勝手じいさんのつぶやき



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


173件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[176] 建物登記

投稿者: masami 投稿日:2017年11月20日(月)10時12分49秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

先祖調べの中で、区役所の戸籍が明治19年以前は廃棄されてしまっているとのことから、法務局で古い建物の登記を調べてみることにしました。それには閲覧するだけでも一件当たり400円の費用がかかるとのことです。それに旧地番ではなく今の地番が必要とのことで、そこから調べなくては成りません。大変なことですが他に手立ては無く仕方有りません。これを応用して古瀬間御嶽山の建物登記で明治期のものが出てくれば有り難いことです。ただファイリングが住所順では無くイベントの日付順に並んでいるとのことで古いものを見つけ出すには大まかでもいつ頃の登記か分かっている必要があることです。矛盾しています。余り期待は出来ません。

 後日法務局にて調べましたが大日影の住所では建物登記はされていませんでした。登記されていなくても役所が調べて課税対象とするようで法務局の登記とは関係がないようです。

 其の足で古瀬間御嶽山に寄りましたら、たまたま堂守の下村さんにお目にかかれ、お話を聞くことが出来ました。古瀬間の山は明直さんの土地で彼の住まいの裏山に明治5年開山したとのことでした。但しこの山には開山に関する石碑は無いようですし書類も一切無く口伝でだけ伝わっているものであるようです。この山は赤松林の松茸山だったそうです。一時期管理されること無く放置されていたのを下村さんのご先祖さんが堂守され、代々受け継いで管理されているとのことです。この先どうなるのか心配されておられました。松が枯れてしまったりして整理をし、草の管理をしたところ山全体に三つ葉ツツジが一斉に出てきて今のようになったとのことでした。4月の半ば桜が終わる頃になると、山中にツツジが咲き誇ってきれいな景色になるとのことです。(http://ji2ecn.exblog.jp/21783281/

入り口の鳥居は昭和34年5月に寄進されていましたが、同じ方が不動明王像も後(昭和41年11月)に寄進されています。この山は砂地で粗い砂岩があちこちにあり雨が降ると麓の方に水が湧いてくるようで、嘗ては滝があって其処で禊ぎをしたということです。今では舗装がされたりして殆ど流れていないようです。明直さんの家も無くなってしまっており、猪が暴れ放題となって芝生も剥がされていました。

霊神碑は80基以上があり全体に点在していますが俗名が書かれていないものは何処の誰かは分からないとのことでした。荒れた堂内にあった書類はネズミに食われたり腐ったりして廃棄され記録は何も残っておらず明直霊神の俗名も分からないとのことでした。霊神碑以外にも、嘗ては埋もれていたものを整備されて四国88カ所巡りが出来るようになっています。
11月26日(日)には不動明王像の前で護摩炊きがあり其の準備で弟さん夫妻と共に整備をされていて運良くお目にかかることが出来ました。




[175] 江戸時代末期の弾圧

投稿者: masami 投稿日:2017年11月15日(水)15時30分7秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 先の掲載で触れた御嶽講への弾圧に関して詳しい経緯が石黒智教著「近現代における修験と御嶽講ー北名古屋市域の事例からー」に載っていました。その中で”尾張における近世の修験者と御嶽講との関係は文政期においては「他所之修験」とあるも修験者が御嶽講の講元として関与していた。しかし、俗人の御嶽行者の宗教活動が活発化すると、修験頭清寿院は、藩の行政機関に対して弾圧するように要請する。それは修験の宗教活動と、御嶽行者の宗教活動とが重なることが要因であったと考えられる。”と考察している。つまり修験道の領分を侵す輩であったため藩に働きかけた訳であるが、それで藩寺社奉行がどの程度の取り締まりをしたかは分からないとしている。
 万延元年絵図書上に対して抹消を強いるほどのことでも無かったのかも知れません。それに絵図には祠、神社など名称は一切書かれていないので、描いてあったとしても問題は無かったと思われます。やはり万延元年には岩作御嶽山に関する建物は高根山には無かったと結論づけます。



[174] 不思議なことに

投稿者: masami 投稿日:2017年11月15日(水)14時50分45秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

古瀬間御嶽山が掲載されているであろう地域の国土地理院の地図を1891年~1959年まで収集しましたが不思議なことに神社のマークは付けられていませんでした。地図屋さんにとってはランドマークとなる鳥居や何とか神社と書かれたものが無いことには神社として認識されないのでは無いかと思われます。今建っている位置に鳥居が立てられた年代以降の地図にはおそらくは素直に書き込まれていると思われますので、鳥居の建立年を確認する必要があります。再度古瀬間までドライブしなければ成りません。今度は鞍ヶ池の方に抜けて豊田鞍ヶ池記念館に立ち寄ってみるつもりです。



