaatenDeu1931_ah_fs.jpg
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その6)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月28日(月)10時35分1秒
編集済
  続きです。
ここも省略しようかなと思いましたが、ハルナック→レッド・オーケストラ→ソ連のスパイ、みたいな単純な話ではないことの傍証にはなるかもしれないので、載せておきます。

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 五

 ニューヨークに着いてから、ハルナックは数回私の宿を訪れてきた。当時ドイツは第一次大戦、インフレーション等の苦悩を漸く突破し、経済再建の時代であった。産業の合理化は着々と行われて、新しい設備がどしどしなされつつある時代であった。しかし賠償の重荷の続く時代であった。ドイツの経済再建が新しく発展しつつあった米国経済に多くの範をとったのも無理のない時代であった。しかし注意すべき点は─これはハルナックの入れ知恵である─ドイツ人のアメリカ研究は、アメリカ経済の「奇蹟」(Wirtschaftswunder)をむやみに讃美的に見るか、或いは全く逆であるかの両極端となっている。ドイツにはもっとドイツ固有のものの上にアメリカ経済を考えねばならないのが本来の道であったと思う。これはそうとして、この場合にもハルナックの思想は経済に偏していなかった。彼は常にドイツの政治的成熟の重要を云ってやまなかった。これは恐らく何びとにとっても常識であろう。実際のところ、あらゆる面で逞ましいドイツの中で、逞ましくないのは政治、国際政治の面であったといい得よう。僕はその後ブレンターノの『自叙伝』の一部を読んだことがある。この伝記には副題がついていた。「ドイツの社会的発展のための闘い」(Kampf um die soziale Entwickelung Deutschlands)というのである。ここで社会的というのは、いうまでもなく近代社会的の意味のもので、ブレンターノが一方イギリスの自由主義の道を踏みつつ、他方社会政策その他種々の労働政策や社会保障政策の首唱者であったのは、ひとえにドイツに大きな近代社会を形成し、伝統の国家主義や官僚主義などに対峙せんとしたものとの思う。また事実彼の生涯にはそういう仕事のための一線が貫かれている。或いはもっと具体的に、イギリス流の社会が彼のヴィジョンの中に浮かんでいたのかも知れない。ドイツが最も必要としたものは、その意味での社会的成熟であろう。僕は後になってブレンターノの本を読んで、ふとハルナックがかつて強調して止まなかったドイツの政治的成熟ということを想い出さざるを得なかったものである。第一次大戦の間の苦労、それにも増してドイツの敗戦は、当時のハルナックにとっては正に至上の問題であった。彼が教室の帰り途などで話すアメリカ労働史の問題よりも、こういった会話の時の方が遥かに熱をおびていた。当時の僕はもちろん敗戦ということを知らなかった。僕はその意味で、或いはハルナックを底の底までは到底理解し得ないものであったかも知れぬ。
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ブレンターノは有名な学者や作家を輩出した名門一族ですが、このブレンターノは経済学者のルヨ・ブレンターノ(1844-1931)ですね。
例によって英語版にリンクを張っておきます。
『自叙伝』(Mein Leben im Kampf um die soziale Entwicklung Deutschlands)はブレンターノが亡くなった1931年に出版されたようです。

Lujo Brentano
https://en.wikipedia.org/wiki/Lujo_Brentano

>筆綾丸さん
>beheaded には驚きました。
眼を疑いますよねー。
 

駄レス

 投稿者:キラーカーン  投稿日:2017年 8月27日(日)00時29分13秒
  >>英語とドイツ語では決定的な違いがあります。
>>それは、日常的な会話において過去のことを言う場合には、
>>現在完了形を使う、という点です。

これは、私も大学で教わりました。
で、この場合、動詞句が文末に来るので、
とりあえず、「Ich  habe」と言っておけば、
格変化を間違わなければ
後は日本語の語順で何とかなります。

