勝手じいさんのつぶやき



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


189件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[192] 宝暦十二年

投稿者: masami 投稿日:2018年 2月23日(金)11時02分32秒 i220-220-140-43.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

役行者像の年代を調べましたところ行者像には何も刻まれてはなく、台座に
   宝暦十二年壬午十月(1762)
と刻まれていました。近在の村に創立されたと同じ年に上社村も建てられていたようです。ただ活動記録として残っているのは明和三年(1766)からです。
前鬼、後鬼の像には年代はなく作者名が彫られていました。
   尾州とこなめ 隆蔵作

他の石像石碑の年代も一緒にしらべました。

南無阿弥陀仏碑 宝暦十三年十二月 (1763) 念仏講中十九人
青面金剛二体共 明和五年四月   (1768) 上社邑中??
観音菩薩像台座 明和六年二月十四日(1769) 念仏講中
観音半迦像台座 享和三年正月十八日(1803)
空海座像台座  文政八年     (1825) 同行九人

庚申堂の青面金剛は二カ所にありましたが同じ時に創られていたようです。




[191] 秋葉堂一宇

投稿者: masami 投稿日:2018年 2月20日(火)09時56分11秒 i220-220-140-43.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

観音寺境内に移された御堂の内容物(護摩札、棟札等)を調べた中に秋葉堂の棟札がありました。以下にその内容を記します。

  嘉永七寅年十一月吉祥日     庄屋 幸左衛門、幸四郎
表 奉再建秋葉堂一宇 大工 知多郡切山村 慶助藤原永寛 弟子 常三郎
  世話人 次郎兵衛、太重郎、五右衛門、管九郎、儀右衛門、定蔵、藤蔵
                  現住後祖代

        世話人 表に同じ
裏 尾陽城東上社村萬松山観音禅寺
        庄屋  表に同じ

1854年11月に切山村の慶助藤原永寛らにより再建されています。再建主は観音寺となっていますが今残っているのは小さな祠です。祠の中にも同じとみられる棟札が入れられています。しかし出すことが出来ないため確認は出来ません。堂宇を立て直したぐらいですので秋葉講としての活動も行っていたと思われますが行者講と違ってこちらの記録は残っていませんでした。あるのはこの棟札と寛政九歳巳五月と刻まれた常夜灯のみです。ただ今ある祠の脇に屋根亙が残されておりその堂紋が写真のように葉団扇となっていますので、建て直す前はれっきとした御堂であったようです。御堂が何処にあったかは分かりません。ひょっとするとお寺の北行者堂に取って代えられたのかも知れません。



[190] 春の芽生え

投稿者: masami 投稿日:2018年 2月14日(水)08時15分19秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

庭の蕗の薹が芽を出し食べ頃となったところで天麩羅にして味わいました。この寒さの中とはいえもうじき春になります。毎年蕗の薹で食べてばかりで段々と蕗そのものが少なくなってきています。やはり野に有れ蕗の薹です。



[189] 上社村と知多大工の出会い

投稿者: masami 投稿日:2018年 2月10日(土)17時10分48秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

「知多半島の歴史と現在」の一連の研究の中で「近世東濃周辺の作事に従事した知多大工 山口潤」の文献を読んだ時、上社村の棟札に切山村の大工を見掛けたのを思い出し、残された神社関係、御堂の棟札を見直してみました。
寛文の時代から知多大工が見えなくなるまでの棟札を並べてみましたところ、一番古いものは寛文4年の山王権現の棟札で加茂郡八草村の大工藤原朝臣庄兵衛政信の作事でした。その後元禄六年同じ屋根の葺き替えを同じ大工が担当し、再度の葺き替えは享保二年岩作村の大工福岡甚兵衛節忠でした。その後の葺き替えは寛延三歳最初の八草村の大工が知多切山村に移り住み再度依頼しています。その関係からか以降は切山村か古布村の大工が使われるようになっています。ただ山之神の祠は名古屋の大工や當村の大工が使われていました。最後に知多大工に依頼したのは慶応二年の山王権現の再建で切山村の齋藤桂助良永寛らでした。それ以降は當村の大工が使われるようになっています。
上社村で知多大工が使われるようになった切っ掛けは、たまたま始めの頃の大工が知多郡切山村に移り住んだことだったのでした。