[173] 法人登録

投稿者: masami 投稿日:2017年11月11日(土)11時59分12秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 古瀬間御嶽山の御嶽神社は国税庁の法人番号検索では出てこないため、どうやら宗教法人登録がされてないようです(法務局調べでも御嶽の名称で法人登録はありませんでした)。同じ心願講でも岩作御嶽山は木曽御嶽本教の教会となっており、岩崎御嶽山は御嶽社として法人登録され其の包括団体は神社本庁で御嶽社附属の講社となっており、小瀬間御嶽山の御嶽神社は宗教法人ですらない状態で御嶽講社附属の御嶽神社となっており、御嶽講としては同じような活動をしていても三者三様の形態を成しているようです。
 この画像は古瀬間村大日影山中の明治17年地籍図です。御嶽社とは記載されていませんが山の中の一軒家で既に古瀬間御嶽山に関連した建物が建っていたと思われます。旧土地台帳に因れば若宮社、御嶽社の名義になっていました。少なくとも明治17年(1884)には古瀬間御嶽山は存在していたと考えられます。明寛(1822-1880)の直弟子明直により開かれたとされていますが明直に関しては詳細は不詳となっています。
 ここで再びの物語ですが、岩崎御嶽山開山と同じように明寛の供養を祈念して直弟子の明直が1880年に開山したのではないかと考えます。(関敦啓著「在俗行者の系譜と里山霊場の存在形態ー尾張の御嶽講を例にー」の文献中では明治5年(1872)の開山とあるが其の由来は記されていない。明治5年というと修験宗廃止の年であるいはそれと関連があるのかも知れません。)



[172] 落丁本

投稿者: masami 投稿日:2017年11月11日(土)04時36分39秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

生駒勘七の「御嶽の歴史」を鶴舞の古本屋で購入しましたが落丁本でした。他の本に比べ安かったのでついついよく調べず買ってしまいました。この本には落丁本が存在しますので購入するときには中身もよく見てからにしましょう。足りないところはコピーで補充するつもりですので問題はありませんが。それに再び売るようなこともありませんし。



[171] 林一心

投稿者: masami 投稿日:2017年11月 6日(月)08時27分49秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

林一心は明治七年(1875)生まれの林甚太郎で、改名して林一心となった行者です。心願講心巴組は大峰山の心巴講が衰退したとき一心行者が心願講の枝講として引き継いだもので、その後は一大勢力となり名門講として昭和初期から戦後にかけて活動しており、其の門弟は心願講全体に数多く輩出されて各講で活躍したとされています(林一心と心願講心巴組の動向「佛窟開創縁由」(林一心著)よりー関 敦啓著)。



[170] ジャコメッティ

投稿者: masami 投稿日:2017年11月 4日(土)02時13分53秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

帰り道豊田市美術館に寄ってジャコメッティ展を鑑賞してきました。細長い彫像でしたが奥さんも日本人のモデルも細長い顔の人でした。



[169] 古瀬間御嶽山

投稿者: masami 投稿日:2017年11月 3日(金)18時43分41秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

古瀬間御嶽山へドライブがてらお参りに行ってきました。全山に霊神碑が多数点在しており、又大きな不動明王像も有りました。霊神碑があるところは背丈の高い木は無く低木のツツジが植えられていました。初夏には一面ツツジの花が咲いてさぞかし綺麗な景色だと思われます。鬱蒼とした感じではなく開けており霊神碑が良く見渡せました。家の爺様と同じ白瀧霊神の碑がありました。ひょっとすると爺様なのかも知れません。ただ御嶽山のマークの下に心の字が無いものでした。爺様は林一心の弟子であったようでこちらの御嶽山とも関連があるようです。こちらは正月の火渡り神事で有名なところですが秋葉山の神事となっているようです。

https://www.youtube.com/watch?v=04YeX-SwuMc



[168] 根本的問題点

投稿者: masami 投稿日:2017年11月 2日(木)05時41分33秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