 

habe ~ geliebt

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 8月26日(土)14時50分20秒
  小太郎さん
ご丁寧にありがとうございます。
ナチの処刑方法というと、銃殺とガス室のイメージが強いので、beheaded には驚きました。
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Her last words were purported to have been: "Ich habe Deutschland auch so geliebt" ("I loved Germany so much as well"). She was the only American woman executed on the orders of Adolf Hitler.
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「"Ich habe Deutschland auch so geliebt" ("I loved Germany so much as well")」における、habe・・・geliebt(動詞+過去分詞)という「現在完了形」は、英訳も loved ではなく have loved になるのではないか、と思いましたが、これは正確な英訳なんですね。ドイツを愛したが、それは終わったのだ、という含意になり、last words がドイツへの訣別の辞になっていて、胸を打ちますね。

http://www.kenkyusha.co.jp/uploads/lingua/prt/15/gl26.html
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過去のことを表現する場合、英語と同様に、ドイツ語にも過去形と現在完了形があります。しかし、英語とドイツ語では決定的な違いがあります。それは、日常的な会話において過去のことを言う場合には、現在完了形を使う、という点です。
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東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その5)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月26日(土)13時35分19秒
編集済
  自動車旅行に関する記述は省略しようかなとも思いましたが、当時のアメリカの雰囲気を知る参考になるので、そのまま載せておきます。(p161以下)

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 四

 アマナから方向を転じて、東行してシカゴ、それからニューヨークまで、およそ二千マイル、二十日近い愉快な旅であった。ミシガン州の横断や、ハドソン河に沿う百五十マイルの旅は殊にアメリカの風光を満喫させてくれた。ハルナックはわれわれの財布掛りであった。彼はドイツ人らしく緊縮予算で終始した。夜は一ドル以上の宿には断じて宿らさなかった。丹念にそんな旅館または民家を探した。この旅行も最初のしばらくは一行五人であったが、どこであったか忘れたが、ハルナックは或る町の宿で一室にベッドが五つあって全部で五ドルという宿を探し出して来た。食事についても同じで、朝は少しドライブしてから、何処かの店でホット・ドッグとコーヒーとで十五セントの食事であった。ナイヤガラに着いた時の昼めしだけは、緊縮を緩和するというので、滝を見ながら、さる旅館のテラスで大いに奮発した。
 田舎道をドライヴし、夜は農家の一室にとまり、時として農家の一同と一しょに食事をなし、夜おそくまで語ったり、子供にヴァイオリンをひかせたりしたことは、私にとって未だに鮮かに残っている印象を与えた。どこへ行っても、農民の一家は気安く語り易く打ち融け得る平和な社会である。他人や他国人を警戒するようなことは全くない。僕はこの旅行以来、アメリカの農家が殊のほか好きになった。話が横に飛んだが、ハルナックと共にこの旅の一夜、さる宿の主婦からお目玉を喰ったことがある。たしかシカゴ近くのあの時計で名のあるエルジンの町のはずれ、ある一民家にとまったことがあった。残念ながら小さいベッドが一つとダブルが一つしかない。籤をひいたら僕とハルナックとにダブルが当って、松井氏は独り寝の気楽さである。われわれの寝ばなしといっても、そう英語をうまくはいえない。自然に声高くなってなかなか尽きない。夜半主婦がノックしていう、今日は家の娘が結婚して宿っているので静かにしたい、おしゃべりを止めませんか、と。
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『松井七郎自叙伝 米寿記念出版』(第三書館、1984)を見たところ、自動車旅行の記述は非常に淡白なものでした。
「ハルナックはアマナで別れたが、東畑教授とはそれから約二週間ニュー・ヨークまで、自動車旅行をした」(p87)との記憶は、東畑精一の記述と異なりますが、これは東畑精一の方が正しそうですね。
松井七郎は最初に学資稼ぎの労働をするためにカリフォルニア州を訪れ、そこで移民排斥の険悪な雰囲気に身近に接するなどの経験があって、アメリカ社会の良い面ばかりを見た東畑精一と違い、アメリカを単純に礼賛することはできなかったようです。
松井七郎にとってハルナック・東畑との自動車旅行は多様なアメリカ体験の中での、それほど重要ではない一エピソードで、ハルナックも多くの知人の中の一人にすぎなかったようですね。
 