[188] ただ今勉強中

投稿者: masami 投稿日:2018年 2月 5日(月)06時38分19秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

平安時代後期に日本古来の山岳信仰が外来の仏教・道教や神道の影響のもと修験道と呼ばれる一つの宗教形態を取るにいたり、鎌倉時代初期になると山林修行者達により役小角(役行者)がその開祖に仮託されるようになり、やがて高祖として崇められそれにふさわしい伝記が編まれていき、中世密教寺院を中心に展開した役行者信仰は室町以降の戦乱を契機に途絶してしまうが、これが復活し各村落に役行者の尊像が迎えられるのは明和年間以降で、この動きの契機となったのが明和三年の長福寺役行者堂建立に伴い大峯山上で行い勧請した役行者尊像奉迎であり、この後明治初期に向けて役行者講が結成され多くの俗先達が登場し、彼らを介して役行者信仰が広がっていったとされる。(遠江の役行者信仰 山本義孝著より)
上社講中の先達は、残された護摩札に載っているだけで19人ありまして、その内、庄屋と分かっている名前が10人認められています。調べられていないだけでもっと多くなると思われますが、先の文献でも「護摩供養講の世話役から熱心な俗先達が多数生まれ、彼らは村の名主クラスという富裕層を中心に構成されていた」とあり、時間と資金がないことには何度も往復20日以上もかかる山行きを続けられないわけで必然であると思われます。またこの山は女人禁制となっており、山へ行って無事戻ってくることで、村の成人男子としての通過儀礼となるという一面も持っていました。しかし上社村でそのような習慣があったかは記録文献がなく分かりません。あったとしても、明治期以降の護摩札もありませんのでその時点で途絶えたと思われます。
江戸幕府は1613年修験道法度を定め修験者の組織化をし、領主は修験者の町・村への定着を図り里修験が生まれました。寛文村々覚書には里修験(山伏)の記載があり猪子石村の項に
 社三カ所 内 神明 八劔 観音 山伏 成学院持分
とあり成学院という山伏が三社を管理することで生計を立てていたようです。観音はよもぎ観音か。「近世の尾張国知多郡における里修験の活動と村 山形隆司」に寛文村々覚書に記載の修験者が纏められています。郷中で44人殆どが当山方で猪子石村の成学院も当山方と推定しています。
その後蓬州旧勝録の頃には郷中で279人と増加しています。猪子石村でも管理物件が増えたためか密厳院と壽寶院のふたりで社祠・御堂を管理していました。上社村がいずれの時代も新居村の社人に管理されていたのと違って里修験が活動していたようです。



[187] もう一つの収穫

投稿者: masami 投稿日:2018年 2月 3日(土)04時34分35秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

竹林院の護摩札の裏には日付と共に先達名、参加者名、新山者名、出身村名、出立日時などが記入されていました。我が家の家系図作りで、除籍謄本では調べられなかった代のご先祖様が載っていました。思わぬ情報が得られ”めっけもの”と喜んでいます。



[186] 天年号

投稿者: masami 投稿日:2018年 2月 1日(木)18時01分15秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

残っている一番古い護摩札の年号には天の字が使われていました。江戸時代の墓石などに見られるとのことです。他の御札はすべて年の字が使われていました。勉強不足で初めて見掛けましたので。



[185] 役行者神変大菩薩の経

投稿者: masami 投稿日:2018年 1月30日(火)20時23分0秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

おそらく行者堂内で営まれていたお経が残されていました。般若心経から始まって不動明王の真言で終わるものであったようです。



[184] 上社行者堂

投稿者: masami 投稿日:2018年 1月30日(火)19時22分2秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

上社村の弘化四年の古地図に行者堂が今の津島社辺りに描かれていましたが、安政四年に再々建された時の棟札に次のような記述がありました。これは再々建時のもので最初に建てられたときも再建の時の棟札も残っていませんでした。行者堂を再々建する一月前に祠宮を受けてきた旨の木札がありますので火事にでも遭ったのかも知れませんし最初の御堂も天保年間におそらくは菩薩以外は焼失したものと考えられます。再々建後の棟札も有りませんので再々建時に観音寺北道路脇に移されたと考えられます。今、役行者像は石造で小さな祠に奥まって置かれており動かすのは容易ではなく像そのものに年代が刻まれているかは分かりません。