江戸時代末期、御嶽講が江戸、尾張で盛んになってきたころ、富士講も隆盛を極め既成宗教界の妬みを買い幕府に圧力がかかり、共に新興宗教扱いをされて弾圧を受けたことがあり、講社は様々な方策を巡らしたことが生駒勘七「御嶽の信仰と登山の歴史」のなかに書かれています。このことが代官所への村差出し書類の届け書きに何らかの影響を与えていた可能性もあります。つまり村絵図から岩作御嶽社の祠が削除させられていた可能性です。村絵図を証拠として扱うとき、書き込まれていれば存在証明になりますが、書き込まれて無い時には、無いという証明には成らないことです。作為があるか無いか、この点が絵図を証拠として扱うときの問題点です。



[167] 見落としと問題

投稿者: masami 投稿日:2017年10月16日(月)17時35分42秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

以前災害による減免願いに添えられたとされる岩作村絵図の年代推定をするときに見落としにより間違いをしておりました。
 徳川林政史研究所所蔵の岩作村絵図は、絵図に年代は書かれておらず年代不詳とされています。しかし訴え出る庄屋の名前が記入されており、岩作村庄屋文左衛門、同断八左右衛門となっています。一方、岩作里誌には天災地変の項があり嘉永3年の減免願いが掲載されており、其の名義は総庄屋嘉十郎、御蔵庄屋澤助、御見取庄屋米助となっており先の村絵図と庄屋名が一致しないため、この減免願いに添えられた村絵図ではないことが分かります。
 長久手町史の資料編1の岩作村絵図表書には万延元年(1860)と記載されています。絵図の説明文には「万延元年に作成されたもので」とあり何故にその年代が同定されたのかは記述がありません。岩作里誌に歴代庄屋村長名が載っており、文左衛門と八左右衛門が庄屋に就いていたのは万延元年のみであることより同定されたようです。ただ、岩作里誌の記述にはその近傍での災害は弘化4年9月(1847)、安政2年10月(1855)、慶応元年5月(1865)となっており、万延元年とぴったり一致する災害はありません(勿論全ての災害が記述されているわけではありませんが)。
 従ってこれらのデータからは年代推定は出来ないような気がしますが、もしも村絵図が描かれたのが万延元年で、有るがままを描写したものだとすると(神仏分離令以前で公的なものでも制限が無い時の絵図でありおそらくは素直に描かれているものと思われます)、1860年にもまだ岩作御嶽山に関わる建物は何も無かったことになります。岩作御嶽山に伝わっている1855年奉祀というのは問題があることになります。それに猪子石村有志の話もその通り岩崎山で合っていることとなり、御嶽山縁起に書かれている開山はもっと遡ることになります。岩崎御嶽社の勧請が明治11年神社取調帳の「不詳」の記述から突然明治12年神社明細帳の「万延元年」に変わったのは、言い伝え等の書上が無くても石碑の記述でも良いとされたことからであると考えられます。其の石碑、石像は万延元年八月吉日と刻まれたものが4基と万延元庚申年と刻まれたもの1基が認められていますので万延元年八月勧請となっているようです。刻み文が同じなのは何かの建物の落慶法要と関係しているのかも知れません。

そこでこんな物語を作ってみました

倉知茂兵衛22才(1830)講社を作り講員378名を引き連れ御嶽登拝する。
倉知茂兵衛29才(1837)二代目が生まれたのを契機に猪子石村の有志と共に小野村代官所に願い出て岩崎山に御嶽蔵王権現をお祀りする。
倉知茂兵衛52才(1860)没す、二代目倉知茂兵衛24才丹羽宇兵衛38才願いにより岩崎村住人と共に水野代官所に申請祠の改修をし再興開基弔う。落慶法要時に石碑を建てる。
二代目倉知茂兵衛29才(1865)宇兵衛と共に岩作村住民の願いにより水野代官所に申請岩作高根山に御嶽蔵王権現をお祀りする。それに合わせて上社村も日吉の森に大麻勧請する。

何だかしっくりときます。



[166] 嘉永2年3月

投稿者: masami 投稿日:2017年10月12日(木)06時58分13秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

年代がはっきりした村絵図が「長久手の地名展ー岩作編-」に載っていました。1849年3月で高根定納山の禿げ山には祠は描かれていません。隣の富士浅間社は描かれていますし、里の山神や薬師堂は描かれていますので、この時点で岩作御嶽山に関わる建物は何も無かったと考えられます。



[165] 愛知郡村誌

投稿者: masami 投稿日:2017年10月11日(水)10時11分33秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

