総代さんのつぶやき



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


132件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。


[135] コゴミの味

投稿者: masami 投稿日:2017年 4月22日(土)11時43分56秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

福井の山から取ってきたコゴミがもう開いてしまいました。開く前に10本ほど天ぷらで食べましたが味がしませんでした。やはり山の栄養分を吸収したものでないとあの味はしないのでしょう。始めの頃山からスギの葉を拾ってきてかぶせていましたが今とそんなに変わらず味のないものでした。やはり野に有れ味コゴミです。




[134] 藤棚の観察

投稿者: masami 投稿日:2017年 4月19日(水)16時13分28秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

今日は朝から曇っていて夕方のような明るさだったせいか熊蜂も出勤していません。いつも夕方になると居なくなりますので明るさが蜜取りに関連しているようです。昼間明るくなっても出勤してきませんので明るさと他の何かが蜜取りに出かけるかどうかの条件になっているようです。おそらくは気温ではないかと思われます。ちょっと小寒い日には蜂の集まりは殆ど有りませんので。ネット情報では熊蜂のホバーリングは雄が雌を探してする行動のようですが、藤棚に蜂がいっぱい居るにもかかわらず、そちらにはちょっかいかけず、ひたすら近寄ってくるものを追いかけていますので雌を探してする行動だけではなく或いは見張り役も兼ねての行動なのかもしれません。



[133] 熊ん蜂

投稿者: masami 投稿日:2017年 4月16日(日)15時54分31秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

藤が咲き始めています。まだ房元の方だけの開花ですがそれでも熊ん蜂が飛んできています。見張り役が一匹いて何か近づくものがあると追い払っています。ミツバチや雀人様まで追いかけます。人を刺すようなことはないようですが五月蠅いです。これから花の房が更に伸びて、開いた花も増えてきますので蜂も増えてきて近寄れませんが、夕方になればすっかり居なくなりますので人の作業はそれからです。



[132] 花便り

投稿者: masami 投稿日:2017年 4月 7日(金)09時58分58秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

5日に東山動植物園の花見に行ってきました。三越で花見弁当とビールを買って入りましたが、一時期と違い中でもビールの販売はされていました。曇っていましたがそれでも日焼けをしてしまいました。植物園側の桜はまだ少し早かったのですが動物園の桜は満開でした。我が家に帰って庭の藤棚を見ましたら花芽が伸びてきていまして、桜が終われば又楽しめます。裏庭の大手鞠も今年は花芽が沢山ついています。山から取ってきた片栗の花もひっそりと咲いています。花ではありませんが野甘草やコゴミも出てきています。ようやくに春爛漫です。



[131] 除籍謄本と住民票

投稿者: masami 投稿日:2017年 4月 3日(月)16時47分45秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

先祖調べで除籍謄本を取る段階になって初めて気がついたことですが、戸籍には本籍しか書かれて居らずどこに住んでいたかという住民票なるものは書かれていないのでした。どこで生まれたかという情報は載っていますので実家に帰っての出産でなければ現住所は分かりますがそうでなければ分かりません。従って戸籍から現住所を調べることはかなり手間がかかったり不可能だったりします。これは大変です。結局、昭和・大正・明治へと類推をしながら住宅地図を遡っていくことしかないようです。戸籍も明治期になると番戸がいっぱい出てきます。しかし番戸で出ている次の家督相続人の除籍謄本を取れば番地に変わっているはずですが、自分の直系の人しか謄本は取れませんので、これも無理があります。兎にも角にも大変なことです。



[130] 名称変更

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月31日(金)11時41分37秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

4月29日で氏子総代を卒業します。従って4月30日からは掲示板の名称変更をします。「勝手じいさんのつぶやき」とでもします。まだ、明治期の住宅地図が完全ではなく時間がかかりそうです。つぶやきですがTwitterにはしません。このままのほうがよさげなので。それに名称は変わってもアドレスは同じですのでブックマークされていればそのままアクセスできます。