安政四巳年六月吉祥日(1857)
奉再々建行者堂一宇 知多郡切山村 大工桂助藤原永寛
  弟子一色村 定四郎
高針村 増右衛門
知多郡 管三郎
” 國卯
” 彦三郎
” 九吉

もう一枚の棟札は同じ時の役行者神変大菩薩の再建時のものです。これが何を指すのかは分かりません。

安政四年  大工當流           當邑庄屋     西之嶋
      同國知多郡切山村住人     幸左エ門       太兵衛
為村中安全 齊藤桂助良藤原永寛      宇兵衛   世   九兵衛
奉再建役行者神変大菩薩                  田中嶋
為五穀成就 桂助良弟子    一色村         話   勘右ェ門
丁巳六月下旬  國助良九吉  定四良   木挽        平四良
        常助良彦三良 高針邑         人 丸山嶋
               増右エ門 太吉          兵左ェ門
                               又右ェ門
他に大峰講で授与された竹林院の護摩札が何枚かありました。
一番古い物は明和三年四月で他に年代記入無しが一枚と
天保十一年、天保十三年、弘化末年、嘉永三年、安政三年、万延元年、元治元年、明治四年、明治九年、明治三十一年のものが残っていましたが明和三年から天保十一年まで74年間の護摩札が有りませんでした。毎年大峰山に行っていたのではなく何年かに一回行っていたようです。人数も4人から18人までとくに決まった人数ではなかったようです。少なくとも1766年には行者堂は創られており大峰講として何年かに1回は出かけていたようで出立から護摩札を受けるまで10日かかっていたようです。googleでの歩行距離は169Kmあり1日17Km平均歩くことになりそれほど無理ではないと思われますが往復するのに20日以上かかってしまいますので費用と時間が必要になりおいそれとは出掛けられません。上社村以外で瀬戸、大草、有松、無宿の人も参加していました。御嶽講が始まる前から大峰講が創られており1865年に御嶽講が始まってもなお続けられていたことになります。いわば御嶽講の下地となっていたことになり大峰講から自然に御嶽講に入っていったと思われます。



[183] 探照灯基地

投稿者: masami 投稿日:2018年 1月28日(日)17時48分26秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

これは一社西の池の南、大廻間の山の航空写真ですが、赤で囲った部分に爆弾投下の跡が幾つも認められます。おそらくはこの範囲の中心部分に探照灯基地があったと思われます。今の瓶ノ井公園付近になります。この時代の探照灯はアーク放電による物で直流電源が必要で、電源発電車付で納入されていたということで全体として移動可能なシステムであったようです。従ってトラックが通れるような道が基地まであることになります。



[182] 下社村十王堂

投稿者: masami 投稿日:2018年 1月25日(木)16時52分8秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

航空写真の傷の部分を爆風跡と勘違いしそれが分かった後もその場所を爆撃地としてしまい勝手なストーリーを展開することとなってしまいましたが以下に修正いたします。
爆撃跡としていたのは溜池だと分かりました。明治17年の地籍図に同じと思われる場所に小さな溜池が描かれていました。見返しましたところ寛政年間の古地図にも小さな溜池が描かれていました。同じ古地図には道沿いの西側に十王堂が描かれていました。地籍図で上社から高針に抜ける道沿いで宅地となっている土地を探しましたが在りませんでした。道の東側で道から少し離れてはいますが田んぼの中にそれらしき宅地がありました。字赤穂出912番地となっています。この地は昭和30年の名古屋市都市計画基本図に卍のマークが付けられた建物の位置と一致していますので明治期からここ字赤穂出912番地に十王堂が建っていたと思われます。それだと考えるとこの直近に爆弾が落ちたのは集落の直ぐ間際で他の建物に障害がなかったとはまさに奇跡だったのでしょう。また1947年11月の航空写真で、真っ直ぐな道の西側田んぼの中に4カ所黒っぽくなったところがありますが、ひょっとすると残骸が落ちた跡かも知れませんし、そこから更に南西方向田んぼの中に点在して3カ所爆弾が落ちた跡が認められています。爆弾跡を赤線で繋ぐと航跡が認められますがこんなところに攻撃目標はありませんのでおそらくは余った物を帰りがけに落としていったのではないかと思われます。

地籍図の明徳寺の場所は寺の記載はなく宅地とだけ書かれています。旧明徳寺跡は墓地と記載あり。尾張徇行記によれば十王堂は明徳寺の扣であり下社城跡地は明徳寺界内となっています。



