勝手じいさんのつぶやき



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


155件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[158] 酷いギックリ腰

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月14日(木)15時21分57秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

除草剤用の水タンク20kgを何度か持ち上げていたところ腰の筋肉がビリビリして”いかん”と思ったときはまだ大丈夫だったのですが、一晩たって腰の痛みが出現し、軽くギックリ腰になってしまい御嶽行きの前であったため1週間近く安静にしていて良くなったと思い、片道3時間の御嶽往復をしてしまい、運転中は何ともなかったのですが翌朝から真面に起きられなくなり、酷いギックリ腰になってしまいました。それ以来、もう10日以上たつのに右足が真面に挙げられなく、立っているのが一番楽なのですが、すると周りの筋肉に負担と成り疲れて横になると寝返りする度ビリビリ痛み、ベッドから起きるのも一大事で、また筋肉を痛めてしまうという悪循環で2週間が経とうとしています。”あなどることなかれ”です。




[157] 三人の倉知茂兵衛

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月 6日(水)05時19分53秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

倉知茂兵衛は初代から三代続けて茂兵衛と名乗り四代目からは別名となっているが、初代倉知茂兵衛(1808-1860)は古伯霊神でありその実子が二代目倉知茂兵衛(1837-1911)で霊神名は明心霊神であり昭和の時代には三代目倉知茂兵衛となっている。木曽御嶽本教心願分祠殿の宗教法人設立時の責任役員に名を連ねているのは三代目倉知茂兵衛である。心願講は古伯が天保元年に組織し、同年378名の講員を引き連れ御嶽登拝をしているがその中に猪高村の人々も参加をしていたのであろう。当然岩作村の人も参加していたと思われ、それが高じて天保8年小野村代官所に願い出たと思われる。そうだとすれば地元の主体が其処にはあり納得がいく。官有地であれば勝手に祠を建てることぐらい行なえるのだが民有地であることからは地縁が必要である。



[156] 木曽御嶽本教総本庁

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月 4日(月)17時49分31秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

三岳の里宮にある総本庁に赴きお話を伺ってきました。内容は霊神帳についてですが、始まりは「名東区の歴史」のなかの御嶽講の件で、猪高村の霊神帳の記述があったことで、全員の名前が出ていなかったため”外8名”となっている”外”を探しに伺いました。平成の初め以降はデータ化されてはいたのですがそれ以前については紙ベースでありしかも地域ごとに纏まっているわけでも無く探すにはとても膨大な時間がかかるため対応は出来ないと言うことでした。しかし教師の方が無くなった場合届けを出される場合も在るとのことでそちらを当たってはみますがと少しの希望を持たせて頂きました。気長に待ってみます。しかし伊藤正甫さんはどこで霊神帳なるリストを見られたのか分かりません。今は亡くなられて見えますのでお聞きも出来ずどうしようもありません。人づてに昔は岩作に霊神帳があったようだと聞きましたので、もう一度、岩作御嶽山に伺って尋ねてみたいと思います。

今回登拝時に靴底が剥がれてしまいましたので、総本庁でたまたま見掛けましたエアークッション付の地下足袋を購入してきました。次回までに減量をしてこの足袋で登拝をしたいと思います。
もう一つ収穫がありました。御嶽海の後援会に入って見えるのでしょうか、9月場所の番付表も戴いてきました。ありがとうございました。



[155] 続時香忘

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月 2日(土)16時12分38秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

休みの日は一時間程度は待つようです。あらかじめアイスクリーム工房でカップクリームを食べていましたので苛つきはありませんでした。これは食した夜明け蕎麦と焼き蕎麦掻きですが蕎麦掻きは醤油を付けてのりで巻いて食べるよう奨められました。醤油だけの方が蕎麦の焼けた香ばしさがたって良かったと思いました。夜明け蕎麦は白と黒の貼り合わせた細切りで独特の味わいでした。結構量はありましたので堪能しました。ごちそうさまでした。



[154] 時香忘

投稿者: Masami 投稿日:2017年 9月 2日(土)12時12分36秒 dcm2-119-243-53-61.tky.mesh.ad.jp  通報   返信・引用