ヒトラーが命じたミルドレッド・ハルナックへの二度目の裁判

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月26日(土)13時03分42秒
編集済
  >筆綾丸さん
>Unbeknownst to him という奇妙な語

これですね。

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From 1937-41, Harnack, through a contact of his American wife, Mildred, held close contact with Donald Heath, the First Secretary at the US Embassy, to inform the US about Hitler's preparations for war. In 1941, after the Americans left Berlin, Harnack was contacted by the Soviets, and agreed to supply them with information about Hitler's war preparations. Unbeknownst to him, they applied the code names Balte and Corsican to him. While Harnack's relations with the Americans had been based on a mutual friendship with Heath, his relation with the Soviets was reluctant, as he didn't trust Stalin.

https://en.wikipedia.org/wiki/Arvid_Harnack

1937年から41年の間、アルウィッド・ハルナックは、アメリカ人の妻、ミルドレッドを通して、米国大使館の一等書記官、ドナルド・ヒースと密接に連絡をとり、ヒトラーの戦争準備に関する情報を提供した。1941年、アメリカ人がベルリンを去った後、ハルナックはソ連人から接触され、ヒトラーの戦争準備に関する情報を彼らに提供することに同意した。ハルナックには知らされていなかったが、ソ連人はハルナックに Balte and Corsican というコードネームを付けていた。ハルナックとアメリカ人との関係はヒースとの相互の友情に基づくものであったが、ソ連人との関係は、ハルナックがスターリンを信用していなかったために、気乗りのしないものであった、云々。

ソ連崩壊までは、「レッド・オーケストラ」は要するにソ連のスパイというゲシュタポ由来のレッテルが貼られたままだったそうですが、このあたりの記述は比較的最近の評価の反映のようですね。

>妻の desired death sentence

アルウィッド・ハルナックの記事には、

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Harnack's wife Mildred was originally given six years in prison, but Hitler swiftly cancelled the sentence and ordered a new trial, which pronounced the desired death sentence.
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とありますが、ミルドレッドの方を見ると、

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Mildred Fish-Harnack was initially given six years in prison, but Hitler refused to endorse the sentence and ordered a new trial, which ended with a sentence of death on 16 January 1943. She was beheaded on 16 February 1943.

https://en.wikipedia.org/wiki/Mildred_Harnack

となっています。
ミルドレッドは最初の裁判では6年の禁固刑に処せられたが、ヒトラーは承認せず、再度の裁判を命じ、二度目の裁判で死刑が宣告された。そして斬首された、という経緯ですね。
とすると、desired death sentence は「ヒトラーによって望まれた死刑」ということのようですね。
 

desired death sentence

 投稿者:筆綾丸  投稿日:2017年 8月25日(金)13時46分25秒
編集済
  小太郎さん
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アメリカのいわゆる大量生産、商品の標準化は、まさにその経済的生産力の基礎である。しかしこれが人間文化や教育に及び、人の思想まで支配してくることになっては大なる不幸である、実際アメリカ人、殊にアメリカの女は、考えることまで同じで標準化されておる、こんなところには失恋など起こりっこない、いくらでも代替物がころがっている、一人一人の女はまさに Gattungsexemplar(同類中の一見本)である、と。
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アメリカではなくドイツにおいてナチズムとして的中してしまった、というのは歴史の皮肉ですね。

ご引用のウィキのハルナックの解説に、Unbeknownst to him という奇妙な語がありますが、Unbeknownst は unknown(英語)と unbekannt(独語)がごちゃ混ぜになったものですね。

夫の meat hooks による death by hanging はともかく、妻の desired death sentence がよくわからないのですが、致死量の毒薬を渡されて死を強要される、というようなことですかね。

ウィキのドイツ語の解説には、the location of their remains is unknown ながら、夫妻の墓石の写真が載っていますね。
「例の gemütlich という言葉は、彼の口から実にしばしば出たことであった。」とあるように、痛ましい死に方に反して、gemütlich な墓石だ、と言えるかもしれません。