[129] 勝手な解釈

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月29日(水)17時49分4秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

蓬州旧勝録の上社村に書かれた内容について考察
1)前の山に観音堂がありそれを円福寺境内に移したことが書かれていますが、寛政年間の古地図の写しでは前の山は貴船明神・庚申堂のある小山の東で、上社城のあった城山の南に当たります。しかし森本家文書には「当村前山の城主加藤勘三郎」とあることから村民は城山のことを前山としているようで、城のあったところに観音堂はあったと思われます。
2)追日再興一ケ寺と成ル、安永七戌年(1778)とありますが、これも森本家文書には「この寺は先年より観音の寺なる故・・・寛文元年(1661)の頃先ず先ず円福寺を観音寺とお替え成らせ候。」とかかれており、また「寛文七年未の5月是より熱田海国寺末寺相成り申し候」とあることから寛文のほうが正しいと考えます。

つまり、寛文の始め、前山にある上社城の一角にあった観音堂を円福寺の境内に移し寺号も観音寺と変え臨済宗熱田海国寺の末寺としたことになります。



[128] 間違いの指摘

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月26日(日)20時41分1秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

蓬州旧勝録の上社村の項を解釈してみました。肝心なところで間違っていたりしていることや、分からないところは○で埋めている状態ですが、教えを請いたくここに書き出しました。概ね意味はとれてはいますが不明なところも残っていますので、読み間違いがあるのだと考えていますが、これ以上は能力的に無理がありますので恥をさらします。

として書き出しましたが随分と間違いを指摘されましてやはり一寸恥ずかしいので書き出し部分は削除させていただきました。インターネット上の情報で大まかな意味がとれることは分かりましたので今回のご指摘を参考にこりずに進めたいと思います。



[127] 四国代参

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月19日(日)17時20分55秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

20日から1泊で金刀比羅宮と大山祇神社に代参に行ってきます。それぞれお札の受領と正式参拝をしてきます。この旅行が3年目の氏子総代にとっては卒業旅行になります。後は月次祭が一回あるのみとなりそれで総代の業務は終了となります。三年間は長いようで短かったと思いますし、貴重な経験もさせてもらいました。総代になったことがきっかけで地域のことや自分のルーツのことを調べることが出来ました。関係者の方には感謝申し上げます。



[126] ○番戸と△番地

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月16日(木)14時57分37秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

旧土地台帳を調べていく途中で、大正15年に土地を購入した人の住所が、この時代には既に地番が振られていたにもかかわらず、○番戸となっていまして、果たして何処の地番になるのかどうやって調べたら良いか分からず悩んでいましたが、ネットの情報から区役所で聞いたらということで早速区役所に行ってきました。親切に対応していただいて、番戸と番地が一致しました。その場所に住んでいた人の名前が分かれば調べられるということで伝えましたら、どこかへ電話をされていて、やがて「この地番です」と教えていただきました。さすがに役所でした。
後日談:除籍謄本を取って分かったことですが出所は同じでした。電話先は市民課だったようです。



[125] 明日は

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月15日(水)17時22分59秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

彼岸の入りに行われる祈年祭・慰霊祭の準備があります。3年目の氏子総代にとっては最後の祭事になります。準備の日も当日も天気は良さそうでテントを張る必要も無いようです。これですべての祭事が雨も降らず遂行できることになります。ご先祖様の御陰だと思えて成りません。私で連続4代に渡って氏子総代を務めさせていただいています。昭和40年区画整理で田んぼが無くなるまでは一部の田んぼで小作料を納めていましたので先々代はまさに小作人でありながら総代も務めていました。本来なら小作人が出来るものではない立場ですが時代が良かったのでしょう。有り難いことです。



[124] ようやく

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月10日(金)08時22分54秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