今は木曽の蕎麦屋で予約待ちをしています かれこれ一時間待っていますがきっと美味しいのでしょう



[153] 主体の埋没と宗教心

投稿者: masami 投稿日:2017年 8月27日(日)16時32分8秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

お忙しい中、教圓寺の和尚さんに壁ノ本の山についてお話を少しだけ伺いました。この山に御嶽山が出来た経緯に関しては何も伝わっていないとのことでした。突然何処の馬の骨とも分からぬものが尋ねてきて根掘り葉掘り聞かれても怪しんで当然、本当のことは言われてないと思いました。しかし、今の堂主や宗教法人成立時の明生霊神は地元の方としてよくご存知で、御嶽の存在は黙認されているようでした。所謂、地縁による継承がされていると思われ、この山に祠が出来たときも同じような環境であったのではないかと思われました。従ってこの地に縁もゆかりもないものが勝手に祠を建てることはしていなくて、地元の人が主体で設立されたのでは無いかと考えました。岩作も岩崎も同じような話が伝わっているのは、いくつかの話が混在しているからだと思われ、その中に地元の主体が埋没してしまったものと考えました。神仏判然令から片や宗教の道を捨て国に追従した村と、片や御座を立て託宣を聞く、迫害されながらも、宗教にこだわった村と、二つの道に分かれることとなったのは、それぞれの村の宗教心の違いがあったのではないかと思えてならない。



[152] 地震の影響

投稿者: masami 投稿日:2017年 8月23日(水)04時54分39秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

2017年6月25日7時2分に長野県南部にて震度5強、M5.7の地震が起きましたが、その影響が霊神碑にも出ており、倒れたり向きが変わったりしていました。家屋への被害は目立ったものは見受けられませんでしたが、滝行を予定されていた「かんまん滝」へは途中の崖崩れで行けなくなっていました。清滝も岩が崩れて普段の通路が通れなくなっており、川の反対側に木組みで新たな通路が作ってありました。着替えをする小屋も岩の直撃を受けていました。滝つぼの所にも大きめの岩が落ちており清滝での滝行も出来ず、新滝で行いました。こちらは地震の影響は無いようでした。



[151] 残念

投稿者: masami 投稿日:2017年 8月21日(月)16時19分32秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

今年も又々高針心願講にお供し御嶽山登拝に行ってきました。黒沢口の大祓で滝行をして身を清めロープウェイで上まで行き、登り始めましたが20分ほどで私の靴底が剥がれてしまい、応急処置をして登ろうとしましたが今度は息が上がってしまい断念をしました。ゆっくりと靴底の無い靴で滑らないように気をつけながら途中の小屋までたどり着き小屋の人と降りてきていた登山客にお世話になり接着剤とガムテープで留めて頂いて何とかロープウェイの駅まで戻ることが出来ました。お世話になった方には感謝いたします。駅に着いて暫くして雨も降り出してきましたので都合が良かったと思いました。感謝、感謝、ありがとうございました。



[150] 現在は

投稿者: masami 投稿日:2017年 8月21日(月)08時48分57秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

明治4年正月、神仏判然令により黒沢里宮は御嶽蔵王権現から、若宮は安気大菩薩から御嶽神社と名称を変更している。明治2年正月、王滝里宮は御嶽岩戸蔵王権現から御嶽岩戸神社に名称変更をしている。明治5年11月各村々の神社の社格が定められたとき黒沢御嶽神社は郷社に王滝御嶽岩戸神社は村社に列せられる。更に明治15年、御嶽岩戸神社は御嶽神社と名称変更される(御嶽の歴史より)。村社、郷社の資格を得ている以上当然神社明細帳には記載されていることとなる。

御嶽神社は三岳と王滝二カ所にあり、それぞれ

木曽郡木曽町三岳6687 包括団体・神社本庁 法人名・御嶽神社 代表役員・武居哲也 設立S28.02.18
-奥社本宮(長野県木曽郡木曽町剣ヶ峰頂上)
-里社本社(長野県木曽郡木曽町)
-里社若宮(木曽郡木曽町三岳)