 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その4)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月25日(金)11時23分34秒
編集済
  ハルナック夫妻は反ナチ運動のひとつ、いわゆる「レッドオーケストラ」のメンバーとして活動し、逮捕・処刑されるのですが、東畑精一のエッセイは二人の出会いの時期を描いている点で類書がないと思われるので、丁寧に紹介しています。
このエッセイは『心』という雑誌の昭和29年4月号が初出ですが、当時は東畑精一も知らなかった事情が、今ではけっこう明らかになっており、後で若干の補足を行なうつもりです。
それでは、続きです。(p159以下)

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 三

 ハルナックと殊のほか親しくなったのは、一しょに三週間足らずの自動車旅行をしたときであった。いま同志社大学の教授をして労働問題の研究家である松井七郎氏も、当時ウィスコンシン大学にあってコンモンズの門下として博士論文を書いていた。松井氏の運転で一台のボロ自動車による旅は終始した。在学二学期間、田舎の落ちついた大学町─近年『ライフ』がアメリカで最も住みよい町の一つにあげた─マヂソンの町、その麗わしい風光と親しくなった人々を後に残して旅立ったのは、たしか翌年の六月の始めであったと思う。新緑の頃、さわやかな風の頃であった。われわれは西行してミシシピイを渡り、アイオワ州の「アマナ共産団」(Amana Community)をおとずれた。アマナはもとニューヨーク州にあったが、後にここに移った一種の宗教的共産団である(アマナとは真実というヘブライ語であるという)。今は記憶もうすらいだが、当時たしか千五百名ほどの団員がいた。これは十九世紀の四〇年代ドイツから宗教上の確信をアメリカの新天地で果すべく移住して来たもので(インスピレーショニスト)、われわれが訪れたときの団長ハイネマン(?)は白いヒゲのある八十歳ぐらいの老人であった。なお元気で農場を見廻っていた。なんでも氏が二歳か三歳の頃ドイツから移ったのであるということであった。写真をとろうとしたら、娘さんに当る老婦が、それはアマナ十戒の一つを破ることになるといって止められた。
 アマナ共産団は朝夕お祈りに送り、生活は農業を主とし、かたわら毛布の生産をなすことによった一種の宗教団体である。もちろん生産の共産主義的遂行に重点があるが、その他に食事も共同になしている部分が多いようであった。しかしもちろん個々の家庭内の「個人的」な消費生活があった。私が訪れた時計工の宅では色々ともてなしにもあずかったし、また当時禁酒法の時代であったが、そこはドイツ人のこと、まがいらしくもないビールも飲んできた(アメリカ人は造語の天才である。Near-beer とは良く出来た言葉である。われわれは「人造米」をよくいうが、これは正に Near-rice だ。尤もこれをまがい米といったら買手はなくなるかも知れない)。しかし当時すでに若い青年男女の間にかかる生産と生活形態、祈りの中に何物かを抑制的に送る日夜がもはやひきつけるものが少なかったと思われる気配が強かった。そんな話をしかけると、いずれも逃げ腰に青年諸君はなっていた。またすでにアマナ共産団を去った青年もあったし、現にわれわれの主たる話し相手の事務総長ともいうべき人の息子のごときも然りであった。十戒の中にも不自然のものもあった。パイプ煙草や葉巻はよろしいが、巻煙草は禁制というがごとくである。なんとなく昔はあったであろう力が、そこに籠っていない感じに満ちていた。果せるかな一九三〇年代の恐慌期にとうとう解散して株式会社になったということを、われわれがアマナを訪れたことを知っている一人のアメリカ人から、余程後になって日本に帰った僕に通知をくれた。いずれにしてもこれで、ロバート・オーウェン以来数多くあった新天地アメリカの共産団の最後のものが、百年近い存在の後に解消したのである(一橋大学教授井藤半彌氏の詳しい研究がある。「アマナ共産団の生成と終焉」『国家学会雑誌』六二巻、八及び九号、昭和二三年、がこれである)。
 アマナ共産団はドイツ人の社会であるので、ハルナックを喜ばすことは非常なものであった。彼は独りで実に多くの家を訪れて大活躍であった。しかし僕とそれについての感想を同じくした。われわれにアマナを教えて下すったコンモンズの「資本主義と社会主義」の講義を思い出して、コンモンズへそういう意味の手紙を二人で出したことであった。またわれわれの宿ったのは共産団の中にある一つの粗末な旅亭であるが、それはハルナックに云わせると、正にドイツの田舎にあるのと同じものであった。またこれこそ真のドイツ料理だといって、食事を楽しんだのを今なお良く記憶している。
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禁酒法の時代であっても「まがいらしくもないビール」を飲んでいたというのは面白いですね。
「アマナ共産団」の解消については、ウィキペディアを見ると「The Great Change」として、