[181] 観音寺周辺の変化

投稿者: masami 投稿日:2018年 1月 4日(木)11時10分8秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

観音寺境内の変化

航空写真によると1948年から1955年の間に庫裏の北行者堂の道を隔てた南に小さな小屋が建てられている(1948年の写真が不鮮明で此の時から有るようにも見える。とすればこれは大正の初めに有った教員住宅青年会場の跡と考えられる)。又、この間に観音堂の南に小さな小屋が建てられている。
1955年から1963年の間に行者堂南の小さな小屋に隣接して大きな建物が建てられている。1963年から1969年の間に位牌堂が新築されている。又、住職の住居が東に若干移動されている。1968年5月には観音寺墓地周辺は区画整理され更地と化しており此の時埋め墓の遺骨や遺体は掘り起こされて荼毘に付され新墓に埋葬された。1969年5月には墓地の整備も終わっている。1971年に新しい本堂、新しい庫裏、元の位置より西に東向きに観音堂(屋根の形状が異なる)が建っている。その後1977年から1982年の間に観音堂の屋根の形状が変わっておりこの間に建て替えたと考えられる。

火の見櫓周辺の変化

航空写真によると観音寺北の道路脇に有った秋葉山常夜燈は1965年から1969年の間に観音寺境内に移されている。同じ間に観音寺境内と墓地の間を横切って道路が作られその道路から境内に上がる道が出来ているのでこれを利用して移されたものと思われる。
弘化四年に今の津島社の位置に有った行者堂は安政四年に観音寺北の道路脇に再建されている。天王社の臨時社殿は観音寺北の火の見櫓脇に安置されその場所で天王祭が執り行われその場で神楽と太鼓奉納がされ赤飯が振る舞われた。その後行者堂は1969年から1973年の間(おそらくは1971年)に取り壊され堂内に有った役行者と鬼2体は観音寺境内に移された。
盂蘭盆会の際、観音祭が行われるときは馬頭観音の位置から観音寺観音堂まで上社太鼓の奉納が行われた。馬頭観音が観音寺階段下に移されたのは不詳であるが観音祭の太鼓奉納は観音堂前で行われるのみとなった。



[180] 秋葉山常夜燈

投稿者: masami 投稿日:2017年12月25日(月)14時49分59秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

観音寺北の道路脇にあった秋葉山常夜燈は道路拡幅に伴い観音寺境内に移されており最早その機能は果たしていない。

秋葉山常夜燈
寛政九歳巳五月(1797)
村中安全

秋葉山は近世まで神仏習合により秋葉大権現と称していたが明治五年の神仏分離令により県社秋葉神社、秋葉寺、可睡齊の三つに分離したがその過程は穏やかではなかった。秋葉山に祀られる主な神仏には大登山秋葉寺の聖観音・脇侍十一面観音・将軍地蔵、秋葉大権現社の秋葉大権現、秋葉三尺坊がある。秋葉寺の略縁起では秋葉大権現は三尺坊となっているが修験の一部は秋葉大権現を神祇であると主張し三尺坊とは別の存在の下分離がなされた。その後秋葉大権現は火之迦具土大神と改称し秋葉神社の祭神となっている。

以前は消防団がまとめて授与された御札を各家庭に配布をしていたが今は日吉神社が正月前の初穂料を集めるときに、伊勢神宮・熱田神宮・日吉神社の大麻配布とともに秋葉神社の御札も配布しており火防の神として各家庭の台所に(昔はお竈)御札を貼って消火器と一緒に守って貰っている。



[179] 天王社

投稿者: masami 投稿日:2017年12月18日(月)13時01分7秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

日吉神社には境外末社として天王社があります。場所は上社3丁目217に昭和50年6月30日鎮座祭を執行しています。その棟札には鎮座に至った経緯が書かれていますので全文を引用します。