木曽郡王滝村3315 包括団体・神社本庁 法人名・御嶽神社 代表役員・滝 和人 設立S28.02.18
-奥社本宮・王滝口(長野県木曽郡王滝村御嶽山頂上)
-里宮(長野県木曽郡王滝村)
-十二大権現
-八海山神社
-田ノ原大黒天
-三笠山神社

として新宗教法人法成立時に宗教法人登録され神社本庁が包括団体となっている。

一方木曽御嶽本教は

木曽郡木曽町三岳3790-5 宗祠(一族の祖先を祭るほこら,祖廟)・御嶽神社 法人名・木曽御嶽本教 管長・武居哲也 設立・S27.7.31 旧法人はS21.6.30

新法人設立当初の代表役員は武居誠、責任役員は山田善吉・市川みわ・松浦利九郎・坂巻達馬・奥牧普二・武居操

となっている。加藤銀太郎はS30.8に責任役員に就いている。



[149] 地籍図の記載事項について

投稿者: masami 投稿日:2017年 8月 9日(水)08時15分35秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

明治17年の地籍図に岩作御嶽社が記載されていなかった。これは、地籍図は村が主体で2通作成し1通は政府に提出し1通は手元に保管した公図であり、公的には明治11年9月9日の内務省達乙第57号の社寺取扱概則に従って作られた、明治12年の神社明細帳に記載されたものが神社として認められるため、神社明細帳に記載のない岩作御嶽社は地籍図には掲載されなかったと思われる。確かに御嶽山の中の御嶽神社や八海神社などは神社明細帳には掲載されていないが、御嶽神社、御嶽社の名称で神社明細帳に記載されている神社は全国に150社認められている。岩崎御嶽社も明治の初めより近在の白山宮の末社扱いがなされ神社明細帳にも記載された御嶽社という名称の氏神(無格社)であったため地籍図に記載されていると思われる。地籍図と違い大日本帝国陸地測量部長湫村の地図はあるがままを記載しており、神社のマークと家宅のマークを付けている。



[148] 文献に寄れば

投稿者: masami 投稿日:2017年 8月 6日(日)19時05分27秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

文献に寄れば、岩崎御嶽山も岩作御嶽山も共に1850年頃明寛明心により開かれたとされ、岩崎が心願講全体の根拠地、岩作が尾張の拠点とされ、講社が旧大字規模で展開して行き、神仏分離令以後その立場の曖昧であったなか、明治15年御嶽教成立と同時に、共に同教団に所属し心願講は尾張三河地域へ勢力を伸ばして行った。昭和21年木曽御嶽本教成立時に岩作の明生霊神が、御嶽教に所属していた心願講全体を木曽御嶽本教に参加させた。昭和27年には岩作御嶽山は木曽御嶽本教心願分祀殿として宗教法人登録され、昭和50年代には心願講全体の根拠地とされた岩崎から岩作へ本部が移設されたが、明生死去後求心力は失われ、本部と単位講社との間の統制関係は衰退傾向にあるとされる。(関 敦啓著:御嶽講集団の組織形態についてー心願講を事例としてーより)

 昭和21年勅令第70号に従って旧宗教法人として木曽御嶽本教は昭和21年6月30日に設立され、岩作御嶽社は昭和21年10月3日木曽御嶽本教御嶽教会心願講総本部の名称、主管者は加藤銀太郎で法人成立となっており所属教派、宗派又は教団は木曽御嶽本教(會)である。その後、新宗教法人法成立に合わせ昭和27年6月10日木曽御嶽本教心願分祠殿に名称変更され昭和26年5月10日法務府令第80号宗教法人登記規則第5項により昭和21年10月3日、昭和27年11月26日に宗教法人設立となっている。
 設立当初の責任役員は加藤銀太郎(銀太郎(1907-1984)は木曽御嶽本教の責任役員にも名を連ねている)、倉知茂兵衛、加納平次郎、石川善助、水野清一となっているがその後昭和36年の登記にも倉知茂兵衛氏の名前は載っている。長久手市郷土史研究会の記述には倉知茂兵衛は明治44年没となっており、この方は明心霊神とは別人と思われる。昭和の初めにも存命であったと書いている方も居られ、ひょっとすると初代以降代々茂兵衛を名乗ったのかも知れない。