年度も差し迫ったこの時期になってようやく次期氏子総代が決まってきています。無理を言って引き受けていただいた方も有り、他の総代の方にも影響が出ることもあるとは思いますが、6人で互いに補完し合って行けたらと思います。どちらの方々にも感謝します。



[123] 更なる徒然に

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月10日(金)05時43分49秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

愛知郡村誌にある村の内、税地として田、畑、宅地のデータが揃っている村を取り上げ、地租を田、畑、宅地の面積から推定する地租推定式を重回帰分析により作り、実際の地租との関係を散布図に表しました。グラフのように、寛文の時代と違って、地租の額が多くなるにつれ推定値との誤差が広がっていくこととなりました。対象が石高と違い地租である事で間に年貢割合が介在しているため誤差はより多くなるとは思われますが、地租との相関図からは田、畑の分散は推定値と同じ広がりを示していることから、各村ごとに同じ面積でも等級割合が異なっているため地租に巾が出来、面積が多くなるにつれ、誤差が大きくなっているものと考えられました。逆に言えば寛文の時代では、田畑の等級割合は各村で大きな相違はなかったとも考えられます。



[122] 徒然に

投稿者: masami 投稿日:2017年 3月 3日(金)10時45分19秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

寛文村々覚書に載っている上社村近在の43ヶ村の各村の家数、人数と田、畑、山の面積から石高を推定する推定式をステップワイズ回帰として作り、実際の石高と推定石高の関係を見たグラフを表しました。田畑の単位は町、石高は石です。畝以下は切り捨ててあります。43のデータから導き出された推定式は

    石高推定式=田 * 11.49 + 畑 * 9.99 + 人数 * 0.23 + 60.47

となり、家数、山の面積は不採用となりました。

この推定式の値と実際の値を散布図にしたものが添付のグラフです。(r=0.943 p=0.01で有意)
江戸時代初期のこの地方の石高の算定に際し、田に対する畑の割合は、平均的には8割7分となることに成ります。平均的には良いのですが誤差がまだまだ大きいので推定式としては田畑の等級や宅地の面積など情報量が足りないのだと思います。



[121] 追加のデータ

投稿者: masami 投稿日:2017年 2月27日(月)17時28分9秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

添付のデータは上社村の田畑の一人当たりの面積です。江戸の始めも明治の初めも田の面積は一人当たりでは変わり有りません。田んぼは労力が必要で、ある程度以上は能力の限界があるのでしょうか。畑は一人当たりでも増えています。ただ昭和に入ると田んぼの面積は減少し畑は変化がありません。都市近郊の村の特徴なのでしょうか。理由はよく分かりませんが現金を稼ぐため畑でとれたものを町まで売りに歩いたりしたためか或いは口数が増えても農業に従事する数が増えなかったのかも知れません。



[120] ついでに

投稿者: masami 投稿日:2017年 2月20日(月)05時19分36秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

掲載したグラフは寛文村々覚書、愛知郡村誌、昭和版猪高村誌の上社村の田畑面積、戸数、口数を比較したものです。田畑の面積は同じように昭和の時代までほぼ一定の割合で増加していますが一戸あたりにしてみますと田は減少し畑は増加しています。戸数、口数は分かっているデータも加えてありますが、明治の初めに人口は一旦減少しその後急速に増加しています。



[119] 取り留めも無いこと

投稿者: masami 投稿日:2017年 2月14日(火)15時18分25秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