表書
昭和50年7月吉日 斎主 日吉神社宮司 加藤卿雄
奉鎭祭天王社 社殿新築  壹宇
       玉垣基礎構築
施主 日吉神社奉賛会会長 加藤駒一

裏書
天王社の祭ハこの地域住民夏の季節悪疫祓除の信仰により本宮津島神社(津島市鎮座)に代参して御神符を拝載し奉齋したにはじまる。社殿はその都度竹材をもってつくり麥のカヤで屋根を葺き竹の丸柱をもって地上五尺程の高さに安置した。然るところ現下の諸情勢ハ特殊技術と資材難とによりこの傳統ある慣例も止むなく檜造りの社殿とせざるを得なくなり協議の結果旧來の臨時社殿はそのまま日吉神社倉庫内に保存し今回新に鎮座地を選定新社殿を構築して左記の通り天王祭を齋行することとした
一、昭和五十年六月十五日 鎮座地地鎮執行
一、昭和五十年六月廿九日 社殿玉垣基礎工事竣工
一、昭和五十年六月三十日 代参により神符拝載し鎮座祭執行
一、昭和五十年七月十一日 天王祭執行
昭和五十年七月吉日
日吉神社宮司 加藤卿雄識

中世以来、津島神社は津島牛頭天王社または津島天王社と呼ばれ牛頭天王(ごずてんのう)を祀り本地堂内には薬師如来を安置する神仏習合の社であった。牛頭天王はインドの寺院祇園精舎の守護神とされ薬師如来の垂迹であるとともに”すさのお”の本地ともされる。平安時代から行疫神として崇め信じられ疫病神を鎮め退散させるため祇園祭が始まったとされる。その八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国に広まったとされ津島天王社はその内の一つである。天王社の布教活動を担当するのは津島御師と称し装束・冠を着し神事を行うことが許されていて檀那場と呼ばれる担当地区を1年に夏と冬の2回廻村し神札を配り初穂料を受け取り依頼があれば祈祷まで行ったとされる。しかし明治新政府の神仏分離令により仏教色が排除され津島神社と改称することになり、須佐之男命を祭神とし大穴牟遅神を配祀した。また御師制度が廃止され神札頒布が禁止されたが参詣者に限り神札授与が許された。その後津島講が作られ御師による神札配布から講社の参拝者への神札配布へと布教方法を変えていった。(津島牛頭天王社の神仏分離と講の形成:金原桂子より)
臨時社殿の位置は昭和30年の名古屋市の都市計画図に残っている。
今も上社の天王祭では津島神社に代参者が赴き講社のノートに書き込みをして貰って神札を授与され新しく神殿に納めるお迎え神事を毎年6月30日に行っている。そして7月1日から7月10日迄毎日17時から18時までの間に子供たちが提灯の火をもらいに津島社にやって来る。7月11日の天王祭本祭の上社太鼓の行列は言わば村の祇園祭である。



[178] 御嶽講社

投稿者: masami 投稿日:2017年12月 6日(水)06時25分36秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

この地域の一つの御嶽講社は概ね大字単位で形成されており、例えば上社御嶽講社、猪子石御嶽講社、高針御嶽講社として独立した活動していました。単位講社は修行を積んだ先達と講を集める講元と講員から成り立っています。先達は古くは修行を積んで資格を与えられた修験者が成っていましたが、軽潔斎で登拝が出来るようになってからは修験道とは独自の修行をして先達と成っていました。また先輩の先達から主に口伝により教えられ次の先達と成って講社を引っ張っていくように継承されていくものでした。神仏分離令以降は混乱の次期を経て教派神道として御嶽教が組織されて段階的な資格が作られるようになり例えば中教正とかの資格で登拝を講員に指導したり、宗教的行事をしたりしました。戦後GHQの神道指令により宗教法人法が公布され木曽御嶽本教が作られた時も加藤銀太郎が心願講全体を入教させてはいましたがあくまでもその判断は各単位講社によるものでしたので入教せずに活動している先達も多くありました。
御嶽講の主要な宗教的行事は御座(おざ)を立てることで先達の一人が前座(まえざ)、一人が中座(なかざ)となり行う神降ろしの巫術です。講員は中座に憑依した神霊と対面し中座の身体を通して対話することで神霊と心理的な交感を行い託宣により加護を実感したり人生の指針を与えられたりする訳です(小林奈央子著:御座儀礼と霊神信仰より)。
講元は講員を集め登拝を企画したり先達と講員の結びつきを財政面から支え祭典に際し先達や地域の有力者の接待をする世話人です。
上社村では14名の霊神名がありそれぞれ修行の段階に応じて先達の階位を得ていましたが、霊神碑があるのは日吉神社に10名、岩作御嶽社に7名(内3名は重複)、おそらく古瀬間御嶽社に1名(重複)で全部で14となっています。これらの先達に部落の代表数名が講員となり御嶽登拝をし大麻を受けて慶応元年に山王の森に創祠された御嶽社にお祀りをしていましたが、先達がいなくなってしまった段階で講社もなくなってしまいその後は日吉神社の氏子総代がその役割をなして御嶽登拝を行い今も続いています。しかし3年前の噴火以来頂上への登拝は出来ず前回の噴火と同じくおそらくあと10年程度は今の状態が続くものと思われますので精々遙拝所まで或いは女人堂までの登拝となっているようです。残念なことで、その内里宮止まりとなってしまったり或いは岩崎止まりとなってしまうのではないかと危惧しています。