 木曽御嶽本教は神社本庁と同列の神社神道系の神道であるが、平成28年の宗教年鑑に寄れば
神社     -
教会数   194
その他   26
宗教法人数 100
教師 男  1176
   女  733
信者数   43290
となっている。

 岩崎御嶽講は岩崎御嶽社附属の御嶽講であるが、明治15年一時御嶽教に参加した事になっているが、明治34年には御嶽社附属講社規約を定め「当講社は愛知県々社以下神職取締所の監視を受くべき事」とし、御嶽教から離れている。しかし心願講全体は昭和21年木曽御嶽本教に参加をしており、岩崎御嶽講は心願講とも離別したことになるようである。

岩崎御嶽社は昭和28年6月25日に法人成立し包括団体は神社本庁となっている。



[147] 岩作教会

投稿者: masami 投稿日:2017年 8月 2日(水)13時37分13秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

明治17年の地籍図で今、岩作御嶽社が在る山と、浅間山の部分を抜き出したものですが、浅間山の浅間社は記載されているのですが御嶽社の記載はありません。岩作御嶽社は明治24年の地図には神社として認識されていますので地図情報からは明治17~24年の間に勧請されたと考えられます。大正期に入っても神社明細帳に記載が無いのは岩崎御嶽社とは違って氏神では無いためかと思われます。神道新派(神社神道系木曽御嶽本教?)の岩作教会なのでしょうか。旧土地台帳によれば、この山は東島にある教圓寺の所有となっており昭和36~37年に一部愛知用水公団に売却されています。その後は一部が建設省、長久手町に所有権移転がされているのみである。



[146] 明治の地籍図と明細帳

投稿者: masami 投稿日:2017年 7月31日(月)17時47分45秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

これは明治17年の岩崎村六坊山の地籍図であるが、御嶽・八幡社として記載され、
同時期の神社明細帳には
本殿:縦1間5尺横1間3尺5寸、境内140坪民有地、崇敬者25戸
由緒:万延元年8月信濃国御嶽山神社大麻勧請創立す
                        とあり
境内神社として山神社、八幡社、白山社、山神社の4社が記載されている。

一方、岩作御嶽山は神社明細帳に記載は無く地籍図は今調査中。



[145] 万延元年の絵図

投稿者: masami 投稿日:2017年 7月27日(木)14時17分35秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

これは万延元年(1860年)とされている岩作村の香流川沿いの絵図ですが、おそらく河川氾濫後(大正13年刊行の岩作里誌に被害の記述有るも直近のものは1856年の暴風雨と記述されるものである)の田んぼの等級評価、反別と給人の絵図だと思われ地名や建物名は書かれていません。岩作村と前熊村との境界の山頂には建物が描かれており、これはおそらく今は無くなってしまった富士浅間社(明治44年9月末社と共に石作神社に合祀)であると思われます。しかしその北の禿げ山の頂には何も書かれてはいません。西の村外れの山ノ神と思しき祠は描かれていますので、山の上であってもなにか祠があれば記入されているものと思われます。従ってこの絵図が書かれた時点では御嶽社に関わる建物は無かったと考えられます。嘉永3年(1850)の暴風雨で甚大な被害を受けた時に出された減免のための検分願いが岩作里誌に掲載されていますが、もしこれに添えられたものだとすれば、安政2年(1855)の奉祀より前となり、禿げ山に何も無くても矛盾は無いと考えます。



[144] 明治時代の地図に見る岩作村と岩崎村

投稿者: masami 投稿日:2017年 7月27日(木)14時13分1秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