発刊されることの無かった愛知郡村誌は手書きの原稿のまま徳川林政史研究所に所蔵されているようですが名古屋市に関連した村は名古屋市史に纏められています。それ以外の愛知郡村のものは纏まってはいませんが長久手町を形成する岩作村、前熊村、熊張村、長久手村は長久手町史資料編8に掲載されています(岩作里誌も同じ所に載っています)。岩作村誌の項目中神社の中には岩作御嶽山は存在していません。この村誌は戸数調べは明治9年となっており、明治12年の神社明細帳成立以前のことです。神社の定義に照らし合わせての不掲載ではないと考えられますが、宗教色を纏った教派神道との位置づけでの不掲載なのか、公的なものには地籍図といいここまでも遠慮があったのであろう。



[164] 神社明細帳登録条件

投稿者: masami 投稿日:2017年10月 6日(金)14時46分48秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

黒崎八州次良が「明治前期の長野県中信地方の集落神社の再編過程~とくに西筑摩郡の諸町村を中心に~」において明治4年以降どのような条件を持つ神社が「明治12年長野県西筑摩郡神社明細帳」に登録されたかを考察している。それによると祭日・社地についての所有形態・宮殿その他の施設の造営主体・神社の司祭管理主体の4つの要因に絞りそれぞれに重み付けをし得られたポイントの値と神社明細帳に登録されたかを比較検討している。祭日の月日が定まっていて、境内と認められるほどの社地を持ち其の地が除地となっており、社司が主導権を持って造営を行い、当該神社とその祭儀を預かること、これらの要因が統廃合の末に明治12年の神社明細帳に登録されたかを規定しているとしている。これは一地方の研究であるが概ね他の地方にも当てはまるのでは無いかと考えられる。



[163] 寒い

投稿者: masami 投稿日:2017年10月 5日(木)08時40分52秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

今朝は14度と寒さを感じます。庭先のエンゼルトランペットも台風で葉っぱがかなり落ちてしまいましたが花芽は何とか残り花開いてきています。季節が進んでいます。



[162] 月見

投稿者: masami 投稿日:2017年10月 4日(水)14時38分8秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

今宵は中秋の名月です。今年もはぎススキ花団子を御供えし月を愛でます。お月見泥棒からは遠ざかってしまいましたが、ただ月を愛でます。今夜の月は満月ではありませんがそれもおつなものです。



[161] 江戸時代には

投稿者: masami 投稿日:2017年10月 2日(月)09時21分8秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

江戸時代
寛永14年島原の乱あり木曽谷中40ヶ寺院に命じ宗門帳を作らしむ

享保9年345月検地終わる

宝暦5年王滝村に於て御嶽岩戸権現の称を用いたるより黒沢村の故障あり山村家命じて御嶽の二字を除かしむ

天明2年覚明行者御嶽黒沢口の道路を改修す

寛政3年2月より木曽中寺社取調翌年4月終わる

寛政3年6月福島岩郷三尾黒沢西野末川黒川上田原野王滝十ヶ村役人より御岳登山75日の潔斎を改め軽精進となし以て登山の便を与へ木曽の富源に資せんことを黒沢の神主武居若狭に請求す若狭乃ち山村家を経由し尾藩の寺社奉行に申報す

寛政4年正月山村良喬御岳登山自今軽潔斎にて差支無き旨を木曽谷中に達す

寛政6年普寛行者王滝口より御岳に登る

寛政6年6月王滝口より御岳に登山する者あるを以て黒沢村の故障あり山村家王滝口の登山を禁ず

寛政6年7月王滝村庄屋組頭神主連署以来王滝口よりは登山せしめず且つ登山路を塞ぐべき旨の書面を黒沢村の神主村役人に出す

寛政7年67月中神祇管領長上吉田家王滝黒沢両村の御岳権現神主を京都に召喚し御岳蔵王権現の称は過る慶長18年御嶽岩戸権現の称は過る宝暦5年当家許可の者なれば黒沢に於いて之を是認し御岳権現を二座とし両神主協同奉仕すべしと説諭す黒沢神主肯ぜず曰く御岳権現は古来一座にして二座にあらずまた其神主は古来拙家一人の奉仕に限るが故に王滝の蔵王権現又は岩戸権現を御岳の神と認むること能わずと之に因て吉田家の調停ならず

寛政11年7月福島村役人「御岳登山は木曽の富源なれば」との理由を以て王滝黒沢二村間に調停の労を執り二村の納るる所となり終に黒沢より山村家に請うて過る寛政6年6月の禁止を解除す因りて二村間に規約5條を定む其目左の如し