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In March 1931, in the wake of the Great Depression, the Great Council disclosed to the Amana Society that the villages were in dire financial condition. The Depression was particularly harsh in the Colony because a fire badly damaged the woolen mill and destroyed the flour mill less than ten years earlier. At the same time, Society members were seeking increased secularism so that they could have more personal freedom. The Society agreed to split into two organizations. The non-profit Amana Church Society oversaw the spiritual needs of the community while the for-profit Amana Society was incorporated as a joint-stock company. The transition was completed in 1932 and came to be known in the community as the Great Change.

https://en.wikipedia.org/wiki/Amana_Colonies

とあり、火事で羊毛工場と製粉工場が毀損されて経済的苦境にあったところに大恐慌が襲ってきて行き詰まった、ということのようですね。
さて、三人の自動車旅行の運転手役だった松井七郎は群馬県北甘楽郡小野村(現富岡市)出身の人で、1896年生まれですから東畑精一より3歳、ハルナックより5歳上ですね。
同志社大学を経て1920年にカリフォルニア大学に留学し、1926年の自動車旅行時には既に在米6年ですから、アメリカ社会にもかなり馴染んでいたのでしょうね。
たまたま去年、群馬県におけるキリスト教布教の進展について調べているときに松井七郎の『安中教会初期農村信徒の生活─松井十蔵・たくの伝記』(第三書館、1981)という本を読んでいたのですが、松井七郎は『松井七郎自叙伝』(第三書館、1984)も執筆しているそうなので、ハルナックとの関係が何か出ていないか調べてみようと思います。

「松井七郎教授 略歴」
https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/489/1556018.pdf
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その3)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月24日(木)11時10分58秒
  続きです。(p157以下)

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 ハルナックはアメリカの労働運動の歴史を研究に来たのである。彼もやはりロックフェラー財団からの給費生であった。アメリカの娘と結婚したせいもあろうが、発音はドイツ人らしさを喪わなかったが、英語はメキメキ上達し、私の英語など問題でなくなった。労働運動の研究ならば、その第一人者たるコンモンズのところに来るのは当然で、先生も殊のほか彼を愛した。彼はまた幾多の点で、コンモンズと共通的な要素をもっていた。純粋経済学的な思考は彼のとらないところであり、その方法はむしろ制度学派的であった。労働運動の研究には、そうした方法が一層収穫の多いのも無理はないところであろう。思想的には恐らくワイマール憲法的ともいうべきものであろう。リベラルでのレフトという色彩が強かったように考える。いずれにしても意見が強く、なんでも良く自分の意見を述べたてた。そういう意味でわれわれのゼミナールでは花形の一人であった。Shosuke Sato, History of the Land Qestion in the United States, pp. 181(『アメリカ土地問題史』)は類書の中でも最も纏まりのよい本だ、君は読んだことがあるかといって、盛んにほめたたえた。これはもとの北海道大学総長佐藤昌介さんの処女作で、ジョンス・ホプキンス大学の歴史学叢書の一編である。海外で日本人が書いた書物は日本のことに関するものが大半であるが、佐藤さんはアメリカの一つの歴史を、当時(一八八六年)殆ど処女問題であったものについて書いて、大いに気をはいた。僕はもちろんその書名は知ってはいたが、その当時まで読んだことはなかった。しかしハルナックのいうごとく、実際によく纏まったしかも多方面的な書物で、今日でもしばしば引用せられている。労働運動の研究にももちろん欠くを得ない書物であろう。じっさいのところアメリカにおける土地問題を知らないでは、その労働組合の早く成立したことすら理解し得ないであろう。
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Shosuke Sato の History of the Land Qestion in the United States は今でもアマゾンで普通に買えるようですね。