[177] 岩崎御嶽社

投稿者: masami 投稿日:2017年12月 3日(日)10時01分18秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

岩崎御嶽神社

明治11年12月の神社取調帳の記述を白山宮誌別巻にある絵図の中に書き込んだものを手書きしました。再興開基より18年後のものです。白山社と八幡社は御嶽社と同じ万延元年の創立です。山神2社は明治十年十二月転地されたものです。社殿は末社よりは大きいがいずれも小さな祠となっています。境内地も140坪と狭い所です。

明治12年10月の明細帳では神楽所・拝殿の記述はなく縦5間横3間3尺の籠り堂と前からの大きさの社殿・末社となっており

明治13年には社殿の建替願いが出され縦1丈1尺(3.3m)横9尺5寸(2.9m)の大きさになっています。
その後戦後まで資料はなく

昭和27年7月の神社明細書には本殿流造間口1間3尺奥行1間3尺・祭文殿流造間口1間3尺奥行2間・拝殿瓦葺間口2間奥行3間となっており何時作り直されたのか定かではありません。その他に炊事場・開祖殿・社務所が登録されており境内地は140坪のままとなっています。
(白山宮誌別巻より)



[176] 建物登記

投稿者: masami 投稿日:2017年11月20日(月)10時12分49秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

先祖調べの中で、区役所の戸籍が明治19年以前は廃棄されてしまっているとのことから、法務局で古い建物の登記を調べてみることにしました。それには閲覧するだけでも一件当たり400円の費用がかかるとのことです。それに旧地番ではなく今の地番が必要とのことで、そこから調べなくては成りません。大変なことですが他に手立ては無く仕方有りません。これを応用して古瀬間御嶽山の建物登記で明治期のものが出てくれば有り難いことです。ただファイリングが住所順では無くイベントの日付順に並んでいるとのことで古いものを見つけ出すには大まかでもいつ頃の登記か分かっている必要があることです。矛盾しています。余り期待は出来ません。

 後日法務局にて調べましたが大日影の住所では建物登記はされていませんでした。登記されていなくても役所が調べて課税対象とするようで法務局の登記とは関係がないようです。

 其の足で古瀬間御嶽山に寄りましたら、たまたま堂守の下村さん(心願講桝塚講社)にお目にかかれ、お話を聞くことが出来ました。古瀬間の山は明直さんの土地で(旧土地台帳の範囲では幾人かの共同所有となっている)彼の住まいの裏山に明治5年開山したとのことでした。但しこの山には開山に関する石碑は無いようですし書類も一切無く口伝でだけ伝わっているものであるようです。この山は赤松林の松茸山だったそうです。一時期管理されること無く放置されていたのを下村さんのご先祖さんが堂守され、代々受け継いで管理されているとのことです。この先どうなるのか心配されておられました。松が枯れてしまったりして整理をし、草の管理をしたところ山全体に三つ葉ツツジが一斉に出てきて今のようになったとのことでした。4月の半ば桜が終わる頃になると、山中にツツジが咲き誇ってきれいな景色になるとのことです。(http://ji2ecn.exblog.jp/21783281/

入り口の鳥居は昭和34年5月に寄進されていましたが、同じ方が不動明王像も後(昭和41年11月)に寄進されています。この山は砂地で粗い砂岩があちこちにあり雨が降ると麓の方に水が湧いてくるようで、嘗ては滝があって其処で禊ぎをしたということです。今では舗装がされたりして殆ど流れていないようです。明直さんの家も無くなってしまっており、猪が暴れ放題となって芝生も剥がされていました。