上社村には森本家文書なる書き置きが伝わっておりますが今は何処にあるのか不詳となっています。この文書の内容に関しては伊藤正甫著「名東区の歴史」に書き起こされており誰もが参考にすることが出来ます。その内の第四代目森本三蔵の項目に「伊奈備前殿御検地は慶長十三年(1608)申の八月十一日。此の時打○は彦坂九兵衛、山境案内は森田才三郎・小山源兵衛也。惣町数四拾壱町六畝十五分也。此の高五百五拾三石八斗。今高六百九拾六石三斗御打出し成られ候。」と書かれています。この内の此の高はこれまでの石高で今高が備前検地の値となると考えられます。寛文村々覚書の上社村にある元高が森本家文書の此の高と同じ値で今高は今高の値と同じとなっています。寛文村々覚書にある今高は備前検地の値が書き込まれていることになります。しかも上社村の検地期日は慶長十三年(1608)申の八月十一日であったことが分かります。備前検地の石高はそのまま尾張徇行記の今高にもなっており、何時の時代の値を写したものなのか尾陽八郡村高付の値とも又近世後期とされる尾張領郷帳の値とも一致しています。少なくとも尾張徇行記の成立年文政5年(1822年)頃までは表高は二百年ほど同じであったと思われます。時代と共に当然田畑の開墾は進み管理の改良もされ収穫量は増加していたはずで実質の年貢割合は減額されていたものと思われます。愛知郡村誌にある貢租の内、明治8年の旧租の年貢高は237石6斗9升2合と記されています。表高は変わりなくても内高はその都度変えられております。備前検地の田畑の面積と旧租時の田畑の面積を比較し大雑把に面積が増えただけ内高が増えたものとして計算すると明治初期の内高は山や屋敷は無視をして畑は田の6割として1183石となり年貢割合は2割ほどに成ります。3年後の明治11年の新租でも145石7斗5升(同年の名古屋相場米価格で換算)と減額されています。



[118] ピンチです

投稿者: masami 投稿日:2017年 2月 6日(月)10時20分52秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

来年度の氏子総代二人のなり手がありません。平成になって以来毎年二人ずつ3年任期で続いてきたものが途切れます。昭和の時代は毎年一人4年任期で行われていましたが、今の境内と違って全体が林の中で清掃範囲も狭く管理が楽だったと思われます。それでも一人のなり手もいないこの惨状にあっては昭和の形態に戻さざるを得ません。つまり毎年一人ずつ4年任期で続けていくことしか現状では有り得ません。この頃は65歳を過ぎても働いている人が増えて、総代の候補者も減っていますので、毎年二人は厳しいのでは無いかと思われます。このピンチを救っていただける氏子中の方はみえませんか?



[117] 残すところは

投稿者: masami 投稿日:2017年 1月26日(木)18時00分40秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用   編集済

春の彼岸の入りには祈年祭・慰霊祭が予定されています。今年も昨年と同じ3月17日に当たります。この頃は菜種つゆの時季に当りまして気を病んでいます。これまでのお祭りごとでは中止や変更になることも無く無事遂行出来ていましたが、残すところ後ひとつ、雨も降らずに終えたいところです。雨の時は4社の前にテントを張る事になりますので撤収のことも含め厄介です。



[116] 社村三社参り

投稿者: masami 投稿日:2017年 1月16日(月)16時51分8秒 i114-180-205-17.s41.a023.ap.plala.or.jp  通報   返信・引用

社村の起こりと関連するところでありますが、貴船明神が下の森にあって水岡女命をお祀りして、社村のこの地域の安寧をはかった時代から、政治的に下社、上社、一色の三村に分かれてそれぞれの村に貴布祢明神がお祀りされることとなった時を経て、今となっては日吉神社だけ貴船明神の名称をまとわず今に至っておりますが、出所は同じ下社、上社、一色の神社ではあります。しかも元は社村から分かれて三村に分祀された水岡女命をお祀りしている命を正月の始めに同時にお参りをし、一つの命として纏めていただくことは、誠に以て、霊験あらたかなことと思われます。各地に三社参りという風習が伝わっておりますが、分村の憂き目を経て今の時代に新たに一つの命を心にすることは、おおきに意味のあることと考え、ここに社村三社参りを提言いたします。三カ所に分かれざるを得なかった神様を同時期にお参りをしてより強い願いを天に届けて下さい。


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