https://www.amazon.com/History-Land-Question-United-States/dp/1166030709

北海道大学初代総長の佐藤昌介は1856年生れですから、History of the Land Question in the United States が出たのは1882年に渡米して4年後、30歳の時ですね。
ウィキペディアや出身地岩手県の「いわての文化情報大事典」サイトにも同書への言及はないようで、ちょっと残念な感じがします。

佐藤昌介(1856-1939)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%98%8C%E4%BB%8B
「いわてゆかりの人々」内、佐藤昌介
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/yukari/data/satoshousuke.html
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その2)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月24日(木)09時56分57秒
編集済
  続きです。(p156以下)

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 二

 当時の私は、ドイツの学問には多少の親しみをもってはいたが、アメリカは全く何もかもが処女地であった。そんな次第で、ハルナックからはドイツの社会科学などについて聞きただすことも教えられることも多かった。二人はそのために相当親しくなったし、一しょにお茶をのんだり、大学のそばの麗しいメンドタ湖畔を散歩したりすることが多かった。アメリカのようにビジネスライクで落ちつかぬところはない、コーヒー一杯ゆうゆうと飲めぬ、ドイツに来給え、とはハルナックのよくいったところである。例の gemütlich という言葉は、彼の口から実にしばしば出たことであった。僕は当時もちろん未だドイツを知らない。アメリカの殺風景なメシ屋やドラッグ・ストアでコーヒーとパイぐらいを食う以外には、ドイツ流のあの音楽をたのしめるカフェーなるものを知らなかった。ハルナックはときどき甚だ手きびしい批評をアメリカに加えた。今でも覚えている一つがある。アメリカのいわゆる大量生産、商品の標準化は、まさにその経済的生産力の基礎である。しかしこれが人間文化や教育に及び、人の思想まで支配してくることになっては大なる不幸である、実際アメリカ人、殊にアメリカの女は、考えることまで同じで標準化されておる、こんなところには失恋など起こりっこない、いくらでも代替物がころがっている、一人一人の女はまさに Gattungsexemplar(同類中の一見本)である、と。
 それがそうであるか否かは僕にはわからないが、なかなか手きびしい。ところが夫子自らが自分の言葉を破るような事件の主人公となった。というのは、彼は間もなく一人のアメリカ娘と結婚したからである。それがミルドレッド(メードン・ネームはフィッシュ)である。彼女はけばけばしくない全く家庭的な女で、同じくウィスコンシン大学で心理学か教育学かを研究していた。ハルナックと僕は同年輩ぐらいであったが、彼女はその動作や言葉つきから考えると、むしろわれわれより年長ではなかったかと思う。ハイヒールではなしに平底の靴をはき、質素であるが快活なところがある女であった。「類中の見本」でない女もアメリカに居たねといってハルナックをひやかし、苦笑せしめたこともあった。二人は始めて会って、もう一週間目に結婚し、そして最後を共にしたのである。何でこんなスピーディーな始まりが始まったかは私には分からぬ世界である。いずれにしても、ミルドレッドとも私は親しくなったのはいうまでもない。
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「ハルナックと僕は同年輩ぐらいであったが、彼女はその動作や言葉つきから考えると、むしろわれわれより年長ではなかったかと思う」とありますが、東畑精一、アルウィッド・ハルナック、ミルドレッド・ハルナックはそれぞれ1899、1901、1902年生まれなので、実際にはミルドレッドが最年少ですね。