王滝より登る者は黒沢に下山すること
案内料は黒沢に交附すること
王滝にては御嶽の号を用いざること
同守札を出さざること
初穂を配布せざること

文政元年8月普寛派の行者金剛院明岳院過る寛政11年の規定王滝村に不利なるを以て黒沢の神主に迫り黒沢口登山者に王滝に下山せしむるの誓約をなさしむ
嘉永6年6月王滝村にて御岳蔵王権現の守札を出し及浄衣金剛杖を登山者に給するより黒沢村の故障あり結局王滝村にて左記4箇条の誓約書を出して黒沢村の承諾を得たり

単に蔵王権現と称すること
毎年謝金三両を贈ること
他所修験を黒沢村に立寄らしむること
護摩加入を斡旋すること

慶応3年9月王滝黒沢二村に於ける過る嘉永2年の契約を改め王滝村より毎年金10両を黒沢村に納むることとし御嶽岩戸権現の称を是認せらる

上記の如く黒沢村と王滝村の争論は木曽谷検地以降延々と続いていたことが分かる
詳細な争論の経緯は生駒勘七著「御嶽の歴史」に載っています。



[160] 役所の記録

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月30日(土)20時02分6秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

大正4年に西筑摩郡役所が西筑摩郡誌を発行した。その記述に年表があり、明治以降の御嶽に関したものだけを抜き出すと以下の項目になる。

明治2年10月 黒沢王滝の登山口分岐点に鳥居建設の争論有り、上松村神主仲裁にて石の指道標を建て落着す
明治5年11月黒沢村御嶽神社郷社に列す
明治7年6月御嶽神社里宮改造(関東巴講社による)
明治8年10月王滝村より三岳村神宮の御嶽山上の岩戸神社を破毀せる事を訴う
明治9年三岳王滝の訴訟仲裁にて和談なる
明治10年6月関東巴講社三岳村若宮を改造す
明治15年3月7日王滝村御嶽岩戸神社御嶽神社と改称の義許可
明治25年4月1日御嶽鳴動
明治32年12月王滝村大岩橋成る
明治41年9月郷社御嶽神社村社御嶽神社神饌幣帛料供進指定
明治41年10月同上二社の会計法指定
大正2年8月24日王滝村大岩橋竣工工費9595圓

享保9年の木曽谷検地以降王滝三岳両村の御嶽山内の支配権を巡る紛争が生起されその紛争が明治時代初期にも続いていたことが役所の記録からも分かること、講社が独自に御嶽神社の改修をしていたことも分かる。



[159] ようやく

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月28日(木)08時13分11秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

腰の痛みも無くなり、暫く続いた違和感も癒え、車の乗り降りや咳くしゃみトイレの所作にも気を使ってはいますが、ようやく普段の体調に戻りました。いろんな所へ調べに行くことも出来ますので活動再開です。



[158] 酷いギックリ腰

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月14日(木)15時21分57秒 i118-16-121-210.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

除草剤用の水タンク20kgを何度か持ち上げていたところ腰の筋肉がビリビリして”いかん”と思ったときはまだ大丈夫だったのですが、一晩たって腰の痛みが出現し、軽くギックリ腰になってしまい御嶽行きの前であったため1週間近く安静にしていて良くなったと思い、片道3時間の御嶽往復をしてしまい、運転中は何ともなかったのですが翌朝から真面に起きられなくなり、酷いギックリ腰になってしまいました。それ以来、もう10日以上たつのに右足が真面に挙げられなく、立っているのが一番楽なのですが、すると周りの筋肉に負担と成り疲れて横になると寝返りする度ビリビリ痛み、ベッドから起きるのも一大事で、また筋肉を痛めてしまうという悪循環で2週間が経とうとしています。”あなどることなかれ”です。



[157] 三人の倉知茂兵衛

投稿者: masami 投稿日:2017年 9月 6日(水)05時19分53秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

倉知茂兵衛は初代から三代続けて茂兵衛と名乗り四代目からは別名となっているが、初代倉知茂兵衛(1808-1860)は古伯霊神でありその実子が二代目倉知茂兵衛(1836-1911)で霊神名は明心霊神であり昭和の時代には三代目倉知茂兵衛霊神名は正心霊神となっている。木曽御嶽本教心願分祠殿の宗教法人設立時の責任役員に名を連ねているのは三代目倉知茂兵衛である。心願講は古伯が天保元年に組織し、同年378名の講員を引き連れ御嶽登拝をしているがその中に猪高村の人々も参加をしていたのであろう。当然岩作村の人も参加していたと思われ、それが高じて天保8年小野村代官所に願い出たと思われる。


レンタル掲示板
173件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.