霊神碑は80基以上があり全体に点在していますが俗名が書かれていないものは何処の誰かは分からないとのことでした。荒れた堂内にあった書類はネズミに食われたり腐ったりして廃棄され記録は何も残っておらず明直霊神の俗名も分からないとのことでした。ひょっとすると”植田”何某というのではとのことで、鳥居と不動明王像も植田夫妻の寄進で関係者なのかも知れません。この付近の瓦屋さんだったそうで、堂内にある明直像も亙と同じ陶器で作られたものでした。霊神碑以外にも、嘗ては埋もれていたものを整備されて四国88カ所巡りが出来るようになっています。
11月26日(日)には不動明王像の前で護摩炊きがあり其の準備で弟さん夫妻と共に整備をされていて運良くお目にかかることが出来ました。



[175] 江戸時代末期の弾圧

投稿者: masami 投稿日:2017年11月15日(水)15時30分7秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 先の掲載で触れた御嶽講への弾圧に関して詳しい経緯が石黒智教著「近現代における修験と御嶽講ー北名古屋市域の事例からー」に載っていました。その中で”尾張における近世の修験者と御嶽講との関係は文政期においては「他所之修験」とあるも修験者が御嶽講の講元として関与していた。しかし、俗人の御嶽行者の宗教活動が活発化すると、修験頭清寿院は、藩の行政機関に対して弾圧するように要請する。それは修験の宗教活動と、御嶽行者の宗教活動とが重なることが要因であったと考えられる。”と考察している。つまり修験道の領分を侵す輩であったため藩に働きかけた訳であるが、それで藩寺社奉行がどの程度の取り締まりをしたかは分からないとしている。
 万延元年絵図書上に対して抹消を強いるほどのことでも無かったのかも知れません。それに絵図には祠、神社など名称は一切書かれていないので、描いてあったとしても問題は無かったと思われます。やはり万延元年には岩作御嶽山に関する建物は高根山には無かったと結論づけます。



[174] 不思議なことに

投稿者: masami 投稿日:2017年11月15日(水)14時50分45秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

古瀬間御嶽山が掲載されているであろう地域の国土地理院の地図を1891年~1959年まで収集しましたが不思議なことに神社のマークは付けられていませんでした。地図屋さんにとってはランドマークとなる鳥居や何とか神社と書かれたものが無いことには神社として認識されないのでは無いかと思われます。今建っている位置に鳥居が立てられた年代以降の地図にはおそらくは素直に書き込まれていると思われますので、鳥居の建立年を確認する必要があります。再度古瀬間までドライブしなければ成りません。今度は鞍ヶ池の方に抜けて豊田鞍ヶ池記念館に立ち寄ってみるつもりです。



[173] 法人登録

投稿者: masami 投稿日:2017年11月11日(土)11時59分12秒 i118-16-116-207.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

 古瀬間御嶽山の御嶽神社は国税庁の法人番号検索では出てこないため、どうやら宗教法人登録がされてないようです(法務局調べでも御嶽の名称で法人登録はありませんでした)。同じ心願講でも岩作御嶽山は木曽御嶽本教の教会となっており、岩崎御嶽山は御嶽社として法人登録され其の包括団体は神社本庁で御嶽社附属の講社となっており、小瀬間御嶽山の御嶽神社は宗教法人ですらない状態で御嶽講社附属の御嶽神社となっており、御嶽講としては同じような活動をしていても三者三様の形態を成しているようです。
 この画像は古瀬間村大日影山中の明治17年地籍図です。御嶽社とは記載されていませんが山の中の一軒家で既に古瀬間御嶽山に関連した建物が建っていたと思われます。旧土地台帳に因れば若宮社、御嶽社の名義になっていました。少なくとも明治17年(1884)には古瀬間御嶽山は存在していたと考えられます。明寛(1822-1880)の直弟子明直により開かれたとされていますが明直に関しては詳細は不詳となっています。
 ここで再びの物語ですが、岩崎御嶽山開山と同じように明寛の供養を祈念して直弟子の明直が1880年に開山したのではないかと考えます。(関敦啓著「在俗行者の系譜と里山霊場の存在形態ー尾張の御嶽講を例にー」の文献中では明治5年(1872)の開山とあるが其の由来は記されていない。明治5年というと修験宗廃止の年であるいはそれと関連があるのかも知れません。)


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