明治24年測図の大日本帝国陸地測量部[長湫村]の地図には岩作村と共に岩崎村も掲載範囲に有ります。
上の図は岩作村の拡大図ですが赤色で囲った部分に鳥居のマークと建物マークが2カ所認められます。北側の鳥居が御嶽社で南側は浅間山の富士浅間社です。南の山は寛政年間の地図では浅間山と記載があり既に富士浅間社がお祀りされていたものと思われます。そのとなりの山に御嶽社をお祀りすることは自然なことだと思われます。
下の図は岩崎村の拡大図ですが赤色で囲った六坊山頂上部分に鳥居のマークと共に建物マークが2カ所に認められます。これが岩崎御嶽社と考えられます。
明治24年時点で岩作村、岩崎村とも地図上神社として認識されています。現在、岩崎御嶽社は白山宮の境外末社とされていますので(白山宮誌では明治元年の書上に末社はなく明治12年の書上には末社の記載があるとしてこの間に勧請されたとしているが、明治11年の「神社取調帳」では勧請不詳と記載されている。しかし明治12年の神社明細帳では万延元年8月に大麻勧請と記載される)宮司が常駐する社ではありませんが、神社本庁に属する神社となっています。その運営は岩崎心願講と岩崎御嶽山行者会ですが管理責任は氏子総代である岩崎区議会員となっています。(御嶽信仰を支える人々ー岩崎御嶽山の事例よりー榊原奈央子著より)



[143] 岩崎御嶽山

投稿者: masami 投稿日:2017年 7月20日(木)10時51分2秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

岩崎山の御嶽社に行き、先達さんの話を伺って来ました。結局、岩崎山には上社村どころか高針村、猪子石村の霊神碑もありませんでした。以前に作られたという霊神碑リストも拝見させて頂きましたが、猪高村の関係者らしき人の名前も有りませんでした。猪子石村の人達が血判状まで認め開いたと言われているにもかかわらず霊神碑すらないことが不思議でなりません。

その後の文献を当たる中で猪高村の霊神碑が無い理由が理解できました。この山に霊神場を持つには大字岩崎区への敷地借用書と共に費用が必要であったことが関わっていると思われます。猪高村には土地はありお金を出すくらいなら自分たちの村に霊神場を作った方が良いとしたのでしょう。ここに霊神場が必要なのは町中の人達だったのでしょう。多くの霊神碑は大正から昭和10年代であるとのことです。



[142] 不思議なこと

投稿者: masami 投稿日:2017年 7月15日(土)17時55分52秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

心願講結成時の件で御嶽山を岩崎山に祀るとあるところが不思議でならない。私が小さい頃、岩作(やざこ)を「いわさき」と読み間違えていたこと、猪子石方面から出来町通りを真っ直ぐに東に行くと岩作村に至り距離的にも岩崎村よりは近いことから、或いは最初に猪子石村の有志が相談したのは、岩作山の間違いなのではないかと思えてならない。記述が代官所の文書や発起人の書き置きにあるのであれば致し方のないことで、戯言として嘲笑に付していただければ幸いです。



[141] 岩作御嶽山

投稿者: masami 投稿日:2017年 7月 1日(土)11時23分46秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

この御嶽山にある上社の霊神は、集合碑として写真の中の白瀧霊神、明教霊神、勝心霊神、栄光霊神、明高霊神、栄覚霊神、清信霊神の7体である。日吉の森になかったのは栄光霊神、明高霊神、栄覚霊神、清信霊神です。この碑は昭和61年10月に建立されています。この地には高針心願講の個人の霊神碑はないとのことで、確かに探しても在りませんでした。在るとすれば岩崎の御嶽山に在るとのことでしたので又の機会に探してみます。霊神帳の11名以外にも3名の霊神が認められます。



[140] 王滝村の地震

投稿者: masami 投稿日:2017年 7月 1日(土)05時10分35秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

平成29年6月30日16時00分 気象庁地震火山部発表として、火口周辺警報(噴火警戒レベル2、火口周辺規制)が継続とありますが、噴煙活動や山頂直下付近の地震活動は緩やかな低下が続いており、火山活動は静穏化の傾向がみられているとしています。3年前の噴火からこの地震までと1979年の噴火から山体崩壊を起こした地震までの5年とは関連があるのでしょうか。地震もこのまま治まってくれれば御嶽の登拝も出来るのですが少し心配ではあります。



[139] もう一方(かた)の霊神碑

投稿者: masami 投稿日:2017年 6月28日(水)05時45分42秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

三枚以上の写真が同時に掲載できないため別扱いになってしまいました。失礼を致しました。二枚目は寄進をいただいた不動明王像(ひょっとするとご本人の作)ですがひび割れや欠けがあってかなり傷んでますが、なかなか味のある物です。


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