Arvid Harnack(1901-42)
https://en.wikipedia.org/wiki/Arvid_Harnack
Mildred Harnack(1902-43)
https://en.wikipedia.org/wiki/Mildred_Harnack
 

東畑精一「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」(その1)

 投稿者:鈴木小太郎  投稿日:2017年 8月23日(水)10時03分42秒
編集済
  『私の自叙伝』の「師友録」の二番目に「ハルナック夫妻─ウィスコンシン大学の思い出─」というエッセイが載っています。(p145以下)

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 アルウィッド・ハルナック夫妻(Arvid and Mildred Harnack)といっても、恐らく日本人のだれもが知らない名前であろう。ハルナックといえば、あるいは古い哲学や宗教学などの研究家は、二十世紀初頭ベルリン大学の教授であり、かつてのカイゼルのお気に入りであったといわれる、宗教史や教義史の多数の著書で有名であったアドルフ・フォン・ハルナックを思いだされるかも知れない。両者には正に関係があるのであって、ここでいうアルウィッドはアドルフの甥である。もっと詳しくいうと、アドルフの弟オットー・ハルナックは、これまた大学教授として文学史の著書など数多くあったが、この息がアルウィッドなのである。
 もしもアルウィッドが、比較的名門に生まれて普通のコースを経ながらドイツの大学を卒業し、一介の官吏となって型の如く昇進している人だけであるならば、私にとっては、まず世間一般並みの交友の一人であったに過ぎないものであろう。しかしただ彼およびその夫人の最後の事情のために、かえって私にとっては忘れられない人々になってしまった。

 一

 今はむかし、大正十五年の夏のこと、私はアメリカに留学することとなった。当時はドイツに行きたくて、夢にもアメリカに行くとは思わなかったのが、たまたま当時のロックフェラー財団から奨学資金をもらう選に当って、ウィスコンシン大学に行くこととなった。九月の初旬、快よき気候の頃マヂソンの大学町についた。早速大学の事務室─たしかバスコン・ホールといって湖水を見おろす丘の上にあった─に、入学登録をしに行った。大学の様子などさっぱり分らず、おまけに当時のこととて、渡米するまで殆ど西洋人などは高等学校の先生ぐらいにしか会っていない有様だったので、会話もできず、況んやアメリカ人のスラングには閉口した。その際、同じく怪しい発音でやはり弱っている一人のドイツの学生があった。同病(?)相あわれむ次第で、暫く二人で英独チャンポンの話などをして別れた。
 当時ウィスコンシン大学には、有名なコンモンズ先生がいた。『資本主義の法律的基礎』Legal Foundation of Capitalism, 1924 というなかなか難解な、法律学と経済学をつき合わせたような書物の著者であった。その先生が「資本主義と社会主義」という講義を始めたり、或いは「正当な価値」(Reasonable Value)のゼミナールを開くという次第で、私はいささか無鉄砲であったがいずれにも参加し、最後まで苦しんだ。さてそのいずれかの講義室に入ったら、再び右に述べたドイツの学生に会った。始めて名のり合ったのであったが、それがアルウィッド・ハルナックである。おまけにコンモンズは外国からの学生には甚だ親切な先生で、聴講生二十名ぐらいの中で、外国人学生は最前列にならべてわれわれの言葉─聞く方もしゃべる方も─のハンディキャップを軽くしてやろうというのである。僕はハルナックの隣席を割り当てられることとなった。
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「コンモンズ」は今は「コモンズ」と表記するのが普通ですかね。
ウィキペディアに日本語版記事もありますが、例によって英語版の方にリンクを張っておきます。

John R. Commons (1862-1945)
https://en.wikipedia.org/wiki/John_R._Commons

「バスコン・ホール」とありますが、これは John Bascom(1827-1911)という学長にちなんで名付けられたそうで、「バスコム」の方がよさそうですね。
なかなか壮麗な建物です。

https://en.wikipedia.org/wiki/Bascom_Hill
 

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